今月のトピックス

 

 June ’06

6/25(日) 第145回 アルマ・21世紀コンサート

 今年の3月、初めてこのシリーズのコンサートに出掛けた(第140回)が、なかなか低価格(2000円)なわりに、地元東海地区の音大生たちの真摯な姿勢が伝わって好感触であったので、今回また、名古屋まで出向かずとも、岡崎市でコンサートがあるとのことで、足を運ぶ。

 特に印象深かったのは、ベートーヴェンの「ワルトシュタイン・ソナタ」。21番、ハ長調のピアノソナタ。低音域に重心があって、それこそ「運命」のように、刻むリズムが音楽に推進力を与える第1楽章冒頭から、ぐっと世界に引き込まれる。第2主題は遠隔調のホ長調で、宗教的な感慨をも引き起こす。第2楽章は間奏曲的なあつかいでそう長くなく、一気に、歓喜あふれんばかりの第3楽章へ。比較的単純な旋律が繰り返されるものの、左手の伴奏が縦横無尽に鍵盤の上を駆けまわり、奥行きある表現となっていた。やはり、ベートーヴェンの前進あるのみといった心持ちは、私の琴線にしっかりと触れてゆく。最近とみにそう思う。もっとベートーヴェン見なおすべきだよなあ。ピアニストは安藤恭子さん、愛知県立芸大大学院在学中。

 その他、グリーグのヴァイオリン・ソナタ第3番、フォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番両端楽章など、レベル高く満足ゆくもの。
 あと、声楽はまだまだ私も未知なるものが山積だが、今回のフランス歌曲は結構いい感触。フォーレの歌曲「この世で」、さらに意外にもマスネのオペラ・アリアがいい感じ。「タイス」「マノン」からのもの。決して安っぽい、例えばイタリア的な雰囲気とは違う、でも劇的。今回のコンサートを締めるに相応しい華やかさもあった。ソプラノ独唱、平田杏奈さん、同県立芸大大学院在学中。

(2006.7.21 Ms) 

6/19(月)〜23(金) NHK−FM「ベスト・オブ・クラシック」 ショスタコーヴィチ・ウィーク

 今年生誕100年のショスタコーヴィチ、とうとうこんな企画もFMでやっていただいて、嬉しい限りです。我が世の春・・・ですな。
 思えば、没後10年の1985年、まだ学校に通っていた頃、午前中のNHK−FMのクラシック番組で1週間特集が組まれ、オートリバースでないラジカセで、電波難視聴地域の山深い里で毎日タイマー録音し、それも番組全てがテープに収まらず、苦渋の思いで、毎日1時間のみを録音、当時、祝典序曲と5,9,10番くらいしか知る術もなかった私が、一気にショスタコーヴィチに傾斜してゆく記念すべき企画であった。
 ここで知り得た、ノイズにまみれた4,7,13番の交響曲は、それぞれ第1楽章のみの放送だったが、どれも私をノックアウトするのに充分な作品であった。続きが聴きたい、もっと他の作品を・・・という執念とともに私のハイティーン時代はあったのだ。ああ、それから20年を経過し、その時の思いが蘇る。変わらぬ自分がここにいることが、恥かしいような、誇らしいような・・・。
 あいかわらず、電波の入りは悪いな。ラジカセからMDにつないで要所をエアチェック。あんまり姿は変わってない私の20年後でありました。

 とりあえず、Indexページに毎日書き連ねた記事を転載。おって加筆するつもり。

 6/19(月)より、NHK−FM午後7時過ぎの「ベスト・オブ・クラシック」は、ショスタコーヴィチ・ウィ―クと題して、1週間、海外の放送局の音源により、ショスタコーヴィチの様々な作品がお聴きいただけます。
 本日、6/19は、彼の代表的ジャンル、交響曲、弦楽四重奏、歌曲が取りあげられました。
 ゲルギエフ、マリンスキー劇場オケによる、交響曲第1番。エマーソン弦楽四重奏団による、弦楽四重奏曲第4番。そして、ブローク歌曲集
 なんといっても、ゲルギエフが素晴らしかった。2005年夏の、フィンランド・ミッケリ音楽祭でのライブ。全体に遅目のテンポの中に、ゲルギエフ特有の「重さ」が随所に強調され、若々しさのみならず、ロシア的な重厚な交響曲像をも描き出した名演と言えましょう。第4楽章だけは、かなり速度をあげて、熱狂を誘う心憎い演出も印象的でした。

 さあ、明日以降も、是非、ショスタコーヴィチ・ワールド、堪能致しましょう。(2006.6.19 Ms)

 続いて2日目は、チェロ協奏曲第1番と、交響曲第4番という重量級のプログラム。両方ともロシア系指揮者で、という組みあわせ。
 前者は、スピヴァコフ指揮、ロシア・ナショナル・フィル。ホルンの安定ぶり、はじけまくるピッコロなど、ややバランスを逸脱しつつ、陰影深いオケのサポートが好ましく、グザヴィエ・フィリップスのソロもハイレベル。
 一方、4番は、アシュケナージ指揮のフランス国立。ちょうど今年3月で、N響定期とほぼ同時期。解釈としては、N響の時と似通ったもの。N響の放送時にはやや失敗気味だった、第1楽章クライマックス後の急速な3拍子への転換は、フランス国立の方が危なげなくこなしており安心。また、第1楽章再現部の序奏回帰に伴う半音階上昇のグロテスクさ強調なども変わらず印象的。ただ、第3楽章最後の葬送行進曲回帰の大テュッティで、木琴の替わりに鉄琴がずっと聞こえていたようだったが、空耳か?意味ある変更かしら?曲全体の印象が随分変更されてしまうようだったが・・・。
 なお、昨日はやや控えめであった、解説、千葉潤氏のコメント、今回は、チェロ協奏曲における、「若き親衛隊」やスターリン愛唱の民謡「スリコ」の引用のお話、交響曲第4番の背景に、当時のレニングラードがマーラー演奏の一大中心地で、民謡、世俗的素材の活用に、ソヴィエト交響曲のモデルを見出していた傾向など、突っ込んだお話もあり、大変有意義なる放送であった。NHK−FMの存在意義、再認識。(2006.6.20 Ms)

 ショスタコーヴィチ・ウィークも中日(なかび)。彼の代表作、人気作を固めて。
 意外なところから、「タヒチトロット」。45分でオーケストレーションをしあげた逸話も紹介して。ただ、解説で、西側のミュージカル・ナンバーからのアレンジだが、決して体制側の欲する音楽でもなく、ここに、屈折やチグハグさを指摘した視点は新鮮ではあった。演奏自体は、随分テンポを揺らしつつも、オケがついて行けない危うさがついてまわって・・・アイスランドのオケらしいのだが・・・。
 続くピアノ五重奏もしっとりとした美しさが良かったが、なんといっても、ヤンソンス指揮バイエルンの交響曲第5番は、一聴の価値あった。冒頭から、随分と速く進む。思索・哲学する音楽ではなく、歩む音楽。この世を悲観し過ぎない、意志の力をも感じる。新たな解釈発見。これが最も収穫。
 その他、細部において、新鮮な味つけ、ニュアンス、多々あり。押し出すような同音吹奏時のクレシェンドの表現、フォルテ・ピアノの多用は目立つ。端的には第4楽章の最初の音。他の楽章でも、ややわざとらしさを感じさせつつも面白い効果があり。第2楽章のコーダの入りのティンパニ・ソロが、インテンポを待ちきれず、いきなり人ごみを掻き分けて乱入したような唐突さが笑えたり、第3楽章の音量、表情の幅広い変化など、聞き手をあきさせず。ただし、第4楽章冒頭の加速が徐々にではなく、主題の2回目の提示で一気にテンポがあがって、これは疑問をもつ。
 様々な仕掛けは、奇をてらったように感じられる部分もあるが、それがために全体が支離滅裂という風でもない。結果的には雄弁で、かつショスタコーヴィチの多面性をおおいに表現し尽くしたような達成感を感じた演奏。今回のウィークの企画に恥じない、代表作第5番の演奏と言っておこう。・・・あまりに、ユニーク・個性的で、好き嫌いははっきり出てしまうかもしれないが・・・(2006.6.21 Ms)

 4日目。大作、交響曲第7番をたっぷり堪能。(その前に、アイスランドのオケによる、ヴァラエティ・オーケストラによる組曲抜粋も放送。)
 マズア指揮のフランス国立。フランスのオケでの「レニングラード」というのがなかなか聴く機会がないのではないか。CDも少ないだろうし、こういったFM放送で貴重な体験ができるのは嬉しい限り。今後もFMのクラシックの砦は死守していかなきゃいかんだろうな。私を育ててくれた場所、なのだし。NHK改革は、他人事じゃあない。
 さて、フランスの木管の雰囲気が、この作品に一種、優しさを帯びさせていたような気がする。特に第1楽章第2主題が、とても伸びやかでパストラ―レ、牧歌調な幸福感がある。また、全体にファゴットのサックス風音色がいつものショスタコと随分違う雰囲気を醸し出す。
 そして、その延長上で興味深かったのは、やはり第1楽章の続き、中間部のいわゆる戦争のエピソード、ドイツ軍の侵入・・・解説でも、これは、戦争の描写ではなく、ヒトラーそしてスターリンがとどめをさしたレニングラード・・・という解釈を紹介していたが、この演奏は、私には、あまり異質なものが侵入してきたように思えず、のどかなる第2主題の延長上に、自然に、この中間部に流れ込むように思えたのだ。木管の雰囲気は第2主題部と変わらず、繰り返される主題もヒステリックな音調を帯びてこない。特に、弦が主題を奏する場所で、ラベルの「ボレロ」と同様に、次元が一つUPするような演奏を標準的なものと感じているが、その手前の木管のカノンの部分が随分と弱々しく、その次の弦の部分にせよ、なかなかエンジンがかかってこないのが特徴的だった。その分、ボレロ的な単調な繰り返しから違う局面になった時の衝撃は増していたようだ。
 個人的な感想としては、まるで、幸福感にひたる人々が自ら新たな社会を創造するべく行進を始め、その楽しげな行進が突然(バンダの登場の箇所で)、違う何者かに煽動された強制的な労働に転化したかのような驚き。この「レニングラード」第1楽章は、ナチの行進ではない、ソビエト国民の行進なのではないか、という全く今まで思わなかった情景が浮かんできた・・・この演奏の示唆したものは私にとってあまりに強烈であった。
 さて、マズアの指揮は、このやや大雑把で大味な大作を、細かな点まで丁寧に音を作りあげたような面で好感度も高い。一例として、ショスタコーヴィチの音処理として標準的な、マルカート、スタカートばかりでなく、今話題とした第1楽章中間部の主題はじめ、第3楽章の冒頭のVnの主題など、レガートを多用した表現が、今まで未経験な感触で面白かった。後者においては、クライマックスでトランペットによる強奏再現の部分もレガートで、これには驚いた。ちなみに全体的に、金管楽器も野蛮さはあまり感じられず、やはりロシア的迫力・破天荒さには縁遠い感じはするものの、それは折込済み。
 そういった想定された物足りなさよりも、何より、ここでは詳細にまだ語れるだけのまとまりは見せていないが、現在取り組んでいる第5番の論考が済んだら、引用論ではなく楽曲分析から攻めた第7交響曲論に手をつけたいと決意させる、演奏だった、という点で私的にはとても大事な演奏だった。第1楽章の中間部をソナタ形式の展開部として、主に第2主題と有機的に関連させて捉える必要、これがこの作品の姿を違ったものにするのではなかろうか。(2006.6.22 Ms)

 さて、最終日は晩年の作品で。交響詩「十月」、ヴァイオリン協奏曲第2番。交響曲第12番。かなり意表を突く選曲だ。
 あまり期待をしずぎなかった、協奏曲が好感触。ソロはジャニーヌ・ヤンセン。N響ではメンデルスゾーンで共演、これほどのものならもっと20世紀もので登場して欲しかった。
 その他、ヒュ―・ウルフ指揮のフランクフルトは、来日公演のシューベルト「グレイト」がかなりハイレベルで期待したところ。重厚で、風格ただよう好演。ながら、楽曲の終わり近く、パルチザンのテーマの颯爽たる回帰にやや乱れあり。惜しいな。
 12番は、なかなか辛い。第1、3楽章など熱演であったが、フィナーレのコーダが果ててしまったような疲労感が聴いていて辛い。ティンパニと大太鼓の連携も乱れ気味で、「人類の夜明け」の崩壊、を思わせる。解説でも言っていたが、体制よりの作品で評判も悪いが、円熟期の彼の作品であり、新たな演奏・解釈が待ち望まれている、と。確かに、この作品の場合、研ぎ澄まされたムラヴィンスキーの快演、怪演が凄過ぎて、比較してしまえば、どうあがいても見劣りしてしまう。全く違うアプローチなども今後楽しみにしたいところ。いかに最後の長大なコーダをさばくか、がポイントだ。

 久しぶりに、それも5日間、ラジオの前に座る。2005年及び2006年に世界でショスタコーヴィチが演奏されているのを体感できた素晴らしい機会に感謝。総合的には、ゲルギエフの1番、ヤンソンスの5番、とロシア指揮者の説得力が際立ったか。(2006.6.23 Ms)

(2006.6.24 Ms)

6/13(火) 岩城宏之氏 逝去

 指揮者、岩城宏之氏逝去。73歳。冥福をお祈りします。

 N響の正指揮者ということで、子供の頃からTVでもお馴染みの顔でした。最近も、年末のベートーヴェンの交響曲全曲演奏会など話題にもなり、TVでも紹介され、まだまだ意欲的に、これから、という矢先の死が残念でなりません。

 個人的には、アンサンブル金沢は自分にとっても親近感ある存在でしたし(名古屋での演奏も多く、かれこれ10数年前に、シチェドリンの「カルメン組曲」を生で体験した時の感動は忘れられない。)、また、一時、N響アワーの司会もされており、小説家・島田雅彦氏とのショスタコーヴィチ談義など、当時(これも10数年前か)としては、貴重な、大変嬉しい放送でありました。

 しかし、それより何より、私にとっての最も印象的な出来事は、彼の木琴の演奏!
 打楽器奏者出身の指揮者として、折に触れ打楽器奏者としての側面も見せてくれてました。
 もう四半世紀も、前でしょうが、N響の特別番組で、それぞれのパートごとに、みんながソリストだ、というコンセプトで、各楽器をフューチャーした選曲ばかりを演奏し、最後、指揮者の岩城さんにも是非ソロを、ということで、木琴が運ばれ、カバレフスキーの「道化師」のギャロップを。子供心になんで、指揮者が木琴を?とかなり衝撃的な印象を受けました。再現部の手前で音をはずして照れていたのもごあいきょうです。
 また、黛敏郎氏の司会で「題名のない音楽会」(これも20年くらい前かしら)、指揮者の手配のミスで4人の指揮者に出演依頼してしまった・・・その4人の血液型が異なることに気がつき、血液型別にどんな指揮をするのか同じ曲を振ってもらって聴き比べよう、という企画に。そこへ登場したB型の岩城氏、決められた曲をやるのはツマラナイと、やはり、ここでも木琴が登場、一柳氏の「パガニーニ・パーソナル」という作品を演奏し、マイペースB型の面目躍如。随分、ヤンチャな指揮者だなあ、と思ったものでした。クラシック音楽、それ以上に20世紀の音楽を身近な存在として感じさせてくれる2つのエピソードを懐かしく感じます。

 私が今この姿で存在しているルーツの一つとして、岩城さんの存在はあったのだ、と今さらながら感慨深く思い起こします。

 最後に余談ながら、ちょうど、2日前のN響アワーは、日本人作品の特集で、やはり、現代音楽を取りあげる一人者として、黛敏郎氏の「BUGAKU」の指揮姿を拝見したところでした。また、3日前は、そのN響定期に出掛け、この9月の定期で、黛氏の「曼荼羅交響曲」を指揮する情報なども得、黛氏の復権におおいに尽力している姿勢に感じ入り、その演奏を楽しみに思っていたところです。さらに、その日は、神保町の古本屋で岩城氏の著作「オーケストラの職人たち」(文春文庫)を100円でゲットし、その軽妙洒脱な語り口は帰りの電車のなかで楽しませてくれたものです。
 まさに、今、私と時を同じく共有していた彼の突然の死に、おおいに衝撃を受け、とても悲しい気持ちで一杯です。彼の指揮者としての功績は、今後また様々な場所で語られるのでしょうが、ここに、1980年代頃より、山々に囲まれた地に住む少年の心を捉えクラシック音楽の楽しさを教えてくれた指揮者、としての個人的な思い出を無秩序ながら綴らせていただきました。(今の少年たちにとってこれだけの存在がいるのかが心配なところ。それはさておき)自分にとっての大きな存在であったことを改めて痛感しています。・・・後半生は病気との闘いだったと聞きます。安らかにお眠りください。冥福を祈ります。

(2006.6.13 Ms)

 悲しい哉、指揮者の訃報、続きます。
 佐藤功太郎氏。実は、この6月27日に、東京芸大、シューマン・プロジェクト第7回において、珍しい、歌劇「ゲノフェ―ファ」の指揮をするということを知っていたのだが、先日(6/10)、シューマン・プロジェクト第3回(ピアノ五重奏曲の初稿版の世界初演を含む!詳細はおって書くこととなろう)に出掛けた際に、佐藤氏が病気で降板ということは聞いていて、何となく心配はしたものの、まさか、の出来事である。
 個人的には、アマチュア・オケながらも、佐藤氏のタクトで演奏をさせていただいた経験もあり、どんどん、私にとっても大切な指揮者たちがこの世を去ってゆくのは、何とも形容し難い淋しさが襲う。東京芸大関連では10/21のショスタコーヴィチ生誕100年記念、芸大定期の指揮も予定されていただけに、私にとって久しぶりの佐藤氏の指揮を心待ちにする気持ちもあって、余計に衝撃も深く感じられる。
 まだ60代前半と聞く。私の父とほぼ同じ年齢だったのかと知り、また愕然とする。まだ生を終えるには早過ぎる。詳細を知らぬものの、容赦ない死の迎えはさぞ無念だったろう。冥福を祈ります。

(2006.6.15 Ms)

6/4(日) 蒲郡フィルハーモニー管弦楽団 創立25周年記念 第28回定期演奏会 

 久しぶりに、打楽器奏者として自分の出演したコンサートについて。
 創立25周年とは、おめでとうございます。思えばそのうち、3/4くらいはおつきあいしているのだから、私にとっても感慨深いもの。このHP設立以来のおつきあいはこちらも参照してくださいませ。
 家庭の事情もあって、基本的に出演はお断りしたところだったが、どうしても、R.シュトラウスの「ばらの騎士」で人が足りないということでの、友情出演、といった感じ。前回ご一緒したのが、3年ほど前のマーラーの1番。とうとう、リヒャルト・シュトラウスまで来ましたか。
 曲は、記念年にちなんで、モーツァルトの「ドンジョバンニ」序曲。そして、「ばらの騎士」組曲からの抜粋(冒頭とワルツ2曲)。メインはシューベルトの「グレート」。アンコールは、チャイコフスキー編曲によるモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(チャイコの組曲第4番から)、そして、ヨハン・シュトラウス1世の「アンネン・ポルカ」。
 なんと言っても、ホルンの質の高さは、関東から関西までいろいろアマチュアを聴いているがこちらを凌駕する演奏はまだ知らない。グレイトの冒頭のホルンのユニゾンの何と神々しいこと。また、「ばらの騎士」での咆哮も、スカッとします。絶対にこけない。こんな気持ちの良い体験はそうそうないです。
 全般的には、グレートが悪戦苦闘ぶりが伝わってしまうのはいたしかないか。テンポをいろいろいじくってやりくりした感もあるが、このグレートを冗長に思わせないレベルで演奏するのはなかなか難しそうだ。弦の音が書き過ぎなことも難しさの理由なんだろう。ひたすらゆっくりやられるのはこの曲の場合、おおいに困りものだが、こういう細かなテンポ設定で音楽を引き締めるべきは引き締める、というスタンスは評価したい。そんななかで、第4楽章の展開部冒頭、クラリネットでの「第九」歓喜の歌からの引用をかなりゆったりさせつつ強調していたのは興味深い処理の仕方だった。
 指揮の山本訓久氏は、学究肌の一面もあり(東京学芸大助教授。マーラーに関する論文などもあり)、毎回こちらでの演奏、私自身も楽しみにしているところ。蒲郡が、日本における後期ロマン派の一大拠点となれば私も嬉しい。

(2006.7.22 Ms)

 May ’06

5/21(日) 野原みどり ピアノ・リサイタル <ブラームスを弾く> 

 今年度、初の本格的なコンサート。名古屋市の、スタジオ・ルンデにて。

 スタジオ・ルンデと言えば、名古屋のクラシック・ファンなら知らない方はいないだろう。室内楽専用のホールで、「ルンデの会」という会員制のコンサート(例会)をもう、4半世紀くらいだろうか、続けているところ。しかし、その例会も、この夏には終了、長い歴史を閉じるという。
 それが直接の理由ではないが、かつて名古屋に10数年暮らしながらも、実際にルンデに足を運んだことはなかった、恥ずかしながら。その頃は室内楽に目が向かなかったのが理由だが、最近は、貪欲にもなり、また、少数精鋭ゆえのオケにはない鋭い緊張感も心地よく、室内楽や独奏のコンサートも積極的に行くようになり、こういった小さなホールへも来る機会が増え、やっと、ルンデにもきっかけができてきた次第。今さら遅きに・・・。

 野原みどり氏は、私にとっては、NHK−BSにて、フォーレのピアノ四重奏曲第1番の演奏に接して以来、注目しているピアニストだ。昨年も、神奈川フィルとの、ラベルの2曲のピアノ協奏曲の演奏など、まさに圧巻であった。今回、初めて、ソロを、それも、小さなホールで近距離で、体感することとなった。
 まず、演奏会自体、開場が遅れていたのだが、なんでも、リハーサル中にピアノの弦が切れたとのこと。さらに、コンサート中のお話によれば、今回のブラームス・プログラムのための練習で計7回、切ったというではありませんか・・・推して知るべし。壮絶な、迫力に満ちた、男らしい、ブラ―ムスのピアノ世界が繰り広げられた。演目は、「2つのラプソディ」、「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」、「ピアノ・ソナタ第3番」。大曲ぞろいである。 

 個人的には、ソナタ第3番の重厚さが体の芯まで迫る圧力をも感じさせ、若きブラームスの、決して熟年の管弦楽作品には失せた野心的な激しい闘争心も再認識させてくれる演奏に、心揺さぶられた。
 特に、第1楽章の、絶叫するようなテンション、しかし、動機労作に細心の注意を払った構成力も聞き逃せない。最も感銘深かった楽章である。
 第2楽章は、ベートーヴェンの「悲愴」ソナタ第2楽章に近い旋律の動きが、ブラームスのベートーヴェン崇拝の一端をここでも忍ばせる。3部形式に、巨大なコーダがついたような形で、全くそれも主部に関連性がない、新たな、確信に満ちた楽想であり、多分に標題音楽的な展開と思える。確かに、この楽章の楽譜冒頭には、「詩」が掲げられているので、そこに、この形式感の理由はあるのだろう。詳細は未知ではある。
 第3楽章はダイナミックなワルツのようだ。左手の伴奏はワルツながらも、荒々しく、ちょっと、交響曲を書いていた頃のブラームスからは考えにくい楽想。
 そしてフィナーレの前に置かれた、もうひとつの緩徐楽章たる第4楽章が、若きブラームスの構成的な野心の現われか。第2楽章の可憐な「愛」をテーマとした楽想が、葬送行進曲風として再現(この再現には、まさに運命の動機が伴っており、このリズムは密かに、第1、3楽章でも聞かれていたもので、ここへ来て前面にそれが押し出されるのだ。)、悲劇性を高める。シューマンの「ライン」の5楽章制からアイディアを借用したかもしれない。そして、幻想的な、まるで、フランスものかのような、和声の神秘が途中に出てくるところなど何とも言い難い雰囲気・・・ラベル弾きのイメージが強い野原氏ならではの表現とも言えそうだ。
 そして、第5楽章は、決して先行楽章の重さを全て受けとめるにはやや軽めな音楽にも思われるものの、コーダに狂わんばかりの展開が待ち受けており、若さや青さをぶつけながら、迫力で押しまくって充実の終結を構築する。交響曲を聴き終わったような、聴く側にも適度な疲労をも伴う、重い内容だったなあ・・・。気合い、気迫を感じる演奏であり、また、音楽自体もそう。

 さて、前半のプログラムでは、ラプソディの第2曲の魅力が私にとっての大発見だった。第1曲の方が、どちらかと言えば有名、だと感じているが、その第1曲は、私のイメージとは異なり、何とも流麗な、典雅ささえ思わせるもので、もっと、男性的な筋肉質な感じを求めてしまう。それとの対比において、第2曲には、男性的なたくましさが横溢しているしているようで、また音楽自体(旋律や和声)も気に入って、大変に嬉しい出会いとなった。
 ヘンデル変奏曲は、ちょっとまだ私が慣れていない・・・初耳である。最後のフーガなどは大変迫力に満ちたもので、テーマ自体がやや簡素・単純過ぎるような気もしたが、堂々たるもの。しかし、変奏の過程が、興味を失わせる場面もあって、もう少し聴きこまないといけないな。・・・ただ、率直に思ったのは、コンサート全曲がブラームスというのは、大変疲れる・・・。もう少し違う肌触りのものもないと・・・。テンションが高すぎて、弛緩する場面もないわけではないが、例えばシューベルトやシューマンのような美感を感じさせるものとは違うのだ。どうも、ブラームスの室内楽等にも熱狂しつつある(特に若き頃の弦楽六重奏のすばらしさ!)ものの、全てを受け入れる感性は、今の私には備わってなさそうだ。今後、鳴らされてゆくかどうかはわからない。
 最後のアンコールは、やはりブラームスで、晩年のピアノ小品のものと思われる。口直しとしてベスト・チョイスである。作品名は未知。
 なお、この夏、関東でも同様のコンサートは予定されているようだ。これは、かなり聴く価値の高い演奏だと思います。是非とも推奨したい。

 追記)休憩時間のティータイム、良かったです。リラックスできて、こういう演奏会自体の親密性、私は大いに好むところ。大自然の中での、作手村でのコンサートの休憩時間の感激をふと思う。もてなし、の心に支えられたコンサート、いいですね。返す返すも、このルンデの雰囲気を知らぬままに、今まで過ごしてきたことを悔やむ次第。

(2006.6.11 Ms)

5/20(土)〜6/17(土) シューマン・プロジェクト レクチャー&コンサート<藝大の響き2006>

 今年は、ショスタコーヴィチ生誕100年こそ私にとって盛大な慶事なれど、シューマン没後150年も、これを期にもっと知りたいという好奇心が旺盛で避けては通れない。ということで、幸いかな、東京芸大にて、4回にわたる、シューマン・プロジェクト、午後3時からのレクチャー、そして4時半からのコンサートを、計4回、聞き通そうということとなった。特に有意義なのはレクチャーで、ノートもとったり、久しぶりに学生気分である。

 まずは、大雑把な内容を書きとめる。

5/20(土) 「詩と音楽 〜作曲家誕生への道程〜」 講師:前田昭雄

         ピアノ四重奏曲 ハ短調 ・ 子供の情景 ・ アダージョとアレグロ ・ 童話の挿絵 ・ クライスレリアーナ

5/27(土) 「シューマンとハイネ」 講師:檜山哲彦

         弦楽四重奏曲第1番 ・ 蓮の花 ・ 君は花のごとく ・ あわれなペーター ・ ベルシャザル ・ 悲劇 ・ 詩人の恋

6/10(土) 「理想と現実の狭間で」 講師:藤本一子

         ダーヴィド同盟舞曲集 ・ アンダンテと変奏曲(初稿) ・ 3つの幻想小曲 ・ ピアノ五重奏曲

6/17(土) 「黄昏か黎明か 〜後期シューマンをめぐって〜」 講師:小澤和子

         FAEソナタ ・ メアリー・スチュアート女王の詩 ・ 6つの歌 ・ 3つのロマンス ・ ピアノ四重奏曲

(2006.9.16 Ms)

  

5/6(土) 宇宿真紀子&直彰 CDデビュー記念コンサート 

 今年度に入って、今のところ、コンサートとやや縁遠い暮らしとなった。山間部への転勤が、気楽に平日にコンサートへ行くことを妨げているという点もある。K泉改革で疲弊した過疎地を毎日目のあたりにするのは、現在、意義のあることと思ってもいて、様々な問題意識を持つことにもなろう。田舎の我が母も60歳を超えて、自動車免許を取らねば生きてゆけぬ状態を自覚して奮闘しているので、手助けなどもしたいと考えてもいるところ。演奏家としての自分は当面休業が続くだろう。崩壊する日本の最前線たる過疎地で私も何を為すか考えどころである。

 さて、GWは長期休暇という風潮なれど、私にとってはカレンダーどおりということもあり、特段の旅行も企画せず。我が夫婦それぞれの親孝行も念入りに、そして、自分のピアノの練習、そして、今、連載中のショスタコーヴィチ関連記事の構想など練りつつ、CDや文献をあさるうちにGWは終ってしまった。

 そんな中、妻の実家から帰宅途中、名古屋にて、楽器店でのコンサートを見聞。宇宿さんお二人は、ピアノとチェロの姉弟デュオである。CD発売記念で、全国精力的に回っている様子。お二人とも、フランスで子供のころから暮らして、勉強もそちらで、ということでフランスものを主としたCDのようだ。フォーレの「夢のあとに」ショパンの「華麗なる大円舞曲」、そして、最後はCDからの選曲ではないが、今回のコンサート・ツアーで最後に演奏しているメンデルスゾーンのチェロ・ソナタ第2番から第1楽章を聴く。
 楽器店の店内で随分騒々しい中、また、ピアノは電子ピアノを使用、かなりコンディションとしては悪い状況と見たが、フォーレの繊細な、音一つ一つ丁寧に考え抜かれた音を紡いでゆく姿勢は充分伝わった。メンデルスゾーンは、もう少しスケールの大きさ、を見せて欲しかったという点は感じられた。特に、ピアノに旋律線が移り、チェロが低音で支える箇所が結構多いのだけれど、そういったあたりは、もっと深さ、重さが感じられて良かろう。ただ、身内ゆえ(?)のアンサンブルの確かさ、親密さ、は安心感がある。お姉さんに多少は遠慮したような気もしないではないが。アンサンブルが西洋では日本以上に大事にされ、そういう活動も、ピアニストであれソロばかりでなく盛んに手掛けているとのこと、姉弟という関係もあって自然に音楽をあわせるという楽しさも感じているというお話のとおりの演奏であった。

 また、ふと思ったのだが、ちょうど翌日5/7の朝日新聞、イタリアで補助金削減により文化行事の将来が危ぶまれている、という記事が気になったところ。ミラノ・スカラ座、ベネチア映画祭といった国際的レベルのものでも、収益性の悪いものは、効率的でないと切り捨てられる風潮・・・日本も、芸術音楽なんていうのは今後どれだけ生き残れるのだろう。特に、室内楽はそれ単独で活動するのはかなり厳しいだろう。プロオケですらリストラの時代である。
 そういった風潮の中、今回のような若い才能は暖かく見守りたいし、金のかかりすぎるオペラやオケよりも、全国的にクラシック音楽の裾野を広げる意味でも、もっとどんどん他の演奏家にも続いてもらいたいと思う(・・・余談ながら、毎年GWの大垣音楽祭が昨年から基本的に市民発表会を中心に据え、日本のトップ・プレイヤーの一期一会的な演奏会、そしてリハーサル公開、さらに新人発掘といった有意義なプログラムが姿を消したのは悔やみきれない痛恨事だ。これも、自治体財政の破綻の現われ、K泉改革地方いじめの被害と言えようか。少なくとも私にとっては、淋しいGWとなったものよ・・・結局市民の熱烈なサポートがなかったという脆弱さも一因だろうが。裾野が狭ければ、お金の都合であっという間に消滅するのが日本のクラシック文化という証左なんだろうか・・・)。
 閑話休題。
 例えば、オケのあるなしという地域格差はきっと直らない問題だろう(関西4プロオケ統合問題なども気になる話題だ。GWの東京都心の「熱狂の日」の成功もまた喜ばしいが、地域格差をまた見せ付ける格好の題材ではあろう。東京一人勝ち。)。しかし、室内楽という分野なら比較的地域格差を埋めてゆくことが困難ではなかろう。
 独奏でもなく、オケのような大合奏でもない、こういった室内楽に私が目をむけているのは、作品の素晴らしさにようやく目覚めつつあることもあるが、何より、そこに、アンサンブルを作るための真摯な眼差しが、そして他者との交流を重んじる心づくしが、しっかりと存在している実感が感じられるからでもある(人数が多くなるほどその点、希薄に感じられてしまう。プロでも烏合の衆のような演奏には往々にして出くわすもの。)。もっと、このような小さな編成の音楽が身近に気軽に存在している社会になって欲しいと切実に思う。・・・新聞を読みつつ、宇宿姉弟はじめ若い才能が日本を見捨てず私たちの心を豊かにし続けてくれることを願わずにはいられない。今後とも、私は、閉ざされた空間のコンサートや、大都会のみならず、積極的に、生活空間や、田舎にまで出張って音楽を配達してくれる演奏家たちを応援してゆくスタンスを持ち続けたい。
 もちろん、質の高いものを求めて、都会に行く楽しみも続けてゆきたいけれど。
 
 さて、今回の名古屋行きでは、中古レコードのセールなどもあって、そこそこ面白い音源も入手。コンドラシン、モスクワ・フィルのショスタコーヴィチの6番は新世界レコードの盤。また、非売品のバーンスタインの、「運命」「英雄」ができるまで、という解説レコード。ベートーヴェンのスケッチ段階の楽譜をピアノで弾いたり、オーケストラで演奏したり、普段聞く「運命」と似ていながら微妙に違う音楽を面白く聞く。 
 さらに、これは、珍品。久石譲の「オーストリア交響曲」・・・はて、そんな作品あったかしら。なんのことはない、80年代のアニメ「炎のアルペンローゼ」の音楽集レコード。懐かしさもひとしお。俗っぽい音楽ばかりなれど、駆け出し時代の久石氏の仕事ぶりは隠したい過去、であろうか。当時高校生であった私の耳にも、時代設定として、ナチス時代の交響曲のわりに古典的かつ通俗的なのは時代考証的には、おや?と思わせたもの。
 あと、まともなところで、エレーヌ・グリモーの若きころの録音、CD5枚組は感激の内容だったので付記。以前TVで聴いたラフマニノフの「音の絵」の素晴らしさ。さらに、今回始めて聴いたシューマンのピアノソナタ第1番の新鮮な感覚。やはりシューマンに惹かれ続ける2006年。

(2006.5.15 Ms)

 

 April ’06

4/15(土) カフェ・ド・シャレー チャリティ・コンサート 第5回

 名古屋市東部、八事(ヤゴト)、と言えば、私も大学時代、うろうろしていた町の一つ。その八事に久々にやってきた。
 カフェ・ド・シャレーという喫茶店でのコンサート。愛知県立芸大の学生たちによるコンサート。
 最後に、出演者4人そろって、フォーレのピアノ四重奏曲第1番の第1楽章を演奏するのが目当て。その前に4人それぞれにソロを披露。
 ベートーヴェンの「スプリング・ソナタ」第1楽章、バッハの無伴奏Vnパルティータ第3番抜粋。バッハの無伴奏チェロ組曲第4番第1楽章。ブラームスのVnソナタ第3番第2〜4楽章、バッハの半音階的幻想曲とフーガ。

 1時間強、休憩なしに演奏された。全体的に、ピアノとのあわせが詰めのあまさを感じないではないが、若さゆえの熱演、楽しくきかせていただく。 特筆すべきは、まず、無伴奏チェロ。喫茶店の机イスをどけただけの会場、予想以上に狭い空間、まさに目の前、1mそこそこの距離で奏でられるチェロの豊かな響きに感動を覚える。4番の組曲のプレリュードも、有名な第1番のプレリュードと同様に、ほぼ分散和音で曲が構築されているシンプルなものだが、朗々と大きなスケールで充実した音楽を感じさせる。ただ、小節最初の低音の響きはもっとたっぷり聴かせても良かった。ややさっさと前へ進みがちな印象はあった。
 同じくバッハの「半音階的・・・」も、チェンバロ風な軽さよりは、個人的には、ブゾーニによるバッハのような、ピアニズムを前面に押し出した華麗な感覚が勝り、部屋に音が充満するほどの迫力が圧倒的。風のように鍵盤の上を舞う姿には目と耳が釘付けとなる。以前、故園田氏の追悼番組で同曲の演奏は見たことがあるが、生で体感すると、バッハの気迫が伝わるようだ。
 最後のフォーレも、快速に飛ばし、ソロとは違って緊張感もほぐれたか、伸び伸びと各楽器が対話してゆく様には幸福感が感じられる。もう少し、今後は楽曲の構成に即した、色の変化や、揺れ、タメ、など自在な音楽の変化を見せ聴かせてくれればなお良かろう、と感じた。

 演奏の後は、店の人から、趣味や好きな奏者など尋ねられ、はにかみながら対応していたのも初々しいもの。店の方も、冒頭に、チャリティの趣旨なども説明していただき、単なるコンサートではなく、アットホームな雰囲気作りを心がけられていたようだ。
 その後、ケーキとコーヒーをいただいてお開き。奏者の学生さん達も、ケーキ等を配るなどお仕事していた。何ともくつろいだ雰囲気で、なかなか好感の持てる企画であった。機会があればまた来たいものである。

 出演者の方々は、Vn.久米浩介さん、Vn.&Va.藤竹遥衣さん、Vc.長谷川彰子さん、Pf.海老原優里さん。今後の活躍、飛躍を期待したい。

(2006.4.25 Ms)


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