『発心の道場』 二〇〇五年三月二十七日(日)〜四月七日(木)

 

 

 早朝からJRと高速バスを乗り継いで、十時に徳島駅に着いた。ここからJR高徳線に乗れば、

 

二十分ほどで一番札所のある坂東(ばんどう)に着く。沿線はちょうど白木蓮が満開である。車内

 

はがらがらに空いていて数人しか乗っていないが、その中にリュックを持った若い女性がひとりいる。

 

この人もお遍路に出るのだろう。十時三十三分坂東着。ここから一キロほど歩けば一番霊山寺

 

(りょうぜんじ)である。

 

 まず本堂横の売店で遍路用の白衣、輪袈裟、金剛杖、菅笠、頭陀袋(ずたぶくろ)ほか用具一式を買

 

う。完全なお遍路さんに変身したら、次はお参りである。しかしにわか遍路にはなかなか勝手が解

 

らない。さいわい大型バスやマイクロバスで団体がつぎつぎにやってくる。お寺の主催する遍路ツァー

 

も多いようで、そういう団体は住職に連れられている。彼らのすることを横目で見ながら、見よう

 

見真似でろうそくと線香を立て、お経をあげる。

 

 その前に納め札を納めるようだが、買ったばかりで住所も名前もまだ記入していないので、今日は

 

省略する。

 

 お経は開経偈(かいぎょうげ)にはじまり、般若心経、ご本尊真言、光明真言、御宝号(ごほうごう)、

 

回向文(えこうもん)と続く。短いものは覚えてきたが、般若心経だけは自信がないので、経本

 

(きょうほん)を頼りに読む。これを各寺ごとに本堂と大師堂の二ヶ所であげると、けっこう時間

 

がかかる。そして最後が納経である。納経とは納経帳にその寺の判と署名をいただくことである。

 

納経帳だけでなく、掛軸や白衣を持参している人はそちらにも押印してもらうことができる。私も白衣

 

を別に一枚持ってきていて、これは将来、死に装束になる予定である。

 

 ちょうどここでお昼どきとなる。昼食は賑やかなこの辺りで済ませておかないと、あとは店がない

 

可能性もあるので、敷地内にある小さなうどん屋にはいる。

 

 そろそろ今夜の宿もおさえておかなければいけない。宿の情報は売店で買った遍路地図の終りの方に

 

リストがでている。一番からだと五番の地蔵寺まで行くと、ちょうど十一キロで初日としては適当な

 

距離である。しかし携帯で五番ちかくの民宿に電話してみると、すでに満室だった。五番と六番

 

のあいだにもう一軒民宿がある。こちらは大丈夫だったが、ひとり遍路の場合、もうひとり来たら

 

相部屋になるという条件つきだった。

 

 一番をでて二番極楽寺までは十分ほどで着く。境内は美しい庭園になっている。鐘楼もあって参拝の

 

女性が鐘を撞いていた。納経のとき、「お姿は受け取りましたか」と聞かれて、何のことか理解

 

できなかったが、よく聞いているうちに、お姿とはその寺のご本尊を描いた札で、納経すると必ず

 

一枚頂けることが解った。ただ、寺によって「勝手に一枚お取りください」という所と、納経帳

 

とともに一枚つけて返してくれる所とがある。

 

 三番金泉寺(こんせんじ)へはお墓のそばの細い道を抜けて行く。遍路道保存協力会という組織

 

があって、すたれかけた昔の遍路道を復元するよう働きかけたり、別れ道ごとにきめこまかく標識

 

をつけてくれているので、歩き遍路にとっては非常にありがたい。遍路道だと車の通らない静かな山道

 

やあぜ道を歩けるので足にもやさしく、気持ちも安らぐ。その裏道ばかりを二・六キロほど歩いて、

 

突然お寺の境内に入った。どうやら正門からではなく、横から金泉寺に潜り込んだようである。

 

 参拝を終えて、帰りは朱塗りの仁王門から出る。だんだん空が曇ってきた。四番大日寺に向かって

 

遍路道を三キロほど行った道沿いに番外道場の愛染院という小さなお寺があり、休憩をかねて参拝

 

してゆく。ここから緩やかな坂を二キロほど登ったところに大日寺があり、その後はあと戻りして二

 

キロばかり下ると、五番地蔵寺である。

 

 門前に、さきほど断られた民宿があった。時間は三時半をすぎたところである。空が曇って今にも降

 

りだしそうになってきた。ここから宿まではあと三キロちょっとある。なんとか降り始めるまでに着

 

きたい。喉がかわいたが自動販売機がなくて困っていたら、ちょうど湧き水が出ている所があり、その

 

水を飲む。そのうちポツポツとしてきて内心あせり始めた頃に、やっと宿の看板が見えてきた。

 

 宿はしっかり者の奥さんがきり盛りしていて、着くなり金剛杖を洗ってくれた。遍路にとって、杖は

 

同行二人(どうぎょうににん)のお大師さまであり、部屋では拝んで床の間に立てかけ、まっ先に休

 

んでいただくのである。相棒は来ず、ひとりで部屋を占領することができた。他の部屋はすべて津山

 

から来たという熟年女性の団体さんである。食事もひとりだけ別で、別棟の食堂でいただく。雨

 

はいよいよ本降りになってきた。

 

 

 翌朝も雨はすこし残っていたが、雨具を着るほどでもないので、そのまま出発した。昨夜の宿は、

 

遍路第一夜としてはなかなか感じのいい宿で、廊下に貼ってあった「旅人は神の使いと思え」と書いた

 

掛け軸が印象的だった。

 

 出発してほどなく又雨が降り出したので、近くの神社の軒下でポンチョを着る。リュックの上

 

からすっぽり被るのだが、リュックが大きく頭と同じくらいに背が高いので、被るのに苦労した。

 

そのうちおいおいコツも飲み込めるだろう。

 

 半時間ほど歩いて六番安楽寺に着く。朝が早いので個人の参拝者がちらほらいるだけである。この寺

 

の山号は温泉山という。もともとの境内はここから二キロほど離れた安楽寺谷という所にあり、

 

そこでは鉄さび色の温泉が湧き出ていたらしい。現在の堂宇はどれも比較的新しく、特に山門は

 

平成十年に完成したものだという。門前のみやげ物屋で美味しいコーヒーを飲む。

 

 ここから七番十楽寺までは裏道を歩いて一キロあまりしかなく九時に着く。中国風の鐘楼門が迎

 

えてくれる。境内には雨の中テントを張って十人ほどのグループがご詠歌を歌っていた。お参

 

りをすませ立ち去ろうとすると、そのグループのひとりが出てきて、手作りのお守り袋をお接待

 

してくれた。噂に聞くお接待だが、初めての体験である。雨がやんだのでここでポンチョを脱ぐ。

 

 十楽寺から八番熊谷寺(くまたにじ)までは、徳島自動車道に沿って、あまり車の通

 

らないのんびりした道を四キロほど歩く。途中、「お遍路さんお立ち寄りください。お接待します」と

 

書いた店が一軒あったけれども、わざわざ入るのも気がひけたので通過する。宮川内谷川という川を渡

 

るとき下を見たら、ニゴイが数匹群れていた。道が直角に右折し、高速の下をくぐって一気に

 

標高百二十メートルまで登ったところに熊谷寺がある。山中にあるため戦国時代の兵火も免れ、落ち着

 

いた雰囲気の寺となっている。多宝塔と呼ばれる三重塔も美しく、風格のある山門の前には白木蓮が

 

満開だった。高台から見る徳島平野の眺めも素晴らしい。

 

 境内でほかの団体さんとすれ違ったときに、そのうちの一人の女性がこちらに向かって手を合

 

わせた。これも初めての経験で、なんとも面映い。

 

しかしだんだん解ってきた所によると、お大師さまを信仰している人々にとっては、お大師さまは現在

 

も生きていて、四国を遍路修行されているのである。お遍路の目的も、そのお大師さまに会

 

うことであり、そのためには順にまわるより逆にまわる方が確実だと逆打ちをする人もいる。又、橋の

 

下にはお大師さまがお休みになられているかも知れないので、橋を渡るときは杖

 

をつかないことになっている。そして歩き遍路はひょっとしてお大師さまかも知れないのである。

 

 来た道をもどり、高速道路をくぐってまっすぐに二・四キロほど下ると九番法輪寺がある。この寺は

 

熊谷寺とちがって、今までに何度も兵火や土石流や火災にあい、現在の堂塔は明治時代に再建

 

されたものだという。門前に草もちを売る店があり、“たらいうどん”という看板も見えたので、

 

すこし早いが中にはいって昼食にする。うどんを食べていたら、神戸から車で来たというご夫婦から、

 

弁当のおにぎりとかまぼこの煮物をお接待される。おにぎりはおやつ用に残しておく。

 

 今日はこのあと十番切幡寺(きりはたじ)にお参りし、そのあと十一番藤井寺の近くまで歩き、近辺の

 

宿に泊まるつもりである。もし藤井寺近くの宿がとれなくても、ちょっと離れたJR鴨島駅まで行

 

けばいくらでも宿はあるようなので、まだ予約はしていない。

 

 切幡寺は熊谷寺より高い、標高百五十メートルの山の上にある。山門をくぐってからも、さらに

 

三百三十三段の石段が待っていた。マイカーで来る参拝者はこの石段を登らなくても、車

 

のままでもっと上まで行けるようになっている。

 

 山を下ってしまうと、藤井寺までは市場町の平地をてくてくと十キロほど歩かなければならない。雨

 

はやんでいるが、空はうす暗い。町中に入ると遍路道の標識もなくなる。地図を頼りに吉野川

 

をめざしてひたすら歩く。昨日は徳島市からJRで吉野川を渡って坂東に来たが、今日は再度吉野川を

 

渡って元にもどる。しかしもどる所は徳島市ではなく吉野川市である。

 

 一時間ばかり歩いたころ、又雨が降りだしたので、民家の軒下にはいってポンチョを着る。黙々と雨

 

のなかを歩いているうちに、実際の道と地図との辻褄があわなくなってきた。道端の飼い犬も吠

 

えだした。今まで、遍路を見なれている犬は、そばを通っても知らん顔をしていたから、たぶん道に迷

 

ったのだろう。広い通りにでた所に携帯電話の店があったので、入って道を聞く。親切な若い女性が

 

地図上で示してくれた現在地は、思っていた場所からはるかにはずれていた。

 

 結局、予定より一本下流の阿波中央橋で吉野川を渡る。この道をまっすぐ行けば、藤井寺より先に

 

鴨島駅のそばを通ることになる。今日一日で二十五キロほど歩き、足のマメも痛みはじめたので、

 

藤井寺はあすの朝にまわし、駅のちかくのビジネスホテルを予約してそちらに直行する。

 

 

 翌朝七時半、ホテルを出発する時フロントで弁当のおにぎりを接待してくれた。今日は藤井寺を出

 

ると、あとは山に登り、一日中、標高四、五百メートルの山道を登ったり下りたりしながら、夕方

 

にやっと標高七百メートルの焼山寺(しょうざんじ)にたどり着くことになっている。昨日の雨は完全

 

にあがったが、気温が低く風も強い。

 

 藤井寺の裏に登山道があって、これが焼山寺にむかう遍路道である。今日のコースは、別名“遍路

 

ころがし”とも言われ、八十八ヵ所の中でも一番の難所とされている。“一に焼山、二にお鶴、三に

 

太龍”という言葉があって、三大難所を示しているのだが、お鶴というのは二十番鶴林寺で、太龍

 

というのは二十一番太龍寺のことである。いずれも標高五百メートル以上の山の中にある。しかも

 

三大難所がすべて徳島県に集中しているのである。お大師さまは歩き遍路に対して、最初に試練を課

 

しているのかもしれない。

 

 時間をかせぐためホテルから藤井寺まではタクシーにのる。お参りをすませて、八時に登山を開始

 

する。そしてまもなく先を歩いていたひとりの若い女性と一緒になる。千葉から来た森田さんといい、

 

半年前に勤めをやめ八十八ヶ所をまわったが、貯金がもう一回分残っているので、再度まわりに来

 

たそうである。

 

 しばらく二人で歩いていると、あとからもうひとり女性が追いついてきた。森田さんとはすでに

 

顔見知りで、盛岡から来たアロマテラピストの山村さんという。よく見ると、来るときJR坂東駅まで

 

乗った列車で一緒だった女性である。このあとは三人でしゃべりながら一緒に歩く。それにしても歩き

 

遍路に若い女性が多いのには驚く。

 

 登山を開始して一時間半で長戸庵(ちょうどあん)に着く。焼山寺までの山道の途中には、弘法大師

 

ゆかりの庵が三つあり、その最初が長戸庵である。大師が修行された小さな庵がそのまま残っている。

 

ここで十分ほど休憩する。そして出発するとすぐに、眼下に吉野川市を一望できる場所にでた。

 

ここでも又しばらく立ちどまって写真を撮ったりしていると、目の前に風をさえぎるものが何

 

もないものだから、すぐに体が冷えてくる。

 

 十一時すぎ柳水庵に着く。ここには湧き水もあり、ちょっと前まで人が住んでいたような大きな家

 

もある。夫婦ものが二人で近くの檜を切り倒していたので聞くと、遍路道が湧き水

 

でいつもじめじめしているので、少しでも日当たりをよくしようとしているということだった。奥

 

さんが我々に金平糖を接待してくれる。

 

 朝が早かったのと運動したので、すこし早いがここで昼食休憩にする。森田さんは昨夜、“鴨の湯”

 

という町営の温泉に入り、そばにある善根宿に泊まったそうで、弁当はパンを買ってきていたが、山村

 

さんは宿のお接待のおにぎりで、おかみさん手書きの心のこもった手紙までついていた。私

 

のおにぎりにも、ワープロ印刷で短いあいさつ文がついていた。

 

 ちょうど食事中に、こんどは若い男性が追いついてきて、彼も昼食の仲間入りをする。今年、群馬県

 

の大学に合格したばかりで、まもなくそちらに移住するという。高校時代は登山部で鍛

 

えたそうだから、我々とはペースがあうわけもなく、先に出発した。

 

 十一時四十五分、我々も出発する。急な登り坂が多くなり、濡れた石を踏んだひょうしに足

 

をすべらせ転んでしまった。ふだんならすぐにバランスを取り戻せるはずだが、重いリュックを担

 

いでいると思うようにいかない。なるほど“遍路ころがし”だと納得する。

 

 十二時半、三つめの庵である浄蓮庵に着く。短い石段を登りつめると、巨大な一本杉があり、その前

 

にお大師さまの銅像も立っている。標高七百四十五メートルの山の上である。ここから焼山寺

 

まではあと四キロほどだが、このあと高度にして三百五十メートルほどを一気に下り、一旦里に出て、

 

またすぐに三百メートルほど急な山道を登らなければならない。本日一番の難所で、ここでもう一度転

 

ぶ。

 

 今日歩いた山道は、距離が長いうえに急な登り下りが多いために八十八ヶ所中最大の難所

 

といわれているが、アスファルトと違って、マメのできた足には落ち葉や土の感触

 

がとてもやさしかった。

 

 二時四十五分、思ったより早く焼山寺に着く。標高七百メートルの山の中にもかかわらず、広大な

 

敷地に風格のある堂塔が建ちならんでいる。ここには宿坊の虚空蔵院もあり、今夜はここで泊まる予定

 

である。お参りをすませ、山村さんとみやげ物を売る店にはいり、名物のよもぎ大福をいただく。元気

 

な森田さんは、そんな物には目もくれず、もう二百メートル上の奥の院まで今日中に参拝してくると言

 

って出発した。

 

 すこし早いが宿坊に入って足を休めることにした。今夜の相客は個人の歩き遍路ばかり七人

 

だそうだが、男性はひとりきりで、あと六人はすべて若い女性だった。ひとりで部屋を占領

 

していたら、夕方になってもうひとり若い男性がやってきて、相部屋となる。二十八才

 

だというけれども、すこし頼りない所のある男性で、自分の言いたいことをなかなかうまく表現

 

できないのか、宿のおかみさんとも意志の疎通に苦労していた。現在、散髪屋の見習いをしていて、

 

主人に真新しい道具一式を持たされ、四国遍路に行って修行してくるようにと言われたそうである。

 

「人の頭は刈ったことあるの」と聞くと、「まだないです」と答えた。

 

 ふつう宿坊に泊まると、夕食前か、朝食前に全員本堂に集まってお勤めがあると聞いていたが、ここ

 

焼山寺ではなにもないようだった。もしかすると団体さんが泊まったときだけで、個人の遍路ばかりの

 

場合はないのかも知れない。

 

 

 四日目の朝、前日のうちに奥の院まで行った森田さんは、朝食後、早々に山を下りていった。残

 

された我々は、というのは山村さんと理髪師君と私の三人だが、宿に荷物をおいて、まず奥の院にお参

 

りすることにした。奥の院は標高九百メートルの山頂にある。行って帰ってくるだけで一時間半

 

かかる。今日も天気はいいが昨日と同様に風が強い。

 

 奥の院の参拝もすませ、九時、三人連れ立って下山を開始する。理髪師君は十三番大日寺にむけて先

 

を急ぐが、私と山村さんは昨日の強行軍の休養をかね、今日はすこし道をそれて、途中の神山温泉

 

でのんびりしようと考えている。

 

 来た道とちがい、下山道には車道もあるけれども、くねくね曲がっていて遠回りになるので、遍路道

 

はなるべくまっすぐに下るように造られている。その分傾斜は急である。一時間あまりひたすら下ると

 

鍋岩という部落にたどりつく。遍路道はここで終わり、あとは広い道となる。

 

 部落に入るやいなや、外でなにかしていたひとりの女性が我々の姿を見てすぐに家にかけこみ、

 

冷蔵庫からクロレラドリンクを一パック持ってきてお接待してくれた。慣例によって三人それぞれ一枚

 

ずつ納め札をお返しに差し出す。さらに行くと、今度は屋台のような店で土地の名産品を売っている

 

女性にあう。そこでも、なにか買ったわけではないのに、奥から缶ジュースとチョコパイを出

 

してきてお接待してくれた。四国はどこに行っても、歩き遍路にお接待をするという習慣があたり前

 

のように根付いているようである。

 

 しばらく行くと道路の左手に遍路道の標識があって、そこから細い道が山に向かっている。ここで

 

理髪師君と別れなければならない。心配そうな彼の顔以上に、こちらも彼のことが心配なのだが、

 

ここで突き放さねばと心を鬼にする。我々は県道四十三号線を鮎喰川(あくいがわ)に向かって下る。

 

目指す神山温泉まではあと六・六キロの行程である。

 

 四十分ほどで道は鮎喰川にぶつかる。橋を渡ると国道四百三十八号線の広い通りにでる。学校や

 

郵便局や旅館もある。深い山の中ばかり歩いてきた者には結構にぎやかな町に見える。橋を渡って左に

 

国道をしばらく行くと、右手に神山町役場があり、その向かいには食堂があった。時間はちょうど昼

 

どきの十一時四十五分なので、立ち寄って昼食にする。お客はだれもいなかったが、役場が昼休

みになると、二人入ってきた。

 

 宿にチェックインするにはまだ時間がすこし早すぎるので、途中、道の駅「湯の里神山」に寄

 

ったり、郵便局で賽銭用の小銭を両替したりしたが、それでも目指す宿に着いたのは一時半だった。

 

チェックインは三時ということで、レストランでコーヒーを飲み、そのあと一般用の大浴場に入

 

ったりして時間をつぶす。

 

 

 翌朝は朝湯に入りゆっくりして、八時半に宿を出発する。今日は国道と県道ばかりを十四キロほど歩

 

いて、十三番大日寺に向かう予定である。宿もその近くの民宿を予約してあるが、時間の余裕

 

があれば、十四番常楽寺も今日のうちに済ませるという手もある。

 

山村さんとは不思議な縁で出会ったが、お互いに気のあう所もあり、とくに彼女は地図が読

 

めないのと、視力が弱くて道路標識や遍路マークを見落としやすいとあっては放ってもおけず、徳島県

 

だけは行動をともにすることにした。

 

 今日歩く道路はほとんど標高百メートルから二百メートルの間を登ったり下りたりする県道で、途中

 

には“鬼籠野(おろの)”や“喜来(きらい)”などという聞き慣れない地名もある。鬼籠野は徳島を代表

 

するすだちの名産地だそうで、また喜来は徳島と香川にだけ集中してある珍しい地名

 

ということである。ふたつを足したような“オーロ喜来”というバス停もあった。

 

 鬼籠野の町で薬局に寄ったら、美人の奥さんが粉末のしょうが湯を接待してくれた。この町を過

 

ぎると、あとは点々と農家があるだけの寂しい田舎道がつづく。ある所で道端に埋め込んだ石の道標

 

に、大日寺と書いた矢印が山道の方を指していたので、そちらが遍路道なのだと思い山に向かったが、

 

遍路道にしては道がはっきりしないのでもう一度道路まで戻り、一軒家の農家で道を聞くことにした。

 

 さんざん大声で呼んだあげく、奥から老婆が足を引きずりながら出てきた。やはり標識の方

 

がまちがっていて、来た道路をそのまま行けばいいことが解り、お礼を言って去

 

ろうとすると、「ちょっと待ってください」と言って奥へ入ったと思うと、しばらくして冷えた缶

 

ジュースを持ってきてくれた。まったく恐縮する。

 

 その先の農家では、まだ四月にもなっていないのに、もう鯉のぼりが上がっていた。以前、九州

 

でもそうだったが、この辺はひな祭りが終わったらすぐに鯉のぼりを出す習慣

 

になっているのかもしれない。

 

 地図によるとこの先にトンネルがあるが、その前に山越えで大日寺にバイパスする遍路道

 

があるはずである。小さな標識を見つけ、意気揚々と山道に入ろうとしたが、ここもすこし様子

 

がおかしいので、通りがかった車の女性に確認してみた。介護ヘルパーさんだったようで、「私は土地

 

のものではないので、ちょっと聞いてきてあげましょう」と言って、近くの家に入って行った。地元の

 

老人の言うには、「昔は通れたが、今はもう通れんぞ」ということだった。県道をそのまま歩いて

 

十一時五十分、全長百三十一メートルの大桜トンネルに入る。

 

 昼食抜きで歩きつづけて、一時半、大日寺に着く。まずお寺のそばの宿に荷物を預けてお参

 

りをする。ついでに近くにある一宮神社と聖天さんにも参拝する。近くに食堂が一軒あるそうだから行

 

ってみると、二時を過ぎたためもう閉店していた。しかたなく屋台のたこやきとペットボトルのお茶

 

ですませる。

 

 まだ三時前で、時間的には十分常楽寺まで行ってくることができるので、一旦はそちらに足を向

 

けたのだが、山村さんが足の筋を傷めたようなのでやめて宿に引き返す。

 

 早めに宿に入り、風呂にも入ってゆっくりしていると、広島に住む山村さんの友達で、遍路の話を聞

 

くやいなやすぐに追っかけてきたという愛称ユリユリが、やっと今大日寺に着いたといって、

 

ボーイフレンドともども宿にたずねてきた。彼はアメリカ人で名前はジョンといい、広島で英語の教師

 

をしているという。二人の出会いは、ユリユリがアメリカに留学中、ホームステイしていた家の息子が

 

ジョンだったそうである。

 

 一時間半ほどにぎやかに歓談して二人は近くの宿に引き上げて行った。

 

 

 ゆっくり休養して、彼女の足の痛みもなくなったようなので、七時半、元気に出発する。今日は

 

十四番常楽寺から十七番井戸寺までの四つのお寺を順に参拝して、夕方までには徳島駅にたどり着く

 

予定である。めずらしく山がなく、すべて平地を歩くことになる。

 

 八時十分、常楽寺に着く。境内は天然の流水岩の巨大な岩盤でできていて、凹凸がはげしく非常に歩

 

きにくい。この凹凸の状態は、今でも雨や風などの自然環境によって変化し続けているそうである。

 

 常楽寺をでると、つぎの十五番国分寺と十六番観音寺(かんおんじ)はすぐである。この二つのお寺

 

はどちらも天平十三年に聖武天皇によって建てられ、天正年間に長宗我部軍の兵火によって焼失し、

 

のちに再建されたものである。

 

 観音寺の門前にひとりのおばあさんが立っていて、歩き遍路を見ると、つぎの井戸寺への道を教

 

えていた。この先はにぎやかな町中になり、遍路標識がなくなるので却って道に迷いやすいのだろう。

 

実際、何人かの歩き遍路が行く先々で道を探してうろうろしていた。しかしそんな時も、

 

どこからともなくひとりの女性が自転車で出てきて正しい道を教えてくれたり、通りがかりの自動車

 

から警笛を鳴らし、手で曲がるべき路地を指してくれたりした。そういう意味でも、歩き遍路

 

がどこから見てもお遍路さんだと解る格好をする事は大事なことなのである。

 

 途中、三人の人から道を教えてもらって、十一時二十分、井戸寺に着く。ここには弘法大師が一夜

 

にして掘ったという井戸が今でも残っていて、その水もペットボトルで持ち帰れるようになっている。

 

ここで、昨日会ったユリユリとジョンの二人に再会する。彼らはこのあとすぐにJRで岡山に戻り、

 

今日中に姫路城を見に行くといって、あわただしく去っていった。

 

 十二時半、井戸寺をでて徳島駅に向かう。途中、鮎喰川(あくいがわ)にかかる中鮎喰橋を渡る。

 

これで昨日から鮎喰川を三度、行ったり来たりしたことになる。最初は昨日の神山町で、二度目は

 

今朝、大日寺をでて常楽寺にむかう途中で、そして三度目の橋を渡るとあたりはがらりと都会

 

らしくなる。十三時五分、ファミリーレストランに入って昼食にする。

 

 あとは国道百九十二号線にそってまっすぐに五キロほど行けば徳島駅である。十五時十五分、駅前の

 

ビジネスホテルにチェックインする。ホームページに毎日発表するつもりの遍路日記が、この数日間、

 

山の中のため電波が届かず溜まっていたのを、やっとまとめて送りだす。それにしても初日に徳島駅を

 

出発し、六日間徳島県をあちこちお遍路して、また徳島駅にもどって来るというのは、すごろくの振り

 

出しにもどったようで割り切れないものがある。

 

 

 遍路宿や寺の宿坊だと朝食が早いので早朝に出発できるが、一般のホテルで朝食をすませて出発

 

しようとすると、一時間くらいすぐに遅くなる。八時二十分に出発して、その遅れを取り戻すために

 

徳島市と小松島市の境まで十五分ほどタクシーをとばす。タクシーだとあっという間だが、歩く立場

 

からみると少し取り戻しすぎたかもしれない。

 

 途中、国道沿いのコンビニで昼用の弁当を買って、九時五十分、小高い丘の上にある十八番恩山寺に

 

着く。山門にむかって登っていると、一台の軽トラックがやってきて、荷台の段ボール箱

 

からみかんとちくわをお接待される。この方はたまたまここを通りかかったわけではなく、お接待

 

をするために毎日軽トラックで登ってきているそうである。

 

 すこしゆっくりして十時半に出発する。近くに番外霊場の釈迦庵がありここにも寄って行く。

 

このあと遍路道はなく、県道百三十六号線を歩くことになる。十九番立江寺まではあと三・三キロ

 

ほどである。この調子で行けば昼ころには立江寺に着いてしまいそうである。そのまま先を急げば

 

二十番鶴林寺のふもとの宿まで十分たどりつけるのだが、格式の高い立江寺の宿坊にぜひ泊

 

まってみたいという希望があり、すでに予約をしている。

 

 十一時十五分、立江寺まであと一・五キロという地点で、道路の反対側に駐車していたライトバン

 

から男性が降りてきて、お接待をさせてほしいからちょっと待ってくれという。お接待の申し出を断

 

ってはいけないことがだんだん解ってきていたので、こちらから道路を渡って車のそばに行く。車内

 

には奥さんと息子さんと思われる二人が乗っていた。息子さんはすでに成人されている。荷物スペース

 

にはいくつかの段ボール箱があり、その中からクリームパンとバナナと缶コーヒーを出してきてお接待

 

してくれた。

 

 この方は息子さんがお産のときの事故で知恵遅れになったため、こうして毎日のように車で県道

 

にでて、お遍路さんにその功徳をすこしでも分けてもらおうとお接待を続けているそうである。

 

できればその息子さんの頭を触ってほしいと頼まれたが、そこまでする勇気はなかった。

 

しかしせっかくのお接待なので、パンとバナナとコーヒーはその場で頂くことにした。

 

 十二時をすこしまわった所で立江寺に着く。このお寺も聖武天皇のご勅願で建てられ、その

 

後長宗我部軍の兵火で焼失したり、昭和四十九年には不慮の火災で本堂ほかを失ったが、その度に立派

 

に再建され、現在はなんとも威厳のあるいいお寺になっている。又、ここは“阿波の関所寺”とも呼

 

ばれ、邪悪な心をもつ者や、罪をおかした者には仏罰がくだり、この先へ進めなくなると言

 

われている。

 

 ゆっくり一時間かけて参拝し、一時に宿坊にはいって、買ってきた弁当を食べる。午前中のお接待

 

だけをみても、四国にこれほど信心深い人々が多いと、歩き遍路は昼食のことをあまり心配

 

しなくてもいいのではという気がしてくる。

 

 部屋でのんびりしていると、外は朝のうちと打って変わって曇ってきた。三時に「お風呂が沸

 

きましたのでどうぞ」という案内がきて、一番風呂に入る。誰もいない広めの浴室をひとり占

 

めすることができた。あとは夕方五時のおつとめまで部屋で休む。

 

 気がつくと外は本降りの雨になっていた。夕方から明日にかけて気圧の谷が通過するようで、風

 

もつよくなり、ときどき雷も鳴る。五時になっても団体さんが到着せず、着くのを待って、五時半から

 

本堂でおつとめが始まった。総勢三十人ほど集まる。

 

 昭和五十二年に再建されたという本堂は立派で、天井には東京芸大の先生方四十人で描いたという

 

絵天井があり、壁には曼荼羅が描かれている。若い住職のおつとめにもきりりと張

 

りつめたものがあり、我々も身がひきしまる思いがする。全員お焼香をすませ、ご本尊の延命地蔵菩薩

 

の前まで行き、ご本尊真言の「おん かかかび さんまえい そわか」を唱えて退出する。

 

 六時、全員広間に集まりなごやかに情報交換をしながら夕食をいただく。ここは精進料理ではなく、

 

お刺身もついていた。長野から来たというお向かいのご夫婦は、今回は徳島県だけをまわるつもりで、

 

案内書にしたがって一ヶ月前にすべての宿を予約したそうである。雨はますます激しくなってきた。

 

 

 朝になっても雨があがる気配はない。天気は今日いっぱい不安定で、降ったりやんだり雷

 

がなったりするようだから、がんばって歩いても、今日は二十番鶴林寺まで登ることはむりだろう。

 

なにしろ鶴林寺は四国二番目の難所で、標高五百メートルの山上にある。

 

 といってここでくじけては立江寺の仏罰があたったことになるので、なんとしても出発

 

はしなければならない。ということで昨夜のうちに、鶴林寺の登山口にある民宿を予約しておいた。

 

距離は十キロほどだから、三時間もあれば着くだろう。

 

 七時、ポンチョを着て出発する。さいわい土砂降りではないが、出発時から雨というのは意気

 

のあがらないものである。朝が早いせいか日曜日のせいか、沿道にたまに店があってもすべて閉

 

まっている。

 

 小一時間ほど歩いたところに、“壽康康壽菴”と看板のかかったプレハブ小屋があり、「ちょっと

 

一服、ご自由にどうぞ」と書いてあったので、中に入って休憩する。すぐそばにある法泉寺のご好意

 

による休憩所のようで、中には大きなテーブルに椅子があり、流し台、冷蔵庫、洗濯機、食器類一式、

 

電磁調理器などが揃っていて生活するのに事欠かないようになっている。また奥には畳が敷かれ毛布

 

なども用意されていて、野宿遍路が一夜の宿にすることもできるという至れり尽くせりの小屋である。

 

 雨宿りをかねて半時間ほどゆっくりしていたら雨もやんできた。出発のときお礼に法泉寺にもお参

 

りしてゆく。門前にしだれ桜が一本ありちょうど咲き始めたところで、境内もこじんまりとして見

 

るからに清楚な禅寺だった。

 

 道は県道二十八号線から二十二号線に変わり、半時間も行くと勝浦川にぶつかる。時間はまだ

 

九時二十分である。ここで左折して県道十六号線を行くのだが、その前に交差点にあるコンビニで

 

弁当用のパンとお茶を買って行く。宿までは川にそってあと四キロほどの道程である。

 

 河原はしだれ桜がそろそろ見頃になっていて、あちこちに桜祭りと書いた提灯が下がっている。

 

途中、生比奈小学校の前で小休憩し、十時二十分に今夜の宿に着いた。のんびり急がない旅とはいえ、

 

これではいくらなんでも早すぎる。

 

 宿には留守番のおばあちゃんだけがいて、「今からなら天気も持ちそうやし、荷物だけ置いて登って

 

来なされ。明日は中腹から二十一番に抜ける道を行けばいいのや。早う着いた人

 

はみんなそうされます」という。なるほど明日もう一度頂上まで登らないと次に行けないのでは困

 

るが、途中でバイパスできるならそれもいい。

 

 言われた通りに重たいリュックを玄関先に置いて、十時半、登山を開始する。おばあちゃんは、

 

遍路道より車の道の方が眺めがいいのでそちらを行くようにと勧めたのでその通りに従ったが、この曇

 

り空では眺めは期待できそうにない。

 

 宿が標高三十メートルで目指す鶴林寺は五百七十メートルの高さにある。車の道なのですこし遠回

 

りになるが、勾配はそんなにきつくない。黙々と登りつづけ、昼前に駐車場に着いた。ここから参道

 

をすこし行くと、まず堂々とした仁王門が迎えてくれる。この寺は今から千二百年以上前、桓武天皇の

 

勅願によって建てられた由緒ある寺で、境内にある樹齢八百年といわれる巨大な杉がその歴史

 

をものがたっている。二十一番太龍寺とは、山裾を流れる那賀川(なかがわ)を挟んで山向かいに対

 

をなしていて、鶴林寺が胎蔵界道場、太龍寺は金剛界道場となっている。

 

 登ってくる間は、天気はもう回復したように思われたが、参拝しているうちに又雲行

 

きがおかしくなり、雨がぽつぽつしてきた。買ってきたパンを、あまり人の来ない忠霊殿の軒下で食

 

べる。そのうち空は夕方のように暗くなり、雨も本降りとなり、雷まで鳴りだした。雨具はリュックの

 

中に入れたまま宿に置いてきた。

 

 ポンチョを着ていないと、白衣に降った雨は一瞬のうちに下着にまでしみこんでくる。高山で気温が

 

低いこともあり、濡れるとすぐに体温がさがる。軒下で雨宿りをしながらも、山村さんが震

 

えているのがわかる。このまま濡れながら下山することは危険なので、携帯電話で地元のタクシーに

 

電話してみた。

 

 しかし地元のタクシーは出払って一時間以上しないと帰って来ないという。川向かいの太龍寺側の

 

タクシーに電話すると、こちらには車はあったが、遠いということで渋った。そこをむりに頼

 

むと、「三十分はかかりますよ」という。五百メートルの山頂まで来てもらうのだから三十分くらい何

 

でもない。

 

 三十分かかるといっていたタクシーが、実際には二十分ほどで来てくれた。我々は駐車場まで降

 

りてくるだけで全身びしょ濡れである。タクシー内の暖房で命拾いした気になる。料金も都会の感覚

 

からすると非常に良心的で、迎えの料金もほとんど取っていなかったのでチップをはずむ。

 

 一時五十分、ぶじ宿に着く。すぐに着替えて、部屋の暖房を入れる。風呂は四時まで待たないと沸

 

かないという。しかし着替えて暖かい部屋にいるだけで人心地ついた気になる。下界は山頂ほど雨が降

 

っていないようである。風はだんだん強くなり、しだいに突風が吹きだしている。

 

 風呂では二人の同年輩の男性といっしょになる。みんな定年退職をむかえて、ひとりで遍路にでた人

 

たちである。二人とも健脚で、足の裏にはマメができていないそうである。いっしょに歩いている山村

 

さんもマメはできないというので、日頃なにか足の裏を鍛えているのか聞いてみたら、これといって特

 

にはないが、趣味で続けているタイ舞踊が裸足で踊るくらいだといったので、はたと気

 

づいたことがある。

 

 私は夏でも冬でも、家の中であろうが外であろうがいつでも靴下をはく。家の中ではその上に

 

スリッパをはく。畑に行くときはゴム長をはく。これでは考えてみると、足の裏にとって過保護

 

である。私が畑を借りている森川翁は元気なころ、いつも裸足で農作業をしていた。家との往復

 

ももちろん裸足で、そのまま家に上がるものだから奥さんは困ったことだろうが、本人は「いまどき

 

裸足で歩ける道は貴重です」と言っていた。

 

 足の裏を鍛えるには、裸足の生活に戻ればいいのである。この徳島遍路を終えて帰宅してからは、家

 

の中では、つとめて靴下もスリッパもはかないようにした。この効果がつぎの高知遍路で出

 

てくれればいいが、それにはちょっと時間が足りないかもしれない。

 

 夕食は一階の大広間にみんなで集まっていただく。総勢八人ほどである。昨夜の立江寺の宿坊

 

でいっしょだった長野のご夫婦と、風呂で知り合った男性二人に、歩き遍路の若い女性が二人加

 

わった。一人は元気のいい女子大生の池畑さん、もう一人は東京のある劇団に所属している川口

 

さんで、すでに二人とも山村さんとはお風呂で意気投合している。二人の食卓は最初、部屋の両隅に

 

隔離するように置かれていたのを、山村さんが呼び集めて、私のまわりに若い女性が三人集

 

まることになった。

 

 夜が更けても、外の突風はやむ様子がない。

 

 

 翌朝は雨が完全にやみ空も明るくなったが、まだ時おり突風が吹いている。七時半、東京の川口

 

さんと三人で宿を出発する。彼女も昨日のうちに鶴林寺のお参りは済ませているので、今日は我々と同

 

じルートになるのだが、彼女は昨日登りも下りも遍路道を通ったので、中腹から太龍寺に抜ける道を

 

確認していないという。我々は車道を登ったので、別れ道をすでに確認している。それで我々と同道

 

することになったのである。

 

 五十分ばかり車道を登って、標高二百七十四メートルまで上がった所に別れ道はある。ここからは

 

県道二百八十三号線を那賀川に向かって下る一方だが、一キロも行くと車道から逸れて遍路道

 

があるのでそちらを行く。

 

 八時四十分、下りの遍路道の途中で休憩していたら、ひとりの男性が追いついてきた。携帯電話用の

 

モバイル文庫に遍路レポートを書いているというライターの大森さんだった。写真と文章の両方を

 

携帯電話で本社に送っているそうである。しばらく四人の道中となる。

 

 九時、道は那賀川にぶつかる。橋を渡ると太龍寺までは距離にしてちょうど四キロほどだが、最初の

 

二キロで百五十メートル登り、あとの二キロで一気に四百五十メートル登ることになる。三大難所に数

 

えられる所以である。

 

 十時十五分、太龍寺に着く。ここは大師が十九歳の時に修行をして、室戸岬と並んで青年大師の

 

思想形成に大きな影響を与えた所だと言われている。境内のスケールも高い山の上とは思われないほど

 

広大で、本堂や御廟(みみょう)の橋、大師堂の拝殿、御廟(ごびょう)などは高野山の奥の院と同じ配列

 

になっていて、“西の高野”とも呼ばれている。生い茂る老杉の間からは、昨日お参りした鶴林寺

 

がはるか向かいの山上に小さく望まれた。

 

 十一時十分、下山を開始する。今日はここからまだ十二キロ先の二十二番平等寺に参り、門前の民宿

 

に泊まることになっている。一キロほど遍路道を下ると、道は車道だけとなる。そこからさらに四キロ

 

ほど下るとふもとに到着で、龍山荘や坂口屋という大きな宿がある。十二時、坂口屋の前でしばらく

 

休憩する。

 

 車のまったく通らない寂しい県道二十八号線を二キロばかり緩やかに登って行くと、広い

 

国道百九十五号線にぶつかる。平等寺はこのまま国道を渡って山道に入るのだが、時間は

 

十二時四十五分で、交差点をちょっと右に行った所に道の駅“わじき”があるようなので昼食に寄る。

 

 我々が昼食をしている所へ、昨夜、風呂でいっしょだった天理の大川さんがやって来た。この道の駅

 

は遍路道からすこしはずれるのでうっかりしていると見過ごす可能性がある。しかしこの辺

 

りはここしか食事ができる所がないのだから、交差点の標識をもう少しはっきり出してはどうかと、

 

大川さんが店の奥さんにアドバイスしていた。我々はここでも一足先に出発したが、どうやら大川

 

さんとは今夜の宿も一緒のようだ。

 

 もと来た交差点にもどり、直進して遍路道に入る。ここからは峠をひとつ超えて、四・六キロほどで

 

平等寺である。峠の標高は二百メートルだが、交差点がすでに百四十メートルの高さにあるので、差引

 

き六十メートル登るだけである。

 

 二時十五分、峠を超えて平地におりた所で十分ほど休憩する。そして出発して二分もたたない道沿

 

いにテントがあって、四人の女性がお接待をしていた。テントには“大根いやしの道保存会”と書

 

かれている。昼食後すぐだが、せっかくのお接待を無視して通過するわけにはいかない。感謝しながら

 

立ち寄らせていただく。赤飯のおにぎり二個とゆで卵と小さい桜餅三個にお茶という豪華なお接待

 

だった。桜餅とお茶をその場で頂き、おにぎりとゆで卵は非常食用に持ち帰ることにした。

 

 三時、平等寺に着く。ここには大師が杖で掘ったという霊水が湧き出ていて、この水によって人々が

 

平等に救済されますようにとの願いをこめて、寺の名前を平等寺としたそうである。

 

 今朝から一緒に歩いてきた川口さんが、今回は二十三番薬王寺までで区切りをつけ、明日中に東京に

 

帰らなければならないということで、このあと大森さんと一緒にJRで一足先に日和佐に向

 

かうことになった。我々は寺のとなりにある民宿に入る。大川さんもすぐに着いて、結局、大川さんと

 

二人で相部屋となる。部屋は舞台やカラオケつきの宴会場で、二人だけでこんな広い部屋を占領

 

していいものかと心配になるほど優雅なものだった。夕食では昨夜のメンバーがほとんど顔

 

をそろえてまた盛り上がった。

 

 

 大川さんは今日の午前中に薬王寺に参り、昼食時には日和佐の町でひとり豪華に打ち上げをして、

 

その際には遍路中絶っていたビールも飲んで、午後二時の列車で奈良に帰るそうで、我々より一足先に

 

出発した。我々もそのあとを追って七時十五分に宿をでる。

 

 薬王寺まで行くには、国道五十五号線を通って山側を行く方法と、すこし遠回りだが由岐町にでて

 

海沿いに行くのと二通りがあるが、景色がいい方がいいということで海側を行くことにした。

 

 出発して最初の五キロほどは鄙びた農道を行き、福井川にぶつかった所から国道五十五号線に入る。

 

このまま国道を行っても薬王寺に着くが、海沿いにでるためにはもう二キロ先の別れ道で

 

県道二十五号線を行く。

 

 道はこの先二キロほどにある由岐坂峠に向かって登りはじめる。峠は標高百二十メートルで阿南市と

 

由岐町の境になっている。ちょうどそこへ向うからお遍路さんらしき二人連れがやって来た。向きが逆

 

なのでひょっとして逆打ちをされている方かなと思っていたら、立江寺の宿坊以来毎晩いっしょの長野

 

のご夫婦だった。

 

 聞いてみると、海側を通ろうとして向かっていたが、途中で地元の人から、この道を行くと何倍も遠

 

くなると言われて引き返しているところだという。私の予想では一時間くらいは余計

 

にかかるだろうが、何倍も遠くなるというのは少しオーバーである。気にせずに行

 

くつもりだというと、「それではついて行きます」ということになった。

 

 九時五十分、由岐坂峠を通過し、四キロほど下って十時四十分、田井ノ浜で休憩する。木岐トンネル

 

を出てしばらくして、県道からはずれ小高い丘をひとつ越えて海岸線に出ると、満石権現という小さな

 

神社があった。ここにはいい水が沸いていて、この水をペットボトルに汲み、供えてお願

 

いをしたのち、持ち帰って飲めばイボに効くそうである。時間は十一時半で、イボはないけれども、

 

この水と昨日の赤飯のおにぎりとゆで卵で昼食にする。

 

 十二時十分、木岐の町を抜けるときに、一軒の民家から女性がでてきて、フクロウのお守りを接待

 

してくれる。フクロウは“不苦労”に通じるようで縁起がいいそうである。しばらくおしゃべりをして

 

別れる時、「ちょっと杖に触らせてください」といって、杖に触れながらしばらく目をつぶっていた。

 

霊感のある人かもしれない。

 

 山座峠という低い峠をひとつ越えて海岸線にでれば、あとは海沿いに四キロほどで薬王寺に着く。

 

途中に大浜海岸というウミガメの産卵で有名な砂浜もある。この浜のそばに国民宿舎「うみがめ荘」

 

があり、長野のご夫婦は今夜ここに泊まる予定だということで、荷物を先に置きにゆく。

 

 我々も、昨日いっしょに歩いたライターの大森さんが今日も泊まっているというログハウスに押

 

しかけることになっていて、そちらに先に向かう。川口さんは今朝のJRでぶじ東京に帰

 

ったそうである。

 

 三時ちょうどログハウスに着く。大森さんが留守番をしながら、携帯に向かって原稿を書いていた。

 

この宿は二段ベッドがふたつ入った寝室がひとつしかなく、ちょっと狭い。食事も朝食

 

だけだそうだが、その分料金が二千六百円と格安になっている。

 

 荷物を預けておいて、山村さんと薬王寺にお参りにゆく。もう夕方に近いせいか、他に参拝客

 

はほとんどいなかった。かわりに一匹の黒い犬がいて、ずっと案内をしてくれた。この寺は厄除けの寺

 

として全国にその名を知られていて、境内には三つの厄坂がある。女厄坂は三十三段、男厄坂は

 

四十二段、還暦厄坂は六十一段の石段になっている。

 

 お参りを終えて、今夜のおやつ用に何かないかとスーパーに寄ったら、犬もついてきたので、菓子

 

パンをひとつ買って食べさせた。そのあとも宿まで案内してくれたのか、ついてきたのか解らないが、

 

我々が宿に入るとどこかへ帰っていった。

 

 六時四十五分、三人そろって外に夕食にでる。日和佐はわりと大きな町なので食べたり飲んだりする

 

所が何軒かある。その中でも昼間のうちに目星をつけておいた一軒の寿司屋に入る。徳島県の二十三ヶ

 

所をまわり終えた打上げと、十日間ちかく行動を共にした山村さんとのお別れとを兼ねた一席である。

 

 新鮮な造りをあてにビールで乾杯し、久しぶりに美味しい寿司を食べている時に、大森さんが駅前に

 

カラオケ屋があったというので、一曲歌いに行こうということになった。

 

 そこは大阪などにあるスナック形式のカラオケと違い、カラオケ喫茶という感じだった。店に入

 

るなり正面に豪華なステージがあって、注意書きが大書されている。『人の歌は静かに聴くこと。拍手

 

すること。批判しないこと』。主人はよほど歌に思い入れのある方だろう。たいへん気に入って席

 

につく。先客は熟年の男性と女性が一人ずついて、きわめてまじめに練習してきた歌を披露

 

しあっている。

 

 注文を聞きにきた奥さんが、注文をとる前にまず例の三つの注意事項を口で復唱した。アルコールは

 

出すけれども一人一杯までだという。あとはコーヒー、紅茶などの喫茶店メニュー

 

のほかにぜんざいもあるそうなので、三人ともぜんざいを頼む。宿の入浴時間があるので長居

 

はできず、大森さんと私で二、三曲だけ歌う。山村さんは豪華なステージに圧倒されて尻込

 

みしていた。最後に島崎藤村の“惜別の唄”を歌い、三人それぞれそれなりに楽しんで店をでた。

 

 

 山村さんはこのあとの高知は大森さんに付いて行くことになり、今日は二人と別れる最後の日

 

である。二人は今夜も日和佐のログハウスに泊まる予定で、荷物を宿に置いたまま手ぶらで海部まで歩

 

き、夕方のJRで日和佐までもどり、翌日は再度朝のJRで海部まで行き、そこから室戸に向けて歩

 

くという。私は足のマメもあり今夜は海部の手前の牟岐で泊まる予定にしているので、途中

 

までいっしょに歩くことになる。

 

 八時、宿を出発する。牟岐の宿まではJR牟岐線とぴったり寄り添って国道五十五号線を行けば、

 

十七キロほどの道程である。午後の早い時間に着くはずである。道は緩やかな登りで途中、奥潟

 

トンネルと日和佐トンネルとふたつのトンネルを抜けた所で、九時半、山河内駅でトイレを借りる。

 

 日和佐から八・六キロほどきた所が標高百三十メートルの峠となる。ちょうど峠のあたりに一台の車

 

が止まっていて、我々が近づくと運転席から男性が降りてきた。そして、この先二時間ほど行った

 

牟岐警察署の前でテントを張ってお接待をしているのでぜひ立ち寄ってほしいと言って去って行った。

 

時間は十時をすこしまわったところだから、二時間後だとちょうど昼時となる。

 

 峠を越えれば牟岐川まで緩やかな下りとなり、牟岐橋を渡ってあとは川に沿って二キロほどで牟岐の

 

町である。距離にするとほぼ八キロある。途中、大師ゆかりの霊場“小松大師”があり寄って行く。

 

四国中にこのような霊場が無数にあり、明日の宍喰まででも、“草鞋大師”、“鯖大師”、

 

“古目大師”がある。

 

 牟岐の大きなスーパーで山村さんが、遍路らしい白いズボンを買ってはきかえる。十二時二十五分、

 

牟岐警察横の接待所に着く。ここでも数人の女性が待ち構えていて、早速、ふかし芋、コーヒー、

 

ぽんかん、菓子等のお接待をしてくれる。ふかし芋はとても美味しい鳴門金時で、これだけで十分昼食

 

になる。備え付けのノートに住所、氏名を記録して、一時五分、出発する。

 

 国道をはずれて遍路道を山の方にはいり、途中の草鞋大師に寄って行く。海辺

 

におりるとそこはきれいな砂浜になっていて、向うに今夜泊まる民宿が見えてきた。この辺りから

 

海岸線が入り組んできて、小さな峠をひとつ越えると浜があり、すぐに又つぎの峠があるという風で、

 

地元ではこの辺りを“八坂八浜(やさかやはま)”と呼んでいるようである。

 

 一時四十五分、宿に着き、ここで二人と別れて部屋に入る。お茶をもってきた主人は、こんなに早く

 

宿に入っては勿体ないのではとしきりに心配してくれるが、足のマメのことを説明して納得

 

してもらう。主人の言うには、遍路はふつう一日に十時間、四十キロほど歩くものだと言うけれども、

 

よほど体力のある人で体調も万全でないと、とても毎日そんなことは続かないだろう。

 

 今夜の客はひとりのようだし、主人は話し好きのようで、そのまま居座って遍路

 

にまつわるいろいろな話を聞かせてくれた。どの話もむだ話ではなく、自身の哲学的な思考で熟成

 

されたもので、聞いていてあきなかった。

 

 なかでも印象的なのはまず、荷物の重さが一キロふえると、一日に歩ける距離が一キロ減るという話

 

である。十キロの荷物を持つと、手ぶらで四十キロ歩ける人も、三十キロしか歩

 

けなくなるということである。

 

 もうひとつは今まで自分でも疑問に思っていたことで、お接待を受けたお返しに渡した納札

 

はどうなるのか、何のために渡すのかということである。これも主人によると、お大師様の信者

 

はみなお遍路さんからもらった納札を自分専用の保管箱に入れ、一生溜めておいて、死んだ時に棺桶

 

にいっしょに入れてもらう。これが閻魔さまの前にでたとき免罪符となる。昔は納札の紙質がわるく、

 

湿気にあうとすぐに虫に食われたので、納屋に自分専用の籠を吊るし、その中に放り込

 

んだそうである。

 

 又、死に装束で八十八ヶ所の判を押した判衣を着ていないと、会葬者のそれとない悪口のタネ

 

になるという。親族にとってこれは辛いことなので、誰でも若いうちにかならず一回は八十八ヵ所

 

をまわって判衣を用意しておくそうである。

 

 そろそろ風呂にも入りたいし、主人は夕食の準備もあるのか、下から奥さんが呼ぶ声が聞こえた。

 

やっと腰をあげた主人は、「まもなく雨ですな」と言って出ていったが、そういえば着いた時より空

 

がうす暗くなっていた。

 

 

 夜から降りだした雨が、本降りではないが朝になっても降り続いている。八時十五分、ポンチョを着

 

て出発する。今日は徳島県の県境にある宍喰まで、海岸線に沿って八坂八浜を歩くことになる。三十分

 

ほどで鯖大師に着く。昨夜の宿の主人によれば、「昔は観光バス

 

がひっきりなしにやってきたものだが、今はさびれてしもうた」というけれども、どうして正規の

 

札所並みのにぎわいである。

 

 鯖大師という名前の由来は、大師がこの辺りを歩いていた時に、ひとりの馬子が馬の病気

 

をなおしてほしいと、積荷の塩鯖を大師に差し出してお願いしたところ、大師がその鯖を海に放つと生

 

きかえって泳いだという言い伝えによるもので、以来、三年間鯖を絶って祈願すると願いがかなうと言

 

われている。納経所で納経をお願いしたら、缶ジュースがいっしょに付いて戻ってきた。

 

 九時十分、大砂海岸あたりで晴れてきたのでポンチョを脱ぐ。今日も牟岐線に沿って歩いているが、

 

そろそろ山村さんたちが海部に向かってそばを通過してゆく頃だろう。しかしこちらから列車の中を

 

確認することはむつかしい。十時五分、浅川休憩所で休憩していたら、山村さんから携帯メールが届

 

き、先程、車窓から私が立ち止まっているところを見かけたそうである。

 

 十時五十分、海南町の遍路小屋第一号で五分ほど休憩する。この辺りの水道の水は天然の名水並

 

みだと書いてあったので、ペットボトルに汲む。十一時二十分、海部川を渡って海部町に入る。山村

 

さんたちは二時間ちかく前に海部に着いたはずだから、今頃は甲浦(かんのうら)あたりを歩

 

いていることだろう。

 

 十二時、宍喰町に入りすぐのカレー屋で昼食にする。ここを十二時二十分に出て、一時十五分に道の

 

駅“宍喰温泉”に着く。今夜の宿はこの隣のホテルだが、すこし早いのでここでしばらく時間

 

をつぶし、一時四十五分にホテルにチェックインした。

 

 明朝、小一時間ほど歩いて高知県の甲浦駅まで行けば、今回の徳島遍路の目的をすべて達成

 

したことになる。あとは列車で家に帰るだけである。次回の高知遍路は甲浦から出発すればいい。