か た こ と
内田百閧フ随筆を読んでいると、氏と琴の宮城道雄大検校とが「北町区役所前」を「クヤチョウキタクショマエ」とか、「鎌
倉ハム」を「ハマクラカム」などと言いかえては、言葉の遊びを楽しんだということが書いてあるが、これなどは幼児の片言を
意識的に大人の会話に持ち込んで、無意識のストレス緩和をしていたのであろう。
わが家にも子供が三人いて、今では大きくなってそんなことはなくなったが、小さい頃はどの子も一時期、ひとつの単語の、
母音はそのままで子音の場所だけが入れかわった片言をよくしゃべった。たとえば、「枚方市」が「ヒラタカシ」に、「味の
素」が「アジモノト」に、「なまず」が「ナザム」になったりして、すぐに理解できるものもあるが、何のことやらさっぱり解
らないものがあったりという風で、なかなか面白かった。
ただまん中の娘だけは、最初からすこし頼りなく、又一風変わったところがあって、言葉をしゃべり始めてからも独創的な片
言をしゃべった。まず手始めは、「プチコ・プチコ・プチコ」とか、「オダイオ・オダイオ・オダイオディ」というような意味
のないひとり言であったが、まともにしゃべり始めたある冬の夜、寝床に入ると同時に、
「お父さん、ユポカは?」と言った。湯たんぽの催促である。これなどはまったく規則はずれの片言であるが、誰が聞いてもす
ぐに解るもので、娘の独創語の中では特に傑作の部類に属するものである。
この娘にはさらに字を書きだしてから、置き手紙の傑作がある。
ある日、午後から晩にかけて娘ひとりだけに留守番をまかせ、何か困ったことがあったらお隣のおばちゃんの所へ行くよう
に、と一言い残して家を出た。晩ご飯はひとりでも食ベられるように、ばら寿司をこしらえておいた。
用事を済ませて帰宅してみると、娘はいなくて、テーブルの上に紙切れが一枚置いてあった。そこには大きな字で、
「おかあさん かえちゃんはこまりました おかあさん おみそしるをつくってください おかあさん」と書いてあった。これ
までばら寿司の時は必ず何か吸物をつけていたので、寿司はあっても、吸物がなくては食べられないというわけである。それで
困った末に置き手紙を残して、言いつけ通りお隣へあがって、呑気にテレビを見ていたのである。
この頼りない娘も、今では小学校の四年生になり、見違える程しっかりしてきたようだが、忘れてしまうには惜しい名文なの
で、思い出したついでに記しておいた。