今月のトピックス
March ’06
3/21(火) ブルーメン・フィルハーモニー特別演奏会 〜桑田歩、チェロ独奏・指揮〜
第一生命ホールにて。ブルーメンさんとも、もう4度目になりますか。R.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」の驚喜の体験から、一貫して弦の充実は、何度も引き寄せられる魅力あり(過去の演奏会体験はこちら)。今回は、N響チェロ次席の桑田歩氏を迎えての演奏会。期待も高まる。
まず、モーツァルトのディベルティメント第2番変ロ長調。セットでくくられる3曲の真ん中の作品。第1番はサイトウ・キネンでも有名。この2番は初耳。なかなかに変わった構成。緩徐楽章から始まり、通常の冒頭楽章的な、ソナタ・アレグロがきて、メヌエット風な楽章で完。作品自体、意欲的ながら居座りの悪さは感じる。ただ、冒頭の下降音形が、第1番の冒頭との関連性を思わせつつも、長調の確立もなされぬままに短調的な指向を強く出してきて、面白い効果だ。喜遊曲・・・というのに相応しくない演出だ。16才の少年の野心をも感じさせる。
さて演奏は、指揮なしでの立奏。喜遊曲の軽さ、というより、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを思わせる中身の詰まった、豊かな、重厚ですらある面持ち。細やかなパッセージにも粗の見えない端正な作りが好感大。
さて、チェリスト桑田氏の登場。チェロの弾き振りというのは始めて見る。ハイドンのチェロ協奏曲第1番ハ長調。
ややバロックの協奏曲の影響も残る作品なのか、ソリストはテュッティの間もオケのチェロ・パートを弾く。最初は、ソリストが演奏はしているもののオケと一体化して、オヤっと思わせるがしばらくして、正式な独奏が出現して安心。重音も多用されて堂々たる風格を感じさせる主題がソロにより提示。たっぷりとした重音のタイミングが心地よい。桑田氏の音色は、過度な虚飾を排したもので、ややくすんだ、こもった印象も受けるが、落ち付いた雰囲気を醸し出し、第1楽章の曲想には充分適したものと思えた。
圧巻は第3楽章。とてもチェロ協奏曲のキャラクターとは思えない、ヴァイオリン的発想による、細かなスケール音型の連続する難曲。これを何ともスマートなテンポ設定で、駆け抜けるようなスピード感で、鮮やかに爽やかに。独奏、オケともに一体感を持って。ずっと8分音符の和音による伴奏は刻まれ続け、一種、エイトビートのロックのような感覚もある。その、確実ながら、聞き手の高揚感を煽るバックに支えられ、チェロは細かな音階、重音の連鎖、そして、突如現われる泣き節・・・軽やかなハ長調の心踊る雰囲気の中に突然短調の歌が挿入される・・・自由自在なチェロの飛翔に心浮かされる。この、泣き節が、桑田氏の真骨頂か。エイトビートのビート感からややはみ出した泣き節、とてもこのテンポでは盛り込めない、と思わせる情感の豊かさが、微妙な「はみ出し」から如実に感じられる。
さらに、特筆事項は、第1、2楽章の後半にあるカデンツァ。主題を利用した通常の型のカデンツァが始まるが、第1楽章においては、なんと唐突にシューベルトの「グレイト」の第4楽章の冒頭主題がモチーフとして組み込まれ、それが展開される・・・何ゆえ?という驚き。となると、第2楽章も気になる・・・へ長調の楽想に、ベートーヴェンの「田園」第1楽章が一瞬、顔を出す。これらは、楽譜になっているカデンツァなんだろうか・・・それとも、桑田氏オリジナルの茶目っ気か?(演奏会パンフレットにも1ページに渡り、かなり面白いインタビュー記事あり。彼のキャラクターからこのカデンツァは不自然さは感じないが・・・)
あとで調べたところ、リン・ハレルによるカデンツァが、「グレイト」「田園」のパロディを含んでいるものらしいです。なかなか、聞けないものを聞かせていただいた、という感じですが、それにしても驚いたア。カデンツァ含め、聞かせどころ満載の演奏でしたね。
ソリスト・アンコールは「鳥の歌」。弦楽伴奏つき。しんみりとした雰囲気。
後半は、メンデルスゾーンの「スコットランド」(2006.3.27 Ms)
後半の「スコットランド」、これには正直、驚いた。でも、名演には違いあるまい!!!
とにかく濃厚。
チャイコフスキーか、と言わんばかりの演出にも富んだ、多彩な表現力満載の演奏。すましたメンデルスゾーン、という私のイメージからほど遠く熱狂的ですらある。
期待の桑田氏の指揮姿も、洗練さ、よりは、アクティヴさが売りか。
曲を隅から隅まで熟知しているようで、オケのあちこちに指示が飛び、各楽器への指図は休むことがない。その分、こちらとしても、何が聴かせたい、という意思が、聴覚、視覚ともに伝わり、興味は尽きない。目を見張りながら、耳をすまし、音楽そのものに30分間熱中していられた。
メンデルスゾーンと言えば、若い頃の「真夏の夜の夢」序曲、や、「宗教改革」など、洗練されたスマートなオーケストレーションというイメージがあるが、この「スコットランド」は、シューマンの影響かは知らないが、どうも楽器をいろいろと塗り重ねて、整理しにくいというのが今までの印象。そのやや、ぶ厚い響きを、混濁させず、明確に、音色のバランスを取りながら曲を構築していった手腕は評価したい。要所の金管の思い切った吹奏なども効果的だし(ホルンの力量には好感大)、さらには、特に、弦楽器から多彩な響きを引き出させ、シベリウス風な自然描写的な刻みやら、重厚ないかにもドイツ的な充実した響きなど、奥行きある表現は、オケの力量にも感服。
音楽の流れという面でも、細かな揺れ、ため、など絶妙のコントロール。指揮者の思い入れもたっぷり、といった感じで、それに見事、一糸乱れず応えていたのだから、これも凄いことではないか。
以下、特に印象深かった点として、第1楽章の第2主題後半の、なんとも言えない切ないテーマの歌い方。溜め息のような、また、やるせなさ、私の好きな部分だけに、これは嬉しかった。また、第1楽章後半の興奮は忘れ得ぬ。シベリウス風な弦の刻みを伴う部分は、まさしく荒れ狂う北の海のようなリアリティのある表現だったし、コーダで、テンポを一気にあげた部分の切り換えの的確さ、見事に聞き手を惹きこむ。
第2楽章の妥協のない、やや綱渡り的な颯爽たるスピード感、プロでもなかなか演奏できないんじゃないか。このメンデルスゾーンの命ともいうべき、スピード感は、フィナーレでも十二分に実感される。もう、音楽の虜になるしかないほどにエキサイトしてしまう。
弦の深い響きに驚かされる場面もしばしば。さらに、最後のコーダの充実もよかった。ホルン、そして第2Vn.と歌い継がれる旋律は、伴奏過多なオーケストレーションによって演奏によっては消されがちだと思うのだが、その楽譜上の欠点を補っての納得ゆく大団円が聴後感の幸福にも繋がった。
全体的にも、常に高速で進みながら、(第2楽章スリルもまた良し。)聞き手側としても、だれる・緊張が解けるといった部分もなく一気に全楽章を一体として捉えることもでき(それこそ作曲者の意図したところ)、「スコットランド」かくあるべし、と強烈に心に刻まれた。この演奏を超える演奏にはそうそう出会えないだろうな。
最後にアンコール。「真夏の夜の夢」から「間奏曲」。イ短調つながり、か。「スコットランド」に通ずる感傷性も良し。そして、最後にとぼけたような、ファゴットを中心とした、なんとものどかなパッセージ。茶目っ気たっぷり、オマケのように付いている。何だか顔が緩んでしまう。幸福、を感じさせる今回の演奏会の最後にふさわしく感じた。
いつ来ても、むら無く、また来たい、聴きたい、と思わせてくれるアマオケ。こんな団体、そうそう無いのでは・・・聴く側を嬉しい気分にさせてくれるのも。(2006.4.16 Ms)
3/21(火) 宮川泰氏 逝去
宮川泰氏逝去。75歳。心不全による急逝と聞く。ご冥福をお祈り致します。
新聞やニュースでは、決まって、ザ・ピーナッツの育ての親、作品では「恋のバカンス」そして、「宇宙戦艦ヤマト」が代表作として紹介されていた。個人的には、前者は全く記憶も定かでない世代。後者は、アニメこそ、さほど見たこともないが、主題歌だけは鮮明に記憶に刻まれている。歌としての魅力もさることながら、そのバックで流れる伴奏、特に、あいの手。ここに強烈な印象がある。
最初から歌ってゆくと、「さらば、地球よ、タタタター・・・」てな具合に。編曲家としての力量も、アイディア豊富で、人を楽しませる、面白がらせる能力に長けていた一面がこんなところにも現れているのだろう。ジャズのセンスを歌謡曲やTVのための音楽に持ち込んだ、という功績も強調されていた。
NHKの追悼番組でも、過去の映像など交えて振りかえっていたが、そのなかで、NHKの「ひるのプレゼント」というかつての平日の12時過ぎの番組のテーマが彼の手になることを始めて知った。幼い頃、何げに自宅のTVでよく流れていたもの。何とも、人懐っこく、茶目っ気ある音楽で無意識に刷り込まれた音楽のひとつ。また、「ゲバゲバ90分」のテーマ、最近、発泡酒だっけ第3のビールだっけ、のCMで使用されているあの旋律も彼のものでしたか・・・。随分と知らない間に、彼の音楽は自分の中に入り込んでいるわけだ。
私にとっての意識的な宮川体験は、確か「オーケストラがやってきた」というTV番組でベートーヴェンの「運命」を取りあげた時のこと。
「運命」をいろいろ料理してしまう企画。2点しか記憶にないが、まず第1楽章、再現部で、オーボエのソロがある。ここが、ラーメン屋のチャルメラに変身。確かにお馴染みのチャルメラは、「G」(ソ)の音から始まる。原曲の楽譜どおりオーボエがGの音を伸ばした末に、チャルメラが出てくるわけだ。
もう1点は、第4楽章の冒頭。このテーマはベートーヴェンにしてはあまり魅力のない旋律ですね・・・と言って、「かもめの水兵さん」に変身。確かに、ドーミーソー、と出てくるのは同じだ。第3楽章からのブリッジの末に「かもめの水兵さん」が登場する壮大さが印象的。
まだ小学生中学年頃だったか、「運命」なんて全体像もろくに知らない頃、10才になるかならないか子供に、巨大で近寄りがたい「交響曲」への重い扉を少しこじあけてくれたのが、私にとっては彼だった。
また、偉大なる名曲も孤高の存在でなく、いろいろな音楽と似通っていたり・・・という意識は、自分の編曲癖にも多大な影響を与えているなあ。さらに、今まさに連載中の、ショスタコーヴィチの「引用」への関心も、案外、この「運命」=「かもめの水兵さん」体験の延長にあるような気もしてきた。
NHK追悼番組でも、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を指揮しつつ、「夜の音楽ですから、もっと照明をおとして・・・あ、いいね、暗いね・・・」とお得意のダジャレを交えつつ、そうかと思えば、音楽の方はいつの間にか短調に変わって自然に演歌と思われる引用が出て来て、そんな音楽によるダシャレも自分にはとても好ましく感じられる。素直に笑っている自分がいる。
クラシック音楽が自分にとって、子供心に全く高尚なものでもなんでもなく、ただ楽しいもの、であり続けたのは、TVによるところが大で、当然、山本直純氏、芥川也寸志氏の影響そのものだが、思い返せば、宮川泰氏も、今私がこのように存在している大事な恩人のお一人だったのだ、と改めて感じさせられた。偉大な才能の喪失を惜しむ。今、私が子供だとして、こんなタイプのクラシック音楽への導き手には恵まれないような気がするのだ。
(2006.3.26 Ms)
3/17(金) 第11回浜松国際ピアノアカデミー コンクール予選
2003年の第5回浜松国際ピアノコンクールを特集したNHKの番組以来、こんな近くでこんなに面白い、またレベルの高いコンクールがあることを知り、今後おりをみて、浜松のピアノ関連イベントには立ち寄りたいもの、と思っていたところ。
コンクールは3年に一度の開催。アカデミーは毎年の開催となっている。
昨年は、このピアノアカデミーの10周年の記念コンサートで、連弾から8台ピアノ合奏までの多様なピアノ・アンサンブルを堪能した。
今年は、そのピアノアカデミーの予選の一部を体験する。午前10時半から午後9時まで、総勢30名、15分づつの持ち時間で競う。6名が本選に進む。
とても全部を聴くのは無理なので、夕刻頃13名の演奏を聴く。残念ながらちょうど私の聴いたところからは本選出場者は出なかった・・・残念。
演奏曲は自由ということだが、やはり断然、ショパンとリストが多い。聴き映えもするし、技術披露にも適しているだろう。ただ、リストは個人的にはあまり興味が持てなかったものが多い。有名な「ラ・カンパネラ」はお馴染みだが、「巡礼の年」からの数曲、「バラード」など、音楽自体の魅力が私には感じられない部分が多かった。その点、ショパンは、巧く曲が出来ているな。聴き慣れている曲も、そうでない曲も、心に飛び込んでくる。「バラード」の3,4番、「幻想ポロネーズ」、「アンダンテ・スピナートと華麗な大ポロネーズ」など。特に、「幻想」は、ポロネーズの明確なリズムが極力抑制された文字どおり幻想的な曲の運びが興味深い。「アンダンテ」は、小学校の頃はダンタイソンの演奏でよくTVを見た記憶が甦る。懐かしい。
その他、ドビュッシー、ラベルも聴く機会を得た。特にラベルの「悲しき鳥」は最近、BSでラベルの晩年の悲劇のドキュメンタリーを見たばかりで胸が詰まる。
しかし、私が最も心惹かれたのは、ストラビンスキー。やっぱり・・・。「ペトルーシカ」から「ロシアの踊り」。打撃的なピアノサウンドの魅力も良いし、不協和の浮遊するような響きが突如鳴るのもこの予選の中では印象づけられる瞬間だった。びっくり箱のような存在が強くアピールされる作品。
また、ここでも、没後150年のシューマンには注目。ショパン、リストに比較しなかなか取りあげてくれないのは淋しい限りだが、「ウィーンの謝肉祭の道化」、溌剌とした才気あふれるいかにもシューマンらしい作品。ただ、ショパンに比べれば、洗練さよりは武骨な印象もある。リストに比べれば技術をひけらかす意図は明確には現われてこない。そんなところが、やや敬遠されるのだろうか。もっとシューマン聴きたかったなあ。
(2006.3.29 Ms)
3/12(金) 第140回 アルマ・21世紀コンサート
東海地区において、芸大生を中心に発表の場を提供している当企画、興味はありつつもなかなか足を運ぶことがかなわなかったが、今回、我が家の近く、小坂井町フロイデンホールでのコンサートということで出かける。曲目としては、個人的に注目のものは特になかったのが残念だが、学生の皆さんが中心とはいえ、充実した演奏を聴かせており、大変意義深い企画であることは確認できた。
ハイドンのピアノソナタ第62番。ショパンの24の前奏曲。唯一のVn.独奏は、ショーソンの詩曲。後半は2台ピアノ。インファンテの「アンダルシア舞曲」。最後の組みは2曲で、デュカの「魔法使いの弟子」とストラヴィンスキー「ペトルーシカ」第4部。
ハイドンは、モーツァルトほどに親しみやすさ、旋律美は感じられないものの、ベートーヴェンにつながる硬性な骨っぽさを感じる。
ショパンは、太田胃散CMでも有名なイ長調の前奏曲を含む。ただ全曲は長さを感じる。多彩な音楽が繰り広げられるのだが、全部を一度に演奏する意味は感じにくかった。その点、シューマンなどは、各曲の関連性やら、並べ方などにも工夫があり、全曲の統一感があるように思える(具体的に「謝肉祭」を思い描いているが)。ショパンは、抜粋の方が効果的のような気がする・・・のは素人考えだろうか。
ショーソン、有名な作品ながら、イマイチ、心に響きにくいな。美感は悪くないが、それ以上の何かが欲しい。
インファンテについてはよく知らず。しかし、曲想は、いかにもというスペイン風。
最後の2人、「Scintilla」というデュオで活躍、という。桐朋在学中に結成とのこと。さすがに、デュオとしての活動も慣れているのか、今回最も充実したレベルを感じさせる。圧巻は、やはり「ペトルーシカ」。オケを思わせる色彩感。容赦ない打撃。複雑な錯綜したリズム、拍子も安定感あり、音楽の持つ楽しさが十二分に生きた演奏で満足である。
(2006.4.27 Ms)
3/3(金) ブリュッセル弦楽四重奏団 長久手公演
名古屋市の東隣、昨年は万博で活況を呈した、長久手町での演奏会。豊臣秀吉と徳川家康が戦った古戦場としても有名。戦場つながりで、ベルギーのワーテルローと姉妹都市だったと記憶する。今回もそのご縁か、ベルギーからの招聘。国立モネ劇場首席奏者を中心としたメンバー。
小ホールほぼ満席にしての演奏会。
記念年で何かと聴く機会の増した、モーツァルトの弦楽四重奏曲第4番K157。ハ長調の素直な明るさを基調としたもの。ただし、ハ短調の第2楽章は、後の協奏交響曲(VnとVaの独奏)の緩徐楽章を思わせる哀愁を帯びたもの。旋律線としては魅力に乏しい気もするが。演奏としては、最初の1音からして、その華やいだ雰囲気・・・、普段、日本で聴く弦の音色とは違う存在感が心を捉える。
モーツァルトで明るくつややかな音色を堪能した後、ラベルの色彩的な、明暗・濃淡のコントラスト激しい演奏が、大変効果的そして印象的。ラベルの弦楽四重奏曲は生では初体験。オーケストラを思わせる様々なニュアンス、ダイナミクス・・・やはり曲の完成度、密度の濃さ、抜きん出た名曲だ。
ドビュッシーも弦楽四重奏では、和声的には斬新な感覚ながら、楽器の使用法はまだ前の時代の影響下にありそうなのだが、ラベルは見事に20世紀における管弦楽の弦の手法の見本市みたいなもので、ここまで来れば、ラベルの「ダフニスとクロエ」、ストラビンスキーの「火の鳥」が射程圏内。
演奏も、丁寧かつ大胆。ピチカート1つを取っても、様々なニュアンスが聴き取れる。第1楽章の開始から、モーツァルトとは全く違う柔らかな音色が世界を一変させた。第2楽章の変転自在なスケルツォでのアンサンブルの巧妙さ。第3楽章の緊張感、ヴィオラの存在感も絶妙。第4楽章の冒頭から荒れ狂うような刻み音型の激しさ、そして、一丸となった精力的な推進力。
特に第1ヴァイオリンとチェロのリーダーシップが曲のポイントを押さえ、4人の力が見事に合致した名演、完全に虜にさせられる。
・・・前半が素晴らしかっただけに後半に未練・・・もう一人、ゲストを迎えてのシューベルトの弦楽五重奏曲。正直な感想として、前半の充実度が、一人異質な存在が混在して撹乱されたような印象。第2チェロ、という一番根底に位置する奏者が、四重奏団との息があわない。音色の指向性も相違。不安定な曲の進行と、洗練さを失ったニュアンス。50分という長丁場で緊張感の持続と言う面でもなかなか苦しさを見せていたが(照明でピッチがかなり狂っていたのか楽章間のチューニングも長かった)、個人的には残念な印象が強い。
ゲストは若手、アレクサンドル・ドゥブリュ。開演前から、ステージ上から客席と何度か往復して(録音の関係か)、ちょっと落ち付いてない様子。開場が10分遅れだったのも、仕上がりの不調ゆえか・・・?
ちなみに第2ヴァイオリンは日本人。志田とみ子氏。1959年にベルギーに渡る、とプロフィールにあるとおり、年配の方ながら、かなり存在感をみせていたのが心強い。やはり、西洋での活躍されている奏者の貫禄、確固たるものあり。
願わくば、また、フランスものなど、ピアノを加えた作品も聴いてみたい。それにしても、ラベルの快演は聴く価値おおいにあった。
久しぶりの長久手訪問・・・エスニック料理の「XIAN」(シーアン)にての美味、学生時代と変わらず堪能できたこともまた幸せ(2006.3.6 Ms)
February ’06
2/19(日) 第47回なかよしコンサート アンサンブル・ノーヴァ岡山 (赤磐市にて)
愛知県を拠点に、関東関西くらいまでは比較的フットワークも軽く演奏会に足を運んでいる私だが、今回、岡山までの大遠征。岡山・神戸と漫遊しつつ、ちょうどこの期間に出くわした演奏会は、岡山市から山間部へ、電車・バスさらにもう一度バスを乗り換えて、赤磐市それも、赤坂健康管理センターなる場所までの小旅行となった。山々に囲まれた静かな山村です。随分と遠くまで来ました。
佐分利恭子氏(「分」の字はは本来は人偏がつきますが標記不可につき失礼します)と言えば、宮崎の音楽祭などでもTVで拝見しており、有名なヴァイオリン奏者の一人ですが、そのお姉様がこちらにみえるよう(ヴィオラ奏者・佐分利祐子氏)で、岡山で弦楽アンサンブルを立ちあげているようです。その方の尽力もあって、この地で、演奏会を地道に続けているようです。
今回は、お馴染み、ヴィヴァルディの「四季」をメインに、佐分利恭子氏を迎えて。さらに夫君、N響次席チェロ奏者、桑田歩氏をソロに迎えての、ハイドンのチェロ協奏曲第1番。冒頭に、記念年のモーツァルト作品から、ディベルティメント へ長調 K.138。
「四季」をじっくり聴くのも、なかなかない機会だ。楽譜に示された「ソネット」も丁寧にプログラムに載っており、それを追いつつ、情景描写を思いつつ、しっかりと耳を傾ける。ヴァイオリンのソロもかなり技巧的だと感じられるし、確かに、どれもこれも似たような和音進行などあって、バッハに比較して新鮮味や充実度に欠けるなどという先入観を削ぎ落として、真摯に向きあえば、なかなかに楽想の変化にも富んで、決してあきさせない名曲であることには間違いない。特に、「夏」や「冬」でのアクロバティックな弦の雪崩のような音の奔流というのは、これだけ間近で聴くと壮観である。結構狭い空間で前から2列目に陣取ったこともあり、弦13人とは言え、迫力の演奏が堪能できたのが嬉しい。
佐分利氏(Vn)も、2年ほど前に、長野は蓼科の化石博物館で聞いたシューベルトの弦楽五重奏では、大曲ゆえか後半での集中力の低下がやや気になってしまった経験があるのだが、今回は一気呵成に、乗って演じきれた感がある。
ただ、ステージ上の照明による温度上昇で、チェンバロの調律が狂い、さすがにチェンバロ独奏となる「秋」第2楽章の手前で、一度調律をしなおさなければならない、というハプニングもあり。ちょっとドキドキしました。
確かに、コンディションとしてはあまり良くないだろう。しかし、こういう、人々の暮らす場に出向いてこその演奏会、・・・大都会のコンサートホールで待ち構えてばかりじゃ、クラシックに振り向く人も増えはしないだろうし、・・・この姿勢こそ大事だ。47回続くこの企画、是非とも途切れる事無く継続してほしいものです。平成の大合併の波にのまれて、独立した町から、市に併合されていったのではと思われますが、この赤坂の地で、小さなホールを住民で一杯にしたこの「なかよしコンサート」、大事にしていってほしいものです。・・・と、まとめに入ってしまうのはちょっと速かったか。
ハイドンのチェロ協奏曲第1番を、弦楽五重奏を伴奏にしての、室内楽的な編成での演奏。これはちょっと珍しいかも。しかし、曲想としてはバロックから古典派が確立する過程にある作風で、充分、小編成でも違和感はない。ふと、シューマンが、自身のチェロ協奏曲の演奏機会がなかなかなく、弦楽四重奏を伴奏にした版を考えていた、との話を読んだこともあり、どんな雰囲気になるのだろう?と思っていたところで、今回、ハイドンではあるもののその趣向に出くわすとは思ってもみなかったが。
鷹揚な第1楽章の落ち付き払った風格は聴いていて安心する一方、第3楽章の、無窮動的な、延々走り続けるようなスリリングな曲の運びには気もそぞろになる。そんな音楽の生の姿が室内楽的編成でダイレクトに、呼吸までもが伝わってくる。いい演奏だった。ちなみに、この経験が、独奏、桑田氏にとっては、3月の東京でのブルーメン・フィルでの演奏におおいに役だったことでしょう。私としても、今回始めて、意識してこの作品を全曲聴くことになったが、交響曲以外のハイドンでも、機知に富んだ筆つかいなど明白で、聴く側を楽しませる術をこの作品にも注ぎ込んでいるなあ、と素直に感じた。
また、最初のモーツァルトも、比較的演奏頻度の少ないものながら(サイトウキネンでニ長調のものばかりが突出して有名か)、充分に聴き応えある名作であるのは間違いない。第2楽章の美しさは、特筆しておこう。
この演奏会の後、このモーツァルトの第2楽章と、「冬」の第2楽章は、ヴァイオリンとピアノ用にアレンジして音に出して、我が家でちょっと悦に入ってみた、ということも紹介しておこう。桑田・佐分利夫妻の共演、饗宴にあやかって、・・・。岡山でのいい思い出となりました。
これからも、地域での地道な音楽活動の場、に、居あわせたいものだ。暖かい観客と奏者とのコミュニケーションに立ちあえるのがいい。お互いの顔がわかりあえる距離の演奏会、心にぐっと迫るものも大きいです。もっと、こういう体験、していきたいし、この体験の連鎖が、社会の雰囲気を変える一つの手段にもならないだろうか。以上、岡山県赤磐市赤坂からのリポートでした・・・。
さて、今回の旅、バスの乗り換えもしたりと、ローカル度満点な旅だった。そのバスの乗り換えも、運転手さんが丁寧に教えてくれておおいに助かった。ネット上でも、宇野バスの顧客サービスはかなりハイレベルとのことだったが、それを裏付けてくれた。その乗り換え地点は、赤磐市の中心地であったが、そこでお世話になった、イズミヤ・ゆめプラザ(・・・そう言えば、その後、広島で何やら事件があったような・・・)さんにも感謝の念を述べておく。岡山市内の夜、「天市」さんでの天ぷらはじめ食事の充実もいい思い出だ。
もう、あれから半年もたってしまったが、あの冬のことは忘れまい。
(2006.7.19 Ms)
2/9(木) 伊福部昭氏 逝去
2/9(木)伊福部昭氏逝去。91歳。ご冥福をお祈り致します。
日本の民族主義的な音楽のあり方を、既に第2次大戦前に、それも世界に向けて(「日本狂詩曲」の凄さを想起しよう)提示した先駆者として、さらには、おなじみ「ゴジラ」の作曲者として、永遠にその功績は語り継がれるだろう。
個人的な思い出としても、私自身、クラシックなりオーケストラへの興味関心を持つに至る過程で、随分、氏の作品にはお世話になったっけ。
何と言っても、中高生の頃か、FMで聴いた、芥川也寸志氏の指揮による「タプカーラ交響曲」に対する感動は忘れ得ぬもの。日本人、そしてアジアの血、これを率直なまでに自覚させてくれた作品は他にない。
また、打楽器奏者としても、「タプカーラ交響曲」(第1楽章のみ)、そして「交響譚詩」の演奏に参加できたのは自分にとっての財産であり、また、素直に楽しく、あのノリの自然さ、まるで踊らされるような魔術的な雰囲気、今、思い返してもワクワクしてしまう。
我がHPにおいても、2001年3月の「リトミカ・オスティナータ(ピアノと管弦楽)」、2003年3月の「協奏風狂詩曲(ヴァイオリンと管弦楽)」の実演の体験を至福の時として紹介させていただきました。特に、後者は、独奏の緒方恵氏、そしてジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの熱演、そして作曲者ご本人の姿も拝見でき、感激もひとしおでした。
かつての日本の風景、生活、祭礼、そしてそれらの低層にある土俗的な雰囲気が、もう過去のものとして風化していくんじゃないかと思わせる21世紀初頭、伊福部氏の死は、ふと、まるで都市文明一辺倒で、アメリカのレプリカを作ろうと躍起になってきた日本への問いを突き付けているように私には感じられてしまうのだ。氏が少年時代見たであろう、北海道の風景、そしてアジアの原風景、今、もう一度、日本人として思いを馳せたい・・・。
今宵は、日本狂詩曲の第1楽章「夜曲」を聴いて追悼・・・(2006.2.9 Ms)
2/5(日) プロジェクトQ 第3章 シューマン弦楽四重奏曲全曲演奏会
ブロジェクトQについては、1月14日の記事も参照してください。その、トライアル・コンサート第2日を聴いたところ、若手の皆さんの演奏がかなりいい感じで、今回、N響定期とのあわせ技で上京、時間の都合で、昼の演奏会、シューマンの演奏会のみを聴くこととなりました。夜のブラームスまでは時間が許さず、残念。ブラームスの2番も結構良かったんだよなあ。
1/14が舞台での通し稽古、今回が晴れて本番ということです。1/14と同じく紀尾井小ホールにて。
シューマンの弦楽四重奏、なかなか聴く機会のないもので、今回、没後150年の記念年、ショスタコーヴィチ同様に注目をしてゆこう、との決意のもと、室内楽全集の廉価版CDなど購入し予習したところ見事にはまった!!!
私自身、ピアノの「子供のためのアルバム」は子供の頃から大好きで愛奏していたし、オケに深入りした頃も、交響曲2,3番と並んで、ピアノ五重奏曲などもお気に入りだったわけだ。
ちょうど、幸福感、満ち充ちた頃のこの3曲、どれもが自分の心にすんなり入る作品ばかり。次から次へと魅惑的な音楽が流れ出す・・・。
まず、第1番。イ短調。なれど、序奏に続く第1楽章主部はへ長調。なんと破格な。序奏の主題は、ふとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を思わせる感傷的なもの。そこから吹っ切れたように、なんとも柔和な素朴な主部へと移行。うって変わって、第2楽章の勇壮なスケルツォは面白い。弦楽器ならではの発想をもった楽想で、決して交響曲で言われるようなピアノで演奏した方が良い、などとは言わせない、弦楽のための、弾むような、カッコいいスケルツォ。トリオの半音階的な進行は、ニールセンにつながっていきそうなもの。半音階的とはいえ、気難しさはなく、幾分ユーモラスな感覚。第3楽章は、ベートーヴェン「第九」第3楽章をもろ思わせる崇高なるアダージョ。しかし、やや伴奏が薄めでちょっと物足りない気もする。もう少し内声を書き込んでもらえればもっといい感じだろうに・・・。第4楽章はイ短調に戻って、激しく駆け抜けスリル満点だ。アクロバット的。見ていても楽しい。演奏するほうは必死だろうけれど。ある種、ロック的な面白さ。そんな楽章で、コーダで一息、宗教的な安息が待っているのもこころにくい。
演奏は、ステラ・クァルテット。東京芸大在学のメンバー。とにかく勢いがある。偶数楽章の鋭く情熱的な表現は心をえぐる。若きシューマンの心象というものが目前にあるかのような感動を呼び起こす。良かった。
第2番。1月にも聴かせていただく。ただ、今回、全般的に速度があがっていたのが逆効果だったように私は思う。第1番と対をなすような、へ長調の暖かな柔らかな雰囲気。もっと丁寧にいった方が良かったんじゃないか・・・。特に両端楽章は、勢いよりは、幸福をいつくしみながら確実に進むような曲の運び、これが聴きたかった。もちろん、練習の過程の中で、一定の速度の設定をして、それにどんどん近づけていったのだろうけれど、速度を獲得して失ってしまったものもあったように思う。・・・ただ、第1番と連続して聞いたので私の願望としてそう思ったに過ぎないかもしれない。彼女達に罪はないか。1月の演奏との比較になってしまい、やや否定的な論調になってすみません。
ただ、スケルツォの緊張感、これには不満はない。常に頭拍がずれる何とも困難な楽譜、これをここまで精巧に作りあげる力量は並大抵ではない。脱帽。この3曲では、実はやりにくい曲だったかも。1,3番は勢いが味方する部分も多そうだが。
演奏は、クァルテット・クライゼル。東京芸大大学院のメンバー。おって、他の機会に、第1番の四重奏を演奏するとのことで、是非そちらも聴きたいものと思った。(芸大のシューマン・プロジェクトにてその希望は叶えられましたので、それはまたおって5月の項で)
第3番。ロマンの発露、という意味では、この作品こそ、この連作の白眉だろう。特に前半楽章のキャラクター、そして音楽そのものが、シューマンの独創性の素晴らしいことこの上なし。第1楽章の主題、イ長調のFis−Hという5度下降は、移動ドで読めば、ラーレ、これこそ、愛妻クララへの呼びかけだという解説を読んだこともある。なんと切なく、また美しい主題。人間の心を揺さぶる音楽、こういう音楽のことを指すのだ、と断言したい。この音楽を知らないのは、もったいない、です。
第2楽章。変奏曲形式のスケルツォとはまた珍しい。これも魅力あふれる楽想。途中のシチリアーナ的変奏の切なさはいい。最後の変奏の悲壮感も、悲恋ドラマのBGMになりそうだ。俗っぽいけれど、かなり心に突き刺さる。
第3楽章はやや難しい感想をもってしまった緩徐楽章。ただ、第1番の緩徐楽章に比較すれば格段の差がある。ドラマがある。奥行きもある。ヴィオラの激しい動機が印象的。第4楽章は、あっけらかんとした、スピーディなロンド風なフィナーレ。かわいらしいトリオも子供の世界のようで面白い。ただ、全曲を統合するにはやや軽い楽想かなあ。推進力はあるが、あまり複雑な展開をせず、楽想が羅列されている印象も強い(ロンドだからまさにそういう形式なのだけれど、ちょっと図式的か)。コーダでようやく、主題の展開風なものが現われて、私の個人的な欲求不満は解消されるが・・・。フィナーレに関して言えば第1番が最も充実しているように思う。もちろん、第3番のフィナーレも1度聴いたら忘れられない人懐っこさは捨て難い魅力。何も考えずとも、元気がでます。
演奏は、ジュピター弦楽四重奏団。なんと、昨年、日本音楽コンクール第1位の二人が所属するツワモノ・カルテット。1st Vn.植村太郎氏。チェロ、宮田大氏。3団体でもっとも貫禄、余裕がみなぎる(一所懸命さは、第1番の団体が最も感じられたかな)。内声まで含めて、分厚い響きが安定感をもたらしていた(緩徐楽章に重さを感じたのは第3番)。
馴染みの薄い作品に全力投球、これだけのハイレベルな集中力あふれる名演の数々、2006年の忘れ得ぬ思い出である。
我が友、ロベルト。君の音楽は一生の友である。もっと、知らねばならないね。
(2006.7.24 Ms)
2/4(土) NHK交響楽団 第1560回定期演奏会
ブロムシュテット来日。今回もN響定期を3回振るので、是非と駆けつける。
前回は、ニールセンの交響曲第6番、クラリネット協奏曲など興味津々なプログラムだったが、うって変わって、今回はドイツ正統派で攻めている。やや残念、というのが当初の本心。まして、モーツァルト生誕250年。本当はブラームスのプログラムが一押しであっただろうが、所用により、オール・モーツァルトの日に上京。
交響曲第34番ハ長調。
これは珍品か。後期の6つの交響曲の手前の未知なる作品。演奏頻度は高くないだろう。
モーツァルトの旋律美、滑らかな音の運び、とはやや趣が異なるように感じる。冒頭の主題提示からして、自然な流れ、というより、動機の提示をいかに組み立てようか・・・といった指向が目立つようで。ただ、金管、ティンパニも活用する祝祭的雰囲気はあり、聞いていて変化にも富み、決してつまらないものではない。
メインは、ミサ曲ハ短調。
未完ながらも1時間あまりの大作。自分の結婚披露的な作品で、故郷で、新妻に第1ソプラノを独唱させるもくろみ。全面的にソプラノが大活躍。さらに、アルトを採用せず、第2ソプラノの独唱を取り入れ、ソプラノのニ重唱なども心地よい美しさだ。第1ソプラノの独唱で最も印象的なのは、第3部クレドの第2曲。聖母マリアを歌う部分の、なんと清らかで情感豊かなことか。弦とオルガンの伴奏に、フルート、オーボエ、ファゴットが1本づつ、ソプラノの歌唱にオブリガートをまとわせて、美感あふれる時を演出する。フルートは、この場面だけに使用され、それも効果が抜群だ。独唱、木管の上質な完成度が、聴いていてとても嬉しくなるほど・・・心に染み入るいい音楽を聴いた・・・。ソプラノの幸田浩子氏に拍手喝采だ。素直なる「美」は、こうも人の感情を揺さぶるものなのか。
混声合唱も、通常の4部だったり、4部合唱を2群に分割したりで、楽章によって結構頻繁に歌う位置が交替したりして、興味深い趣向であった。国立音大の合唱も好演。合唱だけの部分も結構多いが、重厚でまた清らかで、さらにフーガ的な精巧な対位法も明瞭に構築されており、純粋に敬虔な心持ちを感じさせるものだった。特に弦の複付点音符の音形に乗せて歌われるスケールの大きなバロック的ムード満載な部分の感激は忘れ得ぬ。
全体的に見渡せば、通常のモーツァルトらしい、天真爛漫な飛翔を感じさせるところもあれば、バロックの壮麗さを緻密な作曲技法に裏打ちされて確立させているところあり、モーツァルトの天才ぶりを、改めて思い知らされた。この作品との出会いは幸福なる福音か。司祭たるような、ブロムシュテットにもおおいに感謝である。
開演前室内楽も、モーツァルト。ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲第2番。
2人だけとはいえ、充実した、何ら欠けたるものを感じさせない音楽となっていた。演奏の完成度も目を見張るものあり。N響の奏者の層の厚さ、(特に弦だ、)感服させられるなあ。
(2006.3.11 Ms)
January ’06
1/20(金) 礒絵里子・佐々木祐子 コンサート
〜豊橋をHAPPYにしてくれる音楽家たち〜
昨年に引き続き、豊橋市におけるコンサート・シリーズを聴く。CDも出している、有名な若手Vn奏者。
モーツァルト記念年にちなんで、ホ短調のヴァイオリン・ソナタ、KV304。クライスラーの小品、3曲をはさんで(愛の喜び、美しきロスマリン、中国の太鼓)、プーランクのソナタ。後半は、「タイスの瞑想曲」、「亜麻色の髪の乙女」、そしてフランクのソナタ。アンコールは、クライスラーの「真夜中の鐘」。
プーランク、フランクのソナタ、と本格的なプログラムは嬉しい。ただ、全体的に、軽め、あっさり系かしら。もう少し、詩人ロルカの死にインスパイアされたプーランク作品には、もっと「死」のイメージ、厳しさが欲しかった。フランクも、昨年末、小林美恵氏の演奏を聴いたばかりで、どうしても比較してしまった。凄み、がもっとあっていい。第2楽章のテンペスト的な雰囲気。・・・綺麗にまとまってはいるのだけれど、もっと、迫って欲しかった、というのが正直な感想。でも、1000円でこれだけの演奏が提供されるのは称賛したい。
豊橋市には今後とも、この路線、続けて欲しい。昨年に比べ、パンフレットが極端にボロくなったので、やや心配。
(2006.2.10 Ms)
1/14(土) プロジェクトQ 第3章 トライアル・コンサート 第2日
2年に一度、若いクァルテットの育成を目的としたプロジェクト。今回は第3回目として、6団体が、シューマン及びブラームスの弦楽四重奏に取り組み、国際的な講師陣を迎えて練習を重ねてきた。2月の本番を前に試演会を行うということで、2日目のプログラムを鑑賞することに。それぞれの2番の四重奏曲を、午前11時から、紀尾井小ホールにて。料金は後払いで、聞き手の任意の金額で良い、と。なかなか面白い企画ではないか。
まずは、シューマンの2番。演奏は、クァルテット・クライゼル。東京芸大大学院在学中がメンバー。
年始早々から、シューマンの幸福感あふれる美しい演奏に出会えたことに感謝。へ長調の穏やかな雰囲気のなかに、念願のクララとの結婚を果たし、さらに、ピアノ曲のみならず、歌曲、室内楽と、作曲家としての活動が広がるなかで、前途洋洋たる自信、さらにはシューマンならではの、自身の刻印が明らかにある。なぜこんな佳作が埋もれているのか。・・・演奏しにくい面は見ていても感じられるが・・・それ以上に、音楽自体の魅力は否定し難い。
第1楽章からして、歌謡性に満ちた旋律、微妙に切ないハーモニー、幸福感全開だ。
第2楽章の変奏曲はやや冗長な部分もないわけではないが、主題自体になんとも美しい半音階的な和声の動きが内在しており、その瞬間を楽しみに変奏を楽しめば長さも気にならない。
第3楽章は、一転してハ短調の、拍子感の安定しない不安なスケルツォ。シューマン、交響曲第1番も「春」の交響曲なれどスケルツォは短調。ベートーヴェンのように、楽天主義一色で曲が書けないのがシューマンか。色々な気分が次々と転換して行くところに彼の性格は出ている。
第4楽章は、やはり「春」のフィナーレのように、ピアノの細やかな動きをそのまま移したような弦楽器には弾きにくそうな16分音符の連続。第2主題で、交響曲第2番のフィナーレの後半部の主題と類似した旋律が出てくるのが印象的。
全体的に、演奏も明るさ、麗しさを全面的に感じさせるもので好感大であった。シューマン没後150年の記念年の開始に相応しい、素晴らしい演奏でした。
つづいて、ブラームスの2番。演奏は、クァルテット・ヴェーネレ。東京芸大1年生のグループ。
シューマンとは対照的に、イ短調、うら淋しく、いかにもブラームスらしく、また、重厚な音の重なりが、弦楽四重奏を超越してオーケストラをも指向するような雰囲気で、特にチェロの安定感、存在感が増していて、シューマンとの作風の差は歴然。そのあたりが、演奏でも巧みに引出されていた。
第1楽章の冒頭から、なんとも哀しげな歌が聴かれる。友人のヴァイオリン奏者ヨアヒムのモットー(FAE)を折り込んだ旋律は、一度聴いたら耳を離れない。
第2楽章は、なかなか親しみにくい晦渋なもの。低音の歩みに似た動きもやや人工的な感じで、緩徐楽章の通俗的魅力はブラームスには縁遠いようだ。
第3楽章メヌエットにしても、暗く、その雰囲気はフィナーレまで持ち越され、決してあからさまな明るさはなく、厳しい表現が続く。フィナーレ自体、3拍子の3小節フレーズが不安定な感覚を助長している。しかし、その鋭く突き刺すような暗い情熱は聴いていて心に深く印象を刻みこむもの。
シューマンの若々しい瑞々しさとは正反対の方向性が、演奏にも充分感じられ、風格すら感じられた・・・まだ10代なんですよねえ、4人とは言え、ブラームスの多彩な引き出しを演奏面でも体得されて、交響的な奥行きが堪能できる素晴らしい演奏でした。
こんな充実した演奏を聴かせていただけるとは・・・このプロジェクトQ、今後とも是非とも応援してゆきたいものです。
最後に余談ながら、上京のオプション。中古CDにて、シューマンの「ミサ」と「レクイエム」さらに、翌月のN響で取りあげるモーツァルトの「ミサ曲ハ短調」を購入。暖かな優しさをも感じさせるシューマン最晩年の「レクイエム」はなかなか良い。モーツァルトについては、また、N響定期の紹介で触れる事となろう。
前日から東京入りしたのはいいが、予想外の寒さで1枚、ついて早々、服を買う羽目に。この寒空とブラームスのクァルテットが妙に似つかわしかった(2006.3.2 Ms)