今月のトピックス 特別編

 

 東欧音楽紀行 (’99 8/11〜20) 

<序編>

 この夏、旧共産圏である、ハンガリーチェコそして、ドイツ(それも東側)を巡る旅に行ってきた。
 そもそも、昨年の北欧4ヶ国の旅に感激し、また今年も、それもフィンランド一国をじっくりと・・・と考えていたのだが、希望するツアーが人数不足で成立せず、他の地方を、と考え、ドイツに当たりをつけたのだが、いわゆるロマンチック街道、やらメルヘン街道を行くのも王道すぎて私らしくないので、またまた変化球、旧東ドイツをメインに、東欧巡りというツアーに参加することとした。自由行動もまずまずあって、また個性的なる音楽の旅が期待できそうでもあったのだ。
 ということで、その旅の記録をここに残そうと思い立った。私の目当て、などはその都度書いていくつもり。 

 「ね、なぜ旅に出るの?」
 「苦しいからさ。」
 「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません。」
 「モーツァルト35、メンデルスゾーン38、ウェーバー40。」
 「それは何の事なの?」
 「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。三十路を甘く見ちゃいけねェ。」
(一部「津軽」太宰治より)

 唐突に、ただ、これは書いてみたかっただけのことなのだが、オーストリア、そして旧西ドイツをはずしながらも、今回のツアーでも案外と音楽家たちの足跡をたどることが出来、おもしろかった。今回の旅で、以外や以外、私にとって株を上げたのがウェーバーであった。彼についてもまた、「隠れ名曲」や、その他の企画記事でおいおい触れていきたい。

 さて、8/11午前、成田より出発。当日は、ヨーロッパで今世紀最後の皆既日食が見られるということであったが、当然、それを見ることは出来なかった。ただ、どこかで、日食はこの世の終わりの象徴だ、と騒ぎ立てたとか、旅行中に、カッシーニという惑星探索機が地球に落下するとか、ノストラダムスの延長上の話題もちらほら耳に入っており、少々不安な旅立ちでもあった。そして、今回、まず、ハンガリーへ行ったのだが、乗り継ぎがパリ、初めてのフランス、であったが、乗った飛行機は、パリ経由イスタンブール行きであり、旅行の最中に舞い込んだトルコの大地震のことを思えば、あの飛行機の中にも、被害にあった人がいたのかもしれないのだ。ぞっとするものがある。
 それはさておき、パリから、マリブ航空という、マイナーでちょっと不安にもさせるハンガリーの会社の航空機に乗り継いだが、AIR FRANCEが全面的に支援している会社らしく、機内誌もフランスのものであった。その雑誌の中に、音楽家が何にインスパイアされて曲を書くか、という記事があり、ベルリオーズの幻想交響曲における恋愛の話などと並んで、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番におけるスターリンの愛唱歌の引用の話がのっており、儲けモノだった。それはまた
「ショスタコBeach」用のネタとしよう。いきなり、マニアックな脱線で申し訳ないが、今後もこんな具合だと思うのですみません。ハンガリーの空港に到着したのは午後10時ごろ。成田を出発してからもう18時間ほどたっていた。去年は楽だった。コペンハーゲンのホテルには午後5時前に到着していた。のんびりできたよなぁ。やはり、東欧、まだまだ私たちにとって遠い国ということだろうか。

(1999.9.25 Ms)

<ハンガリー編>

 長旅の疲れも残る翌朝、8/12、早速ブタペスト市内観光開始。現地ガイドは、「ガブさん」ことガブリエルさんだったかな。やはり、アジア系の民族の顔をしている。日本にも留学し、合気道なども趣味としていると聞いた。しかし、日本語は少々聞き取りにくい。昨年の北欧は、行く先々日本人のガイドで慣れたものだ、と感じたが、今回のツアー、自由化から10年しか経たない国々ということもあってか、ツアー客用のガイドさんの人材不足、を感じた。ただ、流暢な日本語を喋る百戦錬磨の完全無欠のガイドさんとは違った味わいでおもしろかった。

 「英雄広場」。ハンガリーの建国以来の王様や、近代以降の独立運動の英雄たちの銅像が立ち並ぶ。その右から1,2人目が、バルトーク初期の交響詩でも取り上げられた「コッシュート」そして、ベルリオーズの作品で有名な「ラコッツィ」である。広場中央の高くそびえ立つ塔の周りにハンガリーの7つの部族の騎馬像が取り囲む。共産時代は、軍事パレードなどの舞台となった広場だが、今は観光客やら、客目当ての現地人でごった返している。
 「聖イシュトバーン大聖堂」。ハンガリー初代国王、イシュトバーンを祭るブタペスト最大の教会。キリスト教に改宗し、ローマ法王から王冠をいただいた王である。10世紀頃だと記憶するが、法王が次の王冠を、ハンガリーかポーランドかどちらにしようか迷っていた時、天使ガブリエルが「ハンガリー」と夢枕でささやいたとかで、王冠がイシュトバーンに回ってきたとか。それで、ハンガリーでは天使ガブリエルを大事にしているらしい。ガブさんも由緒ある名前なのだ。自分のことだから、こんなに丁寧に説明してくれたのかなぁ。
 そう言えば、ベートーヴェンのあまり有名でない劇音楽「シュテファン王」は、彼を扱ったもの。第九の歓喜のメロディーの変奏が序曲の第2主題で出てくる。ブタペストの劇場の柿落としのための作品らしい。
 「マーチャーシュ教会」。ここで、街のど真ん中をとうとうと流れるドナウ川を渡り、東のペスト地区から、西のブタ地区へ。歴代ハンガリー王の戴冠式を行った教会。市街を見下ろす丘の上の王宮の中にある。屋根の色がユニークな配色。
 その教会を守るような配置の「漁夫の砦」。そこからの眺めは絶景。ドナウの圧倒的存在感と、川辺に壮麗に立つ議事堂、その他の歴史的建造物。街そのものが古くからの歴史を物語る。
 若干の自由行動時間があり、王宮敷地内を教会から北東方向へ。ブラームスがハンガリーを愛したのは有名な話だが、彼がいつも宿泊した旅篭が「赤いハリネズミ」。今は残っていないが、鉄製の赤いハリネズミがその跡地の建物に飾られている。
 食事は、再びペスト地区のラコッツィ通りの「テネシー・グリル」にて。アメリカナイズされた店内、南北戦争がらみの絵なども飾られていたが、食事がなかなか出てこなかったり、飲み物が間違って出てきたりと、まだまだサービスは、共産時代を引きづっているのか?

 午後は自由行動。いろいろ計画を練ってはいたのだが、ここ数年治安の悪化がひどいらしく、地下鉄には乗らないようにとの指示がある。そこで大幅に計画縮小。本来は、ブタ地区の音楽史博物館のバルトークの常設展示をまず見ようと思っていたが、距離も遠くかつ、疲れも残っていたので、ペスト地区の中心のアンドラーシ大通りぞいの徒歩観光のみに変更。
 ヨーロッパ大陸で初めての地下鉄が通ったのが、このアンドラーシ大通り。街路樹も多く、ゆとりある舗道をのんびりと北東方向、英雄広場方面へと向かう。
 「国立歌劇場」。若きマーラーが常任指揮者であったことで有名(1888−1891)。交響曲第1番「巨人」を初演にこぎつけ、また第2番「復活」(もしくは交響詩「葬礼」)の構想を練っていた地にいることに、陶酔することしばし。指揮者としての最初の国際的成功を勝ち得た場所でもある。最晩年のブラームスが、本物の「ドン・ジョバンニ」を観たければブタペストへ行きなさい、と言っていたとかで、ブラームスは舞台裏まで出かけ(指揮者としての)マーラーを激励、称えたと言う。そんな音楽史上でも劇的な場面の前に立つ時、感動もまたひとしおだ。
 正面右側にリストの像がある。刻まれている名前は、フランツ・リストではない。Liszt Ferenc。姓・名の順番。日本と同じ。
 「リスト・フェレンツ」。CD楽譜ショップである。リスト音楽院の近くに位置する。1階がCD。1枚1000円弱だが、買うべきものは見つからなかった。旧共産圏ということで、旧ソ連のメロディア盤とかがひょっこりないかなぁ、と思ったが、ほとんどソ連の音楽は店頭に無し。もう聞きたくもない、ということなのか・・・・。
 地下に楽譜がある。しかし安いのなんの。オーケストラのミニチュア・スコア、100円台から500円位で一般的な物は購入可。スメタナ、バルトークのスコアを購入。特にバルトークの「舞踊組曲」はブタペスト誕生(ブタとペストの合併)50年祭の作品。私に演奏する当ても全く無いが記念に買って600円。ブタペスト音楽出版から出ているスコアの中でも、ラベル、ガーシュインはオススメかもしれない。曲の種類は少ないが、「ボレロ」「マメールロア」そして「パリのアメリカ人」「ピアノ協奏曲へ調」なども500円有れば買えます。今思えば、買っておいてもよかったか。
 旅行前にとりあえず、ドイツマルクを用意、200マルクづつ整理しておき、ハンガリーにて現地通貨フォリントに両替。30000フォリント、15000円程の価値だが、後で聞けば、その額、ハンガリーの平均月収!!!とても1日の滞在では使えなかったと言うわけだ。しかも、価値の低いフォリント、国外での両替はかなり困難、もしくはレートが極端に低いとのこと。オマケに1フォリントは約0.5円。見かけ的にも大量のフォリントが手付かずで残ってしまった。15000フォリントも!!いわゆる、「フォリント成金」という。一気に金持ちになったかと思いきや、全く高い価値ではないのである。国外に出ればただの紙切れ。こんなことなら、CDもスコアもばしばし買っておいても良かったよなぁ。
 予想以外にと言おうか、予想通り、楽譜屋でかなりの時間を費やした後、観光再開。すぐ近くの「リスト博物館」は休館中。ということで、さらに進み、旅行前はそれほど気にかけていなかったのだが、「コダーイ博物館」に入館。
 アンドラーシ大通りの北部分、英雄広場に近いこの辺り、各国大使館も立ち並ぶ高級住宅街という。そんな地区にコダーイの自宅はあった。そのアパートの一室に、彼の生前のまま、書斎や作曲部屋が残っており自由に見ることができる。地下鉄の駅にも「コダーイ」の名が冠せられ、そのアパートの面するところに「コダーイ広場」もある。今も一般の人々が暮らすアパートの一画のため、一瞬入るのにたじろいだが、扉を開け臆することなく前進すれば、右手に博物館の表示はある。
 彼のイメージは私にとっては「ハーリ・ヤーノシュ」に尽きるわけで、あのユーモラスなふざけたような音楽の作曲家ではあるが、実は、言語学の権威で、かつコダーイ・メソッドという音楽教育の確立者でもあり、とても偉い先生であったことを偲ばせる部屋であった。グリーグの「トロルハウゲン」、シベリウスの「アイノラ」とは全く趣を異にした、どちらかと言えば、研究者的な整然とした様相を呈していた。
 彼の自筆譜や書簡の展示スペースも一室設けられ、「ハーリ」の間奏曲や、ロマンス(歌劇バージョンの方)の楽譜のみしか理解できるものは無かったが、見つけた時の喜びはあった。
 ただ、バルトークの自宅が市街から外れた山の中にあるのに比べ(最初から行くつもりはなかった)、コダーイは、街の中心、それも高級住宅街。国際的名声と国内的名声との差異を物語るような、二人の境遇をふと感じるのであった。

 この辺りでホテルへ戻り、一休み。再度、夕食のため、ブタ地区へと出かけ、ゲレールトの丘に登り「チタデラ」なるレストランにて民俗音楽、民族舞踊、民俗料理と洒落こんだ。山のように出てくる煮込み料理のグヤーシュに、民俗楽器ツィンバロン始めバイオリン、クラリネットが細かく絡み合うハンガリーの音楽。芥川也寸志氏が、ある本の中で、「料理を聞き、音楽を食べるような錯覚に陥る」、と書いた光景を私も体験した。(ハンガリーは彼がソ連へ不法入国を企てた前進基地でもあった。)しかし、本場のハンガリー音楽、やっぱり、ブラームスやリストの「チャールダッシュ」を基にした音楽とは違うものであった。ハンガリー舞曲第5番もやっていたがもう勝手し放題。余談だが、サービスのつもりなのか「ドレミの歌」も聞いたが、「もとの曲聴いたことあるのか!」と怒りたくなった。アコーディオンの伴奏のコードが目茶苦茶。・・・ラーはラッパのラー・・・の辺りからの転調風なコードを理解してないぞ!ま、それはともかく、本当の民俗音楽が始まって以降は、とても楽しく聞けた。ツィンバロンの華麗なバチさばき、見ていてスカッとする。バイオリンによる鳥の鳴きまねもリアルで面白い(ちなみに「カッコー」は、マーラーと同様、4度の下行音型だった)。男女ペアのダンスのやりとりもユーモラス。2本の長い棒を振り回しての踊りは、こんな近くで飛んできたらどうするんだっ、という恐怖心もあったが絶妙にこなしていた。そう言えば、バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」にも「棒踊り」なんてのがあったっけ。
 やはり、ハンガリー舞曲やハンガリー狂詩曲の雰囲気は皆無、バルトークやコダーイの作風に直結する音楽ばかりであった。
 演奏が終わってから、ツィンバロンを実際に叩かせて(というか弾かせて)もらったが、奏者の方のように、張りのある音が結局出なかった。ようは、ピアノの中に張ってあるピアノ線(弦)を叩いて音を出すような楽器なのだが、よっぽどシャープな手首のスナップが必要なのだろうか。カスカスの音しかでなかった。オマケに、音程が素直に順番に並んでないので、旋律を奏でるのも即座には無理だった。しかし、ツィンバロンに、こんなたやすく直に触れることができたのは貴重な体験であった。

 食事の後は、「ゲレールトの丘」からの素晴らしい夜景をみて、ロマンティックな気分に浸る。やはり水のある風景は絵になる。白い多数のイルミネーション、特にドナウにかかる橋のそれぞれに明かりが燈り、その、ドナウへの反射が美しい。ケバケバしい広告用ネオンも無く、夢見心地な雰囲気がとても素敵である。純真無垢なこの夜景を見るだけでも、ブタペスト、行く価値があるというものだ。もっとブタペストに滞在したかったな。

(1999.9.26 Ms)

 翌日(8/13)は、チェコ、プラハへの移動の飛行機の都合で午前4時30分起床。6時にホテル発。という強行軍。まだ、時差ボケ気味、寝不足の感がある身には結構辛い。
 ブタペスト市内から空港へ向かう途中、共産時代に建てられたアパート群を見る。ガブさん曰く、狭くて無個性な同規格の部屋ばかり。強制収容所をも思わせる。などと言っていたが、私にとっては、日本の公営住宅と何ら相違は無いように思えた。ハンガリーの方が、自然が多く環境は良さそうであるとすら思える。しかし、旧西側ヨーロッパを知ったハンガリー人としては、共産時代の遺物がやはり気になるようだ。
 空港では時間もあったので、フォリントが大量に余ったこともあり、高いと知りながら、CDを一枚購入。現地のオケによる、ブラームスのハンガリー舞曲全曲。それも、ツィンバロン入りということで買った。しかし、後で解説書を開いたら、ツィンバロン入りアレンジはごく一部のみ。1、5、6番といった有名どころは通常のバージョン。ちょっと騙されたような・・・・。
 ハンガリーより約1時間。またまたマリブ航空にて移動。次なる国、チェコへ。

<チェコ編>

 10時頃、プラハ市内に到着。現地ガイドは、ガブさんよりは日本語の堪能な甲高い声の女性。共産時代は、当然第2外国語がロシア語であったのだが、その頃から英語も勉強、さらに日本語も勉強されていたという、チェコでも珍しい人材だろう。
 まずは、小高い丘の上に堂々とそびえ立つ、「プラハ城」からである。その中心的建物である、壮麗な「聖ヴィート大聖堂」、とんがった塔が多数林立するその雄姿は遠くから見ても素晴らしく、まして目の前にした時は、あまりの大きさ、そして精巧な造形に感動した。プラハ城内に、現在の大統領府はあり、衛兵の交代式も偶然遭遇。城門の外の広場には観光客が多くごった返していたが、フルート、ファゴット、アコーディオンといった妙な編成のバンドが「モルダウ」のテーマなど演奏しているのも聞こえ、感興をそそる。
 聖ヴィート大聖堂は、チェコの最盛期14世紀、カレル4世の頃から20世紀までかけて建造されつづけたという。そのカレル4世は神聖ローマ帝国の王ともなり、なんとこの時期、プラハが現在のドイツ、イタリアを含む帝国の首都となったのだ。その威光を思わせる聖堂を見るにつけ、民族のプライドが高いのも納得できる。輝かしい歴史を持ちながらも、チェコは17世紀よりハプスブルグ家の支配下に落ちた。音楽史上、このチェコにおいて明確に、他国に先駆けて国民楽派、民族主義は確立されたというのも、そのプライド故のことだろう。スメタナもこのプラハ城を市内から見上げつつ、「我が祖国」の過去の栄光、そして未来の勝利を自らの音楽に託したのだろうなぁ。
 聖堂内部も、巨大かつ壮麗なものだが、ステンドガラスなどに見とれている間に、スリが狙いをつけているのでご用心。なお、入って左側に、フランス、アールヌーボーの画家、ミュシャのステンドグラスがあり、とても美しく可憐なものなので紹介しておきたい。実はミュシャの出身はこちらのようで(現地では「ムーハ」さんと呼ばれる)、今世紀初頭のポスターを思わせるような、一風変わった趣なので面白いと思う。
 城内に、黄金の小道と呼ばれる一画がある。さぞ、きらびやかな、と思うとがっくり。昔、錬金術師たちが住んでいた貧民街。狭い路地に小さな粗末な家が続く。その中の1軒に、作家カフカが住んでいたという。プレートのみ残る。ここもまた、観光客がごったがえす、スリのメッカ。注意。

 食事の後、丘を下りプラハの「旧市街地」へと徒歩観光。石畳の残る風情溢れる町並み。映画「アマデウス」がここでロケされたのもうなづける。しかし、しかし、この古き良き時代をそのまま残す町並みを、今や、自動車が暴走。特に狭い路地は、ボヤボヤしていると引かれかねない。モラル無き自動車には充分気をつける必要あり。
 モルダウ川、いやチェコでは、ヴルタヴァ川にかかる「カレル橋」。カレル4世の建造した石橋。歩行者天国である。露店が並び、ヴァイオリンを弾く若者あり、のんびりと歩いて通過。ここで、日本人なら見ておこう。ここでは、自由行動だったため、私も予め調べておいて良かった。あの、フランシスコ・ザビエルの像が橋の上に立っているのだ。カトリックを擁護する神聖ローマ帝国のお膝元だからだろうか、カトリックに貢献した聖人の像が多数立ち並び、その中に彼はいる。彼を持ち上げるようなポジションで、日本人らしき像もある。しかし、ちょんまげの具合が変。刀も変。中国や、東南アジアの雰囲気も混ざった日本人像はちょっと見る価値があるかも。
 川を渡って、「旧市庁舎」のある広場へ。宗教改革の先駆者フスの像が中心に立つ。この広場で、10年ほど前、自由化なってクーベリックが念願の帰国、多くのチェコ国民とその喜びを分かち合いたい、と野外でスメタナの「我が祖国」全曲を演奏した。当時私もテレビでそれを見た。あのフス像の上に子供達が上って、神妙に鑑賞していたのが印象的であったのを思い出した(ちょうど昨日10/10、NHKでも、当時の「プラハの春」音楽祭での彼の「我が祖国」の演奏が放映されたところだ)。
 旧市庁舎には、15世紀に作られた「からくり時計」がある。午後3時にそれを拝見したが、そんな大袈裟な物ではないので。まぁ、当時としては画期的な代物だったのだろう。これを作った時計職人は、他の町で時計を作らないように、目をつぶされたと言うのだから。
 なお、プラハの町で感じたこと。この時期、演奏会が予想外に多いです。観光客目当ての、それほど質の高くないものと思われるが、様々な教会、あるいは、劇場、ホールで何かしらやってます。その日も、モーツァルト風な衣装をした宣伝マンが、そこら中でビラをくばっていた。しかし、よく見ると、そのモーツァルトたちの顔色は茶色。ガイドさんによれは゛、中近東から来た労働者。その昔、松田聖子に「ピンクのモーツァルト」という歌があったが、今、プラハには「こげちゃのモーツァルト」がいっぱい。何だか興が覚めるなァ。
 ただ、確かに町を歩いていても、日本のような、スピーカー越しにうるさいほど音楽が流れることは無く、生の楽器の音が、通りから、建物の中から、いろいろと聞こえてくる。そんな雰囲気は素晴らしい。モーツァルトの愛した、そしてモーツァルトを愛した音楽の町、という伝統は続いているのだ。

 午後4時頃、一度ホテルにチェックイン。ホテルは、当初、「ドン・ジョバンニ」(プラハゆかりのモーツァルトのオペラ!)だと聞いていたが、突如変更、郊外の「ホリデイ・イン」と相成った。このおかげ(?)で後で、旅行会社から数万円のお金が戻ってくることとはなったが、自由な観光が制約を受けることとなる。このプラハもまた、日本人観光客が、地下鉄、市電で囲まれ金品を強奪される事件もあるほどに治安が悪化していると言う。公共交通機関を使わずに、という指示もあり、当初考えていたように、広範囲を動き回るようには、自由時間が使えそうも無い。この段階で、「ヴィシェフラート」(スメタナの「我が祖国」第1曲、その他で取り上げられる、昔のプラハの王宮。現在は教会が残るのみ。スメタナ、ドヴォルザークの墓もある)、その近くにある「ドヴォルザーク博物館」などは諦めて、翌日の計画を立て直し。
 なお、プラハと言えば、マーラーゆかりの地でもある。1885年に「プラハ・ドイツ劇場」の第2指揮者として約1年過ごしたらしい。「初めて比較的レベルの高い仕事をなしたのが、プラハであった」と彼は回想している。第1指揮者は、後にアメリカに渡り、ドヴォルザークの「新世界より」を初演したザイドルグリーグの「抒情組曲」のオーケストラ編曲をしたことでも有名。その、才能あるザイドルがアメリカへ去ってからは、後任の第1指揮者を差し置いて活動、プラハでマーラーは初めて念願の自作(歌曲)を初演。「嘆きの歌」で挫折した、作曲家としての本来の自分を復活させつつあったのだ。「巨人」の筆も着々と進めていた。なお、このプラハ・ドイツ劇場は、今も残り、スタヴォフスケー劇場が正式名であるが、1787年、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を初演(他の主要オペラも上演されている)、19世紀初めには若きウェーバーが指揮者を務めるなど、由緒ある劇場。しかし、やはり、時間の余裕無く寄ることは出来ず。
 また、天下の名作、マーラーの交響曲第7番の初演もこのプラハだ。初演は、「産業会館」。(これだけ劇場やホールがあるのに何故だろう。旧来の音楽専用のステージにはオケが乗りきれなかったのだろうか。)音楽の友社から出ている音楽専用のガイドブックにさえ出ておらず(当然か)、日本では場所が調べられなかったが、現地で地図を購入し、場所を確認するが市街地の中心部ではないため、行くのは諦めた。
 しかし、マーラーにとっても思い出の地に私も、今ここにいる。あぁ、なんて凄いことだろう。ブタペスト同様、プラハでも、やはり私はマーラーを気にしていたようだ。

 さて、ホテルで一休みした後、夕食のため外出。「ウ・フレクー」という今年創業500年!!を迎える由緒あるビア・ホールへ。
 中2階で夕食をとる。黒ビールが格別にうまい。下の1階の中央に現地の人々が大きなテーブルに陣取り、3人編成のバンドを伴奏に、みんなそろって左右に揺れながら、歌を大声で歌っていた。アコーディオン、サックス、そして、携帯用ドラムセット(?!)という編成。携帯用ドラムセットは、是非とも写真を見ていただきたいが(まだ私にその手段が無いが)、杖のような棒に、シンバル1枚、鈴無しのタンバリン風な円形の皮、ギロのような形をした金属、そして、杖の上部にタンバリンの鈴風なものが複数ついており、杖を上下に振りつつ、木のバチでシンバルや皮を叩き演奏するもので、簡易的なマルチ・パーカッション的な楽器と言えよう。「ラデツキー行進曲」を演奏しながらやって来て、そのバンドの伴奏で、民謡らしき歌をみんなで合唱。プラハのカラオケならぬ、生オケというわけか。その中で唯一知っていたのは「おお牧場は緑」。これってボヘミア民謡だったのね。
 さらに、日本人と見るや、「上を向いて歩こう」「知床岬」(その辺りの選曲もまた、そのバンドの編成にマッチしていたなァ)などをサービスしてくれた。なかなか楽しい光景だった。昼間のプラハ観光、自動車が突進して来たり、スリがうろちょろしてたり、自由化以降の秩序の乱れが大変気になったが、このビアホールは、古き良き時代をそのままに残しているようで大変気分が良くなった。うん、ビールが美味しかったからこそかもね。

(1999.10.11 Ms)

 さて、続いて8/14、プラハ2日目は、市街から離れ、ボヘミアの森にたたずむ古城の見学である。朝8時にバスは出発。行先は、日本ではまだ知らされておらず、4箇所ほど候補があったのだが、前日に「コノピシチェ城」へ行くことと知らされた。当然、予習も無く、連れて行かれるところへ行くだけの、消極的な気持ちでもあったのだが、プラハから南東へ約4,50kmの辺りである。ボヘミアの田舎を体験するのも悪くないな、とも思い始める。高速道路を走り、数分の後にもうのんびりとした田園風景が続く。緩やかな起伏のある、しかし広々とした畑、こんもりした小さな森が連続する平和な風景である。その森の合間から、円筒形の、いくぶん可愛さもある(ムーミンの家のような)塔が見え始め、森の中の小高い丘に立つ、「コノピシチェ城」へ到着する。
 まだ9時過ぎで、夏真っ盛りではあるが涼しいくらいだ。駐車場の脇に並ぶ土産物屋を一通り覗いてから、上り坂の森の中の通り抜けてゆく。小鳥たちのさえずり、爽やかな空気、すがすがしさ、あぁ、ドヴォルザークの作品は、この雰囲気から生まれでたのだなぁ、と感じつつ、一方で、マーラーの生地からもそんな遠くないことを思えば、自然と、マーラーの交響曲第1番の第1楽章が頭の中を駆け巡る。
 城の周りの空掘は、まるで動物園の一角のようになっており、「熊に注意」と看板有り。熊は出てこなかったが、一瞬?ハテナであった。後で聞けば、この城の最後の城主が、狩りが大好きでそれに因んでの事か。城の裏側は、鷹だか鷲だか、獰猛な鳥たちが飼われており、ギャ―ギャ―鳴いていたりもした。
 城の内部の中庭で、室内の見学の順番待ちすること2,30分。15分置きぐらいに、城の高いところからホルン三重奏の演奏が聞こえる。森の中の古城、そしてホルンの響き、これぞヨーロッパの典型的音風景!タイムスリップしたような感じだ。
 さて、この「コノピシチェ城」は、14世紀頃建てられ、宗教改革の先駆、フス教徒たちの拠点にもなったという歴史があるようだが、最も有名な歴史としては、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナント゛・デステ公の居城であったという点か。名前は知らずとも、1914年、セルビアで暗殺された、と言えばピンと来るだろう。第1次世界大戦の引き金となった、サラエボ事件の主役である。
 そもそも、彼は皇太子になるべき人ではなかったが、フランツ・ヨーゼフ帝の近縁の者が次々亡くなったため、王位継承が回ってきたのだ。そのためか、若い頃は道楽三昧だったのか、狩猟が趣味で、彼の動物コレクションが所狭しと部屋に飾られている。その数30万。収集癖も並外れており、鹿の角を初め、殺した年月日、場所が全てに記入されている。アフリカで仕留めた象の足で出来た椅子など、グロテスクなものもあった。動物以外も、ちょっと変わったところで、トルコのハーレムの一室をそのまま、城内の一画に設置したり、妙なものもあったりする。
 話に寄れば、皇太子となった彼は、多民族国家のオーストリアの将来のためには、アメリカのような連邦制しかない、と考えていたようで、それを裏付けるように蔵書も多数保管されていたが、暗殺さえされていなければ、中欧、東欧の現在もかなり変わったものになっていたのだろう。歴史の好きな私にとっても、とても興味深い、勉強になった経験であった。

 昼食は、再びプラハ市内に戻り、「市民会館」内のレストラン内にて。その「市民会館」が驚き。日本のイメージとえらく違う。20世紀初頭に建てられたアール・ヌーボーの影響を受けた華やかな建物だ。派手なデパートといったところか。
 午後は自由行動。観光より先に、買い物であった。ボヘミアン・グラス目当て。旧市街広場付近のグラス専門店、2軒をはしごして、あれやこれやと品定め。結局、広場と市民会館の中間にある店に決める。日本人の店員も置いており、日本への別途発送の手続きも安心してできた。
 続いて、またもやCD探し。広場に面したキンスキー宮殿の一画にCD屋あり。本屋と併設。品揃えはさほど良くなかったが、せっかくなので、まだ購入していなかった、ドヴォルザークの交響曲第6番を入手。700円程度。やはりプラハも物価は安いものだ。
 買い物はそれくらいにして、カレル橋の南にある「スメタナ博物館」へ。地図で見る場所にどうもそれらしいものが無い。レストランしかないじゃないか。しかし、地図にはこことある。意を決して、そのレストランの屋外のテーブルの合い間を潜り抜けるとあった。ヴルタヴァ川のほとり、柳の下にスメタナの銅像有り。町の一等地に彼はいる。こんなレストランの中に彼がいるあたり、土地の人々との距離感をうかがわせるものだ。
 さて、博物館内には、彼の一生の足跡をたどる貴重な資料が数多く並んでいたが、如何せん、知識の量が少ない。あぁ、これか!と思わせる物は残念ながら少なかった。スメタナの作品9「勝利の交響曲」の自筆譜を見ても???だ。一時期、スウェーデンのイェーテボリのオケの指揮者として活躍したのだが、その当時の演奏会広告などもあり、グリーグと親交のあったバイオリニスト、ブルの名を見つけたのが私の知識としては、精一杯であった。最も興味深かったのは、やはり「モルダウ」の自筆譜。開かれていたページが、「聖ヨハネの急流」の箇所。ティンパニのロールの、<>(クレシェンド、デクレシェンド)の位置が、大太鼓と違って、4小節のブロックごとに違っており、誤植かとも思っていたところだが、確かに不規則な位置にそれらが書かれていたのが確認できた。なかなか面白い効果をちゃんとねらっていたというわけか。是非とも「農民の踊り」部分もみたかったものだ。その辺りもティンパニは変なことやっているので。
 おっと、かなりマニアな視点になってしまった。興味あったらスコアで確認して見てください。
 次は、「聖ミクラ―シュ(ニコラス)教会」へ。市内に同名の教会が2つあるので注意。カレル橋の西側。王宮側の方。巨大でかつ美しい修飾のされたオルガンが見ものとのことだったが、時すでに遅く閉館(午後4時半)。残念。モーツァルトが弾いたというオルガンを見損ねてしまう。モーツァルト死の直後に(ウィーンではなされなかった)追悼ミサを行ったということでも知られており、ファンにとっては必見の場所だろう。プラハとモーツァルトの親密な関係をうかがい知るスポットである。
 落胆したところで、そろそろホテルへ戻ることとする。確実な方法は、信頼できるホテルのタクシーを使うこと。インター・コンチネンタル・ホテルへ歩いて行きがてら、市内の徒歩観光も。途中、缶ビールを買おうとするが、土曜の午後ということで軒並み閉店しつつある。とりあえず小さな店を見つけて1本買うが、後で考えたら、500mlか350mlか忘れたが、200円もするわけないよなぁ。値切る習慣が無いもので、ついつい正直に買ってしまった。やられた。セコイ話だが。チェコフィルの本拠、「ルドルフィヌム」の横を通って、インター・コンチネンタルへ。ボーイにタクシーの手配を頼み、市外の我がホテル、ホリデー・インに無事着くことが出来た。

 夕食はどうしようか迷ったが、ホテルのラウンジで軽くとっておく。ビールはもちろん、バドワイザー。何故に?
 実は、チェコが本場なのだ。しかし、アメリカのバドワイザーとは中身が違う。アメリカのは名前だけ取った代物、偽者だ。
 本名は、ブジェヨヴィツェ(ちょっと発音できんなぁ)。南ボヘミアの町の名前。それが、ドイツ訛りで、ブドヴァイゼル、そしてバドワイザーに変わったと言う。味は・・・・・忘れた。スミマセン。美味しく飲めたのだけは覚えている。結構酔いやすかったような・・・。
 さて、そのラウンジ、他の客もおらず、ウェイターが、「スペシャル・メニュー」何て言うので何かと思ったら、ピアニストが「さくらさくら」を弾いてくれた。しかし、古典的なイ短調で和声付けされており、なんとも不可思議な代物だった。一応拍手したら、図に乗って(というのは失礼か)、「夕焼け小焼け」も。しかし、よく知ってるもんだ。ただ、こちらとしては夕食に、チープな日本のメロディーを聞きつづけるというのも何だかチェコに来たムードも吹き飛んでしまうので、ドヴォルザークの曲をリクエストした。そしたら「遠き山に日は落ちて」・・・・確かにチェコの曲だが、こちらとしては「夕焼け小焼け」とたいして違わないようにも思える。もう1曲頼んだら「ユーモレスク」まぁ、これなら許そうか。
 そうこうする内、ピアニストのところに他の従業員がやってきて、いろいろ遊び始めていた。客がいるのに。「ゴットファーザー」を手探りで音を探しつつ、思いっきり音をはずしながら弾いていたり、そうかと思えば「ラ・バンバ」をピアニストが弾き始めて、従業員はカラオケさながらに興奮してノリノリで歌い始める。プラハの若者達にとっては、(私達にとってはもう古いなァと思う音楽でも)新しく西側世界から入ってきた、新鮮な音楽なのだろう。そして、息苦しい共産時代も終焉、手綱もユルユルで、秩序を重んじない(であろう)若者の姿勢が、その時の状況から予想できてしまうのでは・・・・。西洋の新鮮な音楽に心奪われる様子は微笑ましいものの、仕事中の態度としては、どんなものだろう。夕食が済んで、隣の土産物屋で買い物する間も、ずっとそんな光景は続いていた。ちょっと不安な気がしないでもないが、自由とは、放任しておけばあぁなるということだ。共産時代が良かっただろう、とはとても言えないにせよ、古き良き時代の遺産の残る街だけに、これ以上変な方向へ自由化されずにいてほしいな、とも思う。
 自由の獲得とともに、失うものもまたあるのだ。日本もまた然り。そんなことも考えつつ、プラハの夜は更けていったのだった。

(1999.11.6 Ms)

 8/15、日本では終戦記念日である。今日が、私にとっての、今回の旅行のメイン、山場の予定である。プラハを離れ、ドイツに入りまずドレスデンに入るのだ。ドイツにおける大空襲のあった悲劇の街、でもあり、そのドレスデンが、ショスタコーヴィチの傑作、弦楽四重奏曲第8番「ファシズムと戦争の犠牲者のために」を生んだのだ。なんという奇遇、そんなはやる気持ちの中で、8/15の朝を迎える。
 チェコの通貨もまだ残っており、ホテルで出発前、チェコ土産を選ぶ。最後に残ったお金で、プラハ市内及びチェコの地図を購入。これからのバス旅行の御供となった。地図を眺めながらの旅も楽しいもの。午前9時出発。
 さて、プラハからドレスデンは約150キロくらいか。高速道路と一般道を使って半日かかる。プラハから北へ進み、田園地帯が広がる。しかし、昨日のプラハから南への旅に比べると少々淋しい感じがした。畑が荒れているのか、それとも収穫直後の姿だったせいか。風景を楽しむ、とまではいかなかった。ただ、道路の標識に充分注意をして見る。地図を見ると「ズロニツェ」なんて地名がある。曲は未聴だが、ドヴォルザークの交響曲第1番の副題にある地名だ。彼の生まれ故郷、ネラホゼベス村に至っては地図にものってない。彼の生誕地の辺りをバスは走っているのだ。せめて「ズロニツェ」なんて書かれた標識でもないかな。彼が肉職人になるべく奉公に出されたその町を直接通過はしなかったものの、ずっと田舎、行けども行けども田舎・・・・・あぁ、ドヴォルザークの音楽の源泉はこんな風景からなのかなァ、と一人うなづいたりして。
 比較的まっ平らな地形が続いていたが、ドイツ国境が近づくにつれ、山も見え始め、上り坂となる。意外と険しい山地が国境線となっているようだ。エルツ山地というらしい。ただ、ヨーロッパのこんな内陸なのにその山地は標高1000mあるかないかぐらい。私の田舎なんてちょっと行けばそれくらいの標高になってしまうな。いかに、平野が広いか、ということだ。
 国境の町テプリーツェ。久々に町らしい所。降車はしなかったが、ベートーヴェンのロマンスの地らしい。交響曲第8番の明るい楽想と関連があるとか・・・なのですが、ちょっと不勉強でした。今回の旅でベートーヴェン・ネタはあんまり押さえてなかった。帰国後そのことは知ったのでした。
 国境は、社会主義時代に比べれば、楽に時間かからずに越えられるようになったとか。私達のバスも運転手が書類渡せば、ハイOK。しかし、前のバスがハンガリーからの観光バス。貧しい国からの入国は厳しいらしい。場合によっては、書類通りの人数か、不審な荷物は無いかなどいろいろ調べられるらしい。結局10分くらいは待たされた。日本人の信用、というのは国際社会にあってありがたいものだ。我々は、先人達の残した遺産の上に生きている。日本人である、というだけでこれだけ有利に国際社会を渡って行ける。そんな、些細な一例だ。この信用、無くさないようにしなければ。

<ドイツ・ドレスデン編>

 ということで、難なくドイツに入国。11時頃。チェコに比べ、心なしか緑が多い。森が深い。そして、山を降りるにつれ、チェコの農村の崩れかけた粗末な家々とは各段に違う、お洒落な邸宅が次々と現れる。いくら旧東独とは言え、チェコとは大層、生活水準がちがうのだなと実感する。
 山地から平野に移る辺りの地形の変化も風景として面白い。目に付くのは、風力発電の大きなプロペラが至る所に立っていること。クリーンエネルギーに対する先見性を物語る。こんなドイツの一番はずれの一風景を見ただけでも、一流国だな、と感じてしまう私は、よっぽど田舎者っぽいらしい(明治時代の日本人みたい)。今回、初めて陸路で国境線を越えたのだが、お国の事情を如実に物語るのがよく分かった。面白い体験であった。

 さて、昼時にはドレスデン市街に到着。まずは食事。街の中央をエルベ川が流れる。その南側が旧市街で観光スポットだ。まず私達が訪れたのは川の北側。キューゲルゲンハウスというレストラン。壁一面に様々な詩人の肖像画が飾られているシックな趣。私の席の詩人は私の知らない人だった。名前すら覚えていない。しかし、やっぱりドイツ。食事はジャガイモとビール!!ジャガイモの量が多くて、とてもくどかった。ちなみに、このレストラン、大戦中の爆撃でほとんど壊滅的に破壊され尽くされたドレスデンで、奇跡的にそのまま残った店とのこと。ブダペスト、プラハに比較し、ドレスデンではいきなり戦争ネタ、一気に現代史を中心とした観光の開始だな、と感じる。ショスタコ色濃い滞在になりそうだ、と思ったのも束の間・・・・・。 現地ガイドさんがねェ・・・・・いわゆる超現代的女子大生の、日本人である。説明が物足りない。言葉がなってない。ツアー客と溝ができてたような。一気に旅がつまらない。あと、期待しすぎて、街自体にもがっくり、といった点もままある。ま、それはおいおい。

 キューゲルゲンハウスの前の道路は中央通り。広々とした歩道、日曜のせいか人影もまばら。えらく、淋しいところだな、と第1印象。今までが、仮にも一国の首都ばかり回ってきたのだ。地方都市はのんびりしたものなのかな、と感じつつも、スリや泥棒のことをあまり考えずに観光できるのはありがたい。ほっと一息つけたのは嬉しい。
 中央通りを南下し、エルベ川に突き当たる手前に、ドレスデンを首都としたザクセン王国の最盛期を作った「アウグスト1世(強王)の黄金の騎馬像」あり。エルベ川をわたって旧市街の中心。「ゼンパーオーパー」(ゼンパー氏設計のオペラ座)の威容が目に飛び込む。ドレスデンの宮廷オペラの楽長だったウェーバーが自作「魔弾の射手」はじめベートーヴェンの「フィデリオ」、モーツァルトの「魔笛」などドイツオペラを積極的に演奏したこの地はドイツオペラ発祥の地と言っても良かろう。特にウィーンでは成功を収めなかった「フィデリオ」がウェーバーによってまずドイツで成功し、1820年前後、ベートーヴェンのスランプの時期にウェーバーがベートーヴェンの援助に尽力したことはもっと知られてよいことだろう。ある意味、このウェーバーがロマン派音楽の創始者でもあったのだ。ウェーバーのオペラなくしてワーグナーは無い。ピアノの名手としても知られたウェーバーのピアノ作品(ソナタとか変奏曲のみならず、キャラクターピース・性格的小品を多く書いた)があって、ロマン派からショパン、シューマンらの多種な作品が生まれる。また、ピアノの超絶技巧、さらには、「舞踏への勧誘」「ピアノ小協奏曲」などの描写音楽はリストを予告する。さらに、クラリネット、ファゴット、ホルンなどの協奏的作品は管楽器の機能を高める結果にもなっただろう。等々考えるに、ウェーバーの音楽史における重要性は並外れたものだろう。しかし、不当に軽く見られているような気もするのだが。ウェーバーの死後完成したゼンパーオーパーの威容を目の当たりにし、ロマン派の揺りかご、ドレスデンの輝きが一層深く印象付けられた。
 ただ、ゼンパーオーパーは1841年完成、ワーグナーが最初の主となり「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」の初演が行われ、20世紀に入ってもR.シュトラウスの「薔薇の騎士」などの初演、大成功、とドイツのオペラの一大拠点となるも、第2次大戦で焼失し、再建は1985年のことという。旧東独地区の戦後復興はかなり遅かったと聞くが、40年もそのままだったとは驚きでもあり、悲しいことでもあろう。ドレスデンの街自体が、建築当時のままに再建されたということで(これまた驚き)、その点時間もかかるのだろうけど、旧東独地区、冷戦終結10年を過ぎてもまだまだ戦後復興の途上にあることも考えるとタイムスリップしたような気持ちにもなる。旧東独では冷戦中の約50年間、限りなく時間がストップしていたのかもしれない。
 ゼンパーオーパーを遠巻きに見た後、エルベ河畔の「ブリュールのテラス」と呼ばれる辺りへ。対岸の眺めがよく、「ヨーロッパのバルコニー」の異名もある。のだが、たいしたことはない。今までもブタペストのドナウ川、プラハのヴルタヴァ川と、街のど真ん中を流れる川を見てきたが、どうもここのエルベ川は貧弱であった。私の今住む、豊川市辺りを流れる豊川の方がよっぽど堂々とし、また絵になるように感じた。それはともかく前述のニ都市の眺めの方が良かったな。エルベの対岸に、仮設ステージが立っていたのが最大の興ざめの理由だったかもしれない。
 次は、河畔近くの「アルベルティヌム」という美術館へ。贅をつくした宝物類が売りらしいが、興味も無い。絵画も特に記憶にあるものも無い。ただ、最上階に1909年に作られた、マーラーの顔の彫像を偶然発見した。書物にも写真が載っているものだ。特記事項はそれくらい。土産を選ぶ時間的余裕も無く不満も残る。
 さらに歩いて、今回注目していた「旧、聖母教会」。12世紀に建立、ドレスデン最古、最大の教会というが、やはり大戦で崩壊。その無残な廃墟がそのまま残されているという痛々しい風景を思い、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番を頭に思い描こうとしたら・・・・・・再建中。ただの工事現場になっていた。広島ドームのようにそのまま残すわけじゃないのか・・・・。
 1番の観光スポット、「君主の行列」。ザクセンの歴代君主の姿を100mにわたって描いた壁画。これは壮観であった。戦災からも奇跡的に逃れたとのこと。これは一見の価値あり。
 最後は、ザクセン王の居城、「ツヴィンガー宮殿」。ここも時間無く、宮殿内の美術館に入る余裕も無し。アルテ・マイスター絵画館には、ラファエロ、ファン・ダイクなどルネサンス、バロック中心の所蔵品が多数あるらしい。そう言えば、ドレスデンに滞在したショスタコーヴィチの仕事は、映画音楽の作曲だったのだが、その映画「五日五夜」は、ドレスデンの豊富な絵画を戦災から守る、というテーマのものだったと聞く。果たしてここが舞台だったのだろうか?ショスタコはその美術館のすぐ前のホテルで、映画音楽そっちのけで弦楽四重奏曲第8番を書いたらしい。そこがどこか特定はできなかったが、ショスタコの歩いたであろう地を歩き、彼の見たであろう風景(ほとんど違うのかもしれないが)を見ただけでも私は感激である。
 10分位の自由時間があったので、宮殿は後回し、ゼンパーオーパーの近くまで行って見る。演目は何かな・・・
 何と「ムツェンスク郡のマクベス夫人」ショスタコーヴィチ作曲・・・・・なんという奇遇だろうか!!驚喜。しっかり記念撮影してしまった。
 ゼンパーオーパーのすぐ傍らに、ウェーバーの像がある。色も剥げ落ちた古そうなもの。随分前からきっと立っているのだろう。
 宮殿に戻り、外観をざっと見、屋上へも上がる。この宮殿も再建。しかし、この街をぐるりと見渡すと、ちょっと建物の色が汚いと感じる。黒っぽく変色している部分が多い。一度、焼け野原になり、それを元のままに再現するとはとんでもない努力だし、壮絶な信念でもあろう。そして、再建に際しては、残された瓦礫も活用しつつ作り上げたとの事。それも、一見汚さを感じる理由なのだろう。しかし、同じ敗戦国、日本とは全く違う戦後復興を遂げつつある旧東独の一都市、ドレスデンは、街そのものが、戦争の面影を漂わせ、かつその悲惨さを沈黙の内に雄弁に物語っていたかのようだ。
 女子大生ガイドの説明は、ホントに不要なものだった、とも感じて、自分自身は納得したのだけれど。

 ホテルには、午後5時頃、まだ明るい内に到着。しかし、市街地から遠かったのが残念。今から街には繰り出せない。おまけに、土産も売ってない。住宅街のような場所で、周りも探索したが、それらしい店も無い。ドレスデンの思い出の品何も無いまま、明日はドレスデンを発たねばならない。残念である。もっと滞在したかった。いろいろ自分の足で自分なりの発見をしたかった。と思いつつ、また、いつかドレスデンへ、と思いつつ、夕食はバイキングをたらふく食べ、そして就寝。

ちなみに今年の年賀状は、ドレスデンの写真でした(2000.1.15 Ms)

<ドイツ・ライプチヒ編> 

 何となく腑に落ちない一晩も過ぎ、今回のツアーでもっともテンションの低い町へ。陶磁器の都、マイセン。8/16。
 国立の陶磁器工場見学。日本語の解説テープを聞きつつ、製造過程を見る。そして、1時間以上も場内に閉じ込められた。買う気もない。なんだかんだでやっぱり高いよ。時間を持て余した、もったいない一時であった。
 その後、丘の上のアルブレヒト城見学。その城の中に、ドレスデンの本があったので購入。
 城の見学の後、昼食に向かう途中、街中を歩いているうち、みやげもの屋を見つけ、物色したくなる。添乗員さんが気を利かせてくれて、街中で自由時間をくれた。そこで、ドレスデンの絵葉書など沢山あり、昨日の鬱憤を晴らすことが出来た。特に、感激したのが、戦争後の廃墟の写真。これだ。求めていたのは。ショスタコーヴィチが、自伝たる弦楽四重奏曲第8番を作曲する契機となった風景に違いない!!と興奮することしばし。

 これでようやく心も落ち着き、ドレスデン近郊の小都市マイセンを離れる。次は、バッハの活躍したライプチヒだ。
 とは言うものの、私にとってのライプチヒ、それは、ショスタコーヴィチが1950年、バッハ没後200年記念行事で訪れ、名作「前奏曲とフーガ」全24曲を書き上げる契機となった都市、である。しかし、このライプチヒ滞在は、さらに、ドレスデンより悲惨であった。
 到着は午後3時30分。もう、ろくに観光もできやしないじゃないか。それに加えて、ガイドはドイツ人女性で、日本語はダメ。添乗員さんと英語でやりとりしつつ、という状況。さすが旧共産圏、日本語のできる観光ガイドさんが調達できなかったとは。
 さて、ガイドさんとの待ち合わせ場所は、市街から離れた、「諸国民戦争の碑」、駐車場。碑とは言え、ピラミッドみたいなどでかい茶色っぽい建造物が立っていた。ガイドブックにも乗ってない所。別に観光した訳でもないが、ふと思い出した。ナポレオンのロシア遠征が失敗し、諸国民が一気に打倒ナポレオンに立ち上がったのが、この諸国民の戦争、ライプチヒの戦いであった。

 まず、最初の観光は当然に、「トーマス教会」。バッハが音楽監督を長年務めた有名な教会。とりあえず、教会近くでバスを降り、ガイドさんは、バッハ像に案内。それにしても、小さい。それに、日本の灯篭の上部の四角の空間にバッハの顔だけ覗いているような代物であった。??と思っていると、添乗員さんが、ガイドさんの訳を始めるのだが、
 「ええっと、これがメンデルスゾーンの像です。」・・・・嘘つけ!!誰がどう見てもバッハでしょっ。もう、いても立っても入られず、
 「BACHって下に書いてありますよ!!」
 ざわざわしつつ、ガイドさんと添乗員さんは再度、筆記用具も持ち出しつつ英会話。
 「メンデルスゾーンの立てた、バッハ像です。失礼しました。」
 今でこそ、有名なバッハだが、死後は全く忘れられ、メンデルスゾーンが彼の作品を再発見するまで、ライプチヒでも忘れられた存在であった。メンデルスゾーンはバッハの功績を高く評価し、ライプチヒを活動の本拠とし、そしてバッハ像の建立も行ったという。このバッハ像は、教会の前の道路の真中の緑地の中にひっそりと立っている。今は、全身の堂々たる輝くようなバッハ像がトーマス教会横に立っており、バッハ像といえばそちらのことを指すようだ。添乗員さんも初めてこの旧バッハ像を見たので、一瞬わからなかった、と後で弁解していた。
 でも、ライプチヒに来るとまずは、旧バッハ像、といった配慮は嬉しく感じた。きっと、この華奢な、覗き見バッハを見逃す観光客も多いに違いあるまい。(余談だが、ライプチヒと言えばゲバントハウス、ゲバントハウスと言えば、来るとまずは。いやいやクルト・マズア。何て言葉遊びも絡めてみました。)
 さて、トーマス教会、なのだが、外見、工事中。内装、工事中。なんのこっちゃ。私の訪れた1999年、バッハ・イヤーの前年で大改装中、という具合。工事現場の観光と相成った。バッハの弾いていたオルガンはちゃんと見られた。しかし、バッハの墓は?ステンドグラスにバッハはいたけど。内部に見所が全くなかったせいもあってか、ステンドグラスの中にメンデルスゾーンもいたのが発見できた。
 工事中で土産を売るスペースも無かったのだろう。教会の横にひょっこりと仮の売店があった。それも「THOMAS SHOP」。バッハゆかりの地なのに、「トーマス・ショップ」とは何て軽い響きなのだろう。敬虔な宗教的なムードも覚める、アメリカ的商業主義がプンプン。まして、その英語表記が、ドイツ的でない。トーマスも、トーマス教会のトーマスで無しに、機関車トーマスのトーマスであるかの如きムードだ。これはきっと、バッハ・イヤーには見られない光景なのではなかろうか。
 そこで、私は「BACH」の音列の楽譜の書かれたボールペンを購入。ショスタコゆかりのライプチヒでもあるが、残念ながら「DSCH」の音列の書かれたグッズはもちろん無かった。

久々の更新。ご無沙汰です。一応、これもバッハ記事ですね。(2000.6.29 Ms)

 トーマス教会のすぐ横には「バッハ博物館」がある。バッハの熱烈な後援者、貴金属商ボーゼの館とのこと。しかし、時間なく、あっというまに、何を見る、何を聞くという間もなく内部を通り過ぎる。後から聞いたのだが、ツアー客の中には、1999年がバッハ記念イヤーだと勘違いして今回参加した人がいたらしく、トーマス教会は工事中だし、バッハ博物館で時間はないし、で、かなりご立腹な様子であった。私は特に執着もなく、とにかくライプツィヒの街をいろいろ散策したかったので、バッハがらみな時間が少なかったのも特段どうということもなかった。
 そのまま、街の中心へと歩いて移動。このツアー初めて雨が降った。しかし、ただの通り雨のようですぐやんだ。さて、案内していただいたのは、ゲーテのファウストの舞台ともなった、「アウエルバッハス・ケラー」なる居酒屋。店の前に、ファウストとメフィストフェレスの像がある。その近くにゲーテの銅像もある。その辺りで、ちょうど時間となりました。てなわけでホテルへ向かう。今回のホテルは、ドレスデンの時と違い、市街地から近く、夕食までの間に、再度、街へ繰り出すことが出来た。

 英語のみのガイドさんということで、かなり意志の疎通も大変だったのだが、別れ際に、「ゲヴァントハウスにこれから行くつもり」と言ったら、にこやかにいろいろ喋ってくれた。「クルト・マズアが素晴らしい」といった内容のことを言っていたようだ。やはり、東独時代からの功績は、一般の人まで浸透しているのだなァ。こちらも負けじと「実は、ブロムシュテットのファンです。日本のNHK交響楽団でも指揮を振ってますよ。」と言ったら、さらに喜んでくれたようで、「彼も素晴らしい」てな内容なこともしゃべってくれた。
 たった1分も満たないような、稚拙な英会話でしかなかったものの、街の人が、わが街のオーケストラを大事に思い、さらにその常任指揮を応援しているのかなぁ、と思いを巡らせ、幸せなことだ、と妙に感激したものだ。この会話は今回の旅行での現地の人との会話の中で最も心に残ったものである。

 さて、市街へと繰り出すが、もう既に午後6時すぎ。いろいろな施設はもう閉館だ。ホテルからゲヴァントハウスへ向かう途中に「メンデルスゾーン・ハウス」がある。メンデルスゾーンの最後の家。記念館として保存されていたが、彼がユダヤ人ゆえ、ナチスの台頭とともに閉鎖。共産時代は廃墟のままとなっていたと言う。しかし、クルト・マズアを中心に国際的に募金活動を展開し、つい2.3年前、再開と相成ったと聞く。
 ライプツィヒといいドレスデンといい、共産時代に時が止まっていたかのような感想を持つ。戦争という時代を近い過去としてとらえてしまうのだ。日本なんか、「戦後は終わった」なんて私の生まれる前には言ってたのに、旧東独地区を巡れば、まさにまだ生々しい「戦後」なのだ
 「メンデルスゾーン・ハウス」には日本人の募金も多く集まったようで、入口に名前が漢字でずらりと並んでいた。大都市の中心からすぐのところなのにとても静かだ。人気もない。メンデルスゾーンの顔のレリーフに先ほどの雨の雫が流れていた。中に入れなかったのも残念だが、なんだか、彼の顔を見てしんみりしてしまうな。音楽が明るいだけに、死後の彼の扱いのひどさを思うと可愛そうだな。

 メンデルスゾーン・ハウスから「ゲヴァント・ハウス」はすぐだ。市電の通りをわたると、巨大なホールが2つ、公園をはさんで対峙している。もう一つは、オペラ座である。とりあえず、ゲヴァント・ハウスに近づく。ハウス内の店は、やはり6時で閉店。CDが沢山並んでいた。何が置いてあるか見たかった。しょうがなく、ハウスの外をぐるっと見て回る。ひょろーっとした病弱そうなメンデルスゾーン像がハウスの入口に立っている。ポスターがいろいろ貼られている。ブロムシュテットが指揮を振る野外コンサートのポスター。今後の演奏予定など。さすがにドイツ物が多そうだ。しかし、見つけた。シベリウスの交響曲第1番。ゲヴァントハウスのシベリウスなんてCDあるかなぁ。ドイツではとかく不評なシベリウスらしいが、彼の地道な演奏活動で、このライプツィヒにも北欧音楽が親しまれることを期待したいね。
 ハウスの奥まったところに「メンデルスゾーン・ザール」という小ホールがある。そのホール入口のど真ん中に上半身裸のベートーヴェンがたくましく鎮座する。なんでベートーヴェン?とも思ったが、彼も若き頃、ウィーンからベルリンまで演奏旅行したというし、その途中、当然バッハゆかりのこの地にも訪れたと聞く。また、商業都市であったライプツィヒより彼の作品も出版されたはず。さらに、名曲「運命」もウィーンでの初演は大失敗(オケと険悪で、演奏が滅茶苦茶、さらに真冬の厳寒期にあまりに長時間のコンサートらしく、音楽を鑑賞できる状態になかったと言う)だったが、ライプツィヒでの再演は、「運命」の曲の本質を知り得る演奏となったようで、ライプツィヒという土地こそ、今に「運命」を伝える「運命」発祥の地でもある。それならば、彼の裸像があろうと納得もゆく。(今、この拙文を書いている数日前に「運命」を演奏したばかり。我がライプツィヒ詣でが演奏にプラスをもたらしたかな。そう言えば、BSで放映された、ビロード革命10年の、ライプツィヒ・聖ニコライ教会での「運命」、ブロムシュテット指揮は素晴らしかった。おっと閑話休題。)

 オペラ座にも足を踏み入れたら演目紹介のパンフあり、ドレスデンでの「マクベス夫人」に続いて、歌劇「鼻」!!ショスタコ・オペラが大ブームだ。やはり、ライプツィヒも、ショスタコゆかりの地だけある。感激。
 結局、ワーグナーの生誕の地、とか、シューマンの青年時代の地、を思わせる所には行かなかったものの、収穫は多かった。また来たいな。ライプツィヒ。今度は、ゲヴァントハウスでコンサートを聴いてみたいね。

バッハ記念、ライプツィヒ記事脱稿。そのわりにバッハは影が薄いなぁぁ(2000.7.29 Ms)

<ドイツ・ポツダム編> 

 短期間の名残惜しいライプツィヒ滞在。翌朝、8/17は曇り、天気は芳しからず。ホテルからバスに乗り、すぐ近くのゲヴァントハウスに別れを告げ、そして、町の環状道路を走り、中央駅の横をかすめて、北上、いざ最終目的地ベルリンへの旅である。中央駅を横目に、ふと、ショスタコがライプツィヒにやってきたのは当然電車だろうなァ、と考えつつ、彼の見た光景そのままなのだろうか?と思いを巡らせる。そんな想像の中に、彼の、ライプツィヒ滞在の成果である、前奏曲とフーガが私の頭の中を流れる。ホ短調のフーガがなにげに流れてくる。ショスタコゆかりの旧東ドイツの古都、ドレスデン、そしてライプツィヒとの別れがなんとなく寂しい気持ちにさせた。

 高速道路を走り、ザクセン地方からベルリンへ。途中、ヘンデルの生誕地ハレの近くも通過したはずだが、曇りがちな天気はそのまま。途中、ドライブインにて水を買う。炭酸なしの水を買うのに外国では気をつけなきゃいけない。しっかりラベルを確認して。英語なら見分けがつくのだが、ドイツ語ばかりじゃ??と思いながらも、おお、ohne と mit という違いを発見。なし、と、あり。この推測が大正解。ちなみに、このドイツ語、打楽器のパート譜で、大太鼓とシンバルが伝統的に重なって出てくるので、あえて、大太鼓のみ、とか、大太鼓とシンバル重ねて、といった指示をする際に、これらのドイツ語が使われる。この知識が役に立った。

 さて、昼前にはポツダムに着。まずは昼食。そして午後1時、ポツダム観光開始。まずは高大な宮殿敷地の中で、最も奥に位置する「新宮殿」より。豪華な宮殿である。いやまて、ポツダムと言えばプロイセンのフリードリヒ大王。彼の宮殿はサン・スーシ宮殿と呼ばれていたはず。と思いつつ、ガイドに寄れば、彼の造営した宮殿の中で、来客用に整備されたのが、この新宮殿とのこと。彼の死後、この宮殿に王室の人々が寝泊りするようになったという。この宮殿の中での圧巻は、「貝殻の間」。壁に貝や鉱石をちりばめた不気味なグロテスクな雰囲気。悪趣味だ。
 続いて、「サン・スーシ宮殿」。憂いもなく、という意味のフランス語。フリードリヒ大王の寝泊まりした宮殿だが、大王の名に不相応なこじんまりしたもの。しかし、高台に位置するこの宮殿。高台の斜面に葡萄の木を植え、その葡萄園とその上に位置する宮殿が調和するよう、大王自らその設計に携わったとかで、彼の芸術家肌な側面が伺われる。
 彼の逸話で面白いものを紹介。彼の死後、彼の遺言によれば、サンスーシ宮殿敷地内の愛犬の墓の隣に葬って欲しい、とのことだったが、さすがにプロイセンの王が犬の隣に眠っているのでは威厳も何もあったものじゃない。ということで別な場所に墓所を作ったとのことだが、第2次大戦中、彼の遺体もどこぞへ疎開するはめに。そして、各地を点々とした挙句、やはり彼の遺言を叶えようということとなり、30年ほどまえにようやく愛犬の隣に遺体は安置されたとのこと。なかなかかわいい側面があったのだ。
 そんな大王の愛した楽器がフルート。確か、バッハがこちらにやって来た時の即興演奏をもとに作曲されたのが、「音楽の捧げ物」。大王の提示した主題が当時としては前衛的な半音階を多用した風変わりなもの。このテーマをもとにバッハは作品を仕上げた。その作品の中にフルート・ソナタも入っている。そんな縁あってか、宮殿の前で、バロックの衣装を着たフルート吹きが小遣い稼ぎ。モーツァルトの作品だったけれど、ポツダムに相応しい大道芸人、という感じ。
 最後に、「ツェツィーリエンホーフ宮殿」。さすがにこの名前は未知。ポツダム会議の地、とは聞いていたが、今回のツアーによって始めてその存在を知った。プロイセン王家の宮殿ではあるのだが、新宮殿、サンスーシとは同じ敷地ではなく若干離れている。最後のドイツ皇帝の皇太子夫妻の邸宅である。20世紀初頭の建築物である。イギリスの山荘風な作りらしく、前近代的な、ヴェルサイユ風なイメージの宮殿とは相違する、高級邸宅、といった感じ。
 そんな柔らかな雰囲気の宮殿と、日本に最後通牒を付きつけたポツダム宣言のイメージがつながりにくいのは確かであった。
 宮殿内、それぞれ、トルーマン、チャーチル、スターリンの控えの間、そして会議部屋などを順次見学。スターリンの部屋は赤の間、である。別にスターリンだから、というわけでなく最初から赤だったらしいが。その赤の間からは湖が見える。その風景をスターリンは愛した、とのことだ。ちなみにその湖の向こうはベルリン市内。ベルリンの壁が出来た時は、この湖の向こうが西ベルリンなので、こちらまでやはり壁が出来たとのこと。
 ポツダムから翌日のベルリンまで、日本人女性でこちらに住んでいる日本語教師の方がガイドを務めていた。流暢にガイドを進めていたのだが、第2次大戦の話になると、我がツアーの年配の方は結構鋭い質問攻めで、ガイドさんも大変だったようだ。ポツダム会議の会議場での説明で、この会議を見守るジャーナリストの中に、若きJFケネディがいて・・・などと聞き、「へぇ」などと思っていると、「ケネディはその時、太平洋上にいたはずじゃないか?」なんて言うもので、ガイドさんも困って、宮殿のドイツ人スタッフに聞くもよくわからず、諸説あるようです、なんていう結果になってしまった。随分やりにくかっただろう。
 それはさて置き、でも、やはりドイツ、長い歴史の上にあり、その歴史的史跡は興味深いものばかりだが、ことに第2次大戦がらみなものについては、私はとても興味を持った。日本の現在を作ったといってよい、「ポツダム宣言」、そのポツダムを自分の目で見たことはとても印象深い。心に深く刻まれた。ツェツィーリエンホーフの美しい姿と第2次大戦。日本人だったら一度その場に立ち、その歴史を改めて振り返ってみたらどうだろう。感慨深いと思います。

えらくご無沙汰になっています。なんとか完結が間近に。(2001.2.4 Ms)

 


   「今月のトピックス」へ戻る