『菩提の道場』 二〇〇五年十一月十一日(金)〜二十六日(土)

 

 

 

 夏が過ぎすこし涼しくなってきたらすぐにでも、次の愛媛遍路に出発したいと思いながら、九月

 

にはわがABOBA三重奏団の和歌山演奏会があり、十月にはパリでチェンバロを勉強している娘が、

 

ボーイフレンドのリューティストを連れて帰ってきて、各地でリサイタルを開

 

いたりしてなかなかままならず、十一月になってやっとその段取りができた。これ以上遅くなると寒

 

くなるだろう。のんびりしてはいられない。早速、高知遍路で知り合った広島のドクターIに電話

 

をしてみた。ドクターは高知駅でお別れしたあと、秋の遍路もぜひ一緒に歩

 

きたいとおっしゃっていた。

 

 ドクターは以前私が、次の遍路は十一月になりそうだと漏らしたのを覚えていて、一緒に行

 

くつもりで予定をあけてはいたが、それは十日すぎで、九日までは仕事が入っているそうだった。

 

すでに四国八十八ヶ所を二回廻られているドクターの計画だから、寒さはまだ大丈夫なのだろう。

 

せっかく予定まであけてそのつもりになっているものを、放って先に行くわけにはいかない。打ち合

 

わせて、十日の夕方に宿毛の宿で落ち合うことになった。これで今回は全行程にわたってドクター随行

 

の、いたって贅沢でしかも心強い遍路行となる。

 

 前回の高知遍路では、宿毛まで歩きそこから列車で帰ったので、今回は宿毛からスタートである。

 

ドクターも前回、高知駅で一旦打ち切ったあと、九月にひとりで宿毛まで歩かれている。宿毛駅は

 

前回、脱線事故の調査のため営業停止状態だったが、やっとこの十一月から営業を再開していた。

 

 

 

 十一月十一日の朝七時、ドクターと揃って宿毛の宿を出発した。天気予報では今日は午前中から雨が

 

降りはじめるようで、空は曇って今にも降りだしそうである。市街地を抜けると道はすぐに田圃の畦道

 

となり、見ると刈り入れを終わった切り株に、二度目の米がなっている。そして田圃がなくなると道は

 

登りとなり、まず高さ五十メートルの丘をひとつ越える。下りてしばらくすると今度は本格的な登山道

 

となり、愛媛遍路では最初の山越えとなる標高三百メートルの松尾峠をめざす。

 

 八時四十分、登りの途中でいよいよ雨が降り出した。まだポツポツといったところで大した雨

 

ではないが、これから一日中降るそうなので、木陰でポンチョを着る。峠までは距離にしてほぼ千五百

 

メートルある。急な登りつづきで、たっぷり汗をかいて、九時三十五分、峠に着く。ここには松尾大師

 

と呼ばれる大師堂がある。休憩しながら、ドクターが今回持参した新兵器のGPSで高度を測定

 

してみると二百八十九メートルだった。

 

 十時に出発して、ドクターの案内で近くの純友(すみとも)城址を目指す。わずか数百メートルの寄り

 

道のはずが、道をまちがえたのか行けども行けども見つからず、諦めて引き返す途中でやっと正しい道

 

を発見し、結局、三十分以上かかって到着する。そこは現在お城の形跡はなく、宿毛湾を見下ろす

 

展望台になっていた。

 

 下りは広く、なだらかな気持ちのいい道である。雨もそんなに強くはない。下りながらドクターの、

 

“受験必勝のための記憶と睡眠の理論”を拝聴する。

 

『記憶は寝ることによって確固としたものになります。そのため試験前の一夜漬けはともかく徹夜

 

はだめで、とにかく寝なければいけません。ところが集中して勉強した後は、頭が興奮してなかなか寝

 

つけないものでしょう。そういう時、睡眠薬を使用すると朝が起きづらくかえって逆効果になります。

 

すばやく寝て、すっきり目覚めるためには、睡眠薬ではなく、体温を一時的に下げる薬の方

 

がいいのです』

 

 これはドクターが長年の医師経験の中から導きだしたもので、知り合いの学生などで実践しては喜

 

ばれているそうで、もっと早く気づいていれば自分自身にも応用できたのにと残念がられていた。

 

 十一時四十七分、峠を下って広い車道にでて、しばらく行ったある倉庫の軒下で雨宿りをしながら

 

弁当を食べる。この車道はもう少し行くと県道二百九十九号線に合流する。そのままその県道を十キロ

 

ほど行けば自動的に第四十番観自在寺に着く。ところが雨の中を無我夢中で歩いているうちに、気

 

がついたらいつの間にか国道五十六号線を歩いていた。この道を行っても、ほぼ同じ距離で観自在寺に

 

着くが、こちらにはトンネルが二つあるので、当初の計画では避けるつもりにしていた。

 

 いつも毛嫌いするトンネルだが、今回のように雨に濡れて苦労している時にトンネルに入ると、濡

 

れずに歩くことができる上に、汗でびっしょりになっているポンチョの内側も徐々に乾いてくることが

 

解った。長さ六百四メートルの蓮乗寺トンネルと、五百三十メートルの城辺(じょうへん)トンネル

 

のおかげで二度ほっとできた。

 

 午後の三時十五分に第四十番観自在寺に着く。観自在菩薩とは観音様のことで、この寺のご本尊も

 

観音菩薩かと思っていたが、そうではなく薬師如来だった。この寺は古くは平城天皇の勅願所

 

でもあったため、『平城山』という山号を頂いている。また第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)から最も

 

遠い所にあるため、『四国霊場の裏関所』とも呼ばれているそうである。雨がかなり本降りなので、傘

 

を持たない者にはお参りや納経がたいへんである。

 

 参拝後、国道五十六号線を一キロほど歩いて、午後の四時十五分に宿に着く。一日で歩いた総距離は

 

二十一キロである。夜、ドクターが足の三里に鍼を打ってくれた。

 

 

 

 朝、七時四十分に宿をでる。第四十番から四十一番龍光寺までは五十キロ以上離れている。そのため

 

途中で二泊するつもりで、今日は半分の二十四キロほど歩いて、津島町の釣宿に泊まる予定

 

にしている。昨日の雨は完全にやんでいて、予報によれば午後からは晴れるようである。

 

 愛南町内海村までの九キロは国道五十六号線を行く。小さな峠をひとつ越えて、八時半、喫茶店に入

 

りコーヒーを飲んだら、ゆで卵をひとつお接待された。十時二十分、内海村の柏郵便局の前で休

 

んでいる所に、昨日、雨の観自在寺で見かけた若い女性のひとり遍路が追いついてきて、一緒に休憩

 

する。この後は遍路道となり、標高四百七十メートルの柏坂峠越えになるのだが、彼女は足を痛

 

めているので国道を行くそうだった。

 

 峠への道は昨日の松尾峠よりなだらかで、しかも途中の要所々々に休憩所があって、非常に楽

 

である。十一時四十五分、柳水(やなぎみず)大師で休憩して、湧き水をペットボトルに汲む。この水は

 

大師が柳の杖で掘りあてた水である。この峠道には大師堂がふたつあり、もう一つは峠の向うに

 

清水大師がある。十二時二十分、峠に着く。

 

 下り道は五キロほどあり、最初の二キロで一気に二百七十メートル下るので、かなりの急坂の上

 

にごろごろ石や苔のはえた石道も多く、注意を要する道である。ふつうなら足がすくんで慎重

 

になるところが、ドクターは急に駆け足になり、驚くほどの速さで駆け下りて行った。これが高知遍路

 

で聞いていたドクターの隠し技のようである。

 

 靴底の摩擦をあげるために、まずリュックの肩ひもを緩め重心を後に移動させ、前傾姿勢

 

をとりやすくする。その上で足の膝をすこし曲げる。そうすれば靴の裏が着地するときに地面に

 

全面密着する。そして足が地面につくと同時にクッションを利用して跳ね上がるので、靴が地面

 

についている時間はわずかである。杖はなるべく前方に突き、必要に応じて体重をかける。こうして

 

危険な下り坂をいともたやすく駆け下りているのである。時代劇ではないが、七十五才にしてこんな技

 

が使えるとは、聞きしにまさる修行をつんだものと見える。

 

 このスピードなら下りはあっという間である。ドクターの後から技を盗みながら、息をきらして後を

 

追う。ひと下りした所でほっとしたドクターがちらと後を振り返り、びっくりしたような顔をした。

 

「相当引き離したつもりで振り返ったら、真後ろにいるんだもの。今まで私の下りに付いてきた人

 

はあなただけです。大したものです」

 

 それ以来、ドクターを“またぎ”と呼ぶことにしたら、逆にドクターは私のことを“行者”と呼

 

ぶようになった。またぎと行者が競争しながらお遍路をすれば、鬼に金棒である。

 

 一時四十五分、里が近づいてきてみかん園がまず現れる。そのそばを通っている時、作業をしていた

 

男性がでてきて、「その先にみかんを置いてあるから、どうぞ持ってってください」と言

 

ってくれたので三つずつ頂き、その場で二つを食べる。この日は弁当を調達できなかったこともあり、

 

空腹の上にもぎたての香り高く甘いみかんの味は最高だった。

 

 二時十分、里に下りつき芳原(ほわら)川に沿ってしばらく下ると、道は国道五十六号線にでる。

 

ここから更に芳原川に沿って国道を北上して、三時十分、やっとAコープを見つける。早速、パンと

 

バナナを買って昼食にしようとしたら、レジの女性が甘酒とみかんをお接待してくれた。さらに三キロ

 

ほど行くと芳原川は岩松川と合流する。そこから岩松川に沿って更に八百メートルほど遡ったところに

 

今夜の宿があった。到着は四時十五分である。夜、ドクターが右足の太ももにも鍼を打ってくれた。

 

 

 

 七時四十分、津島町の釣宿を出発する。朝がだんだん寒くなってきた。昨日につづき今日も移動日

 

で、休養をかねて歩きは十五キロ程度にして、宇和島で泊まる予定にしている。二キロほど

 

国道五十六号線を北に行ったところで、左折して旧国道を行く。どちらにしても峠越えなのだが、

 

新国道にはこの先に二キロほどの長さの松尾トンネルがある。旧国道にも松尾トンネルがあるが、長

 

さは非常に短い。しかも通る車はほとんどない。ただこちらは高さ百七十メートルの峠越えである。

 

 今日のドクターの教訓は、『登山靴や遍路靴のひもは簡単にほどけないように二重に結ぶこと。

 

そして下りでは必ず締めなおすこと』だった。たしかに下りで靴がぶかぶかしていると、危険だし歩

 

きにくい。

 

 九時五十六分、高度五十メートルまで下りた所で、新国道と合流する。峠からこちらはすでに

 

宇和島市である。十時三十五分、国道沿いにやっと喫茶店が現れたので、入って休憩にする。美味しい

 

コーヒーとケーキを食べている時、ドクターは前回もこの店に入ったことを思いだした。

 

 今夜泊まる予定の“国民年金健康保養センターうわじま”までは、あと七キロすこしである。時間

 

がたっぷりあるので、宇和島城に寄ることにしている。

 

 十二時二十分、天守閣前に着く。駅近くの小高い丘の上にあり、ここからは宇和島市内や港がよく見

 

える。今日はちょうど宇和島市のお祭りのようで、下の商店街でいろいろな催しをしている声が

 

スピーカーから聞こえてくる。昼食は商店街のなかの食堂でと考えていたが、下

 

りてみるとどこもすべて満員で、結局、一時をまわってから、一軒の喫茶店に入ってコーヒーと

 

サンドイッチで昼食にした。このコーヒーとサンドイッチがなかなかの味だった。

 

 まだ宿に入るには時間が早いのでもう一ヶ所、駅前にある番外札所の龍光院にお参りする。このお寺

 

は第四十番観自在寺の奥の院でもある。札所だから納経もしてもらえるのだが、納経帳の番外用空き

 

ページがもうない。ドクターは一ページだけ残っていて、そこにしてもらったら、納めた納経料三百円

 

がそのまま袋に入れてお接待として返ってきたそうである。

 

 今夜の宿は龍光院の裏山にあたる標高百二十メートルの小高い丘の上にある。宿のすぐそばには有名

 

な宇和島の闘牛場もあるが、今日は閑散としている。午後三時、宿に入る。今日一日で歩いた距離

 

はせいぜい十八キロほどしかなく、宿に入っても時間がたっぷりあり、準トロン温泉に浸

 

かってのんびりした。

 

 

 

 朝七時四十分、宇和島の宿をでる。今日はここからほぼ十キロ先の第四十一番龍光寺をふりだしに、

 

四十二番佛木寺(ぶつもくじ)、四十三番明石寺(めいせきじ)とまわって、西予市のビジネスホテルに泊

 

まることにしている。途中には高さ四百八十メートルの歯長(はなが)峠もあり、距離は二十六キロ

 

ほどになるが、なんとか明るいうちには着くだろう。

 

 JRの北宇和島を過ぎると、道はJR予讃線に沿って県道五十七号線を行くことになる。今日は

 

一日、店も食堂もない県道と遍路道ばかりを歩く予定なので、早めにコンビニで弁当を買っておく。

 

龍光寺までの十キロはすべてゆるやかな登りで、龍光寺も佛木寺も標高百九十メートルの場所にある。

 

 

 十時二十分、龍光寺に着く。この寺は現在、十一面観世音菩薩をご本尊とする真言宗御室派のお寺

 

だが、もともとは稲荷大明神をご本尊とする神社だったので、まず大きな鳥居に迎

 

えられびっくりする。ちょうどマイクロバスの団体と一緒になり、納経所では全員の納経帳をまとめた

 

バスの運転手が、住職と雑談しながら納経してもらっていた。

 

 こういう場合、お寺によっては歩き遍路を見ると「先にどうぞ」と言ってくれる所もあるが、

 

ここはそうではないようだった。たっぷり待たされそうである。しかも住職はお説教だか愚痴だか、

 

とにかくおしゃべり好きで手がはかどらない。

 

「納経で待たされると、お寺が悪いように怒るもんがおるが、ゆっくりさせてもらってと感謝

 

せないかん。それだけ急いでなんになる。この納経帳も、団体や車のもんは納経帳とは言わん。ただの

 

集印帳や」

 

 おっしゃることはご尤もではあるが、歩き遍路は明るいうちに宿に着きたいのも事実である。特に

 

晩秋の今頃は日が短く、四時をすぎると寒くなるし、五時をまわると暗くなる。

 

 そこへひとりの婦人が割り込んできた。

 

「すいません。お姿を二枚いただけますか」

 

 お姿とはその寺のご本尊を描いた紙の札で、納経すれば一枚ついてくるが、余分に買

 

うこともできる。

 

「お姿は一枚、二枚とはいわん。一体、二体というんじゃ。わかったかな」

 

 半時間は待たされて、私の番になった。白衣に判を押しながら、

 

「これはお守りじゃからな、死に急ぐことはないぞ」

 

 とおっしゃった。判を押した白衣はふつう死に装束である。根はやさしい住職なのだろう。

 

 十一時十分、やっと龍光寺をあとにする。ここからつぎの佛木寺(ぶつもくじ)までは二・六キロ

 

のみちのりである。半時間もあれば着くだろう。ところが門を出たところに、ドクターが過去二回歩

 

いた方向とは逆の方にも佛木寺の標識がでていた。こちらでも行けるのなら、知らない道を行くのも

 

面白いということでそちらに向かう。これが大変な遠回りで、山をひとまわりし、中山池という大

 

きなため池をまわって、たっぷり一時間かかって佛木寺に着いた。二キロほど余計に歩

 

いたことになる。これも「人生、そんなに急いで何になる」という龍光寺の住職の思し召しだろう。

 

 ここ佛木寺のご本尊は大師が彫られた大日如来である。大師がある翁のすすめで牛の背にのってこの

 

地を巡っていた時、牛が一本の楠の大木の前で立ちどまった。よく見るとその枝に宝珠が光っていた。

 

それは大師が唐での修行をおえて帰国するときに、独鈷杵(とっこしょ)といっしょに日本に向けて投

 

げた物だった。そこで大師はこの地を霊地と悟り寺を建て、楠で大日如来を刻み、その眉間に宝珠を納

 

めてご本尊としたという。ちなみに独鈷杵(とっこしょ)は高知で見つかり、そこには青龍寺

 

(しょうりゅうじ)を建てている。

 

 ここで昼食休憩をとり、十二時五十分につぎの明石寺(めいせきじ)に向けて出発する。距離は十一

 

キロほどあり、途中には高さ四百八十メートルの歯長峠(はながとうげ)がある。一時十分、道は車道

 

からそれてとつぜん細く急な登山道となる。十五分ほど急斜面を登ると再度車道にでて、そして間

 

もなくすると又遍路道がある。今度の道は一層急な登攀道で、はじめの二百メートルほどは道の片側に

 

鎖がはってあり、それを伝って登るようになっている。かなりの難所である。

 

 二時をまわった頃、やっと峠に到着する。歯長峠とは面白い名だが、これはこの地に庵をむすんだ

 

巨人の伝説からきている。東国武将の足利又太郎忠綱は無双の勇士で、もともと源氏の出ながら故

 

あって平家側につき武功をあげたが、のちに源氏に追われてこの地に住み着いた。力は百人力、声は

 

十里四方に届き、歯の長さは実に一寸余もあったところから、又の名を歯長又太郎といい、この峠にも

 

歯長の名がついたという。

 

 ここにも大師堂があって、送迎庵見送り大師とある。地図では標高四百八十メートルだが、ドクター

 

の新兵器によれば五百十二メートルだった。峠にはめずらしく風もなく温暖である。二時半、出発して

 

下りはじめる。峠を越えれば旧宇和町、今の西予市となる。

 

 下りは例のまたぎ技を使えば至って楽である。わずか二十分ほどで標高二百メートルの県道に下り着

 

く。ここでこちらに向かって来るひとりの中年女性遍路と出会う。彼女はこれから歯長峠に挑

 

むそうだが、この時間から、しかも女性ひとりでこの難所に向かうとは勇気のある人である。

 

二時五十五分、肱川のたもとに歯長地蔵があり休憩する。またぎによく付いてきたご褒美と言って、

 

ドクターが自動販売機からスポーツドリンクを買ってくれた。

 

 三時三分、出発して肘川を渡る。ここから明石寺まではまだ六キロほどある。峠では風もなく暖

 

かだったが、冷たい風が吹きはじめて少し肌寒くなってきた。空もだんだん薄暗くなり、内心焦りが出

 

て、自然と足が早くなる。下りではドクターが断然速いが、平地や登りでは私の方がすこし速い。

 

ドクターには気の毒だが夕暮れがせまって気がはやるので、休憩する暇はない。一気に歩いて、

 

四時十五分、明石寺に着く。本来なら今度はこちらがドクターに、行者によく付いてきたご褒美をだす

 

番だが、すでにかなり暗くなっているしそんな余裕もなく、早々にお参りを済ませて、四時三十七分、

 

寺をあとにした。

 

 今夜の宿への道は寺の裏山を越えた方が近道である。しかしこの山は高さが四百十メートルあり、宿

 

までの距離はまだ三キロほどある。小一時間はかかりそうである。しかも寺で作業をしていた造園屋

 

によれば、今夜の宿は食事がバイキングなので、早く行かないと美味しい物がなくなるという。夕暮れ

 

道を黙々と歩きながらも、たえずその言葉が脳裏をかすめる。日がとっぷりと暮れた五時半にやっと宿

 

にたどり着いた。龍光寺の住職のお説教と、道をまちがえたため、合わせて一時間ほど予定より遅

 

れたことになる。幸い他に客はいなくて、ご馳走はぶじだった。

 

 

 

 朝食は抜きで、七時半、上宇和の宿を出発する。明石寺からつぎの第四十四番大宝寺(だいほうじ)

 

までは六十キロ以上離れているので、途中二泊する予定で、今日はそのうちの二十キロほど歩いて大洲

 

で泊まることにしている。

 

 国道五十六号線を一路北上し、八時半、道路沿いの喫茶店に入りモーニングセットの朝食をとる。外

 

は寒いので店内はもちろん暖房されている。ところが歩いてきた者には、しばらく暖房が息苦しく感

 

じられる。

 

 九時五分、店をでる。国道はゆるやかな登りである。九時四十二分、高度二百七十メートルまで登

 

ったところで、国道から左にそれて遍路道にはいる。ここからは標高四百七十メートルの鳥坂(とさか)

 

峠へ向けての登山道となる。峠までは二キロほどの距離である。

 

 登りながらドクターが今回持参した遍路必携七つ道具を教えてくれた。もちろんサングラスや

 

携帯電話、雨具、洗面具、医師として必携の各種医療薬、ナイフ、ハサミ、鍼等の常識的な物は別

 

にして、すべて秘密兵器と呼んでもいい物ばかりである。

 

 ヘッドランプに始まり、マスク、GPS、クラッカー、スタンガン、ホイッスル、ドライヤーの七

 

つを持ってきているという。その用途は、ヘッドランプは思いがけない事故で夜の山道を歩く羽目

 

になった時のため、マスクは排気の悪いトンネルを歩く時のため、GPSは道に迷った時や高度測定用

 

としてなんとか理解できる。しかしつぎのクラッカーになると、誰でも打上げパーティ用だろうと考

 

える。ところがドクターによるとこれは熊に出会った時の威嚇用だそうである。猪がこちらに突進

 

してきた場合は、直前にジャンプ傘を開くとびっくりして逃げて行くそうだが、今回は持参

 

していないという。スタンガンは暴漢に襲われた時の護身用で、ホイッスルは非常連絡用、ドライヤー

 

は入浴後の頭髪乾燥用だけでなく、濡れた衣類や靴の乾燥用にあれば便利である。これだけの物を持参

 

しながら、なぜかドクターのリュックはコンパクトにおさまっていて、どらえもんのポケットを思

 

わせる。

 

 実際に四国遍路で熊や猪に出遭うかどうかは別にして、そんな話を聞きながら、十時十八分、峠に着

 

いた。しかしここは見晴らしがまったくきかなかったので、休憩もそこそこに下り始める。

 

 すこし下った所に、日天月天様(にってんがってんさま)と呼ばれる太陽と月を祀った社があり、

 

ここですこし長めの休憩をとる。十時五十五分、日天社を出発して一気に駆け下り、十一時二分、車道

 

に下りつく。そしてその車道をさらに下って、十一時二十分、国道五十六号線にでた。ドクター

 

によれば、もっと近道で国道に出られるはずが、今回は標識を見過ごして遠回りをしたようである。

 

 国道との交差点に犬をたくさん飼ったドッグハウスが一軒あり、そばを通りかかると、女性が出

 

てきて、休んで行くようにとすすめられた。たくさんの犬に迎えられて中に入り、コーヒーとクッキー

 

とみかんをお接待される。十一時三十五分、犬たちに別れを告げて出発する。

 

 国道は大洲に向かってひたすら下りである。十二時十五分、途中の番外霊場、札掛大師堂に寄る。荒

 

れ果てた無人のお寺だった。お参りのあと、門前をかりて弁当を食べる。十二時四十五分、出発して、

 

その後も国道を下りつづける。一時半、道路沿いの喫茶店でコーヒー休憩にした。大洲

 

はもうすぐである。

 

 二時半、やっと肱川の畔(ほとり)まで下りつく。ここは大洲の城下町で、古い町並みがきれいに

 

整備保存されている。以前、NHKの連続テレビ小説『おはなはん』の舞台にもなった所で、

 

“おはなはん通り”という名の通りもある。小高い石垣の上には大洲城が見えている。二時五十分、

 

肱川橋を渡れば、宿まではあと二キロ弱である。三時十分、宿に到着した。小奇麗なビジネスホテル

 

だった。

 

 

 

 七時半、大洲の宿を出発する。気温が低いので、手袋をしていない手が冷たい。第四十四番大宝寺

 

(だいほうじ)に向けて、今日も移動日である。今日は大洲をでてまず内子(うちこ)まで国道五十六号線

 

を行く。内子からは国道三百七十九号線を十五キロほど歩いて小田町に入った所で、国道三百八十号線

 

に入り、五キロほど先の民宿に泊まる予定にしている。道はかすかな登り下りがある程度で大きな峠

 

もなく、全行程は三十一キロとなる。

 

 宿から二キロすこし、時間にして三十分ほど行った所に番外霊場の十夜ケ橋(とやがはし)がある。

 

ここは大師が一夜の宿を頼んだが断られ、やむなくこの橋の下で眠ったといわれる場所である。遍路は

 

橋の上で杖をついてはいけないと言われているのは、この伝説に由来するもので、橋の下で休

 

まれているお大師様を、杖の音で起こしてはいけないという配慮なのである。

 

 お参りの後、八時二十五分、十夜ケ橋を出発する。国道を五キロほど行き、九時三十五分、大洲市

 

から内子町に入る。さらに十分ほど行った五十崎(いかざき)で、国道からそれて遍路道に入る。細く

 

平坦な山道である。道の両側には赤や白のリボンのついた細い棒が延々一キロくらいに亘って立

 

っていた。地元の有志の好意だろう。遍路としては励まされる。

 

 十時、道端に腰をかけて休んでいたら、ひとりの青年遍路がやってきた。おんぼろの靴をはき、背中

 

には野宿用の断熱マットやござまで抱えている。神奈川県に住んでいて、この十月一日に徳島に入り、

 

野宿と通夜堂泊まりばかりでここまで来たそうだが、それにしては時間がかかり過ぎである。聞

 

いてみると友人の家に滞在したり、足摺岬などは八日間もキャンプしたという。年齢は三十才で、

 

世界中をこの調子で放浪しているそうだった。十時半、再会を期して先に出発する。

 

 すこし下るとまず運動公園が現れ、まもなく内子の町に入る。内子も古い町並みを保存する動きが

 

活発で、内子座という大正時代に建てられた歌舞伎劇場を復元してあったり、坂の両側に落ち着いた古

 

い家並みが続く八日市という観光スポットもある。

 

 寄り道をしてしばらく町並みを散策する。路地裏に焼きたてパンの店があったので、昼食用にと立ち

 

寄る。パンを買って帰ろうとしたら主人が暖かい缶紅茶をお接待してくれた。十一時半、そのパンと

 

紅茶をもって、近くの道の駅“内子フレッシュパークからり”で昼食にする。

 

 十一時四十五分、道の駅を出発して、これからは県道三百七十九号線を小田川に沿って遡る。道は緩

 

やかな登りで、今夜の宿はこれから十九キロほど先の、高度百五十メートルの地点にある。我々より

 

数百メートル先を、例の野宿青年が歩いている。これから何日かは、抜きつ抜かれつの状態

 

がつづくだろう。

 

 ドクターといっしょに歩いていると、毎日何らかの有意義な教訓を拝聴できるのだが、今日の教訓

 

は、『靴下は裏返しに履く』というものだった。クラッカーに始まり、だんだんおっしゃることが怪

 

しくなるが、これもよく聞くと一理あるもので、靴下の中は指の付け根あたりに縫い目のでっぱりが走

 

っている。長時間履いているとこれが足の血行不良をまねき、痺れたりマメなどの原因

 

になるそうである。

 

 ずっと前を見え隠れしていた青年の姿が見えなくなった。どこかに寄り道したのだろう。

 

十二時四十五分、長さ三百九十二メートルの長岡山トンネルに入る。そして出た所にはお遍路無料宿

 

があった。歩き遍路へのお接待の無料宿は各所にあるようで、コンビニなどでも、「もし今夜の宿が決

 

まってないようでしたら、この近くに無料の宿がありますよ」と言われることがある。

 

 沿道には柿農園が続いていて、ちょうど収穫期を迎えた富有柿をビニールの袋に詰めて、一袋百円で

 

無人販売していた。安いけれども一袋買うと荷物になる。そんな中で、たまにばらの状態

 

のものがあり、そちらは『ご自由にどうぞ』と書いてある。商品にならないものかも知れないが、見た

 

目は変わらない。二個頂いて行く。

 

 一時十分、長さ百九十メートルの和田トンネルを通過する。道路の右手は肱川水系の小田川が流

 

れている。時々、部落があって小学校や郵便局が現れるが、概して単調な道である。休憩する場所は

 

バス停くらいしかない。二時半、千人宿大師堂、二時四十分、楽水大師と続けざまに二つの大師堂

 

をすぎ、三時ちょうど、内子町から小田町に入る。

 

 ここで高さは標高百三十メートルである。川沿いの谷筋ばかり歩いているので、日陰が多く肌寒い。

 

ゆるやかな登りをもう五キロほど行き、四時十五分、古い木造二階建ての民宿に着いた。いかにも実直

 

そうな老婆が一人で切り盛りしている宿で、玄関に入るなり家中にトイレのアンモニア臭が充満

 

していた。だがこれも修行と我慢するしかないだろう。

 

 

 

 六時半に宿を出発する。夜が明けたばかりで、気温は一度三分である。これから向かうつもりの

 

第四十四番大宝寺と四十五番岩屋寺(いわやじ)は、今までも夕食時など遍路同士でよく話題になった所

 

で、順番通りなら鴇田(ひわた)峠越えだが、泊まる宿の都合とむだな歩きを減らすことを考えると、

 

農祖峠(のうそのとう)越えで先に岩屋寺に行く方がいい。峠の高さも鴇田峠が七百九十メートル、

 

農祖峠が六百五十一メートルで農祖峠の方が低い。

 

 ドクターの予定では、今日は農祖峠越えで岩屋寺に先に行き、そこから大宝寺に向けて三キロほど帰

 

った所にある国民宿舎に泊まるつもりだったが、昨夜の宿の情報では、農祖峠が夏の終りの台風以来道

 

が荒れて不通状態だという。かといって鴇田峠を越えて大宝寺まわりで宿まで行くのも強行軍

 

になるので、すこし遠回りだが国道三十三号線と県道二百九号線経由で岩屋寺を目指すことにした。

 

 宿を出ると国道三百八十号線はすぐに山を登り始める。七時四十分、標高四百十メートルの地点

 

にある三島神社に着き、しばらく休憩する。ここで昨日の無人販売所で頂いてきた柿を食べる。非常に

 

甘くて美味しい柿で、こんなに美味しいのならもっと頂いてきたらとも思ったが、あまり欲張ると荷物

 

になる。

 

 神社をでると道は国道のS字カーブを避けて急斜面を登る遍路道となる。そして百メートルほど登

 

ると又国道にでる。八時二十分、高度五百七十メートルまで登った所に真弓トンネルがあり、ここで登

 

りは一旦終わる。

 

 トンネルの長さは七百十メートルあり、風通しがいいので非常に寒い。このトンネルを境に小田町

 

から久万高原町(くまこうげんちょう)に入る。トンネルをでると、景色は一転して霧の世界に変

 

わったが、この霧も下るにつれて徐々に晴れてきた。地図で想像していたところでは、この辺りは

 

標高五百メートルから八百メートルの高地だから、山また山の寂しい所だろうと思っていたら、実際

 

はかなり町が開けていて、九州の阿蘇を思わせる所である。霧が晴れると、日差しもでてすこし暖

 

かくなる。道端には一本の四季桜が咲いていた。

 

 九時半、小川のそばで休憩していると、向うからひとりの男性遍路がやってきた。たった今、農祖峠

 

を下ってきたところだが、道に水があふれて川のようになっていて、たいへん難儀をしたそうで、

 

できればそちらに行かない方がいいということだった。もちろん農祖峠は避けるつもりで

 

国道三百八十号線を歩いているつもりである。ところがすこし行くと、農祖峠への入口が道路の右側

 

にあった。地図によれば国道を行くかぎり農祖峠への入口はなく、たとえあっても左側のはずである。

 

 首をかしげながら先を急いでいると、やっと別れ道に道路標識が現れた。しかしそこには想像

 

していた交差点とはまったく辻褄の合わない表示がでていた。この表示だと我々は国道ではなく、

 

県道四十二号線を北に向かっていることになる。国道なら東向きのはずである。どこかの曲がり角で道

 

を間違えたのだろう。しかも間違えてからすでに四キロちかく歩いている。これから引き返

 

すわけにはいかない。このままもう少し行けば、鴇田峠への入口があるはずだからそちらを行

 

くしかないだろう。選りによって一番の難コースを選んだことになるが仕方がない。

 

 十時半、鴇田峠への遍路道に入る。峠の高さは七百九十メートルだが、登り口ですでに五百三十

 

メートルの高度だから、差引きすれば恐れるには当たらない。晩秋の遍路は汗をかくことが少ない代

 

わりに小便が近くなる。人目の多い国道などはむつかしいが山の中は気楽で、ドクターと連

 

れしょんになることが多い。そんな時、峠を登りながらドクターが後で独り言のように俳句

 

をひねっている声が聞こえてきた。

 

「秋風やツレション誘う遍路かな。いいねえ、感じがでてるねえ。秋風は冷たいけど、遍路は楽

 

しいんだろうなあ」

 

 自分で詠んで、自分で鑑賞している。しかしドクターが句を詠むのは、なぜか小便をした後に限

 

るようだった。私も負けずに、すこし格調は下がるけれども同じ趣向で一句返す。

 

「秋遍路立ちしょんもする雉も撃つ」

 

 ふつう遍路をしていると、毎日、快食快便なのだが、今回はめずらしく出ない日が三日ほど続いた。

 

ありとあらゆる薬を持参しているドクターに聞くと、たまたま緩下剤だけは持

 

ってきてないそうだった。そして今朝宿をでて、歩いている時に催してきたので、そばの杉林の中に入

 

る。出てきた私にドクターがどうでしたと聞く。

 

「大きな雉を撃ってきました。今夜は雉鍋にでもしましょうか」

 

「そう、それはよかった」

 

 という会話をしたところだった。

 

 話題がすこし下方に向いたが、道はけわしい登りである。二・五キロの間に二百五十メートルほど登

 

らなければならない。十一時に一回休憩して、十一時十五分、峠に着く。休憩しながら、柿の残りを食

 

べる。この峠は古くは二名(にみょう)地区と久万(くま)地区をむすぶ主要街道で、昭和三十年頃

 

まではこの場所に茶屋があったそうである。

 

 十一時三十七分に下りはじめ、一気に三百メートルほど駆け下り、十二時五分、国道三十三号線

 

にでる。国道を越えると一キロほどで第四十四番大宝寺である。門前まで行けば何か昼食をする所

 

があるだろうと思っていたが、土産物屋が一軒あるきりだった。そこには弁当もパンもなく、辛

 

うじてよもぎ餅があった。それしかなければ仕方がない。店内で食べさせてもらうことにしたら、まず

 

熱いお茶がでてきて、その後でコーヒーとみかんまでお接待された。

 

 十二時四十分、大宝寺の山門前に着く。この辺りから次の岩屋寺までふくめてすべて久万高原で、

 

ここでもすでに高度五百六十メートルの高地だが山の上という感じはしない。この寺は大宝元年に

 

文武天皇の勅願によって創建されたことから名前も大宝寺となったそうで、以後戦火や火災で三度も

 

焼失し、現在の伽藍は大正時代に再建されたものである。後白川天皇の脳の病をみごと平癒させた所

 

から、脳に関連した病にご利益があるといわれている。

 

 仁王門を入ると境内はちょうど銀杏(いちょう)の葉が黄色く色づいて秋の陽に映えている。偶然

 

のように、境内の一角に山頭火の句碑があって、『朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく』とある。

 

山頭火も同じ時期にここにやってきたようだ。

 

 一時十分、大宝寺を出発して今夜の宿に向かう。宿へは寺の裏山を越えた方が近道である。山の高

 

さは七百十五メートルで、山を越えて県道十二号線にでれば、あとは一路東に行けばいい。道は

 

高度五百メートルから六百メートルの間で、ゆるやかに起伏している。下っていた県道が再度登

 

りはじめ、高度五百七十メートルの峠を越えた所に今夜の宿があった。到着は三時少し前である。

 

 ここから第四十五番岩屋寺までは三キロほどで、二時間もあればお参りして帰って来

 

られるそうなので、急げば明るいうちに済む。そうすれば明日が楽である。リュックだけフロントに預

 

けて、すぐに岩屋寺に向けて出発した。

 

 久万高原は奇岩が売りものの観光地のようで、至るところにでこぼこの岩肌が露出している。沿道

 

もきれいに清掃されてすっきりしている。しかも季節柄まわりの紅葉が非常に美しい。古岩屋

 

(ふるいわや)トンネルを抜けて、三時半、岩屋寺の山門前に着く。ここが標高四百四十メートルで、

 

本堂はここから更に一キロちかく急な参道を登って、高さ六百七十メートルの場所にある。

 

 参道は足元も手すりもきれいに整備されているけれども、お年寄りにはたいへんな道である。我々

 

はまたぎと行者のプライドをかけて、駆け上るような速さで登って、三時四十分、本堂に着く。岩屋寺

 

という名前の通り、寺の建物は本堂も大師堂もすべて後の岩盤にへばりつくように造られている。岩は

 

礫岩で、数千万年前は海底にあったものが、長年の間の断層運動によって隆起し、侵食されて現在の

 

独特の山容になったそうである。

 

 ここには大師が修行した洞窟がふたつあり、ひとつは『穴禅定(あなぜんじょう)』で、もうひとつは

 

『逼割禅定(せりわりぜんじょう)』と呼ばれている。逼割禅定はふだん鍵がかかっていて、寺務所で鍵

 

を借りれば入れるそうだが、中は真っ暗で鎖だけを頼りに十メートル登り、さらにその後二十一段の

 

梯子を登ると頂上の白山権現に出られるというけれども、かなりの難行のようなので、今回は敬遠して

 

穴禅定にだけ挑戦してみた。

 

 こちらも真っ暗な洞窟で、手すりだけを頼りに奥に入ってゆくと、かすかな明かりの中に祠がある。

 

ここにも大師が掘られた独鈷の霊水が湧いているという。しかし暗く気味が悪く、あまり長居

 

したくない所なので早々に外にでる。ドクターの秘密兵器のヘッドランプも使う余裕がなかった。

 

 四時十分、岩屋寺を出発する。夕暮れがちかいので、山門までの一キロを駆け下り、県道を急

 

いでいると、一台の車が止まっていて乗っていかないかと誘われる。壮年の男性で、車でひとり遍路

 

をされているようである。番外霊場はともかく正規の遍路コースは乗り物に乗らない、という暗黙の

 

了解がドクターとの間にあるので鄭重にお断りすると、昔なつかしいボンタンアメを一箱ずつお接待

 

してくれた。四時四十分に宿に帰りつく。

 

 この宿は国民宿舎で風呂は天然温泉である。夕食のときドクターが、お風呂で例の青年に会

 

ったという。たぶんこの近くで野宿することにして、入浴にだけ来たのだろうが、この辺りは夜

 

たいへん冷え込むはずである。いくら温泉で温まっても一時的でしかない。もし姿を見かけたら声

 

をかけて、今夜この宿に泊めてやろうと思い、食事をしながらたえずロビーに注意していたが姿を見

 

せなかった。

 

 

 

 朝七時半、宿をでる。よく晴れて日が差してはいるが、気温はかなり低い。県道まで出たところで、

 

ばったりと例の青年に会った。近くのバス停で野宿していたが、寒くて一晩中こちこちになり、やっと

 

太陽が出てきたので外に飛び出したのだという。道路沿いの畑には白く霜が下りているので、昨夜は

 

零下まで気温が下がったようだ。

 

 今日の行程は、まず昨日の大宝寺に向けて県道を引き返し、お寺には寄らずに、近くの

 

番外霊場於久万大師(おくまだいし)に寄る。そのあと国道三十三号線経由で三坂峠を越え、十一キロ下

 

った浄瑠璃寺の門前で泊まる予定にしている。距離は二十六キロほどになる。

 

 大宝寺は昨日すでにお参りしているので、山越えはせずこのまま県道を行くと、途中に長さ

 

六百二十三メートルの峠御堂(とうげみどう)トンネルがある。九時十分、トンネルに入る。この

 

トンネルには段差歩道がなく、代わりに入口に反射素材つきのタスキが置いてあった。

 

 このまままっすぐ行けば一キロほどで国道三十三号線に突き当たる。そして国道にでる少し手前に、

 

番外霊場の於久万大師(おくまだいし)がある。ここは修行で通りかかったお大師様を親身になってお

 

世話した於久万という女性を祀った大師堂である。交差点のコンビニで弁当を買って、十時、つぎの

 

第四十六番浄瑠璃寺へ向かう。

 

 ここから国道は標高七百十メートルの三坂峠に向かって七キロほどまっすぐにひたすら登っている。

 

遍路道ではないので、勾配はそれほどきつくなく、行者としてはむしろ楽なのだが、またぎのドクター

 

はそうでもないようで、少しずつペースが落ちてくる。

 

 そんな場合、喫茶店にでも入って甘いものを少し食べるとすぐに元気を取り戻し、しばらくは又

 

おなじペースで歩けるようになる。喫茶店がない所では、あらかじめコンビニで大福餅を買っておいて

 

休憩時に差し上げると、これも即座に効果を発揮する。その効果はドクターご自身がびっくりする程

 

で、我々はこれを“まんじゅう効果”と呼んだ。

 

 十時十分、道路沿いの喫茶店で休憩する。ここにはケーキがなかったが、コーヒーに砂糖を入

 

れればそれでもいい。砂糖入りコーヒーのまんじゅう効果で、またしばらく元気に登りつづけ、

 

十一時半、高さ六百二十八メートルのレストパーク明神に着く。ここで休憩しながら弁当を食べる。

 

建物としては吾妻屋とトイレがあるきりで、風通しがよくじっとしているとすぐに体が冷えてくる。早

 

々に出発して、十二時十分に峠に着いた。いよいよここから松山市である。

 

 下りは国道からそれて遍路道がある。浄瑠璃寺まではあと十一キロほどである。その間、最初の二

 

キロで一気に四百メートルほど下る。藩政時代には土佐街道の最大の難所といわれていた所で、

 

ドクターの技の見せ所でもある。その後はゆるやかな下りとなる。午後は風もなく日差しが暖

 

かくなり、のどかな晩秋のハイキング気分を味わった。

 

 一時三十五分、標高百七十メートルまで下って、榎の里にある番外霊場網掛石に寄る。この石は昔、

 

弘法大師が大きな石を網に入れて担い棒でかついでいたところ、突然棒が折れて石がころげ落ち、

 

ひとつは川底に、そして残ったひとつがこの石だという。石には確かに網の目がついている。

 

 この石のそばに大師堂があり、お参りしているとひとりの男性が出てきた。この大師堂を代々守

 

っている橘さんといい、しばらくお話を伺った。現在の大師堂は、六十七才まで元気に暮らして来

 

られたお礼として橘さんが新しく建てかえたものだそうである。

 

 一時五十分、網掛石を出発する。ここから第四十六番浄瑠璃寺までは国道をゆるやかに下って四キロ

 

ほどである。二時三十五分、浄瑠璃寺の門前に着く。向かいには今夜泊まる予定の宿があるが、寄

 

らずに先にお参りをする。

 

 この寺は今から千三百年ほど前の開創という歴史あるものだが、その間、荒廃と復興を繰り返し、

 

現在の本堂は二百二十年前の天明年間に建てられたものだという。別名で『ご利益のよろず屋』とも呼

 

ばれていて、境内には健脚や交通安全にご利益のある仏足石をはじめ、知恵や技能には仏手石、

 

心身強固や文筆達成には仏手指紋、延命や豊作には樹齢千年のイブキビャクシンといった物が所狭しと

 

配置されている。お参りを済ませて、三時に向かいの宿に入る。

 

 

 

 朝六時五十五分、浄瑠璃寺門前の宿を出発する。今日はこれからほんの一キロほど先にある

 

第四十七番八坂寺をふりだしに、道後温泉のそばの第五十一番石手寺(いしてじ)まで行く予定

 

にしている。道は平坦で距離も十四キロほどしかなく、午後の早い時間に宿に入れるだろう。

 

 七時十分、八坂寺に着く。朝が早いので境内は閑散としている。この寺も開基以来千二百年の歴史

 

のある寺で、中世には修験道の根本道場として七堂伽藍をはじめ、十二の宿坊、四十八の末寺を持

 

つほど栄えたが、その後衰退と復興のくりかえしで、現在の伽藍はすべて比較的新

 

しいものばかりである。本堂は青い屋根のコンクリート造りだが違和感なく周囲の景観と調和

 

している。

 

 八坂寺の標高が九十五メートルあり、今日の最終目的地である第五十一番石手寺が五十メートルで、

 

その間の距離が十三キロほどだから、歩く感覚は平地と変わらない。八坂寺をでて途中、番外霊場の

 

文殊院と札始大師堂に寄り、県道四十号線で重信川を渡って、八時五十五分、第四十八番西林寺

 

(さいりんじ)に着く。

 

 この寺の仁王門の前には小川が流れていて、門に入るには太鼓橋を渡る。そして境内は土手

 

よりすこし低い位置にあり、そのため罪人が門をくぐると無間地獄に落ちるといわれている。また近

 

くには杖ノ淵(じょうのふち)と呼ばれる池があって、今は公園になっているが、この水も弘法大師が杖

 

で掘り当てた水で、現在も枯れることなく湧きでていて、日本の名水百選にも入っているという。

 

 西林寺をでると次の第四十九番浄土寺までは、市街地を抜けて三キロあまりである。十時十分、途中

 

の喫茶店でコーヒー休憩にする。店内にはラテン系の軽い音楽が静かに流れている。その音楽を聞

 

きながらドクターが見慣れない手つきで体を動かし始めた。聞いてみると、ドクターはインターン時代

 

からダンスを始められたそうである。お接待にケーキとみかんを持ってきたママさんも、「私もダンス

 

をやっているんですよ」といって、ドクターと話が盛りあがる。

 

 その時ガラス越しに通りの向うを、一人の若者遍路が通って行く姿が見えた。背中にござをかつぎ、

 

胸にチベットの坊さんの袋を下げている姿はまぎれもなくあの若者である。とっさに飛び出していって

 

彼を呼び込む。ここには熱いコーヒーと、お接待のケーキとみかんもある。彼には有難

 

いごちそうだろう。

 

 突然呼ばれてびっくりしたようだが、彼は嬉しそうに付いて店に入ってきた。彼も今日のゴールは

 

道後温泉のつもりだというので、今日一日は一緒に行動することにした。ついでに毎日どんなものを食

 

べているのか聞いてみると、最近はスーパーでもらったオカラを水で溶いて、塩を振って食

 

べているそうだった。なんとも逞しいが、かわいそうでもある。今夜、我々の宿に泊めてご馳走

 

することにした。

 

 我々の今夜の宿は、昨夜予約する時に、せっかくの道後温泉なので、温泉つきの宿をと思ったが、

 

あいにくの土曜日でどこもすべて満室だった。仕方なく温泉からすこし離れた石手寺の門前の民宿を

 

予約している。部屋は私の部屋を一緒に使えばいいので、電話で食事の追加を頼む。

 

 店をでて十分ほど歩いて、十一時ちょうどに浄土寺に着く。この寺も千二百年以上の歴史をもつ由緒

 

ある寺である。現在の堂宇は今から五百二十年ほど前に、土地の豪族である河野通宣の手によって再建

 

されたもので、和洋と唐様の融合した室町時代の代表的な建物として国の重要文化財に指定

 

されているという。大正十一年に建てられたという仁王門も古色蒼然として趣がある。

 

 つぎの第五十番繁多寺(はんたじ)は浄土寺から北へ二キロほど、高度差で三十メートルほど登った所

 

にある。十一時四十分に到着する。この寺はもともと光明寺といっていたが、弘法大師がここを

 

第五十番札所と定めたときに寺号を繁多寺と改めたそうである。また一遍上人が修行した寺としても

 

有名である。堂々とした山門は桜の紅葉に囲まれて美しく映え、境内も広く、落ち着いた風情がある。

 

 十二時十分、繁多寺を出発する。まわりはだんだん賑やかな市街地となる。つぎの第五十一番石手寺

 

(いしてじ)までは三キロほどある。昼時なので途中のどこかで昼食をと考えていたら、ちょうどいい

 

具合に中華料理店があったので、久しぶりに熱いラーメンを食べる。彼も熱い汁物は何よりのご馳走

 

にちがいない。

 

 昼食をすませて一時十五分、石手寺に着く。この寺は六万平米をこえる広さの寺域をもち、その広大

 

な敷地には四国霊場でも随一の寺宝や文化財を有しているといわれている。まず中門を入ると、道の

 

両側に土産物や焼餅などを売る店が立ち並ぶ屋根つきの回廊があり、その突き当りが国宝の仁王門

 

である。今から六百七十年前に建てられたもので、楼門の蛙股(かえるまた)は湛慶、左右の仁王像は

 

運慶の作といわれている。

 

 又ここの大師堂は別名『落書堂』とも呼ばれて夏目漱石や正岡子規といった名士の落書

 

きがたくさんあったそうだが、戦時中に壁を塗り替えたために現在は残っていないのが残念である。

 

 本堂と大師堂にお参りしたあと、本堂裏にある都卒天洞と呼ばれる洞窟に入って、八十八ヶ所霊場

 

めぐりをする。この洞窟は暗くはないけれども、奥行きが百メートル以上あるのではないかと思

 

われるほど長いものだった。

 

 門前で焼餅を食べて、二時十分、近くの民宿に着く。しかし時間が早いので、リュックだけ置

 

いてすぐに付近の散策にでかける。ここから道後温泉本館までは一キロほどで、その間に番外霊場

 

として義安寺(ぎあんじ)と宝厳寺(ほうごんじ)があり、又、岩清水八幡と宇佐八幡とあわせ日本に三

 

つしかない八幡造りの社殿をもつ伊佐爾波(いさにわ)神社もある。

 

 二時半、義安禅寺着。この寺は薬師如来をご本尊とする曹洞宗の寺で、河野景通の子彦四郎義安が

 

建立したものである。その後千五百八十五年に河野家断絶の折、一族や老臣がそろってここで自刃し、

 

その精霊が蛍になったと言われている。それは“義安寺蛍”“源氏蛍”と呼ばれる大型のもので、この

 

辺りは蛍の乱舞する名所だったようである。

 

 隣の伊佐爾波神社にお参りし、そのまま裏山を上がると宝厳寺である。この寺は時宗の開祖一遍上人

 

の生誕地として名高く、寺内にある一遍上人像は重要文化財に指定されているそうである。

 

 これで今日のお参りはすべて終りで、せっかくの道後温泉だから、青年と私は近くのぼっちゃんの湯

 

に入ってもいいなと考えていたのだが、ドクターが「とんでもない。湯冷めします」という顔

 

をしていたので、口に出さずに宿に向かう。

 

 三時十五分、宿に帰着。彼は溜まった洗濯をし、ゆっくり風呂に入り、いつもの三日分に相当すると

 

思われるご馳走を食べ、暖かい部屋でふかふかの布団に寝て、「幸せです」と言いながらすぐに寝

 

てしまった。

 

 

 

 朝六時四十五分、又の再会を期して青年と宿の前で別れる。愛媛遍路も今日で十日目である。初日に

 

雨が降ったきりで、その後はまったく降っていない。今まで見てきた川でも、水の涸れてしまった川

 

がたくさんあった。遍路としては有難いのだが、わが家の菜園がすこし気になる。

 

 今日は道後温泉をあとに北上して、松山市内にある第五十二番太山寺(たいさんじ)と五十三番円明寺

 

(えんみょうじ)の二つのお寺にお参りし、北条市に入り、浅海(あさなみ)というところにある海辺の

 

民宿に泊まることにしている。ところが実際に歩いてみると、北条市は今年の七月に松山市と合併

 

してすでに松山市になっていた。したがって今日は一日、三十キロほど松山市内を歩くことになる。

 

 道後温泉から太山寺までは三通りの遍路コースがあり、一番直線に近いコースを行く。

 

どちらにしても距離は十キロほどで、平坦地ばかりである。松山大学グラウンドを左に見ながら西

 

にしばらく行くと国道百九十六号線にぶつかり、これを右折し国道に沿って堀端の道を北上する。

 

半時間ほどで県道四十号線との交差点がありこれを左折する。

 

 そのままあと一・五キロほどはまっすぐに行けばいいのだが、宿を出発してすでに一時間半ちかく歩

 

いている。途中の喫茶店に入って、コーヒー休憩にした。ドクターは家ではコーヒーを本格的に淹

 

れているそうで味にはちょっとうるさい。それで前回の高知以来、毎回店を出るとすぐに、お互いの

 

採点を披露しあうことが習慣となった。そういうことでいつの間にか、コーヒーを飲みたくなると、

 

「そろそろ鑑定したいですね。どこかにいい鑑定所はないかな」

 

 などという会話が、一日に一回は交わされる。しかし今回のように“あえて鑑定せず”ということで

 

両者の意見が一致することもある。

 

 喫茶店をでて二十分ほど行った所で、ある一人のご婦人と会った。最近、医者に糖尿だと言

 

われているので、つとめて散歩に出て、お遍路さんをつかまえては自宅で飲み物をお接待

 

しているそうで、我々も呼ばれて縁側で缶入りのスポーツ飲料を頂いた。その後、二十分

 

ほどいっしょに歩いて案内をしてくれ、大将軍神社という所でお別れした。

 

 九時三十五分、太山寺の一の門に着く。ここから本堂まではかなり急な登り坂で、距離にして六百

 

メートル、高さで七十五メートルまで登らなければならない。九時五十分、本堂に着く。この本堂は

 

千三百五年に領主河野氏によって再建されたもので、札所の中では二番目に古く、国宝に指定

 

されている。またご本尊は十一面観世音菩薩で、行基作の像を中心に七体の十一面観世音菩薩像が安置

 

されているそうだが、これはすべて平安後期の歴代天皇の勅納品で、秘仏となっているそうである。

 

 ここから海に向かってまっすぐに山を越えれば、一キロほどで松山観光港があり、高速艇に乗れば

 

ドクターは一時間で広島に帰られるが、今回は愛媛最後の六十五番三角寺(さんかくじ)まで歩き通す

 

予定なので、今治方向に向かって山を下りる。つぎの円明寺(えんみょうじ)までは県道三十九号線経由

 

で二・五キロほどである。

 

 十時五十分、円明寺(えんみょうじ)に着く。この寺は弘法大師が第五十三番札所として定めた時は、

 

和気の海辺に建っていたが、その後鎌倉時代に兵火で焼失し、千六百十五年に土地の豪族須賀重久

 

によって現在の地に再建されたという。民家の立ち並ぶ中にあり、地元の人たちからは『和気の圓明

 

さん』として親しまれているという。

 

 十一時半、県道三十九号線の交差点にあるドライブインで昼食にする。うなぎ料理専門の

 

ドライブインだった。美味しいうな丼を食べて、十一時五十分に出発する。次の第五十四番延命寺

 

(えんめいじ)までは三十キロ以上離れているので、今日はこのあと海岸線を十五キロほど北上して浅海

 

(あさなみ)で泊まる予定である。

 

 十二時半、海岸沿いに電車をかたどった変わった喫茶店を見つけ、入って休憩する。車窓から海の

 

景色を見ながら飲むコーヒーはなかなかいいものだった。一時十分、旧北条市に入る。柳原という所で

 

道は県道百九十六号線から県道百七十九号線に変わる。しかし名前が変わっただけで、両側に民家の立

 

ち並ぶ海岸沿いの車道に変わりはない。

 

 二時十分、伊予北条駅ちかくで浜辺にでて、海を見ながら休憩する。目の前には鹿島という小さな島

 

がある。無人島のようだ。風もなくのどかで暖かいので、十五分ほどゆっくりする。二時五十分、

 

道路沿いにある番外霊場の養護院にお参りして行く。ここは別名“杖大師”とも呼ばれていて、遍路中

 

の弘法大師の杖、草鞋、数珠などが伝えられているそうである。

 

 ここからは小高い山を越えれば浅海への近道で、途中には番外霊場の鎌大師もあるのだが、別れ道の

 

遍路マークを見落としたため、そのまま海岸線を遠回りした。道は国道百九十六号線である。

 

 四時二分、海辺の洒落た民宿に着く。二階がカフェレストランで、三階が民宿となっていた。二日前

 

に電話で予約したときに、「食べる物でお嫌いな物はありますか」と聞かれびっくりしたが、親切で

 

誠実そうな奥さんの対応は、期待できる宿である。

 

 今夜の客は我々だけだった。そしてこの宿は期待にたがわず、部屋も浴室もトイレもすべて清潔で、

 

心配りが行き届いている。遍路にとって一番有難い乾燥機つきの洗濯機もあり、もちろん無料である。

 

夕食の料理が素晴らしかったことは言うまでもない。朝食は和食と洋食のどちらでもできるというので

 

洋食を予約した。今回の遍路にでて初めての洋食である。

 

 

 

 美味しいパンとコーヒーの朝食を食べて、七時四十分に宿をでる。宿泊料を払うときに、又その安

 

さに驚いた。最近の遍路宿の最低相場六千円よりさらに千円も安い。しかもバナナとミカンのお接待

 

つきである。毎日ホームページに出している遍路日記にも、宿の料理や料金のことにはあまり触

 

れないようにしてきたが、ここだけは褒めておいた。

 

 今日はこれから海岸沿いの国道百九十六号線を行き、今治市内に入って、第五十四番延命寺と

 

五十五番南光坊にお参りし、駅前のビジネスホテルに泊まる予定である。歩く距離は二十四キロ

 

ほどになる。

 

 八時四十五分、松ヶ崎という小さな半島を過ぎると、菊間の町並みが現れる。伊予灘に面して国道沿

 

いに並んだこの辺の家は、すべて小さな町工場のような造りになっていて、見ると、どの家もみな

 

家内工業で瓦を焼いていた。この辺りの瓦は、菊間瓦として愛媛県の伝統的な特産品

 

になっているそうである。

 

 八時五十五分、国道沿いにある番外霊場の遍照院に寄る。ここは弘法大師の開基で、別名

 

『厄除大師』と呼ばれ、毎年節分には厄除の護摩修行がとり行われているそうである。お参

 

りしていると老婦人がでてきて、お菓子を一袋お接待された。

 

 九時半、国道沿いのドイツ風喫茶店に入り休憩する。店内には静かにモーツァルトが流れ、落ち着

 

いた雰囲気を醸しだし、コーヒーもよかった。十時十分、太陽石油の菊間製油所を左に見ながら少し行

 

くと、右手に番外霊場青木地蔵がある。ここは大師が杖で示された所を掘ると清水が湧き出て、記念に

 

青木を植えられたという伝説のある霊場である。この水は腰から下の病に特によく効

 

くといわれ、『腰、しもの地蔵さん』として親しまれているそうである。通夜堂もあるが無人

 

のようで、みかんが一箱置いてあり、「自由にどうぞ」と書いてあったので一つ頂いてその場で食

 

べる。

 

 青木地蔵をでてすぐに、ある雑貨屋の前を通ると、主人が出てきて紙パックの牛乳をお接待

 

してくれた。四国はどこまで行っても、歩き遍路に対するお接待の風習が浸透しているようである。道

 

は左手に海を見ながら、国道百九十六号線をひたすら今治をめざして進む。しかし今治が近づくにつれ

 

海岸線には造船所などがふえ、のどかさがなくなる。

 

 十二時をまわったところで道路沿いの大きなうどん屋に入って昼食をとる。その後、半時間ほど行

 

った別れ道で国道からそれて県道三十八号線に入り、さらに半時間ほど行った一時四十五分に

 

第五十四番延命寺に着いた。

 

 この寺はもともと今治市の西北にある近見山(ちかみざん)の頂上にあったため近見山円明寺

 

(えんみょうじ)と呼ばれていたが、度々の兵火に遭い、千七百二十七年に現在の地に移築され、

 

明治時代に入ってから寺名も近見山延命寺と変わったという。つまり明治時代までは五十三番と

 

五十四番はどちらも同じ円明寺だったそうである。

 

 この寺の鐘は初代を近見太郎といい、その音色の美しさから長宗我部軍に略奪され、船で移動中に

 

突然鳴りはじめ、「いぬる、いぬる」と言いながら海に転げ落ちたという。「いぬる」とはこの辺りの

 

方言で「帰る」ということである。現在は近見二郎と三郎のふたつの鐘があり、ふだんは三郎を撞き、

 

二郎の音色は大晦日の晩にだけ聞かれるそうである。

 

 二時十分に延命寺を出発し、三・五キロ離れた第五十五番南光坊に向かう。遍路道を一キロほど東に

 

行き西瀬戸自動車道をくぐると、にぎやかな今治の町に入る。南光坊は今治市の市街地のまっただ中

 

にあり、三時五分に到着する。

 

 ここは四国で唯一「坊」のつく札所で、その歴史は千三百年にもなるが、戦火による焼失を繰り返

 

し、現在の本堂は戦後に、大師堂は大正時代に建てられたものである。朱塗りの堂々とした山門は町中

 

にあってことさら威厳が感じられる。この寺の中興の祖として知られる天野快道大僧正は、今治の民話

 

「大楠と三匹の狸」でいたずら狸を諭したと言われている人物だそうである。

 

 隣にある大山祇(おおやまずみ)神社もお参りして行く。南光坊は明治初年まではこの神社の別当寺

 

だったそうである。近くの高野山今治別院にも寄って、三時五十五分、駅前のステーションホテルに入

 

る。非常に活気のないホテルで、フロント横の小さなレストランは本日定休で閉まっていた。

 

 ホテル内で食事ができないとなると、夕食は外に出なければならない。しかし我々は昼間の遍路だけ

 

想定していたため、夜の防寒着までは持参していない。あいにく外は冷え込んでいて、出たとたん震

 

えるほどの寒さだった。しかも駅前の広い通りにさえめったに車が通らないほど寂れていて、食べ物屋

 

らしい明かりはまったくない。かろうじて向かいのホテルの二階が明るくレストランらしいので駆け込

 

んだ。

 

 しかしレストランに客の姿はなく、従業員の姿も見えない。中を覗いていると奥から支配人らしい

 

男性が現れた。

 

「食事をしたいのですが、できますか」

 

「いや、ここは宿泊のお客さんだけで、外のお客さんは扱っておりません」

 

「この辺りは食べ物屋が見当たらないようですが、どこか適当な店はありませんか」

 

「ご自分でお探しください」

 

 なんともひどい応対である。寒い中、いつまでもうろうろする訳にもいかないので、駅前に止

 

まっているタクシーに任せようと、そちらに走っていった。

 

「どこか適当な食事場所まで連れていってもらえませんか」

 

「そんなもん知らんで。何が食べたいのかいな。焼き鳥くらいなら、あの交差点を曲がった所

 

にあるが」

 

 今治はまったく商売気のない人間ばかりなのだろうか。結局、一番近くにあった炉端焼屋に入る。壁

 

には無数のメニューが貼ってあり、初めての者には目移りがして、何が何やらわからない。

 

ここでもいかにも無愛想な女性がでてきた。

 

「酒はほとんど飲まずに、食事をしたいのですが、お勧めは何かありますか」

 

「ぜんぶお勧めです」

 

 それだけ答えて、いかにも模範解答をしたように澄ましている。サービス精神がなく、値段

 

だけべらぼうに高い店だった。次回、もしまたお遍路にでることがあれば、今治だけはぜひ避

 

けようということでドクターと意見が一致した。

 

 

 

 ホテルで朝食をとって、七時半に出発する。今日はまず今治駅前をまっすぐに南西に二・五キロ行

 

った所にある第五十六番泰山寺を手始めに、今治市をでて隣の玉川町にある五十七番栄福寺と

 

五十八番仙遊寺の三つのお寺にお参りして、また今治市にもどって来て、国道百九十六号線沿いの

 

ビジネスホテルで泊まる予定である。距離は十五キロほどしかないので、午後の早い時間に宿に入

 

れるだろう。

 

 八時十分に泰山寺に着く。この寺には山門がなく、寺の周囲も石垣の白壁塀に取り囲まれた珍しい造

 

りになっている。大師堂も新しく昭和六十年に再建されたものだという。

 

 お参りしていたら、後の方で「先生、先生」という声が聞こえる。朝が早くまだほとんど参拝者

 

がいないこの時分に、なれなれしくドクターに「先生、先生」と呼ぶのは誰だろうと振り返ると、

 

そこに例の青年がいた。たまたまここの通夜堂に泊まっていたようで、朝早くから鈴の音がするので覗

 

いて見たら、我々だったので飛び出してきたそうである。

 

 八時四十五分に泰山寺をでて、すぐ近くにある奥の院の龍泉寺に寄る。小さなお堂があり、その

 

正面格子戸の上には朱色の丸額がかかっていて、ご本尊の十一面観音像が描かれていたが、これは

 

左官職人が使う鏝を使って描いた鏝絵といわれる珍しいものだそうである。

 

 八時五十五分、奥の院を出発してつぎの栄福寺に向かう。距離は三キロほどで、間に蒼社川がある。

 

この川はかって毎年のように氾濫をくり返し、多くの人命を奪ったところから“人取川”の異名

 

をもっていたが、大師がこの地を訪れた時に人々を指導して堤防を築いて治水に成功したそうである。

 

 九時半、栄福寺に着く。この寺はもともと大師が海神供養の護摩供をしていたところから、海陸安全

 

などの信仰を集めていたが、昭和八年に足の立たない少年がこの寺の石段で転んだところ、足

 

がすっかり治ったことから、病気平癒の祈願をする人も多いそうである。ここでは団体

 

といっしょになり、境内はごった返していた。

 

 十時、栄福寺を出発しつぎの仙遊寺をめざす。距離は二・五キロほどで、途中、犬塚池と呼ばれる

 

溜池のそばを通る。この辺りにはかって遍路を見ると出てきては案内する犬がいて、みんなから愛

 

されていたそうで、その犬が死んだ時に有志がこの池のそばに塚を立てたところからこの名前

 

がついたという。

 

 遍路道はこの池をまわりこむように通っているのだが、我々は休憩をするために土手を登り、池の畔

 

(ほとり)で休んだ。そして池を過ぎると道は徐々に登り道となり、だんだん傾斜がきつくなる。仙遊寺

 

は標高二百八十一メートルの作礼山の頂上にある。

 

 坂を登っているときに、後から例の青年が追いついてきた。彼はここまで来る途中で地元の老婦人に

 

会い、弁当をお接待されたそうである。我々は遍路道からそれて池のそばに行ったため、

 

そのおばあさんに会えなかったようだ。

 

 一緒に坂を登っていると、上から地元の男性がひとり降りてきた。

 

「あんた達は、下で弁当をもらったかいな」

 

「ぼくはもらったんですけど、こちらの二人はもらってません」と青年が言うと、

 

「そりゃあ、仕方ないわなあ」

 

 そのおばあさんは毎日弁当を作っては、お遍路さんにお接待しているようである。

 

 十時五十分、山門に着く。歩き遍路はここから更に急な山道を登らなければならない。途中、

 

弘法大師のお加持水が湧いていて、ペットボトルに汲む。十一時、山頂の本堂に着く。この寺の寺号

 

は、西暦七百十八年までの四十年間、この寺に住んでいた阿坊仙人から来ているという。その仙人

 

はある日とつぜん雲のように消えてしまったそうだが、その話を伝え聞いた里人たちにより、いつしか

 

仙遊寺と呼ばれるようになったそうである。

 

 十一時半、仙遊寺を出発して、二・六キロはなれた番外霊場の竹林寺をめざす。半時間もあれば着

 

くだろうと予想していたが、途中けわしい山道があったり、道に迷って人に尋ねたりして、十二時半

 

にやっと到着した。この寺は高知にある第三十一番五台山竹林寺と山号、寺号とも同じである。

 

どちらもご本尊は文殊菩薩で、行基の創建である。しかしここは本日留守なのか、お堂に鍵

 

がかかっていてお参りできなかった。青年はここでお接待の弁当を食べるというので、我々はひと足先

 

に出発する。

 

 これで本日の予定はすべて終了で、あとは宿に向かうだけである。宿は玉川町から再度今治市

 

にもどり、海に向かって五キロほど下った国道百九十六号線沿いにある。その前にどこかで昼食

 

をしたいのだが、それらしい店はどこにもなく、結局、国道まで出て宿のすぐ近くのドライブインで

 

ラーメンを食べた。

 

 二時、宿にチェックインする。この宿は六階建ての大きなビルで、宿泊施設だけでなく、レストラン

 

から会議室、カラオケルーム、ゲームセンター、ネットカフェ、大浴場まで手広く経営する一大

 

レジャービルになっていた。

 

 ふつうお遍路で一日歩くと、朝に出発した所は夕方にははるか山のかなたで、まったく別世界

 

のように感じるものだが、ここは昨夜の宿から直線距離で四キロも離れていなくて、部屋の窓から見覚

 

えのあるビルがいくつも見えた。

 

 前夜のこともありあまりこのホテルには期待しないようにしていたが、ここは昨夜と違って部屋の

 

設備もよく、なにより従業員がみな生き生きしている。大浴場に行けば、売店の女性が我々を宿泊客と

 

見たとたん、

 

「部屋の鍵をお預かりしましょう。その方が安心して入れるでしょう」

 

 と声をかけてくる。同じ今治市内でも経営者のやる気しだいで、従業員の応対がこうも違

 

うものである。

 

 

 

 六時半に朝食をして、七時十分に宿を出発する。今日は宿から南西に三キロほど行った所にある

 

第五十九番国分寺にお参りし、その後は番外霊場ばかり世田薬師、臼井御来迎(ごらいごう)、日切

 

(ひぎり)大師、実報寺(じっぽうじ)、久妙寺(くみょうじ)、生木(いきき)地蔵と順にまわって、丹原町

 

の宿に泊まる予定である。総行程は二十四キロほどになる。

 

 七時五十五分、国分寺に着く。国分寺は聖武天皇の詔勅を受け全国に建立されたもので、四国にも

 

各県に一ヶ寺ずつある。この寺も度重なる戦火による焼失、復興のくり返しで、千七百八十九年に

 

恵光上人の手によって現在の本堂が建てられるまでは、茅葺の小堂だけしかなかったそうである。

 

 駐車場でひとりの老人が休憩していた。手押し車にテントや寝袋ほかの荷物を積んで野宿遍路

 

をしているようである。食事はどうしているか聞いてみたら、スーパーの閉店間際に行って、半額

 

になってから買うのだという。この時期になると夜は寒いのではと心配すると、テントに入

 

ってしまえばまったく寒くはないが、明るいうちからテントを張るわけにはいかないので、待つ時間が

 

長いと言っていた。

 

 八時二十分、国分寺を出発して、南へ六・七キロ行った所にある番外霊場世田薬師をめざす。九時、

 

県道三十八号線沿いの喫茶店でコーヒー休憩にする。十時十分、今治市が終り西条市に入る。ここは

 

最近まで東予市と呼ばれていた所である。十時二十分、道端にみかんを無人販売していたので一袋買

 

う。

 

 十時二十五分、番外霊場世田薬師に着く。ここは正しくは世田山栴檀寺(せんだんじ)という名で、

 

行基の創建になり、弘法大師も逗留され日光、月光菩薩を安置されたという立派なお寺だった。お参り

 

後みかんを食べて、十時三十五分に出発する。

 

 今治小松自動車道を左に見ながら南下すること二キロほどで、つぎの番外霊場臼井(うすい)御来迎

 

(ごらいごう)に着く。ここには大師の湧水があり、言い伝えによれば、大師が老母の願いにより、臼の

 

中に加持して五色の御光を影ぜられたという旧跡である。

 

 つぎの霊場はここから西へ一・五キロほどの所にある実報寺で、十一時半に到着する。ここは

 

地蔵菩薩をご本尊とする真言宗御室派のお寺で、大師が逗留され閼伽水(あかみず)井戸を掘

 

られたそうである。ま新しい仁王門には大きな草鞋がふたつ祀られていた。お参り後、ここで弁当を食

 

べる。

 

 昼食後、十二時十分に実報寺を出発し、再度県道百五十九号線にもどり、番外霊場日切(ひぎり)大師

 

に十二時四十分に着く。この寺も行基の開基と伝えられ、弘法大師はここで日切りの誓願を立

 

てられたそうである。

 

 向かいの光明寺にも寄り、十二時五十五分に出発する。できれば番外霊場の興隆寺にも寄

 

りたいとがんばってきたが、興隆寺はすこし離れた標高二百七十五メートルの山の上にあり、この時間

 

からではむりなので諦めて久妙寺をめざす。

 

 今回のコース計画はすべてドクターの企画で、これだけきっちりと番外霊場をおさえて行くのは、お

 

遍路三度目の余裕からである。私ひとりの遍路だったら、札所を順番にまわるだけで精一杯

 

だったにちがいない。

 

 一時五十五分、丹波神社という道端の小さな神社で休憩する。興隆寺に寄ろうとすこし無理

 

をしたので二人とも疲れている。まんじゅう効果を期待して、大福餅とみかんを食べる。

 

そこへひとりのご婦人が車から降りて話かけてきた。車で興隆寺にお参りしようとしたが、駐車場が

 

一杯で止められず、諦めて下りてきたそうである。そういえば今日は勤労感謝の日である。

 

しばらくおしゃべりをして別れぎわに、

 

「あんたたちは安気(あんき)やねえ」

 

 と言って帰っていった。“安気”とはこの辺でよく使われる言葉で、呑気で気楽という意味である。

 

そう言われれば返す言葉がない。

 

 二時十分に丹波神社を出発して、二時四十分に久妙寺に着く。すこし山の手の静かなお寺である。

 

この寺は当初、法相宗だったが弘法大師が逗留されたのをきっかけに真言宗に改宗し、その後は

 

嵯峨天皇の勅願寺としても栄えたそうである。

 

 三時前に久妙寺を出発して、一・五キロほど離れた番外霊場生木(いきき)地蔵をめざす。一本道

 

なので道に迷うこともなく十五分で到着する。ここは生木地蔵尊をご本尊とする真言宗のお寺で、正

 

しくは生木山正善寺(いききざんしょうぜんじ)という名前である。名前の通り、弘法大師が一夜にして

 

彫ったと伝えられる生木地蔵がある。

 

 三時二十分に生木地蔵を出発して今夜の宿をめざす。明日は愛媛最後の難関、標高八百メートルの

 

第六十番横峰寺(よこみねじ)が控えている。今夜の宿は横峰登山のベースキャンプ

 

といったところである。横峰の登山道も秋の台風で荒れて一時不通になっていたが、ドクターが出発前

 

に電話で確認したところでは、なんとか通れるということだった。三時五十分、古い和風民家の宿に着

 

く。

 

 

 

 今日は強行軍なので、がんばって早朝の六時二十五分、まだあたりが薄暗いうちに宿を出る。

 

これからまず県道百四十七号線を十キロほどひたすら登り、標高八百メートル近い第六十番横峰寺

 

(よこみねじ)にお参りし、そのあとは山を下りて第六十一番香園寺(こうおんじ)、六十二番宝寿寺

 

(ほうじゅじ)、六十三番吉祥寺(きちじょうじ)、六十四番前神寺(まえがみじ)と四つのお寺にお参

 

りして、更にその先の温泉宿まで足をのばす予定にしている。距離にして三十キロちかくになる。

 

 七時二十分、道路沿いに番外霊場妙雲寺があり寄って行く。ここは横峰寺、石鎚山への巡拝者の

 

前行懺悔の場所といわれている。この辺りから県道は徐々に登りになる。七時四十分、上から自転車で

 

下りてきた女性に柿のお接待を受ける。この道はいくつかの部落をかすめて横峰寺に向かって登って行

 

くが、標高三百メートルの地点で県道は終わっている。

 

 七時五十五分、道端の吾妻屋で休憩して頂いた柿を食べる。道は横峰に端を発する川に沿っていて、

 

河原にはこの秋の台風による崩落箇所がたくさんあり、あちこちで修復工事をしていた。九時、県道が

 

終りこれから急な登山道になる所に吾妻屋があったので、ここでしばらく休憩する。この場所が

 

標高三百メートルで、横峰寺まではあと一・五キロほどの登りである。

 

 この登山道も途中までは渓流に沿って登っている。台風のときはこの川が大暴れしたようで、大きな

 

岩が道を塞いでいて、臨時にまわり道をつくったような所が随所にあった。たしかに登

 

れないことはないが難所である。そして我々以外に登る人の姿はなかった。

 

 十時、あと五丁と書かれた休憩所で休憩して大福餅を食べる。最後の急坂を十分ほど一気に登

 

りつめ、やっと仁王門に到着する。横峰寺は標高千九百八十二メートルの霊峰石鎚山の北側の

 

中腹七百五十メートルの地点にある。役行者の開基で、のちに大師が石鎚山に修行に来たときにこの地

 

を霊地と悟り、大日如来を刻んでご本尊とし、第六十番札所と定めたという。

 

 お参りの前にもうすこし登って、星ヶ森に先に行く。星ヶ森は標高八百メートルの所にあり、石鎚山

 

を目の前に遥拝できる場所である。四十二才の大師が厄除開運を祈願して星祭りを厳修した所

 

でもある。朝から空は鬱陶しく曇っていて、あいにく霊峰を仰ぐことはできなかったが、我々が休

 

んでいる間に一瞬だけ日が差した。例の青年は、ここまで登ってみて石鎚が自分を招いていると感

 

じたら、そちらにも寄って行くと言っていた。もしそうなると我々とペースがずれて、もう二度と会

 

えないだろう。

 

 十時四十五分、星ヶ森を出発してお寺に下りる。境内はひっそりしていて、車で登ってきた参拝者が

 

一人、二人いるだけだった。納経のとき若い住職に、どうやって登って来たかを尋ねられた。台風

 

のあとは歩道はもちろん車道もすべて不通となり、臨時の納経所を山の麓につくり巡拝者の応対

 

をしたそうである。

 

 十一時十五分、横峰寺を出発してつぎの香園寺(こうおんじ)に向かう。香園寺はここから山を下った

 

十キロほど先にある。しかしこの道は単純な下りではなく、深い山の中、いくつも峰を越えながら徐々

 

に下っている。十二時、下る途中の休憩所で休んで昼にする。昼食は前日のうちにスーパーで買

 

っておいたパンとバナナである。

 

 一時十分、遍路道が終り車道にでる。この道を十分ほど下ると、香園寺の奥の院がまず現れる。

 

ここは番外霊場白滝とも呼ばれ、不動明王を祀る滝の修行場となっている。立派なお寺で、

 

コンクリート建てながらなだらかな屋根の曲線が美しい。

 

 ここまで来れば、標高六十メートルでもう平地に下りたようなものである。松山自動車道をくぐり、

 

二時五分に第六十一番香園寺に着く。この寺は昭和五十一年に建てられた総コンクリート造りの非常に

 

モダンな建物で、一階が大講堂、二階に本堂と大師堂がある。外観は公園の中に建っている市民会館か

 

コンサートホールといった感じで、お寺の境内の荘厳さはどこにもない。二時二十分、香園寺を出発

 

して、つぎの六十二番宝寿寺をめざす。距離は一・三キロほどである。

 

 ここから宿までは六・五キロの距離で、その間に三ヶ寺をまわると、お参りの時間を入れて三時間

 

ちかくかかる。急がなければならない。二時半、宝寿寺に着く。この寺はもともと中山川

 

のそばにあったため、何度も川の氾濫による被害を受け、その上に戦火と廃仏毀釈もあり、やっと

 

現在地に再建されたのは予讃線が開通した大正十年のことだと言われている。境内には日本庭園もあり

 

趣をそえている。

 

 二時五十五分、宝寿寺を出発し、つぎの第六十三番吉祥寺に三時十分に着く。この寺はむかし大師が

 

近くを通りかかった時、光る檜をみつけ、その木に一刀三礼して毘沙門天を刻みご本尊としたのが始

 

まりとされている。毘沙門天をご本尊とする寺は八十八ヶ所の中でこの寺だけである。ここで残りの

 

大福餅を食べて、三時半に出発する。

 

 つぎの第六十四番前神寺(まえがみじ)までは三・二キロある。だんだん日が翳り空気も冷たくなった

 

四時五分に到着する。この寺は真言宗石鉄派の総本山で、石鉄修験道の根本道場でもあるという。境内

 

は広く、随所に風格が漂っているが、特に昭和四十七年に再建されたという本堂は、入母屋造りで青い

 

銅板の屋根が非常に美しい。車で乗りつけた若いカップルが走ってきて、本堂前でVサインをして写真

 

をとると、また走って帰っていった。四時半に前神寺を出発して、十分ほど歩いてやっと今夜の宿に着

 

く。鄙びた温泉つきの宿である。

 

 

 

 七時半、宿を出発する。いよいよつぎの第六十五番三角寺(さんかくじ)で愛媛の遍路も終りだが、

 

三角寺はここから四十五キロほど離れている。そのため今日は移動日で、国道十一号線に沿って東へ

 

二十八キロほど歩き、JR伊予土居駅ちかくの宿に泊まる予定にしている。

 

 実際に歩く道は、国道十一号線に沿ってはいるが、国道そのものを歩くことは少なく、至るところに

 

国道に沿った脇道があり、それが遍路道になっている。伊曾の橋を渡り、八時半、武丈公園で小休憩

 

する。九時、道端に腰をかけて柿を食べる。九時三十五分、室川橋を渡る。この川も日照り続

 

きでほとんど水が涸れていた。

 

 十時、国道に出て、ここから一・五キロほどは国道を歩く。五分ほど行った所に喫茶店があり入る。

 

おやつ代わりにモーニングセットをひとつ取り、二人で食べた。遍路道にもどると店もなくなるので、

 

ついでにコンビニで弁当も買っておく。このあたりで西条市から新居浜市に変わる。

 

 ふたたび遍路道にもどりしばらく行ったところで、散歩中のひとりの男性に会う。立ち話

 

をしているうちに、昼食を食べて行かないかと誘われたが、弁当を買ったばかりなので、鄭重

 

におことわりした。

 

 十一時四十分、道は自然に喜光地商店街と書いてあるアーケードつきの商店街に入る。その中に小

 

さな公園があり、ベンチもあるのでここで昼食休憩にした。十二時半、国領橋を渡り、

 

十二時四十三分、県道四十七号線を横断して、十二時五十五分、再度国道十一号線にでる。ここから三

 

キロほどは国道を行く。道は徐々に登りで、三キロ先が標高百六十メートルの峠となっている。

 

 一時十五分、国道沿いの喫茶店で午後のコーヒー休憩にする。その後登り坂の途中で一人の女性遍路

 

に追いつき、一声かけて追い越した。彼女も今日の目標は我々とおなじ伊予土居駅だが泊

 

まりではなく、駅に迎えが来ているそうだった。二時五分、峠を通過し国道の脇道にそれる。

 

 ゆるやかな下り道を一時間ほど下り、三時十五分、番外霊場延命寺に寄る。ここは別名で“いざり

 

松”と呼ばれている。そのわけは、弘法大師がこの寺の境内に苗松をお手植えになり、再度この地を訪

 

れたとき、その松の傍らにいた足の不自由な人に千枚通しの霊符を授け加持されると足が立ったという

 

言い伝えからきている。静かで落ちついたお寺なのですこしゆっくりして、三時半に出発し、

 

三時五十分に今夜の宿に着く。

 

 

 

 宿毛を出発してから十六日目、いよいよ今日で愛媛遍路も終わりである。その間、雨が降ったのは

 

初日だけで、遍路としては有難いが、困っている人も多いだろう。今日はここからほぼ十四キロ離れた

 

第六十五番三角寺にお参りし、その後は先へ行かずにもと来た道を戻り、伊予三島の駅からJRで帰宅

 

することにしている。三角寺は標高五百メートルの地点にあり、横峰寺につぐ最後の難関

 

といったところである。

 

 七時三十五分、宿を出発する。まず国道を東に二・五キロほど行った所にある番外霊場三福寺に寄

 

る。この寺は、弘法大師が当地に立ち寄られたとき、里人たちがその徳を慕って草堂を建て、礼拝

 

するようになったのが始まりといわれている。ご本尊は阿弥陀如来である。八時十分、到着したら先客

 

の男性遍路がひとりいて、一緒に住職からお茶とお菓子のお接待を受ける。

 

 その男性はご本尊を拝ませてほしいといって本堂に上がり、鍛えられた立派な声で般若心経をあげ始

 

めた。どうやら正式に修行を積んだお坊さんのようである。八時半、我々はひと足先に出発する。

 

 道は国道十一号線に並行する県道百二十六号線である。古い民家の立ち並ぶ中を抜ける一本道だが、

 

道幅がせまく車もよく通るので、のんびり歩くわけにはいかない。九時半、やっと寒川西集会場と書

 

かれた所に休めそうな場所があったので、休憩して先ほどお接待で頂いた最中を食べる。その前を例の

 

元気なお坊さんが会釈をしながら通過していった。

 

 国道は海岸線近くを通り、松山自動車道はかなり山側を通っていて、我々の県道はその中間を行

 

っている。三角寺は三角寺山の中腹五百メートルの位置にあるので、遍路道は徐々に山の方に向かって

 

登り道となる。十時五十五分、高速道の下をくぐり、五百メートルほど高速道に沿って東に行った後、

 

道は南東に向きをかえ本格的に三角寺をめざす。

 

 下りには強いが、緩やかな登りに弱いドクターが後の方で盛んにぶつぶつと俳句をひねっている。耳

 

を傾けると、どうやらいくら声をかけても振り向いてくれない冷たいお遍路さんのことを詠

 

んでいるようである。人事のように聞いていたが、よく考えると冷たい遍路とは私のことではないか。

 

十一時十分、道のそばに戸川公園と書かれた小さな公園があったので、「五分だけ休みましょうか」

 

といって声をかけると、

 

「やっと解ってくれましたね」とドクターは喜んだ。

 

 ここから三角寺まではあと三キロほどである。高さも五百メートルほどで、横峰寺よりはるかに低

 

いけれども、道は頂上に向かってほぼ直線で登っているので、かなり息が切れる。まさに胸突き八丁

 

といったところである。あと五百メートルの所で車道と合流し、すこし楽になった。

 

 十二時五分、三角寺の駐車場に着く。ここから仁王門までは七十段ほどの急な石段を登る。この寺

 

のご本尊は大師が刻んだ十一面観世音菩薩で、大師はその際、三角形の護摩壇を作って二十一日間、

 

降伏護摩の法を修められ、その名残が現在本坊そばにある三角形の池で、寺の名前

 

もここからきているという。十一面観世音が子育てや厄除けの仏様であることから、子宝や安産を願

 

って多くの人が訪れるそうである。

 

 お参りのあと、ここで昼食にしようとしている所に、例の元気なお坊さんが到着した。我々より先に

 

行ったはずだが、どこかで追い越したようである。

 

「こんなにきついとは思いませんでした。あなた方は速いですね」

 

 と言いながら本堂に向かって行き、しばらくしたら元気な読経の声が聞こえてきた。

 

 午後一時、来た方に向かって下山を開始する。ただし帰りは車道を下りることにした。周囲の山は

 

紅葉がまっさかりで美しい。紅葉の美しさを楽しめるのも、愛媛県の二十六札所をまわり終えた余裕

 

からだろう。二時十五分、伊予三島の町はずれまで下りつき、洒落た喫茶店に入って最後のコーヒー

 

休憩にした。

 

 三時ちょうどにJR伊予三島の駅に着く。ここで白衣と菅笠を脱ぎ、着替えをすませて、

 

三時四十二分発の特急しおかぜ二十二号岡山行きに乗り、帰途についた。したがって次回の香川遍路

 

はここからスタートである。玉川町の竹林寺で別れて以来会うことのなかった青年から、家に帰

 

りついてしばらくして、石鎚山に登ったというメールが届いた。