吉 備・播 但 蒸 発 旅 行

 

 私は鈍行列車に乗ったり、各地のそばを食べ歩いたりすることが好きだから、よく旅に出る。その場合は大抵ひとり旅である

が、何週間も前から計画を練り、宿の予約も済ませてから出発するので、一見気楽なようでも、スケジュール通りにしか行動で

きない窮屈さが難点といえば難点であった。何とか一度、風船の糸が切れたように、思い立ったその場で誰にも予告せず、ふら

っと旅にでてみたいという憧れを以前から持っていたが、勤めや家庭のある身ではそう簡単にいかないのも事実である。

 ところが最近それが実行できたのである。しかしいざ実行してみると、会社の方はもともと休みであるから何の心配もないと

しても、家のことがしきりに気になって、スケジュール通りの旅の方がよほど気楽であることがわかった。

 私は今まで書いてきた随筆を会社のワープロを使って整理してきたが、量が増えるにしたがって機械の占領時間も長くなり、

いつまでもそうする訳にはいかなくなってきた。漢字ももっと自由に使える機種が欲しい。会社にある機種では使用できる漢字

にかなりの制限があるのである。しかし私の希望する条件をすべて満たすような機種は、現時点では五十万円前後もするので、

とても買うことはできない。何とか二十万円以下になるまで待とうと考えていた。

 そんな折りも折り、ある朝ふらりと近くの電器店を覗いてみたら、私の欲しいと思っていた機種が特別価格として、許容限度

ぎりぎりの額で出ていた。思わずとびついて、その場で買ってしまった。

 家に帰って梱包を解いているところを家内が見て、とたんにぶつぶつ言い始めた。はじめはいい加減に返事をしていたが、そ

のうちに私が何か気にさわることでも言ったのか、急に逆上して、あっという間に、近くにあった目覚まし時計二個が犠牲にな

った。ぼやぼやしていてはこちらの身も危ないし、もう何を言っても冷静に話のできる状態ではない。君子危うきに近よらず。

その日は夜勤の日であったので、すぐ出社することにして家を出た。

 翌日は昼前に勤務が明け、そのあと二日間の休日が続くのだが、どうしても家に帰る気になれない。そのまま大阪駅まで歩い

て出て、岡山までの切符を買い、姫路行きの新快速に乗った。姫路では三十分ばかり待ち時間があったので、駅の地下におりて

そばを食べた。

 そうして再び岡山行きの普通列車に乗り、終点岡山に着いたのは三時前であった。外は小雨が降り始めていたので、まずは駅

前のビジネスホテルにチェックインした。そして、今日はこのままこの部屋にとじこもるか、それとももう一度外に出てみるか

と考えたが、日暮れまでにはもう少し時間があるし、雨もたいしたことはないようなので、タクシ−で百關謳カの生家があった

という、古京町あたりまで行ってみることにした。

 タクシーの運転手は気のいい人で、私を観光客と見るや、走りながら観光案内を始めた。最初はお城と後楽園の歴史的な説明

に力を入れていたが、私の目的が内田百閧フ生誕地だとわかると、本社に無線で問い合わせたり、その近辺の人に尋ねたり全力

を尽くしてくれたが、誰も正確に知っている人はいないようで、近い所までは行けたが、確かにここだと確認することはできな

かった。しかし随筆を読んで描いていたイメージを、より明確なものに修正することはできた。

 その夜、宿に帰ってからもしきりに家のことが気にかかり、電話をしたかったが、やはり我慢して寝た。

 翌日は一段と冷え込みのきびしい日であった。しかしじっとしているのももったいないので、朝から伯備線に乗って備中高梁

に行ってみることにした。この町は岡山から各停で一時間ばかり北に行った所にあり、古くは松山と呼ばれ、備中の政治、経

済、文化の中心として栄えた町である。そのため古い由緒ある建物などが多く残っており、散策にも適している。粉雪がちらち

らしてとても寒かったが、備中松山城まで歩いて登るつもりで駅前を出発した。

 途中に郷土資科館があったので立ち寄ったが、建物の中よりも外に建っている石碑を読んで驚いた。明治、大正、昭和の三代

にわたってキリスト教の理念と、大自然に直接立ち向かう実践とによって、囚人や不良少年達を導く仕事に生涯を捧げた留岡幸

助という人は、この町の出身であると書いてあった。

 留岡幸助の業績と彼が始めた北海道家庭学校については、最近本で読んだばかりなので知っていたが、この高梁の出身とは知

らなかった。思いがけない所で知人に出会ったような驚きと、懐かしさを覚えた。

 その後、日本のプロテスタント教会としては最も古いと言われている高梁教会を外から眺めて、再びお城に向かって歩き始め

る。しかし道が途中でブルドーザーに占領されて通行止めになっていたので、あきらめて駅に引き返した。

 余った時間で倉敷に戻り、午後は大原美術館を見に行くことにした。倉敷でもまず、駅に近いビジネスホテルに行って、部屋

を予約した。そうしておいて美術館へ向かったが、町を歩いていて感じられたことは、町中が非常に美しく整備されているとい

うことであった。マンホールの蓋にまできれいな絵が書いてある。

 ところがその時突然、私の前を歩いていた男性がマイクを持ったインタビューアーにつかまった。地元のテレビ局の街頭取材

であろう。こんなものに捕まってテレビに顔を出したのでは、せっかくの蒸発の意味がなくなるので、速足でその場を去った。

 大原美術館はホテルから歩いて十分足らずの所で、緑の柳が影を落とす倉敷川のほとりにあった。非常に寒い日であったが、

日曜日のせいか人は多かった。本館には、学校の美術の教科書で見覚えのあるような世界の名画がずらりと揃っていて、日頃絵

画にあまり縁のない私も思わず目をみはってしまった。大原孫三郎という人の見識と財力が、この倉敷という田舎町にこれだけ

の世界の宝を集めたのである。これらの数々の名画に出会えただけでも、私のこの度の蒸発旅行は十分意義があった。

 夜は又出直して、美術館の近くのそば屋にそばを食べに行った。昼間とはうって変わって川沿いの道に人影はなく、川と柳並

木と白壁の建物が、どこまでも続いているばかりで、所々に料亭の灯がともっているのがかえって不気味に感じられ、まさに小

泉八雲の怪談の世界を思わせるものがあった。しかしそばと酒の味はなかなかのもので、それ以上に店の女主人と老婆の応対は

気持ちの良いものであった。

 その夜は宿に帰ってから、思いきって家に電話をしてみた。長男が出てきて、昨夜はどこに泊まったのかとか、いつ帰って来

るのかと心配そうに聞いてきたが、家内がうまく説明しているらしく、思った程の大騒ぎにもなっていないようでひと安心し

た。

 翌日も、もう一日ぶらぶらして、次の日はその足で会社に出ることにし、その代わりその晩は、会社に近い家内の妹の所に泊

めてもらうよう、予め電話で頼んでおいた。

 その日はからりと晴れ上がった気持ちのよい日であったが、冷たさは前日以上であった。まず姫路まで出て、播但線で和田山

まで行き、福知山経由で大阪へ帰るという、まる一日鈍行の旅をしてみることにした。ところが各停を乗り継いで岡山、姫路と

出たのでは、ちょうど良い播但線に間に合わないので、仕方なく岡山、姫路間を新幹線にした。そのお蔭で姫路では銀行に寄っ

たり、お茶を飲んだりする余裕ができた。

 播但線は十一時前に姫路を出た。車内は暖房がよく効いているし、外は風もなくおだやかな日和なので、少しも寒そうに見え

ない。ところがそばを流れている市川をよく見ると、よどみの部分は表面が凍って、ちょうど凍結酒が融けかかったような状態

になっていた。雪も生野を過ぎた辺りから目立つようになり、畑に白いものが増えてきた。

 昼過ぎに和田山に着き、駅弁とワンカップを買って、福知山経由大阪行きに乗り換えた。この列車はよくすいており、利用す

るのは高校生だけのようであった。しかしこの沿線は武田尾あたりの渓流沿いを除いては、何の変哲もない田園風景ばかりで、

どちらかといえば退屈な線である。その退屈な時間を、行儀の悪い男女高校生の罵声や矯声に悩まされながら、薄暗くなった頃

大阪駅に着いた。

 その夜は予約しておいた通り、家内の妹の所に泊めてもらった。わが家の方には妹から、私が今夜こちらに泊まっているこ

と、明日はここから出社して、夜帰る旨を電話してもらった。その時家内からのことずてとして、子供達に対する言い訳だけを

考えておくようにということであった。言い訳としては急な社用による出張という外はないであろう。

 翌日仕事を終えて帰る時、久しぶりに子供達の顔が見られると思うと、いつになく心弾むものがあった。そしてわが家の敷居

をまたいだとたん、家族全員の「お帰りなさい」の声に迎えられて、今までの心配も一度に吹っ飛び、しみじみと幸福感をかみ

しめた。