指 揮 者 の 役 割
昨年の秋、朝日放送が創立三十五周年記念事業のひとつとして、カラヤンとベルリン・フィルを招いて、ザ・シンフォニー・
ホールで演奏会を開いた。その時のことである。
一曲目のモーツァルトの「喜遊曲」は無事に終わり、二曲目のプログラムであるリヒァルト・シュトラウスの交響詩「ドン・
ファン」が、まさに始まろうとしていた。ところが指揮台に上がったカラヤンは、何を勘違いしたか、フォルテの総奏で始まる
はずのスタートを、ゆっくりと静かに振り始めたのである。だから、当然だれもついて来ない。と言うより、その指揮では弾け
ないのである。するとカラヤンは、楽員がだれもついて来ないので、一瞬驚きの表情を見せたが、思い直して、再度同じ調子で
振り始めた。
一方楽員の方は、指揮者が何か勘違いしているのはわかるが、二度も抵抗して音を出さないという訳にもいかず、意を決した
数十人ほどが、指揮者を無視して、プログラム通りの曲を弾き始めた。そのとたんカラヤンは自分のミスに気づいて、額をたた
き、即座に始まったばかりの演奏にストップをかけた。そして照れ臭そうにニタリと笑ってから、あらためて振りなおしたので
ある。巨匠カラヤンにとっては、生涯に一度の大きなミスではなかろうか。
このように、ステージ上での指揮者の仕事は、まず最初に、演奏に起動をかけることである。これは、これから始まる曲のテ
ンポと、最初の音を出すタイミングを明示するための動作であり、ふつうは一動作のみでなされる。勿論この動作を始める前に
は、楽員全員の注意を指揮棒に集中させるための、気迫が必要である。行進曲のように、一旦スタートすればあとは一定のテン
ポで終始するような曲は、この起動さえうまくやれば、あとは指揮者はいなくてもよいようなものである。
演奏会のアンコールによく演奏される「ラデッキー行進曲」で、指揮者が途中で引っこんでしまうという演出は、よく見かけ
るところである。
しかし普通の曲ではそうもいかず、起動をかけた後の指揮者は、休んでいるパートが小節数を勘定しやすいように、拍子の拍
数を明示したり、テンポを変化させるための誘導をしたりしながら、曲のニュアンスを楽員に感じさせるような動きを続けなけ
ればならない。又一方、オーケストラの奏者というものは、間違えて自分だけが人より先に飛び出してしまうことが、一番怖い
のであるから、あるパートが突然目立つパッセージを弾き始めるには、あらかじめそれなりの決意がいる。そのためそういうパ
ートのために、その決意を促す合図を送るということも、指揮者の重要な仕事である。もっともこれを細かくやり過ぎると、一
流のオーケストラなどからは嫌われることもある。そういうオーケストラには、もっと自由に演奏させた方が、良い結果が出る
ことが多いようである。
普通ステージは指揮者にとって晴れの舞台であるが、演奏中の楽員にとって指揮者というものは、要所々々でのみ必要なので
あって、常時そこにいる必要はないのである。
日本のある指揮者で、演奏中に指揮台の上で眺びはねることで育名なYという人がいるが、そのY氏のもとで演奏していたあ
るオーケストラが、ハッと気づいてみると、指揮台の上には指揮者の姿が忽然と消えていた。しばらくしてY氏が、ステージの
下から棒を振リ振りはい上がってきたそうであるが、演奏には何の支障もなかったということである。
概して指揮者のステージ上での仕事は、派手で格好のよいものであるが、実際には指揮者としての仕事の七割までは、ステー
ジに上がるまでに済んでしまっており、ステージ上での格好良さは、つけたりのようなものである。
ではその七割の仕事とは何か。それは限られた練習時間をいかに能率よく使い、オ一ケストラの能力をフルに引き出し、どれ
だけ自分のイメージ通りに演奏させるかということであって、そのためには周到な準備と、手際のよいトレーニングが必要であ
る。ここで準備といっているのはすべて、練習を能率よくすすめるための前準備であって、中でも練習中に楽員からどんな質問
が出ようとも、考え込んでしまったりしないための、スコアの下調べがとりわけ重要である。欲をいえば、スコアをすべて覚え
てしまうことが望ましい。
又各パートのパート譜にすべて目を通して、弦楽器の弓使いなどで練習中に問題が起きないように、あらかじめ自分のイメー
ジ通りに弓使いを統一しておくことも、能率アップに有効である。指揮者やソリストの中には、トランクの中に自分専用のパー
ト譜を詰め込んで、世界中の行く先々のオーケストラに、その譜面で演奏させるという人がかなりいるが、この手を使えば、世
界中どこへ行こうと、言葉が通じようが通じまいが、何も言わなくても自分のイメージの大部分が、自動的に楽員に伝わるので
ある。
その他にも、練習を能率的にすすめるための準備の中には、マイカーでやってきた楽員が練習中に呼び出されて、練習が中断
したりしないように、駐車場の手配をするというようなことまでも含まれる。楽員がひとりでも抜けては、練習にならないから
である。
ある市立のオーケストラで、楽員のかなりが市の職員待遇というオーケストラがあるが、その人達は公務員として有給休暇も
保証されているので、練習はいつも歯抜けで、メンバ−が全員揃うのは本番の日だけということもあるという。こういうオーケ
ストラは、あまりうまくなれないのではないだろうか。
又西ドイツに、チェリビダッケというあまり演奏会をやらない名指揮者がいて、幻の指揮者と呼ばれているが、この人は演奏
会を頼まれると、プロのオーケストラとしてはふつう考えられないような、長時間の練習を要求するそうである。それだけ自分
の芸術に忠実で、妥協を許さない人であろうが、オーケストラにとってはあまり歓迎できない存在で、そのために敬遠されるこ
とが多いそうである。この人の場合は、能率よくトレーニングするなどということは、はじめから念頭にないのであろうが、指
揮者としてはこういう生き方もあるという一例である。
以上の説明では、指揮者の音楽性や棒振りの技術について、意識的に軽くあつかってきたが、本当はそれらが最も重要なこと
であるのは言うまでもない。ただ指揮者の仕事というものは、見た目ほど派手なものではないということが言いたかったのであ
る。