そ ば の 値 打 ち

 

 徳島県の吉野川の源流付近に祖谷渓谷という所があって、そこの茶店の老婆の打つそばが、素朴でうまいという話をよく聞く

が、まだ行ってみたことはないし、又今でもその老婆が、元気でそばを打ち続けているかどうかということも、よくわからな

い。

 タレントのうつみ宮土理さんが仕事で祖谷渓に行き、その時食べたそばの味が忘れられないので、いつか主人を連れて行って

食べさせたいということを何かの本に書いていたが、主人とは言うまでもなく愛川欽也氏のことであって、そば好きの上に大食

漢で聞こえた氏のことである、最初の二、三杯までは声も出さずにたいらげてしまい、五杯目位で初めて「うまいなあ」とうな

り、そのまま十杯はいっちゃうことであろうと書いてあったのは、いくら何でも少しオーバーなような気もするが、もしかする

と真実かも知れない。

 又、俳人でしかも食通としてもよく知られた楠本憲吉氏も、講演の仕事で高知へ行かれた時、空港に着くなりタクシーに乗っ

て、台風のなか片道六十キロもある祖谷渓まで走らせて、当時一杯百円であったかけそばをたった一杯食べて帰って来たそうで

あるが、その時のタクシー代が二万円だか三万円だかであったという。

 かけそばが一杯百円というのであるから、もう十年以上も前の話であろう。私もちょっと前に、これ程ではないが似たような

真似を、仕方なくやったことがある。

 昨年の秋、信越方面を旅行した時、戸隠のそばが食べたくて、信越線の黒姫という駅で途中下車をした。この駅から戸隠まで

はバスが通じている筈であったが、駅で降りてみると、バスは十月二十日までで、それ以降は春まで運行休止となっていた。そ

ばが最大目的の旅であるから、簡単に諦めるわけにはいかない。駅前に停車していたタクシーに乗って、戸隠中社まで往復して

もらうことにして、運転手に聞いてみたら、中社まで片道三十分で、そばを食べて、帰りに二、三箇所立ち寄って見物してくる

として、ざっと二時間ほどでしょうということであった。中社にはそば屋が何軒もあるそうであるが、それも運転手に任せるこ

とにした。

 黒姫駅が標高七百メートルで、戸隠に向かっては一路登り坂なので、途中から沿道の紅葉がなくなって、枯枝ばかりになっ

た。

 戸隠神社横の一軒のそば屋に紹介されて入り、ざるそばを注文したら、まず山菜の潰け物が出て来た。他に客はいない。待っ

ている間に、十人程の団体が入って来たかと思うと、注文を聞くより先に、もう奥さんが木鉢に向かってそばをこね始めた。最

初は魔法瓶の湯を入れ、その後は水を少しずつ加えているようであった。

 十分も待たないうちに、少し緑色がかった瑞々しいそばが、まるで櫛ですいたように一本々々揃えて束ねた状態で、ざるに盛

られて出て来た。今までどこでも見たことのない盛りつけ方なので、まず驚いた。薬味はわさびときざみねぎであった。そばは

歯ごたえも風味も素晴らしく、又後味が何とも言えないいほど良かった。私がタクシーでわざわざ食べに行ったせいか、帰りに

は店の人達が見送ってくれた。

 この時のざるそば代が一杯五百円で、タクシー代が八千円であったが、その晩の宿の料理があまりにお粗末であったことを考

えると、その日このそばにめぐり会えたことは、せめてもの救いであって、勿体ないことをしたなどとは毛頭考えていない。