氷 室 そ ば の 誕 生

 

 二年程前から私はそばに凝り始めて、大津の坂本にあるY製粉から、直接そば粉をとり寄せて、自分で打って食べている。そ

ば粉をこねるための木鉢は、はじめから立派なものを買うのも大袈裟なので、しばらくは大きめの金盥で代用することにして、

そのかわり麺棒やそば包丁、まな板などはミナミの道具屋筋で、ちゃんとした物を探してきた。又、のし板はスーパーの日曜大

工用品売場で、九十センチ四方の厚手のベニヤ板を買ってきて、間に合わせた。

 これだけの道具だてで打ったそばを、毎日のように食べていた訳であるが、半年もするともっと欲が出てきて、そばの栽培ま

で自分でやってみたくなった。それと言うのも、私の住む氷室台という所は、大阪府とはいえ京都府にも近く、かなり山深い所

であり、そばの栽培にも適しているのではないかと、かねがね思っていたからである。

 そんなある日のお昼時、近所に住むご隠居さんを呼んで、私の手打ちそばをご馳走した

ことがあった。そのご隠居さんというのは、ある電器メーカーを数年前に定年退職し、現在は山の畑の耕作に精を出すかたわ

ら、好きな釣りにも情熱を燃やす元気な方である。私もよく一緒に釣行することがあるが、残念ながら釣りの腕では、とても歯

がたたない。又、非常に気のいい人で、近所の奥さん達のコンサルタント役にもなり、子供達には特に人気がある。

 ところが一方では、技術屋としての一徹さから、筋の通らないことには徹底的にくいさがって、絶対に後にひかないという所

もあり、そうなると好々爺は一変して、世の中にこれほど厄介な人はいなくなるのである。しかし私も技術屋のひとりであるか

ら、その気持ちはよく理解できるし、その純枠さも魅力のひとつではないかと思っている。

 そのご隠居さんにそばを食べて頂き、ついでにその時に私のそば道具なども一緒に見せて、今度は自分でそばを栽培してみた

いと思っているということを話した。するとご隠居さんは私の意気に感じて、即座に、自分の畑の一部で栽培してあげましょう

ということになった。

 この話が決まったのが昨年の年始め頃のことで、少し暖かくなりしだい畑を耕して、その年の夏そばから始めることになっ

た。そばは春に種を蒔いて夏に収穫する夏そばと、土用に蒔いて秋に収穫する秋そばの二通りがあり、一年に二回収穫できるの

である。種はY製粉で北海道産の玄そばを分けてもらってきた。

 ご隠居さんがひきうけてくれたことで、栽培に関しては一応問題が解決したが、今度はとれたそばを粉にする製粉の問題が生

じてきた。石臼がいるのである。だが今どきどんな石材店に行っても、石臼などは置いていない。特注で作ってもらうとなる

と、べらぼうに高そうだ。

 結局、古道具屋を探すしかないという結論に至り、八方手を尽くして探した末に、伏見のある古道具屋でやっとひとつ見つけ

た。しかしこの臼は石の部分だけで、取っ手も中心の軸もついていなかったので、早速ご隠居さんに相談してみたら、すぐに山

から樫の木を探してきて、取り付けてくれた。又、そば粉をふるい分けるための何種類かのふるいも、ふるい専門店に注文して

作ってもらった。

 これで準備は万全である。あとはそばの実るのを待つばかりである。そうしているうちに最初のそばは、肥料もよくきいてい

た上に、雨もよく降ったので、すくすく育って、何も知らない我々をほっとひと安心させたのであるが、あとから聞いたところ

では、あまり背丈を伸ばさない方が、そばの味が良いということであった。

 今年の夏で三度目の収穫をすませたことになるが、もとは北海道産であっても、粒の大きさその他だんだんに、氷室台という

気候風土に順応したものに変わってきているようなので、このそばを「氷室そば」と名付けることにした。

 味や香りは原産のものと比べても遜色ないようである。しかしなにぶん栽培面積が小さいので、収量はほんのわずかで、ご隠

居さんの所と私の家族で数回食べたらおしまいになる。かかった手間暇から考えると、非常に貴重なものと言わねばならない。

 ところで旨いそばの条件として「三たて」ということが良く言われる。

 これは挽きたて、打ちたて、茄でたてということであるが、氷室そばの場合、取りたてが加わって「四たて」になる訳である

から、旨いのは言うまでもない。私は人からご馳走になるのも好きであるが、人にご馳走するのはもっと好きな方である。だか

らこの氷室そばも多くの人にご馳走して、味を確かめてほしいと思っているが、今の収量ではとてもそういう訳にいかないのが

残念である。しかし、たまたまタイミングよくわが家を訪れた幸運な方に、一杯ご馳走するくらいはなんでもない。