バイク道楽日誌No.13

98年6月27日(土)     「バイク考」

(バイクとは)

 バイクとはどんな乗り物なのか、なぜ人はバイクに乗りたがるのかについては、さまざまに語られているが、私にとっては、アメリカのロバート・バーシングが20数年前に書いた、「息子と私とオートバイ」という小説に出てくる次のような言葉に尽きると思っている。

 いわく、「オートバイで旅をしていると、何もかも新鮮に見える。車に乗るのは、密室に閉じこめられているようなものだ。私たちはただの観客にすぎず、一切のものが枠の外を退屈に通りすぎてゆく。オートバイに乗ると、その枠が取りはらわれる。すべてのものがじかに躯に触れる」とある。 

 過去に精神を病んだこともある主人公の大学教師が、11才の息子を後ろに乗せ、スズキの大型バイクでアメリカ大陸横断の旅をするこの小説は、哲学的で難解な部分もあるが、原題を「禅とオートバイ修理法」というように、オートバイというメカニックなものと、心の問題を結びつけていて面白い。

(バイク文化)

 先の小説で表現しているように、バイクに乗ると、すべてのものがじかに五感に触れる。風景、音、風、熱、匂い、等々。車では体感できないものがたくさんある。
 車は、長い時間を経て、あまりにも快適な乗り物になりすぎてしまった。オートマ、エアコン、音楽、豪華な室内、等々。家庭の居間の延長であるような車空間では、乗っている人々は日常性を引きずたっままで、閉鎖的なマイホーム主義の域を出ることはできない。
 そこにいくと、バイクは真の意味でアウトドアの乗り物だ。自然と親しみ、調和することなしには、走れない。

  バイクは積載性がほとんどない。人を乗せ、最小限の荷物を載せたら、それで終わりだ。車のように、何でも放り込んで運べるような利便性がない。しかし、車社会がリードしてきた大量消費、使い捨て文化は、戦後日本の経済の膨張をもたらしたが、バブルがはじけマイナス成長ともなたった今は、空虚さを残しただけだ。  
 車社会に象徴される現代社会の反省として、バイク文化を考える意味があるように思える。

 コンピュータ社会との関連で考えても面白い。コンピュータは、きわめて便利だが、その仕組みは、普通の人にとっては全くのブラックボックスだ。
 それに比べると、バイクのメカはきわめて分かりやすい。エンジンの中でガソリンと火花により爆発が起こり、その回転がチェーンを通して後輪を回転させているのが、身体で実感できる。かって、蒸気機関車に多くの人たちが抱いた愛着を、バイクにも感じることができる。
 不透明なことが多い時代だけに、バイクが象徴する文化が意味を持つとも言える。

(バイクの効用)

 バイクは精神的な乗り物だけに、強いて効用を云々することはないが、私にとっての効用を一言で言えば、「元気が出る乗り物」ということだ。

 バイクにまたがっただけで、不思議と元気が湧いてくる。エンジンの音から、また、鉄のかたまりのズシリとした重みから、バイクの持つ力強さが伝わってくる。危ない乗り物だけに、またがると、ちょっぴり悪童に帰ったような小気味よさも感じる。
 高校時代にギア付き50CCバイクを乗り回していた原体験がよみがえり、たくさんの夢を抱いていた少年時代に戻ったような気分になる。いろんな要素が元気を与えてくれるのであるが、バイクで走れば走るほど、管理社会の呪縛から解き放たれ、伸びやかな心を取り戻す。

 週末にわずかでもバイクで走り回れば、残り5日間に全力投球できる元気が湧いてくる。