ひ と り よ が り の 健 康 法
以前、会社の集団検診で、総コレステロールが要経過観察という診断がでた。
要経過観察というのは、あわてて治療する必要はないけれども、何カ月か後にもう一度検査してみる必要があるということ
だから、それはそれでいいのだが、注意書きの方が気になった。肉の脂身はなるべく食べないようにとか、一日に何歩以上あ
るけなどと書いてあったのである。そんなことは言われなくても、もともと肉の脂身は見るのもいやだから当然食べないし、
歩く方も、毎朝出勤のときに駅まで速足で四十分ほど歩いている。
健康法などというものは、自分でいいと思うことをすればいいので、他人の健康法を聞いても始まらない。人の健康法を押
しつけられるのもいや。西洋医学といえども押しつけは困るのである。そういう意味で、これから書くわたしの健康法などは、
何の参考にもならないばかりか、読む方にしてみれば迷惑なことと思う。うるさい向きは、最初から読まない方が無難かもし
れない。
大体わたしは西洋医学などまったく信用していなくて、病気になっても余程のことがないかぎり医者にはかからない。もち
ろん薬も飲まない。まして病気でもないのに検査を受けるのはいやだから、人間ドックなどは決して受けない。検査と称して、
食べ物でもない胃カメラやバリウムなどという物質を飲まされたり、エックス線を照射されたり、血を抜かれたり、人間を人
間とも思わない虐待を受けるのがいやだからである。体にいいことは何ひとつないのである。
年二回の定期検診だけはきまりだから仕方なく受診するけれども、そのかわりどんな結果がでても気にしないことにしてい
る。現に、例の要経過観察は半年後の検査では何の異常もなかった。
わたしが医者や薬を軽蔑するのは、一般に内科系統の病気は自分の日頃の生活の総決算としてあらわれるもので、その病気
をなおすのも自分自身しかいないと確信するからである。つまり自分が病気になったのは、ストレスの多い仕事をおしつけた
会社や家族の責任ではなく、自分の摂生がたりなかったせいであり、その病気をなおすのもまた医者や薬ではなく、自分自身
のからだにもともと備わった自然治癒カだと思うからである。
先頃、ある高齢な物理学者が産経新聞に健康論を連載していた。その先生は癌の発生するメカニズムを原子レベルで解明し
て、正常な細胞が癌化するきっかけは余分な活性酸素であることをつきとめ、活性酸素をとりこむ働きのあるビタミンを毎日、
錠剤のかたちで大量に摂取しているということであった。医学の門外漢が医学界をまぜかえすような異説を唱えても簡単に受
け入れられるはずもなく、無視されつづけた末に居直ってしまったのであろうか、自分の説を信じない者はお先に冥土へどう
ぞという意味で、連載記事のタイトルも「お先にどうぞ」となっていた。
かなり辛辣なタイトルではあるが、自説にたいする自信のほどを伺わせるだけの迫力はあった。わたしもこの説に同調して
どうこうというのではないけれども、わたし自身、この先生に負けないくらい健康にたいしては信念をもっているつもりであ
る。
その信念とは、ひとが健康で長生きするためには環境と食物と運動の三つの条件がそろわなければならないということであ
る。まず環境というのは、生活しているまわりの自然条件のことで、いい空気と適当にきびしい気候条件が必要である。だが
これは本人が住む場所を変えなければ環境は変わらないので、思い立ってもすぐに実行するというわけにはいかないだろう。
それに対して食物と運動という条件は、本人の意志しだいで比較的容易に変えられるものである。まず食物について考えて
みる。健康をたもつために最も重要なものが食物であることはいうまでもない。これにはふたつの要素があって、ひとつは何
を食べるかということで、もうひとつはどれだけ食べるかということである。
何を食べるかということでは、なるべく新鮮で自然なものを、なるべく手をくわえずに食べるのがいい。つまり原始の生活
にもどればいいのである。当然、粗食になる。防腐剤や合成保存料のたっぷり入った工場製の食物や、遠く外国から輸入した
肉が体にいいわけはないのである。さいわいわが家では、近くに畑をかりてかなりの野菜を自給している。
新鮮な魚が食べたいときは釣りにいく。肉は脂身にかぎらず、肉そのものをあまり食べない。必要な蛋白質はみそ、豆腐、
納豆などの大豆製品から十分まかなえる。生涯、そば粉を水でねったものだけを食べて、天寿をまっとうした上人もいたくら
いである。肉を食べないとスタミナがつかないというのは嘘である。
食べる量に関しては、少ないほど健康にはいいのである。「小食のすすめ」という本を書いた大阪の医師、明石陽一氏によ
れば、現代人の病気の大部分が戦後のカロリー偏重教育に起因するもので、ほとんどの人がたくさん食べなければ元気がでな
いという誤った考えをもっている。成人ひとり一日に二千四百カロリーなどもってのほかで、八百から千カロリーで十分だそ
うである。明石氏によれば、現在の成人病はもちろんのこと、現代人が疲れやすいのも、肌があれるのも、風邪をひきやすい
のも、頭痛がおきやすいのもすべて食べ過ぎが原因だそうである。
いまから十年前ごろまでのわたしは、頭痛もちで疲れやすくいつも体の不調に悩んでいた。そんなときこの本に出会ったわ
たしは、とびつくようにして貪り読んだ。人間の健康の本質をこれほど深く洞察した本に今まで出会ったことがなかったから
である。アレクシス・カレルの「人間この未知なるもの」も感銘をうけた本であるけれども、明石氏の洞察力には及ばないの
ではないかと感じたほどである。
本の教え通りに早速、小食療法を試みたわたしは、明石説の正しいことを身をもって確信した。最初の二日間、絶食しその
後は、朝は梅肉湯一杯、昼は玄米少々と大豆ハンバーグの弁当、夜は冷奴半丁と玄米がゆのみという食事を一月ほど続けるう
ちに、頬はおちくぼみ、体はぎすぎすに痩せてしまったけれども、その分、体は身軽になり、少々睡眠が不足しても疲れるこ
ともなく、体中の肌はつるつるになり、何よりもあれほど頻繁におきていた頭痛がまったくおきなくなったのである。
しかもその余得として、食べ物のほんとうのおいしさを体験することができたのは、思いもかけないことであった。砂糖を
いれないコーヒーのおいしさを知ったのもその時で、それ以来コーヒーには砂糖をいれないことにしている。
この貴重な体験を身辺の人たちに話して、小食をすすめてみたが、意外にもだれひとりまともに聞いてくれる人がいなかっ
た。友人のなかには本気で怒りだした者もいた。この経験をもとに、常識をくつがえすことが如何にむつかしいかを知ったわ
たしは、この文章によって人に小食をすすめようなどという魂胆は毛頭ない。ただ「お先にどうぞ」と言った老物理学者の心
境をかみしめるだけである。
環境、食物とくれば、最後は運動である。といってもわたしはゴルフもしなければ、スキーもテニスも水泳もアスレチック
も、およそスポーツとよばれるものは何もしていない。たまに釣りはするけれども、わたしのする釣りは五目釣りで、スポー
ツなどと呼べるものではない。しいて運動らしいものといえば、毎朝、出勤のときに駅までの四キロ強の道を速足で四十分か
けて歩いていることくらいである。
運動でも芸事の練習でもそうだが、たまに集中してやるのでは何の効果もない。すこしずつでも毎日続けなければ意味がな
いのである。そのためにはハードでない方がいい。ハードだとすぐに故障がおきたり、年とともに、続けられなくなるからで
ある。そういう意味でも、歩くことは最も続けやすい運動である。
以上の点を守りさえすれば、一生、医者知らずで過ごせるはずである。ウイルスやバクテリアによる伝染性の病気でさえ、
体が健康であれば、感染しても発病しない場合がほとんどである。
わたしはできるだけ健康で長生きしたいと考えている。これまでの毎日を、精一杯したいことをして生きてきたという満足
感と、子供たちもわたしがいなくてもやっていける年頃になったので、もういつ死んでも悔いはないという気も一方ではある
のだが、それでもなお長生きしたいのは、人間は何か目的をもって努力すれば、死ぬまでその能力はのび続けることを長年の
経験で知ったからである。たしかに体力的なものは年とともに衰えるけれども、知的なものや芸術的感覚は鍛えれば鍛えるほ
どのびるのである。
練習しただけのびるのなら、長生きしなければ損である。わたしが長生きしたいのは、すこしでもビオラがうまくなりたい
という一心と、文章にたいする感覚を磨きつづけたいという目的があるからだが、それ以外にもうひとつ別の理由がある。
老物理学者の開き直りではないけれども、もし将来、憎らしくて顔も見たくない上司や先輩があらわれたとしても、相手よ
り一日でも長生きすれば、その方が勝ちだと思っているからである。なぜなら、一日でも長生きすれば、その墓にむかって小
便をかけることだってできるのである。