若 き 日 の 感 傷

 

 私は高校を出るまでは山口県の下関という所にいて、その下関で私は、中学三年の夏休みが明けると同時に、バイオリンを習

い始めた。先生は坂田哲夫先生といって、東京芸大を卒業したばかりの若くて溌刺とした先生で、高校受験前の中学生が突然バ

イオリンなどを習いにきたので、心配されたそうであった。

 このバイオリンのレッスンは高校二年になるまでずっと続けたが、学校でのクラブ活動は男声合唱をやった。弦楽合奏かオー

ケストラをやりたかったのだが、そういうものは当時の下関の高校には存在しなかったのである。しかし合唱にも楽しみがない

訳ではなく、年に一度の合唱コンクール県予選には、汽車に乗って県内のあちこちに旅行できるし、それよりもっと大きな楽し

みは、コンクールのアトラクションとして、山口高校と山口中央高校の弦楽合奏が聞けることであった。

 たしか高校一年の時だったと思う。山口高校がモーツァルトの「ディベルティメント第一番」を演奏し、山口中央高校がべ−

トーヴェンの「ロマンスヘ長調」を演奏した。ディベルティメントでは初めて聞くなまの弦楽合奏の響きに、身の震えるような

感動をおぼえ、ロマンスでは小柄な女学生の弾くソロの美しさに、呆然と聞き入ってしまった。

 その時には、坂田先生はまだ元気に合唱の指揮をしておられたが、その後しばらくして急に胸を病んで、宇部の療養所で一、

二年療養されることになった。その代わりとして来られたのが、現在バイオリニストとして活躍している石井志都子さんのお母

さんに当たる方であった。

 石井先生に交替してから数ケ月たったある日、先生はひとりの若いアシスタントを連れて来られた。その女性はその年に山口

大学に入学したばかりで、名前は宮野律子さんといった。この女性こそ、以前「ロマンスヘ長調」のソロを弾いていた女子高校

生その人であった。

 それからしばらくの間、この宮野先生にレッスンを受けた訳であるが、大学受験の準備も忙しくなってきて、実際に手ほどき

を受けたのは数回程で、高校二年になると間もなくやめてしまった。わずか数回のレッスンであったが、宮野先生が聞かせてく

れたバイオリンの音色は、鮮烈な印象となっていつまでも私の耳の奥に残った。

 その年の秋も深まって、朝夕はめっきり肌寒く感じられはじめた頃、私の高校のすぐ隣の下関商業高校に通っていたN君が、

放課後ひょっこり私をたずねて来た。N君は私と同い年で、バイオリン教室で知りあった友人であるが、私がやめた後も彼はま

だレッスンを続けていたのである。彼は私に、

「宮野先生が死にました。自殺です」と言った。それにたいして私が何と言ったかは覚えていない。驚きの声も出なかったので

はなかろうか。それから又彼はこんなことも言った。「フランクのバイオリン・ソナタの第三楽章を聞いていると、天上から宮

野先生の声が聞こえるようです」

 その日、家に帰ってひとりになってから、私はこぼれ落ちる涙を抑えることができなかった。又、その何日か後に雨が降った

ら、宮野先生の魂は今頃どこでこの冷たい雨を受けているのであろうかなどと考えて、又涙がこぼれた。

 それから十日程たった日曜日に、私とN君とは打ち合わせて、山口市内にある宮野先生のお宅へ焼香に伺った。

 先生のお宅は、山口線の上山口という駅で降りるのであるが、その時私はうっかりして、車内で切符を紛失してしまってい

た。上山口の駅というのは現在はどうか知らないが、当時は無人駅であって、列車がホームに着くなり、車掌がまっ先に降りて

改札をした。数人の乗降客があったようだが、我々は切符がないので、ホームでもじもじしていると、改札を終わった車掌が我

々のそばにやって来て尋ねた。

「乗るんですか」。我々は黙ったまま首を振った。「では降りるんですか」。この質問にも、もじもじして答えなかった。する

とその車掌はしびれをきらしたのか、我々を残したまま行ってしまった。こうして無事に改札を抜けることができたのである。

 まず駅に近い石井先生のお宅へ先に寄って、道を教えて貰ったように記憶しているが、その時のその季節には、ちょうど沿道

のたんぼの刈り入れも終り、切り株だけが整然と並んでいて、宮野先生のお宅もそんなたんぼに囲まれて、ひっそりと建ってい

た。

 先生のお父さんに迎えられて、家の中に一歩足を踏みいれたとたん、我々はまずびっくりしてしまった。小さな部屋が二間程

あるだけで、しかも床は板のままで畳が敷かれていなかったのである。お父さんは長年炭鉱で働いておられたそうだが、家はと

ても貧しくて、そのため宮野先生は絶えず劣等感に悩まされていたようで、机の前には「自己卑下はやめよう」と自書した紙が

貼ってあった。この言葉は生前の先生からは想像もできなかったことであった。

 弔問に行ったのに仏前にお参りしただけで、満足にお悔やみを言うこともできない無口な我々に、お父さんが親切にいろいろ

話をしてくれ、それにあまえて黙って拝聴するだけで帰ってきた。

 帰りの汽車の中で私は、いずれ大学生になって休暇で下関に帰省するときには、必ず山口に寄って先生の墓参りをしよう、又

この精神的ショックは将来にわたって大きな心の傷として残り、私の精神形成の上にも少なからず影響をおよぼす筈であるか

ら、いつか私が結婚したときには、妻となる人にまずこのことを打ちあけておかねばならない、というようなことを真剣に考え

た。

 それから三十年近い歳月が過ぎたが、そのとき考えたことは、いまだに何ひとつ実行していない自分を見る時、あのときあれ

程までに感傷的になった自分がなつかしい。