今月のトピックス

 June ’99

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 May ’99

5/10(月)  ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 名古屋公演

 いろいろと、クラシック音楽について偉そうに語っているMsではありますが、恥ずかしいことに、ドイツのプロオケの生の演奏を聴いた事はありませんでした。CDはむやみやたらに聴いていますが、生演奏はもっぱら地元アマオケ、そして名古屋、東京のプロオケが主です。海外オケはロシアン・オケのみに限定して聴いていました。
 
ドイツの音楽、ドイツのオーケストラは、感心はするが感動は出来ない。というのが私の感想でした。
 そんな私が1万円以上の大金を果たして何故、このコンサートに出掛けたのか?
 私の義父(妻の父)が、指揮者のプロムシュテットに似ており、妻がファンなので付いて行った、その程度の理由でした。しかし、しかし・・・・

 いやぁ、ドイツのオケに感動しない、なんて随分傲慢な態度をとっていたのが恥ずかしいぐらいです。もう、感激の嵐。素晴らしい、の一言!!

<1> 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 by リヒャルト・シュトラウス

 〜来るべき21世紀への準備として、「ツァラ」でも聴いておこうか。最初だけで、後はつまらんが・・・。
 などと思いつつ臨んだのだが、冒頭、やっぱり迫力がある。特にオルガンのバランスが強めに感じられ(曲全体においてよく聞き取れた)、全合奏が一瞬dim.し、オルガンが聞こえる箇所、そしてオルガンの和音のみが残る箇所など感涙モノだ。久しく本物のオルガンも聴いてなかったなァ。(最近シンセサイザーでオルガンの代奏をした「ローマの松」の本番に乗って、物足りなく感じたばかりだった)。
 ただ、テンポが少々早めで、そのあたりプロムシュテットらしい、スマートさを感じたが、その辺り、物足りない人もいたかも。

 さて、「2001年」を終わってからが心配だったが、心配ご無用。
 変イ長調のビオラのソロから始まる弦楽による室内楽風な場面、
これがホントの弦の音なんだ、と感激しきり。ほとんど弦楽器がソロのアンサンブルになるという複雑な管弦楽法の効果もあろうが、とにかく弦の充実した豊かな響きにうっとり。音楽が生き物のように、しなやかに運動しているようだ。
 その後の、ハ短調の情熱的な場面も、当然金管の迫力(特にホルンのパワフルなこと)も耳に心地よいのだが、それ以上にやっぱり弦の底力。音の洪水、巨大なうねりを、弦のサウンドが醸し出すさまに鳥肌がたってしまう。

 ドーソードー、の全合奏の後のG.P.で拍手の無かったことに安堵してからの後半部は、どうも、曲の構成としては蛇足的で、ワルツ風な通俗的な楽想が気に入らないのだが、弦楽が細分化された巧妙な管弦楽法に眩惑された、という感じ。弦だけでもとても、うるさく感じた。そんなに鳴らさなくてもわかった、わかった。しかし、この辺りから、正直言って「感動」は「感心」になってしまう。なに、指揮者もオケもその責任は無い。作曲家のせいだ。演奏者は真摯に、楽譜を再現していた。そして、この作品の素晴らしさを私たちに十二分に伝えていたのだ。

 今回、事前にスコアもチェックした上で生演奏に接してみて、やはりリヒャルトの管弦楽法の天才的な冴えには驚いた。同時代のマーラーとよく比較されるのだが、断然リヒャルトの方がテクニックは上だし先んじている。ただ、編成がデカイだけでなく前述の、弦の複雑な細分化を始め、繊細な音色の混合、緻密な対位法的なからみが、全く支離滅裂にならずに、整然と、かつ、効果的に鳴っていることはホントに凄いことだ。
 当然、各奏者の演奏技能、指揮者の交通整理の手腕の冴えに支えられてこそ、なのだが。

 マーラーはどちらかと言えば、案外と単純なスコアなわりに、ゲテモノ的特殊管打楽器の使用や、ひたすら音量増加のための巨大編成に陥り、アイディア勝負で、奇をてらった感がある。リヒャルト的な緻密さは、せいぜい7番以降に見られる程度かもしれない(反論はあるでしょうけど)。
 
(あと、打楽器の使用法については、リヒャルトの方が古めかしく、控えめだ。まるで、打楽器の派手な活用に頼るのは邪道だ、と言わんばかり。その辺がいまいちホントに好きになれない最大の理由だろうが)

 さて、第1曲を聴き終えて、全体としては、まずは素晴らしい演奏技術と、素晴らしい管弦楽法の結合が、ドイツ音楽に対する「感心」から「感動」へと、私を揺り動かしつつあった。そして、メイン・プロでその「感動」は揺るぎないものとなったのだ。

(1999.5.26 Ms)

<2> 交響曲第4番 by ブラームス

  正直言って、この作品はあまり好きな曲ではない。なぜなら、悲観的で、諦観に満ち、不健康に感じられるから。聴きすぎると、何だか人生を途中で放棄したくなるんじゃなかろうか?という怖れも抱き、敬しながら遠ざけている曲なのだ。
 具体的に私のイメージとしては、ブラームスの全交響曲を、「一つの人生の流れ」に例えて、
第1番は「誕生から結婚まで」、第2番は「結婚生活の悲喜こもごも」、第3番は「中年サラリーマンの悲哀」、そして第4番「死を受け入れる諦観」といった感じでとらえている。
 
ちなみに、例えば第1番の冒頭のゆったりとしたティンパニの連打は母親の胎内で聞く心臓音。第2楽章のバイオリン・ソロは母親に抱かれる幼児の安らぎ。第4楽章のアルペンホルンは、彼女へのプロポーズ・・・・などなど空想はふくらむのだ。この辺りは、拙著「世紀末音楽れぽおと」の「26歳、ブラ1を語る」で詳説されています。我が刈谷市民管弦楽団も次回演奏するので、また、私の持論「ブラームス的人生ゲーム」については語る機会もあるでしょう。お楽しみに! 

  さて、今回の演奏だが、まず特筆すべきは、壮大なスケール!であった。これは、大変意外であった。私も、アマオケでブラームスを演奏する機会は多く恵まれてきたが、まずそこで語られることは、
 
「ブラームスは弦の曲である。当時のワーグナーらのロマン主義的傾向に反対し、あえて古臭い18世紀初頭の貧弱な編成をとっており、金管とティンパニは特に節度を持った演奏が望ましい。」
 いつも、これなのである。いつのまにか、私も洗脳されていた。・・・・・その洗脳を、見事に解いてくれたのだ。

 まして、「死」に取りつかれていたはずの第4番で、これだけの力強さを見せてくれた事実が、「感心」を通り越した「感動」を呼び起こしたのだ。

 冒頭の、ため息のような「シーソー」というバイオリン、その辺は当然、期待通りの絶妙さであった(どんなアマオケもこのニュアンスは注文どおり出てこない)。あぁ、何て切ないんだろう・・・と「死」のイメージを抱きつつあったのだが、木管のみによるシグナルに続く第2主題の辺りから、おやっ、と思い始めた。第2主題のチェロとホルンのバランス、ちょっとホルンが勝っている。朗々と歌いすぎてないか、と。そして、提示部の最後、いつのまにかオケの音量は、先程の「ツァラトゥストラ」を思わせる白熱さを帯び、そして2拍3連にからむティンパニの裏拍のたくましいこと。「死」などどこかへ飛んで行ってしまった。そして、その後も、テンションの高さは持続されてゆく。
 当然、弦が驚異的に鳴っているからこそ、金管打も思いきって出せるだろうが、それにしても自分の思うところのバランスを遥かに超えている。といって、もちろん乱暴なのではない
(ロシアン・オケとの根本的相違)。音量はあっても、その音が他の音を消してはいない。音色・音質のせいか、それとも、ホールの特性を理解してのことか、理由はわからないが、とにかく凄かった、としか言いようが無い。第1楽章のコーダなど、音の奔流に流されるかのようで、まさかこんな興奮するとは思ってもみなかった。駄目押しのティンパニ・ソロも、この迫力に満ちた第1楽章を締めくくるにふさわしい、衝撃的かつ重い存在感を誇示し、インパクト度では、それこそショスタコの駄目押しティンパニ・ソロ(5,7,12番とか)を想起させた。
 このスケール感は、後続楽章も同様であった。特にフィナーレでは、再現部的な付近(ティンパニが第2拍に3連符を打ちこむ箇所)、コーダ(トロンボーンのオクターブ・ソロ)などが印象的だった。終結も、悲劇の受容といった否定的な響きには感じられず、例えば、ショスタコの11番のフィナーレと同質な、現在進行形の闘い、とでも言えそうな力強さのままに閉じられた。
 ・・・などと、例を挙げればそれこそキリが無い。もちろん、技術的な高さもあるのだが、まずは、第1印象的、感覚的な意味において、オケ全体のパワーに感動しない訳にはいかなかった。

 さて、ブロムシュテットの指揮ぶりだが、いわゆる昨今の老境の大家にありがちな、思わせぶりなスローテンポ、とは全く無縁な推進力を持った若々しい(!)表現だと感じられた。ねばっこさ、重さといった点では少々弱いのかもしれない。しかし、そのプロムシュテットの特性が、私にとってのこの作品のイメージを見事に変えてくれたように思う。

 ブラームスの第4番は、ドイツ3大Bを核としたドイツ正統派クラシックの終焉、の象徴であり、「終わり」をイメージさせる曲である。だから私も「人生の終焉」=「死」のイメージとオーバーラップさせていたようだ。が、今回の演奏は逆に「始まり」を感じさせた。
 この作品とマーラーの第1番が、作曲年代がほぼ重なる事実を思い出し、あえて必要以上に後ろ向きな時代考証をすることも無い、と納得しようともしたが、それ以上に、
この作品からニールセンへの道を見出し、まさしくこれだ、と一人、首肯したのである。
 ブロムシュテットと言えば、北欧モノ、特にサンフランシスコ響とのニールセン交響曲全集が代表作だが、そのイメージが、このブラームスから想起できたのだ。迫力がありながらも華美でない管弦楽法、木管楽器への偏愛、といった外面性のみならず、「いかに生きるか」という芯の通ったたくましい主張にみなぎっていたように感じられたのだ。冒頭でこそ、諦観、枯淡の境地を思わせながらも、決して「死の受容」へと流れるのではなく、限定されつつある生を精一杯謳歌するのだという闘争感、高揚感に溢れていたのだ。(ただ、ブラームスの第4番では確かに「死」は近いのだろうが、ゴールが見えてきたからこそ、改めてそこから仕切り直し、ベストを尽くすのだ、とでも言うような音楽自身に内在する「前向きな姿勢」に感銘を受けた)

 ブロムシュテットについては、オケを器用にうまくまとめあげるが深みが無い、とか教科書的だ、との否定的な評にしばしば出会う。が、「枯れた味わい」、を全面的に受け入れて、過度の脚色がされなかった分、音楽そのものの持つ生命力が減退することなく、今回のブラームスが、かつてない経験として、私の心に共鳴したのだと思う。こんな演奏なら、人生を途中で放棄させる曲には感じられない。この演奏に出会えたことは、私にとって一生忘れられない思い出となるだろう。彼には、もっともっと活躍していただきたいものだ。若さを失わない巨匠、素晴らしいことだと思う。

 なお、アンコールでは第3楽章が再び演奏され、これまた私の常識を覆された。全曲中の演奏でも感じられたことだが、皮肉に満ちた素直に喜べない、ひねくれた楽章だとはもはや思えないほどに、確信に満ちた堂々たる表現で、独立した音楽(アンコール)としても物足りなさは微塵も感じられない。このアンコールをもってコンサートを終了させたことも、曲の弱々しいイメージを完全に払拭させる効果をもたらしたようだ。
 
ちなみに私の演奏経験では、この作品の後は、アンコール無し、もしくは、シベリウスの「悲しきワルツ」、シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲であった。 

(1999.6.2 Ms)

  5/1(土)   安城産業文化公園 デンパーク 訪問

 稲作、果樹、畜産などの多角農業で有名な、「日本のデンマーク」(小学校の頃、社会科で習ったなぁ)、愛知県のちょうど中ほどに位置する安城市。その安城市に先程誕生したのが「デンパーク」です。
 そのお隣の刈谷市のオケに入っていることもあり、情報は仕入れていたのでいつか行こうと思いつつ、このたび奥さんの実家へ行く途中、立ち寄ることにしました。
 田園、伝統、そしてデンマークをテーマとしたこの公園での第一印象、季節もよく、天候にも恵まれ、鮮やかなお花畑には心休まる思いでした。
 おりからのガーデニング・ブームも手伝い、市民の作品も数多く展示され、また、ソーセージや、花をあしらったアクセサリーの手作り体験などもでき、安上がりなレジャー・スポットとして多くの人々でごった返し、賑やかな雰囲気でした。

 さて、この辺りで音楽ネタの紹介を。
 室内のステージでは、「花」をテーマにしたミニ・コンサートが開かれておりしばし立ち止まりました。編成は、ピアノ、ソプラノ(歌)、そしてビオラ、と一風変わったものでした。そう言えば、お花畑は、「ビオラ」という名のスミレで一杯だったと思い出し、なかなか味な計らい。そのビオラで「スミレの花咲く頃」という曲も演奏。ただ、どうも音域がバイオリンと同じじゃないの?せっかくビオラなんだし、低くシブイC線の音が聴きたい・・・と心の中で叫びつつ、やっぱビオラの音色と言えば、シベリウスの交響詩「エン・サガ」だよなぁ・・・でも、こんなこと考えてるのはこの場で私だけなんだろうね。
 その他、「タンポポ」という聴きなれない歌曲も披露してくださいましたが、どうも日本語と旋律のイントネーションが不自然で、外国の歌曲の翻訳か、と思いながら、そう言えばピアノ伴奏に刻みが多用され、また、長調なのに短調からの借用和音が目立ち、ほの暗いムードを醸し出しているあたり、これは北欧の歌曲に違いない。と断定した矢先、歌手の方の紹介、「私の好きな中田喜直さんの曲で・・・」。私の耳もいい加減なものですね。

 その他、園内には、デンマーク文化の紹介ということで、アンデルセンの童話館、レゴ・ブロックの遊び場などもありましたが、そう言えば、デンマーク音楽が無いじゃないか。
 でも、いきなりニールセンの「不滅」(冒頭)が場内に流れていてもちょっと不気味だよなぁ。いや、ちょっと待った。子供たちが知っているデンマーク音楽があるよ。ソナチネ・アルバムの巻頭を飾るクーラウ。ドーミー/ソーソソソ/ソドミード/ドーシ・・・バイエルを終了した子なら弾いているでしょう。どうだろう、ソナチネの部屋なんてのを作ってデンマーク・ピアノ音楽に親しもう、というのは。

 などと空想を羽ばたかせるうち、「デンパーク」特製、オーケストラによるミニ・コンサートの案が浮かんできた。

 1.ベートーベン 交響曲第6番「田園」第1楽章  やはり、テーマ音楽は、これだ。
 2.グラズノフ   交響曲第7番「田園」第1楽章  これもまた、田園な、ほのぼの名曲。
 3.クーラウ    ソナチネ               地元の子供たち3人がそれぞれ1楽章づつ担当。ピアノ協奏曲に編曲してオケとの初競演。
 4.1分間指揮者コーナー                「田園」を何人かのお客さんに指揮してもらおう。
 5.ニールセン  交響曲第3番「ひろがり」第4楽章 まだまだ馴染みはないけど、デンマークの音楽にも親しもう。気分の落ち着くいい曲ですよ。

 どんなものでしょうか?ちょっと「デンパーク」でやるには重たいかな?(しまった!打楽器の出番を考慮に入れてなかった!)

(1999.5.5 Ms)


 April ’99

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 March ’99

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 February ’99

2/27(土)  オーケストラ・ダスビダーニャ 第6回定期演奏会

 ご存知、ショスタコーヴィチばかり演奏する「ダスビ」を聴きに、はるばる東京は池袋、東京芸術劇場まで遠征しました。
 「ダスビダーニャ」とは、「また会いましょう」という意味のロシア語。その名の通り、昨年の演奏会より1年後、かくして再会を果たしたのです。
 今回も、ショスタコの名曲の珍しい生演奏に接し、決してCDでは味わえない感動、そして新たな発見をさせていただきました。
ここに、まず、ダスビの皆様に感謝いたします。ありがとうございました。さて、感動覚め止まぬうちに、コンサートの記録を書きとめておこう。

<0> 私的前書き

 昨年秋、やはり東京へ夜行バスで遠征したところ、オール・シベリウス・プロの夜のコンサートで不覚にも居眠りしてしまった。タピオラ、シベ7の連続だったこともあるが、今回は旅行の疲労を少なくすべく、前日に東京入り、前泊することとした。当日は、午前10時チェック・アウト。前夜の雨も上がり、さいさきの良いスタート。
 まず、我がオケの次次回のメイン、ブラ1の曲目解説の取材を兼ね、原宿の「ブラームスの小径」散策。続いて、新宿でランチ・バイキング。
ロシア料理店「ペチカ」。ショスタコも、ボルシチや壷焼き食べてたんかなァと思いをめぐらす。ただ、BGMがジョージ・ウィンストンなのは、らしくないなぁ。トロイカとかカリンカを期待したい。午後は、銀座ヤマハへ。タコのバイオリン協奏曲第2番の予習を・・・と思いきや品切れ。ダスビが買い占めたのか?あと、来週の本番に備え、ティンパニ・マレットを購入。次は、ドラクロワの名画「民衆を導く自由の女神」が前日やって来たばかりの国立博物館へ向かうが壮絶な行列のため諦める。革命ムードを高めつつ、タコの音楽に身をゆだねるという思いつきは挫折。ただ、その傍らで浮浪者への炊出しをしつつ、”主、イエスは創り主〜”と歌う人々あり、慈善事業・・、弱者救済・・、社会主義・・・とやはり、タコを想起しつつある私だったが、背後に「ドラクロワより”のらくろ”は?」と話すオバサンあり、そんな空想の連鎖も断ち切れた。
 さて午後5時、会場にて当日券購入のはずが準備が10分ほど遅れており、それらしき人々が4,5人不安そうであった、が、じらされるのもまた興奮を高めるものだ。チケット入手後、腹ごしらえに
トマトソースの唐辛子入りの真っ赤なスパゲッティを食し、その色彩感と辛さによって本能がタコの音楽を渇望し始め、準備完了となる。

<1> 「ボルト」組曲

 タコ初期の才気溢れる、楽しさ一杯の作品を充分堪能させていただきました。「荷馬車引き」のトロンボーン・グリッサンド始め木管の各ソロもルバートが効いた”やらしい”演奏。私の中では、比較的印象の薄かった「コゼルコフ」も、弦の皆さんのなまめかしさによって魅せられました。しかし、やはり圧巻は「仲裁人」の木琴・ソロ。技術もさることながら、余裕綽々な歌心に舌を巻きっぱなし。その感激に続いてアタッカで「フィナーレ」、なぜか訳もわからず、涙が出てしまいました。冒頭のユーフォニウム的な楽器のソロ、なんだか”ほのぼの”するじゃないですか。ちょっと気の弱そうな、でも人の良さそうな、しかしちょっとトボけたそのキャラクター(奏者ではなく、旋律のキャラクターですので念のため)、守ってあげたくなるようなその一節の後、オケ全体が、曲に勢いと明るさを注ぎ込み、聴く者に、生きる勇気と人生の楽しさを教えてくれる・・・そんなことを感じました。現代人のための、人生の応援歌だ、これは。
 あと、特筆すべきは、ビオラのトップサイド始め数名の方々の、生きのいい魚のごとき勇姿が好感度ナンバーワンでした。管打楽器ばかり追っていて、気がついたのはフィナーレでしたが。
バンダも加わり、暴力的な音の洪水が押し寄せる中、諦めず、ふてくされず、タータカ・タータカとショスタコ・リズムを全身で弾いていたその姿勢こそ、スターリニズムの渦中にあっても自分の作品に心血を注ぎ続けたショスタコの姿勢と同質のものなのです。ここに、ダスビの神髄あり、という感じでしょうか。

<2>バイオリン協奏曲第2番

 うってかわって、暗くシブイ魅力のコンチェルト。CDは持っていても余り聴いていない作品。ただ、中太鼓(トム)のサウンドがこの作品のアイデンティティーを確立させています。私の個人的なネーミングとして「ボクシング・コンチェルト」とも呼んでいます。特に第3楽章のカデンツの前、そしてコーダのティンパニとトムの応酬が格闘技的ではなかろうか?最後にソリストがオケによってノックアウトされてしまうようで、コミカルですらあります。
 やはり、この作品の圧巻は、トムに尽きるでしょう。ピアノ協奏曲第1番のトランペット、チェロ協奏曲第1番のホルンと同様、第2のソリストとしての位置を占めているのが痛感できました。ただ、3階席だったせいでしょうが、いまいちソロが聞きづらかったのが残念。ソロの難しさは充分伝わってきました(ソロは、荒井英治さん。モルゴーア・クァルテットのメンバーです。)。
 あと、全く忘れていた第2楽章も、今回初めてじっくり聴いて気が付いたことが有ります。冒頭のメロディー、小節の頭が、ソ・ソ#・ラ・シbと半音上昇しながら歌われ、忍び寄る「死の恐怖」といった雰囲気を感じさせます。しかし、その恐怖も厳しいカデンツの後、ホルンで現れるときは若干形を変え、半音下降の旋律となり、恐怖が遠ざかるような安堵感に変容します。そして、一転第3楽章は明るい曲想へと移るのです。しかし、ソロの旋律を邪魔する、木管楽器。さらに重音を駆使して穏やかに怒り出すソロ、しかしまた邪魔が入る。そうこうするうちに、例のボクシングが始まって、てんやわんやの大騒ぎ。結構、楽しい曲ですよ。実演でこそ確認できました。

<3>交響曲第6番

 今回最も期待していた6番。初めての実演を通して、私の中で、曲の評価がガラリと変わってしまいました。
 ロシアにおいて、交響曲第6番をロ短調で書くことは、当然チャイコの「悲愴」との関連性をうかがわせます。タコ6全3楽章の楽章配置と、チャイ6の第3楽章までの楽章配置はかすかに親近性が感じられます。だとすれば、タコの本心は、敢えて悲劇的な「アダージョ・フィナーレ」を欠くことでソ連における作曲家生命の延命をはかりながら、
20世紀の「悲愴交響曲」を創造することにあったと考えていました。つまり、私はこのタコ6から「悲劇性」を感じ取ることに躍起になっていたのです。
 しかし、スコアを見ながらCDを鑑賞するのと、コンサート会場で生の音に接するのは、やっぱり違うものですね。見事に、タコに(そして、ダスビに)してやられました。第3楽章の、異例のギャロップ・フィナーレが、最終楽章にふさわしくない、軽すぎる、という違和感は微塵も感じられませんでした。とにかく、与えられた生を謳歌する、という人間として最も重要なパワーに満ち満ちた、堂々たるフィナーレでした。やっぱり、大迫力のエンディングによってこそ、人は皆、満足感を得てしまうものですね。第1楽章の嘆き節はいまいずこ、という感じです。
 さて、細かな感想としては、全体にゆっくり目のテンポ設定が説得力を増す結果となっていたように思います。第1楽章冒頭、感動的でした。たくましい中低音と、美しい高音のコントラスト、そして一転悲劇的モチーフの反復。この楽章のドラマ性が凝縮された開始部分から、曲の魅力を全開させていました。やはりメインプロだからでしょうか、オケが前2曲に比べ断然鳴っていました。ペット、ティンパニも、より存在感の有る音で迫ってきました。また、中間部の長大なフルート・ソロも文句無しです。(聴く側としては)この部分の緊張感は快感ですらあります。この静けさこそ、タコの本質ですから。
 第2楽章も速すぎず、特に中間部で曲想が緊張感をどんどん増してゆく過程がじっくり味わえました。ティンパニ・ソロもカッコ良く決まりました。
 第3楽章は前記のとおり、最もインパクトを与えられました。追加するとすれば、3/4拍子に変わる中間部の入りで、やはりビオラに目が行ってしまいました。ここぞとばかりに旋律を精力的に弾き込んでいました。あと、当然コーダのティンパニ・ソロについて。フレーズとしては、決してカッコ良くない、逆にマヌケに聞こえかねないこのソロですが、やはり、内心笑いが込みあがります。この部分も、「ボルト」のフィナーレの冒頭と一脈通づるような、ほほえましい楽しさをも感じてしまいます。
 あまり裏を詮索しなくても充分音楽のみで楽しめる素晴らしい交響曲です。
その魅力を充分に引き出してくれた演奏でした。満足です

<4>アンコール

 まず、バイオリン協奏曲のアンコールとして、映画音楽「馬あぶ」のロマンス。一服の清涼剤として、それほどタコ・ファンでなかった人々には貴重な1曲だったと思います。最後に、交響曲第10番第2楽章。これは意表をつかれました。ダスビの十八番でしょうか(10番が十八番と言うのも活字上は変だな)。とてもアンコールでやれる曲ではないと思っていました。突然、ビビビときました。しかし、タフだなぁ。そして駄目押し。再度「ボルト」のフィナーレ。タコ10の後にこれ、というのは考えましたね。スターリン独裁、ソビエト共産党支配への告発、といった真剣なメッセージと並べることで、「ボルト」の明るさ、楽しさ、健全さは際立っていました。ダスビ版フィナーレは遊び心一杯の、はめをはずした演奏でしたが、こんな遊びに耐え得るタコの曲はやっぱり最高です。ベートーヴェンやブラームスでこれやったら冷たい視線しか浴びないだろうな。

<5>長田先生のこと

 東海地区の大学オケ出身の私にとって、常任指揮者の長田先生は必ずしも遠い存在ではありません。かれこれ10年ほど前、愛知教育大学のオケでタコ5を振っていたのが先生でした。初めて、バーンスタインの解釈によるフィナーレを生で聴きました。このインパクトは一生忘れられないものです。さらに、愛知学院大学のオケでお世話になった人たちも私のオケに大勢いるようです。是非、いつか東海地区でも、ダスビの経験をもとにタコ旋風を巻き起こしていただけたらなァと考えている次第です。

<6>私的後書き

 当初は、豊橋停車の最終の新幹線(21:25)でその日の内に帰る予定だったが、予想外のアンコールで無理となり、急遽夜行バスで帰ることとなった。自宅には翌日午前5時半頃到着、あまり眠れなかったため再度仮眠。その後、昼からのオケの練習へ出かける。いつもは車で1時間半ほどかけて行っているが、大事をとって電車で行く。ダスビの打楽器セクションの勇姿もまだ記憶に新しく、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第3楽章最後のマエストーソのティンパニ一発を強打しては指揮者に怒られ、シュトラウスの「こうもり」序曲の最後の小太鼓のロール・ソロを乱打してはまた怒られる。「あぁ、ボクもダスビみたいに打楽器をたたきたいなぁ!」これが現実だ。

(1999.3.2 Ms)


 January ’99

1/24(日)  豊川市文化会館開館20周年記念事業 「カルミナ・ブラーナ」

 昨年4月より、私は愛知県東部の豊川市に住んでいます。豊川稲荷で有名な人口10万人程の都市です。偶然、文化会館のすぐそばに居を構えたこともあり、何かクラシック・コンサートはないかと期待していたのですが、とうとうやってくれました。まさか、「カルミナ」が聴けるとは。
 主催、合唱は、「豊川で第九を歌う会」。指揮は、佐藤功太郎氏。オケは、セントラル愛知交響楽団。佐藤氏は大学オケでお世話になり、セントラルは私が名古屋に住んでいた頃、常任の小松一彦氏に心酔し賛助会員だったオケということで懐かしさもひとしおでした。

 この催しを知るきっかけとなった、商工会議所の新聞には、カルミナラーナと紹介され、誰もこんな曲知らんのでは?と一抹の不安もあったのですが、客席はほぼ満席、一安心。
 さて、演奏はと言いますと、まず合唱が素晴らしかった。アマチュアでここまでのレベルに達したとは驚き。ましてここは名古屋のような大都市ではないのだから。特に男性の小合唱の皆さん良かったです。オケも、小編成のセントラルの健闘は称えられるべきでしょう。ただ、ティンパニのS川先生、大事なフルートとのデュエットでチューニングが少々外れていたのは惜しかったですね。あと、小曲の連鎖によるこの曲は、なるべくアタッカ出来る時は、つなげた方が良さそうです。緊張感がブツブツ途切れてしまったのも残念です。
 その他、気づいた点は、大曲を乗せるにはとても舞台が小さかったようです。第3部で登場する児童合唱のボクたちが狭い中、駆け上がってコケたのは、さておき、オケピット部分をせり上げてもまだ狭く、ピアノがほとんど花道に追いやられていた感じ。客席に近いピアノの音がかなり聞こえました。どんなCDもこんなにピアノを拾ってないです。逆にピアノが目立ったおかげで、この曲の持つ打楽器的な硬派なオーケストレーションが際立って、結果として打楽器奏者でもある私が妙に興奮してしまったのも事実です。
 大都市ではなく、地方都市でこのような催しがもっと増加することを今後も期待します。刈谷でも、どうですか?カルミナ。オケは是非、刈谷市民管弦楽団で。いやぁ、打楽器奏者なら誰でも憧れるよな、カルミナ。いいなぁ、いいなぁ、と心の中で連呼しつつ、演奏会終了後はそのままスーパーで食材を買って数分後に帰宅したのであった。 散歩ついでに肩肘張らずにホールに行けるのも良いものです。

(1999.2.9 Ms)


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