今月のトピックス

 

 March ’07

3/4(日) オーケストラ・ダスビダーニャ 第14回定期演奏会

 さて、4年ぶりの再会です。オーケストラ・ダスビダーニャ、第14回定演(2007.3.4)に行って参りました。もちろん、オール・ショスタコーヴィチのプログラムは不変です。
 まずは、最初から、これぞダスビ・サウンド(ああ、4年経っても変わらずにいてくれたのね)という超弩級な金管打の咆哮が炸裂する、映画音楽「ピロゴフ」からの組曲。そんな大音響の中にあって、弦楽器も負けてはいない。特にオケの中心、指揮者の目の前に陣取るヴィオラの、まるで「のだめ」の「R☆Sオケ」を彷彿とさせる天に突き刺さんばかりのハイポジション(音が高いという意味ではなく、楽器の位置が高い)・・・これには本心で声援を送った。本当に、バックの方々は容赦ない。でも頑張る弦楽器、この構図こそ、ソヴィエトにおけるショスタコそのものでないか。この姿こそ、ショスタコ・オケたる象徴、と私は感ずる。
 続く、ヴァイオリン協奏曲第1番。ソロは、荒井英治氏。モルゴーア・クァルテットの奏者としても、日本で最もショスタコーヴィチを弾き込んでいるヴァイオリニストだろう。鋭い音色が厳しい楽想にマッチして、第1、3楽章の緊張感も心を揺さぶり、特にカデンツァには魂を吸い取られるくらいに惹き込まれた。第2、4楽章は正直なところオーケストラの乱れもかなり気になるほどの速度で、綱渡りではあったものの、変な妥協的なヌルイ演奏よりは好感は持った。
 最後の、交響曲第15番。真夜中のおもちゃ屋たる第1楽章は、楽しさにあふれる。次々と聞き手を楽しませる仕掛けに事欠かない。それが一転、第2楽章は、寡黙で深刻な葬送。チェロのソロのむせび泣きには大いに感銘を受ける。そして、鬼気迫る大クライマックスの後に待ち受ける、弦楽器による血の気の引いたコラールの恐さ・・・背筋が寒くなるほどの感動が襲う。今回最も注目していたフィナーレ最後の打楽器合奏も、私にとっては、「死へのカウントダウン」・・・生気の失せたリズムの表情が印象深く心に刻まれました。

 といった感じでまずは速報。もう少し詳細をおって、またトピックスとして触れてゆこうと思います。また、ダスビの事務の方にはチケットの件でいろいろお世話になりました。素晴らしい演奏会に良い席もご用意頂いて感謝しております。ありがとうございました。

 まずは速報。(2007.3.6 Ms)

 <1> 映画音楽「ピロゴフ」(先駆者の道)による組曲

 ノーマークだった。
 第2次大戦後、冷戦の始まりとともにソヴィエト内での芸術に対する統制が厳しくなり、1948年のジダーノフ批判から、ショスタコーヴィチの作品表には、一連の体制讃美的作品がズラリと並ぶわけで(その頂点が「森の歌」であり「ベルリン陥落」だろう。両者とも露骨なスターリン讃美の内容を持つ)、その中の一角を成す「ピゴロフ」は自分の中でも全く無視していた作品。ダスビの選曲が公開された後も、我が家にはCDが無いものと思い込み、「でも、わざわざCDを事前入手のうえ、予習して行くほどの難曲でもあるまい」と思っていた。しかし、半月ほど前、上京が可能と判断するに至り、もう一度CDをざっと探したら、ありました。マキシム・ショスタコーヴィチ指揮による、バレエ、映画音楽の特集・・・映画音楽「ゾーヤ」の、血が吹き出るような爆演(昨年刊行された工藤さんの「全作品解説」でも、まさに爆演と形容されていた・・・ショスタコーヴィチを語る上で、この音楽・この演奏の激烈な表現は避けて通れない)の影に隠れて、全く記憶に無かったのだ。
 そして、一度「ピロゴフ」を聴いてみたのだが、まあ、こんなものか、と。特段の積極的な感想も持たず、(このジダーノフ批判に絡む一連の映画音楽の中では、「ベルリン陥落」及び「ミチューリン」について、かつて映像とのコラボレートをテーマとしたコンサートで鑑賞し、強烈な印象を受けている。それに比較して可もなく不可もなく、という感じ)そのまま本番に臨むが、やはり、邪心なく、正々堂々、作品と対峙すれば、いろいろと思うところ、発見はゾクゾク出てくる。これが、コンサートの醍醐味でもある。心ある、楽譜の忠実な再現たらんとする誠意に満ちた演奏を、真剣な眼差し、志で受けとめれば、作曲家の思いは聞き手に届くだろう。日々の雑事にまぎれつつ、ながらで聞き流せば、それに気付くのは困難だ。
 さて、それらをまずまとめて置こう。

 一応、基本情報としては、「ピロゴフ」は、19世紀半ばのクリミア戦争(確かナイチンゲールが活躍したんだっけ)に従軍した医師。全身麻酔の技術を応用し、野戦病院で多大な貢献をした・・・と解説にあります。ロシアの過去の偉人を称えた映画ということでしょう。「ミチューリン」も同様な性格の映画だったっけ。
 ちなみに、日本公開時の映画のタイトルが「先駆者の道」であるそうな。

 さて、組曲は5曲から成る。
 第1曲「序奏」。どこからか、ラッパのファンファーレが聞こえる。1本のラッパが戦場という舞台を設定する役割を担っているようだ。音型としては3連符を用いた、ふと、交響曲第11番冒頭の雰囲気を思わせるもので、後年の映画音楽「リア王」における半音階的を多用した複雑なものとは違い、分散和音的な音の運びを持つ素朴なものだ。人気のない、淋しさが漂う。
 続いて低音金管による和音がほのかな明るさを灯す。しかし、曲想は、次第に悲劇的な様相を帯び、宿命的な鐘の音、そして悲劇的な嵐が襲い来る。そこに響くのは、「怒りの日(ディエス・イレエ)」ではないか?Es−D−Es−C・・・幻想交響曲の第5楽章や、ラフマニノフ交響曲第1番、「死の島」、交響的舞曲等でもお馴染みな、グレゴリオ聖歌における「死」の象徴である。ショスタコーヴィチにおいても、交響曲第14番「死者の歌」の冒頭にも掲げられるなど使用例は豊富である(歌劇「マクベス夫人」でも死体発見直後の間奏曲は、このディエス・イレエがギャロップに乗って聞こえてくる。さらに、詳細はこちらも・・・ショスタコーヴィチのコールサイン)。
 また、その弦の重く暗い楽想に、ミュート付きトランペットも参戦し、弦のピチカートと共に和音を響かせる箇所がある。これは、交響曲第8番第1楽章提示部の第1主題部の後半でも聴かれるオーケストレーション。この響きにも、私は、第2次大戦中に書かれた第8番を介して、戦争や死を想起するのだが、どうだろう。
 「序奏」においては、戦場、そして死のイメージが端的に示されている、と感じられ、テンションの高い曲想も印象的である。

 第2曲「情景」。さらなるテンションの高まり。弦による分散和音的音型に低音金管楽器のドスの効いた一撃が次々と打ち込まれる・・・そう、交響曲第8番第3楽章類似の発想。これまた、戦争のイメージが喚起される。殺戮の機械だろうか。ここに、木琴や鉄琴が華々しく絡んで、硬質な音響が非人間的な無情さをも醸し出す。

 第3曲「ワルツ」。一転して、可憐なヴァイオリン・ソロそして、暖かいクラリネットのハーモニーが、通俗的なワルツを歌い始める。テーマのフレーズの最後が、初期の劇音楽「人間喜劇」のワルツ的楽想に似た雰囲気を持つ。そして、中間部において高揚する中に、ピアノ曲集「人形の踊り」の第1曲のワルツの中間部が顔を出す(初出は、これまた初期のバレエ「明るい小川」のワルツ。キツツキのような同音連打を特徴とする。)。ヘミオラ的リズム(3拍子の音楽に、2拍ごとにグループ化された音型が混じる)は、遠くチャイコフスキーのワルツを想起させたりもする。フレーズの最後のテンポの緩みが何度も現われながら、ロマン主義風(20世紀ではなく19世紀の雰囲気)な面持ちが強調される。

 第4曲「スケルツォ」。弦楽器の無窮動。焦燥感に満ちたせわしなさ。前曲の「ワルツ」が一時の平穏に過ぎなかったようだ。第1、2曲と同質な厳しさが回帰する。

 第5曲「フィナーレ」。重く苦しいムードに終始する。弦楽器の同音連打が続く弱奏の動きがピーンと張り詰めた緊張感を保持する。その細かな動きが増殖するに従い、金管楽器がコラール的な息の長い楽想をスケールも大きく発展させつつ、交響曲第7番第4楽章のアレグロ部分の後半で現われる急速な同音を連ねる3連符のトランペット・小太鼓がクライマックスを煽動し、最後の最後で長調の和音へとかろうじて行き着く。

 とまあ、私なりに音楽のざっとの流れを、印象的な箇所を追いながら見て来たが、随分と、他の自作との共通的な素材がふんだんに活用されているようだ。引用、というよりは、借用、といったところか。ショスタコーヴィチ自身、バレエ「明るい小川」にせよ初期の劇音楽等においても旧作転用をかなりやっているし、一過性の映画音楽ならなおのこと、こういった一種手抜きも行っているだろう。
 しかし、それにしても、全体的に、あまりに暗くないか(「ベルリン陥落」や「ミチューリン」の、特に最後の大団円とはあまりに異質な世界だ)。第1曲でも象徴的に示されるように、戦争と死を色濃く音楽に反映させているようだ。当時(1947年公開)の聞き手にしてみれば、戦争交響曲たる第7、8番の中の一部の雰囲気が持ち込まれることで、(第7、8番を知る者には)、音楽そのものによって、より、戦争の悲惨な体験を想起させるだろう。クリミア戦争という過去の歴史的な出来事が、他人事ではない切実なものとして迫るだろう。

 さて、そこで、今まで見て来た様々な素材のなかで私が注目するのは、序奏で示された、「怒りの日」。露骨に、最初の4音が一致。しかし、その続きも考慮するなら、「Es−D−Es−C−H」と旋律は動く。まさしく、「レミドシ」、「DSCH」が登場。ショスタコーヴィチの署名である。これは、単なる偶然か?それとも意識的なものか?
 ・・・これを裏付ける証拠は、もちろん持ちあわせていない。しかし、ここでもう一度、あらためて作品表を見ておきたい。「曲解」を始めましょうか。

(2007.3.14 Ms)
(2007.3.21 Ms補筆) 

作品名 作品番号 作曲時期 初演(映画公開)年月日
映画音楽「ピロゴフ」 76 1947 1947.12.16

 「ジダーノフ批判」  1948年1〜4月

映画音楽「若き親衛隊」 75 1948 1948.10.11
映画音楽「ミチューリン」 78 1948 1949.1.1
映画音楽「エルベ河での出会い」 80 1948 1949.3.16
オラトリオ「森の歌」 81 1949 1949.11.15
映画音楽「ベルリン陥落」 82 1949 1950.1.21

 ジダーノフ批判によって、体制側の御用作曲家の道をまっしぐらに突き進んだように見えるショスタコーヴィチではあるが、「ピロゴフ」をめぐって詳しく見るなら、これは批判前の作品であって、やはり、「ミチューリン」「ベルリン陥落」等とは単純に同列に並べられないと私は考えるのだ。もちろん、1945年の終戦後、体制よりの作品もいくつか存在するが(「勝利の春」作品72、「祖国の詩」作品74・・・ただし私は未聴)、一方、体制讃美の色彩の乏しい、交響曲第9番、弦楽四重奏曲第3番も作曲、初演され、自由な作曲活動もまだ行われていたと言える。
 それが、ジダーノフ批判以降は一変し、これらの体制讃美的作品はスターリンの死(1953年)まで続き、ヴァイオリン協奏曲第1番、「ユダヤの民族詩」、弦楽四重奏曲第4、5番は、スターリン死後にようやく初演されたのは周知のとおり。

 この流れの中での、「ピロゴフ」における、「怒りの日」「DSCH」を聞き取る時、ショスタコーヴィチのこの時期のもう一つの作品系列にこそ、この「ピロゴフ」を位置付けたくなる。

作品名 作品番号 作曲時期 初演(映画公開)年月日
ヴァイオリン・ソナタ(未完) なし 1945.6.26〜  
映画音楽「ピロゴフ」 76 1947 1947.12.16

 「ジダーノフ批判」  1948年1〜4月

ヴァイオリン協奏曲第1番 77 1947夏〜1948.3.24 1955.10.29
ラヨーク なし 1948〜1968  
弦楽四重奏曲第5番 92 1952.9〜11月 1953.11.13
交響曲第10番 93 1953.6月〜10.25 1953.12.17
弦楽四重奏曲第8番 110 1960.7.12〜14 1960.10.2

※以上、表の作成には、工藤庸介氏著「ショスタコーヴィチ全作品解説」及び、千葉潤氏著「作曲家 人と作品シリーズ ショスタコーヴィチ」を参照させていただきました。

 ここに掲げた作品群は、もちろん、DSCH音型に関係深いものばかりである。
 最後の弦楽四重奏曲第8番は、全楽章を統一する主題そのものが、「DSCH」であり、ここに、DSCH音型が完全に作品の主役となり、自伝的な意味を明白にさせているが、この作品に到達するまでに至る過程として様々なDSCH音型のヴァリエーションが見られる。
 交響曲第10番においても、第3楽章第2主題より以降、フィナーレのコーダにかけてDSCH音型が十分に活用されている。しかし、その前段階として、第1楽章冒頭に「E-Fis-G-Dis」、第3楽章冒頭に「C-D-Es-H」という、DSCH音型を並び替えた音型が主要主題として配置され、展開されている。
 同様に、弦楽四重奏曲第5番も冒頭に「C-D-Es-H」という音型が提示される。
 ヴァイオリン協奏曲第1番は、第2楽章コーダ及び第3楽章カデンツァに、移高されたDSCH音型、すなわち各々「As-A-Ges-F」「Cis-D-H-B」が一瞬登場する。そして第2楽章の冒頭は、やはり、DSCH音型の並び替えである「B-C-Des-A」が主題として用いられている。
 さらに詳細は不明だが、交響曲第9番作曲中に手掛けられた、未完のヴァイオリン・ソナタは、「4分の3拍子のモデラート・コン・モート」「交響曲第10番第1楽章の冒頭に類似」と、前述千葉氏著作P107にある。・・・ということは、「E-Fis-G-Dis」類似の音型が存在しているということか?
 もっと言えば、この交響曲第10番は、ジダーノフ批判以前から構想されていたとの推測もあるようだ(1947年6月6日付けの手紙、1951年頃の、ピアニスト、ニコラーエヴァの回想・・・前述千葉著作P125以降)。

 これらの状況証拠から、ショスタコーヴィチは、1945年の終戦以降、何かにつけDSCH音型を作品に活用しようと指向錯誤を重ねていたように思われる。その指向錯誤の結果として、スターリン死後の交響曲第10番は生まれ、ついには、死を覚悟しての弦楽四重奏曲第8番へと結実してゆく。しかし、それらの大作を生み出す過程で、様々な姉妹作が存在していることにも十分留意する必要はあろう。

 ・・・余談ながら、私には、この過程が、まるで、ベートーヴェン交響曲第5番の作曲中(1804〜8年)、「運命」動機にあらゆる可能性を見出そうとするなかで、「熱情」ソナタピアノ協奏曲第4番が産み落とされてゆく姿を想起させる(両曲とも冒頭で、「運命」動機は交響曲第5番とは違う様相で鳴り響く。さらには、ヴァイオリン協奏曲も、第1楽章に同音連打の動機を展開させており、「運命」との近親性を感じさせる)。


 1945年以降、ショスタコーヴィチは、折にふれ「DSCH」音型を作品に投影させることとなるが(決して一瞬ではなく主要な主題としてである)、その一連の作品群のなかで最初に発表された作品として、この「ピロゴフ」は位置付けられないのだろうか? これが、今回の、ダスビの演奏に啓発された、私の曲解、である。

 ちなみに「ピゴロフ」に見られる、「怒りの日」と「DSCH」の結合は、一連の「DSCH」連作の到達点にあたる、弦楽四重奏曲第8番第4楽章の最後にも聞く事が出来る。
 すなわち、第3楽章の最後でまず、「怒りの日」が「H-Ais-H-Gis-Ais」と歌われ、続く第4楽章でも、第3楽章最後のAisの音から「Ais‐A-Ais-G‐Gis」と再度「怒りの日」を認識させる。そして、第4楽章の最後で、「怒りの日」はもう1度再確認され(「Dis(Es)-D-Es-C」)、その音の並びの最後3つをさらに繰り返し(「D-Es-C」)、それが結果として、「DSCH」音型となって、第5楽章を開始し、第1楽章冒頭と同様の「DSCH」音型のフーガが帰ってくるわけだ。

 この、「怒りの日」と「DSCH」の結合こそ、「ピロゴフ」序奏の重要なテーマとなっているのではないか。
 それを雄弁に語っていたかのように、ダスビの演奏は私に迫って来ていた。適当な、体制べったりのやっつけ仕事では決してない、ショスタコーヴィチの永年にわたる指向錯誤・こだわり・執念のようなものをも感じた。「死」と隣あわせのDSCH、ショスタコーヴィチ自身・・・。
 また、この作品の後に、まさにヴァイオリン協奏曲第1番が配置され、DSCH音型のヴァリエーションを明確に感じさせてくれたのも私にとっては嬉しいことだった。演奏会冒頭に置かれた「ピロゴフ」の序奏1曲だけでも、今回の演奏会、十二分にショスタコーヴィチ音楽の神髄を堪能した!!!とでも言いたくなってしまうほどだった。

 (追記)ちょうど、この演奏会の後、BSにて、サンクト・ペテルグルク・フィルの「森の歌」を聴く機会を得たが、どうにも生ぬるい、精気に欠ける演奏ではなかったか?かつての、ソヴィエト時代の演奏に(メロディア・レコードで)堪能してきた身にとっては、隔世の感あり。それを思い起こしつつ、ああ失われたソヴィエトの響きがダスビにはあるなあ、と感慨もひとしお。容赦無い音圧、時にヒステリックですらあるテンションの高さ。ショスタコーヴィチの音、を現実の(機械を通さない)空気の振動として、私たちの耳にそして心に届けてくれる、貴重な団体として今後も応援してゆきたいものだ。
 その象徴的なヒトコマとして、最初に掲げた全体の感想でも触れた、「ピロゴフ」第2曲における、ヴィオラの雄姿を再度強調しておこう。

(2007.3.19 Ms)
(2007.3.21 Ms 補筆)

 <2>ヴァイオリン協奏曲第1番

 これは、もはや、20世紀を代表するヴァイオリン協奏曲の名作といっていいまでに、その地位を確立した存在だ。有名ソリスト・有名楽団もこぞって取りあげ、私も数々の名演に実際に出あってきた。そんな中での今回の演奏は、ソリスト、荒井英治氏の鬼気迫る、鋭く、集中度の高いパフォーマンスにこそ大いなる価値を見出した。カデンツァの感動は今なお私を揺さぶる。カデンツァの前半は、「静」である。抑制された表現(あまりテンポを動かさない超然たる雰囲気が、ショスタコーヴィチ自身の忍耐強さの象徴とも受け取った)のなかに、エネルギーを蓄え、そして、カデンツァ後半に未けて、徐々に蓄えられたエネルギーが発散の場所を少しづつ見つけながら最後は雪崩のようにフィナーレへと突き進む。「静」から「動」へと計算された構成が、一分の隙もなく聞き手を演奏に取り込んでしまう。
 まさに「風林火山」であった。ここぞというところでこそ、一気に聞き手の心を侵略する戦術的な演奏に、私は完敗である。

 ソリスト・アンコールは、今回始めて聴かせていただいたが、映画音楽「馬あぶ」の「ノクターン」をソロ用にアレンジしたもの。心に染み入る、美感あふれるものだった。

 <3>交響曲第15番

 今回のメイン・プログラムは、アマチュアが取りあげるにはかなりの困難が伴うであろう、各楽器の独奏を中心に音楽が運ばれてゆく、ショスタコーヴィチ版「管弦楽の為の協奏曲」たる、第15番の交響曲だ。これを聴かせるのは、ダスビにとってもハードルが高かったと推測する。フィナーレにおいて、やや集中力を欠いてしまったような、アンサンブルの致命的なズレが生じたのは大変残念だったが、特に前半第1、2楽章及びフィナーレのコーダ等々における数々の、冴え・光を感じさせる部分に、当方もとにかく音楽の楽しさ・深さを感じさせてくれ、おおいなる満足を得た。

 第1楽章から、おや、と思わせる響きから始まった。まるで、ニールセンの同じく最後の交響曲のスケルツァンドな第1楽章と同様な発想で、高音の鉄琴の澄んだ音響が耳に届く。通常耳にする音よりオクターヴ高いのではないか。通常使用される鉄琴はドの音が最高音だが、その3度上のミの音までカバーしている楽器を用意したのだろうか? 要所で、この高い音域の音が耳に届くたび、聴き慣れない音として感じられた。私には、音が高すぎて本来の音高とは違う倍音の力が強く、音程不定な金属音、として認識してしまっていたがどうだろう? 会場の場所による要因もあるかもしれない。特別な楽器を用いての、こだわりの鉄琴パフォーマンスであったのなら、その意識を高く買いたい、が、音程の確かさ、はもう少し研究の余地はあったやもしれない・・・。でも、アマチュアの、一生に一度に賭ける作品への思い、というものを想像するに、聴く側としてはその姿勢こそ、嬉しいものである。その態度の積み重ねが、共感、好感を生んでゆく。

 とにかく、楽しい。ショスタコーヴィチ自身が語ったという、「夜中の玩具屋」である。笛・ラッパ・太鼓と、それこそ、モーツァルト父の「おもちゃのシンフォニー」のサウンドを20世紀のフル・オーケストラに置き換えたような愉悦に満ちた演奏だ。
 ただ、個人的な感想としては、このダスビの玩具屋には、水鉄砲ではなく、ライフル銃が、ミニカーではなく戦車が陳列してあったようだ。

 私にとっての、この15番の原体験は、高校時代、過疎地域に育った私が、標高差は100m、距離にして片道約40Km離れたレコード店へ自転車で出掛け(普段は1時間かけて国鉄に乗って行くが、若さゆえ、一度自力での走破を試みた。無謀であった。)、15番のレコード(コンドラシン指揮しか当時店頭になかった)を購入、さすがに疲れ果て、帰宅してからレコードを聴きながら、不覚にもスヤスヤ眠りこけた、という思い出。
 私にとっては、この眠たさが(まさに「夜」のムード)、全曲に漂うのだ(そういう意味で、ザンデルリンクの演奏にかなり共感を持つ)。

 さらに実際に生の演奏を体験したのが、大学時代(もう20年も前になりますか)、名古屋フィル、外山雄三氏の演奏。第1楽章は極力、力の抜けた、軽いあっさりしたもの。それが、第2楽章後半のクライマックスで初めて、フル・オーケストラの威力が爆発し、個人ではどうにもならない、時代の力、政治体制の権力、強制された死・・・もろもろの恐さが、この作品中で始めて強大なパワーを持って押し寄せる様に身震いをしたものだ。

 ・・・という原体験を持つ私にとっては、何やら薄暗い真夜中の密閉された空間としての玩具屋で、こそこそオモチャがうごめくイメージがつきまとい、逆に今回の演奏は、野外での軍事演習をも思わせる、大人のオモチャ(語弊があるな)・・・いや、政治家のオモチャのような第1楽章だったなあ、というのが素直な感想。これが、気に入らない、という訳ではもちろんない。ダスビ版の玩具屋、確かにこういう演奏になるよなあ、と楽しく軍事演習を観覧した次第だ。特に、笛・ラッパ・太鼓部隊の隊員の活躍は着実に与えられた任務を遂行しており、信頼に足るものだった。
 そんななか、「ピロゴフ」でも優しいソロを披露したヴァイオリン、コンサートミストレスによる、第1主題の再現の表現が、意表を突くような、ロマンティックな感覚で(ロングトーンに麗らかなヴィブラートが強調されていたからか?)、ハッとさせられた。今まで男のオモチャばかりがうごめいていた様相を想像していたが、かわいいお人形さんも、この玩具屋にはいたのだ、と。このヴァイオリン・ソロの箇所に一瞬、この楽章の中で唯一違う光を発する姿を見た(聴いた)。それがとても印象に残った。

 第2楽章。冒頭のチェロ独奏の、まるでショスタコーヴィチ自身の独白を思わせる、深刻な訴えが心を突き動かす。高音に演奏の苦しさは感じるが、そもそも軽々と雄弁に歌うソロでもあるまい。マーラーの第1番のコントラバス・ソロにも通じるような、苦しさこそ表現しなければウソだろう。このチェロには、虐げられた者の魂の叫びが宿っていたと思う。
 そして、後半の、壮絶な、体が引き裂かれるような、悲痛なクライマックス。これぞ、ダスビのショスタコーヴィチだ。ソヴィエトの響きだ。この金管打の炸裂あってこそ、続く氷つくような弦楽器の寒々したコラールが、悲しくも美しく流れ、背筋がゾクゾクするような感動を誘う。チェレスタとヴィブラフォーンの寡黙な音の羅列もまた良し。

 第3楽章。シニカルなスケルツォ。夜的雰囲気はこの楽章も継続。白けたムードがなんとも言えない。あえて一箇所ふれたいのは、再現部におけるミュート付きトランペット。まるで「笑点」のテーマのようなコミカルさ。素直に笑った。ここで私が笑ったのは、楽曲の展開上、けして間違いじゃあなかろう。なんだか、ここで笑ったことがしっくりくる。それも乾いた笑い。この箇所で、ショスタコーヴィチとサシで会話したような感慨を持った。

 第4楽章。なかなか難しいフィナーレだ。アレグレットの主要主題は、個人的にはもっと脱力感あふれる雰囲気で聴きたかった。が、どうも、意外に推進力をもって演奏するパターンも多いようで、今回4回目の生演奏体験となるが、毎回、この部分は速い。確かに、ショスタコーヴィチの愛好する速度表示、アレグレット・・・やや速い・・・この「やや」の捉え方は難しいなあ。
 さて、この楽章の聴きどころは、何と言っても、最後の打楽器合奏である。寡黙な弦楽器の和音の持続に乗って、無機的なリズムが刻まれる。木製打楽器によるリズムの精気を失った淡々とした正確な16分音符の流れは、さすが、というしかない(金属系打楽器の方は、チェレスタが弱く、トライアングルが目立つために、やや淡々としていないニュアンスが伝わっていたのは残念)。理想の演奏だ。プロでもなかなかここまで精緻に演奏できない。場合によっては、あわせよう、という意識が高まって、生き生きしたアンサンブル、存在を誇示するようなアンサンブルを聴かせられることもままあり、それは違う、と思う。とにかく、淡々とした、容赦無い時間の経過を表現している、と私は感じている。最初に述べたように、「死へのカウントダウン」を思う。

 そう、今回、4年ぶりのダスビ鑑賞となったのだが、その間に、私の父が、脳の病で、体の自由を失い、言葉を失い(でも一時期、顔をあわせるだけで涙を流し続け、心の動き・感情だけは最後に残っていたようだ)、そして、ほどなくその感情をも失い、まるで生きる屍となってかろうじて生を保つ日々を暮らし、最後は突然息を失った。
 その、時の流れの無情さを思い起こす時、「死」を表現する音楽として、例えば、チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」のあの感動的な幕切れは、とうてい信じ難い。同じ作家の「悲愴」の終結には賛同を示し得るが。この「死」の音楽化に際する美化への反対姿勢をショスタコーヴィチは語っており、まさにその発言をこの作曲で証明したように感ずる。
 親の死を経て、つまりは、次はいつになるかは別としても、次は自分の番である。カウントダウンは始まっている。そんなことをふと思う時、時の流れの無情さをこれ以上に的確に表現した音楽はあるまい。その無情さ、そしてショスタコーヴィチの思いは、確かにこの打楽器群の高度に組織された音の中に見事表現されていた、と感じた。

(2007.3.21 Ms)

 さて、今回、パンフレットに挟まれたアンケートに、演奏会の感想を川柳なり狂歌で、という項目があり、面白い趣向ゆえ、ちょっと考えて、下記のように提出してきた次第。

 泣き笑い 時の流れとともに消え

 まさに、15番の最後に、こういう感慨を持つのだ。まさに、「泣き」と「笑い」に満ちた交響曲が、あのように閉じられる時、人生そのものをこの作品に強く感じてしまう。私にとっても大事な作品である。・・・ただ、これは私にとっての個人的な感想にすぎないけれど。
 
 さて、それに関連して、このダスビの重量級パンフレット(とにかく読み応え十分)を読みつつ興味深かった点を一つ。
 前回の演奏会のパンフレットを拝見。交響曲第8番の解説が、「バッハへの回帰」というテーマで書かれ、冒頭の荘重な付点リズムから、バロックの「フランス風序曲」の雰囲気を見出していることにその根拠を置いている。
 ただし、他の解説を紐解けば、5楽章制がマーラーに特徴的であることから、マーラー風とも言われるし、また、私が今書いている、ベートーヴェンの「運命」交響曲を中心とした分析からこの作品を見れば、各楽章に共通する素材を用いて主要主題を作っている点などを考慮すれば、この第8番はショスタコーヴィチとしては、初めての徹底した「ベートーヴェン的」交響曲と言いたくなる(「暗黒から光明へ」という性格よりは、2度音程を使用した動機を各楽章に散りばめたという緻密さに着目しての話。ここまで各楽章を同一動機で統一した交響曲は、ショスタコーヴィチとしては初めてであり、その発想は、第9番、第10番へと受け継がれる。)
 ・・・等々、視点を変えれば、様々に形容できてしまう。特に、ショスタコーヴィチは、様々な先輩作曲家からの影響を受けながら作品を構成させているわけで、有名な第5番にしても、ベートーヴェン的であり、また、マーラー的であり、さらには、バッハ(バロック音楽)からの影響など、数えたらきりが無い(まさに、その検証をこちらで細かにやってます)。そういった多面的な様相こそ、ショスタコーヴィチがソヴィエトという困難な国家・時代を生き抜く上で身につけたものではなかろうか。いろいろな解釈が可能であればこそ、自らの芸術家としての良心と体制迎合のバランスが一見にしては見破られない仕掛けを持つわけで、そんな「多面」を、一つでも多く見つけることこそ、私が興味関心を寄せることなのだ。

 そういう意味でも、今回は、「ピロゴフ」再発見も大きな収穫であり、15番の深い感動も含め、良い演奏会でした。 
 毎回、素晴らしい演奏を聴かせてくれるオーケストラ・ダスビダーニャさんにあらためて感謝の念を伝えたい。

 さて、一ファンとして最後に一言。ほぼ、これで交響曲も取りあげて、再演も増えてくるのかもしれない。しかし、個人的には、もっともっと演奏されざる作品を、果敢に攻めの姿勢で選曲されることを強く望みたい。
 今回のように、映画音楽にもすばらしいものは多々あり、「ベルリン陥落」や「ミチューリン」といった体制側といわれる作品も、駄作なのか違うのか、現実に演奏を通じて判断をしたいものです(「ミチューリン」の美しさは私は評価したい)。
 そして何よりも、野心に満ちた最初の映画音楽「新バビロン」の全曲(1時間半という連続した演奏時間を要する彼最長の管弦楽作品)などは、メインプログラムにも相応しく、また生誕100年を越えたショスタコーヴィチの評価にとって避けることの出来ない重要作と考えています(ロジェストヴェンスキーによる抜粋版は、コミカルな面が強調されているきらいがある。全曲版こそ、史上初の労働者政権パリ・コミューンの悲劇を切々と訴える核心を備えた傑作と私は堅く信じる。映画を見ながらの生演奏体験も素晴らしかった。もっと知られなければならぬ、ショスタコーヴィチの大傑作の一つだ。)。
 他にも、晩年の「ハムレット」の重厚さ、弦楽四重奏曲第8番と同時期の「五日五晩」(ベートーヴェンの「第九」の大袈裟な登場が面白い)等々、リクエストしたい作品は数多くあります。
 また声楽作品こそ、彼にとっての重要な分野で日本において未開拓な領域であり、そちら方面での英断も強く望みたいもの。
 合唱を伴う「森の歌」「我が祖国に太陽は輝く」あたりはまず、避けられないところだろうが、特にバス独唱のものこそもっと聴かれてしかるべきものろ考えています。最後の管弦楽を使用した作品たる「ミケランジェロ組曲」、交響曲第5番の解説で常に触れられながらも実際に演奏会で取りあげられることも皆無な「プーシキンによるロマンス」など、待っています。
 また、困難とは思いつつ、ムソルグスキーの歌劇の編曲版(「ボリス・ゴドノフ」「ホバンシチナ」)も全曲聴けたら本望。
 さらに、動物たちの繰り広げるミニ・オペラ「愚かな子ネズミ」も、ショスタコーヴィチ版「ピーターと狼」のような子供向けの優しい眼差しを感じさせる佳曲で聴いておきたいもの(オケ編曲では、動物たちのユニークな歌が生かされないようだ。是非とも原曲で。アニメ映画を見た感想も参考に)。

 等々あげてゆけば、私にとって、ダスビなるオケは、今後、交響曲の再演をしてゆく保守派であってほしくはなく(ショスタコーヴィチを演奏し続ける、ということが保守的ではないにせよ、まだ無尽蔵に名曲が眠っているのですから・・・)、あくまで日本アマオケ界、いや、日本のクラシック音楽界の前衛をゆく存在であり続けていただくに充分、と期待も膨らんでくるのです・・・。

 以上、好き放題書いてしまいましたが、日本に新たなショスタコーヴィチ像を紹介するためにも、さらなる積極的な展開をダスビに期待しつつ、今年の再会の記録は、この辺で。

(2007.3.24 Ms)

 February ’07

2/20(土) 愛知県立芸術大学 弦楽器学生による室内楽の夕べ

 名古屋市伏見 電気文化会館にて。
 このところ、意識して、地元の芸大生の活躍など注視しているところ。県芸、やはり東京のレベルと比較すれば、ん、と思うところもあれど、なかなかにあなどれない。昨年末の弦楽合奏のコンサートなど、かなり良いものだった。弦楽器のレベルが他の分野に比べ好ましく思われ、この度、またも、弦楽器絡みのコンサートを選んだ。

 ブラームスの弦楽四重奏曲第1番ハ短調から、第2,4楽章。それぞれの楽章の冒頭の主題が、同じ発想で書かれているのが一目瞭然となった。抜粋というのは、原曲(全曲)とは違う印象を持ってしまうことがあるが、今回は如実に、楽章間の連関性をあばいてくれた。さて、
 ロマンツェたる第2楽章、シューマンに比べなんと貧しい音楽か。優しげな表情はあるが、人間の顔が見えないような音楽。苦手だ。しかし、第4楽章に至る経過としては適切な雰囲気と動機を持っている・・・などと分析的に感想を書いてしまえるのがブラームスの典型的な音楽ということか。第4楽章の激しさは好印象。テンションの高い4人のやりとりが興奮を誘う。3年生のグループ。

 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第8番ホ短調。ラズモフスキー第2番とされるもの。ベートーヴェンのホ短調、というのが珍しい。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、チャイコフスキーの5番、ブラームスの4番・・・と憂いもあらわに、切実な泣き節を提供してくれる調性というイメージがある。ベートーヴェンには不向きか、と。やはり、切ない歌はあまり感じないものの、とにかくもベートーヴェンらしい意思の強さがみなぎる作品。
 2発の和音打撃で開始。そして3拍子、さらに長大な演奏時間、と「エロイカ」を室内楽化しようとしたのか?しかし、断片的な主題提示、休符も多く、緊張感をプンプン漂わせる。弱奏からのヘミオラのリズムによる長いクレシェンドなども、息を飲むような瞬間があった。中間楽章の印象は薄い。ただ、第3楽章中間部の朗らかなヴィオラのテーマは面白味あるもの。A−B−A−B−Aという形式感は、ベートーヴェンの交響曲にまま見られるもの(4,6,7番・・・・5番も実はそうではないかという説もありますね)。しかし、弦楽四重奏でこれをやると、やや変化に乏しく冗長な気もする。しかし、ロシアのテーマを要所に組み込んだこのラズモフスキー・セット、この中間部主題も後日楽譜を見たら、ロシアの主題とのこと、強調すべき理由はあったのだろう。
 さて、ユニークさを誇るのはフィナーレか。ハ長調。なぜだ・・・一瞬、マーラーの交響曲第7番を想起する。ホ短調の作品にハ長調のフィナーレ。馬が駆けてゆくようなリズムにのって、E−D−C−A−G・・・と五音音階を降りてくる。主題が出るたび、サークルKのCM、「チビ太のおでん」を思い出す。しかし、仕掛けがあって、このハ長調主題のフレーズの最後は、実はホ短調(確かに、EDCAGという音列は、ハ長調でもホ短調でも利用できるわけだ。)。聞く印象は、ハ長調が主だが、ちゃんと主調たるホ短調がしっかり刻印されており、そのホ短調の部分が最後のコーダで拡大して、ホ短調で締めくくられる。何かしら楽天的なムードが強いフィナーレが、あれよというまに短調に吸い込まれてゆくさまが面白い効果。ベートーヴェンのホ短調、独壇場だ。後輩たちが、泣きの旋律をどんどん盛り込んでゆくのに対し、なんと理詰めな音楽か。とても気に入った(フィナーレが)。
 演奏の方は、ブラームスの団体に比べ、やや落ち着き気味。こういう激しい内容をもつ作品だからこそ、もう少し尖った主張が伝わってきてもよかったか。4年生の団体。全員女性という辺に、ベートーヴェンの男気不足の要因はあったかどうか?

 休憩をはさみ、シューベルトの「死と乙女」第1、2楽章。これは素晴らしい。とにかく、情熱あふれる、心に強烈に突き刺さるような演奏であった。全曲を聴きたかったと切に思う。3,4年生の混成。特記しておきたいのは、チェロの長谷川彰子さん。実は、ブラームスでも選抜されていた。チェロの存在感がとても雄弁で、彼女が旋律なり、対旋律で目立つ役回りになるだけで、音楽にさらなる命が吹きこまれるようだった。そう言えば、ブラームスの最後のあたりでも、最低音のドを延々鳴らしながら流れる旋律を演じる個所があったが、そのオルガンのような圧倒的な効果はかなり良い感じだった。「死と乙女」でも特に、歌う場面(第2楽章)での活躍ぶりには目をみはる。1年前の4月のチャリティコンサートでも無伴奏を披露してくれていた方。随分と成長したようにお見受けした。

 最後に、ドビュッシーの弦楽四重奏曲。4年生の団体で、4人として様々なキャリアも積んできたようで、もっとも安定感ある演奏を聴かせてくれた。さらに、今までのドイツものと違い、様々なムードを、多種多様な引き出しから披露するようで、聴いていて全くあきのこない演奏だった。4人のバランス、音量のみならず、技術力・感性といったものまで上手くつりあっていたのではないか。
 これだけの団体が、卒業を期に解散、というのは惜しい・・・。もっと聴かせて欲しかった。しかし、ま、これが学生の定め。今後、もっと、こういう演奏に巡りあいたいもの。
 やはり、県芸の弦セクション、良いではないですか。外山雄三氏によるタクトでのフル・オケになるとどうも、萎縮したような不安定さを感じ取ってしまうこともかつてあったのだが、弦楽合奏といい、弦楽四重奏といい、このところ調子が良い。またの機会も楽しみに待とう。

(2007.3.31 Ms)

 January ’07

1/20(土) 東京都交響楽団 ティータイムコンサート

 前週、プロジェクトQにおいて、モーツァルトのハイドン・セットを聴いたところだが、その続編というわけでもないが、同じくハイドン・セットの中の、弦楽四重奏曲第19番「不協和音」を聞く機会を得た。東京文化会館ロビーにて午後1時から、無料のコンサート。都響メンバーの若手、ヴァイオリンは、吉岡麻貴子氏・横山和加子氏、ヴィオラは渡邊信一郎氏、チェロは高橋純子氏。
 ロビーでのコンサートとは言え、上野公園入口という立地もあってか(呼び込みにも力が入っていたな・・・都響と言えば経営への苦労も未だ多々あろう・・・と想像する)、3〜4百人はゆうにいただろうか。満員御礼で、奏者の真横の位置にも急遽場所を設営していて、私はちょうどそこに陣取ることはできたが、意外に音響も良く、美しい響きが堪能できた。演奏環境としては出入り自由で、子供がチョコチョコ動き回るなど、かなり集中しにくいのだろうと思いつつも、奏者もレベルが高いのだろう、麗しい音色と手堅いまとまりでかなりの好感触。特に団体名も名付けず、今回初めての顔あわせのようだったが、今後もこの4人での演奏は、続けていただけるのならば、聴く価値が充分ありそうだ。
 さて、曲自体は、第1楽章の冒頭は確かにタイトルが思わせるとおり、不安定な短調、それも不協和な和声ではあった。解決が引き伸ばされた、のちのワーグナー「トリスタン」を思わせる手法の先駆とも言えるのだろうか。斬新な響きではある。しかし、その後は典型的な明るいモーツァルトである。ただし、メヌエットが、モーツァルトと言うより、ベートーヴェンのスケルツォに近い、速めな角張った印象のもの。決して典雅な宮廷舞曲とは思えない。新鮮に写る・・・「不協和音」の挑戦的な側面は、モーツァルトからベートーヴェンへの進化を思わせる作品であると私は思った。
 正味1時間のコンサートということで、残りの時間は、ハイドンの第38番「冗談」第1、4楽章。何が冗談か?曲の終わりが、終わったと見せかけては、まだ続きがあり、と何度もフェイントをかけ、その割には最後はスッと軽く終わってしまう、という趣向。してやったり、事前にその説明を受けながらも、気の早い聴衆は拍手のフライング。・・・交響曲もそうだが、ま、いろいろ思い付いたもんだ。それ以上に私が印象に刻まれたのは、第1楽章。ブンチャッチャッチャッ・・・という軽率な伴奏が、ショスタコーヴィチの3番の四重奏の冒頭に通ずる。第2次大戦後の、ほぼ同時期の交響曲第9番と弦楽四重奏曲第3番が、第1楽章においてハイドン風という共通性を持っているという裏づけの一つを具体的に発見か・・・そして、両曲とも、決してプロコフィエフの古典交響曲とは違って全曲を「古典風」としてまとめずに、大戦直後という時代性を前面に押し出すわけか(第4楽章の曰くありげな悲劇性を想起)・・・。そんな自分なりの発見も楽しく1時間のステージを堪能した。

 なお、曲の最初には1st Vn.の吉岡氏のお話も交え、曲に関する簡単な紹介、そして、次回の都響定演の紹介・聞きどころなども。集客に対する真剣さが伺い知れる。補助金づけで、お高く止まっていてはオケでもつぶれかねないご時世(場合によっては、アマオケよりも、聴衆との近さを実感させてくれたことに好感度UP)。この頑張りはきっと実を結ぶであろう、と思いたい。まず、顔が見える、ということが大事。私自身、今回の4人の奏者はかなりの好印象で記憶に残った。オケの定演だけでは知らなかった一面を聞かせてもらえて嬉しい。・・・今後、夏の飯田市、アフィニス音楽祭でもお会いできるかしら・・・都響さんは随分積極的ですし・・・。

 さて、JR18キップの残り1日分を使っての上京。ヤマハ銀座店が建替えで移った仮店舗への立ち寄る。ふと手にした、ベートーヴェンのピアノ・ソナタに関する諸井誠氏の著作、いきなり、第1番のソナタの解説に、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」第1楽章中間部の主題との関連性が大々的に述べられている。ソナタの第4楽章第2主題はたしかに関連性がありそう。似た旋律線・・・しかし引用かしら・・・これが引用なら、チャイコフスキーの交響曲第5番冒頭主題からの引用だ、とも言えるわな。この辺の話は、また我がHPでも展開していこうと思っていた矢先、ネタの一つとして検証してゆこう。
 さらに、梅津紀雄氏の著作、ユーラシア・ブックレット「ショスタコーヴィチ」も入手。
 さらにさらに、神保町のある古本屋では、白水社刊の「バルトーク」の中に、管弦楽のための協奏曲第4楽章における、レハールの「メリーウィドウ」、そしてショスタコーヴィチの「レニングラード」との関連についての記述を発見。また、ショスタコーヴィチの「バビ・ヤール」第2楽章との関連を思わせる、2台のピアノと打楽器のためのソナタ第3楽章冒頭主題と、ベートーヴェンのコントルダンスなる作品との関連の記述も見つけ、これはショスタコーヴィチ側からも検討を要する課題である、と直感。ベートーヴェン作品の詳細が明らかではないが、これも私に与えられた課題として今後堀りさげてゆこう・・・などと、それなりに意義深い上京日帰り鈍行旅であった・・・片道6時間、あいかわらずのバカっぷりである。

(2007.2.3 Ms)

1/14(日) ブルーメン・フィルハーモニー 第28回定期演奏会

 下記のとおり、午前中はプロジェクトQ(紀尾井ホール)、そして、午後は今回初めての訪問となる杉並公会堂(荻窪)にて、我がHPでもお馴染みとなっている、ブルーメン定演。
 モーツァルトの「フリーメーソンの葬送音楽」、R.シュトラウス「死と浄化」、そして、シューマンの交響曲第2番。と、ハ調の作品が揃い踏み。ちなみにアンコールも、モーツァルトの歌劇「劇場支配人」序曲で、ハ長調。なんとも心憎い選曲だ。指揮、寺岡清高氏。

 モーツァルト、シューマン記念年の昨年をひきづってのプログラムながら、ちょっと的を外した、超有名曲ならぬものが並んだが、私の目当ては何と言おうと、シューマンである。生で体験するのは決して初ではないが、本格的演奏、という意味では初めての充実した体験となった。
 全体的に速度は速めで、特に第2楽章のヴァイオリンの目まぐるしい動きは圧巻だった。プロでも、ここまでスマートに、そして熱狂的に演奏できまいて。最後のコーダの追い上げの興奮は尋常でなはく、圧倒的な勢いが素晴らしかった。・・・が、逆に、第1楽章序奏や、第4楽章後半におけるスピード感は個人的な趣味とは相違していた。もう少し、重厚な、堂々たる世界を感じたかったのが正直なところ(序奏のクライマックスは、ブルックナーをも思わせる巨大な伽藍、というイメージ。しかし、曲想としてはすぐにこじんまりと収束してしまうが。)。ただ、第3楽章の切々たる歌も含め、総合的には満足させてくれる演奏で、純粋にシューマン・ファンとして感謝したい。
 それにしても、改めて、この曲に向きあって、やはり、狂気、といったものは感じられることを実感した。特に、第1、2楽章の終結における、テンションの高さは、ある意味、恐い。なぜ、そこまで自分を追い込む?とすら思うほどに、強迫観念にとらわれ過ぎた歓喜、ではないか。そして第3楽章との落差の激しさ。常に、ハ長調・ハ短調に執着し続ける様が、またベートーヴェン(「運命」)への意識を強烈に思わせる。昨年、1,4番の交響曲を生で聴き、単純に音楽の美しさ、喜びを堪能したのだが、この2番には、その「単純」な感情のうちに鑑賞させない、魔力のようなものが宿っているように思えてきた。力がみなぎり過ぎている。力み過ぎれば、突然、血管が切れることもあろう、ポキンと骨が折れることもあろう。その、作曲者の焦燥的な姿勢が、前面に押し出された演奏ではなかったか。倒れる直前のハイテンションさ、が充溢している。

 さて、前半2曲も、特に弦楽器の響きが美しく印象的。モーツァルトは、後年のレクイエムなども想起させる深刻なもの。コーラングレやコントラファゴットなども使用しての暗い管楽器のハーモニーも「葬送」を感じさせる。
 続く、シュトラウス、豊かなオーケストラ・サウンドを堪能する。最近の、我がHPの「曲解」が、ショスタコーヴィチの5番をフューチャーしているだけに、後半で多用される、「ソ―ド―レ―ミ―ミ(↑)―レ・・・・」という浄化の主題は、まさにトランペットで歌われるのなら、ショスタコーヴィチそのものに聞こえてならない(場所によっては、内声も、「ソ―ミ―ソ―ド・・・」と聞こえて、完全に和声まで一致する)。さらに、その次の「ミ―レ・・・」は、マーラーの第9の冒頭だ。作品の前半においてもこの2度下降の音型は散見され、そのたびにため息のようなこのフレーズがマーラーを思わせた。こちらは明らかに、「死」というコンセプトで共通しよう。マーラーは、意識的に引用したと言える・・・か?あと、半音階の使用が、リストの交響詩を思わせる部分も多々感じられたのが新たな発見か。ワーグナー的な響きもあるなかで、少々古びた表現も見え隠れしていた。

 さて、毎回充実した演奏を披露してくださる団体なれど、今回、パンフレットを見ると、随分、メンバーの減が気になる。それが演奏に影響したと思われる点もあって、今後に課題を残したのでは、とも正直感じた。シューマンの第1楽章序奏から主部への移行も、ヴァイオリンの統一がやや破られて、今まで記憶のないことだった(憎いまでの完璧さを誇っていたはずが)。エキストラが多くなる負の面と捉えたが。また、木管のなかの統率、がかつてを思うと、甘さも気付かされるところがあった。個人的な感想として、クラリネットの音色、存在が浮き気味な気配もあった(シュトラウス冒頭・シューマン第4楽章展開部あたり。抑制された弱音のクラリネットの魅力こそ聴きたい個所もある)。やはり、アマチュア団体としては、メンバーの異動の問題もあり、維持してゆく苦労は耐えない、という面を、今回思わせるものとなった。今後とも、素晴らしい演奏を期待する者として、(仮にメンバー減が団としても課題となっておられるのなら)様々な苦労を乗り越えてゆかれることを願っております。

 <余談>
 シューマンづいた関係で、マーラー編曲による「ライン」を中古で入手。ジュリーニ、1958年の演奏。
 中古本は、カッパブックスによる「岩城音楽教室」(岩城宏之氏のあまり知られざる著作。ブックカバーの、黛敏郎氏の推薦の一文も貴重。)。
 マキシム・ショスタコーヴィチの亡命直後のインタビューの掲載された「音楽家の肖像」(フェ―リックス・シュミット著)、お宝本ですな。以上、神保町にて。
 荻窪のBOOK OFFでは、「現代ロシアの文芸復興」(井桁貞義著)。社会主義リアリズムに思いを寄せるにふさわしい好著。ソ連崩壊前後の現地での生々しい記録なども感銘深し。あまりに幸多き上京であった。

 さらなる余談、杉並公会堂、ロビー部分が狭すぎないか。帰るのが大変でした。

(2007.2.19 Ms) 

1/14(日) プロジェクトQ 第4章 トライアル・コンサート 第3日

 今年最初の演奏会鑑賞も、学生を中心としたものだったが、続いて、在京の音大生たちの弦楽四重奏を2曲堪能。
 昨年、この「プロジェクトQ」なる企画に初めて接し、特に、シューマン・ブラームスの作品だったということもあり大変感銘を受けた(計5回のコンサートのうち2回を体験。こちら)。今年は第4弾、昨年のモーツァルト・イヤーの余韻を引きづって(練習自体は昨年から始まっているから、当然意識された選曲かとは思う)、彼のハイドン・セット6曲が取りあげられた。そのうち、今回は、3回に分けられた試演会の最終日、14番ト長調、17番変ロ長調を聴く。

 恥かしい話、モーツァルトのカルテットというのは、私にとっては全く馴染みの無いもの。今回、昨年の良い感触もあって都合がついた第3日に、午前11時、紀尾井ホールへ(他のコンサートとはしご出来る時間なのも良い)。
 14番K.387は「春」とも呼ばれることもある、明るく朗らかな逸品。モーツァルトらしい屈託のない明るさが聴き取れる。しかし、単にそれだけで終わらないのが良い。フィナーレは、第1主題、第2主題ともにフーガ的な提示がなされ、面白い。交響曲第41番「ジュピター」のフィナーレの伏線とも感じる。4つの伸ばされた音(G−H−E−Cis)が最初に鳴り、順次応答してゆく様は、確かに発想として似ているのでは。かなり感心した。その分、展開部はあまり対位法的でなく、主題が短調にはなっているものの、主題提示ほどの緊迫感は不足、その辺り、もの足りない一面はある。しかし、これだけ緻密な作品があろうとは、という感銘の方が勝る。
 昨年、N響で、ミサ曲ハ短調に初めて接した時も、自分にとってのモーツァルト像がかなり変貌したが、その延長上の体験として、今回は印象深いものがあった。
 その他、気になった点として、第1楽章の提示部の最後に、終止感を感じさせた後に、まるでおまけのように聞かれる一節が、「かえるの歌」のような節で微笑ましい。ちゃんと再現部のみならず展開部でも聞かれて満足。愛想のいい作品だとの印象が強まった。また、第2楽章がメヌエットというのも特徴的。そして、半音階やヘミオラのリズムが当時としては斬新だったろう。さらにトリオが短調。かなり野心的ではないか。
 あとは余談。第3楽章に低音で出るうねるようなモチーフの繰り返しが、ふとニールセンの交響曲第5番第1楽章前半、やはり低弦で出るモチーフを思わせた。偶然なのだろうが、ニールセン自身、弦楽四重奏の1st奏者としても活躍していたわけだし、発想の原点(意識的か無意識かは知る由もないが)として、この作品が位置付けられるかも・・・と思いを馳せた。ニールセン研究には、古典の弦楽四重奏などもしっかり押さえておくことが重要、かもしれない。私にはまだまだその資格はなさそうだな・・・改めてハイドン・セットの初心者というのも恥かしい限り。

 17番K.458は「狩り」というニックネーム付き。聴けば、冒頭から、ああ、あれね、と思う有名なもの。変ロ長調で、6/8拍子、分散和音。狩りのイメージそのものか。これまた全編が明るく・・・しかし、14番ほどに記憶に残るものがなかった・・・。
 ただ、当作品も第2楽章がメヌエット。ベートーヴェンの「第九」の前にも随分こういう構成の作品は珍しくもなかったのか。不勉強なのがばれるな。確か、第3、4楽章の連結なども、「運命」に先だって「ラズモフスキー」でやっていたりと、弦楽四重奏で試して、後に交響曲で採用する発想というのはある。もっと知っておいていいはずだな、室内楽も。
 また、印象としては、第3楽章の緩徐楽章で、とても美しい和声の瞬間があったのはかすかに記憶にあるのだが・・・。それにしても、やはり第1楽章の「狩り」のイメージが最も強いインパクトではあった。

 さて、演奏は、14番がステラ・クァルテット。昨年、シューマンの1番を取りあげ、激しく情熱的な演奏は記憶に鮮明だ。東京芸大2年生のグループ。17番は、アミーコ・クァルテット。桐朋学園大学在学のグループ。両者とも、生き生きした安定した演奏で良かった。

 2年に一度行われてきた当企画、今回は昨年に続いての開催となった。今後も是非続けて欲しい。主眼は、弦楽四重奏の振興、若い奏者の発掘。是非、応援してゆきたい。今回のトライアル・コンサート、2月の本番に向けての試演会という位置付けで、演奏後、100円以上の入場料を支払うというシステム。ありがたいことで。
 ただ、「のだめ」人気で、クラシックへの注目も高まりながらも、こんなリーズナブルな企画も、あまり昨年と変わらぬ観客の数・・・やや淋しい。もう少し大々的に宣伝してもいいのでは・・・。ただ、室内楽まではなかなか「のだめ」パワーも浸透せず、なのか。それはさておき、今後も、弦楽四重奏には親しんでいきたいと思うだけに、「プロジェクトQ」のさらなる発展を望みたい。

(2007.1.21 Ms)

1/13(土) NHK交響楽団 第1586回定期演奏会

 デュトワ指揮による、オール・プロコフィエフ・プログラム。「古典交響曲」、ピアノ協奏曲第2番、そしてカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」。ピアノ独奏、ユジャ・ワン。メゾソプラノ独唱、イリーナ・チスチャコヴァ。合唱、東京混成合唱団。
 やはり巧いな、デュトワ。プロコフィエフの磨きぬかれた華やかな管弦楽法に飽きることはない。

 協奏曲の冒頭、朴訥にピアノが語り始める背後の弦楽器の徐々ににじんでゆくようなグラデーションを思わせる音色が秀逸。後日TVで確認するも、この弱奏の微妙な表現は電波には乗って来なかった。生で、あの空間でしか再現されない。これ一つ取っても来たかいはある。あの不協和の具合いが、もう昔から好きなのです。あの冒頭から、この作品に参ってしまう。
 独奏の、ユジャ・ワンもパワフルな、そしてきびきびした運動神経の良い演奏で、常時テンション高く燃える演奏で魅力的。若さにあふれたもの。第1楽章の中核を成すカデンツァも堂々たる独壇場。その後オケが冒頭の主題を大々的に再現して迫り来るさまなど大感激。
 ラフマニノフのロシアならではの哀愁が、現代的な先鋭化した表現を伴って、不健康さを増しているような第1楽章、とにかく私を捉えて放さない・・・ラフマニノフの2番の協奏曲が単に病弱なだけとすれば、プロコフィエフの2番の協奏曲は薬物中毒、といった趣だと常々思ってしまう(当然、その経験はありません。比喩です・・・)。
 楽章構成もふるっている。緩徐楽章から始めて、アレグロ的楽章を3つ続けるわけで、第2楽章のひたすら駆け回るだけの運動会の後に、グロテスクな怪物の歩みが始まった時の、古典的感性からの違和感(ここで、何で落ち付かせる楽想を置かないのだ!)、これも私の心にしっかりと刻まれている・・・毎回、何故?と思いながらも、このグロさがたまらなく良い。ちなみに、中学の頃、NHK-TVで、きっと「若い芽のコンサート」だったか、日本音楽コンクール受賞者のコンサートは毎年見ていて、そこで何げに偶然聴いていたのだろう。曲目も作曲家もろくに知らない頃から、何故だかこの第3楽章の一瞬、数小節の旋律だけが私の頭にインプットされていて、後年、ああこの曲だったのね、と再会しておおいに喜んだ記憶がある。思い出深い作品なのだ。
 第4楽章は、先行楽章のまとめるにしては散漫で、魅力も最も乏しいと思うが、中間部の単純な民謡風な旋律はいかにもプロコ節である。拍子感の希薄な怒涛のような音の洪水のような冒頭主題も面白いが長続きしないのが個人的には惜しいな。しかし、協奏曲の奇形ながら魅力満載な当曲が充実のパフォーマンスで体感できたことをとにかく感謝である。

 さて、続くカンタータ、まずもってロシアらしさ全開な合唱の魅力を称えたい。

続きます(2007.4.15 Ms)

 

1/8(月) 第154回 アルマ・21世紀コンサート

 東海地区において、芸大の在学生・卒業生を中心に発表の場を提供している当企画、昨年初めて、自宅近くでの開催ということで出かけて以降、ここ数年の室内楽志向も手伝って、少しでも興味がわけば足を運ぶようになった。2007年のコンサート初めも、岡崎市シビックセンター・コロネットでの、ロシアのピアノ作品とソプラノ独唱によるフランス歌曲ということに・・・あいかわらず「ロシア」づいているのは、私らしさ、と言えようか。

 第1部はピアノ独奏お二人。
 冒頭からスクリャービンのピアノ・ソナタ第4番。ロマン派的な雰囲気も漂わせつつも、和声感、リズム感ともにあいまい。わずか10分たらずの短い作品。何も知らずに聴いただけでは1楽章ソナタのように思えたが、帰宅後CDを探し出し(ほとんど聞いた記憶もなかったが)再度聴き直してみれば、インデックスは2トラック付いていて、緩−急の2楽章ということかな?その後半部分が、ふとジャズを思わせるスウィング風な軽めなタッチを持った感じで、オシャレである。スクリャービンと言えば私にとっては、マーラーの7番フィナーレと並ぶハ長調の堂々たる響きをさせる交響曲第2番の印象が強く、その作品の一部に似た雰囲気も感じる。一聴にして旋律をそらんじることは出来ないがイージーリスニングとしては悪く無い。
 続いて、珍しいバラキレフの小品3曲。ロシア五人組でもっともマイナーな一人(キュイと並んで)。しかし、「イスラメイ」という超絶技巧なピアノ作品はごく稀に聴く機会もあるわけで、ピアノ曲作家としてはピアニストの中ではそんなマイナーでもないのか?実際、今回演奏された「庭にて」「ノクターン第3番」は、もろにロマン派的なサロン・ピース。美しいし、ピアニズムにかなった模範的作品だろう。プレイヤーに好まれる類かも。しかし作品の個性は?・・・ロシア五人組のわりに、ロシア臭さの微塵もない。・・・と思えば、やってくれました、最後の「トッカータ」、これはロシア民謡風な旋律が大らかに登場してくれた。ただ、タイトルのとおり、ひたすら無窮動的に忙しく左手が動き回り、その上にロシアは主張する趣向。チャイコフスキー的な、ある種、西洋とロシアの折衷主義も思わせる。こういう作品を聴く限り、チャイコと五人組の親近性をむしろ感じる。面白い選曲、感謝。
 以上、高村衣美留氏の演奏。
 続いて、昨年のモーツァルト・イヤーの余韻を楽しむ。短調のモーツァルト。幻想曲ニ短調と、ピアノ・ソナタ第8番イ短調。
 前者はつい最近、NHK−BSのシブヤ・らいぶ館で小菅優氏が未完の形で弾いていた。今回最後を補なった形で聴く。冒頭の、バッハを思わせる荘厳な分散和音は素晴らしい。続く寂しげな主題も寡黙な表情がよい。しかし、明るく朗らかな楽想へ移行し、さほど展開もないまま終わるのが中途半端に感じられる。きっと、ハ短調の幻想曲のように、様々な楽想が入れ替わり、盛りあがり、さらに冒頭の劇的な部分が最後に置かれれば納得ゆこうが、未完なのが残念な一品。しかし、冒頭だけでも逸品・・・聴き継がれる価値はあろう。
 続くソナタも、いかにも若き少年の悲しみといった感じの青さを思わせる短調作品なれど、一筋の光明が指す緩徐楽章においても、中間部で低音に重々しい和音やトリルがデモーニッシュなムードを醸し出し一筋縄ではいかない。あなどれない短調のモーツァルト。ト短調の交響曲2曲や室内楽、さらには、ピアノ協奏曲のいくつかの楽章(ニ短調、ハ短調のみならず、イ長調のもののシチリアーナ的な緩徐楽章etc.)と並んで、このソナタも心に迫る力を秘めた作品である。
 以上、渥美かな子氏の演奏。

 第2部は、ソプラノ二人を中心にフランス歌曲。平田杏奈氏、原田美奈氏。各々4曲づつ。うち、グノーが半分の2曲づつ・・・、人気作曲家なのか、でもいかにも「フツー」な音楽と言う印象。ただ、高音の超絶技巧を器楽的に、スケールや跳躍を交えて歌うさまは、シンプルに感心する。
 もっとも感銘深かったのは、マスネの「エレジー」。小学生の頃、自主的に買ったピアノ曲集に簡単なアレンジで掲載されていたのを思い出し、ああ、あの曲か!とおよそ4半世紀ぶりの再会を果たした嬉しさもある。半音階的に下降する旋律のやるせなさ。この原曲の楽譜をあたりたい。フォーレやドビュッシーへ向かうフランスらしい和声感の先駆とも言えようか?タイスの瞑想曲だけが有名なのは惜しいところか。
 それにしても、こう並べると、断然、ビゼーが輝いている。「カルメン」からミカエラのアリア「何を恐れることがありましょう」。美しく、そして独創性に富んだ展開。確か、当時のフランス・オペラの流儀にのっとった、「カルメン」の中でも違和感あるビゼーらしからぬ作品との評も見たことがあるが、そうとも言えまい。いい曲ですよ。けなげさのなかにも、芯の強さをも感じる。中間部の開始がフランス国歌の冒頭に類似しているのは気のせいか。恐れの中で、奮い立つような印象を持つのだが。
 さて、これらソプラノの饗宴の衣装換えの役回りでか、伴奏ピアニストを受け持った小宮山純一氏による、またしてもスクリャービンが途中で挿入される。2つの詩曲Op.32。5つの前奏曲Op.74。前者は、まだ先ほどの第4ソナタと同傾向ながら、後者は、既に前衛音楽的な厳しさを持つ。あまりに断片的で無調。暴力的な刹那的なパッセージなども記憶にあるが、なかなかに親しめない。しかし、全体的に流麗に演奏会が穏やかに過ぎてゆく中で、この一瞬が、男性的な激しさと「喝」を感じ、面白くも思う。
 さらに、今回のユニークな趣向として、新春ということもあってか、第2部の最初と最後が、日本舞踊を堪能することとなっていたのだ。本格的なものではあった。そして、背景の音楽は、いわゆる舞踊の伝統音楽ではなく、最初は、宮城道雄の「春の海」をピアノとソプラノで、最後は、日本の唱歌をピアノとソプラノ二人でコラボレーション。特に、西洋楽器による和風な音楽がなかなか粋な感じ。後半、「春の小川」「ふるさと」等の洋風な音楽はいまいちマッチングしないような・・・「さくらさくら」、そして「荒城の月」あたりは良かったのだが。ジャジーなハーモニーを聴かせたりする場面は、ちょっと音楽が浮き気味だった。個人的には、せっかくなら和風な音楽の方が素直に楽しめたか。
 そういえば、チケット切りの方や、「春の歌」の演奏者の振袖姿は艶やかでよい雰囲気だった。「和」の良さを改めて思うところ。

 それにしても趣向をこらした充実した演奏会だった。今後も意義ある演奏活動を期待してゆきたい。もっとこの活動は知られて良い。知人だけの集まりではもったいないな。真摯な音楽が聴ける、地方における数少ない場と思う。

(2007.1.10 Ms)


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