『涅槃の道場』 二〇〇六年四月七日(金)〜十五日(土)

 

 

 

 『暖かくなるにつれて、ねむっていた遍路の虫が起きだした』と書き始めたものの、この書きだしは

 

今年にかぎり通用しないことに気がついた。なぜならこの冬は異常な寒さがつづき、いつまでも暖

 

かくならなかった。気象庁は当初、暖冬だと予報していたが、それどころか年末からすでに山の溜池が

 

十日以上にわたって凍りつづけ、一月、二月も北日本では豪雪がつづき、三月になってもあまり暖

 

かくならず、さらに末日に寒波がきて雪が降ったりして、異常な寒さがいつまでも続いた。しかし

 

四月下旬に演奏会がひとつ控えていることもあり、帰ってすぐになまった筋肉を鍛えなおす時間を考

 

えると、もう遍路に出ないわけにはいかない。

 

 昨年の三月末から徳島、高知、愛媛と一国参りをつづけてきて、いよいよ最後の香川県である。歩く

 

距離としては高知県が三百八十キロでもっとも長く、つぎが愛媛県で三百五十キロ、ついで徳島県が

 

二百二十キロで、最後の香川県がもっとも短く、百五十キロほどしかない。急げば一週間

 

でまわれそうである。その程度の休みなら、ビオラ演奏にもたいした影響はないだろう。

 

 前回、愛媛県の全行程をいっしょに歩いた広島のドクターと、今回もいっしょである。ドクターとは

 

事前に打ち合わせて、四月六日の夕刻に伊予三島の宿で落ち合い、七日から出発することにした。前回

 

の愛媛遍路を伊予三島でしめくくったので、今回は伊予三島からスタートというわけである。これで

 

今回も全行程にわたってドクター随行のいたって贅沢な遍路行となる。

 

 

 

 二〇〇六年四月七日の朝七時半、伊予三島駅前の宿を出発した。空はうっすらと晴れている。今日は

 

香川県最初の札所であり、また最大の難所でもある標高九百十メートルの雲辺寺をめざしての移動日

 

で、雲辺寺山のふもとにある民宿まで歩く予定にしている。距離は十七キロほどで、まずは足慣

 

らしといったところである。これもドクターの深慮遠謀だろう。

 

 昨年、徳島を遍路中に知り合った天理の大川さんは、先月末、日和佐をスタートして高知遍路に出発

 

したのだが、日和佐の薬王寺からつぎの最御崎寺(ほつみさきじ)までの七十五キロを一気に二日で歩

 

き、足にトラブルが起きて、四日目にあきらめて帰宅したそうである。

 

 今日は一日、国道百九十二号線を一路東に進むことになる。途中、宿までのちょうど中間点あたりに

 

番外霊場の常福寺がある。空はすっきりとはしていないけれども、沿道のいたるところ桜が満開で気分

 

はいい。

 

 伊予三島に寄らずに、三角寺からそのまま雲辺寺をめざす場合は、まっすぐに常福寺に下る遍路道

 

があり、そちらには休憩所もあるが、伊予三島スタートの場合は国道を行くしかなく、国道には休憩

 

する場所がない。遍路コースからはずれているので、遍路の標識もない。地図

 

があるからいいけれども、今回はそれだけでなく秘密兵器を持参している。GPSつきの

 

パーソナルナビゲータである。前回はドクターが持ってきていたが、うまく使いこなせず何度も道に迷

 

った。その経験をいかして、今回は主だったポイントをすべて事前に登録してきた。当然、常福寺も入

 

っている。

 

 ドクターは三度目の四国遍路とはいえ、伊予三島経由で雲辺寺に向かうのは初めてで、GPSを頼

 

りに私が道案内をしていても半信半疑である。道で出会った夫婦に椿堂への道を聞いたりしている。

 

常福寺は通称、椿堂と呼ばれている。

 

「椿堂ならこの道をまっすぐです。でも、まだ十四、五キロはありますよ」

 

 十四、五キロといわれてドクターは驚いたようである。

 

「大丈夫です。GPSによれば直線であと四キロほどです。一時間ほどで着きますよ」

 

 お遍路がすべてGPSをもつ時代になると、人に道を聞く必要がなく、可愛

 

げがなくなるだけでなく、土地の人もお遍路に道を教える楽しみがなくなる。便利だがどちらがいいか

 

解らない。九時四十五分、新田神社の桜をデジタルカメラにおさめ、十時、成滝不動明王前を通過

 

して、十時十五分、常福寺に着いた。

 

 ここが通称“椿堂”と呼ばれるわけは、弘法大師がこの地を訪れたとき、この地方では悪い熱病が

 

流行して村人を苦しめていた。大師は早速、村人をこの庵に集めて手にした椿の杖を土にさして祈祷

 

し、病を杖とともに土に封じ去った。のちにこの杖からでた芽が大樹となり、この庵も椿堂と呼

 

ばれるようになったという。現在境内にある椿は樹齢三百年になる三代目で、お杖椿と呼

 

ばれているそうである。

 

 十一時、椿堂を出発する。椿堂ですでに高度は百メートルあるが、国道百九十二号線はさらに登

 

りつづける。十一時四十分、道端に一軒の空家があったので、その軒下をかりて昼食にする。途中の

 

コンビニで買ってきたおにぎり弁当である。のりを巻いたおにぎりを頬ばりながら、ドクターの食に関

 

する医学講座をきく。

 

「食は頭で食べるのです。ただ美味しいだけで食べるのではなく、安全で体にいいものを考えて食

 

べないといけません。最近の若者のようにポテトチップスやスナック菓子ばかり食べていては、すぐ切

 

れるのは当たり前です。そういう意味でも食事は大事で、親は子供の食事に手抜

 

きをしてはいけません」

 

 十二時十分、出発してさらに国道をのぼる。半時間ほど歩いて、まもなく標高二百九十メートルの

 

境目トンネル入口が見えてくるという所に一軒のお好み焼き屋があった。店の中が暗くて、営業

 

しているかどうかもはっきりしないが、入口が開いていて、中に人の気配もする。コーヒーの表示

 

もある。我々はどちらも一日に一回はコーヒーを飲まないと気がすまない性質(たち)である。とにかく

 

入ることにした。

 

 とりたててどうということはないコーヒーを飲んでいる所に、ひとりの若い女性が駆け込んできた。

 

「車から煙がでてきたんです。電話を貸していただけますか」

 

「それはオーバーヒートだわ。そこに止めときなさい。水をもってってやるから」

 

 主人は意外に親切である。ラジエータの蓋を慎重に開けて、空っぽになっている冷却水の代わりに水

 

を満タンにした。

 

「これで家までは大丈夫だから、帰ったらディーラーに見せなさい」

 

 その女性はちいさな男の子を連れて、近くのドライブインに昼食に行った帰りだと言っていたのに、

 

そのままでは帰り辛かったのか店に入ってお好み焼きを注文した。気のいい主人は、

 

「ラジエータの水くらいで、そんなに気を使わんでもいいのに」

 

 と、恐縮していた。

 

 長さ八百五十五メートルの境目トンネルを抜けると、徳島県である。めざす雲辺寺は香川県と徳島県

 

のちょうど境にあり、遍路コースは徳島県側から雲辺寺に登るようになっている。トンネルを抜け、

 

半時間ほど国道を下って、午後二時に今夜の宿に到着した。場所は池田町佐野といい、標高二百四十

 

メートルの高原である。

 

 

 

 

 宿には我々をふくめて同宿が七人だった。朝食後、全員お接待の弁当をいただいて、六時半、

 

第六十六番雲辺寺をめざして出発する。空は曇っているが、午後からは晴れの予報である。今日は

 

雲辺寺山を越えて観音寺市に下り、六十七番大興寺、六十八番神恵院(じんねいん)、六十九番観音寺

 

(かんのんじ)とまわって、近くの宿に泊まることにしている。歩く距離は二十五キロほどになる。

 

 宿をでて道は徐々に山を登りはじめ、一キロほど行って徳島自動車道をくぐると、本格的な登山道

 

となる。高度はすでに三百メートルだから、残すは六百メートルである。登りがきついのはここから

 

一・五キロほどで、標高六百六十五メートルの稜線まででれば車道があり、あとは比較的なだらかな登

 

りとなるはずである。

 

 同宿のメンバーは登るペースがまちまちで、広範囲にちらばっているが、途中で休憩するたびに何人

 

かが集まる。七時半、高度六百メートルの地点で休憩したときは、五人が顔をそろえた。

 

七時五十三分、車道にでる。ここからは今までの登りがうそのように楽になる。

 

 八時三十六分、仁王門に着く。ここは八十八ケ所中でもっとも高い場所にあることから『四国高野』

 

とも呼ばれていて、冷たい風が吹きじっとしているとすぐに寒くなる。標高九百二十七メートルの山頂

 

には香川県と徳島県の県境が走り、境内は徳島県に属している。もともとは弘法大師が霊峰の趣

 

にひかれて堂宇を建設したのがはじまりと言われているが、鎌倉時代には関所の役割もかねた大寺院

 

として栄えたそうである。

 

 境内は広く、いたる所に五百羅漢像が配置されている。これは大師がはじめて唐の土を踏んだ福建省

 

の五百羅漢院を模したものという。羅漢とは釈迦の弟子で、悟りをひらいた後、庶民の立場にたって教

 

えを説いてまわった聖人のことで、その表情は千差万別で見ていてあきない。道端には今頃フキノトウ

 

がでていた。

 

 九時二十分、つぎの大興寺にむけて山を下りる。大興寺への下山道はふたつあり、番外霊場の萩原寺

 

を経由する方は四キロほど距離が長くなる。お遍路三回目のドクターとしては、なるべく多くの

 

番外霊場をまわりたいと、萩原寺にこだわっている。ところが念のために納経所で聞いたところ、

 

そちらの道は現在不通だということだった。

 

「ロープウェーで下りれば、そう遠回りにならずに萩原寺に寄れるけど、そうしますか」

 

 とドクターがいう。昨日、宿の部屋においてあった遍路本を読んでいて、こんな話があった。あるお

 

遍路が室戸の宿で見るからに落胆した表情で夕食を食べていた。話を聞くと、今朝、徳島県の日和佐

 

からこの室戸に向けて、七十キロ以上の道を歩きかけたところで車から声をかけられ、つい乗

 

ってしまったという。その人は翌朝には晴ればれとした表情になり、

 

「これからもう一度日和佐にもどって、歩きなおします」

 

 と言ったそうである。そういうこともあり、ドクターの提案にはすぐに反対した。

 

「わかりました。かならず後悔するものね。よく反対してくれました」

 

 ドクターもロープウェイに乗ろうと言ったものの、内心忸怩たるものがあったようである。

 

 下りは登りよりはるかになだらかで、道の整備もゆきとどいていて、至るところにベンチがある。

 

しかし登るときより風あたりが強く寒い。九時五十五分、高さ六百九十メートルまで下ったところで、

 

ベンチで休憩する。今回はまんじゅう効果用に、ドクターが広島銘菓のもみじ饅頭を持ってきている。

 

 もみじ饅頭のまんじゅう効果で、十時五十分、標高百七十メートルの車道に下りつく。道端で地元の

 

人がツクシを摘んでいた。見ると鎌で刈った方がはやいほど密集していた。時おり突風が吹いて菅笠が

 

飛ばされそうになる。するとドクターが『春風』という題で一句よめという。早速、“春風に緒

 

をしめなおす遍路笠”とでっち上げたが、あまりにも安易すぎたようで、帰ってからの宿題

 

ということになった。十一時十五分、里に下りたところで、一台の車から女性がでてきて、

 

ペットボトルのお茶をお接待してくれた。

 

 香川県は地中海性気候で年間の降雨量がすくないところから、県内いたるところに大小無数の

 

灌漑用溜池がある。新池、岩鍋池などの池のそばを通過して、十二時十五分、第六十七番大興寺に着

 

いた。

 

 仁王門を抜けると、本堂への九十二段の石段があり、その途中には大師お手植えといわれるカヤと

 

クスの巨木が今でも元気に葉を茂らせている。この寺はいまは真言宗のお寺だが、大師が堂宇を建立

 

したのち長い間、真言宗と天台宗の修行道場として栄え、両宗派の修験者たちが並んで修行

 

をしていたそうである。現在でも本堂をはさんで大師堂と天台大師堂が建っている。

 

 境内はちょうど桜が満開で、みごとな桜を楽しみながら弁当をいただく。午後一時三分、つぎの

 

第六十八番神恵院(じんねいん)をめざして大興寺を出発する。距離は九キロほどである。大興寺は

 

観音寺市から一旦でて山本町に入った所にあったが、一時二十三分、ふたたび観音寺市にもどる。

 

 そろそろ午後のコーヒーを飲みたい時間である。道は観音寺市の市街地に向かっている。喫茶店を

 

期待して歩いていると、やっとそれらしい造りの建物が遠くに見えてきた。期待

 

がたかまったところで、なんとか店の看板が読める距離となる。しかしそこには『さしみ屋』と書

 

いてあった。さしみ料理専門のドライブイン・レストランのようである。さしみ屋ではコーヒーは期待

 

できない。失望しながらそばを通りすぎようとして、ちらと“コーヒー”という字が目をかすめた。

 

ひょっとしたら飲めるかもしれない。とりあえず店をのぞいてみる。

 

「コーヒーだけ頂きたいのですが、いけますか」

 

 主人は当惑した顔をしていたが、しばらくして頷いた。テーブルに落ち着いて、メニューを見

 

ていると、コーヒーは料理のサービスとしてついているが、それはセルフサービスだと書いてあった。

 

我々はかなりむりを言ったようである。わざわざ別に淹れてくれたコーヒーは格別の味だった。

 

 店をでてからドクターは、さしみ屋に入ってもコーヒーを出させてしまう私の強引さに感心して、

 

「お遍路も香川県までくると、だいぶ神通力がついてくるようですね」

 

 と、皮肉とも賞賛ともつかないことを言った。

 

 三時二十分、JR予讃線をこえ、一キロほど行った所に今夜の宿があった。とりあえずリュックだけ

 

預けて、六十八番神恵院と六十九番観音寺のお参りに行く。財田川を渡ると目の前に琴弾八幡宮という

 

大きな神社があり、その裏手にあたる場所に二つの札所がくっついて建っている。納経も一ケ所で二ケ

 

所分してくれるようになっていた。しかし正しくは、神恵院と観音寺はおなじお寺で、一寺二札所と考

 

えなければいけないそうである。

 

 もともと琴弾八幡宮と観音寺は西暦七百三年、法相宗の日証上人の開基で、のちに弘法大師が八幡宮

 

をおとずれた時に阿弥陀如来像を描いてご本尊とし、琴弾山神恵院と名づけ札所としたのが始まりで、

 

明治になって神仏分離令で八幡宮と神恵院は別れた。一方、観音寺の方はもともと神宮寺と称

 

していたが、大師がここの第七代住職に就任して、聖観世音菩薩を刻みご本尊とし、名前も観音寺

 

とあらため札所にしたそうである。四時二十分、宿にもどる。

 

 

 

 

 香川遍路三日目の今日は、曇っていて朝から強い風がふいている。七時十分、宿を出発する。今日

 

はまず財田川沿いに五キロほど遡って、第七十番本山寺(もとやまじ)にお参りし、ついで

 

七十一番弥谷寺(いやだにじ)、七十二番曼荼羅寺(まんだらじ)、七十三番出釈迦寺(しゅっしゃかじ)、

 

七十四番甲山寺(こうやまじ)、七十五番善通寺とまわり、ふつうならその近くで泊まるところを、今日

 

のうちに善通寺駅からJR土讃線にのり箸蔵(はしくら)駅まで行き、駅前の宿に泊

 

まることにしている。明日一日をオプショナルツァーの日として、番外札所の箸蔵寺(はしくらじ)にお

 

参りして、ついでに見頃の桜を見物し、帰りがけには金毘羅さん詣でもしてこようという欲ばった魂胆

 

がある。善通寺まで歩くだけで三十キロちかくあるので、今日はあまりのんびりできない。

 

 財田川の土手道は広々として風をさえぎるものがなく、非常に寒い。ちょうど日曜日で、川沿いの

 

公園では桜祭りの準備をしていた。八時十分、本山寺(もとやまじ)につく。

 

 この寺は平城天皇の勅願により弘法大師が一夜にして建立したと言われていて、その後本堂は

 

鎌倉末期に建てかえられ、今は国宝に指定されている。本堂横にそびえたつ五重塔も美しい。ご本尊は

 

馬頭観音で、脇士の薬師如来と阿弥陀如来ともども大師が一刀三礼で刻んだという。馬頭観音をご本尊

 

とする寺は八十八ケ所中ここだけで、境内には実物大の二頭の馬の像も立っていた。

 

 八時四十二分、本山寺をでてつぎの弥谷寺(いやだにじ)をめざす。国道十一号線沿いに北上して、

 

十一キロあまりの距離である。九時五分、すこし早いけれども国道沿いに喫茶店があったので入る。

 

ドクターは前回もこの店に入ったそうである。店内には静かにモダンジャズが流れ、フロアの隅には

 

ドラムが置いてある。たぶん若い主人の趣味だろう。聞いてみると照れくさそうに、人に聞

 

かせられるほどの腕じゃないと謙遜していた。

 

 国道ばかり歩いていると、休憩とトイレに苦労する。九時五十分、高瀬町のガソリンスタンドで

 

トイレを借りて小用を済ませる。その後二キロほど行くと、道は国道からそれて左の脇道にはいる。

 

弥谷寺は標高三百八十二メートルの弥谷山の中腹にあり、遍路道はすこしずつ山に向かって登

 

りはじめる。山腹には“天然いやだに温泉ふれあいパークみの”の新しく立派な建物が見えている。

 

日曜日で車がたくさん登ってくるが、ほとんどは温泉行きの家族連れのようである。しかしそのうちの

 

何台かは、ハイキングがてら弥谷寺に弁当を食べに来る家族もある。

 

 十一時五十分、仁王門前に着く。門前には茶店が一軒あり、簡単な食事もできるようになっている。

 

弥谷寺は仁王門から境内まで三百七十段の石段があり、さらにそのあと本堂まで百七十段の勾配

 

のきつい石段がつづいている。すこしでも楽をするために、下りてきたら食事をするという約束で、

 

リュックを茶店で預かってもらう。

 

 この寺はもともと蓮華山八国寺と呼ばれていたが、大師が三十三歳のときにこの山で真言密教の修行

 

をしていると、五本の剣が降ってきて金剛蔵王権現のお告げを聞いたところから、山号も剣五山と変

 

え、寺名も弥谷寺と改めて札所に定め、千手観音を刻んで奉納したと言われている。本堂、大師堂

 

ともに岩山に取り囲まれるように建っていて、岩肌には阿弥陀三尊等の磨崖仏があちこちに彫

 

られていた。

 

 十二時三十五分、茶店に帰ってきてうどんを食べる。この店は俳句茶屋と呼ばれている。たぶん主人

 

は俳句に趣味があるのだろう。暖簾にも俳句がたくさん書いてあった。

 

 十二時五十五分、店をでてつぎの曼荼羅寺をめざす。食事のときにGPSの電池を交換したので、

 

方位磁石を校正しなおすために立ちどまって二、三回まわらなければならない。曼荼羅寺までの距離は

 

四キロ弱で、道はにぎやかな車道から、山の中をぬける細い遍路道に入る。歩き遍路は我々

 

だけのようである。

 

 ドクターは前を歩いているし、立ちどまっても誰にも迷惑はかからない。さてGPSをとりだして

 

校正にとりかかろうとすると、すぐ後で人の気配がする。細い道で後に人がいては、立

 

ちどまることができない。先に行ってもらうしかない。そこで道を譲ろうとすると、若い女性

 

のはずんだ声で、

 

「いいんです。後をついて行きますから、どうぞ先に行ってください。一人だと心細くてとてもこんな

 

道は歩けないので助かります。邪魔をしませんから、いっしょに連れてってもらえますか」

 

 という。華やいだ明るい声である。道が細いのでふり返るわけにもいかず、前を向いて歩きながら話

 

をする。広島県に住んでいて、土、日の休みごとに青春十八切符で、北海道に行ったり富士山に登

 

ったりと、たえず遊びまわっている。今日は日帰りの予定で朝早く家をでて、本山寺からまわり始

 

めたが、弥谷寺まではバスに乗ったそうである。このあとできれば善通寺まで行きたいという。我々と

 

行程は同じなので、足手まといにさえならなければいっしょに歩くのは構わない。

 

 話をしているうちに子供さんの話がでてきた。

 

「子供さん、まだ小さいんでしょう。どうされているんですか」

 

「いえ、もう就職して家をでました。今は主人とふたり暮らしです。主人は仕事一途で遊

 

びにはまったく興味がないんですが、でかける時は機嫌よくだしてくれます。もうすぐ定年

 

なんですけど、でもまだまだ働いてもらわないと困ります」

 

 若いのは声と気持ちだけのようだった。とりあえず先に行ってもらって、GPSの校正をする。

 

すると今度はドクターが彼女に説教をしている。

 

「最近は女性のひとり歩き遍路がふえてきて、それを狙った悪い人もいるようなので気

 

をつけてください。とくにサングラスをかけた老遍路ふたりにはけっして付いていってはいけません」

 

 サングラスをかけた老遍路ふたりとは我々のことである。

 

「はい、わかりました」

 

 と言いながら、ますます信頼して付いてきた。

 

 四キロの道があっという間で、午後一時四十分、曼荼羅寺に着いた。この寺は唐から帰った弘法大師

 

が亡き母の菩提を弔うために、大日如来を刻んで本尊とし、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅

 

を安置して、寺号を曼荼羅寺と定めたと言われている。境内には大師お手植えの松が今でも元気に育

 

っていて、菅笠をふたつ地面に伏せたような形から『笠松』と呼ばれている。

 

 曼荼羅寺からつぎの出釈迦寺(しゅっしゃかじ)までは五百メートルほどの距離である。二時十分、

 

出釈迦寺に着く。この寺の背後には標高七百八十一メートルの我拝師山(がはいしざん)

 

がそびえているが、この山はもともと倭斯濃山(わしのやま)と呼ばれていたそうである。七歳の大師が

 

仏道にはいって救世の大誓願を立てようとこの山に登り、

 

「この願いが叶うならば釈迦如来よ、現れたまえ」

 

 といって、断崖絶壁から身を投げた。すると、落ちてゆく大師の体の下に紫雲がたなびき、蓮華の花

 

に座した釈迦如来と、羽衣をなびかせた天女が現れて大師を抱きとめ、「一生成仏」を告げたという。

 

一命を救われ、大願成就を約束された大師は、のちに釈迦如来を刻んで本尊とし開いたのがこの

 

出釈迦寺である。この時に倭斯濃山を我拝師山と改め、山頂には捨身ケ嶽禅定

 

(しゃしんがたけぜんじょう)と呼ばれる奥の院も作られた。

 

 夕方の列車の時間があるのであまり余裕はないけれども、我々はついでに標高三百五十メートルの所

 

にある捨身ケ嶽まで登るつもりである。彼女の意向を聞くと、

 

「うれしいーっ。山登りには自信があります。邪魔をしませんから、連れてってください。主人と一緒

 

ならぜったい行けないところです」

 

 リュックだけを納経所に預けて登りはじめる。道は車でも登れるように舗装されているが、傾斜

 

はかなりきつい。善通寺発の列車の時間は、夕方の五時三十二分である。これよりあとになると到着が

 

遅くなり、宿に迷惑をかけることになる。彼女のお相手はドクターにまかせ、ペースメーカーとして先

 

を歩くことにした。

 

 登るにつれて視界がひらけ、讃岐平野が一望できるようになる。晴れていればその向うに瀬戸内海の

 

島々も見えるはずだが、今日はかすんでいる。およそ半時間ほど登ると、まず我拝師山と書かれた山門

 

がむかえてくれる。そしてもうすこし登ったところに根本御堂と書かれた立派な建物があった。入口の

 

柱には『釈迦如来御出現之霊場』と書かれている。たまたま若い住職が外にいて、我々の写真を撮

 

ってくれた。ついでに納経してもらったら、小さなパンフレットをくれ、

 

「高野山に行かれたら、そこでお泊りなさい。私が修行していたところです」

 

 ここでも泊り客を受け入れているそうだが、それは月に一度の縁日の日だけということだった。

 

 急いで山を下って、つぎの第七十四番甲山寺(こうやまじ)にむかう。山に登って疲れたのか、

 

ふたりのペースがすこし落ちてきた。先へ先へ行ってはふりかえって、早く来るように促す。出釈迦寺

 

から甲山寺までは二・二キロの道程である。

 

 四時十二分、甲山寺の仁王門につく。ここは大師が曼荼羅寺と善通寺のあいだにもうひとつ札所

 

をつくろうと霊地を探していたとき、ひとりの翁があらわれて、

 

「私は古くからこの地に住む聖者である。人々に限りない幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた。

 

この地に寺を建立すれば、その寺は私がいつまでも守護しよう」

 

 と告げたところから、早速、大師が石を割って毘沙門天を刻み、山の岩窟に安置したのがはじまりと

 

言われている。その像は『岩窟の毘沙門天』と呼ばれ、いまでも大師堂横の岩窟の中に祀られている。

 

 またその後、琴平ちかくの満濃池という巨大な溜池が決壊したとき、大師は改修工事の別当に任命

 

され、わずか三ケ月で完成させ、そのご褒美として朝廷からいただいた報償金の一部で、ここ甲山にお

 

堂を建て、工事の無事を祈願して刻んだ薬師如来を本尊として安置した。また山の形が毘沙門天の甲冑

 

に似ていることから、寺号を甲山寺と定めたと言われている。

 

 先を急ぐのでお参りもそこそこに、四時二十八分、甲山寺を出発する。つぎの善通寺まで距離は二

 

キロもないのですぐである。四時四十五分、善通寺の仁王門につく。弘法大師ご生誕の地だけあって、

 

さすがに広大な敷地である。ゆっくりお参りしていては、列車に間にあわない。我々は明日の夕方、又

 

ここにもどってきて門前で泊まる予定なので、お参りはそのときゆっくりできる。彼女の方は日帰

 

りなのでそうはいかない。急いで本堂だけでもお参りして、納経してもらうようすすめる。納経はどの

 

札所も、朝の七時から夕方の五時までである。

 

 JRの善通寺駅までは直線で一・五キロほどある。列車の時間と、彼女をぶじに今日中に家に帰

 

らせる責任感で気があせる。ふたりをはるかに引き離して先を急いでいたら、

 

「畑野さんがいらいらしているようだから、走りますか」

 

「はい」

 

 と言って、ふたりが走って追いかけてきた。五時五分、善通寺駅につく。五時十九分に彼女の乗る

 

高松行きがある。ドクターが自動販売機からカップ入りのジュースを買ってくれる。彼女は今日一日、

 

歩くばかりでろくに食事もしていないようなので、道々話題にでていた“薄皮あんぱん”ではないが

 

普通のあんぱんを売店で買って持たせる。彼女の列車を見送って、十五分後に我々の阿波池田行きが

 

出発した。

 

 琴平をすぎると土讃線は徐々にのぼりになり、いくつものトンネルをくぐり、坪尻駅では

 

スイッチバックをして、六時十六分、箸蔵駅につく。宿は改札をでたところにある雑貨店で、旅館や

 

民宿といった看板もなく、ぼんやりしていると見過ごすような家だった。

 

 

 

 

 夜半から降りはじめた雨が、朝起きても降りつづいている。今日は一日雨の予報である。

 

オプショナルツアーの一日なのでゆっくり朝食をし、リュックを宿にあずけて、九時すぎに箸蔵寺

 

にむけて出発する。寺は標高五百四十メートルの山の上にあり、晴れていれば歩いて登

 

りたいところだが、あいにくの雨なのでロープウェーに乗ることにした。九時十八分にのりばに着き、

 

九時半発の便をまっている間、熱いお茶のサービスがあった。

 

 箸蔵寺は弘法大師が刻まれた金毘羅大権現をご本尊とする真言宗御室派の寺で、別格本山の格をもつ

 

格式たかいお寺である。雨のため遠くの山も桜もかすんでいる。しかし広い境内の桜は満開で、

 

しっとりと美しい。せっかくの桜も雨のため参拝者はほとんどなく、ゆっくり楽しむことができた。

 

十時四十五分の便で山を下りる。

 

 午後は金毘羅さんにお参りしてから善通寺に帰るつもりだが、駅に行ってみると、もどる便は極端に

 

ダイヤがすくない。一旦、阿波池田まで行けば特急があるけれども、それにしてもつぎの阿波池田行

 

きは十二時二十八分までない。宿に帰ってインスタントコーヒーをいただきながら、しばらく奥

 

さんとおしゃべりした後、近くの食堂に昼ご飯を食べに行く。

 

 十二時四十分に阿波池田につき、一時七分の南風十四号岡山行きでひきかえす。雨

 

はときどきやみそうな気配をみせるが、なかなかやまない。一時三十三分、琴平駅に着く。リュックを

 

コインロッカーにあずけ、ポンチョを着て金毘羅さんに向かう。雨にもかかわらず参道は参拝者で埋

 

まっている。リュックがなく身が軽いので、我々は参拝者をぬうようにして石段をのぼる。

 

 二時十二分、本宮につく。まだ上に奥の院があるそうだが、雨も降っていることだし、今日

 

はここまでにして下山する。下りも団体さんのグループのすきまをぬって駆け下りていたら、

 

うしろから誰かが、

 

「ほう、お遍路さんや。青のポンチョに、片や黄色のレインコート、足元は赤か。格式たかい色

 

やなあ」

 

 なんのことはない、国際的な信号機の色である。ちなみにドクターは黄色のレインコート上下に、

 

足元だけ赤のスパッツで被っていた。

 

 ふもとの商店街の喫茶店でコーヒー休憩をしたのち、三時七分の快速高松行きにのり、わずか四分の

 

乗車で善通寺駅についた。三時半、門前にある今夜の宿にリュックをあずけて善通寺のお参りに行く。

 

 この寺は真言宗善通寺派の総本山で、高野山、東寺とならぶ大師三大霊場のひとつに数

 

えられている。唐から帰国した大師が先祖の菩提を弔うために建立したのが始まりで、寺号は父君の名

 

である『善通(よしみち)』から、また山号は寺の背後にならび立つ香色山、筆山、我拝師山、中山、

 

火上山の五峰にちなんで『五岳山』とつけられたそうである。

 

 広い境内は通りをはさんで東院と西院にわかれていて、東院には本堂や五重塔があり、西院には

 

大師堂や納経所がある。広すぎてはじめての遍路には勝手がわからず、あちこちうろうろしている人

 

がたくさんいた。納経をおえて、四時十五分、宿に帰る。雨はやっと小降りになってきた。

 

 

 

 

 朝七時四十分、宿をでる。雨はやんでいるが一時的なもので、半時間ほど歩いているうちにまた降

 

りだした。今日はあまりむりをせず、歩きは二十キロほどにして、第七十六番金倉寺(こんぞうじ)、

 

七十七番道隆寺(どうりゅうじ)、七十八番郷照寺(ごうしょうじ)と三つのお寺をまわり、坂出駅

 

ちかくの宿に泊まることにしている。

 

 金倉寺はおなじ善通寺市内にあり、距離は三・八キロほどである。高松自動車道

 

をくぐったあたりから雨が降りだしたが、ポンチョは宿をでるときから着ている。八時二十五分、

 

金倉寺につく。

 

 この寺は天台寺門宗の開祖で、弘法大師の姪を母にもつ智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)の

 

誕生の地で、もともとは智証大師の祖父、和気道善が開いたもので、寺の名も道善寺と呼

 

ばれていたが、唐で純密教を相承して帰った智証大師が、先祖の菩提をとむらうために、唐の青龍寺

 

をまねて伽藍をつくり、薬師如来をきざんで本尊とした。のちに醍醐天皇の勅命により寺号を金倉寺と

 

改めたそうである。

 

 金倉寺はまた、明治三十一年から約三年間、乃木将軍が善通寺第十一師団長を務めたとき、この寺の

 

客殿を仮住居にしていて、そのため現在も、客殿には将軍ゆかりの品がたくさん保存

 

されているという。納経所のちかくには、面会にきた妻を会わずに追い返し、途方にくれた妻

 

がたたずんでいたという『妻返しの松』も立っている。

 

 雨の中お参りしていたら、女性数人のグループが車でやってきて、本堂前でご詠歌を歌うと、線香も

 

上げずに行ってしまった。八時五十分、納経をすませつぎの道隆寺にむけて出発する。距離は四キロ弱

 

である。九時五分、多度津町にはいる。道は県道二十五号線にそった脇道で、舗装されているけれども

 

車はすくない。

 

 九時四十分、沿道に一軒の喫茶店があったので入る。店内の感じもいい。モーニングサービス

 

がおすすめのようなので、朝食はすませているが、ためしに一つ取ってみる。コーヒーも美味しく、

 

モーニングも充実していた。外は依然として雨が降りつづいている。

 

 十時、店をでる。道隆寺はもうすぐのはずである。ドクターとおしゃべりに熱中しているところに、

 

突然うしろから大声が聞こえてきた。振り返ると数人の歩き遍路グループがいて、そのリーダーらしい

 

人が、「そちらじゃなくて、こちらですよ」という風に指をさしている。曲がり角の遍路マークを見過

 

ごしたようである。

 

 十時十二分、道隆寺につく。この寺の開基は西暦七百十二年といわれ、当時、このあたりは和気氏の

 

荘園の桑畑だったが、その中に夜な夜なあやしい光を放つ桑の大木があった。領主の和気道隆

 

(わけのみちたか)がその木に向かって矢を射たところ、光は消え、道隆の乳母が倒れていた。道隆は嘆

 

き悲しみ、その木で薬師如来の小像を刻み安置したところ、乳母は息を吹き返したという。道隆の子の

 

朝祐(ちょうゆう)は弘法大師に師事し、父の名をとって道隆寺を建てた。大師はみずから刻んだ

 

薬師如来像のなかに道隆の如来像を納めて本尊とした。その後は大師の弟の法光大師や智証大師など

 

名僧が住職をつとめ繁栄したという。またこの寺は、丸亀京極藩の京極左馬造公の盲目を全快

 

させたところから、『眼なおし薬師さま』とも呼ばれて、多くの人に親しまれている。

 

 十時三十五分、つぎの第七十八番郷照寺にむけて出発する。雨がだんだん本降りになってきた。

 

十時四十二分、多度津町から丸亀市にはいる。十一時、県道二十一号線沿いの天満天神社で雨宿

 

りをかねて休憩する。十一時十五分、歩きはじめると同時に雨がやんできた。

 

 十一時五十五分、県道三十三号線沿いのレストランにはいり、丸亀城を眺めながら昼食にする。

 

ドクターは前回、二度ともここに寄ったそうである。そばを流れている川の上流には、通称

 

“讃岐富士”と呼ばれる飯野山の全貌がくっきりと見えている。

 

 十二時四十分、雨が完全にやんだようなので、ポンチョを脱いで出発する。そのうち薄日

 

もさしてきて蒸し暑くなる。午後一時、丸亀市から宇多津町にはいると、郷照寺まではあと一キロ

 

ほどである。汗をびっしょりかいて、一時十五分、第七十八番郷照寺に到着した。

 

 この寺は創建以来、真言宗道場寺と称していて、興亡をくりかえした後、時宗の開祖一遍上人

 

によって中興され、その功績をしのんで、真言宗と時宗の両宗派を信仰することになり、八十八ケ

 

所中唯一の宗派をこえた寺となっている。四十二歳の弘法大師が厄除け祈願

 

をされたところから、『厄除けうたづ大師』とも呼ばれている。境内にはここで飼われている柴犬が、

 

年老いて盲目になりながらも、砂利の上をよちよちと散歩していた。

 

 一時五十五分、郷照寺を出発する。今日のお参りはこれまでで、このあとはここから四キロほど先

 

の、坂出駅ちかくにある宿をめざす。山門を下ったところに小さな餅屋があったので、おはぎを買

 

って、そばの“うたづの閻魔さん”の軒先でたべる。

 

 出発したところで又ぽつぽつと降りだし、慌ててポンチョを着たがすぐにやんだ。二時三十五分、

 

県道三十三号線から右にそれて、瀬戸中央自動車道をくぐれば坂出市である。道は見渡すかぎりの

 

一本道となり、そのまま商店街のアーケードへと入って行った。

 

 今夜の宿はこの商店街の裏手のやや奥まったところにあるはずだが、道の両側にびっしりと商店が軒

 

をつらねていては、どの筋を入ったらいいのか見当がつかない。宿の場所まではGPSに登録

 

していないし、もし登録していてもアーケードの下では衛星からの電波が届かない。近くの店によって

 

道を尋ねていたら、ちょうどそこへひとりの自転車を押した女性が通りかかり、

 

「その旅館ならうちの近くやから、いっしょに行きましょう」

 

 といって案内してくれた。

 

 古くて質素な旅館だが、部屋数が多いところをみると、かっては栄えたのだろう。美味しい柏餅とお

 

茶をいただいていると、雨上がりの蒸し暑さをわすれるようだった。

 

 

 

 

 夜半、一時的にはげしい雷雨がきたが、朝には完全にやむ。雨具なしで、七時十五分、宿を出発

 

する。今日もむりをせず歩きは二十キロほどにして、第七十九番天皇寺、八十番国分寺、

 

八十一番白峯寺(しろみねじ)の三ケ寺をまわり、近くのかんぽの宿に泊まることにしている。

 

 商店街をぬけて一キロほどまっすぐに行ったところで、右の細道にはいる。さらに一キロ歩いて、

 

七時五十五分、白峰宮につく。

 

 天皇寺はもともと弘法大師の建立した寺で、妙成就寺摩尼珠院と号していたが、讃岐の国に配流

 

されていた崇徳上皇が亡くなったとき、棺が当寺に安置され、のちに上皇の冥福を祈願して崇徳上皇社

 

が建立され、当寺はその神宮寺となった。天皇ゆかりの寺ということで『天皇寺』とも呼

 

ばれるようになる。しかし明治初年の神仏分離によって崇徳上皇社と天皇寺はわかれ、崇徳上皇社は

 

白峰宮となったそうである。もとが神宮寺であるため、天皇寺の参道入口には山門ではなく、大きな

 

赤鳥居がたっている。

 

 雨の降る気配がまったくなくなったので、ドクターは白峰宮の軒先で雨具をすべて脱いで、

 

ふつうのお遍路姿に着替える。そこへ地元のおばあさんが通りかかり、我々が昨夜ここで野宿

 

したものと勘違いして、

 

「ゆうべはここで泊まられたのかい。えらい雷やったもんのう」

 

 と言って去っていった。

 

 かっては栄えたであろうこの寺も、現在はさびれたのか、清めの水屋に水は一滴もなく、トイレの鍵

 

はかからず、紙も置かれていなかった。八時四十分、天皇寺を出発してつぎの第八十番国分寺

 

にむかう。六・六キロの道程である。

 

 JR予讃線にそって二キロばかり裏道を行くと鴨川駅がある。そこで綾川を渡り、国道十一号線の

 

交差点にあるコンビニで弁当を買う。しばらくは国道と並行している綾川の土手道を行き、

 

九時三十五分、墓地のそばで休憩する。

 

 一キロほどでまた国道にもどると、道はわずかに登りとなり、蓮光寺山のふもとを回り込

 

むようにして国分寺にむかう。この辺りは讃岐平野のなかに溜池だけでなく、饅頭を伏せたような山が

 

点々と散らばっている。たまに飯野山のように三角形の山もあり、讃岐富士と呼ばれている。

 

十時十五分、高松市にはいる。しかしここはまだ最近まで国分寺町と呼ばれていた所である。

 

 十時二十二分、国分寺につく。この寺も聖武天皇の勅願により各地に建てられた国分寺のひとつで、

 

行基が十一面千手観世音菩薩を安置して開基し、その後弘法大師が本尊を修復して、堂宇を増築

 

したといわれている。現在、本堂と本尊はともに国の重要文化財に指定されている。

 

 広島の旅行社が率いる歩き遍路ツァーがバスでやってきて、その中にたまたまドクターの知り合いの

 

紳士がいたので、ドクターと奇遇を喜びあった。彼等もいまから白峯寺に向けて山を登るそうだった。

 

全員、足元に脚半をつけて装備は万全である。

 

 十時五十分、国分寺をでてつぎの第八十一番白峯寺に向かう。距離は六・五キロほどだが、途中、

 

標高三百八十メートルの峠越えがあり、かなり急な登り道のため遍路ころがしのひとつに数

 

えられている。十一時半、途中の展望休憩所で早めの昼食休憩にする。

 

 この辺りは五色台と呼ばれ讃岐平野の中に大平山、白峯山など五つの峰がつらなって、坂出市と

 

高松市の間に立ちはだかっている。我々は今日の白峯寺(しろみねじ)から明日の根来寺(ねごろじ)

 

にかけて、この五色台山地の中を行ったり来たりすることになる。

 

 十一時五十五分、昼食を終えて出発する。道はじぐざぐに登ってはいるけれども、かなり急な登

 

りである。十二時二十五分、峠ちかくの展望休憩所で再度休憩する。ここで高度は三百七十メートル

 

ほどである。満開の桜越しに見る讃岐平野の眺めが美しい。

 

 休憩所からすこし上がると、“一本松”と呼ばれる県道百八十号線との交差点があり、この県道を右

 

に行けば根来寺へ、左に行けば白峯寺へ行けるけれども、あえて県道を渡って遍路道を行

 

くことにする。しかしこの判断は甘く、昨夜の雨のため山道は川のように水が流れているか、

 

ぬかるみのどちらかで非常に難渋した。一時五十分、第八十一番白峯寺の山門に着く。

 

 この山門は七棟門という形式で、五つの瓦屋根が連なっている。突き当たりに納経所があり、参道

 

はそこを左に曲がる。正面に崇徳上皇の霊を祀る御廟所である頓証寺殿があり、右に曲がると百段

 

ちかい石段の上に本堂と大師堂がある。

 

 お参りのあと、寺をでてドライブウェイをすこし登り、二時三十分、かんぽの宿に着く。今日は

 

一日、コーヒーが飲めなかったので、まずロビーの喫茶コーナーでコーヒーを飲んでから部屋

 

にはいる。部屋からは眼下に瀬戸大橋が一望にでき、風呂も天然温泉で、お遍路にはちょっと贅沢な

 

一夜だった。

 

 

 

 

 朝七時四十五分、宿をでる。今日はこれから第八十二番根来寺(ねごろじ)に行き、その後高松

 

にむけて山を下り、八十三番一宮寺(いちのみやじ)にお参りしたあと高松駅ちかくの宿に泊

 

まることにしている。歩く距離は三十キロちかくになる。

 

 今はまだ大丈夫だが、雨の予報がでているので、遍路道を避けてドライブウェイ経由で根来寺

 

にむかう。道は五色台の山地を縦走している県道百八十号線で、高さ三百五十メートルから五百

 

メートルの間でたえず登り下りしている。八時二十分、一本松で昨日歩いた遍路道と交差する。

 

八時五十分、足尾大明神を参拝し、そばの公園で休憩する。空がだんだん暗くなってきた。

 

 九時三十五分、第八十二番根来寺(ねごろじ)につく。この寺は五色台の峰のひとつ、青峰の山中

 

にあり、標高は三百六十五メートルである。寺伝によると、入唐前の弘法大師が五つの峰に

 

金剛界曼荼羅の五智如来を感得し、五大明王をまつり花蔵院(けぞういん)を建立。その後、智証大師が

 

当山を訪れた際、不思議な香りを放つ霊木を刻んで千手観音を作り、これを本尊として千手院を創建

 

し、この二つを総称して根来寺と称するようになったという。

 

 仁王門を抜けると下りの石段があり、下は馬場と呼ばれる新緑の美しい林になっていて、参道はその

 

中を抜ける。つきあたりの石段を登ると納経所と大師堂があり、さらにつぎの石段を登ったところに

 

本堂がある。だが本堂の前には万体観音堂と呼ばれる回廊式前堂がコの字型に本堂を取り囲んでいて、

 

行きも帰りもこの観音堂を抜けなければいけない造りになっていた。

 

 十時六分、雨が本降りになってきたので山門前でポンチョを着て、つぎの一宮寺に向かう。寺の横

 

から遍路道に入り、距離にして五百メートル、高さで三十五メートルほど登ると、先ほど通ってきた

 

県道の五色台みかん園という交差点にでる。ここから東南方向に折れて、鬼無(きなし)に向けて山

 

をおりる。雨はまだたいした降りではない。

 

 途中、遠回りをさけてなるべく直線になるように、自動車道と遍路道を交互に縫うようにして下山

 

する。十一時十分、標高七十五メートルの平地におりつく。JRの鬼無駅にもちかく、民家も密集

 

していて、ひょっとしてコーヒーが飲めるかなと期待したが、ドクターがこの辺りには喫茶店

 

はないという。しかし左手前方にそれらしいランプの標識がでている。近づくと奥まったところに、古

 

い民家のような建物があり暖簾がさがっている。中は暗くて見えないけれども、たしかに喫茶店

 

である。覗いてみると、カウンターの中にママさんがひとりいて、食事はまだできないけれども、

 

コーヒーはできるという。

 

 昨年、開店したばかりだそうだから、ドクターが知らないのもむりはない。コーヒーを注文すると、

 

ドーナツと豆せんべいがついてきた。お接待かもしれない。コーヒーを飲みながらカウンター

 

においてあるパンフレットを読んでいたら、この辺りは桃太郎伝説の発祥地だと書いてあった。

 

それでこの辺の地名の謎がとけた。桃太郎が鬼退治をしたので鬼がいなくなり、鬼無(きなし)

 

なのである。

 

 十一時四十分、店をでる。JR予讃線の踏切をこえると、まもなく本津川という小さな川に突き当

 

たる。この川が『おばあさんが川で洗濯を・・・』の川だと標識に書いてある。だんだん桃太郎が身近

 

になってきた。十一時五十五分、岩田神社の前で右にまがり、しばらく行ったお好み焼き屋で昼食

 

にする。

 

 十二時四十分、出発。雨が本降りになる。十二時四十五分、香東川の沈下橋を渡ると、道は住宅の

 

密集した市街地にはいり、同時に遍路標識が曖昧になる。四国四県のなかで香川県が一番遍路標識

 

がすくないと言われているが、この辺りは特にひどく、ドクターは前回もここで道がわからなくなり人

 

に聞いたそうである。今回はGPSがあるので、遍路標識を見失ってもなんとかなる。目的地への方向

 

と距離をいつも画面に表示してくれているので、たとえきちんとした道がなくても、田圃の畦道

 

であれ、民家の路地裏であれ強引にその方向に行けば、なんとか到着するのである。

 

 午後一時四十二分、雨の中、第八十三番一宮寺(いちのみやじ)につく。この寺は当初、法相宗で

 

大宝院と称していたが、各地に一の宮が建立されたとき、讃岐国一の宮・田村神社の第一別当職

 

となり、寺号を一宮寺と改めた。その後、弘法大師が逗留して聖観音像を刻み本尊とした。このとき

 

宗派も真言宗に改められたそうである。

 

 参拝者はだれもいない。雨宿りと休憩をかねすこしゆっくりして、二時十分、出発する。ここからは

 

県道百七十二号線を一路北上すれば、眼をつぶっていても高松市の繁華街に入って行く。宿までの距離

 

は十キロほどで、あとは歩くだけである。そろそろ午後のコーヒーを飲みたいころだが、沿道に

 

ファミリーレストランはあっても、喫茶店が見あたらない。雨は徐々にやんできた。

 

 二時四十分、交差点をすこし左に入ったところにそれらしい建物が見えた。近づいてみると看板に

 

ドイツ語で、『レーヴェ・カフェ』と書いてある。訳せば『喫茶ライオン』とでもなるのだろう。手作

 

りドイツケーキの喫茶店のようである。しかし店内で働いていた外国人男性はドイツ人ではなく、

 

フランス人だった。この際、ドイツ菓子でもフランス菓子でもかまわない。美味しいケーキを添えて

 

コーヒーを飲む。

 

 午後三時、雨が完全にやんだようなのでポンチョを脱いで出発する。三時十二分、高松自動車道

 

をくぐると、沿線はだんだんにぎやかになる。三時三十五分、栗林公園のそばを通過すると、いよいよ

 

繁華街である。今夜の宿はJR高松駅の東二キロほどの所にあって、ここからはまだ三キロ以上ある。

 

さらに小一時間ほどにぎやかな町中を歩いて四時三十五分、厚生年金のホテルに到着した。

 

 

 

 

 朝七時四十分、宿を出発する。天気は一日曇りの予報で、雨はなんとか避けられそうである。今日は

 

手始めに高松市内の景勝地“屋島”に登り、第八十四番屋島寺(やしまじ)にお参りし、つぎに牟礼町の

 

五剣山にある八十五番八栗寺(やくりじ)に寄り、最後にさぬき市の海端にある八十六番志度寺(しどじ)

 

まで行って、門前の宿に泊まる予定である。高さ三百メートル弱の山をふたつ登り下りするけれども、

 

歩く距離は二十キロもなく、比較的楽な行程である。

 

 ホテルの前の道をまっすぐ東に行けば屋島に突き当たる。しかしこの道は遍路コースではないので

 

標識がない。屋島の登り口にある遍照院まで行けばその前が遍路道なのだが、そこにたどり着

 

くまでには迷路のような村の中の道を抜けなければならない。そのため事前に遍照院をGPSに登録

 

してきた。神業のような正確さで迷路を抜け、遍照院の前に着いて、ドクターのGPSに対する信頼

 

はますます高まったようである。

 

「私もその機種に買い替えようかしら」

 

「もったいないからやめておいた方がいいです」

 

 登り口で小休憩をとり、八時四十分、登りはじめる。道はきれいに舗装されている。屋島寺までは

 

遍照院から距離で一・五キロ、高さにして二百五十メートルほどである。この道は地元の人にとっても

 

絶好の散歩道のようで、熟年の人たちの姿をよく見かけた。そして途中には弘法大師ゆかりの霊場

 

がふたつある。

 

 まず最初が『食わずの梨』である。ここは、大師が屋島寺にむかう途中、梨の実の収穫をしていた

 

農夫に梨をひとつ所望されたが、「食べられない梨だから」と断られた。その後、その梨の実は食

 

べられなくなったということである。

 

 もうひとつの霊場が『屋島の御加持水』である。こちらは、大師がここで休憩されたとき、あたりに

 

喉の渇きをいやす水がなく、不便をかこつ衆生のためにと加持祈祷されると、岩の間から清水が湧

 

きでたといわれている所である。

 

 九時三分、屋島寺の仁王門前につく。仁王門のむこうにはもうひとつ四天門が見えている。なかなか

 

立派なお寺のようである。この寺は唐から来日した鑑真和上の開基でもともと律宗だったが、のちに

 

弘法大師が伽藍を造営し、その際真言宗に改宗したと言われている。この造営のとき、あと少しで工事

 

が完成というときに夕日が沈みそうになったが、大師は崖に突き出た岩の上に立ち、扇をあおいで夕日

 

を呼び返し、一日で工事を終わらせたそうである。

 

 土産物屋のならぶ通りを抜けると、高松市街と海が一望にできる展望台にでる。風が強く寒

 

いけれども、その分空気は澄んで眺めが素晴らしい。数キロ先に見える島は女木島と呼ばれ小学校

 

まである大きな島だが、この島が桃太郎伝説のなかに出てくる鬼が島だそうである。おとぎ話の世界

 

がすべて現実のものとなってきた。あとひとつ残る謎は、岡山のきび団子がなぜこの高松で登場

 

するのかということだが、ひょっとすると現在ある岡山のきび団子は製菓業者が吉備の国にちなんで考

 

え出したお菓子で、もともとのきび団子は日本中どこでも作られていたのかもしれない。そういえば

 

岡山名物のきび団子は『吉備団子』と書き、桃太郎のきび団子は『黍団子』のはずである。

 

 十時、屋島をあとにして下山を開始する。下りは来た時とは反対の方へ下るのだが、道は細く急な

 

遍路道で、雨上がりですべりやすくかなり気をつかって、十時二十五分、平地におりついた。目の前が

 

入り江になっていて、この辺りが源平の古戦場“檀ノ浦”である。関門海峡にも源平最後の古戦場“壇

 

ノ浦”があるが、字がすこし違う。

 

 十時五十分、高橋を渡れば牟礼町である。番外霊場洲崎寺に寄り、お参りをして行く。この辺りから

 

道は五剣山にむかって登り道となる。十一時十五分、途中にりっぱな構えのさぬきうどん屋

 

があったので、すこし早めの昼食にする。今回の香川遍路では、さぬきうどんの本場を遍路

 

していながら、本格的なさぬきうどんに出会うのは初めてである。押し寿司とざるうどんのセット

 

にしたが、どちらも良かった。十一時四十分、店をでる。道は車も通れるように舗装されているが、

 

傾斜が急なので、息がきれて足がなかなか前に出ない。十二時十分、標高二百三十メートルの

 

八栗寺山門につく。まず歓喜天と書かれた石の鳥居があり、その向うに二天門がある。風が寒い。

 

 寺伝によれば、弘法大師がこの山で修行している時に、空から五振りの剣が降ってきて、蔵王権現

 

から「この山は仏教相応の霊地なり」との神託がくだったため、この剣を中嶽に埋め、岩肌に大日如来

 

の像を刻んで山の鎮護とした。

 

 当時は山の頂上から八ケ国が望めたため八国寺と呼ばれていたが、大師が入唐前に求道の成果を乞

 

うために山中に埋めていた八つの焼栗が、帰国後、ぶじに成長していたので八栗寺と名前を改

 

めたという。

 

 またこの寺は歓喜天道場としても信仰を集めている。歓喜天とは別名“聖天さま”とも呼ばれ、

 

福徳財宝、商売繁盛、縁結びのご利益があるインド伝来の天尊で、その信仰も弘法大師が唐から日本に

 

伝えたといわれている。十二時三十五分、下山を開始する。

 

 下りは県道百四十五号線をJR高徳線の讃岐牟礼駅にむかって下る。琴平電鉄志度線もJRと並行

 

して走っていて、琴電の駅名でいえば八栗新道駅である。どちらも八栗寺からは三キロの道程である。

 

一時五分、駅前におりつく。ここから志度湾にそって南東に三・五ほど行けば、海のそばに

 

第八十六番志度寺がある。

 

 そろそろコーヒーを飲みたい時間だが、遍路道はひなびた漁村の中を抜けていて、喫茶店は期待

 

できない。一時五十分、行く手右側に小奇麗な建物が見えてきた。近づいてみると、

 

平賀源内先生遺品館と旧居と書いてあった。旧居の庭には銅像も建っている。意外な新発見だった。

 

 二時二分、道の左手に番外霊場地蔵寺が現れる。この寺は志度寺の奥の院にもなっている。

 

ひっそりとして人の姿はない。ついでにお参りをして行く。二時十分、右手に今夜の宿があったので、

 

リュックだけ先に預ける。幸運なことに宿の隣には小さな喫茶店があった。

 

 あきらめていたコーヒーを飲むこともでき、満ち足りた気分で、二時半、志度寺の仁王門前に到着

 

した。門の両脇には大きな草鞋がふたつ立てかけられている。この寺は西暦六百二十五年の創建

 

といわれ、札所の中でも屈指の古刹である。薗子と呼ばれる尼が浜に流れついた霊木で本尊を彫り、お

 

堂を建てたのが開基で、その後藤原不比等が自分のために命をかけて、龍神に奪われた宝玉を取り返

 

してくれた妻である海女の墓をここに建て、“死度(しど)道場”と名づけた。その後息子の藤原房前

 

(ふささき)が行基とともに堂宇を拡張し、僧侶の学問所や信者の修行の場としたと言われている。

 

 広い境内に参拝者の姿はちらほらとしか見えないが、大声でご詠歌を歌う女性がひとりいて、お遍路

 

さんの格好をしていないところを見ると、ひょっとしたら地元の人でいつも来てはご詠歌を奉納

 

しているのかもしれない。午後三時、寺をでて宿にもどる。

 

 

 

 

 いよいよ今日は結願(けちがん)の日である。午前中雨の予報がでていて、すでに空は曇って小雨

 

がぽつぽつしている。今日は午前中に第八十七番長尾寺にお参りし、午後、最後の札所である

 

第八十八番大窪寺に到着する予定である。大窪寺へは途中標高七百五十メートルの胎蔵峰を越えれば

 

景色もよく近道なのだが、ドクターによれば雨や雪の時は非常に危険なところがあるそうで、かなり

 

遠回りになるけれども、今日は峰のふもとを迂回するコースをとることにしている。そのため一日で歩

 

く距離は二十五キロほどになる。

 

 お接待の弁当をもって、七時十五分、宿を出発する。最初、ぽつぽつだった雨が歩いているうちに、

 

本降りになってきた。昨年秋の愛媛遍路では晴天続きだったが、今回は逆に毎日のように雨が降

 

っている。長尾寺へは県道三号線沿いに南へ七キロの道程である。

 

 八時、道端の当願堂と呼ばれるお堂で、雨宿りをかねて休憩する。八時二十五分、長尾寺の奥の院

 

でもある番外霊場玉泉寺に寄ってお参りして行く。八十八の札所はほとんどが真言宗のお寺であるが、

 

中には禅宗と天台宗のお寺もいくらかまじっていて、この玉泉寺と長尾寺は天台宗ということである。

 

 九時五分、長尾寺につく。この寺は行基が道端の柳の木で聖観音を彫り安置したのが始まりとされ、

 

江戸時代には高松藩主・松平頼重により本堂が再建された。また頼重は本尊の観音像を讃岐の国の中

 

でも随一のできだとして、『当国七観音随一』と称えたといわれている。雨の中、ポンチョを着てお参

 

りしていたら、この寺の方らしいご婦人から、「お元気ですね」と声をかけられた。

 

 九時四十二分、最後の大窪寺にむけて出発する。県道三号線で長尾の町中を抜けると、道は鴨部川

 

にそって徐々に登りとなる。今日は一日、ひなびた田舎道と山道ばかりで、コーヒー

 

はむりだろうとあきらめていたら、十時半、県道沿いに一軒のちいさな喫茶店が突然あらわれた。雨で

 

体が冷えてきたところでもあり、時間的にもちょうどいい。ドクターももちろん異存はない。

 

 デビ夫人の老後はかくやと思われるようなママさんがひとりで切り盛りしている店で、ケーキセット

 

もあった。十時五十五分、出発する。雨は小降りになってきた。県道はすこし急な登りになり、二十分

 

ほど登ると前山ダムが目の前にあらわれる。辺りには道の駅やレストランや“前山おへんろ交流

 

サロン”などの建物が並んでいて、にぎやかである。すこし早いけれども、おへんろ交流サロンに寄

 

って、宿のお接待の弁当をいただくことにした。

 

 弁当を食べているところへこのサロンの館長がでてきて、お茶を淹れてくれ、ついでに名簿

 

のようなものを出して、ここへ住所、氏名を書くようにという。食事が終わったころ、館長が賞状と

 

バッジをもってきた。賞状には“四国八十八ケ所遍路大使任命書”と題して、地元のロータリークラブ

 

とさぬき市おへんろ交流サロンの連名で、『貴方は四国八十八ケ所歩き遍路約千二百キロメートルを

 

完歩され、四国の自然、文化、人との触れ合いを体験されたので、これを証すると共に四国遍路文化を

 

多くの人に広める遍路大使に任命致します』と書いてあった。勝手に大使に任命されても困

 

るけれども、ここにはかなりの知恵者がいるものと思われる。

 

 十二時五分、おへんろ交流サロンを出発する。このまま県道三号線を行ってもいいが、相草公民館

 

までのほぼ五キロを林道花折線で山越えすれば、一キロほど近道になる。ドクターによればこの山越

 

えは問題ないようである。道は舗装されていて雨でも歩きやすいし、通行する人や車もほとんどない。

 

しかし最近の雨でそばの崖がくずれて道路をつぶし、にわかに補修工事をしたあとが随所

 

にありひやりとする。

 

 林道の入口が標高百四十メートルで、途中四百十メートルの峠があり、そのまま三百六十四メートル

 

まで下った所で県道と合流し、その合流点ちかくに相草公民館がある。十二時五十五分、峠のすこし

 

手前に屋根つきの休憩所があったので休憩し、ついでに雨具をすべて脱いで、一時十分、県道にでた。

 

 一時二十五分、江戸時代中期の典型的な農家として国の重要文化財に指定されている細川家住宅

 

というのが近くにあったので寄って行く。屋根は茅葺、壁は土で塗りこめられ、母屋と納屋があり、

 

母屋のなかには三間あり、居間にはいろりが掘られ、台所は土間でかまどや石臼、

 

せいろなどがそのまま保存されている。見ていると、縄文時代の竪穴式住居から現在の住居までの変遷

 

がよく理解できる。

 

 標高三百二十メートルまで下って、多和交差点を左折し国道三百七十七号線にはいる。道は登

 

りとなり高さ三百九十メートルの峠をめざす。一時五十七分、峠を通過し、二時十分、高さ三百四十

 

メートルの竹屋敷の交差点につく。ここには大きな温泉つきの旅館が一軒あって、レストランや

 

土産物売場もある。休憩してコーヒーを飲むことにした。

 

 ここから大窪寺までは三・五キロほどで、ここに泊まればお寺まで車で送り迎

 

えしてくれるようだが、我々は今夜、門前の民宿に泊まる予定である。寺は標高四百四十五メートル

 

のところにあり、道は最後の登りとなる。大気の状態が不安定で空は暗くなり遠くで雷が鳴

 

っているが、なんとか雨にならずに午後三時十分、第八十八番大窪寺の仁王門前についた。

 

 この寺は行基が開き、のちに弘法大師が本尊の薬師如来を刻み堂宇を整え、最盛期には百を越える

 

僧坊があったという。しかし天正年間と明治三十三年の二度の火災にあい、現在の堂塔はほとんど

 

明治以後に再建されたものだそうだが、結願の寺として四国八十八ケ所を歩き終えたお遍路を納得

 

させるだけの威容はじゅうぶんに備えている。

 

 我々のほぼ一年かけた四国遍路もこれで幕を迎えたことになる。しかしほんとうにお大師さまの旧跡

 

をめぐるお遍路をしたのか、おいしいコーヒーを求めてお遍路したのか、自分でも疑問がのこる。お

 

遍路にとって香川県は『涅槃の道場』である。“涅槃”とは修行をつんだ結果として煩悩を解脱した

 

境地をさす。般若心経にも人間の五感やそれをつかさどる感覚器官すべては“無”であって、

 

そんなものにこだわっていては真の幸福は得られないと書いてある。

 

 おいしいコーヒーがなければ歩けないようではまだまだ修行がたりない。涅槃を求めての人生遍路

 

はこれからである。