わ た し の 味 覚 開 眼

 

 私は四歳の頃から、高校を卒業するまでのほぼ十五年間を、山口県の下関市で過ごした。その間には戦後の食糧難の時代も含

まれていて、芋の茎を食べたりした記憶などもかすかに覚えているが、特にひもじい思いをした記憶はない。何分小さかったの

で、記憶がうすれているせいもあるが、土地柄、食べ物には恵まれていたのかも知れない。

 下関という所は魚介類の豊豊な所であって、当然味もよかった筈であるが、下関にいた頃の私は、なぜか魚が嫌いであった。

煮魚は特に嫌いであったが、これは母の料理の仕方にも若干の責任があったようである。

 高校を卒業すると同時に下関を離れ、大学の四年問を京都で下宿生活したわけであるが、少ない仕送りに、奨学金と家庭教師

のアルバイト料を加えて、やっと生活できる程度で、大学の四年間というものは、いつも空腹を抱えていた。食べ物の味がどう

こうなどという余裕はまったくなく、私にとっては、食べられれば何でもよかった時代である。学生食堂のコロッケー個の定食

でも、満足していたのである。

 その私が少しずつ味に目覚めてきたのは、大阪に出て就職し、自分の甲斐性で、お金が自由に使えるようになってからであ

る。又、京都の学生食堂に比べると、大阪はどこで何を食べても旨かったせいもある。大阪では、住吉区の墨江という所に下宿

していたが、その下宿の近くにも、お気に入りの寿司屋、中華料理屋、焼き肉屋などがあって、毎日楽しみにして通ったもので

ある。

 そんなある時、休暇で下関の方に何日か帰省した折り、下関にいるひとりの友人と、山陰の川棚温泉という所で、昼間からあ

る旅館に上がり込み、豪遊したことがある。どちらも独身ではあるし、学生時代のアルバイト料とは比べ物にならない程の、多

額の収入を手にし始めて、まだ間もない頃なので、相当に気が大きくなっていたのであろう。しかしこの時の遊びが、私の魚に

対する味覚を、はじめて開眼させてくれたのである。鯛のかぶと煮という、頭のあらだきだった。そして魚とはこんなに旨もの

だったのかと、はじめて知ったその時の驚きは、今でも忘れることができない。

 ところが大阪に戻ってみると、そんな魚がどこにでもある訳ではない。やはり魚は旨くないのである。大阪で鮮度のよい、旨

い魚を食べるには、自分で獲ってくるしかないという結論に達し、それがやがて海釣りを始めるきっかけとなったのである。

 こうして毎日のように、旨いものを飽食するという生活が、結婚してからもずっと続くのだから、そのうち報いがでてきても

当然である。やがて体調の不順を自覚するようになった。腸の調子はたえず不調で、下痢と便秘の繰り返しとなり、頭痛も頻繁

に起きるようになった。又、ちょっとした事でもすぐに疲れてしまい、何をするにもスタミナがなくなってきた。結婚後十年も

すると、体調の不順も頂点に達し、血圧も上がってきて危険な状態となってきたのに、それでもまだこの時点では、原因が飽食

にあるとは気づいてなかったのである。

 そんな時に読んだ一冊の本に刺激されて、思いきって小食療法を始めてみた。朝食は番茶に梅干しをいれた梅肉湯一杯だけ、

昼は幼椎園の園児が持つような小さな弁当箱に、やわらかく炊いた玄米とおかず少々、夜は玄米がゆ一杯と豆腐半丁分の冷奴、

会社でのコーヒーも午後三時に一回限りとした。

 この生活を半月も続けてみたら、体重はあっという間に五キロも減って五十一キロとなり、ガリガリに痩せてしまったが、そ

のかわり体がとても軽くなった感じで、動くことも楽になり、一日中休みなく動きまわっても、ちっとも疲れなくなった。それ

と共に、上記の不快な症状はすべて消えてしまったのである。

 しかしこれだけ小食にすると、一回食事をしても一時間後にはもう腹が減ってしまって、次の食事が待ち遠しくなる。そのか

わり、食べるものの旨さはもう筆舌に尽くしきれないほどで、日ごろ気にも止めなかったものが、世界一の珍味となり、食事の

度に、涙の出るような感激を味わったものである。砂糖を入れないコーヒーの旨さも、この時にはじめて知り、それ以後私は、

コーヒーを飲む時、砂糖を入れなくなった。このようにしてこの小食体験は、私の味覚遍歴の中の一大エポックとなったのであ

る。

 次に開眼したのはそばの味である。私の育った下関という所は、まったくそばには縁のない所で、当然旨いそばなどありよう

がない。そのためこれまでの私は、そばに対して良い印象は持っていなかった。ところがいつか知人に、大津の坂本にある一軒

のそば屋を紹介されたり、信州の山形村のそばに巡り会ったりしているうちに、私のそばに対する先入観は根本から覆されてし

まい、そば嫌いは一転して、そばの虜となったのである。

 ところが魚の場合と同様に、いくら旨いそばが食べたくても、本当に旨いそばなど、そう簡単にどこにでもある訳ではないの

である。仕方なく、これも自作することにして、最初のうちは坂本の製粉工場から、そば粉を取り寄せて打っていた。けれども

やがて、それにもあきたりず、そばの栽培から石臼による製粉まで、自分でやってみたくなった。幸い近所の親しいご隠居さん

が、栽培の方を引き受けてくれたので、この夢も実現し、現在では完全自作のそばを食べている。

 こうして私の味覚も、最も素朴で、最も日本的な食べ物であるそばに到達したことで、いよいよ行きつくところまで来てしま

ったのか、それともこれから、益々奥深い味覚の世界がひらけるのか、更に歳月を待たなければどちらとも言えない。