老 神 の 板 前 作 詞 家

 

 何年か前に、ひとりで車を運転中、たまたまラジオのスイッチを入れたら、作家の三好京三氏の講演を放送していた。面白か

ったので終わりまで聞いたが、その中で特に興味をひかれたのは、氏がまだ岩手県で小学校の先生をしていた頃の話である。

 ある時、それまで勤めていた学校を転任になり、新しく行った先の学校でPTA主催の歓迎会があった。その席でお酒を飲ん

でいるうちに、まっ先にいい気持ちになり、

「私は今、学校の教師をやっておりますが、昔は歌手になろうと思ったこともある男であります。そういう訳ですから、ここで

旅笠道中を歌います」と言って勝手に歌い始め、続けざまに道中ものを三曲も歌ったそうである。するとPTA会長がつかつか

と氏の傍へやってきて、ついて来るようにと言ったので、てっきり叱られるものと覚悟したが、着いた所は音楽室であった。

 PTA会長はピアノの前に座って、自分が伴奏するから歌いなさいと言った。氏は一瞬訝ったが、面白そうでもあるし、やっ

てみようという気になり、次から次へと曲を指定した。ところがそのPTA会長には弾けない曲などなかったようで、意地にな

った三好氏は、ハワイアンからタンゴに至るまで、思いつくままに範囲を拡げてみたが、やはり無駄であった。

 最後に、レコードにない曲ならと思い、「北上夜曲」をリクエストしてみたが、その曲もPTA会長のレパートリーの範囲内

であった。それどころか歌い方の間違いまで指摘されて、自尊心を傷つけられた三好氏は、頑として会長の言葉を聞き入れなか

った。すると会長はひと言、

「これは私が高校時代、友人の詩に作曲したものです」と言った。これにはさすがの三好氏もしゅんとしてしまったという。そ

のPTA会長とは安藤睦夫さんだったのである。世の中には、どこにこういう人が潜んでいるか知れない。

 先日私は、今年の新そばを求めて、群馬県の老神温泉という所へ行ってみた。その晩泊まった旅館の夕食にも、そばが一皿つ

いていたが、これは機械打ちの乾麺で、しかも伸びきったものだったので、箸をつけなかった。又、案内のパンフレットによれ

ば、この旅館の名物は、四季の山菜天ぷら五十種類ということであったが、出てきたのは四種類ほどの野菜の天ぷらで、しかも

冷めきっていて、油が滴るようなものであった。そばや天ぷらばかりでなくすべてがその調子なので、ほとんど食べずに、早々

にそば屋をさがしに外に出た。

 ところが外に出てみると、そば屋は数軒あったが、みな店じまいした後で、辛うじて寿司屋が一軒あいていた。しかしこんな

山の中に来てまで、寿司を食べる気もしないと思ったが、看板をよく見ると、鰻と寿司とが並べて書かれている。ひょっとして

鰻なら旨いかも知れないと思い、入ってみた。

 店にはカウンターの中に、ひとりの若い板前が立っていて、鰻はできるかと聞いてみたら、今は季節柄やっていないというこ

とであった。どうしようかと一瞬迷ったが、せっかく入ったのであるから、あきらめて寿司を食べることにした。

 他に客はいない。待つ間、店内をひと通り見まわしてみると、壁に一枚のレコードの広告が貼ってあって、そこには横谷信幸

作詞、はりま幸司作曲、本多則子歌「おんな坂」と書いてあった。たしかこの店の屋号は「はりま寿司」であった筈である。

「はりま幸司」と「はりま寿司」、よく似ている。何か因縁があるのではないか。もう一度店内を見まわすと、調理師免許のよ

うなものが壁の一箇所に掛かっていて、その名前が横谷信幸となっていた。そこで、

「この家のどなたかが作られたのですか」と尋ねてみたら、

「私が作詞、作曲したのです」とその板前氏が得意顔で答えた。その途端どんな歌だろうという興味が涌いてきたが、それは口

に出さずに、彼の作詞、作曲という趣味についていろいろ聞いてみると、昔から俳句や短歌をやっていて、その関係で歌謡曲の

作詞を始めたそうで、現在は同人にも所属して勉強しているということであった。バイクで出前をしている最中に、メロディー

と共に歌詞が浮かんできたりするので、いつもメモの用意をしているとも言っていた。

 あまり根ほり葉ほり私が尋ねるので、彼は益々気をよくして、今まで作った百編を越える詩のアルバムや、それに仲間が作曲

した譜面などを持ってきて見せてくれた。もちろんその中には「おんな坂」の歌詞と譜面もあった。なかなか見事なもので、驚

いたり感心したり、まったくこんな山の中でこのような出会いがあろうとは、夢にも思わなかったのであるが、彼の方も、

「これだけ理解してもらえる相手には、めったに会えるものではない。お客さんが鰻はあるかといって入ってきて、無い、です

ぐ帰ってしまえば、それきりになるところでした。全く不思議な縁ですね」としきりに感心していた。

 お互いに話は尽きなかったが、大分遅くなったので寿司代千円を払って、代わりに「おんな坂」のレコードを頂いて帰ってき

た。

 帰りがけに私はひと言、「頑張って下さい」と言い残してきたが、それは彼がこの老神の地でいつまでも、アマチュア作詞家

として光り続けていてもらいたい、という願いをこめた励ましの言葉であって、そのときの私にはそれだけしか言えなかったの

である。