バ イ オ リ ン 工 房

 

 バイオリン等の弦楽器を専門に売る楽器屋というのは、ふつう、一般の楽器屋とは、相当イメージがちがっている。

 修行を終えてひとり立ちしたバイオリン職人が、自宅の一室に工房をもち、修理や製作をするかたわら、販売も手掛けるケ

ースが多いため、そういう店は住宅街のなかにあり、看板もなにも出していない場合が多い。

 なぜなら、バイオリン等の弦楽器は繊細微妙で、たえず調整をしていないと、すぐ響かなくなって使い物にならなくなる。

そしてこの調整がまた高度の技術を必要とし、いくら立派な演奏家といえども、自分では手も足もでなくて、かかりつけの技

術職人がいないと仕事ができないということになる。そのためにバイオリニストたちは、アフターケアのことを考えて、顔見

知りの職人のところから直接楽器を買うのがふつうなのである。

 これから行く松下さんもそのひとりである。三階だて四軒長屋の一軒が、松下さんの住居兼仕事場である。一、二階が住居

で、三階の一室を工房にし、もう一室を楽器の展示室兼商談室としている。

 わたしが着いたときには、だれか先客がいるようで、三階からバイオリンの音がしていた。その音を聞いたとたん、わたし

はいやな予感がしてきた。モーツァルトのロンドや、バッハの無伴奏パルティータなど、有名な曲のさわりばかりを次々に弾

いているのだが、奏法の基礎ができていないから、音が上滑りで、聞くに耐えないのである。いわゆるチャラ弾きというもの

で、その弾き方は、若いころのわたしそのものだった。

 弾いているのはひとりの青年だった。目の前のテーブルに数本の弓をならべて、取り替え、引き換えしては弾きくらべてい

る。どうやら弓を新しく買いかえるために、選んでいるのだろう。すこし弾いては、首をちょっと傾けて、すぐ次と取り替え

る。何度も何度もそれをくり返すから、すぐに一度弾いた弓にもどってくる。それでもなかなか決断がつかないらしい。それ

もそのはずで、彼の弾き方では、弓の善し悪しの判定はむつかしいのである。

 松下さんは次の客がきたものだから、その青年に早くケリをつけてほしがっている気配が、なんとなく感じられるのだが、

彼はそんなことは一向におかまいなしである。それとなく話を聞いていると、彼は大阪のある国立大学出で、大学時代にはオ

ーケストラでコンサートマスターをつとめ、就職した今も、関西のあるアマチュア・オーケストラでコンサートマスターをつ

とめているようであった。

 このてのエリートというのは、根は善良そのものなのだが、とかくひとりよがりで、人の気持ちが読めないという欠点があ

る。きびしい言い方のようだけれども、これは彼に対する非難ではなく、自分自身に対する自戒のつもりで言っているのであ

る。

 松下さんは、今日わたしが聞いてきた演奏会で、自分の所から出たバイオリンがソロで弾かれたことを知っているから、

「演奏会はどうでした」

 と、切り出してきた。

「とてもよかったですよ。よく鳴っていました」

 と返事すると、モーツァルトを弾いていたその青年が、突然、

「なんの演奏会ですか」と、話に割りこんできた。

 自分はクラシックの演奏会については、すべて熟知しているはずだが、一体今日の演奏会というのは何だったのだろう、と

いう顔である。彼に割りこまれると、話がややこしくなるので、

「なに、子供の発表会です」

 と交わしたら、「ふん」と納得したようで、又、弓の品定めを再開した。

 彼の弓選びを見ていると、善し悪しの判定基準は弾きやすさだけのようである。ところが弾きやすい、弾きにくいなどとい

う特性は、身体の方の順応でいくらでも解決できる問題で、ほんとうはどんな音が出るかということの方が重要なのである。

 弓というものは、木の棒に馬の尻尾をはっただけであるから、どんなものでも大差ないように思えるが、実は大違いで、木

の材質と削り方ひとつで、出てくる音に大きな違いが生じるのである。つまり弓も重要な楽器の一部なのだが、彼にはまだそ

れが解っていないようである。

 松下さんは青年の優柔不断さにつきあいきれなくなったのか、彼を放っておいて、わたしの方の仕事から先に片づけること

にしたらしく、わたしの持っている楽器を指して、

「どうでした」と聞いてきた。

「どうも音が固いのが気になるのですが、調整でなんとかなりますかねえ」

 と言いながらケースからとり出して、松下さんに手渡そうとした時である。

「ちょっと弾かせてもらえますか」

 と彼がまた割りこんできたのである。さすがにこの時は松下さんも、

「ちょっと待ってください」

 と、いつになくきびしくはねつけた。わたしもこの時ばかりは、この青年はいったい何を考えているのだろうと、不思議に

なってきた。

 楽器を受けとった松下さんは、楽器の中に立っている魂柱という細い棒や、駒の位置を微妙に動かしながら、調整をはじめ

た。少し動かしては、自分で弾いてみて判断するのである。

 この調整には全神経を耳に集中する必要がある。なぜなら、聞かなければならないのは、実際に鳴っている弦の音ではなく、

その音をつつんでいる響きだからである。この響きが多いか少ないかによって、楽器と調整の善し悪しがきまる。しかもその

響きは、大きなホールで離れて聞けば誰にでもすぐ解るのだが、逆に、弾いている本人には、修練をつまなければ聞こえない

という厄介なものなのである。そしてこの響きは、魂柱や駒をほんの少し動かしただけで、大幅に変わるのである。

 青年はそんなことは知らないから、松下さんが神経をとがらせて調整しているそばで、あいかわらずチャラ弾きを続けてい

る。イライラした松下さんは、とうとう楽器をもって、となりの工房の方に逃げだした。

 無神経な青年は、カバンからなにか楽譜を取りだして、今度はそれを見ながら弾きはじめた。どうやら今オーケストラで練

習している曲のようだ。そんなおさらいのようなものは、わざわざここでしなくても、家に帰ってからしたらいいと思うのだ

が、よく見ていると、それは彼にとっておさらいではないのである。その曲のむつかしいパッセージが、一番うまく弾ける弓

をさがそうという魂胆なのである。

 その試みも無駄であった。彼の弾き方では、何百万円の弓でも、何万円の弓でも同じ音しか出ないのである。結局、何時間

もねばった末に、彼はあらかじめ決めていた予算ぎりぎりの弓をもって帰っていった。

 それにしてもバイオリンを弾く腕の未熟さといい、人間的な未熟さといい、彼のすがたを見ているうちに、わたしは若かっ

たころの自分と重ねて、あるひとつの忘れていた出来事を思い出した。

 もう二十年も前、現在のテレビ局に入社して間もないころのことである。

 わたしは当時、有吉佐和子作「助左衛門四代記」という小説をテレビドラマ化する現場で、音声のミキサーとして働いてい

た。ちょうど白黒テレビからカラーテレビに移る間近のころで、当時のテレビ界はドラマが全盛の時代ではあったが、その中

でもこの「助左衛門四代記」は、スタッフも出演者も特に情熱をそそいだドラマとして今でも印象にのこっている。

 その中で、たしか三代目垣内助左衛門の妻役をしていた大女優のIさんが、年老いて、ひとりで和歌山地方のわらべうたか

何かを口ずさむシーンがあった。そのためにIさんは手本となるテープを取り寄せて、何日も前からたえず聞いておられたが、

今のようにウォークマンでこっそり聞くわけではないので、自然にわたしの耳にもはいり、わたしも覚えてしまった。

 Iさんのその歌は、ドラマのなかでは、事前にテープにとったものを使用することになり、ラジオのスタジオでのその録音

に、わたしも立ち会った。ところが本番前というのにIさんはまだ自信なさそうに、ぼそぼそと歌う練習をしている。見てい

てもどかしくなったわたしは、そばにあったスタインウェイのグランドピアノを開け、Iさんの歌にあわせて、大きな音でメ

ロディーを弾いてリードした。いや、リードしているつもりであった。ところがしばらくして、

「ピアノ、やめてもらえますか」

 というIさんの声で、わたしは後頭部を殴打されたのである。なぜだろう、惑乱する頭のなかで、わたしはコンピュータ並

の速さでその理由をさがしていた。そしてすぐにひとつの結論を得た。彼女がぼそぼそと歌っていたのは、自信がないからで

はなく、女優としてすでに役になりきっていたのである。そのことに気がついた時、わたしはピアノの下にでももぐりこみた

い心境であった。

 松下さん方をあとにしてからも、思い出したくないことを思い出してしまった憂欝な気分は、いつまでも晴れないばかりか、

夕方から降りだした雨は、そんなわたしの気持ちを逆なでするように、ますます激しくなる一方であった。