持 病
しばらくなりを潜めていた持病が、先日、久しぶりに顔をだした。
予兆がでたのはその前日の、勤め帰りの電車のなかだった。座って本を読んでいたら、その日にかぎり、眠気がおそってき
て、途中で読むのをあきらめ、うつらうつらした。そのため本来降りるべき藤阪駅で降りるのを忘れ、つぎの長尾駅まで乗り
越してしまった。藤阪には家内が車で迎えに来てくれているはずである。
長尾からつぎの便で引きかえしても、十分や十五分はかかるけれども、それくらいなら一便乗りおくれたと思って、たぶん
待っていてくれるだろう。それにしても長尾駅で降りたとたん、つんと鼻を刺激したあの臭いは一体なんだったのだろう。夏
の夜に花火を焚いたあとの硝煙の臭いに似ていた。
その日は夕方から急に曇りだして、長尾に着いたときには今にも降りだしそうな鬱陶しい空模様で、風はぴたりとやんで、
空気はしめっぽくよどんでいた。今までにも、嫌いな臭いを長時間かぎつづけて、翌日、頭痛になやまされた経験が何度かあ
るので、できれば避けたいと思ったが、硝煙らしい臭いはその一帯を広範囲に覆っているようで、ホームの端から端まで移動
しても、その臭いから逃れることはできなかった。
そのせいかどうか、翌朝めざめた時、すこし頭が重かった。前夜晩酌に飲んだブランデーのせいかもしれないとも思ったが、
ブランデーで二日酔いになったことはないし、とはいえほんとうに疲れたときは、少量のお酒を飲んだだけでも、頭痛がおき
ることがあるので、どちらとも言えない。
以前、ある先輩と伊勢まで徒歩で弥次喜多道中をしたとき、梅雨どきだったので、むし暑いなか、一日中、汗をかいて歩け
ば、宿でのビールはさぞうまいだろうと期待していたのだが、実際はふたりでビール二本をあけるのがやっとだった。この時
に、疲れすぎてもビールはうまくないことを知ったのである。アルコールにつよい人は別だろうが、わたしの場合、きっと肝
臓は疲労物質の分解に大童で、アルコールの分解にまで手がまわらなかったのだろう。そんなときにすこし飲みすぎると、て
きめん翌日頭痛がおきる。
長尾駅の異臭にしても、嗅いだのはわずか十分ほどだから、そのせいで頭痛が起きたとは思えない。多分、ごく軽い頭痛で、
起きて活動を開始すればすぐに忘れてしまう程度のものに違いない。それよりなにより、その日は土曜日で会社は休みだが、
夕方に家内のお父さんが泊まりに来るので、朝からそばを挽いて、打つつもりにしている。
そういうわけで朝食後すぐに挽き始めたが、やはりいつもより体が重い感じである。石臼が重くなった分だけでもなさそう
だ。というのは、最近、すこし大きめで今までのものよりもっと能率のいい石臼をさがしていたところ、インターネットでY
工房のホームページをたまたま見つけ、メールで注文して買ったもので、能率をあげるために普通よりかなり大きめのものに
したため、それだけでも今までのものより余計に力が要る。その上に、挽いているそばは、殻つきの玄そばではなく、むき身
そばである。
むき身は玄そばにくらべて、日もちがしないので、今までは使用しなかったのだが、この石臼メーカーから鮮度のいいもの
がいつでも手に入ることがわかり、最近、使用しはじめたもので、欠点は玄そばに比べて臼が重くなることである。玄そばの
場合は、割れた殻が潤滑剤の役目をして、臼はわりと軽くまわるのである。
ふだんの元気なときでさえ、この臼でむき身を挽くときは、十回もまわすとふうと言ってひと休みしたくなるのに、まして
その日は頭痛ぎみで、体の重い日だったので、二、三回まわしてはため息をつきながら、なんとか最後までがんばった。ただ、
今度の臼は能率がいいので、今までの石臼なら、ほぼ半日仕事だったものが、一時間そこらで挽けてしまうのである。
夜は、そのそばをみんなにごちそうし、自分も食べ、そしてすぐに床についた。頭痛が激しくなり、もう立っていられない
状態だったのである。起きているときからすこし寒気がするようだったが、布団にはいってからやはり熱がでてきたようであ
る。胃腸の活動もぴたりと止まって、まったく食欲がなくなっている。
頭痛と発熱と食欲減退の三拍子がそろえば、これはもう典型的な持病である。一年に一度か二度、暴飲暴食がつづくと、て
きめん起きるもので、そうなってしまうと、すぐに布団にはいり、飲まず食わずで三、四日寝つづけて自然に治すことにして
いる。医者にはかからないし、薬もいっさい飲まない。
まず、医者にかからないのは、医者と西洋医学を信頼していないということである。生意気なようだが、現在の医者は専門
分野が細分化しすぎて、視野がせまくなり全体が見えなくなっている。その分、日進月歩の検査技術に頼りきりとなるが、こ
の検査というのがまた血を抜いたり、放射線をあびせたり、食べ物でもないバリウムや胃カメラを飲ませたりと、人を人とも
思わない危険で残酷なことを平気で強要するところが気にいらないのである。それだけでなく、患者が具合のわるいところを
訴えれば、訴えた数だけ対症療法の薬をだすのも、商売とはいえ無責任で能がない。
わたしの考えでは、病気をなおす薬などというものは存在せず、病気は自分自身がなおすものであって、薬はただ症状をお
さえるだけで、なんの効果もなく、逆に副作用でからだをこわすのが関の山である。頭痛や発熱などの症状は、それぞれその
必然性があって起きているもので、それをわざわざ薬でおさえるのは逆効果であるばかりか、神の摂理に反する愚行である。
頭痛は有害物質が脳内に侵入していることに対する警鐘であり、発熱は体内に侵入したウイルスや細菌の活動をおさえるため
の防御反応だから、解熱剤を飲んだり氷枕で熱をさげるのではなく、むしろ暖めなければならない。
というへそまがりな信念にしたがって、病院にも行かず、薬も飲まずにただ寝つづけるわけだが、頭痛と熱を我慢して寝つ
づけることはやはり楽ではない。ふだんなら寝相はいい方なのに、頭痛があるときは輾転反側をくりかえす。熱にも浮かされ
る。その浮かされたなかで、夢うつつのうちに、何かはやく片付けなければならない事態が目のまえにせまってきて、そのく
せちっともはかどらなくていらいらしたりもする。
熱をだしてエネルギーを消費している上に、絶食しているので、もともとすくない皮下脂肪はやがてすべてなくなり、おな
かもぺっちゃんこになる。そして絶食して三日目ごろから、やっと胃腸の活動も徐々に再開し、すこしずつ食欲がでてくる。
そうなってはじめてものを食べはじめるのだが、最初はごくうすいお粥からである。
凍えて凍死しかけている人を、あわてて暖めると逆に死んでしまうように、餓死寸前の人にすぐ普通食を食べさせるのも危
険なのである。最初は重湯からはじめ、徐々に三分粥、五分粥、七分粥、全粥とならしていき、やっと普通のご飯が食べられ
るようになる。
ところが日頃から生意気なにくまれ口ばかりきいているので、病気になっても、家のものはだれも気にしてくれない。部屋
をのぞきにも来なければ、水ももってこない。そろそろお粥が食べたいと思っても、こちらから言わなければいつまでも作っ
てはくれない。病気は飲まず食わずでなおすと日頃から豪語している手前、当然といえば当然であるが、日頃いくら強がりを
いっていても、いったん病気になると、やはり気がよわくなるもので、熱はないか、つめたいお茶はどうだ、なにか食べたい
ものはないか、などと聞いてほしいものである。それなのに、あまりほったらかしにされると、つい「いつまでほっておくつ
もりだ。死んでもほっておくのか」と文句を言ってしまったりする。
家内は、なんと勝手なことを言うものだとあきれ顔をするが、これはやはり今から真剣に考えておかなければならない問題
だろう。この調子でいくと、ほんとうに老後は一人で死ぬことになりかねない。これだけ医者をばかにしているのだから、医
者には当然見放されるだろうし、さらに身内にまで見放されて、いまわのきわにそばにだれもいなければ、文句を言ってもは
じまらない。そしてその可能性はおおいにあるのだから。