トリニタ 曲目解説

 

1.基礎データ

作曲者  芥川也寸志(1925<大正14年> 7/12  1989<平成元年> 1/31)       
曲名  Trinita Sinfonica (トリニタ・シンフォニカ) <交響三章>
楽章構成  第1楽章  Capriccio (カプリッチョ) <奇想曲> (約5分)
 第2楽章  Ninnerella (ニンネレッラ) <子守唄> (約12分)
 第3楽章  Finale (フィナーレ) <終曲> (約6分)
作曲年代  1948<昭和23年>
初演  放送初演(NHKラジオ)
 1949.9/16 東京フィルハーモニー管弦楽団  指揮:芥川也寸志
              舞台初演
 1950.10/26 日本交響楽団(現.NHK交響楽団)  指揮:尾高尚忠
管弦楽編成  フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット 各2
 ホルン4、  トランペット、トロンボーン 各2
 ティンパニ(3台)、大太鼓、小太鼓 各1
 ピアノ
 弦楽5部(第1楽章にヴァイオリン・ソロ有り)

 (参考:全音楽譜出版社発行 全音スコア「交響三章」 )

 

2.関連年譜 (芥川氏の青春を訪ねて)

年代 芥川氏の活動 音楽界の状況等(ソヴィエト音楽との関連を中心に)
1925(大正14)  誕生 (芥川龍之介の三男として)  
1926(昭和 元)   ショスタコーヴィチ 交響曲第1番初演(レニングラード)
1927(昭和 2)  父・龍之介自殺  
1930(昭和 5)  聖学院幼稚園入園
 ストラビンスキーの「火の鳥」の子守唄を歌いながら通園したという。
 また、童謡を即興で歌いながら作曲するのが好きで、
 当時の作品で後年伴奏をつけ出版したものもあるという。
 
1931(昭和 6)   ショスタコーヴィチ 交響曲第1番 日本初演
1932(昭和 7)  東京高等師範学校付属小学校入学
 小学校時代、ベートーヴェンの「月光」を聞き、あまりの単純さに仰天したという。
 
1935(昭和10)  東京音楽学校児童科入学の希望が、家庭事情により却下される
 この頃、通信販売で買ったヴァイオリンを弾き始める
 
1937(昭和12)   ショスタコーヴィチ 交響曲第1番 日本で再演
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 初演(レニングラード)
1938(昭和13)  東京高等師範学校付属中学校入学  
1941(昭和16)  音楽の道を志す
 橋本国彦に作曲を師事
 井口基成にピアノを師事(何とバイエルから!)
(12月、太平洋戦争勃発)
1943(昭和18)  東京音楽学校本科作曲部入学 伊福部昭 交響譚詩 初演
1944(昭和19)  10月、学徒動員により、陸軍戸山学校軍楽隊に入隊
 翌年、首席で卒業、作曲係上等兵となる。
 サキソフォンを担当する傍ら、連隊歌、行進曲を数多く作曲。
 
1945(昭和20)  4月、次兄 多加志がビルマで戦死
 9月、東京音楽学校へ復学
プロコフィエフ 交響曲第5番 初演(モスクワ)
(8月、終戦)
ショスタコーヴィチ 交響曲第1番 日本で再演
1946(昭和21)  講師として着任した、伊福部昭の講義に感銘を受ける
 2回目の講義の後、日光の自宅まで押しかけ、3日間滞在。
 交響譚詩を始め、伊福部作品のスコアを見せてもらった。
 また一方、生活のため、ダンスホールでヴァイオリンを弾いていた
ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第3番 初演
(レニングラード)
1947(昭和22)  「交響管弦楽のための前奏曲」作曲(卒業創作)
 (本人曰く、「印象派と伊福部の土俗性が混じったもの」)
 
東京音楽学校本科を首席で卒業
 この頃より、進駐軍の放送を通じてソヴィエト音楽に心酔する
 NHKの劇伴、映画音楽の作曲も始まる
 
1948(昭和23)  2月、結婚
 
「交響三章」作曲
ショスタコーヴィチ 交響曲第8,9番 日本初演
1949(昭和24)  東京音楽学校研究科修了
 「交響三章」放送初演
ショスタコーヴィチ 「森の歌」初演(レニングラード)
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 日本初演
1950(昭和25)  「交響三章」舞台初演
 「交響管弦楽のための音楽」NHK放送25周年記念懸賞に特選入賞
プロコフィエフ 交響曲第5番 日本初演
ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 日本初演
1951(昭和26)  肋膜炎のため1年間入院生活  
1953(昭和28)  團伊玖磨、黛敏郎と「3人の会」結成
 「弦楽のためのトリプティーク」ニューヨーク・フィルで初演
 「ソヴィエト合唱曲集」を合唱団白樺の演奏会で指揮
 (うたごえ運動への参加)
プロコフィエフ死

(米軍基地反対運動激化)

1954(昭和29)  「3人の会」第1回発表会で「シンフォニア」を初演指揮

 「交響三章」「交響管弦楽のための音楽」「トリプティーク」の楽譜を
携え、ソヴィエトへ不法入国を果たす
 「交響三章」ソヴィエト初演(指揮ロジェストベンスキー(父親の方))
 「交響三章」ソヴィエト国立出版所から出版
 (戦後出版された外国作品としては、ガーシュイン、ブリテン、ニールセンについで4人目)
 
ショスタコーヴィチ、ハチャトリヤン、カバレフスキーらと親交を深める

ショスタコーヴィチ 「森の歌」 日本初演
ショスタコーヴィチ 交響曲第10番 日本初演
1955(昭和30)  ハチャトリヤンの尽力により、無事帰国を果たす
 「シンフォニア」を改作し、交響曲第1番として発表
 「森の歌」ブームを受け、「森の歌」の本を監修

(今や、日本の働く大衆は、いかに音楽が生活を美しくし、豊かにし、
またその美しさ、豊かさが、新しい音楽を生み出してゆくものであるかを知っている。
少なくとも知りつつある)
との実感を著す。
日本において「森の歌」の大ブーム起こる
1956(昭和31)  新交響楽団を設立、音楽監督、常任指揮者に就任  
   以下、省略  
1989(平成 元)  死去 享年63歳  

*芥川氏の年齢は、昭和の年数と一致します。

(参考:東京新聞出版局「芥川也寸志」、春秋社「ショスタコーヴィチ大研究」)

(1999.6.6 Msによる編集)


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