『修行の道場』 二〇〇五年五月十六日(月)〜六月一日(水)

 

 

 

 徳島遍路から帰宅して、ほぼひと月がたった。そろそろ次の高知遍路に出たいけれども、五月の連休

 

だけは避けたい。それで世間が落ち着きを取りもどすまで少し待って、五月十六日に出発

 

することにした。前回の徳島では甲浦(かんのうら)まで歩き、そこから列車で帰ったので、今回は甲浦

 

からスタートである。

 

 しかしわが家から甲浦まで行くのにほぼ半日かかる。朝早く甲浦を出発するためには、前の日に甲浦

 

に着いておく必要がある。そのため実際に家を出るのは十五日となる。

 

 前回と同様にJRとバスを乗り継いで徳島駅に向かい、そこでJR牟岐線海部行きに乗る。海部

 

からは阿佐海岸鉄道に乗り換えて甲浦に向かう。その車内でふたりのご婦人と会った。話

 

をしているうちに、私が室戸まで行くのに今夜は甲浦に泊まり、明日は尾崎で泊まり、三日

 

かけるという話をしたら、

 

「まあとんでもない。私たちも用事で今室戸に向かっているところですけど、甲浦で三十分も待てば

 

室戸行きのバスがあります。室戸には安いユースホステルもあります。そんな無駄なことをしないで、

 

ぜひそれにお乗りなさい」

 

 としきりに勧められた。四国にはお接待だけでなく、お節介もあるようなので注意

 

しなければならない。

 

 

 

 五月十六日の朝七時半、甲浦の宿を出発する。チェックアウトのときフロントで、この先に生見

 

(いくみ)という町があって、そこにはコンビニもあると聞いてきたが、最初に見つけた店は閉鎖

 

されていた。しかしここで何か買っておかないとあとは食堂などないかもしれないので、向かいの

 

コインスナックでホットドッグを買う。そしてしばらく歩いたらもう一軒開いているコンビニ

 

があった。あらためて助六を買う。宿のフロント氏はこちらのことを言っていたようだ。

 

 八時半、相間(あいま)トンネルを抜けて野根の町に入る。この町には大師ゆかりの霊場、

 

東洋大師明徳寺がある。高知県安芸郡東洋町にあるから東洋大師なのだろう。八時四十三分に到着

 

する。ひとりの先客が参拝を終えて、立ち去る後姿が見えた。ここには本堂の裏に修行用の滝があり、

 

入口横には野宿遍路のための通夜堂もある。

 

 九時十分、野根大橋を渡る。この橋を渡るとこれから十キロほどは、人家もなく右手は山、左手は

 

太平洋という寂しい道となる。先を歩いていた熟年男性に追いつき、話をしながら一緒に歩く。

 

ちょっと話を聞いただけで、この人の話はどこか医学の専門的でおもしろいことに気づく。

 

「人間は動物です。動物は動く物と書きます。歩いてこそ脳の活動も活発になり、健康に生

 

きられるのです。人間は歩かないとだめです。年をとってから十日も寝込んでごらんなさい、確実に歩

 

けなくなりますよ」

 

 九時三十五分、東洋町の淀ケ磯、通称ゴロゴロ浜の向かいにあるゴロゴロ休憩所で休む。そこには

 

熟年男性の先客がもうひとりいて、この後三人でいっしょに歩きだしたが、ペースといい話

 

といいうまく噛み合わなかったようで、その方はほどなくして先に行かれた。

 

 のんびり話を聞きながら歩いているうちに、あまりにも医学的な話題に詳しいので尋ねてみると、

 

やはりドクターだった。年令は七十四才、広島にお住まいで、今は現役を引退して県の非常勤医師

 

をされている由。名前は今町さんという。東洋医学も勉強されていて、鍼灸のツボにも詳しいように

 

見受けられた。今夜の宿はおなじ尾崎の民宿のようだし、距離はあと十キロすこしで急ぐことはなし、

 

じっくりとドクターIの講義を拝聴することにした。

 

 まずは一般的なところから、熟年に達したら気をつけないといけない男性の病気として、白内障と

 

前立腺肥大の話から始まった。どちらも遅かれ、早かれかならず起きるといってもいい病気で、いかに

 

遅らせるかが問題になる。

 

 まず、白内障については予防のために薄いサングラスをかけること。特にお遍路で一日中外を歩く時

 

などはぜひ必要で、その際色の濃いものは避けること。瞳孔が開くため却って横からの紫外線が入

 

りやすくなる。ついでに皮膚の紫外線対策としては、菅笠はもちろんのことだが、それだけでなく朝の

 

出発前に肌の露出部に日焼け止めのクリームをぬり、さらにビタミンCを飲むこと。これも食後すぐに

 

飲むのが長時間効き目が持続する秘訣だそうである。

 

 前立腺ガンについては、食事の欧米化によってふえてきているが、これは血液の検査だけできわめて

 

簡単に判定できるので、年に一度はかならず受診すること。

 

「あなたは夜、おしっこが近いですか」

 

「いえ、朝までぐっすり寝ます」

 

「それは素晴らしい。それなら今のところ健康体でしょう」

 

 と、問診が始まる。四国遍路にでることを、『四国病院に入院する』という言い方があるようで、

 

今回の高知遍路にでる際にも仲間には、四国病院に再入院してくると言って出てきたが、本当に入院

 

した気分になってきた。

 

 十一時、東洋町から室戸市に入る。しかしここから室戸岬まではまだ二十四キロもある。道路沿いの

 

木陰で休憩する時、ドクターの勧めにより、まず靴を脱ぎ、足を開放してやって血行をよくする。

 

さらに足の裏にマメをつくらないための、足裏のツボのマッサージを教わる。マメは血行不良によって

 

起こる。その意味でも靴下は一枚がよく、二枚履くと逆にごわごわして血行不良

 

になりやすいそうである。ついでに膝下の三里のツボも教わる。昔、祖母がよく、「疲れて歩

 

けなくなっても、三里に灸をすればもう三里歩ける」と言っていた。

 

 祖母といえば、私がまだ生意気ざかりだった頃、学校で習ってきた理屈で祖母

 

をやりこめるといつも、「ヘンジョウコンゴウ言うな」とたしなめられた。それでその頃は、

 

“ヘンジョウコンゴウ”とは“屁理屈”のことだと思っていたが、今、お遍路をしながら私は行く先々

 

で、「南無大師遍照金剛」を唱えている。

 

 十一時五十五分、入木のバス停で休憩して昼食にする。ドクターは弁当を用意

 

していないそうなので、二重に買ってしまったホットドッグと助六を分け合って食べる。ドクター

 

によれば、歩いている時、お茶は少量ずつ小刻みに飲むのがいいが、食事の時はたっぷり飲

 

んでもいいそうである。

 

 午後一時に佐喜浜川を渡り、二時には今夜の宿に着く。向かいは太平洋の荒波が打ち寄せる浜で、

 

たくさんの若者が黒いウエットスーツに身を包んで、サーフィンを楽しんでいる。遠くから見ると、鵜

 

の群れが浮かんでいるようにも見える。彼らは日が暮れてあたりがうす暗くなっても海から上がって来

 

なかった。

 

 今日は宿に早く着いたので、洗濯をして、風呂に入り、ホームページに出す遍路日記を書いても

 

十分、夕食時間の六時までゆっくりすることができた。こうして遍路ドクター同伴の贅沢な一日が終

 

わった。

 

 

 

 翌朝、日の出頃に起きて海を見たら、もう黒い鵜がたくさん海に入っていた。ドクターが日焼け止め

 

クリームとビタミンCを分けてくれたので、クリームを顔と手にぬり、ビタミンCを舐めながら、

 

七時十五分に宿を出発する。室戸岬まではあと十四キロほどだから、昼までには着くだろう。今日は岬

 

にある二十四番最御崎寺(ほつみさきじ)にお参りしたあと、さらに六・五キロ先にある二十五番津照寺

 

(しんしょうじ)に寄り、さらに二・四キロ歩いて二十六番金剛頂寺(こんごうちょうじ)の登り口にある

 

民宿に泊まることにしている。

 

 沿線に店はもちろん家もない寂しい国道五十五号線だが、宿をでて四キロほど行くと椎名港があり、

 

さらにもう四キロほど行くと三津港がある。このあたりから室戸岬にかけて道路脇の民家が徐々

 

にふえてくる。途中二度ほど休憩し、十時四十五分に室戸岬のシンボルともいうべき青年大師像の前に

 

到着した。

 

 この像は昭和五十九年の秋に完成したもので、高さは二十一メートルあり、大師像としては日本最大

 

で、青年像であるということでも日本唯一と言われている。また大師の足元には国道に背を向けて

 

涅槃像が横たわっている。青年大師が難行苦行の末に悟りを開いたといわれる洞窟“御厨人窟

 

(みくろど)”もすぐ近くにある。ここには二つの洞窟があって、ひとつは修行の場で、もうひとつは

 

大師の寝泊りする場だったようである。

 

 御厨人窟をすぎて五百メートルほど行くと、最御崎寺に登る遍路道がある。細くて傾斜のきつい道で

 

周囲は亜熱帯の木や草が生い茂っている。風が通らないので蒸し暑く、息苦しい。目指すお寺は

 

標高百六十五メートルの高台にある。車だと岬の向こう側にまわりこんで、ヘアピンカーブを何度も曲

 

がって登ることになる。

 

 息をきらして二十分ほど登って仁王門に着く。御厨人窟で悟りを開いた大師が唐に渡り、帰朝後、

 

再度ここを訪れ、嵯峨天皇の勅願をうけて伽藍を建立したのがこの寺のはじまりということである。

 

 次の津照寺へは車道を下りた方が近道となる。高台にあるドライブウェイからは近くに室戸港、遠

 

くは室津港から行当岬(ぎょうどうみさき)まで見渡せる。人家も密集している。室戸岬を過ぎると

 

高知県は急に開けてくるようである。甲浦からこちらは鉄道もなかったが、もう三十キロも行けば、

 

高知から土佐くろしお鉄道の後免・奈半利(ごめんなはり)線が来ている。

 

 今日もドクターIの遍路医学講座は続いていて、今日のテーマは『リュックと杖』である。

 

 リュックはまず胸と腰のベルトのしっかりした物を選ぶこと。リュックは肩のベルトで担

 

ぐものではなく、胸と腰でささえるものである。肩だけで担いでいると、疲れやすいだけでなく、肩

 

こりの原因にもなる。そして荷物はなるべくリュックだけにすること。できれば頭陀袋もリュックに入

 

れてしまう方がよい。その際、軽いものから順に入れ、重いものを上にすること。そうすれば急な山道

 

を下るとき、肩の紐をゆるめてリュックの肩の部分をなるべく体から遠ざかるようにすると、重心が後

 

に移動するので前傾姿勢をとりやすくなり、下り坂で滑りにくく、膝をいためることもなく楽に下

 

りられるという。そのためにもリュックはある程度の重さが必要だということになる。さらにリュック

 

は転んだとき頭や体を守る緩衝材にもなるのである。

 

 また金剛杖については、同行二人のお大師様として遍路にとって特に大事なものであるが、一般の

 

山登りなどにも欠かせないもので、ドクターは山に登るときもピッケルではなく金剛杖を持参

 

するそうである。ピッケルは下りのとき短すぎるのと、体重をかけると撓むので使い物にならない。

 

その点、金剛杖はよくできていて、安心して体重をかけることができる。

 

 このように金剛杖は山道ではなくてはならない物だが、ふつうの平地ではない方が歩きやすい。人や

 

車の行き来のない広々とした平地になると、ドクターは杖を腰に差して歩く。その姿はとても七十四才

 

のお年には見えず、矍鑠(かくしゃく)としていて、池波正太郎の小説にでてくる老剣客を思

 

わせるものだった。

 

 最御崎寺から海沿いに六キロほど行くと室津港があり、その山の手に二十五番津照寺がある。この寺

 

のご本尊は大師みずからが彫った延命地蔵だが、これを別名で楫取(かじとり)地蔵といい、海で働く人

 

たちの厚い信仰を集めているという。

 

 この寺では納経をしてもらうと、誰でもひとくさり住職のお説教を聞かされる。

 

「念のために言っておきますが、この納経帳は一番が作った物ですから、八十八番が済んだら最後

 

にもう一度一番に報告参りをするように書いてあります。しかしその必要はないですよ。お礼参りは

 

直接高野山に行けばいいんです。これはお賽銭の二重取りです」

 

 と熱っぽく言われるが、聞く方としてはあまり感じのいいものではない。

 

 今日はお寺を二ヶ所、距離にして二十四キロほど歩き、午後四時に金剛頂寺の登り口にある民宿に着

 

く。ドクターが早速、足の三里に小さな鍼を打ってくれた。もともと足はあまり疲れない方だが、

 

これで明日からますます軽く歩けることだろう。

 

 ドクターは今回で三度目の四国遍路で、今回は高知までで一旦区切り、広島に帰られるそうである。

 

私の方は県境に近い宿毛(すくも)を今回の最終目的地と考えている。それで高知まではお互いに一緒に

 

歩くつもりになっているが、その先宿毛までをどういうペースで歩くか、どこの宿に泊

 

まるかということはまだ考えていない。そこでドクターが夕食後に部屋へ来られて、今までの経験

 

によるペース配分からお奨めの宿まで詳しい情報を教えてくれた。

 

 

 

 高知遍路三日目は朝から曇り空で、午後からは雨の予報がでている。七時五分、宿を出発する。今日

 

はこれから標高百六十五メートルの金剛頂寺(こんごうちょうじ)まで登り、そのあと海岸線を二十四

 

キロほど歩いて、二十七番神峰寺(こうのみねじ)の麓まで行き、近くの民宿に泊まる予定である。

 

 出発するときドクターがガムを一枚くれた。これをなるべく長時間噛めば脳の活性化にもなるし、

 

唾液をたっぷり出すことで消化を助ける作用もあるそうである。ガムを噛みながら、七時半に金剛頂寺

 

に着く。ここの仁王門にはなぜか二つの大きなわらじが祀ってあった。何か意味があるのだろう。早朝

 

にもかかわらず団体バスが次々にやって来る。

 

 つぎの二十七番神峰寺(こうのみねじ)に向かって遍路道を下り、八時三十五分、国道に下りつく。空

 

はますます曇ってきた。国道を七キロばかり行った所に良心市があり、トマトの無人販売をしていた。

 

いい色に熟れていて美味しそうである。買おうかどうしようかと迷っていたら一人の女性が現れて

 

全部買ってしまった。しかしその女性はそのうちの一袋をお接待してくれた。

 

 十時四十五分、道路脇にあるドライブイン喫茶の前で、ドクターが伺うように聞いてきた。

 

「惹かれませんか」

 

「惹かれます」

 

 というわけで即座にコーヒーを飲みに入ることになった。今までも二、三軒入りたいなと思う喫茶店

 

があったようだが、声をかけていいものかどうか迷っていたそうである。ドクターはふだんコーヒーに

 

砂糖を入れないが、今日はすこし入れた。

 

「脳の栄養はブドウ糖だけです。朝の十時と午後の三時頃に甘いものをちょっと食べると、脳の活性化

 

にいいのです。甘いものが体に入ってくると、すぐに報告が脳に行き、脳は肝臓に蓄えているブドウ糖

 

を放出するよう指令をだす。これが脳の栄養となって、脳が生き返るのです」

 

 十一時二十分、羽根川を渡り羽根の町に入った頃にいよいよ雨が降りだした。予報よりすこし早

 

いようである。民家の軒下をかりてポンチョを着る。雨脚は強まる一方なので、十二時前に羽根岬の

 

駐車場でポンチョのズボンもはく。

 

 十二時十五分、室戸市から奈半利町に入る。そろそろお昼にしたいが、この辺りには店らしいものが

 

一軒も見当たらない。強い雨の国道をひたすら歩いて、午後一時にやっと一軒のドライブインにたどり

 

着く。ポンチョを着ていても、雨と汗で全身びっしょりである。靴の中はもちろん、リュックや頭陀袋

 

の中まで湿ってきていた。

 

 ドライブインを出て小一時間ほどで奈半利の町中に入る。二時半、奈半利川を渡り、二時四十五分、

 

道の駅“田野駅屋”で休憩する。おやつに栗まんじゅうを食べたら、雨の中の強行軍ですこし疲

 

れぎみだったドクターが元気を取りもどした。もう一時間元気に歩いて、四時に神峰寺の登り口にある

 

民宿に着く。

 

 早速、濡れた靴には新聞紙をつめ、衣類は水洗いして部屋に干す。宿は人気が高いようで、次々にお

 

客がやって来る。歩き遍路とマイカー遍路が半々のようである。十人ほどが大部屋に集まって、

 

にぎやかに夕食をいただく。元気のいいおじいさんがいて、

 

「もう四十年も前からお遍路をしているが、若い頃は靴を買う金もなくて、裸足でまわったもんだ」 

 

という。しかし今は車でまわられている。

 

 

 

 朝には雨がやむ。空はまだ曇っているがこれから天気は回復する方向で、もう降る心配はない。早朝

 

に車で出発するおじいさんが、出発前に宿の玄関前に立ち、一通りのお経だけでなく、「家内安全、

 

商売繁盛」まで祈願して出発していった。

 

 宿から神峰寺までは距離にして三・五キロ、高度にして四百三十メートルほど山を登

 

らなければならない。しかも登山道は一本だけなので、同じ道をもどって来ることになる。

 

ということで荷物を宿に置いて、六時四十五分、登山を開始する。

 

 荷物が軽いので登山も楽である。雨上がりで風もなく、蒸し暑いけれども、汗で流れ出た水分を補充

 

する飲み水は途中にいくらでも湧いている。ホトトギスとハルゼミの初音を聞きながら、八時五分に

 

仁王門に到着する。ここから本堂まではさらに百五十段の石段を登らなければならない。石段沿いには

 

見事な日本庭園が整備されている。また、鐘楼の裏手には霊水、神峰(こうのみね)の水が滾々と湧き出

 

ている。

 

 ほとんどすべての参拝者が本堂と大師堂のお参りだけで下りて行くようだが、我々は昨夜の宿まで戻

 

れば、あとは今夜泊まる予定の安芸市の宿まで十キロ足らずしかないので、もっと上の神峰神社

 

とさらに標高五百七十メートルの山頂に作られている“空海の展望塔”まで登ることにした。

 

 大師堂の横からさらに山道を登ろうとした所でひとりの男性と会う。このお寺の境内から裏山

 

まですべてを任されている山番のおじさんのようで、我々がさらに上まで登るという話をしたら、申し

 

訳なさそうに、

 

「そういう方が少ないので、道の手入れができていないのです。草が茂って歩

 

きにくいかもしれませんが、気をつけて行ってきてください」

 

 という。雨上がりで道が湿っぽいのと、伸びた草でたしかに歩きにくいが、十分ほどで神社に着く。

 

人ひとりいない寂れた神社である。ここでドクターが小銭入れをなくしたことに気づく。中には小銭

 

だけでなく、家の鍵とお接待でもらったお守り袋が入っているので、何としても探し出したいという。

 

たぶんお寺のどこかに置き忘れたのだろうから帰りに寄ることにして、さらに上を目指そうとしたら、

 

車道に軽トラックが止まっていて、さっきのおじさんが手に鎌を持って待っていた。我々がぶじに神社

 

に着いたか、道は大丈夫か先回りして調べていたようである。お礼のついでに小銭入れの件も伝えて、

 

もし見つかれば保管しておいてほしいとお願いした。

 

 さらに十分ほど登って頂上の展望塔に着く。高さ二十メートルくらいの鉄筋コンクリートの塔

 

である。晴れていれば室戸岬から足摺岬まで見渡せるそうだが、今日は雨上がりの霞のために、見晴

 

らしがきかなかった。

 

 お寺まで下りると、おじさんが待っていた。バイクで境内をくまなく探したが見

 

つからなかったようである。しかし今までの誠意あふれる対応に心からの感謝をこめて握手をして別

 

れる。

 

 帰りも登ってきた道を下るのだが、遍路道は車道を縫うようにほぼまっすぐに下っている。何度目

 

かに車道と交差したとき、そこにおじさんの軽トラックが待っていて、冷たいビン入りのジュースをお

 

接待してくれた。これからこのすこし下の方に作業にでかける途中なので、車を遍路道と交差する所

 

にとめておくから、あきビンはそこに置いておくようにと言って下りていった。ジュースは馬路村農協

 

が出しているゆずのジュースで、乾いた喉にはたまらない美味しさだった。

 

 十時五十分、宿に帰り着く。もう五十年以上民宿をつづけてきて、年はとうに八十を越

 

えたというおかみさんから冷たいお茶を一杯いただいて、十一時五分に出発する。十一時二十四分、

 

安田町から安芸市に入る。空はだんだん晴れて、暑くなってきた。小銭入れをなくしたドクター

 

はしょげかえっている。運のよくない時はかさなるもので、今日は途中で昼食に寄った食堂も、喫茶店

 

もはずれだった。

 

 暑い日差しのなか、元気なく歩き続け、三時五分に安芸川を渡り、安芸の町に入る。そして

 

三時二十分、ビジネスホテルにチェックインした。安芸は近くに野球場もあり、毎年阪神タイガースの

 

キャンプ地となっている。ホテル内にもタイガースのポスターやグッズがちらほら目についた。

 

 

 

 朝食は前日のうちに買っておいたパンと牛乳ですませて、七時に宿を出たが、球場の近くに喫茶店

 

があったのでコーヒーを飲みなおす。今日は朝から二十五キロほど歩いて、夕方に二十八番大日寺に着

 

き、お参りしたのち門前の民宿で泊まる予定である。

 

 安芸球場の向かいが漁港になっていて、港を過ぎると海岸線は琴ケ浜と呼ばれる延々十キロほど続く

 

砂浜になる。この琴ケ浜と国道の間にりっぱな自転車専用道があり、お遍路はこの道を歩

 

くことになる。自転車はほとんど走っていないので、お遍路専用道と言ってもいい道である。ずっと松

 

の並木が続き、静かで適当に木陰にもなっていて、なんとも気持ちのいい道である。

 

 八時四十五分、途中の八流山極楽寺という小さなお寺に寄って、お参りして行く。当主は急用で留守

 

にしていて、犬たちだけが元気に留守番をしていた。九時二十分、海の見える高台にある赤野休憩所で

 

休む。高知出身の作曲家で、童謡の『浜千鳥』や『叱られて』で有名な弘田龍太郎の碑がそばに建

 

っていた。

 

 また十分ほど行くと今度は道のそばに無人の小屋があって、入口に『いらっしゃいませ 粗末な小屋

 

ですがゆっくり休んでいてください 英子』と書いてあったので、中に入ってインスタント・コーヒー

 

をいただく。広い小屋で、壁には一面ほのぼのとした絵が貼ってあり、すべての絵にひとこと心にしみ

 

込むような教訓が書かれていた。たぶん英子さんが書かれたものだろう。

 

 十時十五分、はるか浜の向うの方で、なにやら人だかりがしている。観光の地引網

 

でもしているのかと思ったが、近づいてみるとそうでもなさそうだった。大勢の人の中に、カメラが

 

一台据えられて、その周りに銀色のレフ板を持った人や、ブームマイクを掲げた人

 

がうろうろしている。どうやら映画かテレビのロケのようだった。

 

 十時五十分、後免・奈半利線の西分(にしぶん)駅前を通過するとそろそろ自転車道も終りである。

 

砂浜がなくなって海岸線もごつごつしてくる。そのためここから三キロほどは道路も内陸部を通

 

っている。十二時十五分、ふたたび海辺にでた所に海水浴場の海の家風の小さな食堂があったので入

 

って昼食にする。外のテーブルで食べた焼飯がとても美味しかった。

 

 一時半、香我美(かがみ)駅前を通過する。二十八番大日寺はここから内陸部に向かって六キロほど入

 

った所にある。さらに六キロほど行けば、鍾乳洞で有名な龍河洞もある。二時四十五分、高知黒潮

 

ホテルのそばを通ったとき、玄関横に足湯があったので寄って行く。そこにはひとりの先客がいた。

 

信州松本の人で、定年退職を機にひとりで旅にでて、車で寝起きしながら四国

 

をまわっているそうである。あちこちで歩き遍路を見かけ驚いているが、その気持ちは解らないと言

 

っていた。

 

 三時四十五分、大日寺に着く。もう時間が遅いせいか参拝者はほとんど居ずひっそりとしている。

 

この寺は慶長年間以降、土佐藩の祈願寺として繁栄を極めたものの、明治四年の廃仏毀釈によって廃寺

 

となったが、明治十七年に再興されるまでの間も地元の人たちによって守られ続けたそうである。

 

 四時十二分、門前の民宿に入る。若い夫婦が経営する新しい宿である。浴室の脱衣所には救急箱

 

があり、ありとあらゆる薬が常備されていて、使用した人は代金を貯金箱に投入すればいいという気の

 

利いたシステムになっていた。

 

 部屋に入るとまずドクターの教え通りに疲れた足の筋肉のストレッチをする。

 

これをしっかりしておくと筋肉中の疲労物質の分解が促進される。そして夕食時にたっぷり水分を補給

 

すること。もし疲労物質を蓄えたまま寝ると、夜中に筋肉がひきつって苦しむことがあるそうである。

 

 夕食の時、なにげなくテレビのローカルニュースを見ていたら、この秋に封切される映画『MAZE

 

南風』の撮影が琴ケ浜で順調にすすんでいるといって、そのロケ風景を見せていた。まさに我々が見

 

てきた光景だった。

 

 

 

 ドクターIとの同行二人もいよいよ今日が最後である。朝宿を出たら、七・五キロ歩いてまず

 

二十九番国分寺に、さらに七キロ歩いて三十番善楽寺にお参りし、その後さらに六キロ歩いて高知駅に

 

午後三時ころに着き、四時の高速バスでドクターは広島に帰られる予定である。

 

 七時五分、宿を出る。空は晴れて、適度にそよ風もあり、気持ちの良い日和である。物部川を渡

 

ると、あとは田圃のあぜ道のような道ばかりを三キロほど歩く。ドクターが、JR土讃線の踏切を越

 

えたらすぐに名物の“へんろ石饅頭”があると教えてくれたので楽しみにしていたが、臨時休業

 

だった。

 

 九時十分、代わりにすぐ近くのしゃれた喫茶店に入る。コーヒーを注文してドクターはトイレに立

 

たれたが、店内をよく見ると手作りのケーキを置いているので、独断でケーキセットに切り替えた。戻

 

ってきたドクターは、

 

「私もそれを考えていたところです。五日間、講義をしてきた甲斐がありました。もう免許皆伝

 

ですね」といって喜ばれた。

 

 十時五分、国分寺に着く。この寺は土佐日記の作者、紀貫之が国司として四年間滞在

 

したこともあるそうで、杉並木の参道や境内の庭園も美しく、すこしゆっくりしたい気分だが、土曜日

 

のせいか団体が次々にやってきて落ち着かない。十時二十五分に出発する。

 

 笠の川川を渡り、高知大医学部前を通り、十一時三十五分、第五号遍路小屋『蒲原』で休憩

 

していたら、この小屋を作った近くの会社の社長さんが車で通りかかり、しばらくおしゃべりをして行

 

く。

 

「遍路をしたくても自分ではとても歩く自信がないので、お接待する方で行こうとこの小屋を作

 

りました」

 

 という。このような番号つきの遍路小屋が四国中にいくつかあるが、数字がばらばらなので、

 

遍路道保存協力会に登録した順番かもしれない。

 

 十二時十分、逢坂峠を越えて、南国市から高知市に入り、十二時半、三十番善楽寺に着く。この寺は

 

土佐一の宮と呼ばれる土佐神社の別当寺として栄えていたが、明治初期の神仏分離令によって廃寺

 

となり、一時的に本尊を国分寺に預ける。その後安楽寺が先に再興したので本尊を安楽寺に移し

 

三十番札所としたために、善楽寺が復興したときは三十番がふたつ存在することになり、善楽寺を

 

『開創霊場』、安楽寺を『本尊安置の寺』として共存する状態がながらく続く。そして平成六年

 

になってやっと、善楽寺が三十番札所、安楽寺が三十番札所の奥の院として決着がついたそうである。

 

 隣の土佐神社も参拝し、一時に出発して、県道三百八十四号線を高知駅に向かう。空がだんだん曇

 

ってきた。途中の食堂で昼食をとり、二時に店を出た時には雨がぽつぽつしてきたが、本降

 

りにはならずすぐにやむ。そして予定通り三時前に駅前のビジネスホテルに着いた。

 

 六日間行動を共にし、単に楽しかったというだけでなく、遍路にとって有益な数々の医学情報を教

 

わったドクターIと、ロビーで最後のコーヒーを飲んで名残を惜しむ。ドクターは自称『人付き合いの

 

悪い方』で、今まで遍路中に知り合った人と行動を共にしたのはせいぜい一日で、六日間も一緒に歩

 

いたのは初めてだそうである。たまたま気が合っただけの話なのか、ひょっとするとお大師様に導

 

かれたなにかの縁なのかもしれない。

 

 駅まで見送りをしたが、あえてバスの発車を待たずにお別れした。駅前の陸橋の上で立ちどまり、

 

広島行きのバス乗り場をふり返ると、まだバスは入っていなくて、こちらを見送っているドクターの姿

 

があった。

 

 

 

 夜半から降りだした雨が、朝起きたときは本降りになっていた。歩いている途中から降

 

りだしたのなら観念するが、出発前から降っていては意気阻喪してしまう。今日はもうドクター

 

もいない。日曜日である。一日遍路を休んでも誰にも迷惑はかからない。いろいろと自分なりの理由

 

をつけて、高知滞在を決める。

 

 そうと決まれば時間はたっぷりある。なにも慌てることはない。することと言えば、本来

 

とばすつもりだった三十番善楽寺の奥の院である安楽寺にお参りすることと、高知城を見ることと、

 

初日の宿に忘れてきた携帯電話の充電用ACアダプターを探すことくらいである。携帯電話の専門店は

 

大きな町にしかないので、ちょうどいい機会である。

 

 朝食後ゆっくりして、十時前にフロントで傘を借りて外にでる。まず安楽寺を目指す。駅前を西

 

にまっすぐ一キロほど行った住宅街の一角にひっそりとその寺はあった。石の門柱には

 

『四国第三十番霊場』と書いてある。四国の札所は概して広大な敷地を有するお寺が多い中で、善楽寺

 

と安楽寺はこじんまりとしている。境内には一人だけ白衣を着た男性がお参りしていた。

 

 安楽寺のつぎは高知城を目指す。高知の町はそれほど大きくないので歩いても知れている。南に向

 

かってお城の追手筋まで出たら、通りの端から端までずらりとテントが並んで露店が出ていた。有名な

 

高知の日曜市である。地元のこの時期の産物がほとんど並んでいて、時節柄、破竹や小夏が目

 

についた。

 

 テントに沿って物色しながらお城に向かっていたら、道路沿いに昔ながらの大きな市場があり、

 

しかも入口ちかくには携帯電話の店があった。早速、飛び込んで聞いてみると、ACアダプターは在庫

 

がなく取り寄せになるが、機種変更ならすぐに、といっても登録とデータのコピーで一時間半

 

ほどかかるが、その程度でできるという。機種変更すればもちろん新品に替わるのだからAC

 

アダプターもついてくる。取り寄せを待つ余裕はないので、機種変更することにした。

 

 待つ間にお城まで足をのばす。だが天守閣の上まで登るつもりはなく、城門を入り天守閣を下から

 

見上げただけで出てきて、近くの喫茶店で昼食にする。帰りに新しい携帯電話を受け取って、宿に戻

 

ったらまだ午後の二時前だった。これで今日の予定はすべて終了である。夕方には雨がやんできた。

 

明日はもう大丈夫だろう。

 

 

 

 朝の時間をかせぐために高知駅の喫茶店で朝食をとり、六時五十分に出発する。雨は完全

 

にあがっている。高知駅は遍路コースからはずれているので、まず遍路コースに戻

 

らなければならないが、地図が不明瞭で戻り道がよく解らない。土佐電鉄後免線の『文殊通』電停まで

 

行けばあとは遍路コースなので、とりあえず確実な方法として路面電車の線路に沿って、後免に向

 

かって歩くことにする。

 

 はりまや橋まで出て左折すると、国道三十二号線で、後免行きの路面電車もこの国道沿いに走

 

っている。日が高くなるにつれて暑くなってきた。七時四十分、文殊通の電停に着く。四つ角で地図を

 

確認していたら、ひとりのご婦人が通りかかり、

 

「竹林寺ならこちらですよ。その先の橋を渡って左に行くと右手に酒屋さんがありますから、そこから

 

登れますよ」

 

 と教えてくれた。今日はここからまず二・三キロ先の三十一番竹林寺(ちくりんじ)にお参りし、

 

つづいて五・七キロ先の三十二番禅師峰寺(ぜんじぶじ)に、さらに七・五キロ歩いて三十三番雪蹊寺

 

(せっけいじ)まで行く予定である。

 

 土居酒店の横に遍路道のマークがあり山に登るようになっている。人ひとりがやっと通れるほどの細

 

い山道を登りつめて、八時八分に山頂に着く。そこは山一面が植物学の牧野富太郎博士を記念する

 

植物園になっていた。そのため植物園関係の施設の案内標識は完備しているが、竹林寺に向かうお遍路

 

さんへの標識がなくなる。見回してもどちらが竹林寺か見当がつかない。

 

 山頂をひとまわりしたが解らないので、だれか人が登って来るのを待つことにした。しばらくして

 

一台のバイクが登ってきたので道を聞く。このまま山を越えて、少し下った所にあるそうだった。

 

そして少し下るとすぐにお寺の屋根が見えてきた。ところがお寺の目の前にやってきても、植物園とお

 

寺の敷地はフェンスで区切られていて、どの道を通っても園内を堂々巡りするだけで、お寺の側には出

 

られなかった。植物園の開園時間外のせいなのかもしれないが、結局、一ケ所の柵を手で押し開

 

けてやっと出ることができた。

 

 八時半、竹林寺の山門前に着く。このお寺は聖武天皇の勅願によって、行基が文殊菩薩の住む唐の

 

五台山に似た聖地を探してこの地に開創したのが始まりで、地名も高知市五台山となっている。

 

標高百二十メートルの高台にあり、ひっそりと落ち着いて心なごむ佇まいは、奈良の女人高野室生寺を

 

思わせるものだった。

 

 九時、下山を開始する。下りの遍路道は滑りやすい石の坂道と段差のきつい段々道の連続で、高齢者

 

は車道を下りた方がいいかもしれない。十五分ほどで平地に下りつくと、目の前に下田川が流

 

れている。ひとつ上流の遍路橋を渡る。短い石土トンネルを抜け、石土池のそばを左に回

 

りこんでしばらく行くと、禅師峰寺の登り口に着く。時刻は十時半である。再び細い遍路道を登る。

 

今度は高さ八十メートルほどだから七分で仁王門に着く。

 

 二十八番大日寺から三十番善楽寺あたりはかなり内陸部に入り込んでいたが、ここでやっと海辺に戻

 

ってきたことになる。高台からの土佐湾や高知新港の眺めがすばらしい。土佐湾に面したこの寺は

 

海上安全の祈願所として多くの信仰を集めてきたという。

 

 十一時五分、来た時の遍路道は雨あがりで滑りそうな所があったので、戻りは車道を下

 

りることにした。道端でよもぎ餅を売っていたので買って食べる。ひょっとしたらこれが今日の昼食

 

になるかもしれない。

 

 この後は雪蹊寺に向かって海沿いに七・五キロほど行く。途中には浦戸湾の出口になっている細い

 

海峡がある。この海峡を渡る方法としては、ドクターの情報によると、浦戸大橋を歩いて渡るか、

 

県営渡船に乗るかの二通りがある。渡船なら近道で、五分で渡れるが便数が一時間に一本しかない。橋

 

の方は時間に関係なく渡れるのだが、遠回りになるのと、かなりの高度があり、その上歩道は人

 

ひとりがやっと歩けるほどしかないので、風の強い日などは怖いということである。

 

 今日は天気が回復してくるにつれて、昼前から突風が吹きはじめているので、渡船で渡

 

ることにした。今からなら一時十分の便に乗れるだろう。十一時四十五分、県道十四号線バイパス沿

 

いの民家で、庭に遍路用の無料休憩所を作っている所があったので、寄って休憩して行く。リュック

 

をおろして休んでいたら、ご主人が冷たい麦茶を持って出てこられた。

 

 この方は昨年まで大阪の大手電器メーカーに勤めていたが、体をこわしたのを機に早めに退職し、お

 

遍路さんの休憩所を作るためにこちらに家を建てた。その際、不動産屋に相談し、この前の道が遍路道

 

だということを確認したのだが、実際の遍路道はこの一本裏の道だった。ほとんどのお遍路

 

さんはそちらを行くので、たまに道を間違えた人しか利用してくれないとこぼしていた。私も道を間違

 

えた方の部類に属する。

 

 十二時半、三里の町にうどんを出す喫茶店があったので入って昼食にする。讃岐まで行けばどこの

 

喫茶店でもふつうにうどんを出すそうだが、高知では珍しい。ここから種崎渡船場まではあと一・七

 

キロほどなので、時間もちょうどいいだろう。そして計算通り、一時ちょっと前に渡船場に着く。

 

 ここは県営の渡船で、料金は無料である。昼前から風が強くなり、突風も吹きだしたが出航に影響

 

はないようである。相客は数人ほどで、自転車を押している人もいる。海上を五分ほど走って向かいの

 

長浜渡船場に着いた。

 

 渡船場から雪蹊寺までは一・五キロほどで、その途中に今夜の宿もある。一時二十五分、荷物を置

 

くために宿に寄る。主人が出てきて、この時間ならもっと先まで行けるのにいいのかと心配

 

してくれるが、なまじ先に行ってしまうと、明晩泊まる予定の国民宿舎土佐に泊まれなくなる。そこの

 

露天風呂からの海の眺めが評判なのでぜひ泊まりたいと思っている。

 

 一時三十五分、雪蹊寺に着く。四国霊場の中で徳島の藤井寺とこの寺だけは禅宗に属している。

 

もともとは真言宗の少林山高福寺だったが、一時廃寺になりかけた際に、領主だった長宗我部元親の

 

宗派である臨済宗に改宗し、寺の名前も元親の法号にちなんで雪蹊寺となったそうである。この寺で

 

心眼を開いた盲目の名僧山本玄峰のエピソードにちなんで眼病平癒の祈願に訪れる人も多いという。

 

大型のバスとマイカーが次々にやって来ていた。

 

 二時四十分、宿にもどる。風が強いので、窓の外に干した洗濯物がすぐに乾く。夕食後パソコンを開

 

くとドクターからメールが来ていて、神峰寺から郵便物が届き、先日なくした小銭入れが今日、ぶじに

 

戻ってきたそうである。若い青年二人が見つけてくれたという。なかば諦めていたそうで、非常に喜

 

ばれていた。

 

 

 

 六時五十分、宿を出る。今日は高知での停滞の遅れを取り戻すために少しがんばるつもりでいる。

 

三十四番種間寺を振りだしに、三十五番清滝寺に登り、下りたら又つぎの標高二百メートル近い峠を越

 

え、最終的には三十六番青龍寺(しょうりゅうじ)まで行く予定である。総距離にして三十キロを超

 

える。これは徳島も含めて今までの最高となる。

 

 二キロほど歩いて高知競馬場のそばを通過すると、高知市も終りで春野町に変わる。近くに小学校

 

があり、ちょうど通学時間とかさなり、たくさんの通学児童が全員、「お早うございます」

 

とあいさつしては通過して行く。中には数人でたむろして道草を食っている者もいる。見ると、道路上

 

で死んだ大きな蛇を触って遊んでいた。

 

 八時二十分、種間寺に着く。平安時代初期に大師が来錫し、諸堂を整え寺を開いた時に、唐から持ち

 

帰った米、麦,粟、キビ、豆の五穀を寺に蒔いたのがこの寺の名前の由来だそうである。朝が早

 

いせいか造園屋が入って境内の植木の消毒をしていた。昨夜の宿の夕食時にいっしょだった名古屋から

 

自転車で来ている男性が遅れてやってきた。奥さんが亡くなり一人になったので、その供養をかねて

 

遍路に出たという。納経の時、歩き遍路だとわかると奥から飴をひと袋持ってきてお接待してくれた。

 

 八時五十五分に出発してしばらくしたら例の自転車が追いついてきて、「ペースが速いですね」と言

 

いながら追い越して行った。九時四十五分、仁淀川大橋を渡る。この川は今や四万十川を抜いて

 

日本最後の清流としてカヌーイストに人気があるが、雨が降らないせいか水量が少なかった。河原では

 

近くの消防署が出て、鉄砲を撃つ訓練をしていた。どうやら緊急時に救助用のロープを遠くに飛

 

ばすための鉄砲のようである。

 

 ここから清滝寺までは、仁淀川をしばらく遡り、高岡町を抜け、高知自動車道をくぐり、一気に二百

 

メートルほど山を登ることになる。距離にして五・五キロほどある。そして次の青龍寺に行くにはまた

 

高岡町まで下りて来なければならないので、町中の食堂に荷物を預けておいて、帰りに食事

 

をするという手があるそうだが、適当な食堂が見つからなかった。

 

 十時四十五分、高知自動車道をくぐる時、ちょうど参拝を終えて下りてきた自転車とすれちがう。

 

遍路用の登山道は至る所で湧き水が流れていた。十一時ちょうど山門に着く。

 

 この寺は高さ四百メートルほどの山の中腹にあり、背後の山からの湧き水が豊富にあるせいか、今

 

から千二百年も前に大師が来錫し、七日間の修法をおこないその満願の日に、杖で地面を突くと清水が

 

湧き出て、鏡のような池ができたという逸話から寺号も医王山鏡池院清滝寺となったそうである。納経

 

のあとそばの湧き水をペットボトルに汲む。

 

 十一時二十五分に下山を開始し、二十分で麓に下りつく。高岡町内のコンビニで助六を買って、近

 

くの道端で休憩しながら食べた。今日の目的地の青龍寺まではあと十キロすこしである。三時間

 

もみておけば十分だろうと高をくくっていたら、道はどんどん登り坂となり、まもなく塚地坂トンネル

 

という所で遍路道はトンネルに入らず山を登り始めた。大師の時代はもちろんトンネルはなくすべて

 

山越えをされたはずだから、歩き遍路としては山越えをせざるを得ないだろう。

 

 後にも先にも誰一人いない山道を登る途中で、今朝子供たちがおもちゃにしていたと同じくらい大

 

きな青大将に会った。二十五分ほどで急な山道を登りつめ標高百九十メートルの塚地峠に着く。

 

しばらく休憩していたら反対側から男性ふたりが手ぶらで登ってきた。この先はゆるやかな下りで、登

 

りほどきつくはなく、途中に湧き水を汲める所もあるのでどうぞということだった。

 

 下りの山道でもカラスヘビに会い、今日一日で三匹の蛇を見る。二時半、下山を完了し宇佐漁港に突

 

きあたる。宇佐漁港の奥は浦ノ内湾で、鳥羽湾を思わせるほど奥深い湾になっている。その湾の出口に

 

宇佐大橋が架かっていて、目指す青龍寺はその橋を渡った向かいの半島の鼻にある。二時五十分、

 

宇佐大橋を渡る。

 

 橋を渡ったところが竜の浜という海水浴場で、トイレつきの広い駐車場がある。三時十五分、

 

そこでしばらく休憩していると、車から降りたひとりの男性が近づいてきた。どこかで見たような人

 

だなと思っていたら、四日前に高知黒潮ホテルの足湯で会った松本の人だった。この四日間、吉野川の

 

源流の方をまわっていたそうだが、この広い四国でよく又会えたものだとお互いに感心し、再会を喜

 

ぶ。

 

 三時四十五分、青龍寺の仁王門に着く。ここから本堂までは百七十段の急な石段があるが、毎日、

 

毎日たえず山や峠を登ったり下りたりしていると、この位の登りはまったく苦にならなくなる。この寺

 

の名前は大師が唐の長安で恵果阿闍梨のもとで修行していた青龍寺にちなんだもので、恵果和尚の恩に

 

報いるために日本にも青龍寺をつくろうと決心した大師は帰国を前に、「霊地にとどまりたまえ」との

 

祈りをこめて東の空にむけて独鈷杵(とっこしょ)を投げる。そして帰国後四国を巡錫していて、この地

 

で老松の枝にひっかかっていた独鈷杵を見つけ、唐の青龍寺を模してこの寺を建立したと言

 

われている。

 

 高知遍路にでるまでは、高知県の端から端まで三百八十キロを実際に歩き通せるものかどうか自分

 

でもまったく見当がつかず、とりあえず無意識のうちに四つのハードルを設定して、それをひとつずつ

 

クリアしていこうと考えていた。まず最初が室戸岬を越えること、つぎが高知で、三つ目が青龍寺、

 

最後が足摺岬に到達することだった。今日、青龍寺に到着したことで三つのハードルをクリア

 

したことになり、残るは足摺岬だけとなった。

 

 今夜の宿を国民宿舎土佐にしたのも、三つのハードルをクリアした祝いの気持ちがある。この宿は

 

青龍寺の裏山を登りつめた頂上近くにあり、標高はほぼ百メートルで、高台からの眺めは絶景

 

といわれている。実際、日暮れ前の明るいうちに、誰もいない露天風呂にゆっくり浸かりながら太平洋

 

を眺めていると長旅の疲れも忘れるようだった。

 

 

 

 今日も一日で三十キロほど歩く予定なので、出発の準備をして朝食におりる。七時十分、宿を出る。

 

すぐ近くに青龍寺の奥の院があるのでお参りして行く。この後は半島の付け根まで十四キロほど

 

県道四十七号線を歩くことになる。この道は半島の尾根伝いに通っているスカイラインで、全線

 

にわたって人家も店もなく、しかも起伏が多く楽ではないけれども、景色だけは素晴らしい。

 

 七時四十五分、土佐市から須崎市に入る。この辺りがスカイラインとしても高度がもっとも高く、

 

標高で百三十メートルある。ひとつ峠を越えて、もうあとは下る一方かと期待していると、次の峠が見

 

えてくる。天気がよく、海もおだやかで高台から覗き込む土佐の海はコバルトブルーに澄

 

みきっている。遠く足摺岬が見えた。いよいよ最後のハードルが視界に入ってきたという感慨

 

がわくが、到達するにはまだあと五日はかかる。

 

 たまに車が通過してゆくだけの寂しいスカイラインを三時間ちかく歩き、十時十分、半島の付け根の

 

海岸線におりつく。しばらく海岸線に沿って歩き、十一時、県道二十三号線に合流する。ここから八

 

キロほどは山越えで、道は須崎に向かう。

 

 十二時半、大間駅前のうどん屋で昼食休憩にする。ここからは国道五十六号線を行く。今夜の宿は

 

JR土讃線の安和(あわ)駅近くの民宿である。距離にしてあと六キロほどだからまもなくである。

 

しかし日差しがきつく暑いのと、食後すぐで眠気がさしているのか、あまり元気が出ない。

 

 一時四十分、須崎トンネルを抜ける。ここには珍しく歩行者専用のトンネルが別にあった。

 

一時四十五分、道の駅“かわうその里すさき”で休憩していたら、今朝宿をでる時見かけたひとり遍路

 

の男性も休んでいた。新潟から毎年のように来ているそうで、今夜の宿も同じ民宿ということだった。

 

しかし一緒に歩くことを好まれない雰囲気だったので別行動をする。

 

 須崎を越えると海岸線は荒くなり、安和(あわ)、窪川を経由して土佐佐賀までの五十キロほどは鉄道

 

も国道も標高三百メートルちかい峠を越えることになり、トンネルもふえる。角谷トンネル、久保宇津

 

トンネル、安和トンネルと続けざまに三つの短いトンネルを抜けて、二時五十分、安和駅近くの民宿に

 

着いた。

 

 

 

 高知遍路も昨日で十日が経ち、今日は十一日目である。今日も晴れて暑くなりそうだ。今日は夕方

 

まで三十キロほど歩き、三十七番岩本寺にお参りし、近くの民宿に泊まる予定にしている。

 

 六時三十五分、宿を出る。国道を行けば一キロほどで焼坂トンネルに入るが、ここにはトンネルを避

 

けて焼坂峠を越える焼坂遍路道がある。宿のおかみさんによれば、登りは急でちょっときついけれども

 

下りは広くなだらかな気持ちのいい道だというのでそちらを行くことにした。峠の標高は二百二十八

 

メートルある。

 

 宿から一キロほどはJR土讃線に沿ってゆるやかな登りで、六時五十分、JRが焼坂トンネルに入る

 

所から遍路道は急な山道を登り始める。平面距離でわずか五百メートルの所を一気に標高四十メートル

 

から二百二十八メートルまで登り、七時七分に焼坂峠に着く。

 

 下りはおかみさんが言っていた通り広く平坦でなだらかな道となる。足元の枯葉が心地よい。

 

しばらく下った所でひとりの老人と会った。年は七十七才で、遍路道と野鳥の密猟監視のために毎朝登

 

ってきているという。話好きのようで、お話を聞きながら一緒に下ることにした。

 

 若いころ一時警察に勤めていたが、その後は地元にもどり山と関わりのある仕事ばかりしてきた。

 

この道が広くなだらかなのは、昔小型のバスがこの道を通っていたからである。今は荒れ放題でとても

 

バスは通れそうにないが、遍路道としては最高の道である。この辺は猪が多く、毎年冬には猪狩

 

りをする。昨年も三人で三十頭以上捕った。猪はマムシが大好物で、そのためこの辺はマムシが少

 

ないという。

 

 八時十分、標高二十メートルの国道に下りつく。ここから三キロほど行くと土佐久礼(とさくれ)の駅

 

で、その先は又登りとなり六キロほど先に標高二百八十七メートルの七子峠がある。この七子峠に行

 

くのに、“そえみみず遍路道”と国道五十六号線と“大坂遍路道”との三通りのルートがある。

 

とりあえず最も一般的な“そえみみず遍路道”を行くつもりにしている。この道は七子峠に行

 

くまでにもっと高い標高四百九メートルの峠を越えなければならないという厳しい道でもある。

 

 しかし幸か不幸か、国道の別れ道のあたりに標識がでていて、そえみみず遍路道は現在、

 

高速道路建設のための森林伐採中でお遍路さん通行止めとなっていた。強引に行けば通してくれると教

 

えてくれた人もいたが、むりは禁物である。残るは国道か大坂遍路道のどちらかである。昨夜同宿

 

だった新潟のお遍路さんは、「大坂遍路道は平坦なだけで、何もなくて、面白くもなんともない」と言

 

っていたが、私は何もない所が好きなので大坂遍路道を行くことにした。

 

 この道は細い大坂谷川に沿って五キロばかり谷川筋を徐々に登り、最後の一キロたらずで一気に

 

標高二百八十七メートルの七子峠まで登るという道である。清流にはハヤが気持ちよさそうに泳

 

いでいる。暑い日差しを遮るものが何もない谷川筋を歩いていると、このまま清流につかって体を冷

 

やしたくなる。

 

 十時十二分、川に沿って標高八十メートルの地点に到着し、そこから急な山道を一気に登って、

 

十時四十六分、七子峠に着く。この峠を境に中土佐町から窪川町に変わる。そえみみず遍路道も国道

 

もすべて三本がここで一旦合流するが、すぐに別れて、下りは五キロほど国道と並行して遍路道

 

がある。しかし窪川町自体が標高二百メートル以上の高原にあるので、下りといっても高さにして四、

 

五十メートル下るだけである。

 

 十一時半、遍路道が終り国道に出る。十一時五十五分、道路沿いの老婆がひとりでやっている小さな

 

食堂に入り昼食にする。このまま国道を行けば、岩本寺まではあと十キロちょっとである。途中、

 

観光物産センター“ゆういんぐしまんと”と道の駅“あぐり窪川”で休憩して、二時三十五分に

 

窪川駅近くの岩本寺に着く。

 

 この寺の本堂は新しく、昭和五十三年に建てられたもので、天井には一面にプロからアマチュアまで

 

四百人の画家が描いた絵が貼られている。手法も洋画から日本画、ちぎり絵と多彩なら内容も仏様から

 

マリリンモンローまでと何でもありである。足の悪い老婆を連れてきた男性が尺八を吹いて奉納

 

していた。

 

 門前にちょっと変わった喫茶店があり、時間もちょうど三時過ぎなので入ってみた。店内

 

にはたくさんのジャズのレコードが置いてあり、一見しただけで道楽マスターのこだわりの喫茶店

 

だとわかる。生の豆を自家焙煎して淹れたコーヒーは香り高くまろやかだった。ついでに今夜の宿の

 

場所を尋ねたら、わざわざ電話をかけて聞いてくれた。

 

 宿はかなりお年の夫婦が切り盛りしている小さな民宿だった。だがこの宿の気配りのこまやかさは今

 

まででも最高といえるもので、着くなり洗濯はしてくれるは、主人が二階の部屋まで、「お客さんはお

 

肉は召し上がりますか」と聞きに来たのにも驚いたが、さすがにそれだけのことはあって、出てきた

 

夕食は一品々々心のこもった素晴らしいものだった。

 

 

 

 朝六時、美味しい和食の朝ご飯の後にさらに美味しいコーヒーがでた。六時四十分、心から満足して

 

宿をでる。今日はこれから高原の町、窪川町をあとにして、隣の佐賀町を海岸線まで二十三キロほど歩

 

き、土佐白浜駅の近くの宿に泊まる予定である。出発が早いので、昼過ぎには着くだろう。

 

 宿をでると道は緩やかな登り坂となり、六キロほど行くと標高二百八十メートルの峠があり、ここが

 

窪川町と佐賀町の境になっている。このあと国道はヘアピンカーブといくつかのトンネルを抜けて下

 

っていくが、市野瀬遍路橋はそれらをすべて避けて細い山道を下る。

 

 八時半、標高百メートルまで下山して国道にでる。あとは土佐佐賀までゆるやかな起伏はあるが、

 

平均すると下る一方である。国道を一時間ほど行くと右手に佐賀温泉というドライブインがある。

 

前回、徳島遍路で知り合った天理の大川さんから、ぜひ寄って行くように薦められていたが、まだ開

 

いていなくて、今年の一月から営業開始時間を八時から十時に変更したという貼り紙がでていた。

 

 十一時十分、伊与喜駅をすぎた所で国道からそれて遍路道に入る。大きく迂回している国道を

 

ショートカットするための全長一・五キロほどの遍路道である。ある農家の前を通ったら道路脇に昔懐

 

かしい竈があって破竹をゆでていたり、明治時代にできた全長九十メートルのレンガのトンネル

 

があったりとなかなか趣のある道だった。

 

 十一時五十分、国道から逸れて佐賀港の方に向かう。港の隣が“鹿島が浦”という景勝地

 

となっている。美しい浜辺をふり返りながら海岸線を登ってゆくと、再び国道五十六号線と合流する。

 

登りつめた岬は佐賀公園としてきれいに整備されている。十二時五十分、公園内のドライブインで昼食

 

にする。

 

 土佐くろしお鉄道の佐賀公園駅のつぎが土佐白浜駅で、そのすぐそばに今夜の宿がある。喫茶店と

 

民宿を兼営している宿で、一時四十五分に着く。あまり早く着きすぎたため、喫茶店

 

にいたおかみさんを慌てさせたようである。それにしても、部屋から目の前にひろがる海岸線は黒

 

っぽい岩ばかりで、白浜などどこにもない。不思議な地名である。

 

 

 

 宿は喫茶店を兼営しているので朝食は七時すぎないと用意できないという、遍路にとってはちょっと

 

困った宿だった。七時四十分に宿を出発する。岩本寺を出て足摺岬まで四日間を予定しているが、今日

 

はその二日目である。一日で二十八キロほど歩いて、今夜は四万十川の近くの中村で泊まる予定

 

である。

 

 宿をでて五分ほど行くと、ごろごろ石の浜が急に終わって、ざらざらのセメント色の浜がひょっこり

 

現れた。どうやらこれが白浜らしい。思わず南紀白浜を思い出して比較してしまう。八時十六分井の岬

 

トンネル、三十四分伊田トンネルを抜けて、九時に上川口のバス停で休憩する。

 

 九時半、道路脇に“土佐東寺庵”という無料接待所があったので入る。セルフサービスと書

 

いてあったが、老婆がいて番茶をいれてくれた。当主は京都東寺の僧で、今は大台ケ原に修行に行

 

っているので、岡山から留守番にかりだされたそうである。

 

 十時十分、浮鞭(うきぶち)という所から国道と鉄道は中村に向けて内陸部に入っていくが、遍路道

 

はそのまま海岸線を砂丘地帯に入っていく。広大な松林になっていて、その中に野球場やキャンプ場

 

その他のレジャー施設が集まっている。広くていったん足を踏み入れると迷いそうである。この辺りは

 

砂地を利用したラッキョと煙草のちょうど収穫期のようで、町中にラッキョの匂いが充満していた。

 

 十一時二十五分、砂丘地帯を抜けて国道に合流する。ここから国道五十六号線を九キロほど行けば

 

中村である。十一時半、国道沿いの喫茶店で昼食にする。十二寺半、逢坂トンネル手前の“珈琲職人の

 

喫茶店”に入り、コロンビア系ブレンド珈琲に手作りのレアチーズケーキで休憩する。

 

 一時、逢坂トンネルを抜ける。全長二百十メートル、十三年前の完成で広くて明るいトンンネル

 

である。ここが大方町と四万十市の境になっている。四万十市という呼び名がなんとなく聞き慣

 

れないと思ったら、今まで中村市と呼ばれていた所が、今年の四月に町村合併で四万十市と名前を変

 

えたようだ。

 

 トンネルを抜ければあと四キロほどで中村の宿である。一時五十分、後川に突き当たり、中村大橋を

 

渡る。この川はもう二キロも下れば四万十川に合流する。二時ちょうどに宿にチェックインする。この

 

宿は国民年金の保養センターになっている立派なホテルである。その分、遍路にはなくてはならない

 

洗濯設備がなく不便な面もある。

 

 ドクターIのおかげで足にマメをつくることもなく十日以上やってきたが、十三日目にして小さな

 

マメができたので、今夜のうちにつぶして治療するために、夕方薬局を探しに外に出た。ついでに

 

四万十川をひと目見ようとその方向に歩いてみたが、一キロ以上離れているようだったのでやめて宿に

 

帰る。

 

 

 

 七時三十五分、宿をでる時にフロント氏が、今日は雨になりそうだという。たしかに空

 

はどんよりしている。リュックと菅笠にカバーをかけて出発する。今日は四万十川に沿って六キロほど

 

下り、そこから八キロほどは山越えルートをとり、下ノ加江で海岸線にでて、さらに三キロほど行った

 

久百々(くもも)という所にある民宿に泊まる予定である。距離は二十キロたらずなので、午後の早い

 

時間に着くはずである。

 

 昨日渡ってきた中村大橋をもどり、後川の左岸道を下る。二キロほど土手道を行き、八時、後川が

 

四万十川と合流すると、土手道も自然に四万十川の左岸道となる。カヌーイストのメッカ、日本最後の

 

清流といわれる四万十川だが、最下流のせいか水量だけは豊富だったが透明度は期待

 

したほどよくなかった。

 

 さらに二キロほど下ると、四万十大橋があり、その袂には吾妻屋風の休憩所があった。ひとりの

 

男性遍路が先に休憩していて、話しかけてみると、京都山科から来た益田さんという温厚な紳士

 

だった。今夜は下ノ加江の民宿で泊まるというので、そこまではいっしょに歩くことにする。

 

 四万十大橋を渡るとき、ガードマンがたくさん出て交通整理をしていたので何事かと聞いてみると、

 

九時から土手の広場で大掛かりな防災訓練が行われる予定だという。今日は日曜日である。

 

ヘリコプターまで動員され、すでに数百台の車が集まり、大きなテントが幾張りも張られていて、地元

 

の人たちもふだん見慣れない珍しい光景に目をみはっていた。

 

 橋を渡り川の右岸道をさらに二キロほど下ると、四万十川も河口となり、国道三百二十一号線は

 

海岸線から離れて山間部に向かう。足摺岬まではあと三十キロほどである。道路はさびしく家

 

もなくなる。

 

 十時十分、今大師寺という小さなお寺を参拝し、国道沿いのバス停で休憩する。雨が降る気配

 

がまったくなくなったので、菅笠とリュックの被いをとる。目の前に新伊豆田トンネルの入口が見

 

えている。このトンネルは長さが千六百二十メートルもある長いもので、できれば避けたいのだが、

 

ほかに道がないので入らざるをえない。

 

 十時二十三分、トンネルに入る。さいわい両側に段差つきの歩道があって、歩行者の安全は一応確保

 

されている。しかし排気ガスと騒音の中に長時間さらされるのは叶わない。少しでも早くこの拷問から

 

脱出しようと足を速めるが、遠くに見えている出口の明かりは一向に近づいてこない。トンネルの中に

 

車が一台でもいれば、その騒音で話もできない。黙々と早足を進め、十時四十二分、やっと外にでる。

 

 トンネルを出て五百メートルほど行くと、道は右手の山側からきた道と合流して一本となり足摺に向

 

かう。ここを市野瀬分岐といい、足摺岬からの帰りに次の三十九番延光寺に行く時もここまで戻って来

 

ることになる。この分岐点の近くには珍しくドライブインもあり、ここで名物の大判焼きとコーヒーで

 

一服する。壮年の夫婦遍路がいてこれから分岐を経て、三原村の方に入るという。もう時間は十一時

 

をまわっている。この時間からだと延光寺に今日中に着くのはむりだし、途中に宿

 

もないのでどうするのか聞いてみたら、簡易テントで野宿しながらまわっているそうだった。

 

 十一時十五分、ドライブインを出発するとき、外の駐車場で露店をだしているおじさんに話

 

しかけたら、商品の小夏を我々に三個ずつお接待してくれた。ここからは市野瀬川に沿ってゆるやかに

 

下って行けば、五キロほどで下ノ加江の海岸にでる。途中、ある民家の前で、子供の猪が鎖

 

につながれて鼻血をだしていた。山から出てきたところを捕獲されて、飼われているのだろう。

 

 十二時二十五分、益田さんが今夜泊まる予定の下ノ加江の民宿に着く。ここは食堂を兼営

 

していたので、いっしょに昼食を食べて別れる。そのあと三キロほど海岸線に沿って歩き、一時五十分

 

に久百々(くもも)の宿に入る。おばあちゃんが一人で留守番をしていて、すぐに冷たいお茶と最中

 

をだしてくれた。

 

 五時半の夕食時に同宿の四人が顔をそろえる。そのうちの一人は、安和の宿で一緒だった新潟の男性

 

だった。彼はすでに足摺岬をまわった帰りだそうである。私はあす足摺岬に行き、そこで一泊して、

 

明後日にまたここに戻ってくる予定だから、すでに二日の差がでている。よほど途中

 

でがんばったのだろう。

 

 あとの二人は壮年の男性と若い女性で、今日こちらに来る道で一緒になったようである。非常に元気

 

のいい女性で、明日は足摺岬まで行って、日帰りで帰ってくるそうである。往復で四十キロだから健脚

 

ならむりな距離ではない。そして彼女は食事が終わると早々に、

 

「ちょっと浜まで出てきます」

 

 と言って立ち上がった。そこへすかさず壮年の男性がひやかし半分に、

 

「一日さんざん歩いても、夕食後には浜にでてきますという位でないとだめですな。私ら、

 

まったくその気にならんもんなあ。なあ、ユカリちゃん」

 

 と声をかけると、

 

「ユリカです」と答えて、その女性は出て行った。

 

 

 

 朝起きてみると、昨日とうって変わって、空はからりと晴れ早朝から暑い日ざしが照りつけている。

 

宿のお接待の弁当を持って、六時半に出発する。いよいよ今日は最後のハードルである足摺岬に到着

 

する日である。片道二十キロほどだから、休憩をいれても昼までには着くだろう。

 

 宿を出て三キロほど行くと大岐(おおき)海岸がある。きれいな砂浜が二キロほど続いていて、今は

 

サーファーが数人いる程度だが、夏になるとキャンプや海水浴でにぎわいそうである。この浜も遍路道

 

になっていて、国道を行くより四百メートルほど近道だというけれども、歩きにくそうなのでやめる。

 

 大岐海岸を過ぎて一キロほど行くと、以布利(いぶり)遍路道がはじまる。この道は国道の遠回りを避

 

けてなるべく海岸線に沿って直進するように作られている二キロほどの道だが、海岸線が断崖絶壁

 

つづきなので、山道を登ったり下りたりすることになる。途中で以布利港のそばを通過する。

 

 暑いので二時間もするとペットボトルのお茶がなくなる。道路沿いには民家はあっても、喫茶店や

 

自動販売機がない。しかしちょうど良い具合に、所々に湧き水が引いてあり、遍路が自由に汲

 

めるようになっている。

 

 以布利港をすぎてさらに四キロほど行くと窪津漁港がある。ここには鰹節の加工工場などもある

 

比較的大きな漁村だが、この先は足摺岬まで厳しい断崖が続いていて港もなくなる。道路も海から離

 

れて高台を通っている。道の両側は亜熱帯の植物に被われた森で、ジャングルのようである。

 

 十時、窪津漁協権現地区集会所と書かれた建物の前で休憩する。弁当を開けてみると、梅干と昆布入

 

りのおにぎり二個に、バナナ、フルーツゼリー、乳酸飲料、飴といった至れり尽くせりの内容で、

 

しかもすべて歩きながら食べられるようになっていた。おやつ代わりにデザートの部分だけ食べる。

 

 ジャングルの中を切り開いたような県道二十七号線を、登ったり下りたり六キロほど歩いて、

 

十一時半、岬の展望台に着いた。室戸岬とちがって展望台も灯台も駐車場もすべて絶壁の上で、人も車

 

も海には近づけないようになっている。そしてどこに行くにもジャングルの中の小道を抜けて行

 

かなければならない。眼下の岩場に打ち寄せる白波を見ながら、残ったおにぎりを食べる。

 

 展望台から三十八番金剛福寺を見ると、まるで東南アジアのジャングルの中にある寺院といった感

 

じだったが、近づいて見るとちゃんと開けていて、きれいに整備された立派なお寺だった。

 

三十七番岩本寺から八十五キロ歩いてたどり着いた心やすらぐお寺である。

 

 この寺の院号は補陀洛(ふだらく)院といい、補陀洛とはインドの南岸にある観音様が住む山

 

のことで、この寺はその聖地への東の入口とされていたそうである。納経の時、歩き遍路だと解ると、

 

住職が「ちょっと待ってください」といって、奥から冷えた緑茶のパックをお接待してくれた。

 

 すぐに引き返せば夕方の五時までに久百々の宿まで戻れないこともないが、それはユリカ

 

ちゃんのように元気な人に任せて、のんびり遍路としてはまだ昼の十二時四十分に、早々に近くの

 

ホテルにチェックインした。ホテルに宿をとったのは、ホームページに遍路日記を出すのに、たとえ

 

無線が通じなくても、電話線で外線に発信できるだろうと考えてのことだったが、このホテルは交換機

 

が故障しているのか、設定ミスかまったく外線に発信できなかった。

 

 

 

 一夜明けた翌朝もよく晴れた。また暑い一日になりそうである。ホテルは遍路の客に慣

 

れているようで早い朝食にしてくれた。六時四十五分に出発する。足摺岬から次の三十九番延光寺へは

 

何通りものコースがあり、一番遠いのは岬をまわって海岸線に沿って宿毛経由で行く方法で、この

 

コースだと七十三キロ近くある。そして一番近道なのが、昨日来た東海岸をそのまま戻り、市野瀬分岐

 

で三原村を抜けるコースで、これだと五十一キロほどで、二十キロ以上の短縮となる。

 

 もちろん最短距離で行くつもりだから、今日は昨日の道をもどり、再度久百々の宿に泊まる。そして

 

明日は延光寺より七キロほど先の宿毛駅まで歩き、近くのビジネスホテルに泊まり、翌朝の列車で家に

 

帰る予定にしている。ということは、今日歩く距離がわずかに二十キロで、明日が三十八キロ

 

ということになる。これではあまりにもバランスが悪い。

 

 そこでドクターIの入れ知恵によれば、今日はのんびり歩いても昼までには宿に帰り着

 

くだろうけれど、そのあとの午後をぼんやり過ごしてはもったいない。少しでも明日の分を今日

 

のうちに稼いでおくために、午後は手ぶらで市野瀬分岐のドライブインまで八キロほど歩く。着

 

いたところで宿に電話をして車で迎えにきてもらう。そして翌朝も車でそこまで送ってもらえば、

 

二時間ちかく時間の節約になる。まったく名案である。そしてこの身勝手な計画を宿の奥さんに相談

 

したところ、快く引き受けてくれたのである。

 

 そういう訳で、今日はこれから足摺岬を出発して昨日来たのと同じ道をもどるつもりだが、途中

 

こまかな遍路道が無数にあって、自由に選びながら来たので完全には覚えていない。しかもこの道は行

 

きの遍路も、戻りの遍路も通るので、遍路道入口という看板があっても良く見極めないと逆行

 

することになる。全力で歩くと一体何時間で久百々まで戻れるものか試してみたいという気もあり、

 

休憩もなるべく少なく、短くして急いでみた。

 

 十時二十分、大岐まで戻ってきた所で、珍しく喫茶店が開いていたので入る。ここまで来れば、久百

 

々まではあと一時間ほどである。若いマスターの淹れたコーヒーを飲んで、十一時三十七分、久百々の

 

宿に帰りつく。

 

 奥さんはちょうど買い物に出かけようとしている所だったが、手早く昼の弁当を作ってくれた。

 

これを持ってすぐに出かけてもいいが、あまり早くドライブインに着いても、奥さんの買い物の都合

 

もあるだろうから、しばらく宿で休憩して、弁当も食べてから、十二時十分に出発した。

 

 道は最初のうち下ノ加江川に沿い、途中からは市野瀬川に沿ってかすかな登りである。重たい

 

リュックがないから身が軽い。川の両側にせまっている山の新緑がまぶしいほど美しい。川の中

 

でひとりの男性がウエットスーツを着て何かしているので、魚を追って水遊びでもしているのかと思

 

ったが、よく見ると四角い盥のような小船を浮かべて、その中に潜って取った石を放り込んでいた。

 

一昨日、鼻血を出していた猪は、今日はきれいに洗ってもらってさっぱりしていた。

 

 休憩なしで一気に歩いて、一時四十五分にドライブインに着く。アイスコーヒーを飲み、大判焼きを

 

食べながら迎えの車を待つ。なにかの都合ですこし遅れているようだが、涼しくて気持ちのいい所

 

なので、一向に苦にならない。二時十分、奥さんの運転する車が迎えにきて、十分ほどで宿に帰り着

 

く。宿にはすでに四人の先客が入っていた。

 

 六時の夕食時には全員で六人となる。殆どがこれから岬に向かう人で、一足ちがいの先輩として、

 

いろいろ情報を求められた。その中に一組の中年のご夫婦がいて、歩くペースは非常に遅いが、ぜひ

 

明日は日帰りで帰ってきたいと言うので、

 

「どこでも歩けなくなった所から電話すれば、奥さんが車で迎えにきてくれますよ」

 

 と言ったら、すかさず奥さんが

 

「それは構いませんが、翌日はそこまで送りますから、そこからスタートですよ」

 

「ええっ、それだったらどんなに遅くなっても、歩いて帰ってきます」

 

 という調子でその晩は遍路談義が盛り上がった。

 

 

 

 いよいよ高知遍路も今日が最終日である。早朝の五時五十五分に、主人が車でドライブインまで送

 

ってくれた。まだ開店前で人の姿は見えないが、どこかで人の気配がすると思ったら、トイレの休憩所

 

で二人の若者遍路が野宿をしていた。どちらも一人歩き遍路で、一人はこれから足摺岬に、もう一人は

 

延光寺に向かうという。六時十五分、ドライブインを出発する。

 

 市野瀬分岐を右に行けば中村にもどり、左に行けば山越えで延光寺である。ただしこの山越えは高度

 

はそれほどないのだが、ほとんど人にも会わないさびしい道ばかりということで人気

 

がないようである。

 

 早朝で気温は低いが湿度が高く、道端の草にも夜露がびっしりと残っている。道は市野瀬川に沿

 

ってゆっくり登る。両側に山がせまっていて、谷筋には水田がわずかにあるけれども人の姿はない。

 

七時二分、高度百四十メートルまで登った所で、土佐清水市から三原村に入る。ここに成山(なるやま)

 

という小さな部落があり、通り抜けるとまた登り道となる。

 

 市野瀬川の谷筋から離れて道が山に向かいはじめると勾配がさらにきつくなる。峠近くでいきなり目

 

の前にイタチが跳びだしてきて、立ち上がった格好で四方を偵察していたが、こちらと目が合

 

ったとたんに元の茂みに跳びこんだ。

 

 七時三十五分、標高百七十九メートルの峠に着く。そして峠を越えると狼内(おおかみうち)という

 

部落が長谷川の谷筋にそって開けている。道はわずかに下りとなる。民家があって、田畑

 

もあるけれども、人影はほとんどない。八時十五分、上長谷という所に公衆便所つきの集会場

 

があったので休憩する。

 

 ここからはこのまま県道四十六号線を行き、三原村の中心部を抜けて宿毛市に入るのが一般的な

 

コースだが、ここの道端に真念石という遍路石がたっていて、右に山越えで真念遍路道がある。この道

 

は平成十五年十一月に地元の篤志家が廃れていた遍路道を一人で復元整備したばかりの全長五キロの

 

山越え道である。遠回りになるのと出来て間もないので、まだ通った人は少ないがぜひ歩いてみたいと

 

思っていた道である。

 

 これまでの道でもほとんど人に出会っていないが、これから山を越えて四万十市に下りるまでの五

 

キロの間はたぶん絶対に人に会わないだろう。標高二百四十メートルの地蔵峠までは長谷川の支流

 

になる細い渓流に沿って三キロほどの登りである。峠までの道は車が通れるほどの広さがあるが、

 

このところ車が通った形跡はない。ぬかるんだり雑草が生えたりしないように、砂利石が敷き詰

 

めてある。

 

 しばらく行ったところで、道の前方になにやらにょろにょろと動いているものがある。長さは三十

 

センチほどあり、ちょっと細めだがマムシの子供かなと近づいてみると、首に包帯を巻いた紛れもない

 

ミミズである。しかも色が濃い紫色でぴかぴかと光っている。大きさといい色といい珍しいミミズ

 

だった。

 

 九時十分、地蔵峠に着く。ここには県道三百四十四号線が走っている。舗装されていない道で、県道

 

とは名ばかりで車はめったに通らないようである。県道を横切って下りの遍路道に入る所にお地蔵

 

さんが祀ってある。峠の名前はここから来ているのだろう。

 

 最近、復元されたのは主にこれからの下り道のようで、山の斜面にへばりつくように作られた細道

 

である。いくら道が細くても、傾斜は緩やかで、整備が行き届いているから斜面を滑り落ちる心配

 

はない。湧き水を汲める所もある。

 

 九時五十分、誰もいないはずの山道で一人の老人に会う。

 

「よく通ってくれました。歩きにくい所はなかったですか」

 

 この一言でこの道を復元したご本人だと解る。もともと弘法大師が通った道なので、一念発起して

 

復元作業にとりかかり、完成したところで遍路道保存協力会に申し出たら、すぐに遍路道として認

 

めてくれたそうで、益々張り切って毎日来ては整備しているが、まだ通る人は少ないようで、たまたま

 

私が通ったことを非常に喜ばれた。

 

 お接待させてほしいといって小銭入れから五百円玉を一枚取り出した。それだけでなく、弁当

 

にもってきていたきな粉をまぶしたおにぎり二個とミショウ柑という大きな蜜柑まで呉れた。

 

おにぎりはその場でお話を聞きながら一緒に食べた。別れ際には延光寺までの道順をくわしく教

 

えてくれ、私が今夜は宿毛で泊まるつもりだと言うと、

 

「あと十六キロほどです。朝、市野瀬のドライブインを立ってこの時間にここに着くほどの足なら楽々

 

行けます」

 

 と、太鼓判を押してくれた。もう少し下った所に大師堂があり、ついでに寄ってお参りしたら、

 

落書帳があったのでお礼を書いておいた。

 

 十時二十二分、江ノ村というふもとの里に下りつく。ここから平田までの六キロほどは、高速道路の

 

側道を行けばいいのだが、これこそ単調そのもの、たまに側道を通る車は産業廃棄物の運搬車

 

くらいで、何もないといって不人気の山道の方がずっと面白かった。

 

 十二時、平田の町に入り、町外れの中筋川の土手で、久百々の弁当を食べる。ここまで来れば延光寺

 

まではあと三キロたらずである。私は国道五十六号線を通って平田に入ったが、県道二十一号線の方

 

からも一人の同年輩の男性遍路が歩いてきている。三原村を抜けて来たのだろう。

 

 一時二十五分に延光寺に着く。合わせて十六ケ寺ある修行の道場のしめくくりのお寺である。静かで

 

落ち着いた寺で、ここは行基が開き、大師が再興したと言われている。境内には大師が杖で掘った井戸

 

が今もあり、“眼洗いの井戸”と呼ばれ、多くの人が眼病治癒を願って瞼を洗うそうである。また境内

 

には小さな梵鐘を背負った赤亀の石像があるが、これはその昔この寺の池にいた亀が小さな梵鐘を背負

 

って竜宮から帰ってきたという逸話によるもので、それ以来、寺の名も現在の赤亀山寺山院

 

(しゃっきざんじさんいん)延光寺と変わり、その鐘は現在も国の重要文化財に指定され寺宝

 

となっているという。

 

 一時五十五分に出発し、国道五十六号線に沿って宿毛をめざす。今回の最終目的地である宿毛駅

 

までは、あと七キロほどである。二時二十五分、道路沿いの喫茶店に入ってコーヒーを飲む。そして店

 

を出たら一人のお遍路さんが前を歩いていた。さきほど、県道二十一号線の方から平田に出てきた男性

 

だった。松山の方で、今夜はやはり宿毛で宿を探すという。小柄でずんぐりした体格でそれほど足早

 

とは思えないが、話を聞いてみると、一日に十時間、四十キロのペースを毎日保

 

たれているそうだった。そのためには宿を予約せず行きあたりばったりで、夕方になってから宿を探

 

すという。私にはまねのできない大胆さである。

 

 その方は宿毛の旅館街の方に宿探しに、私はとりあえず宿毛の駅まで明日の切符を買いに行くので、

 

東宿毛を過ぎた辺りで別れる。そして三時四十五分に宿毛駅に着く。しかし駅のようすが昔来

 

たときとがらりと変わっていた。どこにも切符売場がなく、改札口も見当たらない。かろうじて

 

旅行代理店の出先カウンターのような一角があり女性がひとりいたので聞いてみた。

 

 この駅は今年三月の脱線事故以来、営業停止状態でお客さんは隣の東宿毛までバスで代替輸送

 

しています。指定席などは中村駅に電話で申し込んでおけば、中村駅を通過するときホームで受け取

 

れますということで、中村駅の電話番号を教えてくれた。

 

 今回はたまたまこういう状態だが、次回ここから愛媛遍路に出発するときは、平常の駅の機能を取り

 

戻していることだろう。四時二分、宿毛駅ちかくのホテルに入る。天気予報によれば、明日は朝から雨

 

のようだ。