帽 子
ある日の午後、タ方から出社するために、駅のホームで電車を待っていたら、向かいのホームに入って来た電車に、窓から身
を乗り出すようにしてこちらを見ている、中学生らしい男の子が目についた。あまり印象が良くないので、すぐ目をそらして気
にしないようにしていた。
その電車が向かいのホームに停まるとすぐに、その中学生のいるあたりから小さな声で、「おい」と呼ぶ声が聞こえたが、誰
を呼んでいるのかわからないし、とにかく知らん顔をしていた。二、三回恐る恐る呼んでいたようだが、発車時間がせまってく
ると、もう何を言っても大丈夫と安心したのか、はっきりと「ハゲっ」と言った。さてはやはり私のことかと、そっとそちらを
振り返ると、案の定こちらに向かって言っていた。
はじめてのことで、ショックと怒りは抑えがたいものがあったが、もう電車は発車した後で、追いかけるわけにもいかない。
しばらく腹の虫がおさまらなかったが、涙を飲んで諦めた。もっともこれは一回限りの出来事であるから、諦めもつきやすい
が、こんなことが毎日続くとなると少々問題である。
私の家から駅まで毎日歩いている通勤道のそばに、中学校がひとつあって、その学校をとり巻く金網の柵と私の通る道との間
は、田んぼが一面あるだけである。そして塀から十メートル位離れた所に、鉄筋コンクリート四階建ての校舎が、道に平行して
建っている。その道は遊歩道として整備されているが、通る人はめったにいない。
時候は初春の頃で、そろそろ窓を開けても寒くなくなった頃の、ある日のことである。いつものように朝の八時前頃、その学
校のそばを速足で歩いていたら、四階の教室あたりから小さな声で、「おっさん」と呼ぶ声が聞こえてきた。返事をするのも癪
なので無視していた。すると私が遠ざかるにつれて、声がだんだん大きくなり、しまいには「はげのおっさ−ん」などと言いだ
した。
いくら何でもこれは腹にすえかねた。黙って許しておく訳にはいかない。すぐに職員室に駆け込んで、校長に抗議しようかと
思ったが、この時間では校長はまだ出勤してないかも知れない。たとえ校長がいたとしても、こちらの方にそんな時間の余裕が
ない。それでは会社に着いてから、抗議の電話をするかとも考えたが、これも面倒である。
第一、グラウンドで遊んでいる生徒達の顔を見ていると、わが家の長男と同じような年格好で、皆あどけない表情をしてい
る。こんな子供を相手に本気で怒ったのでは、かえってこちらが大人気ないと笑われそうに思えてきた。それでその日は思いと
どまった。
しかしそれから毎日のように、そういうことが続いたのである。これには私も少しまいってしまった。その道を通るのが憂欝
になった。この不愉快さを避けるには、出勤時間をもう少し早めるとか、コースを変更するという手もないことはないが、そう
いう逃げの手は私の性分に合わない。何とか別の方法で解決したいと思い、思案した挙げ句、よい方法をひとつ思いついた。
その翌日、いつものように校舎のそばを通りかかると、やはり四階の窓から「おっさん」という声がとんできた。それと同時
に、私はそちらを振り向いて、にっこり笑って手を振ってやった。すると先方は絶句して、それ以後、何も言わなくなった。そ
んなことがあって以来私も、逃げの手ではなく予防措置として、出歩く時、帽子をかぶることにした。