演 奏 に お け る 楽 譜 の 役 割

 

 作家の石原慎太郎氏が、以前何かの本で、次のようなことを書いていた。

 氏がヨーロッパ旅行をされた時、音楽というものは言葉の違いをこえた、世界共通の言語であるということを痛感したが、あ

いにく氏は楽譜が読めず、音楽がわからないので、非常に残念な思いをされたという話である。

 しかしこの説には私は異論がある。楽譜が読めるということと、音楽がわかり楽器が演奏できるということとは、まったく無

関係なことであるように思うのである。楽譜が読めるということは、たとえて言えば、字が読めるということと全く同じことな

のであって、台本に書いてある字が読めるからといって、すぐに立派な役者になれたり、プロのアナウンサ−になれたりする訳

ではない。如何に表現するかという一番大事な問題は、台本には書かれていなくて、それは読む人の感性に、すべてまかされて

いるのである。楽譜でも全く同様である。

 楽譜というものは音楽の、表現ではなく、内容(リズム、メロディー、ハーモニー)を正確に記録し他人に伝達するための記

号にすぎない。しかし音楽は表現がともなわなければ、人の心を打つことはできないのであるから、この記号が解読できただけ

では、音楽がわかったとは言えないのである。ジプシーの演奏するあの楽しい音楽には、楽譜というものがなく、生まれた時か

ら耳だけで教わり、音楽表現に楽譜という媒介が間に存在しないからこそ、かえって生きた音楽がでてくる、ということが言え

るのである。歌舞伎の世界も同様で、生まれたときから台本ではなく耳からたたき込まれて、口真似で覚えていくそうである。

 少し前に流行した右脳左脳論で言うならば、楽譜を記号として解読するのが、言語脳(ふつうは左脳)の仕事なら、それに表

現を与えるのが、音楽脳(ふつうは右脳)の仕事であると言えそうである。言語脳はコンピューターと言い換えることもでき

る。文字や楽譜を記号として解読することは、コンピューターにもできるが、それを生きた音楽として表現することは、コンピ

ューターにはまずできない。コンピューターに、解読した通りに演奏させてみると、リズムや音程はこの上なく正確であって

も、ただの音の羅列であって、音楽としては人の心に訴えないのである。

 又、言語脳は音楽脳に対して優位脳と呼ばれ、言語脳が活動し始めると、音楽脳の活動が抑えられるといわれている。となる

と音楽を演奏する時は、言語脳の刺激となる楽譜を目の前に置かずに、暗譜で演奏する方が良いということになる。そういえ

ば、ピアノやバイオリンを習っている子供達(大人も同様であるが)の演奏を聞いていて、何の表情もない、コンピューターの

ような演奏だなと感じる場合は、まず間違いなく、楽譜にかじりついて弾いていることが多い。又このような人達のほとんど

が、楽譜がなげれば何も弾けないのである。

 楽譜に内蔵されている情報量は、そんなに多くはないのであるから、できれば楽譜は覚えてしまって、暗譜で演奏することが

望ましいといえる。さらに言えば、小さい子供などには、最初から楽譜を見せずに、レコードだけで勉強させる方が、理にかな

っているのではないだろうか。赤ちゃんに言葉を教えるのに、最初から文法書を見せる親はいないはずである。

 弦楽器の奏法に、指で弦をはじくピチカートという奏法がある。オーケストラの曲などで弦楽器全員が一斉に、一発だけピチ

カートを鳴らすという場合がたまにあるが、ピチカートの音はタイミングのずれがよく目立つために、全員でそろえるのはかな

りむつかしいものである。又、オーケストラの奏者は、短い練習時間で大曲を次から次へとこなさなければならないので、当然

楽譜を見ながら演奏せざるをえない。そのためオーケストラ奏者というものは、楽譜を見ながらでも表情豊かに演奏できるよう

に、特別な訓練をうけているのである。このプロの奏者達にとっても、一発だけのピチカートを全員でそろえるのは至難の技で

ある。ところがある練習の時、指揮者が全員に目をつぶらせて、楽譜も指揮棒も見せずに弾かせたところ、一度でピタッと合っ

たことがあった。これなども言語脳の活動が、音楽表現に妨害を与えている良い例ではないだろうか。

 我々、音楽を愛する者は、楽譜至上主義の誤りに陥らないよう、たえず気をつけたいものである。