振  ら  れ  そ  ば

 

 最近は、そば屋といえども、うどんやラーメンも出す店が多くなった。それだけならまだしも、丼物まで出す店もある。その

方が利潤が上がるからであろうが、そばファンとしては情けない。又、うどん専門店の方も同様に、うどんだけに限らず、そば

も出す場合が多い。しかしそば屋ではそばを注文し、うどん屋ではうどんを食べるのが本筋であり、その方が旨いに決まってい

る。わが家の子供達にも、そのように教えている。

 ところで名古屋という町は、きしめんで有名であるが、そばの方はあまり流行らない所らしい。

 ある時、国語学者の金田一春彦氏が名古屋でそば屋に人り、「天ぷら」と注文したところ、出てきたのは天ぷらうどんであっ

たそうである。それに懲りて、次回にその店に行った時に、「そばの上に天ぷらをのせて来い」と注文したら女店員が、

「お客さんは、そばの上に天ぷらをのせて上がるのですか」と不思議そうに尋ねる。ヤボなことを聞くものだと、撫然として

「そうだ」と答え、江戸っ子ぶりを発揮したつもりでいい気分になっていたら、出てきたのはラーメンの上に天ぷらをのせた食

品だったということである。名古屋という所は、こういった嘘のような本当の話が、実際に起こる所のようである。

 しかしこれは、本人が望んでいたものと違うものが出てきたというだけの話であって、何も出てこないよりはまだましである

ということもできる。私がこれから書こうとしているのは、まさに注文したのに何も食べられなかったという話である。

 中国山地の備後落合という所から、山陰の宍道に抜ける国鉄線で、木次線という延長九十キロ程のローカル線がある。その木

次線のほぼ中間点にあるのが出雲三成という駅であって、その出雲三成駅より更にひと駅備後落合よりに、亀嵩(かめだけ)と

いう珍しい名前の駅がある。

 この駅は、松本清張氏の小説「砂の器」に登場して、一躍有名になったが、最近は又、別の理由でマスコミなどの注目を浴び

ている。と言うのはこの駅、国鉄が民間に委託した駅であって、委託された駅長は駅舎を使って、そば屋を営業しており、あら

かじめ予約をしておけば、列車の通過時間に合わせてそばを打って、ホームまで持ってきてくれるからである。

 私は毎年冬になると、下関にいる高校時代からの友人とふたりで、雪の山陰路を旅行することにしているが、今年はこの亀嵩

駅のそばも、旅程の一部に組み入れた。一部とは言っても、期待は大きく、今回の旅行の最大目的となっていた。

 あらかじめ打ち合わせておいて、朝の八時過ぎに、広島駅でその友人と落ち合った。彼は早朝の新幹線で下関から出てきた

が、私の方はそれでは間に合わないので、前の晩から市内のビジネスホテルに泊まっていた。目指す列車は八時二十八分広島

発、米子行きの急行「ちどり」である。

 日曜日であったが、車内はよく空いていた。窓の外もよく晴れていて、雪はまったく見えない。この分だと期待していた雪

は、今年はだめかも知れないと諦めかけたころ、列車が中国山地に入り、それとともに期待通りの雪景色となった。

 我々ふたりは久しぶりに会ったせいもあるが、いつでも話題にこと欠くことはないので、あっという間に二時間ばかりが過

ぎ、気がついたら備後落合に着いていた。

 亀嵩駅でそばを受け取るためには、ここで降りて次の各停に乗り換えなければならない。又、予約の電話も、ここでしておか

なければならない。次の各停の発車までには、一時間以上の待ち時間があるし、又発車しても、亀嵩駅までは一時間十分ほどか

かる。これだけの余裕をみておけば、今から予約しても十分間に合うはずである。

 亀嵩駅の電話番号を駅員に調べてもらって、相棒が電話を入れたら、主人らしい人が出てきて、はい解りましたと答えたそう

である。ついでに値段を聞いたら、一杯四百円ということであった。

 そうしているうちに、次の各停がホームに入ってきたので、車内で一時問近くを待つことにした。待つことは少しも苦になら

ないが、お互い腹加減の都合もあるので、ホーム売店のおでんとワンカップで、そばまでの繋ぎとすることにした。

 ここのおでんは店番の老婆と同じで、見かけは悪いが、味は悪くない。老婆も愛想は悪いが、人は悪くなかった。というの

は、おでんを買う時、老婆にワンカップを売っている酒屋を尋ねたら、非常にそっけなくて、あまり良い印象を受けなかった

が、われわれが無事にその酒屋を見つけたかどうか、後々まで心配してくれていたことが、おでんのお代わりを買いに行った時

わかった。

 十一時五十六分に備後落合を発車した我々の列車は、白銀の世界の中を一路、亀嵩のそばを目指して走り続けた。駅のホーム

では、どんな格好でそばが待っているのであろうか。想像しただけでも胸が躍る。やがて列車が亀嵩駅に近づくと、窓から身を

乗りだして、ホームの隅から隅まで見渡したが、そばどころか誰の姿も見えない。

 そこで停車するなり相棒がとび出して、駅舎の方に駆けて行った。しかしいつまで待っても帰って来ない。心配になって私も

行ってみようと思い、車掌に事情を話し、少し待ってもらうよう頼んだら、快く、「待ちましょう」と言ってくれた。駅舎に行

ってみると、奥さんらしい人と相棒とが、どちらも浮かぬ顔をして突っ立っていた。

「どうした」と聞いてみると、奥さんらしい人が、

「間に合わないんですけど」と言っただけで、又そのまま突っ立っている。

 何のことかさっぱり解らないが、そばが出来ていないのは確からしい。それさえ解れば、ここで揉めている暇はない。相棒を

促して、車掌に合図しながら、列車に駆け込んだ。車掌は我々がそばを持ってないので、不審に思ったことであろう。

 座席に落ちついてから、あらためて相棒に事情を聞いてみた。相棒の説明を聞いても、やはりよく解らないが、大体こういう

ことらしい。

 彼が駅舎に降りて行った時、そこには誰もいなかった。そば屋になっている店の方にも人影は見えない。そこで大声を出して

呼んだら、やっと例の奥さんが出てきた。

「備後落合からそばをお願いした者ですけど」

「すいません、間に合わないんです」

「はあ?」

「間に合わないんですけど」この奥さんはそれしか言わない。

唖然として返す言葉もなくて、それでふたりとも突っ立っていたという訳である。それ以外はまったく解らない。しかし、解ら

なくても、このままでは気持ちがおさまらない。

「一体、間に合わないとはどういうことだろう」

「要するに、間に合わす気がなかったってことじゃないの」

「そうかも知れんな。それならそれで結構。もう間に合わせていらん。誰が間に合わせてなんかもらうもんか」

 亀嵩駅を離れるにつれて、空腹が一層身に泌みた。