百　�閨@先　生　墓　参　の　記

　十年程前までの私は、自分で思い出しても小憎らしいくらい、傲慢な生き方をしていた。と言うのは、自分はたえず前向きに

生きるのであって、過ぎたことを振り返ることは一切したくないと考えていたのである。これは言いかえれば、反省をしないと

いうことで、反省のない所には人間的な成長もなかった筈で、今思い出すと恥ずかしい。

　そんなある時、会社の出版部から私に原稿依頼が来た。月刊の社報にのせるために、私と同期入社の六人全員に対して、入社

五年目の感慨を書けという訳である。ところが私はそんなことを考えるのはいやだから、頑として応じなかった。そのためその

時の社報には、私の所だけ一行で「何もありません」と印刷されていた。

　するとこれを見て、わが意を得たりと喜んだ人も一部にはいたようだが、顰蹙を買った方が多かったようである。

　しかし実際問題としても、当時の私にはそんな原稿を書くことはできなかった。何故ならその頃の私には、文章を書く習慣な

ど全くなかったし、作文などというものは小学校以来、私の最も苦手とするところであったのである。

　そんな私が、今はせっせと過去を思い出しながら、随筆らしきものを書いている。これはどうしたことかと考えてみると、私

がそれだけ年をとったということも、ひとつの理由だろうが、それ以外にも思い当たることがある。

　私と私の家族は今から九年近く前に、現在の氷室台という不便な所にわざわざ引っ越して来た。それと言うのも、すでに子供

が二人いたし、子供の成長のことを考えると、少々不便でも環境がいい方が良かろうと考えたからである。しかし通勤するため

には、最も近い国鉄の駅まででもバイクで十五分はかかり、電車に乗っている時間が五十分、降りてから会社まで歩いて十分弱

であるから、待ち時間を入れると全行程で一時間半はかかる。

　ところがこの五十分という乗車時間のおかげで、私は読書の喜びを知ることができたのである。と言っても通勤電車の中だけ

であるから、あまり多く読むことはできないが、それでも次から次へと読んでいった。

　最初は論文調のものを好んで読んだが、そのうちに随筆調のものに好みが変わっていった。こうして少しずつでも本を読み始

めた上に、この二年程前からは、駅までの道もバイクをやめて、四十分程かけて歩き始めた。するとどういう訳か、歩いている

間に脳が勝手に働いて、しまい込まれた過去の記憶の中から、いろいろな場面を呼び出してくる。しかもそのいくつかの場面を

適当に組みあわせて、ストーリーを組み上げてしまうようになった。こうなると自然に文章が書きたくなり、こうして少しずつ

文章を書くまね事を始めたという訳である。

　ところで私が文章を書く上で最初に一番大きな影響を受けた作家は、内田百�閧ﾅある。たまたま本屋で、ちょっと面白そうな

ので一冊買って読んだのがやみつきになり、現在旺文社文庫から出ている百�關助M四十冊ばかりを、一年以上かけて全部読んで

しまった。

　私はそれまで内田百�閧ﾆいう作家をまったく知らず、本を読んではじめて知ったような次第であるから、生前の内田百�閧�雑

誌の写真やテレビで見た記憶もない。つい十五年位前まで元気に作家活動をされていたのだから、その気さえあれば写真でお目

にかかる位はできたであろうにと思うと残念である。そういう訳であるから、芸術院会員に推挙された内田百�閧ｪ「いやだか

ら、いやだ」と断わって、川端康成氏を困らせたことなども全く知らなかった。

　このように内田百�閧ﾆ私は一面識もないのであるが、随筆全部を読み終えた今は、作家の幼年期から晩年に至るまで共に生き

て来たような気がして、とても他人とは思えなくなった。その上、その文章からにじみ出てくる魅力的な人柄は、私を捉えては

なさなかった。内田百�閧ﾌ幼な友達であったある実業家は、彼の文章を「実益がない」と評したそうであるが、私はその何の教

訓も含まない文章から、数えきれない程多くのことを学んだ。それで私は内田百�閧ﾌことを、非常に畏れ多いことではあるが、

是非とも百�關謳ｶとお呼びしたいと思っている。したがって以後は勝手にそのように呼ばせていただくことにする。

　前置きが長くなったが、これからがいよいよ本論である。

　そのような訳でしばらく前から、いつか東京に行く機会があれば、中野区上高田という所にある百�關謳ｶの墓前に、お礼に伺

いたいと考えていたところ、たまたま先日上京する用事があったので、念願を果たしてきた。

　用事は昼過ぎにすみ、久し振りの上京であるから旨いそば屋にもまわりたいと思い、前もって二、三軒候捕をあげておいたの

で、まず神田にある第一候補に行ってみた。その店にたどり着いた時はもう二時を過ぎていたが、あいにく臨時休業だったの

で、仕方なく日本橋室町にある第二候補の方にまわった。そして値段は高いが量の少ない天ざるを食べ終わった時には、すでに

三時近くなっていた。

　それから国電で東中野まで行って、そこから徒歩で西武新宿線の中井に向かって、一本道を歩いた。地図によれば、その間の

適当な所で左に入れば良いのであるが、中井駅がどこにあるのかまず見極めなければ、どの辺で左に入って良いのかの見当もつ

かない。そこでまず、中井駅が確認できる所まで真っすぐ行ってみることにしたが、地図で見て予想していたよりは、はるかに

遠いようである。

　いくら歩いても駅らしいものが見えて来ない。そのうちに道がいつの間にか橋になり、線路のようなものを跨いだ。橋の中央

あたりで立ち止まって左を見下ろすと、駅らしい建物があって、それが中井駅であった。これでは少し来すぎてしまったが、今

から引き返すにはあたりが暗くなり過ぎていた。こんなに暗くなってしまっては、はじめての所でお墓を探すのも大変だろう

し、せっかくの記念写真も撮れないだろうと思い、その日はあきらめることにした。

　その晩は上石神井の知人の家に泊めてもらうことにしていたので、墓参は翌朝に再挑戦することにして、中井から電車に乗っ

て上石神井に向かった。

　その翌日も十一月末にしてはめずらしく、小春日和の暖かい日であった。その日は中井駅ではなく、ひと駅上石神井寄りの、

新井薬師前という駅から歩くことにした。駅前の交番で金剛寺を尋ねてみると、地図を調べてくれたが、結局、金剛寺は見当た

らず、同じ番地の所に違う名前の別の寺があって、巡査の言うには、多分何かの都合で、二つの名前を使い分けているのではな

いかということであった。

　変な話だなと思ったが、巡査がそう言うのだから、そんなこともあるのかも知れない。歩いてもそんなに遠くなさそうだし、

とにかく行ってみることにした。途中で花でも買いたかったが、日曜日なのでそんな店はどこも開いていなかった。

　目指す番地に近づくと、急にお寺ばかり密集した所に出てきて、いよいよ金剛寺も間近いという気配がしてきた。そしてその

予感と共に心が躍り出すようであったが、やっとその番地に到着してみると、やはりそこには巡査が教えてくれた通り、違うお

寺があった。

　境内に入ってみても、どうも様子が違うようなので、又外に出て、裏に廻ってみた。するとそこにこじんまりとした、質素な

感じのお寺がもうひとつあって、二本の門柱の一本には曹洞宗金剛寺の表札が掛かり、もう一方の表札には剛山浩義という名前

が書かれていた。たしか百�關謳ｶの本に出てきた教え子の金剛寺住職の名前は剛山正俊であった筈なので、ひょっとしてもう代

が替わったのかも知れない。

　やっと探し当てた喜びにわくわくしながら中に足を踏み入れてみると、きれいに掃除された狭い境内に人影はなく、静まりか

えっていた。人気のない玄関に入ってみると、上がりがまちの所に見なれない電気器具と線香が置いてあって、線香一束五十円

と書いてあった。

　しかし私はたばこを吸わないので、点火するための火を持っていなかった。そこへちょうどこの寺の子供らしい男の子が、自

転車を押して帰ってきたので、マッチを貸してほしいと頼んでみた。するとその子は奥へ入って行き、若いお母さんらしい人を

連れてきた。その女性は親切に火をつけてくれたが、何のことはない、線香のそばに置かれていた得体の知れない電気器具が線

香点火装置であった。

　話を聞いてみると、やはり剛山正俊住職は先年亡くなり、現在はご子息の浩義氏が後を継ぎ、このお母さんはその浩義氏の奥

様であった。私が大阪から百�關謳ｶの墓参に来たことを告げると、今でも命日の毎月二十日には、関西や九州の方からも何人か

の人が墓参に来ることや、誕生日の五月二十九日には百�關謳ｶゆかりの方々が大勢、この金剛寺に集まるということを話してく

れた。ついでにお墓の場所を聞いて、その玄関を出た。

　百�關謳ｶのお墓は、一旦境内の裏木戸を出て、細い路地を横切った所にもうひとつ木戸があって、その木戸を入った所にある

小さな墓地の、その又一番奥にあまり目立たないように建っていた。墓石のそばに「木蓮や塀の外吹く俄風」という自筆の句碑

が建っているのは本で読んで知っていたが、これも思ったより低く目立たないものであった。花も供えられていたがすでに枯れ

ていて、やはり買って来なかったことが悔やまれた。

　墓石の左手前には、四角の石柱をくりぬいて作った名刺受けが立っていたので、私も記念に一枚入れてみた。その後で裏に廻

ってみると、取り出し口が開いたままになっていて、中に入っているのは私の名刺だけであった。べ−クライトのスライド式の

取り出し口がロックせず、手を離すとすぐにすべり落ちてしまうので、来たついでに修理してあげようと思っていろいろやって

みたが無駄であった。

　百�關謳ｶの墓石と並んでその右側には、こい夫人の墓石も建っていたが、名前の所が赤字になっていたので、まだ御健在のこ

とと思われる。

　こうしてやっと念願を達成することができて、ひとまずほっとしたが、それ以上に百�關謳ｶがより近く感じられ始めたこと

は、百�閭tァンのひとりとして、まことに嬉しいことである。