トリニタ曲目解説 その2

 

1.「トリニタ・シンフォニカ」の魅力について

 ・・・・・しかし、私はあえてもう一度繰り返したい。リズムは生命に対応するものであり、リズムは音楽を生み、リズムを喪失した音楽は死ぬ。リズムは音楽の基礎であるばかりでなく、音楽の生命であり、音楽を超えた存在である。・・・・

 芥川氏が1971年著した「音楽の基礎」(岩波新書)からの引用である。
 あらためて言うまでもなく、芥川氏の作品の特徴は、まず明快なリズムにある。氏のオーケストラ作品の処女作である「トリニタ」に、その特徴は既に全面的に展開されている。特に両端楽章に著しい。極めて快速なテンポ設定、生き生きしたビート感の上に、複数の主題が執拗に繰り返されるという構成を採っている。。(主題の展開、といった面からの弱点も指摘されるが、芸術音楽が常に、動機労作に基づき、ベートーヴェン、ブラームス的でなければならないという規則はどこにもあるまい。)
 2/4拍子を基本とした第1楽章に所々現れる7/8拍子、3/8拍子。4/4拍子を基本とした第3楽章に所々現れる5/8拍子、さらにその5/8拍子と3/4拍子が同時進行するポリリズム、などの「リズムの遊び」も特徴的である。ストラヴィンスキーの原始主義などに比較すれば、そこまでの複雑さはなく、親しみやすい変拍子ですらあり、変拍子入門に最適である(現代に暮らしながら、まだまだ、拍子は一定でなければならないとする感覚が横行しているのは変な話だ。ビートルズ以来、ロックだっていろいろ例があるのに、学校音楽教育、バイエル偏重ピアノ教育の弊害だと私は思っている。閑話休題)。
 わかりやすいリズムに支えられた音楽は、現代の芸術音楽では軽視され、浮遊感に満ちた現代作品が主流のようだ。しかし、聴衆は、昨今ますますリズムのもたらす肉体的快感に酔いしれており、一般の感覚とは乖離する一方ではないか。芥川氏の作品は、少なくとも私は、私の生きている時代の音楽だ、と主張できる。彼の師、伊福部昭氏も同様だ(ただし、伊福部氏には土俗的、民族的なバイタリティーがさらに強烈に存在している)。芥川氏の音楽を耳にする機会さえ増えれば、確実にもっと愛好者が増加するのでは、と私は思っている。それを確信させるのは、まず、明快なリズムである。

 さらに、「トリニタ」の魅力を支える要素としては、協和的な和音の多用によるハーモニーの明瞭さ、そして、それでいて古典的な機能和声法を踏襲していないことによる和声進行の新鮮さ、のバランスの良い結合であろう(ソビエトの音楽との親近性を感じる)。そして、その安定したハーモニーの上に、魅力ある、親しみやすい、旋律が乗っているというわけだ。全楽章ともそれぞれの主題がひとなつっこい覚えやすいものだ。
 第1楽章の冒頭は少々器楽的旋律で口づさむのはむりだが、その他の主題は十分、鼻歌で歌えるほどに明快なメロディーだ。
 第2楽章は特に中間部の、日本的叙情ただよう悲しげなメロディーが日本人の心に響いてくるはずだ。
 第3楽章の冒頭は、TVCMでも有名で、私より年上の方々はきっと、どこかで聴いた、とわかるほどの大衆性を確保しているだろう。(レンタル譜の打楽器のパート譜にも、いきなり、「コマーシャル」とか書いてあって、始めて見た時驚いたものだ。)

 最後に、管弦楽法の妙、という点。戦時中の陸軍軍楽隊の経験を生かして、管楽器の扱いに卓越したものがある、とよく言われる。確かに、色彩的な華麗なオーケストレーションだ。そして、スコアを見て驚く。全く特殊楽器を用いない、2管編成なのだ。管楽器に限れば、ほとんどベートーヴェンと同じ編成!!トロンボーンも何故か2本で、珍しい。もっと巨大な編成だと思いがちなのだが、それは、オケの鳴りが良い、ということだろうか。
 打楽器も大太鼓、小太鼓という取り合わせが、うーん、吹奏楽してるな。ティンパニに比べ、それらの太鼓が大活躍している辺り、プロコフィエフ的な雰囲気もある。(プロコのティンパニは結構つまらない。その代わり大太鼓が超おいしいのは打楽器奏者衆知のこと!)
 それ以上に、当然、ピアノの活躍、が最大の特徴だろう。それもまた、ソビエト音楽の影響だろうか?また、オーケストラにピアノを持ち込むという発想がモダン!(多少の古さをも込めて「モダン」と表現しよう。)でもある(当時の軽音楽風な軽さ、を演出しているのだろうか。)。その辺りは次項でまた、取り上げたい。

 (1999.6.12 Ms)

2.先人からの影響について

 芥川氏の若書きである「トリニタ」には、氏の独自の音楽性の背後に、見落とせない「先人からの影響」が指摘できよう。
 まず最初に、当然にして、私淑していた「伊福部昭」。そして、同時代のソヴィエト音楽だ。

 伊福部氏からの影響、やはり、「交響譚詩」が大きな存在だ。
 まず、自由な形式である複数楽章の管弦楽作品であること。特定の標題を持たない絶対音楽であること。そして、「バラータ・シンフォニカ」「トリニタ・シンフォニカ」という題名の類似。以上が外見的なもの。
 そして、作曲技法的な面からは、管弦楽法の影響。スタンダードな2管編成を基にしていること(上記の通り変則的ではあるが)。第1、3楽章の伴奏形にメカニックな8分音符の連続が見られ、特に弦楽器においては、重音が多用され、地に足のついたたくましいリズムが強調されていること。
 また、曲の持つ雰囲気として、第2楽章中間部のゆったりとした、叙情的な日本風な節回しは、かなり伊福部氏を意識したものに感じられる。その他、第3楽章の練習番号63の箇所は、伊福部氏が映画音楽でもよく使う和声進行である。

 次に、ソヴィエト音楽である。芥川氏は、まずプロコフィエフを特に好んでいたようで、露骨な例としては、交響曲第1番のフィナーレに、プロコフィエフの5番の第2楽章、そして第4楽章のコーダを聞き取ることが出来よう。「トリニタ」において特定のプロコフィエフの作品との関係を思いつけないが、楽天的な雰囲気、そしてわかりやすい旋律など、共通するものは有ろう。
 ここで、もう一つ付け加えたいのが、ショスタコーヴィチからの影響である。作風としては、社会主義リアリズムにのっとったショスタコーヴィチに見られる、悲痛さ、深刻さは「トリニタ」とは遠いところにあるように思う。しかし、旋律造形、そしてピアノのソリスティックな活躍といった点においては、ショスタコーヴィチの交響曲第1番第2楽章の影響が色濃く感じられる。
 戦前においても、すでに日本ではショスタコーヴィチの第1番は山田耕作らによって紹介されており、演奏もされ、また戦後においても再演の機会をもっており、同時代の音楽として知られていた存在なのではなかろうか(年表参照)。特に、「トリニタ」の第3楽章後半に現れる、半音で下降するタッタカタッタッ、という音型が、かなり近親性を感じさせるところだ。その主題は、一瞬ピアノ・ソロにも与えられ、ますますショスタコーヴィチらしさを明らかにする。ただし、それらは、あくまで音楽の素材的な話であって、ショスタコの第1番第2楽章にみられる、デモーニッシュな閉塞的な暗い雰囲気よりは、プロコフィエフ的な明るさ、軽さとの共通性をより感じることとなろう。
 また、「トリニタ」第1楽章の第2主題(バイオリン・ソロで現れる軽妙な一節)が、私にはショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第3番冒頭を思わせるのだが、これは少々こじつけっぽいでしょうか?

 芥川氏の創作活動の原点としての「トリニタ」には、多くの先人からの影響が見られるのは確かである。しかし、それらによって、「トリニタ」が模倣に過ぎない、独創性が無い、と判断されるわけではない。どんな大作曲家であれ、まずは先人の真似から始まり、その「真似」によって「学ぶ」わけだ(実際、「学ぶ」の語源は「マネ」から来ているという)。彼の独自の音楽世界が確立した上に、そういった先人からの影響が混在しているだけなのである。「トリニタ」を取り巻く様々な音楽との関連性といった観点から、その作品を語ることによって、また、その作品への理解もより、深まることでしょう。

(1999.6.25 Ms) 


「トリニタ」へ戻る