母 の 初 な り

 

 数年前から、かぼちゃを栽培するのに、地面をはわさずに、棚を作ってその上をはわせるようにしている。棚でつくる方が

日に日に大きくなる様子が目の当たりに見られて楽しいし、又、地面をはわせた場合は、日当たりの具合で表面の色合いにむ

らができるため、ときどき向きを変えてやる必要があるが、棚の場合はその手間がいらない。

 かぼちゃの苗はそれまで、植えるとすぐに黄色い虫が飛んできて、寄ってたかって食べられ、枯れてしまったり、成長がお

くれたりしてなかなかうまくいかなかったが、昨年から、苗が元気に成長をはじめるまでのしばらくの間、苗のまわりを新聞

紙で囲んでやるようにしたら、虫を寄せつけずうまくいくようになった。それで今年も豊作である。

 先年、母がまだ元気なころ、自作のかぼちゃを一個かかえて帰省したことがあった。母はそのかぼちゃを見るなり、

「それは初なりかね」と訊いた。

 初なりとは、その年の最初に取れたものをいうのだろうが、最初に取れたものは、その年の出来具合や、収穫時期が適切か

どうか等の反省材料としてまず自分が食べてしまうので、もちろん初なりではない。それを母は、

「人に作物をあげる時は初なりでないと失礼になる」

 と言った。もちろん自分に初なりを持ってこいと言っているのではなく、人にあげる時に恥をかかないようにと心配をして

いるのだが、そう言われてみると、仏壇や神前にお供えするのはたいてい初なりである。お陰様でこんなに立派なものが出来

ましたとまずお礼の報告するのだから、やはり初ものでないと具合いがわるいだろう。

 この場合の初なりは初ものという意味だから、もちろんその年にその畑でとれた最初の収穫物ということになるが、もっと

広く考えて、苗一本ごとにその年の最初にできた実を初なりとすると、苗の数だけ初なりが取れる。そういう意味なら母に持

って帰ったかぼちゃも初なりである。

 母は生涯、畑仕事をしたことはなかったが、祖母の方は瀬戸内海のちいさな島の出で、田舎そだちだったものだから、嫁い

で町にでてきてからも、小さな空き地を見つけては畑を作っていた。子供のころ、祖母が家の前の空き地でこしらえたナスを

焼ナスにしてもらって食べたとき、ナスとはこんなに美味しいものだったのかと感動した記憶は今でも覚えている。

 母は畑仕事こそしなかったが、庭で植木や花を育てることは好きだった。いつの頃からか庭に一本の夏みかんの木を植えて、

台所の生ごみや米の研ぎ汁を毎日、肥料がわりにやって丹精をこめていた。そのせいかその木は、背はひくいけれども、初夏

にはたくさんの実をつけた。夏みかんの酸っぱさがほとんどなく、実に甘い夏みかんだった。

 ある年に帰省したとき、たまたまタイミングよく夏みかんが熟れかけた頃で、母はその初なりをもいでジュースにしてくれ

た。それは、砂糖を足したかと思うほど十分に甘く、香りたかいフレッシュジュースだった。そして帰るときにはその皮をマ

ーマレードにしてくれた。

 父が亡くなりひとりになってからの母は、一匹の黒い柴犬の子の成長と、子供たちの手がはなれてから始めた日本画を心の

支えにして元気な老後を送っていた。

 日本画の方は精力的につぎつぎに大作を仕上げ、いろいろな賞をもらい、いつでも展覧会の出品に追われていた。私も初期

の随筆集「そばの香り」と「続・そばの香り」を自費出版するときに、表紙の絵を画いてもらったりした。

 「そばの香り」では、実際のそばの実を送り、それをプランターで栽培して、花が咲きはじめたころをスケッチしてもらい、

また「続・そばの香り」では石臼博士として有名な三輪茂雄先生の「粉の文化史」という本の中のいろいろな石臼の目の模様

を見せ、そこからヒントを得て表紙絵を画いてもらった。その絵は、その後、下関市の展覧会に「石臼紋様」として出品して

賞を獲得した。

 柴犬の方は、一月つまり睦月に家にやってきたということで、ムツという名前がつけられた。ひとり暮らしの寂しさもあり、

かわいがるあまり、最初は外で飼っていたものを、そのうちに夜には玄関に入れてやるようになり、しまいには座敷にあげ一

緒にくらすようになった。そのためかひ弱に育ち、たえず皮膚病を患っていた。しかし母との気持ちの通い合いは濃密で、腹

がへると、一所懸命それらしい声をだして「ごはん」と発音していた。

 父が亡くなって母がひとりになった時、犬を飼うように薦めたのは私や妹だが、今から犬を飼っても多分自分の方が先に死

ぬから犬がかわいそうだと最初はしぶっていた。しかし実際に飼ってみると、先に死んだのはムツの方だった。

 十年以上をともに暮らしたムツに先立たれてからは、母は傍目にも老け込んだようだった。腕が痛い、腰が痛い、目がみえ

にくいと愚痴が多くなり、絵を画くのもかなり大儀そうになってきた。

 そんな状態を見かねて、昨年の春ころ、ドライブを兼ねて阿蘇の温泉に一泊旅行に連れだした。その際、南阿蘇にある日本

国際童謡館は私が前から一度訪ねてみたかった所なので、その機会を利用して母と一緒に訪ねてみた。

 コンサートの時間は過ぎていたが、我々二人だけのために特別にコンサートを開いてくれた。歌手二人とピアニストひとり

からなるいずれも若い女性三人の演奏者に、聴衆が我々二人というコンサートで、しまいには私も舞台に上げられて歌わせら

れた。

 歌は高校時代に男声合唱をやっていたこともあり嫌いではないので、「夏は来ぬ」など二曲ほど歌った。母は今まで私がま

ともに歌うのを聞いたことがなく、「(日頃しゃべる声に比べて)意外に大きな声がでるね」と感心していた。母も歌は好き

な方なので楽しんだようだった。

 南阿蘇の温泉に一泊した帰り道、高速道路を運転していて眠くなりかけたので、パーキングエリアにはいり休憩した。その

とき、私は目覚ましのコーヒーを飲むつもりで車を降りたが、母は車に残るつもりだったのが、急に気がかわって後を追って

きて、駐車場からドライブインに上がる段差でつまづいて転んでしまった。そして運よく近くにいた男性に起こしてもらった

そうだが、そのことを私はあとから知った。

 翌日は手首の打ったあたりが腫れてうずいて、絵を画くのも難儀したが、病院嫌いな母は医者にもいかず我慢していた。し

かしあまりにいつまでも痛みがつづくので、意を決して病院にいってみると、すでにくっつき始めているけれども骨折してい

るということで、「悪くすると、たいへんなことになる所だった」と医者に叱られたそうである。

 それから半年ほど経ったある日の昼下がり、母はひとりで昼食をしていて、突然、激しい腹痛に襲われた。が、なんとか電

話機をとり自分で救急車を呼んだ。

 そのとき運ばれた病院の担当医によれば、胆石があったのを放っておいたため、その小さな石が膵臓の入り口をつぶし、急

性の膵臓炎を起こしたようである。しかしそんなに緊急ではないということで安心していたら、翌日、容態が急変し、医者が

あわてて手術をしたときには既に手遅れで、そのまま意識がもどることなく、半月たらずで亡くなった。八十三歳だった。

 そして先月は初盆だった。私は仕事の都合で帰省することができず、家内に出席してもらったが、そのとき、お供えとして

今年のかぼちゃをひとつ託した。新幹線に乗るのにあまり荷物になってはいけないと思い、いちばん小振りのものを持たせた

ので、もちろん初なりではない。

 母の初盆のお供えが初なりでないということでは、すこし後ろめたい気もしたけれども、ほんとうの初なりはすでに人にあ

げてしまっていた。というのも母の言いつけを忠実に守ってのことなので、この際、母も許してくれるのではないかと思って

いる。

(2000.10.24)