プ リ ム ロ ー ズ の 素 顔

 

 三十年近くも前の話になる。

 私が中学生の頃には、バイオリンのジャック・ティボーはすでに亡くなっており、当然、ティボーがチェロのカザルス、ピア

ノのコルトーと共に組んでいた「黄金のトリオ」はもう存在しなかったのだが、そういうトリオがあったということは、音楽の

時間に教わった記憶がある。又それと同時に、当時、世界最高のビオラ弾きは、イギリスのウイリアム・プリムローズであると

いうことも習った。

 しかし当時は今と違って、どこにでもステレオがある訳ではなく、黄金のトリオとはどんな音がするのか、プリムローズのビ

オラとは一体どういうものなのか、聞くことも想像することもできなかった。まして生の演奏で聞くなどということは、下関の

ような片田舎では、夢の又夢であった。

 それでも高校時代に一度だけ、カザルスが下関にやって来たことがあった。しかしこの千載一遇のチャンスを私は、受験勉強

に追われていたのか、それともそれ程の関心がなかったのか、うっかり聞き逃がしてしまったのである。さいわい物理の先生が

聞きに行っていて、後で感想を聞かせてくれたが、

「ガリガリという音ばかり聞こえて、レコードのようないい音がしなかった」ということであった。だがそれは会場の音響が悪

いためと、あまり近くで聞き過ぎたせいで、決してカザルスのせいではない筈である。

 それから十年程して、カザルスが国連で「鳥の歌」を演奏しているところをテレビで見た。その頃のカザルスといえば、すで

に九十四歳の高齢で、演奏技術は確かに衰えを感じさせたが、音楽の心は、依然、聞く者に多大の感銘を与えずにはおかなかっ

た。

 このようにカザルスの演奏の方は、まだその気さえあればレコードやラジオ、テレビなどで、時たま聞く機会はあったようだ

が、プリムローズのビオラとなると、中学時代に名前を教わったきりで、一度もその演奏を聞くことはなかった。

 その理由は、後からわかったのだが、プリムローズは演奏家として比較的早い時期に自信を喪失し、愛器も手放して、演奏活

動をやめてしまっていた事によるようである。

 ところが今から十年程前に、突然、プリムローズの演奏が生で聞けることになった。それにはバイオリンの早期教育で有名

な、才能教育研究会の鈴木鎮一会長の尽力が大きかったと聞いているが、傷心のプリムローズを励まし、再びビオラを持たせ、

日本に招いたのは鈴木会長であったのである。私にとっては実に、二十年ぶりに初めて念願が叶ったことになる。

 間近に見るプリムローズ氏は、大柄で、顔も大きく、その大きな顔に黒縁の眼鏡をかけていた。そして口はいつも苦虫をかみ

つぶしたように、への字に結び、決して笑顔を見せない、怖い老人であった。

 その上演奏を聞いてさらに驚いたことには、肝心のところで音程が決まらずに、時々はずれてしまうのである。後で、聴力が

弱っているせいだと聞いて納得したものの、期待が大きかっただけに、落胆も大きかった。これだけで終わっていれば、私もビ

オラという楽器に、これ程とり憑かれてはいなかったであろうと思うが、実際はこれだけでは済まなかった。運命の日はその数

日後にやってきた。

 私のバイオリンの恩師である高瀬乙慈氏が、突然私に、

「プリムローズ先生が関西の才能教育の指導者を対象に、アンサンブルのレッスンをして下さることになったので、君も参加し

てみないか」と仰しゃったのである。

 もちろん私は指導者などではなく、指導を受けている立場であるが、もともとそういうことには図太い方なので、一人前の指

導者のような顔をしてレッスンに参加した。場所は京都の、京大正門に近いある建物の一室であったが、はっきり覚えてはいな

い。

 その日プリムローズ先生の傍らにはいつも、小柄で若い日本人の奥様が付き添っていて、レッスンの通訳はその奥様がされ

た。

 最初にまず我々の演奏を聞いていただいたように思う。だがその時、何を演奏したか、どの位の時間演奏したかということ

は、まったく思い出せない。

 演奏の後にプリムローズ先生が、「このメンバーは全員鈴木メソッドの指導者ばかりですか」と質問をされ、それに対して誰

かが、

「ひとりだけ指導者でない者がまじっていますが、それ以外はすべて指導者です」と答えたのは覚えている。プリムローズ先生

はそれに軽く頷いただけで、すぐにレッスンを続けられた。

 レッスンはご自分のビオラを弾きながらされたが、その楽器というのは日本製の新しいもので、木曾の方で作られたものであ

るということであった。そしてその後のレッスンは完全に一方的で、我々は音を出す必要もなく、プリムローズ先生の講演会を

聞くといった形で進められた。

 だがこのレッスンの中で先生は、ご自分でこれまで蓄えてこられた秘伝を、すべて惜し気もなくさらけ出しているように思わ

れた。中でも上行の速いスケールを、下げ弓で一弓に弾く時、弦を移る瞬間にほんの一瞬だけ、二本の弦を同時に鳴らしてわざ

と音を濁らせるという奇想天外なやり方は、私などが真似をしてもなかなかその味が出てこないが、プリムローズ先生が手本を

示されると、まるで手品でも見ているように、スケールが滑らかに流れたのが特に印象的であった。

 このレッスンによって初めて私は、バイオリンをやめてビオラに専念しても良いという覚悟が出来たのである。それまで私

は、アンサンブルでよくビオラを弾いたが、気持ちのどこかに、ビオラはバイオリンの下手な者が弾く楽器であるという偏見が

あって、なかなか思い切れなかったのである。だがこの日を境にして完全に迷いがとれてしまった。ビオラにはビオラだけの、

バイオリン弾きが片手間に弾いたのでは出せない深い味があることに気がついたのである。

 プリムローズ先生は又こんなことも言われた。

「ビオラ弾きがバイオリンを弾けば完全に鳴らせるが、バイオリン弾きがビオラを持っても鳴らせるとは限らない」

「アイザック・スターンの肘がもう少し低ければ、もっといい音が出る筈だ」

 レッスンが終わった後、指導者の先生方は、集まったついでに会議をすることになり、そのため私がご夫妻をホテルまでお送

りすることになった。見送りに出た先生方は、私の車が走り出したその後姿を見たとたん、アッと声をあげたそうであった。私

の車の後窓には、初心者マークの双葉が燦然と輝いていたのである。

 そんなことはつゆ知らず、こちらは呑気に、と言いたいところだがやはり非常に緊張していたとみえて、車内で何をしゃべっ

たかまるで覚えていない。

「ひとりだけ指導者でない方が居られると言っていたのは、あなたのことでしたか」

 と言われたひと言が、印象に残っているだけである。ところが無事ホテルに到着して、お別れに交わした握手の力強さとぬく

もりの方は、今でも思い出せる。

 プリムローズ先生はそれから二年後に再び来日されて、関西でもコンサートと公開レッスンが行われた。その時のコンサート

で私は、舞台の真ん前に堂々とマイクを立てて、カセットに録音させていただいたが、現在そのテープは私の大事な宝物のひと

つになっている。

 又その時のプリムローズ先生は、耳の手術もされて、音程は見違える程良くなっていた。公開レッスンの方は、残念ながら聞

きに行けなかったが、後で聞いたところでは、

「本番前にあがらないようでは、大家になれない」などと言われたそうで、それを聞いた私などは、大いに意を強くしたもので

ある。

 又その日はちょうど大相撲をやっていた時で、相撲ファンでもあったプリムローズ先生は、ホテルに帰って早くテレビを見た

いために、レッスンが長びくと、機嫌を悪くされたそうであった。

 それから数年間、消息をまったく聞かなくなったと思ったら、ある日突然NHKのFM放送で、プリムローズ先生の訃報を聞

いた。あるクラシック音楽の番組であったが、番組が始まるや否やアナウンサーが、ビオラのプリムローズ氏が一昨日ニューヨ

ークで亡くなったと告げ、急遽番組を変更して、往年の名演で、プリムローズ先生自身の依頼によってバルトークが作曲したビ

オラ協奏曲を、追悼に放送した。

 この演奏はその年の暮れにも、「今年亡くなった名演奏家特集」という番組で、もう一度聞くことができたが、もちろん二回

ともカセットに録音した。そしてこのテープは、生前に私が生録音したテープと合わせて、わが家のテープライブラリーの中で

も特に大事なものとして、テープ棚高くまつり上げられている。

 今そのテープを聞いていると、あの苦虫をかみつぶしたような怖い顔の奥に、相撲が見たくて駄々をこねる子供っぽさと、気

の弱いはにかみ屋の素顔がちらちら見えるような気がして、懐かしさとともに愛惜の念を禁じえないのである。