私 の ド イ ツ 語 遍 歴

 

 ある日本の音楽家がドイツに演奏旅行に行った際に、舞台からドイツ語で挨拶したら、それを聞いていた聴衆のひとりが、日

本語もドイツ語に似ているじゃないかと言ったという話がある。これと同じで、立場だけ逆になったのが、十年ばかり前に来日

した巨匠力−ル・べ−ムの場合である。ヨハン・シュトラウスの「常動曲」を指揮していて、その締め括りの挨拶を日本語でひ

と言「いつまでも」と言うつもりで、完全なドイツ語のイントネーションで「ツム・アテーモ」と言ったのである。これなど

は、ドイツ語も日本語に似ているじゃないかと言えるどころか、日本語にも似ていなかった例である。

 こんなことにならないように、私は友人と冬のオーストリアと東欧諸国をまわる話が出てきた時には、出発の一年前から、

NHKラジオのドイツ語講座を聞いて準備を姶めた。むつかしい冗談など話せなくてもいいから、旅行中に必要な会話くらい

は、何とかこちらの意志が相手に通じ、相手の答えが理解できるようになりたいと思ったからである。それで毎朝欠かさず講座

をカセットに録音しておいて、夜それを聞いて勉強するということを、ほぼ一年間続けた。

 私はそれまでに、大学時代に二年間、第二外国語としてドイツ語を履修したが、その当時はドイツ語に格別興味を持っていた

訳でもなく、単位だけはなんとか取れたものの、ア−、ベー、ツェーを覚えている位で、それ以外は何も覚えてはいなかった。

 それでも一年間講座を聞いているうちには、簡単な会話なら、しゃべったり聞きとったりすることが、私にもできそうな気に

なってきた。しかし実際にドイツ人を相手にしゃべった訳ではないので、本当に通じるかどうかは現地に行ってみないとわから

ない。

 その程度のドイツ語力ではあったが、いざ現地に行ってみて、手当たりしだいに道行く人であろうと、タクシーの運転手であ

ろうと、ホテルのボーイであろうと話しかけてみたら、こちらの言うことは問題なく通じることがわかった。ただ相手が早口で

べらべらとやられると、ついていくのに苦労した。とりわけ電話では、話がもつれてしまい、冷汗をかいたことがあった。

 大晦日の夕方にウィーンのホテルにチェック・インし、今頃は日本では年が明けた頃だと思うと、日本にいる家族に電話した

くなった。家内はその時、兵庫県の揖保郡太子町という所に子供を連れて帰省していた。ホテルの部屋から交換に電話して、

「日本にコレクト・コールしたい。番号はこれこれである」と言って頼んだ。すると交換嬢が日本のどこだと言う。そこから話

がややこしくなった。

「兵庫県のイボグンだ」

郡などと言うドイツ語を知らないから、苦しまぎれにイボグンと言ったのである。

「イボグン?それはどこですか?東京ですか?大阪ですか?」

「いや東京でも大阪でもない」

「では何市ですか?」

「そこは市でもないのだ」

 これで相手は完全に混乱したとみえて、ちょっと待てと言って、私の声を交換室のスピーカーに出して、交換嬢全員で耳をす

まして聞き取ろうとしたようであった。しかしどんなに努力してもイボグンがわかる筈がない。

「とにかく番号はこれこれだから、そこにつないでくれ」と言って、やっとつないで貰ったのである。

 困ったことと言えばこの電話くらいで、その外では道を尋ねるのも、タクシーに乗るのも、買い物をするのも、それほど不自

由することはなかった。

 ハンガリーのブタペストで、私が外に散歩に出た間に、相棒が部屋の鍵を持ったまま、鍵をかけて寝てしまった。ぐっすり寝

込んでいるとみえて、ドアをノックした位では起きてこない。困った末、フロントに行って、

「私の同伴者が鍵を持ったまま部屋で寝ているが、私は如何にすべきか?」と聞いてみた。

 多分合鍵でも持ってきて開けてくれるだろうと思ったが、そのフロント氏はあっさりと、「そこに電話があるだろ。その電話

で部屋を呼び出せばいいのさ。たったそれだけのことだよ」と答えた。

 言われてみればもっともであるが、何とも素っ気ない答えであった。けれども私の頼りないドイツ語で、用を足すことができ

たのであるから、文句は言えない。

 この旅行ですっかり自信をつけて帰ってきたせいかどうか、その一、二年後に、私のバイオリンの恩師のご子息がウィーンに

留学することになった時、急遽ドイツ語の特訓を仰せつかった。彼はその時高校を卒業したばかりで、それまでは英語の勉強も

ろくにしていないのを知っていたし、こちらは何しろ自信があるので、大いばりで特訓したのである。

 しかしそれから数年たって、彼がウィーンから恩師であるトーマス・クリスティアン氏を連れて帰国した時、彼とクリスティ

アン氏の会話を聞いていて、私は一度に自信を失ってしまった。早口の会話がそばで聞いていてさっぱり解らないのである。や

はり現地で何年か生活してきた強みには、私がいくらあがいても太刀打ちできないと、残念ながら観念した。

 とは言っても、むざむざ指をくわえて見ている手はない。何とかこれに対抗する手がないかと考えてみるに、全くないことも

ない。ひとつだけある。それは翻訳である。会話や通訳では理解や判断の速さだけが主に要求され、正確さは二の次になるが、

翻訳では速さよりむしろ正確さと、日本語の表現力が問題になる。これなら勉強次第で、ハンディを乗り越えることもできそう

である。

 というわけで今度は、通信教育のドイツ語翻訳に挑戦したのである。商業文、技術関係、学術論文、自然科学、小説、童話と

いったあらゆる分野の文章が、課題として毎週送られてきて、毎日々々、それを辞書と首っぴきで訳しては送り返す、という生

活が一年間続いた。

 添削してくれる先生は数人おられたようだが、その中でNという先生は特に手厳しい批評をされる先生であった。それだけ

に、たまに褒められたりすると嬉しかったものだが、私と同時期に始めた私の上司は、その手厳しさに我慢できず、途中でやめ

てしまった。そして私にこんなことを言った。

「私は腹が立ってしょうがないので、Nに手紙を書いたんだ。私は今までドイツ語がとても好きだったのに、今ではドイツ語を

見るのもいやになってしまった。これはひとえにあなたの所為だとね。でも投函はしなかったよ」

 それを聞いた時私は、自分なら決してそんな手紙は書かないが、もし万一書いたとしたら、必ず投函することだろうと思っ

た。

 こうして一年の課程を無事終了すると、終了証書や合格証書が送られてきて、めでたく翻訳士補となった。しかしそうなって

も状況は何も変わらない。すぐに仕事ができて、お金が儲かるわけでもなく、むしろ本格的な勉強はこれからなのである。

 それより何より、一年間の丁寧な添削指導を受けて痛感したことは、翻訳の勉強とはつまり日本語の勉強であるということで

あった。

日本語が自由自在に扱えないようでは、始まらないのである。私がこうして随筆らしきものを書き始めたのも、単に書きたくな

ったからという理由ばかりでなく、このような経緯も関係しているように思うのである。