も の の 見 方
私の出た大学では、同窓会が各学科ごとに組織されていて、私の卒業した電気工学科でも、電気系三学科の卒業生が集まっ
て、ひとつの同窓会をつくっている。そしてその同窓会は年に二回、定期的に会報を発行しているが、なにしろ学者や技術屋ば
かりの集まりなので、その内容は固くて、味気ないものが多い。
ところが先日送られてきた会報を見ていると、珍しくヨーロッパ旅行記が出ていた。筆者は七十歳近いある先輩の方で、還暦
を過ぎてから海外旅行を始められ、これで四度目の海外旅行であると書いてあった。期待して読み始めたが、いくら読んでも面
白くならなかった。
それもその筈で、見聞した事実を細大もらさず記録に残そうと、ただそれだけを考えているようで、枚数はいたずらに多い
が、文章のどこにも自分の視点がないのである。「どうして、こうして、ああしました」調の文章で、ある美術館の説明のとこ
ろでは、展示されている作品の名をすべて羅列しているだけで、自分の感想は全く書かれていなかった。子供達に読んで聞かせ
ても、
「ぼくらの作文と変わらんなあ」という感想しか得られなかった。やはり自分の視点でしっかりものを見なければ、単に客観的
事実の羅列だけでは、小学生並みということになる。
これとよく似た話を、十年程前にも聞いたことがある。
今はもう退職されてしまったが、当時、会社の技術局長であったM氏が、何かの機会に私に、次のように言われた。
「技術の人を海外に出張させると、技術的な点だけを詳しく報告してくれる人が多いが、そんなことは資料をとり寄せればいく
らでもわかることで、私がほんとうに見てきて欲しいのはそんなことではなく、会議のすすめ方のうまさとか、そういったもっ
と人間的なことの方なのだが」と。
以上は、ものを見る時、自分なりの視点をもたなければいけないという例であったが、次には、同じ視点からものを見ても、
いかに深く見るかという洞察力の問題がある。
しかしこれは経験が大いにものを言うことであって、年をとればとるほど、同じものを見ても、より深く見ることができるよ
うになる、ということが言える。私のつきあっている方達の中には、七十歳前後の老人が何人かおられるが、何気ない会話の中
にも、ハッとするような深い洞察力が感じられることが多く、よく驚かされる。
先日、近所のご隠居さんと船を出してカレイ釣りをやった時、ご隠居さんが突然、
「ここの底は砂地といっても、黒い土ですね」と言いだした。もちろん底など見えないほど深い所であるし、この質問に私は何
と答えたらよいか、困ってしまった。するとご隠居さんは続けて、
「ここのカレイは、よそより黒っぽいもの」と言った。私も、海底に棲む魚が底の色に合わせて保護色になるということは、知
識として知っていたが、このような見事な応用はできなかったのである。実際、お年寄りと話をしていると、ちょっとしたこと
で、このように教えられることが度々あるので面白い。
しかし年をとれば誰でも、このような深い洞察力が身につくという訳ではなく、若い頃からの心がけ次第で、老後に大きな差
が生じる筈であるから、日頃からのたゆまない修練が重要になってくる。
私は小さい頃、山口県の下関という所にいて、その頃私の母は、ちょっとした買い物をする時、汽車に乗って、北九州の小倉
まで出かけて行った。といっても、そんなことは年に一、二度しかないのであるが、その時にはきまって、兄弟四人のうちで私
ばかり連れていったようである。その理由を母は、
「タカシは同じものを見せても、見方がちがうから」と言っていたが、これは単に母のえこ贔屓の弁解にすぎず、その頃から私
にそんな目が育っていたとは思えない。それどころか不惑を過ぎた現在でもまだ、自分のものの見方の至らなさを痛感する毎日
なのである。