逆 ね じ の キ ャ ン プ
私は小さい頃からどういうわけか、キャンプにつきがない。
小学生の時、教会の日曜学校の先生が私を含めた三人を、海のキャンプヘ連れていってくれることになった。約束の当日、
私は米や着替えの入ったリュックサックをかつぎ、喜びいさんでまず親友のY君を誘い、次に二人でM君を誘いに行ったとこ
ろが、出てきたM君のおかあさんは、
「まあ、あの子なにも言わなかったの。きょうは中止になったのよ」と言った。
その後も、友達のファミリーキャンプに連れていってもらえる話がでたことがあったが、それもなぜか流れてしまった。
大学時代の夏休みに、宮木とふたりで下関の離島に、泊まりがけで遊びに行ったことがある。宮木は浜の石ころの上で、野
宿でもするつもりだったらしく、食料のインスタントラーメンのほかには、テントもマットも持ってきていなかった。当時の
私はそういう遊びはすべて宮木まかせで、自分で計画したり道具を調達するような意識や才覚はなかったから、日がくれて寝
る段になってびっくりしてしまった。
軟弱に育った私には、テントもなしに石ころの上に寝ることなどできない。宮木を困らせたあげ句、結局その晩は野宿をあ
きらめて、まっ暗な浜を、石につまづきながら引き返し、宮木の中学時代の同級生の家を訪ねて、むりに泊めてもらったので
ある。
それに懲りたわれわれは、翌年は古い蚊帳をテントがわりにしてキャンプをしたが、これが私にとって初めてのキャンプと
なった。それ以来三十年ちかく、再びキャンプに縁のない日々を過ごしてきた。
ところが最近になって、私の意識がすこし変わってきたのである。
昨年の秋、私は四級小型船舶の免許をとった。と同時に、車の屋根に積める小さいボートと、四馬力の船外機を買ったのだ
が、秋から冬にかけては、海も琵琶湖も波がたかく、ほとんど使われずに庭のすみで遊んでいた。やっと琵琶湖で使えだした
のが、この春である。
そうして琵琶湖を乗りまわしているうちに、私の頭の中にひとつの夢がふくらんできた。それは、このボートで琵琶湖周航
をしてみたいということである。琵琶湖周航の歌は大学時代のコンパなどでよく歌ったが、あれは手漕ぎのボートの話で、私
のは曲がりなりにもエンジンがついている。と言っても、私のボートはせいぜい時速五キロ程度しか出ないから、手漕ぎとた
いして変わらない。レース用の手漕ぎボートだったら負けるかも知れない。その程度だから、一周二百二十キロもある琵琶湖
は、私のボートにとっても挑戦しがいのある目標なのである。
時速五キロで二百二十キロといえば、単純計算でも五十時間ちかくかかる。ところが実際にはそう簡単にいかないのである。
琵琶湖は海と同じで、風速五メートルになると白波が立ちはじめる。そうなると小型船舶は危険だから、避難しなければな
らない。しかも九月から翌年の五月までは、強風の吹く日が多く、ほとんど出航できない。たとえ出航できたとしても、午前
中だけで、昼すぎると同時に荒れ始めるということもよくある。
そんなわけだから、この計画は五十時間どころか、何日かかるか解らないのである。
ご隠居さんがどんな反応を示すかと思い、計画の一端を話してみると、あの温厚なご隠居さんが即座に、「そんなことでき
る訳ありません」とはねつけて、取りあってくれなかった。ところがそうはっきり言われると、私としては益々やってみたく
なるのである。
琵琶湖のまわりには宿泊施設がたくさんあるから、それらに泊まりながら周航を続けるという方法もあるが、これはちょっ
と贅沢である。それより、日が暮れたら岸にあがってキャンプする方が、より野性的で面白そうである。歌の歌詞にある「き
ょうは今津か長浜か」という風来坊的なイメージにも合ってくる。
しかし本当に実行するとなると、季節を選び、しかも十分な時間の余裕をもって出かけなければならないので、おいそれと
はいかない。したがって現時点では、その目処さえ立たないのである。
いつになるか解らないとしても、キャンプ道具だけは揃えておきたいと思い、まずテントを買うことにした。と言っても、
大きなものはいらない。そんな酔狂につきあってくれるもの好きはいないし、ボートも小さいから、荷物はなるべく小さく、
軽くしなければならないのである。結局、オートバイで旅行する人や、山に登る人が持ち歩くような、小さな二人用のツーリ
ングテントにした。
早速、家に帰って、部屋で組み立ててみた。トンネルの穴が、奥に行くほど天井が低くなっているような形で、外見は小さ
く見えるが、中に入ると意外に広く、外の骨組みも含めると、六畳の間に対角線上に張らないとおさまらないほど大きい。
出たり入ったりして悦に入っていると、高校生の長男が、ちらと横目で見て、軽蔑したような顔をしてどこかへ行ってしま
った。
テントの次はコンロである。椎名誠氏などは、キャンプにコンロは邪道で、焚火にかぎるなどと書いているが、それは奴隷
と称する人手があり余るほどあって、かまど作りから、薪集めまですべてやってくれるからで、人手と時間がない時は、だん
ぜん携帯コンロが便利である。
コンロも少し前まではガソリンを燃やすコンロが主流で、予熱したり、加圧したりとけっこう手間がかかり、その上かさも
大きかったけれども、最近は小さなガスコンロで熱量はガソリン以上という便利なものが出ている。
このコンロも家ですぐテストしてみた。玄関先でご飯をたいてみたり、湯を沸かしてインスタントラーメンを作ってみたり
したのだが、その時は中学生の娘が興味を示し、つきあってくれた。
寝袋は相棒の分も含めてふたつ買った。マイナス十五度までたえられると書いてあるので、ためしにある冬の晩、寝袋だけ
で寝てみたところ、さすがに明け方の冷え込みの時だけ、足元がすこし寒かったけれども、たっぷり着こんでいれば、問題な
さそうな程度だった。
こうして着々とキャンプ道具が揃うにつれて、琵琶湖周航はさておき、とりあえずこの夏、どこかでキャンプしてみようと
いう気になってきた。どこでするかと言えば、まず最初に思い浮かぶのは、やはりふるさと下関である。宮木に電話してみる
と、根が好きだから、すぐに乗ってきた。
梅雨明けを待ちかねたように、七月の二十日すぎに、車にキャンプ道具一切をつめ込み、屋根にはボートを積んで、小倉行
きのフェリーに乗りこんだ。
今年は梅雨明けと共に、台風がつぎつぎに発生して、風ばかり吹き、一向に夏らしくならなかったが、その晩も船がよく揺
れた。夜があけても風は依然として強く、関門海峡には白波が立っていた。
せっかく夏休みをとって帰ってきたのに、まだ梅雨のつづきのような空模様で、さっぱり意気があがらない。キャンプの出
発は、宮木の仕事のつごうで四日後だから、それまでに本格的な夏になってくれるよう祈るしかない。
ところが今年の異常気象はそんなこちらの思いをよそに、当日の朝の天気予報は、台風十一号の南九州接近を報じていた。
外はなるほど風がすこし強いようである。だが空は晴れ、一応夏の陽が照りつけている。台風にしてもすぐに来るというわけ
でもなさそうなので、決行することにした。
下関のいい所は、海にも山にも近いということである。温泉だっていくつもある。そこで今回のキャンプは、昼間、海で魚
や貝をとり、夜は山でテントを張るつもりにしている。
海では宮木が潜り、私はボートで釣りをするのだが、潜っても、釣っても獲物があり、しかも車からボートがおろせる所と
なると、場所が限られる。
何日も前から、ふたりで検討して決めた場所は、下関から二十キロほど国道一九一号線を北上した所にある、豊浦町室津の
小さな海水浴場である。
朝九時すぎに現地に着いた。しかし時間が早いのか、それとも天気のせいか、海水浴客の姿は見えず、ゴムボートをふくら
ませて、我々と同じように釣りに出ようとしているもの好きな人が、ひとりいるだけであった。
浜には波がなく、意外に静かである。宮木は一キロばかり沖にある小島に渡って、そこで潜りたいと言う。私もその島のま
わりで釣ればいいから、異論はない。
ボートを出してしばらくは、確かにおだやかだった。しかし沖に出るにつれて、ボートが揺れはじめた。潮をかぶるほどで
はないが、よく揺れる。後をふりかえると、岸で発生した波が、どんどん大きくなりながら、次から次へと沖へ向かっておし
寄せていた。風が陸風だから岸に波がなかっただけで、沖は荒れていたのである。
追い風なら、少々荒れていても波に乗って進めるが、それをすると帰りが、向かい風で危険になる。宮木に事情を説明して、
「帰ろう」と言うと、宮木も「ボートの上ではお前が船長やからな」と、しぶしぶ同意した。
引き返して、岸よりの安全な所で遊ぶことにした。宮木はしかたなく、波よけに入れられているテトラのまわりを潜ってみ
ると言う。どちらにとっても、獲物は期待できない。
案の定、私の竿にアタリはない。近くで釣っているゴムボートの主に説いても、同様らしい。去年来たときはよく釣れたの
に、今年はおかしいと首をかしげている。
昼すぎまで頑張って、宮木はアブラメ一匹と小ダコ二匹に、小さなサザエとアワビとトコブシをいくつか捕っただけで、私
の方はまったく坊主だった。
最近の私は、釣りをしても釣果にこだわらなくなった。釣り糸を垂れているときが楽しいので、結果として釣果がなくても、
べつに悔しくないのである。もちろん釣れた方がいいけれども、釣れなくてもいいという心境である。
魚はとれなくても、車のなかには、この春に作ったじゃが芋と玉ねぎが積みこんである。だから今夜の食料に困ることはな
い。早々に今夜のキャンプ地に向けて出発することにした。
だが、海から上がったままの素足で、砂浜を歩いてきた宮木の足は、砂まみれである。どこかの水道で足を洗おうと探した
が見当たらず、少しはなれた学校の校庭で、やっと蛇口をひとつ見つけた。
夏休みなのに校門はひらいていて、上半身はだかの、立派な体格をした青年がひとり、校庭でバットの素振りをしていた。
その目の前をこれ又、千代の富士のような体格をした宮木が、はだしで胸をはって横ぎったのである。
青年は素振りをやめて、宮木の後姿を目で追っていたが、宮木が水道で足を洗いはじめると、バットを持ったままつかつか
と宮木に近づいて行った。たぶんこの学校の先生だろう。
その青年は宮木になにか言ったようである。宮木がそれに答えている。宮木はそれでも足を洗う手を休めないから、遠くで
見ていると、世間話をしているようにも見える。だが足を洗い終わってからも、いつまでもふたりで何か言いあっているとこ
ろを見ると、やはりもめているのだろう。
そのうちに青年の方が逃げ腰になってきたようだが、今度は、宮木の方がしつこく追いかけては絡んでいる。やっと諦めて
こちらに帰りかけたと思うと、又、振り返っては、むし返す。お互いに手やバットを振りまわすほど物騒な雰囲気はないけれ
ども、待っていてはキリがなさそうなので、仲裁に入ることにした。
こういうことは、宮木の方に頭をさげる気さえあれば、何もこじれることはないのだが、宮木は昔からそういう柔軟性を持
ちあわせていない。そこでこの際、私が宮木のかわりに頭をさげて、事態を収拾させようと思ったのである。
こちらが頭をさげたので、青年も助け舟がきてホッとしたのか、何度も私に頭をさげ返した。
車に乗ってから、宮木になりゆきを聞いてみた。
彼が足を洗っているところへ青年がきて、
「もしもし学校の施設を勝手に使ってもらっては困りますね」と言うところまでは想像通りである。その後の展開は想像をこ
えていた。
「お前だれや」
「この学校のものです」
「そうか。ちょっと足がよごれたけえ、洗わしてもろうちょるそいや。それぐらいええじゃろ」
「いけません。学校のものですから、勝手に使っては困ります」
「お前なあ、先生じゃろ。これから人を指導していこうちゅうもんが、そねえに融通がきかんようでどねえするんかあ。人間
ちゅうもんは、そんなもんじゃあないで。お前みたいな杓子定規なこと言うちょっちゃあ、教育もできんやろ」
「それでも、ひと言、声ぐらいかけてから使うのが当たり前でしょう」
「最初から先生とわかっちょりゃかけるじゃろうが、お前みたいなそんな格好しちょったらわからんじゃないか」
「お前とはなんですか」
「お前やからお前ちゅうて何が悪い。だいたいそんなこと言うようじゃ、お前言われても仕方ないじゃろうが」
と言ったやりとりがしばらく続いて、青年が、
「もういいです。あなたの言うことはおかしい。話するだけ無駄です」
と言って帰りかけたところを、宮木が追いかけて、
「なにがおかしいんじゃ。わしが言いたいのは、あんたは先生として血がかようちょらんちゅうことを言うちょるんよ。わし
ももう四十年生きてきたけど、足を洗う水ぐらいで、こねえガタガタ言われたことはないけえね。そやから言うんよ」
実際は、宮木はもう四十六才である。
若い先生は無視して、最初にバットを振っていた場所に帰っていった。宮木はなおもしつこく追いかける。職員室にはほか
にも二、三人の先生がいて、時々外を覗いているから、外のできごとには気づいているはずだが、誰も出てくる気配はない。
「ちょっと待ちいね。ひょっとしたらお宅のいう方が正しいかも知れんし、わしの友達に新聞記者がおるけえ、いっぺん言う
てみよういね。稀にみる熱血教師ちゅうて、新聞にでるかも知れんよ。そやからわしも名乗るけえ、お宅も名乗りいね」
「いや、いいです」
「いいです言うたって、室津の学校で体格のいい若い先生いやあ、すぐわかるんじゃから、隠したってだめじゃあね」
宮木がしつこく食いさがれば食いさがるほど、先生の方は逃げ腰になる。こうなると益々宮木のペースである。先生が宮木
に声をかけたことを後悔しはじめた頃に、私が助け舟を出したという訳である。
宮木は今までにも、何か人に文句を言われると、その度に例の調子でまくしたてて、逆に相手の方に頭をさげさせたそうで
ある。要するに宮木は、人に逆ねじを食わせる常習犯だったのである。私も注意しなければと思う。
思わぬところで時間をくったために、昼食時分をとっくに過ぎてしまった。早くテントの設営できるところへ行って、昼食
にしなければいけない。野営地のだいたいの見当はつけてある。
海岸から十キロばかり内陸に入った所に、狗留孫山という標高六百メートルあまりの山があり、そのふもとに渓流が流れて
いて、夏休みに帰省するたびに、宮木や子供達とそこでハヤを釣ったり、手づかみしたりして遊んだことがある。そのあたり
でテントを張ろうと思っている。
車が入れるような広い河原があればいいのだが、細い渓流だからそんな所はなくて、結局、渓流にかかった小さなコンクリ
ートの橋の上で、テントを張ることにした。橋といっても、何年も人も車も通った形跡はなく、前も後も道はすべて、背の高
い雑草に覆われていて、橋の上だけが辛うじてテントひと張り分のスペースを残していた。下がコンクリートだからテントを
釘で固定するわけにいかず、河原の石を重し代わりにして、周囲を固定した。
テントが立った時は、もう三時にちかくなっていたので、急いで湯を沸かして、遅い昼食のカップラーメンを食べ、缶ビー
ルを飲んだ。水は前日のうちに、うまい涌き水をポリタンクに汲んできてあるとはいえ、カップラーメンでは、われわれエピ
キュリアンの食事として、少々お粗末である。よく解っているのだが、時間が時間だから、昼食に時間をかけていては、肝心
な夕食の支度ができなくなるのである。
宮木は昼食もそこそこに、川におりて行った。海での不漁を、ハヤの手づかみで補おうという魂胆らしい。海でもそうだが、
宮木が一旦漁に出ると、一時間やそこらは帰ってこない。その間に、こちらは飯をたき、予定している何品かのこ馳走を作ら
なければならない。
キャンプでのご馳走と言えば、やはり熱い汁物である。今夜の汁は、自作のじゃが芋と玉ねぎにアゲを加えたみそ汁に、さ
らに昼間とったアブラメをブツ切りにしてほうり込むという豪華なもので、ほかにも魚料理はあるが、料理人としてはこのみ
そ汁を、今夜のメインとしたいのである。
コンロは三つ用意してあるので、もうひとつ残ったコンロで、昼間の獲物のサザエとアワビとトコブシに、小ダコもいっし
ょにして、甘辛く煮つけた。煮物のあとには、玉ねぎのケチャップいためも作る。これは私の好物である。
そこへやっと宮木が川から上がってきた。手には、笹の茎にさした型のいいハヤを十匹ほど提げている。今時分のハヤは腹
が赤く、アカマツバヤとも呼ばれ、焼くとなんとも言えない香ばしい香りがする。
早速、半分は塩焼きにし、半分はコショウをたっぷりかけて、フライパンでオイル焼きにした。ほかにも冷奴とキュウリの
ぬか漬けが用意してあるから、食べきれないほど盛りだくさんのご馳走になる。宮木も並べられた料理を見て、「ほほうっ」
と、目をまるくした。
昔のキャンプは、私が宮木にまかせきりだったけれども、今は宮木が私にまかせきりで、立場は完全に逆転してしまってい
るのである。
この日、二本めの缶ビールをあけて、早速、夕食を始めた。外はまだ明かるいけれども、焚火をしていないから、明かるい
うちに夕食を済ませなければならないのである。
それにしてもビールがうまい。いくらでも飲めて、少しも酔わない。われわれ二人はふだんあまり飲めない方なのに、これ
は一体どういうことだろう。今回も三日分のつもりで、缶ビールを六本しか持ってきていないのである。
ビールとご馳走で満腹になったと思うと、宮木はテントにもぐり込み、すぐにいびきをかき始めた。私も居心地をたしかめ
るためにテントに入ってみたが、むし暑くて我慢できずに、すぐに外へ出た。こんなに暑くては、用心のために持ってきた寝
袋は用がなさそうである。
外に出ると汗がすっとひいて気持ちがいい。だが見ると、テントの外まわりを二重にとり囲んでいるもう一枚のシートの内
側が、水滴でびっしょりと濡れていた。前からこのシートは何のためにあるのか疑問に思っていたのだが、これで理解できた。
このシートがなかったら、テントの中に直接、水滴がたまって、気持ちが悪くて寝ていられないだろう。
私が出たり入ったりするので、ひと眠りしていた宮木が目を覚ました。
むし暑いテントの中はサウナのようなものである。じっとしていても汗をかく。汗をかけば喉がかわく。喉がかわけばビー
ルがうまい。というわけで、目を覚ました宮木と相談して、とうとう最後のビールも飲んでしまった。ふだんの私としては考
えられないことだが、なぜか三本目もとてもうまく喉を通過した。
飲めばますます暑くなる。小用にも行きたくなる。外に出てみると、空は晴れて、満天に無数の星がまたたいている。その
時、川を覆うようにして繁っている目の前の木の枝で、何かが光ったような気がした。
眼鏡をとってきて、もう一度よく見ると、やはり蛍だった。それも、わが家の近くで梅雨時分によく見かける小さいのと違
って、ずっと大型の源氏蛍である。枝にとまっているもの、飛んでいるもの合わせて十匹ほどが、交互に光を点滅させる様は、
クリスマスツリーのようでもある。思いがけず出現した幻想的な世界に、われわれ二人はしばし目をうばわれた。
ひと眠りしたのと、蛍の出現で、宮木は完全に目を覚ましたようである。
宮木が一旦目を覚ますと、次に眠くなるまでの数時間は、私の方は眠れないと覚悟しなければならない。それは昔からそう
であって、学生時代に宮木の下宿に泊まったことのある者なら、誰でも経験している。こちらがいくら眠たかろうと、宮木が
目を覚ましている限り、何時まででもおかまいなしに、彼の話を聞かされるのである。
そのくせ自分が眠くなると、先に寝てしまうという超自己中心的なところが宮木にはある。昼間は驚くほどこまかく神経の
いきとどく男なのだから、ふとんに入ったとたんに、その反動で別人格になるのだろう。
ただ幸いなことに、その夜の宮木は昼間の泳ぎで疲れたのか、年のせいなのか、昔のような元気がなく、わりにあっさりと
眠ってしまった。それでこちらも寝るつもりになった時、突然、外に風の音がし始めた。
台風の接近を心配して、比較的風のおだやかな谷間にテントを張ったのだが、台風の風は容赦なく、この谷間にも侵入して
くるようであった。案の定、風は時々刻々と強くなり、時々テントを固定している重しの石が、ゴロゴロと音をたててころが
った。
宮木はなにも知らずに眠っているが、私の方は心配で、おちおち眠ってなどいられない。そのうちにとうとう重しがはずれ
たらしく、突風が来るたびに、テントカバーが舞い上がって、バタバタと大きな音をさせるようになった。
こうなってはもう我慢できない。夜明けまでにはまだ一時間以上もあるけれども、できる物から順に荷物の片づけを始める
ことにした。テントの外の食器やコンロなどのこまごました物を、ひと通り車にしまい終えた頃には、あたりはもう薄明かる
くなっていた。
宮木を起こしてテントをたたみ、急いで朝食にした。朝食といっても、風でコンロが使えないので、昨夜の残りの冷や飯と
冷たいみそ汁だけのぶっかけ飯である。これで残飯の整理と腹ごしらえが一度にでき、いよいよ出発である。行く先はもちろ
ん近くの温泉である。
ボートを積んだわれわれの車は、その途中でも突風をまともに受けて、何度も飛ばされそうになった。そして目ざす温泉に
たどり着き、ひと汗流して、大広間に大の字になった時には、疲れと安堵で、たちまち深い眠りに落ちてしまった。
それにしても宮木は、一体何をしていたのだろう。こういう時にこそ、宮木に活躍してもらいたいのだが。ひょっとすると
さすがの宮木も、台風には逆ねじを食わせることができなかったのだろうか。いやそうではない。宮木はやはり、台風に逆ね
じを食わしたのである。
北半球では、台風の渦は中心に向かって左回転しているという。左回転しているコマに、同じく左回転しているコマがぶつ
かると、双方とも力を相殺されて止まってしまうが、右回転しているコマがぶつかると、逆に拍車がかかる筈である。
宮木は左巻きの台風に、右巻きの逆ねじを食わしたために、かえって台風に拍車をかけてしまったのである。