今月のトピックス

 March ’05 

3/21(月) NHKシンフォニーコンサート 公開録音(東京フィル&相沢吏江子)         

 静岡県のお茶どころの中心、菊川が、今年合併によって町から市になったのを記念しての公開録音。応募ハガキが当選して1時間強の電車の旅。ただし、当選は1人分、いつものような2人旅ならず、残念。

 FMシンフォニーコンサート、確か私が小学生の頃、すでに放送されていたと思う。テーマ音楽のバレエ音楽風なリズミカルな音楽はつい最近も流れていたっけ(山本直純氏の追悼番組も聴いたな)。その思い出の番組に参加させていただけるのも楽しみ。

 飯守泰次郎氏の指揮、第一にメインのブラームスの交響曲第1番の迫力に打ちのめされ。とにかく、冒頭の重々しく圧倒的な轟音、これはいいものが聴けた。
 得てして地方のホール、個々に音響の問題はあろう。今回の菊川文化会館「アエル」(ユニークな命名だ)、10年ほど経つホールのようだが、ステージの上方の反響板が無い様に思われ、果たして音が飛ぶのかと心配するも、無用だった。ただ、低音の強調が目立つ、ウラを返せば、高音、特に木管が飛びにくいかな・・・。あと陣取った席の要因もあろうがトランペットの突出もやや気になる。
 もろもろのバランスの問題もあったが、総じて満足。冒頭の「本物らしさ」は感激。意外にこういう体験はないもの。コントラバスの重々しい歩みがここまで聞こえるんだからなあ。冒頭のドの音のみならず、二度目に出るソの音の歩みもティンパニのトレモロには消されずに堂々と鳴り響く、この気持ち良さよ。さらに、この体験は初めてだが、コントラファゴットが何やっているのかがずっと聴き取れる。これが面白い。冒頭の重厚さも、コントラファゴットの存在感が一役買っている。「アエル」での重厚なるブラームス体験、これはオススメしたい・・・今後そうそうないかもしれないが。
 演奏の全体的感想は、飯守氏の情熱的な指揮に尽きるか。とにかくテンポの揺れの激しさ、重く始めて加速するパターンの多用、和音の決めの重さ。ややオケがついて行けないところもあったが(ティンパニが細かなリズムを刻む場面でのためらいが、演奏の安定性を確保できないというの場面が気になる)、指揮者の確固たる意志が演奏に現われておりオケも必死だ。地方公演だからというダレは皆無。もちろん放送用という気合いもあろうが、来て聴いて良かったと素直に思えるのは幸福なことだ。ダレが露骨に現われている演奏は聴きたくないよ。地元プロオケには耳の痛い話かな。
 そんな熱演に応えて、また、公開録音という雰囲気、さらに会場が満員ということで拍手の迫力も凄い。聴衆の感謝の念、満足度のハイレベルさを表現した拍手もまたコンサートの後味を良くしてくれた。大都市公演ではみられないこの雰囲気、結構気に入って、最近機会をみてプロのドサ回り等々の地方公演を聴くようにしている次第・・・・ただ、隣にいた高校生らしきグループがブラームスでずっと眠っていたのは、さもありなん。前半のメンデルスゾーンは聴いていたのに、若き女性になかなか分の悪いブラームスか。
 全体に高音の方に分が悪い印象ながら随所に光る部分は多かった。まずヴァイオリン・ソロ。こんな麗しく輝かしく響くとは思わず、突然の登場にハッとさせられる。ショスタコでおなじみの荒井氏ではなく若い方のようだが、注目したい。
 フルートも第4楽章の序奏のアルペン・ホルンのテーマが、さわやかにかつ朗々とスケールの大きな演奏で心を打つ。
 その手前の当のホルンも鳴りに鳴っていた。全体にホルンパートは充実していた。特に第1楽章のコーダ手前のクライマックスでの和音の吹奏の目立ち方もいい感じだった。
 アンコールのハンガリー舞曲第1番も、余勢をかっての熱演。懐深い弦の響き、ブラームスの暗い情熱も全開。トリオ部分の最後で、ゆっくりしたテンポがもとに戻る部分、フェルマータのかかった音が強烈なクレシェンドを伴って迫る効果もゾクゾクしてしまった。

 さて、前半はうって変わっての雰囲気でメンデルスゾーン特集。まずは、「真夏の夜の夢」序曲、スケルツォ、夜想曲、結婚行進曲。夜想曲の中間分の情感の豊かさに心打たれる。意外な部分だが、幸せ一杯な雰囲気の中、かげりのある部分に表情豊かな味つけ、心憎い。古典的でさっぱりしたメンデルスゾーン像からうってかわっての、例えるならワーグナー風濃厚さ、飯守氏ならではか。
 続いて、珍しい、ピアノ協奏曲第2番ニ短調。昨月のライプツィヒ・ゲヴァントハウスのコンサートで購入したブロムシュテット指揮による5枚組CDに偶然収録されていて予習済みだったもの。ただ曲の魅力にやや乏しいのは否めない。イギリスでのオラトリオ「聖パウロ」とともに演奏されるべく作曲されたようだが、そのせいか、厳粛な第1楽章を持つ。ベートーヴェンの第九冒頭を想起させる動機なのが印象的。また、全楽章連続して演奏されるという構成は彼らしいもの、第1楽章の緊張感が第2楽章の穏やかさへと移行する部分など面白い、が、第2楽章から第3楽章がイマイチ。第1楽章の厳粛さが戻ってくるもののただの序奏で、フィナーレは明るく軽やかな足取りの3拍子、この移り方は予想を裏切られた。また、前半で演奏時間1時間超という苦しさも、今回私の楽曲の評価の低さを助長したかな・・・・。
 ちなみに手元の書籍、シューマンによる評も的確に思える(「音楽と音楽家」より)、

「実際、彼はいつみても同じで、あいかわらず昔の楽しそうな足どりで歩き廻っている。」
「メンデルスゾーンは当然、いつもそうした立派な音楽を与えるという賛辞を受ける資格があるけれども、その彼にしても、熟考した曲のほかに、時々粗雑な作曲をすることがあるとは否定できない。」
「僕が余程思いちがいをしているのでなければ、彼はこの曲を数日かあるいは数時間で書いたに違いない。」
といった具合だ。

 演奏面では、ソロの相沢氏、メンデルスゾーンの細やかなパッセージ(昨年、生で聴く機会をもった、チェロソナタやピアノ3重奏にしてもピアノの音符の細かさは特徴的だったが)も流麗によどみなく。ただ、実力ありながら、楽曲に今回恵まれない出会いとなってしまったかな。でも、今月、ショスタコーヴィチとスクリャービンの前奏曲によるデビューCDを発売、ということでも注目。この3/27にはレコーディングを行った滋賀県栗東のホールでのコンサートもあるとのこと、もちろんショスタコを含むプログラム、こういうスタンス、大変ありがたい限り。

 ちなみに、ラジオ放送は6/12,19の日曜午後2時から。興味あれば是非とも。飯守氏のブラームス、なかなか良いのでご報告まで。

 浜松にてもろもろ楽譜や古本もあさる。芥川也寸志氏のこれまたピアノのための前奏曲の楽譜を105円にて。ショスタコつながりか、ありがたいこと(2005.3.25 Ms)

 

3/9(水) 浜松国際ピアノアカデミー 10回記念オープニング・ガラコンサート         

 静岡県は浜松市、楽器の街ならではの、ピアノ・アカデミー。ミシェル・ベロフはじめ外国からの講師を迎えて3/9〜20に行われ、今年は10周年を記念しての、あまりに豪華な、贅沢なガラコンサートが中村紘子のナビゲートで行われた。ピアノ連弾、2台ピアノ、ピアノと打楽器、4台ピアノ、最後は8台ピアノ。このアカデミーから育っていったピアニストも世界から集合、チャイコフスキー・コンクール優勝の上原彩子さんはじめ、前回の浜松のコンクールでも上位入賞を果たし、コンクール特番でも大きく取りあげられて有名となった、鈴木弘尚さん、須藤梨菜さんなどが珍しいピアノによるアンサンブルのコンサート。

 まず、ストラビンスキー「春の祭典」連弾。第2部、「いけにえ選び」から「祖先呼び出し」までという大変濃い部分からコンサートは始まる。続いて「ペトルーシカ」を2台ピアノで。「ハルサイ」は作曲者自身の編曲で、「ペトルーシカ」は、ピアノ・ソロ用の編曲「ペトルーシカからの3章」をさらに編曲したもので、第2章を割愛。やはり2台ピアノの迫力は凄まじい。塚本聖子、奈良希愛両氏の力量も特筆。低音の響くの何の。共鳴してゴーゴー鳴り渡る。「謝肉祭」後半の同音連打など教会の鐘が大伽藍で鳴っているかの迫力。「ハルサイ」の方が不協和音、変拍子などどぎついのに、迫力で「ペトルーシカ」に完全に食われたな。
 続いて、ショスタコーヴィチの「2台ピアノのためのコンチェルティーノ」。「ペトルーシカ」の迫力には当然負ける作品なれど、軽やかなギャロップ的なコミカルなアレグロが微笑ましい小品。ショスタコ親子の仲睦ましい姿を彷彿とさせる。父チャンの若い頃はこんな風に無声映画に音楽つけてたんだ、といったムード、裏のない嬉遊性。演奏は第1ピアノの須藤さん、コンクールを紹介したTVでも「プロコ大好き」と言っていたハイティーン(プロコの3番の協奏曲の名演は忘れ難い)、若々しく、溌剌と弾き切っていたのが印象深い。
 前半最後に、ラフマニノフの「2台ピアノのための組曲」から「タランテラ」。上原さんの堂々たる演奏が目を見張る。細かな動きが多く、ガツガツ鳴る重厚な和音の余韻のなかで聴き取りにくい感はあったものの、ラフマニノフのピアノ作品の巧さも光るいい演奏だった。

 後半は、ますは、楽器の街、浜松を意識して、その他楽器との競演。ということで、N響の植松氏をリーダーに、地元打楽器奏者もあわせ3人と2台ピアノの編成で2曲。まずは、植松氏の編曲による、シャブリエの「スペイン」。タンバリン、カスタネット、トライアングルがピアノの前で、楽しげに舞う。植松氏のタンブリンの巧妙さ、光るなあ。原曲で後半、大太鼓がソリスティックに打ち込む所は、足を鳴らし、その他手拍子も入れた面白いアレンジを聴かせる。
 もう1曲は、ラベルの「スペイン狂詩曲」より「祭り」。なんと、ペーター・ザドロの編曲(とは言え、なかなかこのコンサートの聴衆には「ザドロ」が何者かよくわからないか・・・コンサートでの紹介では、当然、「元ミュンヘン・フィルのTimp.奏者、巨匠チェルビダッケで有名な」といった感じであったが、中村紘子氏はさらに、ピアノで言えば「ルービンシュタイン」に匹敵するような名手、との紹介。随分と持ち上げてくれるな。)。彼自身に連絡して、このコンサートのために借りてきたという楽譜。基本的に、オケの打楽器パートを効率良く3人に割り振ったといった感じ。それ以上のものはなさそうでちょっと物足りないな。やはり、バルトークのソナタにような完成度、独自性など思い浮かべると比較にならないな。バルトークのソナタこそここで聴きたかったかな・・・。それは贅沢な話か。
 ナビゲーターの中村紘子氏も楽しいコメントを曲間ではさんでいたが、植松氏も温和そうな笑顔とおしゃべりで場をなごます。また、浜松製の楽器ということで、舞台上の打楽器が紹介され、その他、ヤマハの発祥でもあるオルガンや、今や西洋でも製造されていないアイーダ・トランペットなどもステージに陳列され、浜松は凄いんです、と強調。

 続いてピアノのみになって、ラベルの「口絵」。2台5手という風変わりな。講師の一人が3人目として部分的に片手参加、譜めくり付き。あっという間の小品で、客席からもとまどいが。いかにもラベルらしい和声感にあふれたものではあった。
 さらに4台の作品、ミヨーの「パリ」。4台ピアノということで滅多に聴かれないもの。でも、複調的な作風で、親しみやすさと現代性が同居したもの。いかにもミヨーらしい楽天性。ただミヨーのオケ作品は、雑な感じがして今までも自分的に好みではないが、こういう室内楽系は、面白く感じられる。演奏時間もコンパクトで、線のくっきりした古典的なわかりやすさが魅力と思う。
 前半は近現代ロシア、後半は近現代フランス。ピアノ・アンサンブルのコンサートということで、ややマニアな選曲が続き、個人的には嬉しい限り。
 さあ、最後は全員そろっての、8台ピアノをそれぞれ連弾、ロッシーニの「セミラーミデ」序曲をツェルニーが編曲したもの。ピアノのフェスティバルではたびたびやられるものらしいが(TVでも見たことあり)、日本ではまずやられないだろう、と。これも楽器の街浜松の面目躍如。さすがに指揮がないとアンサンブルがあわない、となぜか浜松市長が指揮を・・・・と思いきや、かなりあやしげな存り様。冒頭だけやってリタイヤ。これは演出。結局、講師の一人が適宜指揮をとっての演奏。そう言えば今まで、よく2台にしろ4台にしろ素晴らしい精緻なアンサンブルを披露していたもの。比較的、こういう合せには皆さん慣れてはないのだろうし、練習時間もしっかり取れたわけでもなかろうに、素晴らしいことだ。
 アンコールは、8台ピアノで「剣の舞」「火祭りの踊り」これまた仰天の愉快さ。
 最後は、ピアニストの皆さんから今回のコンサートの立役者、調律士さんへの花束贈呈、確かに今回のコンサートは裏方さんも大変だったろうに。中村氏も、常々、コンサートのパンフレットに調律士さんの名前も書くべきと思っている、とのコメント。ピアニストの活動の土台を作ってくれているのだ。

 聴衆の集中力も高く、また、アクトシティの中ホール、ほぼ満席で熱気あふれるコンサート。中村氏も、国際コンクールをやる前の浜松と比較し、随分聴衆の雰囲気がよくなったと誉めていた。聴きどころがわかっているのが奏者にも伝わる、と。奏者も聴衆の反応を受けとめながら成長するので、この浜松は理想の場所、と持ちあげることしきり・・・・。浜松の今後はおおいに楽しみだ。

(2005.3.26 Ms)


 February ’05

2/27(日) フルートと打楽器&マリンバによる音の冒険 永井由比&宮本妥子         

 1月の豊橋市での、(財)文化創造による演奏会(公共ホール活性化事業)の感触が良く、同様のコンサートを探し、岐阜県の多治見まで足を伸ばす。
 フルートと打楽器によるコンサート。最初は、「ちゃわんだふる・セッション」と題して、陶磁器の街である多治見の特性を生かして、陶器を即興で叩きつつ、フルートもそれに加わる試み。コンサート当日までの3日間、町のあちこちで、「ちゃわんだふるコンサート」と題して、各施設での演奏をこなしてきたようだ。当然、「茶碗」と「ワンダフル」をかけたシャレだが、このセッション自体は、いわゆる現代的な趣も強く、いきなり演奏会の冒頭の、うす暗いなかでの怪し気な雰囲気、ちょっと近寄り難い印象を与えてしまったか。
 続く作品は、フルートとマリンバのための作品で、タナーという作曲家による「ディバージョンズ」より「イントロダクション」「ワルツ」「マーチ」。マリンバは2本バチ(片手1本づつ)とシンプル。今回のプログラム上、2人の競演はこれのみだったが、いささか期待ハズレか。あまり魅力的な作品と感じられず。また、ありあわせの作品といった感じで、もっとこの2人の編成で、これは、と思わせる作品を聴きたかった。この編成オリジナルの作品はなかなか思い付かないものの、ピアノとフルートの作品の編曲とかも加えるなり、もう少し工夫も欲しかった。2人の一期一会のコラボレーション、という雰囲気ではなかったな。2つのソロ・リサイタルをくっつけた、という感じだったので、その点はやや淋しい。

 その後、それぞれ、打楽器・マリンバで、ワンステージ、フルートでワンステージ(ピアノ伴奏はあり)、各々の演奏レベルは確かで、それぞれの作品を楽しめただけに、冒頭だけが個人的には惜しまれるところであった。

 まず、マリンバ・ソロで、シュミット「ガナヤ」(通常「ガーナイヤ」と表記されると思うが、プログラム及び演奏者の紹介に準じておく)、グレニーの「小さな祈り」。「ガナヤ」は、アフリカの「ガーナ」の音楽との関連性があるようで、よく演奏される作品らしい。いかにもアフリカ的なリズミカルな作品。一方、グレニーは、盲目の女性打楽器奏者。彼女のそんな境遇なども紹介しつつ、「いつも自分なりの思いを込めて演奏しています」との言葉に、会場からもさかんな拍手が送られた。
 続いて、打楽器による作品2曲。ノボシーという作曲家の「ア・ミニット・オブ・ニュース」。小太鼓ソロで、通常の奏法以外に、ブラシや素手をも使い、また、枠打ち(リム・ショット)や、響き線の上げ下げなども楽音として採用した面白い音響の作品。まあ、曲芸的な感じだが、現代音楽的なワケワカラナイ感覚ではなく、あくまでポップな仕上り。
 最後に、クセナキス「ルボンB」。これまた、打楽器ソロでよく聴かれるもの。ギリシャの作曲家で、数学的な作曲法による作品を書いているようで、この作品も、複数の太鼓をただ、暴れダイコ的に叩くようにも見えるが、かなり複雑な拍子感、リズム感を伴うものと見た。見ごたえも十分だが、やはり和太鼓とかと同じく、リズムが前面に出、かつ音響的にも体に響き、聴いて高揚感があおられる。かなり腕の確かな奏者であることは分る。
 
 フルートのステージは、モーツァルトの「アンダンテ」で上品に始めつつも、「今日は、皆さんの持つフルートのイメージを変えてみたい」という奏者の言葉のとおり、現代日本人作品(福島和夫「冥」)や、即興も交えた自由なアレンジによる「木曽節」(声による掛け声、足踏みなども入れて)などを取り入れ、力強い雰囲気も味わって欲しい、という趣旨。
 奏者は、女性的な名前だが、男性です。作家、志茂田景樹氏の主催する「読み聞かせコンサート」のメンバーとのプロフィールあり。

 最後になりましたが、打楽器奏者は、みやもと「やすこ」さんとお読みするようです。滋賀県の出身、ドイツのフライブルクに留学、在住とのこと。HPもあり、海外でのコンサートなども数多くこなす俊英。比較的軽いイメージで望んだ「ちゃわんだふるコンサート」実は、「本物」を堪能させていただいたわけです・・・・(マリンバで、通俗名曲を、といった雰囲気では完全にないわけで)。演奏会全体としては、柔らかな雰囲気でトークも楽しく、十分楽しめたもの。ただ、観客はもっと集めなきゃあ・・・奏者に失礼だし、ホールが受身になってないか・・・「ホール活性化事業」なんだし、豊橋のときも痛切に感じたが、小中学校とかも巻き込んで、楽器を演奏する子供達にも本物、目指すべき姿を見て欲しい。検討の余地は多々ありそうだ。企画は良いのだから、もっと役所に奮起を期待したい。地域の音楽シーンの大ニュースとして、もっと注目されてしかるべし。

(2005.6.6Ms)

2/24(木) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 松本公演         

 ブロムシュテット指揮によるライプツィヒ・ゲヴァントハウスの来日、彼がこの7月で退任、これが最後の来日ということで是非行かねば、ということであったが、最も近くでの公演、豊田市を見送る羽目になり、松本まで出かけることとなった。午前中は仕事、昼から電車を乗り継ぎ、でも夕刻前には到着、意外や近いものだ。途中木曽路からは雪景色。松本に着けば、雪も激しく。

 会場は「まつもと市民芸術館」。昨年夏にオープンしたばかり。外観も内部も流線型を多用した柔らかなイメージ。客席は渋めの赤を基調とした落ちついた趣。

 プログラムは、ドイツの正統的選曲。メンデルスゾーンの「イタリア」と、ベートーヴェンの「エロイカ」。
 とにかく、勢いのある、活力みなぎる演奏、(緩徐楽章も含めて速いテンポ設定という側面もあってか)これは、御年78歳ながら全く年齢を感じさせない若々しさを誇る(菜食主義ゆえか)、指揮者の素質に負うところ大。今までの来日3回とも、ブラームス4番(1999年)、ベートーヴェン7番(2002年)なども、普段耳にするそれらの音楽とは全く違う新鮮な驚きと感動を与え続けてくれていたが、今回もこの聴き慣れた名曲に見事、生命を吹き込んだ。
 ゲヴァントハウスの響きは、やはり分厚い弦の響きと、何と言ってもさすがドイツ、というホルンの充実ぶり。同じドイツでもベルリンなどはインターナショナルで、それぞれの個性の集積をまとめあげてゆくスリル、そして派手さを感じるが、こちらは、地域性を重視(ある種、排他性あり。同郷、同じ教育のもとの人材の集合)、そして派手さよりは、武骨さ、を感じる。東ドイツ時代の排他性が、古きドイツの伝統的な響きを温存させ、今なおその伝統を守り貫いている感もあり、それが洗練よりは武骨、という方向なのかとも思うがこれは個人の思い込みかな・・・。

 「イタリア」冒頭から、軽やかな木管のリズムに乗って歌われる弦の主題に魅了される。フレーズの隅々まで細かなニュアンスに心が配られている。さりげない抜き方が絶妙。ただ音質は思っていたよりはやや荒めか。メンデルスゾーンと言えばソフトな柔らかな語り口、ヤワなイメージ(ベートーヴェン・ブラームスなどのいわゆるドイツ的、男性的な感性とは一線画された)が先行してしまうが、硬質な感。
 もちろん、柔和な第2主題などは雰囲気ががらりと変わり、また第2主題でなくとも箇所それぞれに堅さ柔らかさ織り交ぜて展開して行くが、特に展開部でモチーフを積み上げてクライマックスを構築する辺などかなり打撃的、攻撃性を増している。音楽の作り方が軽くなく、スケールの大きさが前面に出ている。弦の編成は小さめながら(コントラバスなどたった4人)、ダイナミックレンジは広いし、表現に幅もあるわけだ。
 その幅を最も感じたのは第3楽章。このメヌエット的な麗らかな優美な楽章、あまり目にとまらない部分ではある(「田園」第2楽章的なムードも手伝って)。しかし今回、主題の歌い込みが凄かった。長調の主題がリピートの後、短調へ移り、愁いを秘めた色へと変わるが、この愁いが、秘めたものではなく、あふれ出るこぼれ出るほどの感情の高まりで、波のように押し寄せた(もちろん旋律だけでなく弦全体の方向性が)。メンデルスゾーンもこんな感情過多に演奏するのだ、と新鮮かつ、素直にここは感動、実は涙が出そうになるほど。
 メンデルスゾーンが育てたゲヴァントハウス。その伝統の重み、そして、使命感。この第3楽章の何気ない一節にまで見られる生命力の発露、これは他のオケでは聞けなかったことだろう。音楽の隅々まで命を吹き込み、どんな些細な箇所でも感動を呼び起こせる・・・・新たな発見。これこそ、同じ楽譜をただ音化するだけではない、演奏活動の原点。この発見がなければ、生演奏はいらない、録音があれば良い。楽譜の「音化」と「音楽化」は全然違う。確かにどんな大作曲家の偉大な作品も、だれる部分はある。しかし、そこを捨て、もしくは見過ごして演奏するのではなく、その「だれた部分」も、何らかな意思を持って演奏、その大切さを思い知った。
 これは端的に示せる点として紹介した箇所にすぎず、ハッとさせられる箇所は他にもあった。とにかく聴き慣れた名曲でありながら、飽きが全くこない、面白くてしょうがない。スリリングな展開と、新発見の数々、こんな幸福な時間はない。

 (飽きがこない、時間を全く感じさせない・・・そう言えば「イタリア」も「エロイカ」も第1楽章の提示部は繰り返しあり。そうでありながら飽きないのだから、よっぽど中身が充実しているんだなあ。初演当時と違ってみんな曲を知っているし、録音もあるし、主題を覚えてもらうための提示部繰り返しは現代は不要との意見もよく現場で聞くが、いい演奏であれば、繰り返してその名曲をもっと味わいたいし、繰り返すために作曲された第1カッコの部分も作曲家は作曲しているのだし、私は比較的繰り返し容認派である。演奏に新たな発見が感じられればそれをもう一度確認したいとすら思うじゃない、それだけ、私は繰り返しを苦痛として味わわずに済んでいるということか。ホントにいい演奏は繰り返すことで失望はしない。繰り返すに足る演奏が出来ないなら繰り返す必要はないとも言えるだろうけど。でもそれなら演奏すらしなければ良い。)

 なんだかもう、まとめのような感じだが、蛇足の如く続けると、第4楽章の冒頭の弦の激しいリズム提示など、第3楽章からのアタッカで来る効果もあってゾクゾクしたし、それに続くフルートの超弱音のテーマなど感心を越えての感動(技術の凄さに感心しながら感心に留まらず、とにかくスリル満点な効果)。一気に速いテンポでまくし立てながらも、音量、音色の差が目まぐるしく変化、特にチェロに出るちょっとした歌のインパクトや、対位法的からむ部分の立体的な処理(漫然と混濁せずに各声部が驚くほど見て取れる・・・これは第1楽章の展開部も舌を巻いたなあ)・・・もうその瞬間瞬間が、瞬間芸術たる音楽の魅力を全開にさせたような展開でとにかく凄かった。

 この凄さは「エロイカ」などさらに編成も大きく、ダイナミックレンジの増大を伴って、私に迫り来る。特筆すべきは、第2楽章などやはり私にとってどうしても「だれる」部分なのだが、今回は全くそんな「だれ」も時間の長さも、冗長さも微塵もない。「イタリア」同様、聴き慣れた名曲でありながら、飽きが全くこない。
 冒頭の低弦の装飾音符の細かな動きのニュアンスも変化があって耳を捉えるし、随所に出る弦だけの部分も、ある時はゴウゴウ鳴りまくり、また美しくささやき、また、ホルンの朗々たる吹奏、それも旋律はもちろん、低音の鳴りの良さが低弦と共に音楽の核を作って迫力だけにとどまらない安定感を作っていたし・・・もう書き始めればキリがない。マーラーを思わせる壮大さも感じたのが面白かったが、それは低弦とホルンの支えの上に厚い弦が乗っていたことに寄るものか。もちろんティンパニの豪快さも忘れらない。ややバランスを逸脱もしつつ重い一撃、連打を随所で聴かせ、全体の持つ「武骨」さをさらに強調していた。
 あと、第1楽章の急激な音量差、が随所で驚きを醸しだし、これぞベートーヴェンというたくましさを演出。第3楽章トリオのホルン、こんな素晴らしいトリオは一生もう聴けないだろう。第4楽章の散漫ですらある変奏曲もやはりマーラー並に変化に富んだ魅力あふれるものとなっていた。対位法的部分の立体感の構築の巧さが新鮮さを引き出していると同時に、フルート1番奏者の協奏曲的ですらあるソロ・トーンの存在感も楽しさを演出するに充分な役割であった。

 思いつくがままに無秩序に感想を書き散らしてしまったが、とにかく、発見の連続、新鮮、若さ、緻密さ、豪快さ、音楽を聴く楽しみを存分に味わわせていただいて感謝。アンコールの「エグモント」序曲なども、もう興奮、感動。もうこの組みあわせでの演奏が聴けないのが残念でならない。もっと聴きたかった。
 ・・・・という思いも強く、会場でついついCD5枚組も入手。ブロムシュテットもドレスデン時代、サンフランシスコ時代は大量の録音をしていたが、このゲヴァントハウスとの7年は旧東独の経済力という側面もあってか録音に恵まれず。ようやくライブ録音がマイナーレーベルから発売とのこと。ニールセンの5番など珍しいものもあり、これから聴いてみよう。

 今回の来日のメインは、当団が初演を担当し大成功を収めた、ブルックナーの7番。こちらもネット上でも評判は上々。新鮮な感動を呼び起こしていると聞く。このコンビでの演奏を3度聴けたのは、現代日本人としての幸福といって良かろう。オケ・指揮者それぞれに今後のさらなる活躍を願ってやまない。

(2005.2.26 Ms)

 記念に2002年の来日感想はこちら。その前、1999年はこちら。久しぶりに読み返したら、ドイツ・オケに対する壮絶な偏見が書いてある。私のアホさに仰天。でも、そのアホな偏狭さを打ち砕いたのがこのコンビ。この出会いは私の人生を変えたとも言えるわけだ。
 と書いたところで、前回2回の来日パンフレットを出して見たが、どんどん質量ともに落ちてるなあ・・・・冠もついてないし、予算のこころもとなさがこんなにも明確になろうとは・・・・。ちょっと淋しいな。

 さて、あわただしく松本まで駆けつけ観光という訳にもいかなかったが、今まで松本という街を通りぬけたことはあっても実際に歩いたことはなかったので、初めて松本という街に接したわけだ。さすが、サイトウ・キネン・オケの街だけはあると感じられた点があったので書きとめて。
 演奏会前、ちょっと早めに着いたので、すぐそばのレストランにてコーヒーを飲んで時間調整。コンサート待ちの人もいたが店員さんもその辺よくわかっていて、時間を気にして、出かける頃あいを伝えたりしていた。急がなくてもまだ間にあいますよ、といった感じで。私たちが支払いをする時も、またごゆっくりおいで下さい。演奏会楽しんできてくださいね。と気さくに声をかけていただき大変気分が良かった。おもてなしの心尽くしと言おうか、お客さんに対する心構え、ほんの些細なことながら、外から来る人に対する優しい心使いがありがたく、特筆しておきたかった。

 街の様子としても、比較的コンパクトにいろいろまとまっていて、歩ける範囲でいろいろ事足りる。一本、道を入ると昔ながらの路地、商店など残っていて風情もある。古書店なども何件かあり、音楽関係の興味深いものもある。アガタ書房さんは、CDなども豊富。サイトウ・キネン絡みの冊子なども入手できる。私は1975年頃の音楽雑誌など安く買った。
 その他、今回の芸術館のすぐ前にはクラシック専門CD店もあって、なかなか充実している。パーカッショニストの加藤訓子さんのCDとは珍しい。地元豊橋市以外で店頭で見たのは初めて。サイトウ・キネンで活躍されていた縁あってのことか。
 さらに中古CD店も中央の通り沿いにあり、これまたクラシック系の品ぞろいも良い。

 夜は、お洒落な居酒屋にて、「らくら」さん。リーズナブルにおいしく飲んで食べ。翌日は地中海料理「セロニカ」さん。駅前。これまたランチ・プレートなど食べ応えもあってお勧め。 
 また機会あれば、ゆっくりこの街に滞在したい。コンサートの客層も、さすが音楽の街だけあって、地方にありがちな不慣れな雰囲気もなく、また都会にありがちな不愉快な御仁もなく、快適な鑑賞ができた。
 (余談ながら、つい最近BSでも、コバケン指揮の東フィルをバックにアマチュア音楽家の演奏を紹介する番組がこの松本で、それもこの芸術館で収録されて、その様子も拝見したが、地元Vn.奏者お二人によるバッハの協奏曲など含めて素晴らしいものだった。ここに紹介させていただきます。松本の音楽レベル、こんな側面からも推し量れます。)
 今回来て見ての感想、東京大阪より近いくらいだし、今後いろいろお世話になるかも。毎夏の飯田滞在も快い限りだし、信州、応援します。

(2005.2.27 Ms)

 

2/19(土) 加藤訓子 コンサート (友情出演:邦楽集団 志多ら)
         〜豊橋をHAPPYにしてくれる音楽家たち 第3回〜

 第3回、地元出身打楽器奏者の加藤訓子さんのコンサート。このシリーズ、ヴァイオリンとピアノのコンサートが2回続き、その次が打楽器、という展開、なかなかに好企画じゃないですか。さらに、和太鼓集団の方々などとも積極的にセッションということで、かなり面白い企画ではないか。その証拠に、500名ほどのホールは満席だった。このシリーズ随一の盛況ぶり。邦楽集団「志多ら」も、この愛知県東部、三河地方の山間部、東栄町を拠点に活動するグループで、そのファンの方も結構見えるようだ。東栄町、個人的に私の母方の在所の近くでもあり私も親近感はある。

 さて、加藤さんについてはこのHPでも取りあげるのは3回目ということで、かなりの常連のアーティストということではある。この東三河地区でのコンサートは2年前から知る限りは出掛けている。それだけの、実力もあるし、それだけの企画力、興味を惹くプログラムを持ってこの地域にも来てくれている。出身地ということでの、企画側とのやりやすさもあるかもしれないが。
 過去における我がHPの記事も参考に。2003年9月の豊橋市での野外公演2004年8月の渥美町での公演

 まず、ジェームズ・ウッドの「ロゴサンティ」。ちょうど先月に、名古屋にて、おなじくウッドの作曲によるミュージック・シアター「浄土」の日本初演があり、その際にも演奏されたのがこの作品と聞いている。太鼓系打楽器を中心としたソロの作品ながら、奏者がマイクで発声する(kとかtの発音)、という趣向をもち、随分、聞き手も仰天したことだろう。容赦ないゲンダイ作品からこのコンサートは幕をあけた。保守的といおうか、邦楽集団目当ての年配の方も多く、かなり、この地方都市では、とまどいをもってこの作品は受け取られたという感触を持つ。なかなか難しいものです。ちなみに、「浄土」の方は私は聞き逃していますが、三島由紀夫の「志賀寺上人の恋」を原作に、パーカッションと、ソプラノ独唱、そして女優が織り成す舞台とのことです。
 続く作品もなかなか手ごわい。バッハの「最愛なるイエスよ、我らここに集いて」を権代敦彦の編曲で。これは、昨年の公演ではバッハの主題のみが演奏されていたもので、今回全貌が明らかに。これまた激しい表現。マリンバ・ソロの作品。
 続いてようやく、ホッと一息。「アメイジング・グレイス」。そして、加藤さんの十八番的作品、ジェフスキの「大地への讃歌」。昨年の公演でも聴きました。語られるセリフもパンフに入っており、参考となった。植木鉢のみの響き、簡素すぎるが、それが遠いはるか古代の宗教的儀式に思いを馳せさせる。

 休憩をはさみ、安倍圭子の「道」。マリンバ作品。続いて、加藤さんの演奏に、邦楽集団「志多ら」が絡んでくる。「志多ら」については、2003年の公演の記事も参照してみてください。加藤訓子作曲による「Wave」。西洋の太鼓と、和太鼓との対決、である。パフォーマンスとして面白い。
 その延長として、2003年にも聴いた、三木稔の「マリンバ・スピリチュアル」。マリンバに、邦楽の打楽器3名が加わる。いわゆる西洋の技術を学んだ打楽器奏者とのアンサンブルとは違う熱狂が、この「志多ら」との共演にはゾクゾク感じられる。日本において、どうだろう、このマリンバ作品の代表的名作の地位を得たであろうこの作品を、これだけのレベルで聞く事ができるのは、加藤+志多ら、以外にあるのだろうか?
 和のノリ、というものが存分に楽しめるエンターテイメントだ。
 もちろん、芸術、の域ではある。それもゲンダイ音楽とカテゴライズされるもの。
 でも、敬して遠ざけるものでは全く無い(前半の作品は、敬遠する気持ちは、わかる。でも、この三木作品の演奏に、そんな意識は不要だし、体感さえすれば、おわかりいただけよう)。
 芸能でもあるかもしれないし、音楽の楽しさそのもの、楽しさの直截的表現として素直に受容されるものと信じている。
 このあたりに、西洋のクラシックにはない、力を感じ、ぜひ、邦楽ファンのみならず、西洋音楽ファンの方にも、加藤+志多ら による、「マリンバ・スピリチュアル」、体感の機会があれば是非ともオススメしたい。これは、東三河(愛知県の静岡県境地域)の宝でもあるが、日本の宝でもある、と信じている。

 愛国心、なんて、学校の閉鎖的学級において勉強なんぞしなくても、こういう文化こそ、誇れるのであれば、教育基本法改正など全くナンセンス、とすら思う。日本の伝統に根ざすスピリッツ、これを体感できる幸福、感じ取れる幸福、大切にしなければ。
 最後は、随分とくつろいで、ソーラン節。これも志多らとの共演で。

 充実のラインナップが続くこの、「豊橋Hpppy」シリーズ、通し券を購入したので第4回も出向く・・・が会場にて、公演前に、父の容態急変の報。演奏を聴くことはなかった。シューベルトの「アルペジオ―ネ・ソナタ」、シューマンの「おとぎ話」などが、私にとって幻の音楽となった・・・。

(2006.7.26 Ms)

2/13(日) リコーフィルハーモニーオーケストラ 第19回定期演奏会         

 所用のため、プログラムの前半のみの鑑賞となってしまったことをまずお断りします。
 我が敬愛するニールセンの序曲「ヘリオス」を演奏してくださるとなれば、是非にでも、ということで、めぐろパーシモンホールへ。
 企業オケというのは今回初めてだったのだが、かなり客の入りも良く、会社関係のつながりもあって沢山の観客に恵まれているような感触を得た。その割に随分、マイナーな選曲だったりするので、慣れない人たちには結構大変かと思いきや、会場の雰囲気は悪くない。どうも、今まで、プロオケでの企業の冠コンサートに対する嫌悪感を体感していて心配もなかったではないが、まずは安心。

 東海地区での感覚で言えば、通常のアマのレベルより高い水準を示した演奏。もちろん、多少のミスはあるものの、大枠で、「ヘリオス」の醸し出す雰囲気をしっかり把握できて、曲のキャラクターをしっかり伝えることができていたと思う。私はしっかり受けとめましたよ。
 かのR.シュトラウス、「曲の出だしで聴衆をうならせれば大抵最後までつきあってくれる、」といった趣旨の言葉があったと記憶するが、今回の演奏、見事に最初をきめてくれて、最後まで、その最初の信頼感でもって、私を確実に曲の世界へと迷わず連れ回してくれた。
 あまりにも難しい、ホルンの冒頭の高音域の応答、これには敬意を表したい。健闘ぶりは好感度高し。
 そして、何より、最初の低弦の、ソの音の寄せては返す波のような音の息づかい。これに感激しました。本物、の風格を感じました。何気ない、ただの伸びた音の強弱にしか過ぎないのですが、そこに命がちゃんと通っている。ないがしろにしてない。この姿勢こそ、アマのあるべき姿。この「ソ」の音の重要性は、私見としてはこちらのとおり、です。ニールセンの創作の根源でもあろう、「ソ」の音から、イメージは徐々に湧き上り、遠い水平線から日は昇り、暗黒は光によって打ち破られ、陽気な地中海の一日が始まる・・・・この、テンションが長い間かけて高まりつつあるプロセスをしっかり描いていただけたこと、これをもってこの演奏は成功と私は思った。
 曲が佳境に入って、快速な弦によるフーガあたりは、ちょっとヒヤヒャしないでもないが、この対位法的混迷のその次に、ニールセンは決定的な、安定感ある主題の再現をテュッティで用意しているし、多少の危機は曲の進捗によって気にするまでもない。改めて、ニールセンの対位法的な処理の難しさを感じながらも(交響曲の3番以降の弦は、きっとこの弦の急速なパッセージに泣かされるわけで)、鷹揚なるニールセン、さすが「オケの中のハープなんて、スープの中に入った髪の毛さ」と言っていたとか、繊細さばかりを追い求めなさんな、と豪快な解決を示してくれて、曲がオケを助けてくれよう。そんな、オケの演奏の奮闘ぶりと、ニールセンの曲作りの様、との駆け引きみたいなものも感じられて、ニールセン・ファンとしても微笑ましくもなる演奏でした。このところ、「ヘリオス」を取り上げる団体の増加傾向、顕著である。ありがたいことです。可能な限り、ニールセン詣ではしたいもの。

 続く、シューマンのチェロ協奏曲、ソロは都響の江口心一氏で。長野県飯田市における、2年前の「アフィニス夏の音楽祭」以来、彼の演奏は気になっており、その「アフィニス」で、公開レッスンを受けていたまさにシューマンの協奏曲が、今回、舞台で聴けておおいに満足といったところ。特に冒頭の漂うような、不安に満ちた憂いの表情、そして第2楽章の落ち付いた心から染み出る歌には、心打たれるものあり。ただ、作品としては、やはり、シューマン、オケの鳴りは悪そうで、雑さがよくわかってしまい(プロの演奏とそのまま比較するのは酷だろうけれど)アマチュアにはなかなか大変なもの、という実感は別途受けてはしまうのだが、旋律、和声の美しさこそ集中して楽しもう、という結果、音楽自体の持つ力に些細な思いは遠くに追いやられた。
 アンコールは、稲本響の小品から・・・と聞こえたものの詳細は不明。日本風な歌いまわしが特徴的な無伴奏作品。現代曲中心の無伴奏作品のCDなども出している江口氏の面目躍如たる選曲か。そんな面も、なかなかに個性的だ。

(2005.6.6 Ms) 

2/5(土) オーパス・ワン コンサート         

 昨年12月に初めて聴く機会を得た、ピアノ四重奏のグループ(蛇足ながら、ピアノ・ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ)、オーパス・ワン(Opus−1)。前回のコンサートにかなり良い感触を得たので、今回、本来のピアニストを迎えての正式なメンバーでのコンサートが大阪にて行われるということで、聴きに行く。ちなみに前回の模様はこちらにて。メンバー紹介もそちら参照。

 最近何かと話題もあった大阪市役所の玄関ホールに抽選500人を招待してのコンサート。大阪市が、大阪文化に貢献が期待される若手芸術家たちを表彰する、「咲くやこの花章」の贈呈式に引き続くイヴェントとしての位置付け。オーパス・ワンのヴァイオリンの大谷さんがかつてこの賞をもらっており、また、チェロの林氏も、かつて大阪フィル首席を務めている、というゆかりあってのコンサートか。

 曲目は、なかなかに玄人向け、か。室内楽という分野自体、通俗的名曲とか、標題つきのお馴染名曲も限られているが、さらに、このオーパス・ワンさんは、1曲づつ異なる編成で選曲しており、かなりマニアな組みあわせなどもあって(定番の編成、弦楽四重奏はやらないという面もある)、興味深い曲が並ぶ。
 まず、12月にもコンサート冒頭に置かれた、オネゲルのソナチネ(ヴァイオリンとチェロによる)。そして、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第3番。まさしく、作品1の3。Opus−1である。
 休憩をはさんで、コダーイの「間奏曲」、これは弦楽三重奏。そしてメイン・プロは全員そろっての、フォーレのピアノ四重奏曲第1番

 玄関ホールとは言え、まずまずの響きが堪能できた。さほど遠くない位置をキープできたこともある。やや、ピアノやチェロが他に比較し遠くから聞こえるような気もしたが、支障はない。
 オネゲルは、1932年の作。ショスタコーヴィチの作風とほぼ重なるのが興味深い。デュオの響き自体、彼の弦楽四重奏において良く聴かれる響きだし(四重奏とはいえ、全員を登場させない使い方が散見される)、そもそも、調性感の捉え方、古典的和声感との距離感が驚くほど似ている。また第3楽章のギャロップ的な自虐性に至っては、ショスタコーヴィチそのものであると言えそうだ。
 第1、2楽章の悲劇性、内省的な面持ちの緊張感、そして第3楽章の楽天性が際立って対比する。演奏も、表現の幅が広く、メリハリの効いたもの。第3楽章の、それぞれの楽器による、カデンツァ的な技巧誇示も面白い効果。

 ベートーヴェンの作品1の3。宿命のハ短調である。作品1からやはり、ベートーヴェン、ハ短調なのね。師匠ハイドンが出版を見送るよう助言したという逸話に相応しい、野心に満ちあふれたもの。半音階的な進行、異様な転調、激しいリズム、アクセント、さらに、自身のピアノの技巧誇示も図ったかのような、ピアノの華麗なパッセージ。とにかく、ハイドン・モーツァルトとは一線を画する新鮮さ。
 第1楽章にその特徴は凝縮されている。第2楽章は、やや古典的な変奏曲。第3楽章は、拍子感が一瞬錯乱させられる。リズムの面白さが既に見られる。安定した古典的メヌエットとは全く異質なあたり、さすがベートーヴェン。また、随所のピアノのパッセージ、印象的だ。軽やかな分散和音が駆けあがってゆく部分が多々あるが、その柔らかで暖かな音色に、はっとさせられた。第4楽章は、楽想としてはやや貧しい。でも、貧しいだけに直接的なインパクトはある。激しく燃えるような表現・・・そういえば、ヴァイオリン・ソナタのハ短調のものも、そういう特徴が感じられたな。
 最後は短調では閉じられず、しかし勝利の凱歌たる長調でもない。あえて例えれば、ブラームスの交響曲第3番の終止。もう、こんな型破りな表現をしていようとは・・・。室内楽、曲をいろいろ知るたび、実はブラームスの独創、と思っていた点が覆される。古典の模倣、貪欲な勉強の成果、ということ。
 ベートーヴェンのハ短調の系譜。面白い。数々の試行錯誤の末の「運命」交響曲、という長い道程も見えてくる。オーパス・ワンの着実な演奏あってこそ、このベートーヴェンのOpus−1の醍醐味、堪能できた。そして、さらなる満足は後半にて。

(2005.2.9 Ms)

 コダーイの間奏曲。これは初耳。弦楽三重奏という形態も珍しく。23歳、まだコダーイの学生時代の習作と言えようが、すでに民謡風な味わいに富んだ、彼らしさが刻印されている。代表作「ハーリ・ヤーノシュ」に、魅力的なヴィオラのソロがあるが、ふとそれを思い起こしたくなる。ピチカートも多用されてチェロやヴィオラの歌が効果的に鳴ってくる。

 最後にフォーレのピアノ四重奏曲第1番。これが目当てである。そもそも最近のフォーレ熱、昨年11月のBSで偶然聴いたこの作品に見事心奪われてしまった。魅力的な旋律と和声、全楽章に満遍なく魅力満載。そして構成感としても抜群のバランス感。フィナーレに向けて、そしてコーダに向けてテンションが持続的に継続的に高揚して行く筆の運びは素晴らしいものがある。同じ室内楽の大家でも、ブラームスはややフィナーレに向けての方向性がやや弱く感じられる作品も目立つ。フォーレはなかなかその辺が巧いのだ。さらに拍子感覚としては2拍子と3拍子と微妙に揺れ動きつつ、フェイントも用意されていて面白い。
 全体的に、「ピアノ」対「弦3部」でピアノの比重が大きい印象がTVではあった。繊細なピアノのアルペジオが全編を覆い、いかにもフランス的なおしゃれ感もプンプンしているが、実演を聴けば、さらにピアノの雰囲気に飲まれ、さすが名手の手によるものと感動する一方、弦も絶妙な絡みを繰り広げ、決してピアノばかりが曲を支配しているのではないことが体感できた。弦の細やかな動きはTVではなかなか聴き取りにくかったかも。
 そして、何より、ピアノ四重奏団、という珍しいグループの強み。弦楽四重奏はグループとしての活動もあるが、その他の形態は通常ソリストたちのその場限りの競演、ということにもなろう。そういった演奏でも素晴らしいものは素晴らしいが、ピアノ四重奏で、一定のメンバーで練習、ステージを重ねている人たちだけに、演奏の安定感は抜群。勢い余って、随分、攻めの演奏。複雑な絡みや、細やかな噛みあわせも多々あるなかで、ただでさえ流麗な流れが特徴的な作ながら、そのとめどなく泉のように流れ出る音楽を見事、自分達の音楽として演奏されている。素晴らしい演奏だった。願わくば、この演奏、もっと、いろいろな場で披露してもらいたい。ピアノ四重奏というジャンルの面白さ、美しさ、このフォーレの作品と演奏に満ちあふれている。Opus−1の皆さんには、さらなる展開も期待しつつ、このフォーレ、折りに触れ演奏していただきたいと痛切に願うもの。

 さて、この演奏会自体は、大阪市の「咲くやこの花賞」なる賞の授与式のアトラクションだったのだが、その授与式自体も面白かった。やはり関西の人達、受賞のコメントなど伺っても気のきいた一言に事欠かないものだ。特に大衆芸能分野での受賞が「のこぎり音楽」の方だったが、・・・「大衆芸能」ですか?・・・音楽のつもりでやってたんですが、こんな見方もあったんですか・・・などと冗談混じりに困惑気味なのはかなりの笑いを取っていた。
 あと、しきりに、大阪に元気がなくなってきてなんとかしないと、といったフレーズがいろいろ出てくるのは、今の大阪の混迷、停滞ぶりの表れだなあ、と感じさせもし、一方、大阪市長は、いろいろ公務員厚遇報道のさなか、「やるべきことはやります」などとこんな場でもコメントせざるを得ないのはやや「あわれ」なる感、強し。でも、こういう賞を設けて、若手に、東京ではなく大阪発の文化の担い手になってもらうべくがんばっている姿については好感を持つ。
 ふと思う。今、元気なはずの名古屋。名古屋発の文化の担い手は流出してないか?そんな観点すら存在し得ぬのか。東京圏のはずれ、程度の認識なのか。万博がありながら、地元音楽家の出番はほとんどない、なぜならイベントは全て東京で仕切っているから、という地元紙の報道が大きく載っていたが、さみしい街じゃあないですか・・・。

(2005.3.15 Ms)


 January ’05

1/29(土) 大竹広治・杉浦雅子 コンサート
         〜豊橋をHAPPYにしてくれる音楽家たち 第2回〜

 第2回は地元を中心に活躍するお二人を迎えて。
 フランスのヴァイオリン音楽の系譜といった趣の、なかなか凝ったコンサート。ソナタが3曲含まれ、大曲ぞろいの重めの選曲に、意欲が感じられる。

 まず、フランス・バロックからルクレールのソナタ第3番、ニ長調
 ちなみに各曲の前にはVn.の大竹氏による丁寧な解説つき。ただ、曲の内容を知らせるのではなく、歴史的背景やその作曲家に関するエピソードなど。ヴァイオリン音楽を通して「フランスを歴史散歩」するという趣向であった。
 ルクレールは、私にとっては全くの無知(生きた時代は、1697〜1764)。ルイ14世のブルボン王朝の絶頂を過ぎ、美男子である、というだけの凡庸な君主ルイ15世の下で宮廷音楽家を務めたそうで、宮中での栄枯盛衰などもいろいろあって、最後は刺殺されたとか・・・。年代などもかっちり押さえた解説は、格調高くさえあり、世界史の講義さながら、か。私はとても興味深く拝聴した。物腰やわらかな丁寧な語り口も好感。
 さて、作品はいたって明快。バロック風な和声感はあるが、対位法に優れたものではなく、もう古典派の作風か。重音など多用され、ヴァイオリンの名手たる面目あり。緩急緩急の4楽章。最後の楽章は、「タンブリン」と題され(プログラムによる。正確にはフランス語風に「タンブーラン」と言ったほうがよさそうか。)、ラモーの有名な作品と同様のタイトル。フランス・バロックに特徴的な舞曲なのだろう。ビゼーの「アルルの女」の「ファランドール」を彷彿とさせる、太鼓のリズムが鳴り続ける舞曲である。ピアノ・パートは主部においてはつねに属音、ラの音が連打され続けている。面白い効果だ。最後は加速して終わる・・・なかなかバロック的ではない発想で興味を持つ。ルクレール、ちょっと気にしてみよう。また、「タンブーラン」なるタイトルの作品など探し聴き比べるのも良さそうか・・・ちなみにネット検索したら、クライスラーもこのルクレールのタンブーランに基づく作品があるようだ。

 フランクのソナタ。安定した貫禄ある作品であることを再認識。特に第2楽章の激しさ、テンションの高さは充分な魅力。客席も自然に拍手が湧きあがってしまう(ちなみに、他曲でも派手に終わる楽章の最後は拍手つきのコンサートだった。ああ、慣れていないなあ、と思いつつも、フランクの第2楽章については、あまりに自然に拍手が。第4楽章の終わりより客の熱狂は伝わっていた。場慣れしてなくても、素直な観客ということか。決して軽蔑すべき現象なんかではないと思う)。曲前の解説では、フランクがベルギーの出であることに焦点を。フランス革命後のナポレオン、そして王制復古。その反動体制にあって、ベルギーはオランダから独立。そんな激動の時代に生れた神童、セザール・フランクは、親の虚栄のため、パリで一旗あげようと画策するも、それに反抗して結果、地味なオルガニストに。そして60歳過ぎて後世に残る大作を一つづつ書きあげてゆく。ソナタは63歳の作・・・そうは思えないほどの熱情。枯れることのない楽想の奔流。驚異の60代だなあ。それだけでも感心。

 休憩をはさんで、フォーレのソナタ第1番。両端楽章が特に美しい。上品なそして流麗な。初期の作品では、そのすぐ後に位置するピアノ四重奏曲第1番が比類なき名曲と信じてやまないが、ソナタにおいても、和声の使い方や旋律などに、その前兆もかすかに聞こえる。第1楽章の冒頭から、ピアノの細やかな繊細な伴奏の中からおおらかな、とうとうと流れる大きなフレーズの主題が立ち現われ、それがヴァイオリンに引き継がれ・・・和声の断定的な完結感を与えぬままに次々流れ出る音楽に身を任せて、現実世界の引力圏から離脱するかのような、一時の幸福を味わうわけだ。我に帰る瞬間を与えぬままに音楽は絶えることなし。第3楽章のせわしない、一定の拍子感を撹乱させた展開も滑稽で印象的。さらに、第4楽章の、ブランコに揺られるような優しい雰囲気の主題も一度聞いたら忘れない。ただ第2楽章だけは、まだフォーレらしさ全開には至っていないかな。
 曲前の解説では、ナポレオン3世のもとでの繁栄、そして普仏戦争の敗戦、パリ・コミューンの内戦。その後の共和制のもと活躍したフォーレ、という紹介がされていた。

 最後に、ラベルの「ツィガーヌ」。曲前の解説では、ラベルを根っからのパリっ子、と紹介。パリ万博でアジアなど非ヨーロッパの民俗音楽が紹介され、作曲家たちに影響を与えたが、この作品もそういった面が見られよう。フォーレに師事、真面目な生徒であったとの評価。第1次大戦に従軍経験もあるが病気ですぐ除隊。その後、作風としては簡潔な表現を目指す。その極致が「ボレロ」であり、今回の「ツィガーヌ」はその2年前の作。
 ・・・といった解説を聴いた後だと、ああ確かにこの作品も、数少ない主題を、様々なVn.の技法で変容させた作品であることに気付く。
 前3曲のソナタは、基本的に特殊な技法や、名人芸からは遠い堅実な手法だが、ラベルは、技巧を前面に押し出す。そういった面で変化に富み面白い。サラサーテの「ツィゴイネル・ワイゼン」を現代的感覚に翻訳したようなものか。

 アンコールも一貫して、フランスの系譜。ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」、そしてサティ「ジュ・トゥ・ヴ」。見事にまとめました。重いプロに対し、誰でも知ってる軽いアンコール。一貫性もあり、練られた、聴き応えあるコンサートで満足である。

 演奏面では、フランク、フォーレといったピアノの難曲でややミスが散見されたのは惜しいけれど、ヴァイオリンも単旋律が多いだけに単調に成りがちな面をカバーすべく、音色、音量のコントロールを綿密にされていた点が、曲の魅力を埋没させない結果となり良かったと思う。
 この低料金で、これだけの濃密なコンサートが聴けたことに大変感謝です。

(2005.2.1 Ms)

1/20(木) 神谷未穂・佐々木京子 コンサート
         〜豊橋をHAPPYにしてくれる音楽家たち 第1回〜

 ちょっと恥かしくなるタイトルではあるが、4回シリーズで、地元出身プレイヤーを中心に豊橋市民文化会館にて様々な編成の室内楽を。
 第1回は、「特別出演」ということで、ソロ活動も活発に行いつつ、最近ソロCDを出したばかりの磯絵里子さんとのVn.デュオ(デュオ・プリマ)でも活躍中の神谷未穂さんをフューチャーしてのコンサート。
 この演奏会は、(財)地域創造の「公共ホール活性化事業」の一環でもあり、ヴァイオリンの神谷さんとピアノの佐々木さんは、その活性化事業の登録アーティストということで、昨年から日本各地を回り、この豊橋市にも4日ほど滞在、小中学校はもとより、市民病院や市役所でもロビーコンサートを行い、今日が豊橋最後の演奏会。滞在中の学校訪問などは、地元新聞でも大きく取り上げれていたところ。その模様は今回のホールの入口にも写真を掲げて紹介されていた。全国的に文化面でのハード整備は進んだものの、ソフトが立ち遅れている感が否めない中、意義ある活動と思う。

 さて、「公共ホール活性化事業」は、クラシック・ファンも初心者も楽しめる企画、ということで、コンサートのプログラムも比較的軽いもの、と思い足を運んだが(「愛のあいさつ」「チャールダーシュ」など程度しか事前に知らされず)、ラベルのソナタや、バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」なども含む、私好みの選曲も含まれており満足。
 まず最初に、「愛」をテーマに「愛のあいさつ」「愛の喜び」「愛の悲しみ」。そしてモーツァルトのソナタK304
 曲間には二人のお喋りをはさみつつ、作曲家の紹介や曲の内容など、軽く親しみやすい雰囲気で進む。ご当地ネタで、「「ちくわ」も「菜飯田楽」もおいしく頂きました」とも。
 聴き慣れないところで、モーツァルトのソナタはホ短調。2楽章で終わる短いもの(シューベルトの「未完成交響曲」のような構成)。3度目のパリ訪問、神童としてもてはやされたかつての熱狂はなく冷たい仕打ちのなかで同行した母の死、そういった心境が反映しているのでは、と。映画「アマデウス」のイメージの明るく笑い転げるモーツァルトの姿から一転、そんな彼が短調作品を書いたとき、その作品は素晴らしいものばかりが生れている。そんな説明はなるほどと感じさせる。
 それにしても、「ホ短調」は、なんと切ない響きを持っていることか。比較的音の少ない音楽なので余計にその感も強い。ピアノだけで旋律・伴奏を行うところが、ふと哀しげなオルゴールにも聞こえる。少年の哀愁といったところか。ただ、古典的な中にも、和声など意外性ある部分もありなかなか聞ける作品だ。

 続いて、小学校でも行った、絵本とクラシック音楽の融合。「絵本DEクラシック『もりのなか』」と題して、「もりのなか」という絵本の映写、朗読にあわせ、クラシックをはさんでゆく(朗読はプロの方が担当したと思われるがプログラムにも紹介なくどなたか不明)。
 シューマンの「こどもの情景」の第1曲をテーマに、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の「少女ジュリエット」、ラベルの「マ・メール・ロア」の「美女と野獣の対話」、バルトークの「子供のために」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」の「王女たちのロンド」などの一節を、つまりは、近現代作品をふんだんに使いながら、物語は進行する。主人公の坊やがラッパを吹きながら動物たちと話をしてゆくという筋で、小学校での演奏では場面ごとに小学生にトランペットを吹いてもらったりしたそうだが、今回は、訪問先の学校の音楽の先生が得意のファゴットで登場、信号ラッパ風フレーズを鳴らしていた。地元の人々との協働というのも大切に活動されているわけだ。さて物語の最後は坊やは家に戻り、その余韻のなか、音楽だけは残り、絵本を映写している舞台中央にVn.の神谷さんは弾きながら進み、シルエットが浮かびあがる。なかなかに面白い趣向であった。

 休憩をはさんで、まずはピアノ・ソロ2曲。ショパンの「ノクターン第20番嬰ハ短調(遺作)」「革命のエチュード」
 お馴染みの名曲、であるが、こう正式に対峙することのない作品である。久しぶりに聴いて、やはりノクターンなど純粋に心に染み入るし、たまにはショパンも見つめ直すに足るもんだとしみじみ思う。恥ずかしながら私にとってショパンは、小学生の頃に聞いた作品がほとんど全て。全くの初心者でしかない。今後、このあたりも折りを見て聞きたいもの・・・・シューマンへの愛好はどうも永続的な私である。その関連でも、ショパンは通らざるを得ないか。
 話がずれたが、さて「革命」は自分のイメージよりは遅いテンポで、物足りなさを一瞬感じるものの、そのテンポ感の中で、一つの音符も捨てず丁寧に演奏することで左手が醸し出すうねりのスケール感が迫力あるものとも感じられ、納得するところ大であった。自分の先入観を覆してくれる演奏、おおいに歓迎。こういった体験こそ、演奏会の醍醐味。今回の演奏会、ピアノの影はやや薄ながら、この2曲で随分存在感は増した感じ。

 さて、続いて、本格的作品を2つ。ラベルのソナタと、バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」
 神谷さんについて、やはり、こういった近代ものが得意なのだろうか。前半の「愛」の作品などは、曲の表情としても意外にさっぱり、あっさり。軽過ぎて物足りないくらい。会場も古いホールで響きにくい感もあるが、音色も想像したよりはやや地味な感じに思ったのだが、ラベル以降は全く違った。曲の表情の多彩さ、迫力、音色の輝かしさ、などなど、気合いや気迫の差が感じられた。
 ラベルの特に第2楽章「ブルース」は、バンジョーを模したピチカートの激しさや、トロンボーンのグリッサンド的なイヤらしい表情など、面白い部分に事欠かない。最後の音のビブラートなども、グリッサンドすれすれ位の表情で楽しい。あと、ピアノの第1楽章の繊細な、幻想的なムードの作り方が良かった。さらに、第1楽章に頻出する同音連打のモチーフは、同時代のニールセンの常套句に似ていて楽しい。ニールセンの交響曲第5番第2楽章の第1部と第2部のブリッジのテーマ。・・・また話が脱線。
 曲の紹介も、聴き慣れない作品だけに丁寧にやっていただきありがたい。第1楽章はファンタジーの世界。ニワトリの鳴き声やら、教会の鐘の音など雑多な音の印象も混在している(このニワトリが、例のニールセンだ。それにしても、ラベルとニールセンの楽想の類似は、超有名作「ボレロ」にも感じられ、どうも気になってしょうがない・・・・誰か教えてください・・・。)
 「第2楽章は「ブルース」、ジャズだけど、「みんなでセッション!」といった雰囲気よりは「気だるさ」「もの憂い」感じ、」と。バンジョーのイメージの説明も。
 第3楽章は、休みなしの音符だらけ。「途中で息切れしないように、がんばります!」など、結構、細やかな、でも気さくな口調の説明で興味深く聞く。

 バルトークは、いかにも野趣に満ちた、土臭さを前面に押し出した太い演奏。また、最後の加速なども心地よい。こちらも、1曲1曲細かく説明あり、例えば第1曲「棒踊り」は、鬼の金棒みたいな棒を大地に打ちつけながらの踊りで、その棒の音がピアノの和音に表現される、に始まり、途中のフラジオレットの奏法のことなど演奏技術面の指摘もあり。さらに私も初耳だったのは、「ルーマニアのポルカ」と訳された踊り、
 「実は「ポルカ」じゃなく「ポーク」つまりブタ。豚飼いの踊りのことを間違えて訳しちゃった・・・」
など、「満へぇ」を出したくなる(2004〜5年限定の表現とは思いますがご容赦)。
 「6曲からなる作品・・・ええ、これから6曲も民謡を聴くの?と思っちゃうかもしれませんが、大丈夫、1曲1分程度、短い曲は24秒くらいなので安心して聴いてください。」
こういうコメントもまたありがたい。普通のクラシック・コンサートにはないリラックス感をもたらす。でも、演奏自体は、芯のしっかりした重厚なもの。弓も結構切れるほどにしっかり大地に根を張った演奏で感激だ。

 最後に、モンティの「チャールダーシュ」。ジプシーの音楽に感銘を受けていて、差別、迫害を受けながらも自由奔放にたくましく生き、音楽にそんな嘆き節や力強さを感じ、そういった表現も自分のものにしたい、とのこと。そんな音楽をみなさんを分かちあいたいので、客席を自由に歩きながら演奏、近くで音楽に触れて欲しい、という趣向。実際は速い部分でのピアノ伴奏とのズレも気にならないではないが、身近にその音を感じることができて、観客も満足気であった。
 ・・・正直、客の入りは少なかった。平日の夜で、本来来てほしかっただろう子供たちは少数(せっかく「絵本」ネタがあったのに)。チケットも地元市内でしか扱わず。もう少し広範囲で広報すれば、知名度もある奏者だし、観客動員できただろうに。さらに、楽章の間に拍手も入ってしまう演奏会、慣れてないご老人も多く見受けた(ただし、静かに聞こうと言う緊張感は、どんな都会での演奏会より強く感じた)。そんな人たちが多かっただけに、今回のような趣向、結構もの珍しく好奇の目で楽しんでいたようだ。会場に張られていた写真でも、病院、市役所でも客席に分け入っての演奏をしていたようだ。こういった企画に抵抗あるプレイヤーもいるかもしれないが、果敢にやっていただいた神谷さんのプロ根性に敬意を表したい。
 なお、アンコールは「タイスの瞑想曲」。
 今後の神谷、佐々木両氏のご活躍を期待するとともに、(財)地域創造の活動も注目したい。

 最後に紹介、今回のシリーズ演奏会、4回あわせて3500円という破格の安さ。豊橋も太っ腹!!ちなみに1回券は、1000または2000円。第2回(1/29)は、やはりヴァイオリンとピアノ。第3回(2/19)は、私もずっと注目している加藤訓子さんのマリンバ・パーカッション(和太鼓の「志多ら」(しだら)友情出演あり)。第4回(3/12)は、渋いな、ピアノとクラリネットとヴィオラ。愛知県、静岡県の方々にも特に是非ともオススメしたい。取り急ぎご報告まで。

(2005.1.23 Ms)


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