海 の 見 え る 墓

 

 私がまだ物心つく前に、母方の祖父がなくなった。畑野家の養子だった父は、義父のために市営墓地の一角を買って、祖父

を葬った。墓地は下関市の郊外の、武久地区というもともとひなびた所からさらに人里はなれた丘の上にあって、そこからは

武久の海水浴場が一望に見わたせた。武久海水浴場というのは今ではさびれてしまったが、当時は、毎年夏になるとかなりの

盛況をみせていた海水浴場である。

 まだ元気だった祖母は、小学校にはいる前の私の手をひいて、よくお墓参りに連れていってくれた。家は下関駅に近く、闇

市などもあるごみごみした住宅街の中にあったので、達者な祖母の足でも墓地までは一時間以上かかったことだろう。もう市

内をくまなく路面電車が走っていたはずだから、電車に乗れば楽にいける所だが、そうしなかったのは、祖母は私をつれたハ

イキングのつもりだったのかもしれない。

 ハイキングとはいっても、祖母は弁当も水筒も持っていなかった。どこかで弁当を食べたという記憶がまったくないのであ

る。たぶん戦後まもない頃だから、そんな余裕がなかったのであろう。ただ一度だけおはぎを食べた記憶があり、その記憶だ

けが鮮やかに残っている。

 下関は坂の多い町である。武久に行くにも大きな峠がひとつあった。道路は国道になっていて、車が通る道だから、車なら

あっという間に越えてしまうけれども、当時の私にはその坂は、とほうもない山越えのように思われた。

 武久にむかってこの峠を越えおわると、金毘羅さんが左手奥まった所にあり、その参道入り口あたりに、祖母の知り合いの

家があった。祖母はいつもそこにたち寄り、しばらく世間話をしては休憩するのが常だった。たまたま私が付いて行った時に、

その家ではおはぎをこしらえていたようで、いいところに来たといって、ごちそうしてくれたのである。そのときの嬉しかっ

たことだけをよく覚えていて、味の方は今では思いだせない。

 金毘羅さんから二キロほどで武久海水浴場の入り口につく。そこから二本の道がでていて、一方は海へ通じ、一方は墓地へ

通じていた。海へ行く道は広い道で、両側に店なども並んでいたが、墓へ行く方は人家もなく、鬱蒼とした気味のわるい山道

だった。所所に赤土を耕した畑があっても、人影は見あたらず、薄暗いため池からは、食用蛙のうなり声が聞こえていた。

 その池を右に見て、左にまがるとやっと二、三軒の人家が現れる。一番奥の家が妙香院という真言宗のお寺で、墓守をかね

て、墓参用の線香やしきみなどを売っていた。お寺といっても二間か三間しかない横長の民家で、ひと間にちょうちんなどが

置いてあって、勤行室になっていた。住んでいるのは住職と奥さんのふたりだけのようであった。

 そこでしきみを買い、バケツと柄杓を借りて急な坂を登っていくと、左手に古い井戸があった。まずここで水を汲むのであ

る。深い井戸で、滑車で水を汲み上げるようになっていた。真っ暗な底からガラガラと桶を引き上げるのは、わくわくするよ

うなスリルがあった。

 水を汲む間にも、夏ならかならずやぶ蚊の猛攻を受けたものだが、このやぶ蚊と耳をつんざくような蝉しぐれは、市街地で

は経験できないもので、子供心にも遠くにきたという感慨をもよおさせた。

 井戸のそばに二十段ほどの石段があり、それを登ると狭い墓地の一角があり、さらにもう二十段ほどの石段を登ると、広い

墓地になっていた。祖父の墓は上の段であった。ここまでくると初めて武久の海水浴場が見渡せるのである。たいして広い海

水浴場ではないので、砂浜の全貌が見え、浜から五十メートルほど沖にある大岩と呼んでいた岩礁もちいさく見えた。

 私が小学校の四、五年のときに、その大岩と浜の間に吊り橋ができた。その頃の私は、わずかに泳げはじめたばかりで、泳

ぐのがおもしろくてしょうがなかった頃だから、夏休みといえばほとんど毎日のように海に行っていた。そして大岩との中間

くらいにある飛び込み台に泳ぎついては、そのうちいつか大岩まで行けるようになりたいと思っていた。

 そんな大岩に吊り橋が架かって、歩いても行けるようになり、嬉しい反面、目標がなくなりがっかりしたものだが、その

吊り橋はあまり長続きしなかった。できた翌年くらいに、落下事故をおこし、何人かの怪我人をだしてしまったのである。そ

の後、使用禁止の状態がしばらくあって、いつの間にか撤去されてしまった。

 当時、私はいつも武久までの往復の電車賃だけをもらって、海に通っていた。多分、家で昼ご飯を食べ、すぐにとびだして

いたのであろう。だが、海で遊べば腹がへる。電車の停留所に出るまでの道の両側には、よしずばりの店がならび、かき水や

ところ天やあめ湯やラムネを売っていた。雑貨屋では、海水浴用品のほかに海水豆やパンも売っていた。

 海水豆というのは、そら豆の煎ったものが布の袋に入っていて、首からぶらさげて海にはいれば、ふやけて食べやすくなり、

おまけに塩味もつくというものであった。その上、近くに森永のキャラメル工場があって、その煙突からでてくる甘い香りが、

ますますすきっ腹を刺激した。そういう誘惑に負けて、帰りの電車賃をつかい果たし、帰りはいつも徒歩だった。

 しかしその武久海水浴場も、吊り橋の落下事故の頃からだんだんにさびれてきて、海水浴客はもっと水のきれいな山陰寄り

の海水浴場に移っていった。車が普及して、少々離れていても簡単に行けるようになったことも原因のひとつだろう。

 そのうち私の方も勉強やサークル活動がいそがしくなり、たまにしか墓参りに行かなくなった。そしてその間にも、墓まで

の道や墓地は、徐々にではあるが変貌していた。何年ぶりかに行くたびに、鬱蒼として気味のわるかった道は舗装され道幅が

ひろがり、両側に家が立ち並んでいたり、食用蛙の鳴いていた池が埋め立てられてなくなったり、墓地の井戸が閉ざされ、そ

の代わりに水道がひかれていたりした。

 初めて墓参りをしてから四十年以上たったある年の夏、帰省したついでに久しぶりに墓参りをした。乗ったタクシーの運転

手は私の知らない新興住宅地のなかをくねくねと通り抜けたと思うと、まったく見慣れないところで車をとめた。私が車から

おりるのを戸惑っていると、

「市営墓地ゆうたらここしかないです。そこが妙香院です」

 と、目の前の階段を登ったところにある古ぼけた民家をさして言った。そう言われて初めて気がついた。ここは妙香院のす

ぐ裏で、こんなところにまで車が入ってこられるようになったのである。

 墓から見る武久海水浴場には、ひとりの人影もなく、ひっそりとしずまりかえり、白い波だけが浜に打ち寄せていた。あの

甘い香りを漂わせていた森永製菓の工場もすでになく、私をはじめてここに連れてきてくれた祖母も二十年ちかく前にこの墓

に入り、続いて父もこの中に納まった。

 たえず変貌する人の世とは裏腹に、誰もいない墓地に、蝉しぐれだけが昔とかわらず響きわたっていた。