ふ た つ の 響 き

 

 最近、響きのよいコンサートホールが、全国各地に次々とつくられている。大きな所では、「残響二秒」を売り物にした大

阪のザ・シンフォニーホールや東京のサントリーホールがあり、以下、大小含めれば数えきれないほどである。

 これらはすべて演奏会専用のホールで、響きがよすぎるために、芝居や講演会では言葉の明瞭度がわるく、使いものになら

ないのである。逆に従来のホールは何にでも使える多目的ホールで、体育館まで兼ねたものもあったけれども、そういうホー

ルでクラシックの演奏を聞くと、響きが貧弱で、もの足りなかった。

 ここでわたしが言いたいのは、そういうクラシック音楽専用のホールを次々に建てられるほど、現在の日本が豊かになった

というようなことではなく、西洋の音楽がいかに響きを必要としているかということである。

 もともと西洋音楽のはじまりが教会音楽であることを考えれば、響きの豊かな教会堂で、何世紀にもわたって育まれてきた

音楽が、豊かな響きを要求するのは、至極当然とも言えるのである。

 したがって作曲家は、響きの豊かな場所で演奏されることを前提に、多声部が複雑にからみあうポリフォニーの技法を開発

し、また、楽器製作者や演奏家は、いかによく響かせるかということを目標に、それぞれの技術や奏法もしくは発声法を磨い

てきた。

 これに対して日本の音楽は本来「語り」の音楽であるということができる。言いかえれば「言葉」の音楽である。言葉がも

とにあって、リズムとメロディーがそれに付随するという形になっている。そのため日本では西洋と逆に、楽器製作者や演奏

家は、いかに楽器の音を言葉に近づけるかということを考えてきたのである。

『日本人の脳』という名著をだされた角田忠信氏によれば、人間の脳は左右ふたつに分かれていて、耳からはいってきた音は、

一定の規則にのっとって、左右に振りわけられるという。つまり「言語」と判定された音は言語脳(一般には左脳)に、言語

をふくまないその他すべての音は音楽脳(一般には右脳)に振りわけて処理されるそうである。この操作はスイッチングとよ

ばれるもので、スイッチがひとつしかないために、言語とノイズが同時にはいってきた場合は、いっしょにして言語脳の方に

送りこまれる仕組みになっているようである。

 ということは、われわれが言語の聞こえない静かな環境で楽器の音を聞いた場合、当然、その音は音楽脳の方に送りこまれ

るはずである。ところが邦楽器の音を、日本人が聞く場合にかぎり、言語脳の方に入力されるということが実験であきらかに

なっている。その理由として氏は、日本の楽器や演奏法が、いかにその音を声に近づけるかということを念頭に開発されてき

たこと以外に、母音のみで構成される単語をたくさんもつ日本語の性質上、日本人は母音とそれに類した音に対して特別な感

受性を有していることを挙げている。

 このように邦楽は言葉の明瞭性をおもんじる音楽であるから、それが響きのまったくない野外や、障子とふすまにかこまれ

たお座敷で演奏されてもおかしくはないのである。というより、その方が適していると言った方がいいだろう。

 邦楽が楽器の音を人間の声もしくは言葉に近づけようとしてきた歴史に対して、西洋では逆に、人間の声を楽器の音に近づ

けようとしてきたと言ってもよい。その結果イタリアでは、ベルカント唱法と呼ばれるあかるくよく響く発声法が開発された。

これは声帯から出た声を口腔や胸腔に共鳴させて響きを豊かにし、言葉をしゃべるときの声ではなく、むしろ楽器の音にちか

い声にしてしまうのである。

 西洋音楽の三要素がリズム、メロディー、ハーモニーなら、響きはその生命である、とわたしは思っている。そう考えて見

直してみると、弦楽器でも管楽器でも、教則本は響きを豊かにすることを主眼に書かれていることが解る。

 バイオリンの鈴木メソッドでは、声楽の発声練習に相当するトナリゼイションという練習方法が取り入れられているし、鈴

木鎮一氏自身その標語のなかで、『美しい弦の響きを聞きわけよ』と言われている。また、フルートの巨匠マルセル・モイー

ズの書いた教則本では、スタッカートの音ばかりを並べて、音と音の間をいかに豊かな響きで埋めるかという練習に最大の重

点をおいているように思われる。

 楽器がよく響くための条件としては、まず楽器がよいこと、つぎに奏法がたしかなこと、そして最後に部屋またはホールの

響きがよいことの三つがあげられる。この三つの条件がそろわなければ、豊潤な響きは望めないのだが、このうちホールに関

しては、各地方自治体や企業が気づいて動きはじめたことが、最近のホール建設ブームに拍車をかけているようである。

 ホールの響きを問題にする場合、なまの演奏ではもちろん響きのよいホールほどいいのだが、録音の場合はすこし話がちが

ってくる。日本のレコード会社でも、響きのよいホールを求めて、わざわざヨーロッパの教会まで出掛けることもあるけれど

も、そうでない場合、中途半端な響きのホールで録音するくらいなら、むしろほとんど響かないスタジオで録音しておいて、

あとから加工処理をする段階で、納得のいくエコーを付加する方がよい場合がある。最近はデジタルの信号処理技術が発達し

て、好みによってカーネギーホールでも、ウィーン楽友協会ホールでも、好きなホールのエコーが付加できる装置までできて

いる。

 もう十年以上も前の大晦日に、ウィーン楽友協会の大ホールで、ウィーンフィルのコンサートを聞いたことがある。ヨーロ

ッパに着いて数日目だった。まだ時差ぼけのとれていない思考を停止した頭にも、古い木造のホールから出てくるなんとも柔

らかで充実した響きと、それまで日本で聞いていたウィーンフィルの音との違いは衝撃的で、思わず目をみはった覚えがある。

 ここまでは楽器の一部としてのホールについて述べてきたが、つぎは楽器本体の響きについて考えてみたい。

 楽器がよく響くためには、もともと素質のよい楽器であることと、調整が完全にできていることのふたつの条件がそろわな

ければならない。いくら高価な名器であっても、調整がくるっていれば、凡器とおなじである。バイオリン族の弦楽器はとく

に神経質で、駒に不注意な衝撃をあたえて、ほんのすこし位置が変化しただけでも、それまでよく響いていた楽器が、とたん

に響かない楽器になってしまう。そのため響きのわからない奏者が勝手に駒をさわったりすると、プロの技術者に再調整して

もらわない限り、永久にもとには戻らないことになる。

 調整が完全にできていれば、あとはどれだけ響くかによって、その楽器の値打ちがきまると言っても過言ではない。ただし

最近は、大学の木質材料学の研究室などでも、安いバイオリンをクレモナの名器なみに響かせるための化学処理の研究がすす

んでいるようだから、響きだけを問題にするなら、そのうち安くてもわりによく響く楽器ができてくるかもしれない。

 楽器を弾く者の立場から言えば、よく響かせるためにホールを選んだり、楽器を買いかえたりということはそう簡単にでき

ることではない。われわれにできることは、調整をくずさないことと、奏法の鍛練だけである。

 弦楽器を十分に響かせるためには、まず左手の指が弦上の正しい壼を、一分の狂いもなくしっかりおさえなければならない。

これはひとえに耳の訓練に通じている。また右手は、決して弓を弦におしつけてはいけない。そうかと言って、浮いてしまっ

ては音にならないから、そのへんの兼ね合いが弦楽器奏者にとって最大の課題でもある。

 わたしが以前所属していたオーケストラの指揮者は、日本のオーケストラが海外の一流オーケストラにくらべてあまりにも

響きが貧弱なのを気にして、弦楽器奏者たちに、音符に示された長さ以上に、よけいに弓をつかうよう要求していたが、それ

はむしろ邪道である。奏者が弓をとめている間、つまり休止符の部分は響きでつなぐのが正道であって、よけいに弾かなくて

も響きが残るような奏法を楽員に要求すべきであった。

 文章の道でわたしが私淑している百關謳カこと内田百闔≠ヘ、弟子のひとりである中村武志氏に、なにかの機会にひとこと、

「中村さん、文章は余韻です」

 と洩らされたそうである。文章の場合、「響き」が良い悪いというと、朗読したときの耳ざわりの善し悪しのようにもとら

れるので、「余韻」という言葉をつかっているが、これはとりもなおさず、楽器の場合の「響き」、あるいはホールの「残響」

と同義なのである。そして文章の余韻が読者の心に共鳴し、結果として読者の心まで響かせるというのは、楽器とホールの関

係に似ている。この「余韻」は又、落語などでは「間」に相当し、さらにちくわや蓮根に譬えれば、その穴の部分ということ

になり、この穴がうまいのだと百關謳カはおっしゃられた。

 音楽に響きあり、文章に余韻あり。わたしはこれからも、おそらく生涯、このふたつの響きで苦労し続けることになりそう

である。