そ ば 粉 の 買 い 出 し 記
大津の坂本にあるY製粉ヘ、そば粉を買いに行ったら、徒業員らしい人がひとりもいなかった。そして黒いスーツを着た二人
の紳士が、新しくできたショーウインドウの前で、ああでもないこうでもないと、一所懸命飾りつけに頭をひねっていた。しば
らく様子を見ていたが、この二人はどうも親会社のS産業の社員のようであった。仕方なくこの二人に尋ねてみると、
「社長さんならそこの事務所におられます」ということで、呼んで来てくれた。そうして出て来たのは、毛糸の帽子をがぶり杖
をついた、よぼよぼのおじいさんであった。
「どちらさん」と聞かれて、名乗っても意味がないように思われたので、さっそく用件を切り出した。
「そば粉を五キロほど欲しいのですけど」
「業務用?家庭用?」
「家庭用です」
「家庭用やったらこれにしときなはれ」と言って、不活性ガス充填の密封パックになった小袋を出してきて、そば粉の酸化しや
すい性質やら、西ドイツ輸人の自動包装機の説明をしてくれた。
「このパック入りがいいことはよくわかりますが、これだと二倍以上の割高になるでしょう。わが家のように毎日そばを食べ
て、毎月かなりの量を消費する所では、とてもこんな勿体ないことはできません。いつもこの紙袋で五キロ送ってもらっていま
す」
「そうでっか。ほな、そうしまひょか」と言って、事務所に入って電話器を取った。
「従業員に詰めさせますわ。従業員もおるんでっせ」
それを聞いてホッとした。この社長じきじきに詰めてもらうには、あまりに痛々しく思われたのである。
社長は電話器に向かって、ひとりの従業員の名前を呼んでいたが、とうとう相手は出なかった。
「ちょっと行ってきますわ」と社長はふたたび杖をとり、通りを渡って、向かいの工場の二階か三階へ上がって行った。しばら
くすると又ひとりで、杖だけ持って帰ってきた。
「従業員はみな出払って、十二時半にならんと戻ってこんようですわ。それまで待ってもらうわけにはいかんし、あの小袋にし
ときなはれ。勉強しときます。二百円でどうだす。これやったら、ばら売りとあんまり違わへん」と言うが早いが、社長は事務
所に入って段ボール箱をひとつ持ってきて、
「この中に十八個入っとる。一個二百円やさかい三干六百円や」
なるほど、一パックニ百グラムで定値四百円が二百円なら悪くない。喜んで、もらうことにした。帰りがけに社長が、
「これは従業員がおらんので特別や。ほんまは誰でも四百円で買うてもろうてますので、誰にも言わんように」と口をもごもご
させていた。
毎回こんなにうまくいくのなら黙っていてもいいが、そうもいかないと思うから、文章に書いた。