今月のトピックス

 

December ’04

12/25(日) 都響スペシャル「第九」

 (まずは、2004年の「第九」事情などを)

2004年、「第九」の季節に

 季節ははや師走。また「第九」の季節である。年末の「第九」は、私にとってほとんど無縁、意味なし、恒例行事にもなっていないが、今年はふと気になることがある。「第九」そのものではなく、「第九」と一緒に何を演奏するか?という素朴な疑問なのだが。
 身近なところで、名古屋フィルが、武満徹の「ウォーター・ドリーミング」なる作品を演奏するもので、なかなか珍しいなと感じたのが発端。
 自分のイメージだと、同じくベートーヴェン作品で、「エグモント」やら「コリオラン」の序曲がメジャーなところか、と思っていたが、注意して見てみると意外といろいろな作品がやられているようだ。

 手元に「ぶらあぼ」誌2004年12月号があるので、しらみつぶしに日本全国で、今年の「第九」、何が抱き合わせで演奏されているか拾ってみた次第。もちろん、把握漏れはあろうが、一つの参考として程度のお話。
 もちろん、
ベートーヴェンの序曲ものは多い。予想どおり。「エグモント」「コリオラン」の2曲がそれぞれ7回で首位。これは、固いところだろう。その他、続いて意外にも「献堂式」序曲、5回。その次が、「フィデリオ」「プロメテウスの創造物」が4回。有名どころで忘れられた感のあるのが「レオノーレ」第3番。舞台裏のトランペットが必要で、「第九」の編成内で演奏可能でないのがネックか。それでも2回あり。あとは、「レオノーレ」第2番とか、「アテネの廃墟」なんて珍しいものもあり。

 序曲以外のベートーヴェン、せっかく合唱があるので、「合唱幻想曲」カンタータ「静かな海と楽しい航海」。それにしても、前者はピアノ独奏までついて、出演料はかさみそう。でも、ピアニストを頼むのならということで、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」を取り上げる例も。聴く方は長丁場で大変そう。でも長丁場なら、交響曲第8番というのもある。ただ、8,9とつづけて聴くのもオツなもの。ティンパニの使い方(F−Fのオクターヴの調律)の比較など興味深いでしょう。

 ベートーヴェン以外となると結構バラエティ豊かだ。
 まず、序曲ものから。ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」3回。あとは、1回づつながら、ウェーバーの「オベロン」、モーツァルトで「魔笛」「後宮からの誘拐」。「後宮」は、トルコ系打楽器(大太鼓、シンバル、トライアングル)も華やかな異国情緒に勝る作品で、同じくトルコ系打楽器の活躍する「第九」フィナーレの中盤のトルコ風行進曲との関連もあり楽しく聴けそうだ・・・・ただ、「第九」の前プロ1曲で、ワン・ステージを構成しなけりゃいけないとなると、やや軽めで物足りないかも・・・・そうなると、ワーグナーとかは重厚で相応しいものにも思えるが、これだけのためにチューバが必要なのも非効率か。地方公演とかだとその手の曲は回避されがちか。

 となると、なるべく「第九」の編成内に収まるのが好都合。そういった観点で割合好まれるのはモーツァルトのやや長めの作品。「第九」目当てに始めてオーケストラに触れるお客さんにも配慮できよう。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「交響曲第40番」「プラハ」とぞくぞく出てきた。
 他に、予想外の健闘なのが
ドヴォルザーク「スラヴ舞曲」抜粋。今年は没後100年だからか。3回あり。「謝肉祭」も1回。
 管弦楽曲では、親しみやすいものとしてか、グリーグ「ペール・ギュント」ヘンデル「王宮の花火の音楽」。ヘンデルは華やかで祝祭的で良いかも。
 あと、これはかなり玄人受けを狙ってか、
ヴォーン・ウィリアムズ「タリスの主題による幻想曲」。美しい弦楽合奏で。遠くに配置された弦楽アンサンブルとの掛けあいも涙もの。心に染み入る内省的音楽と「第九」の迫力との対比も鮮やか。いいプログラムだ。12月19日(日)新潟市合併記念の演奏会。地震に負けず、「歓喜」を是非歌い上げてください!!!

その他、協奏作品、声楽曲、現代曲、まだまだあります。オススメも紹介!!(2004.11.22 Ms)
Topページから移動(2004.12.30 Ms)

 さて、ぞくぞく続けましょう。

 先に、ベートーヴェンの「皇帝」の例があるが、ピアノ協奏曲をカップリングしたものとして、やはり、モーツァルトが優勢で、第12番、第20番、第23番となります。
 ヴァイオリン協奏曲としては、
ヴィヴァルディの「四季」。2回。有名曲だし、「冬」で締められるのも季節がら良いということか。
 その他、バッハ「3つのヴァイオリンのための協奏曲」、ショーソンの「詩曲」
 変わったところで、ヴィヴァルディのギター協奏曲なんてのもあります、いろいろ考えるなあ。12月28日(火)東京はサントリーホール、ホテルオークラ「第九」記念オーケストラ。冠コンサートですか。

 さらに、協奏曲ではないですが、声楽以外のソリストを招聘しての例、バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」は4回も。かなり多いほう。パイプオルガン付きホールも増えてきたし、超有名曲だし、また、ニ短調ということで、プログラム上もしっくりきてよろしい。
 これまた、イレギュラーながら、バッハの無伴奏チェロ組曲・・・大阪恒例の「1万人の第九」、マイスキーがゲストとか。バッハ、何とでもしっくり来てしまうから凄い。

 続いて、せっかく合唱団や歌手がいるわけで、声楽曲も多くやられてます。
 オペラ・アリアのガラ・コンサート風なものもあれば、「ナブッコ」「タンホイザー」も。
 合唱曲は、何と言っても、
ヘンデル「メサイヤ」、ハレルヤ・コーラス、6回。ベートーヴェンの序曲と並んで、最も上演回数の多いものだろう。キリストの生誕、クリスマス気分も味わって。もっと端的に、クリスマスソングをやってしまうのも4回。
 宗教的ムードをもっと高めたければ、
バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」4回、これもまた多いな。さらに、モーツァルト「アヴェ・ベルム・コルプス」。やはり、モーツァルトと、バッハは他の作曲家に比較してダントツでいろいろやられてますねえ(そういや、3大Bのブラームスがやけに影が薄いや)。
 また、合唱付きで、シベリウスの「フィンランディア」なんてのもあり。フィンランドものと冬のイメージは固く結びつくな(そう言えば、「ぶらあぼ」誌では紹介されてないが、シベリウスの弦楽合奏曲「祝祭アンダンテ」の例もあったな。)。
 合唱曲で意外な健闘ぶりを発揮したのが、武満徹の合唱曲。3回。合唱界では、人気作、多々あり、ということだろう。

 その武満がらみもあって、現代曲のカップリングも紹介。
 武満の「グリーン」。あとは冒頭にも掲げた「ウォーター・ドリーミング」。
 メシアンの「聖なる供宴」。メシアンは、やはり、キリスト教関連でひっつきやすいか・・・でも曲を知らないのでゴメンナサイ。
 
バーバーの「弦楽のためのアダージョ」12月19日(日)神戸文化ホール、「阪神淡路大震災10年〜あの日を忘れない1.19」。実際、今やモニュメンタルな作品として「第九」は定義付けられて存在し、あらゆる悲劇的な音楽を乗り越えるものとしてその場に(「アダージョ」の沈鬱な響き、高まる慟哭の後に)置かれているのだろう。
 ちょっと変わったところで、
外山雄三「管弦楽のためのラプソディ」。お祭り騒ぎで、年末越そうというのも楽しいじゃない。やはり、日本人の年末感、・・・外来の宗教を持ってきて、「天使の羽根の元、人類みな兄弟」なんてのより、ソーラン節や木曽節で、どんちゃん騒ぎもまた良し。

 日本人なんだから、という延長で、ご当地ソングをこの際やってしまうという発想も少なからずあり。
 栃木県小山市、「小山わがまち」。
 東京芸術劇場、区民でつくる第九において、「としま未来へ」。ちなみに、豊島区のものは、さだまさしの曲らしい。豊島区の方々はみんな歌えるのかしら。
 福井県小浜市、「小浜讃歌」。
 さて、私が大変興味を持って見守っているのが、富山市、
黛敏郎の交響詩「立山」。1970年頃の委嘱作。当時、映像と同時進行で作曲、発表されたこともあって話題性もありLP化されたものの、今となっては幻の名作、とのこと。久々の再演ですか。おおいに楽しみ・・・おっと、ネット検索したら、この12月、当時の音源が世界初CD化とのこと。なんとタイムリーな。おめでとうございます。第九の演奏の場を借りて、日本音楽史の発掘。意義ある試みですね。12月22日(水)オーバードホール。東京交響楽団、指揮は大友直人氏。

 さらに、変わりダネでは、Popsとのコラボ。タケカワユキヒデ氏を迎えて、「ガンダーラ」「ビューティフル・ネーム」、おお、ゴダイゴとはナツカシや。12月12日(日)広島にて。
 あと、やっぱり、というのが、
「冬のソナタ」。12月23日(木)、これまた、東京交響楽団、指揮は大友直人氏。静岡県焼津市。
 さらに、千住明、ピアノ協奏曲「宿命」・・・・ドラマ「砂の器」。ほんとにいろいろ考えますよねえ・・・ということで、概ね出尽くした感あり・・・ちょい待ち!!

 最後に、深遠なるカップリングを紹介、オススメしてこの項を閉じましょう。
 「歓喜」に至る道程の長く辛いこと・・・「第九」の冒頭の苦悩のさらに根源をついた苦悩を、「第九」に先駆けて演奏する演奏会。
12月24〜26日、東京都交響楽団。「生きるべきか、死ぬべきか・・・・」。「ハムレット」である。それも、ショスタコーヴィチの映画音楽から!!
 
是非聴くべし。

(2004.11.28 Ms)
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 さて、長い前置きのあとに、短く、その、待望の「ハムレット」付きの都響の第九の感想を。
 今回の第九は、自分にとってかなり意外性に満ちたものであった。とは言え、私自身、第九にそんなに詳しいわけでもない。ようは、小編成な第九に戸惑ったということである。
 私にとっての第九は、やはりN響がすり込まれている。常に合唱は大人数のイメージ。迫力ある大讃歌!!!それがまず違っていた。そして、オケ自体もそれに呼応するように、地味さが率直な感想。
 そして、テンポが何しろ速い。ベートーヴェン自らの指示に従ったものだろうか、落ち付かない。とにかく淡々と進む。第九のいわゆる「ブルックナー」風な重みがない、飄々とした演奏で、面食らった次第。その新機軸、なかなか自分の耳に慣れない。冒頭からして違和感。
 また、結局は、コンパクトな音量、でありながら、ややバランスが崩れていて、フルートの最高音が常に耳障り。全体の音量のコンパクト感から逸脱している。一人だけ浮いている。フルート協奏曲「第九番」といった趣に終始、陣取った場所にもよるのだろうか?曲が始まった途端、厳粛な雰囲気よりは、テンポの速さと、フルートの突出が、軽妙洒脱なムードすら漂う。この印象は最後まで拭えなかった。
 また、第九には、後世の指揮者による(例えばワーグナーとか)、金管ホルンを補強する方法があって、例えば第2楽章の第2主題の木管による提示部分とか、補強の方で聴き慣れている面があり、それが原典のままだと、旋律が聞こえにくい。そういった原典の本来の形に私の耳が慣れていないので、何かのパートが欠落しているように聞こえるのだ。楽譜どおりなのに・・・。他にも、第3楽章の最後、ファンファーレのあとの、オルガン的な重厚さもなかった・・・。第4楽章の中間、宗教音楽的部分の、木管と中低弦のアンサンブルのブレンドもいつもと違う・・・。オーケストレーションのチグハグさがあらゆる所で気になって・・・・などなどいろいろ。
 つまるところ、新たなる演奏スタイルに、自分の頑固さが対応できず・・・こんな体験も珍しいのだが。他の作品なら、こういう演奏もありか!と素直に思えそうなのに、洗脳が強いのかしら、第九。これが、第九の本当の姿なら、随分、シューマン以上にオケの鳴らし方を研究しないと、とも思う始末。

 さて、前半の「ハムレット」。指揮者ノイホルトによる選曲によるハイライト。組曲と、映画音楽原典版それぞれからのセレクト。
 「序奏」(組曲第1曲)、「宮殿の音楽」(映画版第11曲)、「舞踏会」(映画版第8曲)、「軍楽」(映画版第2曲)、「宮廷舞踏会」(組曲第2曲)、「笛吹き」(映画版第22曲)、「決闘とハムレットの死」(組曲第8曲)。以上、プログラム解説による。
 物語の筋とは無関係なセレクト。最初と最後は、ハムレットの悲劇性を迫力と緊張感でもって表現するが、その中に配置されたものは、軽いものばかり。指揮者の意図としては、まるで、交響曲第15番のような、悲愴味と洒脱さの交錯を狙ったのか。ただ、小曲が多くて、まとまりに欠けていたようなきらいもないではない。
 最初と最後はさすがに、生で迫り来ると、オーケストレーションや楽想が単純ながらも、燃える、萌える。ムチの響きも効果的。「バビ・ヤール」との親近性も体感できる。その体験ができただけでも、今回の上京は意義あるものとなった。

 拍手はイマイチ、戸惑いの拍手。ただ、外人とおぼしき男声が、「ブラーボ」ならぬ、何らかの奇声を発し、妙な雰囲気が漂ってはいた。ショスタコーヴィチ・ファンによるものでもないようで、第九の演奏後も同様。ちょっと不思議な展開。第九、・・・やはり、通常の演奏会と客層が違う面もあろうが・・・。

(2005.6.6 Ms)

12/12(日) オーパス・ワン 演奏会

 こんな演奏会を待っていた。こんなグループを待っていた。

 このところの室内楽に対する熱っぽさ、この私の思いを満たしてくれる存在との出会いに感謝。ピアノ・クァルテットOpus−1(オーパス・ワン)。
 Vn.大谷玲子氏、Va.安藤裕子氏、Vc.林裕氏、そして、ピアノは正式メンバーは佐藤美香氏、ただし今回はゲストで三輪郁氏。

 2年ほど前に結成された、ピアノ四重奏団。弦楽四重奏団はよくあるが、ピアノ四重奏は珍しい。このメンバー編成を生かして、いろいろな組み合わせの作品を披露してくれる。
 今回は、前半が近代フランスもので、オネゲルのソナチネ(Vn&Vc)、ミヨーのソナタ第1番(Va&p)、そしてドビュッシーのピアノ三重奏曲
 後半はドイツもので、レーガーの弦楽三重奏曲作品77b、最後は全員揃って、モーツァルトのピアノ四重奏曲ト短調K.478。

 特に前半の面白いこと。まず、メンバー各個人の力量も、ソロで活躍中の方々ばかりで、個性のぶつかりあい、主張の強さ、アクの強さ、冒頭のオネゲルからして、素晴らしい演奏、そしてパフォーマンスであった。特に、大谷氏の情熱的な演奏、それも高貴で艶やかな音色、最初から惹きつける魅力あふれるもの。もちろん、林氏も負けず劣らず、二人とは思えないほどに、シンフォニックですらあった。二人でこんな重厚な、また多彩な音楽を引出せるとは・・・もちろんオネゲルの才能あってのことでもあるが。
 このお二人はそれぞれ、1993年日本音楽コンクールで1位入賞。そんな縁もあってこのグループを立ち上げたということか。
 一方、安藤氏は、楽器の地味さも手伝ってか、Vnほどの派手さは感じられなかったが、暖かな、そして確実な手堅さを感じた。特にミヨーのソナタが、絵に描いたような新古典主義、バッハ的なアレグロ、とミヨー特有の楽天的で朗らかな歌からなる作品で、その印象を強く持つ。三輪氏は終始、好サポート。ゲストということもあり、極端に前面に出ることはないものの、安定した演奏ぶりであった。

 まだ、12月20日(月)の東京・津田ホールでの演奏を控えており、他言は無用でしょう。まずは、オススメ。珍しい作品もありますし、素晴らしい一時が過ごせるでしょう。またおって続きは。 

 (2004.12.15 Ms)

 オネゲルのソナチネは、標準的な、急−緩−急の3楽章。1932年、40歳の作。やはり、フランス的というよりは、対位法で攻める硬派な楽想。交響曲で見せる悲愴味なども手伝って、小品ながらもオネゲルの個性は健在。
 第1楽章の激しい表現は心を捉える。チェロの和音打撃の連続の上に、まるでジャズの即興演奏かと思えるほど自由奔放なVnのソロが絡む場面など、見た目にも、アクティヴで面白い。第2楽章の内省的な雰囲気は、一度聞いただけでは少々捉えにくい感じ。フィナーレは、まるでショスタコーヴィチかと思わせる、ポルカ的、通俗的な軽さ、軽薄さが印象的。
 終始、Vnの華麗な音色にうっとり、また、芯のある骨っぽい表現も心に深く刻まれる。ただ、ふと、9月にやはり生で始めて聞いたマルティヌーのデュオと比較してみると、さすが弦楽器奏者だったマルティヌーの方が効果的に書かれているように思った・・・同じ音域で2つの楽器がうなるように絡む効果が面白かった・・・・ぜひ、Opus−1さんでもマルティヌー聞いてみたいもの。

 ミヨーのヴィオラ・ソナタ。前に書いたとおり、新古典。しかし、ストラヴィンスキーが1920年代にやってたことをミヨーは1944年にもなってまだなぞっていたか・・・いやいや、新奇性だけが音楽の価値にあらず。そもそも「古典」音楽だって膨大な同一傾向の作品群があって、その時代を確立し、また、その蓄積の中から次の時代の音楽の萌芽は生まれよう。特殊な、ヴィオラのための貴重な作品ということもあるが、大切な作品、と感じた。嬉遊性、明るさにあふれた作品。偶数楽章はバロック風。奇数楽章は、歌の世界。特に第2楽章「フランセーズ」の快活さがヤミツキ。モーツァルトやハイドンの精神と、南欧の楽天性の心地よい結合・・・ストラヴィンスキーの人工的な新古典主義より、暖かな雰囲気が気に入った。ヴィオラの音色とのマッチぶりも良い(ただし、速い楽章の細かな音符の連続がやや不明瞭に。響き過ぎた感のあるホールと感じられたのが難点か。枝葉末節にて失礼)。オネゲルのソナチネの火花散るような対決、緊張、そして派手さの後に、こういった選曲というのも素晴らしい。

 ドビュッシーのピアノ・トリオなんてあったかしらん?というのが正直なところだが、実は、18歳の頃の習作、1880年。チャイコフスキーのパトロンだったメック夫人のお付きのピアニストだった頃のドビュッシー、もう既に、少なくとも初期の名作「ベルガマスク組曲」あたりのムードは漂っている。冒頭1小節聞いただけで、もう、ああドビュッシー!!
 それにしても、感覚にすっと、違和感なく馴染む。お昼のメロドラマのバックに流れてても不自然ならぬその雰囲気。完全に、彼の個性のコピーがこの現代の音楽に蔓延している証拠か。とにかく彼の作り出した個性のうえに我々は住んでいるのだ。第2楽章の主題など、どうだ、こんな作品なら、TVの音楽を手掛ける現代の作曲家が何度でも真似して使ってそうなもの。第4楽章の、いかにもという短調の焦燥感に満ちた旋律も、心になじむ。頭では、なんだこんな通俗的な・・・と思いながらも、家に帰ってきても何度も何度も頭を巡る。ドビュッシーの凄さを、こんな少年時代の小品で感じさせてくれるのだから、やはり彼は違うな。
 さて、音楽の素晴らしさに浸りながらも、意外と、作品としては、複雑な絡みなどなく、技法としては未熟なのかも、と思ったり。でも、そのシンプルさゆえに訴えかけるものもある。とにかく、綺麗で、美しかった。Vn.Vc.も、オネゲルとはうってかわっての麗しさに満ちた演奏。満足です。

 やはり、作品の面白さとしては前半がダントツ。
 後半のレーガーの三重奏。1904年、31歳。弦楽3人とは珍しい。弦楽四重奏が完全無欠な編成だから、物足りなさを感じるか、と思っていたが、意外や、重厚な、まったく遜色ない完結性を持っていた。しかし、作品自体が、ブラームスをさらにこむずかしく(旋律としても、構成としても)したかのようで、とっつきにくかった・・・・。フィナーレこそ、モーツァルトの快活なアレグロを模範とした雰囲気を持つものの、精神は違うような・・・。ミヨーの新古典、「パロディ」が心地よいのに比較して、レーガーの新古典、真面目に勉強して古典を模範としつつも、作曲する楽しさより、作曲する苦しさを感じてしまった。何度か聴くうちにこういった作品は良さもわかってくるのかもしれない、今は個人的な評価を下すのはやめよう。
 でも、返す返す、演奏は良かった・・・レーガーの分りにくさとして、緊張感をもった頻繁な小休止を象徴的に感じてしまったが、その緊張の連続の中で、緊密な奏者同士の連携、そして構成感、これははっきりと見て取れた。ブラームスなども良さそうだな、期待したいところです。

 モーツァルトは、宿命のト短調、他言無用。流麗な音楽の流れに身をまかせておりました。
 アンコールは時節柄、クリスマス・ソングのメドレー。これまた気の効いたアレンジで。楽しく聴かせていただく。
 今後も是非、聴きたいグループでありました。また機会を見つけての再会を楽しみに。

 (2004.12.22 Ms)

12/10(金) 桑田 歩 チェロ・リサイタル 〜第9回KEKコンサート〜

 「N響副主席を迎えてロマン派の名曲を聴く」と副題されたこのコンサート、今回は珍しく、東京よりもさらに東、茨城県は、つくば市までの遠征とあいなった。まあ、ついでがあってのこととは言え、遠くまで行ったものである。
 「KEK」とは、「高エネルギー加速器研究機構」。何のことやら私には難しいが、この研究所の関係者のためのコンサートを、広く地域住民にも開放し、研究への理解を深めていただく、といった趣旨だろうか。何の関係もない私だが、こころよくこのコンサートを鑑賞させていただいたことに、深く御礼申しあげます。ちなみに私自身「KEK」に用事があったわけじゃありません。そんな高度な世界とはよほど無縁な庶民でございまする・・・・。

 こういったコンサートながら選曲された作品は結構、ハード。媚びない、もの。
 シューマンの「アダージョとアレグロ」作品70フォーレのチェロ・ソナタ第2番
 休憩をはさんで、有名曲2曲。ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、サン・サーンスの「白鳥」。メイン級で、メンデルスゾーンのチェロ・ソナタ第2番
 最後に、ポッパーのハンガリー狂詩曲。

 まず、シューマン。やはり、シューマンは偉大だ。こういった室内楽コンサートは私にとってまだまだ初心者ながら、シューマン作品があると、どんな作品であれ心奪われてしまい、満たされる。彼の歌心、訴え、さらにはロマン性の表出がストレートに伝わる。もちろん、オーケストラ作品も素晴らしいが、楽団員の方向性の一致とか、指揮者の統率能力とか、しっかりした裏づけなしに、それらが伝わらないこともある。団体行動ではなく、個人の演奏行為がそのままストレートに曲そのものと化すこういった作品では、シューマン自身の身を削っての歌心が、深く私の心を揺り動かす
 冒頭、アダージョの、ゆっくりと半音上昇して行く主題、もう、これだけで切ない気持ちになるではないか。そして、伴奏ピアノもさりげなく対話に加わり、絶妙な絡み合いだ。そして、穏やかに調性を移り、明暗を微妙に色づけしながら曲は進む。
 曲はもともとホルンのために書かれたものの、チェロでの代用も可で、チェリストにも愛されている作品と言う。ただ、アレグロにおいて、上昇する分散和音が折り込まれており、そのあたりに、本来のホルンの響きが見て取れた。

 続くフォーレ。チェリストでも知らない人がいるほどの珍しいもの、と桑田氏談。
 これが、いいんである。こんな名曲が隠れていようとは。まだまだ未知なる豊穣なる名曲の大海、冒険しがいがあるもの。
 ト短調、憂いをもってピアノとチェロが寄り添うが如くいとおしく旋律を歌いあげる。いわゆるフランス的なエスプリ、穏やかで留まる事無く常に自然な音楽の流れにあふれている。けして華やかさに満ちたものではない。が、曲が始まるや、その世界に引き込まれ、ずっと曲の進行に付き添って自分の感情が素直について行く。
 いわゆる展開の途上で、何らかの感覚が普通は自分の中に生れるのだが(こんな展開ついていけない、とか、下手クソであきあきする、とか、逆に巧いなあ、とか)、そんな曲の審査、っぽい感情が全く生まれない。素直にその音楽の流れについて行けば幸福、なのだ。この感覚は、フォーレ以外に味わったことはない。旋律自体、音階的な順次進行も多く、つかみやすく、しかし、一方で実は名旋律、と即座に思えるほどの印象でもないが、和声の心地よさ、これに尽きるな。(現代的感覚ではなしに、近代的感覚の和声でも、新鮮さが感じられる。この音楽史上の位置は貴重だ・・・破壊の一歩手前で、マンネリにもならない和声感。その秘密を解いて見たい誘惑にかられる。・・・同時期のフランスでもサン・サーンスの感覚は既にマンネリだろう。ドビュッシー以降はもう次の時代の感覚。その狭間で独自の感覚を一生研ぎ澄ましていったのだ。この作品は1921年、70代の作!!)
 そして作られた、演出された、大袈裟さもないし、不自然さもない。もちろん、演奏自体も、けして虚飾もなく、実直な音色であり、解釈ではなかろうか。それが、このフォーレの音楽の質とマッチしており、安心してその音楽を堪能させてくれる。私的なN響のHPなど拝見しても、「桑田トーン」などと好意的に紹介され、また、ソロ・リサイタルのチラシでも、評論家・奥田佳道氏に「俺が俺が声高に叫ぶことなく、でも、さりげなく存在感を増す・・・」などとあったが、まさに、そんな優しさと落ちつきに満ちた演奏であった。
 さて一番の聴きどころは、第2楽章。ナポレオン没後100年の葬送音楽用の楽想を転用したもの。感情過多になりすぎず、でも切々たる情感。この感覚を知らずにいるのはもったいない。

まずは前半のみ(2005.3.5 Ms)

 後半はまず、名曲を2曲。あまり力み過ぎず素朴ななかに歌の心は感じられる。技巧を誇示する作品でもなく、その代わりに、あまりに情熱的に歌い込み過ぎても不自然な感じもする。その辺り、バランスの取れた演奏と感じる。

 そして、メンデルスゾーン。楽曲としては、やはり、時代のこともありシューマンのものと比較してしまうのだが、ロマン性よりは、古典性。シューマンほどの、心の揺さぶりはない。でも、ただ、スピード感、これが強みか。軽やかさ、推進力。彼の持ち味は最大限に生かされ、聴く者をワクワクさせる。特にフィナーレは、彼自身のヴァイオリン協奏曲のフィナーレにような明るさと華やかさを持ったもの。音楽にグイグイ惹き込まれてゆく。
 さて、第1楽章から、「イタリア」交響曲のような楽想で、シンフォニックな効果も、という桑田氏のコメント、まさに的を得たもの。
 チェロは歌を紡ぐ一方、低音域にもぐり込んで、ピアノを支える役回りにすらなることも意外に多し。メンデルスゾーンの持つ軽やかさは、ピアノの華麗な分散和音を効果的に動き回すことで、より表現されているようだ。その分、フォーレなどに比べても聴き応えとしてはアップ。でも、チェロが目立たない部分も確かにある。その辺の曲の作りで、チェリストにいまいち愛好されていないかもしれない。ピアニストの質がもろに、この作品の出来を左右してしまう。その点、今回のピアニストは、チェロ・ソロとの関係において、いいバランス感だ。ただし、会場がそういう場だから仕方ないが、ピアノがちょっと安っぽい楽器だったかもしれない。
 第2楽章の、やや緩やかな、寂しげなスケルツォ楽章も印象深い。ユダヤ的感傷かな。ロ短調という調性もいい。やはり、ヴァイオリン協奏曲を引きあいに出すが、冒頭楽章の有名な旋律と同様な、「哀調」を感じる。
 第3楽章も、エレジー的な歌が中心的な楽想となっている。ピアノの和音のコラール的な動きも美しい。そんな、2つの中間楽章を経てのフィナーレの快活さがまぶしいほどの目覚しい効果をあげるというわけだ。
 このソナタも、フォーレ同様、知って良かった、としみじみ感じさせる。以前聴いた、ピアノ・トリオ2番もそうだが、晩年のメンデルスゾーン、かなりいい仕事してますね。交響曲だけでは追い切れない。室内楽の大家ブラームスを産み出すまでのドイツ・ロマン派の重要な業績として、こういった作品も大事にしたいもの。宝物はまだまだ隠れていよう。桑田氏の選曲センスには脱帽。感謝。

 最後に、ポッパーの「ハンガリー狂詩曲」。チェリストの作になる、言わば、チェロ版「ツィゴイネル・ワイゼン」といったところ。
 桑田氏によれば、最後にソナタを置いた、オーケストラ演奏会における交響曲が最後に来るようなプログラムではなく、あえて、こういった類のものを今回配置したということだが、N響でのネルロ・サンティ指揮の演奏会で、最後にロッシーニの序曲「セミラーミデ」を置いた事にヒントを得たとのこと。現在の常識的な線からちょっと奇を衒ったような感じ。昔のオケの演奏会、確かに必ず交響曲とか大曲、長い曲で閉めたわけでもない、と。
 さて、作品自体は、リストの同名曲と同じ雰囲気。今までのプログラムが、ソナタとは言え、技巧誇示よりは、歌、で攻めてきただけに、この作品の存在は、効果抜群。曲想の変化、テンポの変化はもとより、音色の変化なども面白く、エンターテイメントとして楽しむ。

 アンコールは、やはり、「ロマン派」の名曲として、ショパンの有名な「ノクターン」(Op.9−2)。チェロ編曲とは初めて聴く。テンポが緩いままに全曲が設定され、やや冗長なイメージも持った、が、チェロによる版も原曲と違った雰囲気でよろしいのでは。

 コンサート専用のホールではない、普通の教室みたいな場でありながら、レベルの高い演奏、重量級で興味深い選曲で、来た甲斐、聴いた甲斐があったというもの。
 その日は、つくばにての宿泊。人工的な町並み、しかし、もう古さも感じ(建物や道路の雰囲気)、荒廃とまで行かないが、ちょっとした怖さも感じる。日本全国、いろいろ旅する身ながら、自然発生的な町ではない違和感はどうも感じてしまうのが率直なところ。また、翌朝の屋外一面のモヤが不思議な感じ。日本離れした感覚を思う。
 のんびりとした、鈍行の旅。今回の新発見は、川崎駅前、モアーズにて、中国の、「刀削麺」。美味である。

(2005.6.6 Ms)

 さて、本来なら別項にて、改めて書くべきだろうが、この流れで付記しておくことがあります。

 縁あっての、桑田歩氏のチェロ・リサイタル、ですが、2005年1月13日(木)に東京オペラ・シティ・リサイタルホールでの演奏も聴く機会を得たので、その様子も付け加える次第。ただし、演目はほぼ同じである。KEKにおいては、そのリサイタルの性質上、有名曲を2曲(ヴォカリーズと白鳥)真ん中に配置しているが、オペラ・シティでは、それらに変えて、ペンデレツキ「ジークフリート=パルムのためのカプリッチョ」が置かれたので、それについて若干のコメント。

 無伴奏作品だが、作曲家の名から予想されるとおりの、前衛作品。およそ通常のチェロの音でない音を発し続けるもの。ただ、その騒音スレスレの状況の中で、時折、ドミソの和音がピチカートで鳴らされるのが不思議な感じだ。
 桑田氏も、上着を脱ぎ、吊りバンド姿での登場、チェロ自体も、チョークの粉をまぶしたのだろうか、いろいろ苦心のあとが見られる楽器に変えて、この風変わりな、いわゆる奇想的な(カプリッチョな)世界をショーアップして見せてくれた。ロマン派から近代への、歌心あふれるプログラミングの中でかなりな異質な響きが飛び込んできたのが面白い。野心的選曲だし、どうしてもやりたい、という欲求も強かったのだろうか、ライトな衣装というのもちょっとした、いたずら心すら感じてしまう。
 ・・・この風変わりな体験の記憶が残る頃、その翌月に松本に出かけた際(ブロムシュテット指揮、ゲヴァントハウス・・・これまた、いい体験だったなあ)、古本屋で偶然見つけた、昔の「音楽現代」、1976年8月号。えらい昔だ・・・30年前か・・・。武満徹、音楽討論で、例のペンデレツキとの対話が収録。そこで、武満氏が、この「カプリッチョ」を取り上げ、調的なものが瞬間的に現われる(ハ長調の和音)指摘をした時の、ご本人のコメント・・・

「伝統的な調性はもう信じていない」
「私のものに出てくるのはみんなただひとつだけのコードがポンと出てくる」
「緊張をその瞬間に解くためのコードであったり、そうでなければ、チェロの曲で使ったように、冗談、ジョークの意味です」

 まさしく、このコンサートでの一種、ジョークのような存在(いわゆる現代的作品がない中での唐突さも手伝って)、勇気ある選曲かつ演奏、この心意気は高く買おう。まあ、私の人生で、2度目にこの曲を聴くことはないかもしれないが・・・・。

 さて、最後に、2回のリサイタルを通じての感想。チェロ・ソロはさすがにオペラ・シティに向けて演奏の精度を高めている様も感じ取れたが、ピアノ伴奏がそれぞれに違って、その差はチェロ以上に感じられた。オペラ・シティは、ソロでも活躍の青柳晋氏。ソリストとしてのアクの強さが若干出たかもしれない。確かに、メンデルスゾーンなどは、ピアノもチェロと同等な比重を持つ、そして華麗な技術の披露という側面もある。しかし、ソロ・リサイタルという面では、KEKの際の、ややハンディある楽器とは言え、浅川真己子氏の伴奏の方が、バランス的に安心できたとの感想を持った。

 オペラ・シティでは、微妙なアンサンブルという点での精度がやや落ちたのは残念ながら、ほとんどの人はこの2回のリサイタルを聴き比べずこの場にいたわけで、その前提がなければさして気になることもなかったとは思われる・・・些細な話に過ぎない。しかし、こういった聴き比べも、奏者の性質など顕著に出て面白いとは思う次第。

 なお、余談ながら、さらに、私事ながら、緊張感を強いられた(当時の)毎日において、この演奏会にはかなり救われた感あり、音楽の力をあらためて痛感するとともに、特にフォーレの作品への橋渡しをしていただき、その後の自分の鑑賞行動にかなりの影響を与えてくれるきっかけとなったコンサートである。忘れ得ぬ思い出をありがとうございました。

(2005.7.14 Ms)

November ’04

11/28(土) 広瀬悦子 ピアノリサイタル
          〜第108回アルマ・21世紀コンサート〜

 今年3月に、CDデビュー・リサイタルを東京・大坂で行い(大阪での模様はこちら)、名古屋でのリサイタルも待望されていたところ。やっと実現となり、名古屋の面目も保てました。熱田文化小劇場にて。

 デビューCDは、バッハのシャコンヌを中心に「ピアノ・トランスクリプション」をコンセプトに、編曲ものを集めたもの。今回のリサイタルも、そのコンセプトを引き継いだもの。

 前半に、ブラームスの「主題と変奏」、バッハの「シャコンヌ」、リストの「ファウスト・ワルツ」。後半は、チャイコフスキー「くるみ割り人形」、ストラヴィンスキー「ぺトルーシカからの3章」。

 ブラームスは、「弦楽六重奏曲第1番」第2楽章の作曲家自身による編曲。とにかく、美しい音色、自然な音楽の流れ、繊細さと大胆さ。・・・これらの特徴はリサイタル通じて言えることだが・・・。弦楽器6人が織り成すブラームスの緻密な世界をたった1人でここまで表現しようとは。音楽がどこに向かうのか、明確に表現されており、聴く側も安心してその音楽に乗りかかっていれば、ひたすら心地よい。原曲が素晴らしいために、編曲がその素晴らしさを損ないやしないかとの予想もないわけではなかったが、見事、その心配は無用のものとしていただけた。新たな感動を、このピアノ編曲から得られて幸せである。
 バッハは、ブゾーニによる絢爛豪華な編曲。原曲がVn.ソロと忘れてしまうくらい。まるでオルガン作品を聴いているかのようだ。冒頭のりりしく力強い和音による主題提示から始まって、見事性格を描き分けた変奏が延々続く。まったく飽きさせない。中間部、長調に転調した部分の中低音域の豊かな響きに、心暖まる深い感銘を受けた。長調でありながらも、単に明るい、だけでない、深さ。底の浅い軽さを伴わない、長調の安定した感覚、宗教的ですらある、揺るぎ無い信仰。「シャコンヌ」そのものも名曲に違いないが、見事に、その魂を入れた名演、である。もちろん、超絶的な技巧もちりばめられて、エンターテイメントとしても申し分ない。
 ちなみに、調性が同じこともあるが、ブラームスが、バッハに寄りかかった作風である(決して模倣には終わっていない独創性もあるが)ことが、並べることでよくわかる。
 リストは、有名なグノーの歌劇から主題を借りての自由な作品。大胆できらびやかなピアニズムを楽しむ。前回のリサイタルでも、その1年前の小坂井町でのFM公開録音でも聴かせていただく、彼女の18番、であろう。まさしく、「アルゲリッチが認めた才能!」を彷彿とさせる選曲であり、演奏をいつも聴かせてくれる。また、ペダルの使い方が、打楽器的で驚いた。押さえるのではなく、蹴る、といった感じ。ワルツの1拍目、ステージをも蹴ったアクセントが響く。もちろん常にではなく、主題の提示の部分で目立っていたので、意識的には相違ない。

 チャイコは、プレトニョフによる編曲で、オケ版の組曲とも違う選曲による。「行進曲」「こんぺい糖」「タランテラ」「情景(雪のワルツの前の場面)」「トレパック」「お茶」「パ・ドゥ・ドゥー」。オケの色彩感にも劣らない、多様な表現力で、この有名過ぎる作品を、編曲版を劣るものとも全く感じさせない演奏。
 続く「ペトルーシカ」も同様。さらに作曲家自身の編曲だけあって、複雑なオーケストレーションのなかから何をピアノ独奏用として音符を残すかが完璧にわかっている。まったく物足りなさを感じさせない。おまけに、オケではあり得ないほどのスピード感や、自由な歌い方、テンポの揺れなどもあって、作品のもつ魅力に違う側面から光をも当てて聴いていて興味は尽きない。勢い良過ぎるほどの「ロシアの踊り」そして、最後の「謝肉祭」の様々な情景が、矢継ぎ早に現われては消え。しかし、運動能力においても凄い演奏だ。右手が通常の動きをする中で、連続する左手のグリッサンドの応酬など効果としても壮絶。世の中、こんな演奏、そうそう無い様な気がする。とんでもない演奏に出会えた(最近BSで、やや年配の男性ピアニストによる演奏を見たが、凄みのない極めて無難な面白みに欠けるもので、全く違う作品のように感じられた)。

 アンコールは、ブラームスに戻って、お馴染み、ハンガリー舞曲第4番と5番。編曲者は不明だが、自由に装飾もいれてやや現代的和声もあって、これも充分楽しいもの。
 確実な超越的な技術に裏打ちされつつ、心の通ったピアノ演奏。またの機会、リサイタルを楽しみにしたい。心待ちにしています。こういった、編曲ものの選曲もおおいに楽しいのですが(特に、管弦楽、室内楽を聴く人間として)、彼女の演奏で、いわゆる一般的なピアノ作品なども今後聴く機会などあったら良いなあと思います・・・ラフマニノフのピアノ作品など期待したいところ。

(2004.12.6 Ms)

 

11/14(日) NHK交響楽団 第1526回定期公演

 サヴァリッシュ指揮。ハイドンの交響曲第35番、ブリテンのヴァイオリン協奏曲(独奏、フランク・ペーター・ツィンマーマン)、ベートーヴェンの交響曲第7番。
 開演前の室内楽は、ダマーズの五重奏曲作品2。フルート、ハープを中心に弦も加えた、フランスのエスプリを感じさせつつも、プロコフィエフあたりの先鋭性も持った佳作。面白い選曲で楽しめた。

(特別な演奏会、という感慨がとてつもなく強い。なかなか書けずに月日が過ぎていた。「N響」のコーナーでの記事を当面掲載して体裁だけ取り繕う。)

 これは、東京に駆けつけないではいられなかった。
 なかなかやる機会の無いブリテンは、ソロの素晴らしさと、音楽そのものの力が相乗効果で、こんな名曲がなぜに埋もれているのかが不思議なほど。プロコフィエフとショスタコ―ヴィチの各々の1番のVn協奏曲を橋渡しするかのような、雰囲気も魅力だ。
 ベートーヴェンは、一心不乱な、鬼神と化した指揮者とオケの気迫に完全に取り込まれてしまう。フィナーレの、スフォルツァンドの激しさが、視覚的にもオケ全体で感じられ、みんなが一つになった姿、そしてそんな演奏を紡ぎ出す指揮者がなんと神々しかったことか。
 詳しく書きたいと思いつつも、何か、特別な体験をしたかの印象もあり、書く勇気も起こらず、そのままになっていた。自分の心の奥底に大事にしまっておきたい貴重な思い出・・・。

N響アワーのリクエスト番組(2006.3.26)で最後に放映されたサヴァリッシュのブラームスの1番を見て、ようやくここに記す(2006.4.11 Ms)

(2006.7.29 Ms)

 

October ’04

10/26(火) 日本室内楽アカデミー 第13回定期コンサート
          〜ニーチェと音楽家の夕べ〜

 日本室内楽アカデミー代表であるピアニスト、佐々木予利子氏(「予」は、正確には人偏に「予」です。我がパソコンで表わすことのできない文字のようです。)と、N響メンバー等との共演で、珍しい、哲学者ニーチェの作曲した作品と、そのニーチェの周辺の作曲家の作品を。中央大学教授、加賀野井秀一氏の解説を交え。名古屋の、しらかわホールにて。

 まず、ニーチェ(1844−1900)の歌曲作品。松実健太氏のヴィオラによる(日本室内楽アカデミーのメンバー)。
 「永遠に」「風」「さらなる願い」の3曲。作風としては、さほどの新奇性は感じられず。19世紀後半のドイツというシチュエーションなのだが、ブラームス風とも、ワーグナー風とも感じず。ただ、頻繁に転調するさまは、シューベルト風とも感じられるが、メロディー・メーカーとして取り上げるほどでもなかろう。また、歌詞は甘い愛の歌などで、老練・難解なる哲学者のイメージとは遠い、若さ、は感じられよう。
 続いて、N響Vn.の木全利行氏で、同じく歌曲作品「切なる願い」。そして、Vnの作品として、「今年最後の夜」。これは、最初からVn作品だけあって、当然器楽的に書かれてあって、多少は聞き応えもあり。しかし、単純な音階や分散和音も目だち、旋律としても惹かれるものは不足気味。
 歌曲4曲は20歳の作品。Vn作品も同年の作ながら、7年後(1871)に「大晦日の夜の余韻」なる作品として一部活用され、ワーグナーの妻コジマに献呈、しかし、顰蹙をかったとのこと。
 ニーチェ作品は以上。正直ひっかるものなし。前半最後に、ピアノ四重奏の形で、ワーグナー作品を。ニーチェはワーグナーに傾倒し、その後批判に転じたようだ。二人の出会いは1868年。結果として、上述のようにワーグナー家の不興をかう。
 「トリスタンとイゾルデ」前奏曲。冒頭の無調的な有名な箇所、今回はチェロの、微かな弱音からのクレシェンドで表現。なかなか緊張感に富み、また、情感あふれるもので良い。奏者は、チェロもN響で桑田歩氏。ただ、編曲上、やはり、オリジナルな豊穣なオーケストラ作品と比較すると随分無理を感じる。ピアノと弦が同じメロディで重なっている部分も多く、あまり巧くないアレンジだ。
 続く、「マイスタージンガー」前奏曲。およそ、1分ほどの短縮版。始まってひとくさりやったら、いきなり行進の主題に飛んで、そのままその行進の主題からコーダに突入。あっけにとられているうちに終わった。不可解だ。かなり無理のある演奏だった。

 どうも、客層を見ると、愛知万博のキャラクター「モリゾー」バッジをつけたおじサンたちや和装のおばサンも目立ち、地元優良企業からの花なども飾られ、多分に、上流階層のサロン的ムードがプンプンしていたのだが、その雰囲気からして、主催者側に是非やって、とでも言われて無理にプログラムに突っ込んだ、という風に感じられないでもない。・・・そういえば、演奏中の私語も目立ち、あまり音楽鑑賞の場に慣れてない御仁も多いようで、名古屋財界の民度も一体・・・・。今月最初の豊橋での室内楽コンサートの方が、客席の雰囲気は良かったですよ。

 後半、今度は、リスト作品。ニーチェ17歳の時には、リストの影響を受け交響詩「エルマナリヒ」なる作品を作曲したとのこと。
 今回は、チェロにより、「悲しみのゴンドラ」「エレジー第1番」を演奏。前者は、1882年、ヴェネチアのワーグナーの家でリストが、ワーグナーの死の前年に作曲。原題は「葬送のゴンドラ」。因縁めいたもの。無調風で、甘さのかけらもなく、6/8拍子の緩やかな舟歌風なリズムもない。しかし、このコンサートで始めて、重厚な音楽らしい音楽に始めて出くわした。暗い情熱、重い情念といった雰囲気に満たされた快演。
 「エレジー」も、1874年、某伯爵夫人の追悼作。前者に比較し、まだ、3拍子のリズム感が感じられ、難しそうな雰囲気は緩和されるものの、不吉な不安さは共通。

 最後に、ニーチェの「ツァラトストラ」を後年、交響詩にしてしまう、R.シュトラウスの作品で、ピアノ四重奏曲ハ短調作品13。40分の大作。20歳の作ながら、同じ20歳のニーチェの歌曲と直接比較するのも申し訳ないが、差は歴然か。ブラームスと遜色ない完成度。あふれんばかりに楽想の豊かを誇りつつ、主題の展開、再現も精緻に。R.シュトラウスの、「ドン・ファン」以前の、古典派風作品も最近、主に室内楽ながら、聴く機会が増えているが、Vn.ソナタ、管楽セレナーデなど、意外と聴き応えありVn.ソナタOp.18は、なかなかの佳曲。これまた、上里はな子さんの演奏(2002年11月)で好感大となった代物
 本作も、ブラームス的な音響、和声が感じられながらも、旋律や動機に、後年の彼の語り口、癖もかいま見え、面白い。特に第2楽章スケルツォの主題に顕著。冒頭1小節聴くのみで作者がわかる。また、頻繁に繰り返されるリズム動機は、ピアノ協奏作品の「ブルレスケ」を予告している。第3楽章は、映画音楽で使えそうなほどにカンタービレなものながら、対位法的にもしっかり絡みがあって、さすがという腕前。
 やはり、後年のR.シュトラウスの精緻な管弦楽法も、少年時代からのブラームス研究の土台あっての筋金入りのものと敬服。逆にマーラーの土台は鈍重なブルックナーか。同じ後期ロマン派の管弦楽作品の大家ながら、ルーツの違いを感じてしまう。
 さて演奏は、Va.の松実氏のヴィオラ離れした華麗な音色、存在感に終始圧倒されていた感、強し。(またいずれ、本格的なヴィオラ作品での鑑賞を楽しみとしたい。)それを確実にサポートするのがチェロ、桑田氏。Vn.はやや一杯一杯的、余裕がやや感じられず。ピアノも不安定さが感じられる。かなり、緻密に書かれた作品だけに、演奏の困難さも当然だが、それがちょっと感じられ過ぎのきらいあり。特に感じられたのは、それぞれのソロ作品で伸び伸び演奏してのが、どうも四重奏では、守りの姿勢を顕著に感じてしまい残念だった。
 ただ、この素晴らしい作品との出会いには感謝したい。

 アンコールは、ベートーヴェンのピアノ四重奏から。

(2004.11.1 Ms)

10/22(金) 日本フィルハーモニー交響楽団 第564回定期演奏会

 <ドイツ浪漫の流れ>俊英・下野、会心のプログラムで日本フィル定期でデビュー

 といったコピーで、今をときめく若手指揮者、下野竜也氏を迎えての、聴衆、奏者ともに指揮者を盛りたてての会場一体となった充実の演奏会。

 最初に、今回の委嘱作、猿谷紀郎氏の「潦の雫」(にわたずみのしずく)。難しいタイトルだな。「にわたずみ」は、激しい雨でできた水溜りのこととか。緩やかなテンポの中に、不協和音の音塊が明滅する。マイク越しに特殊な打楽器の微かな音が、うめき声のように反響する(トーキング・ドラムの原理をティンパニに応用した楽器が妙な音響を終始かもしだす)。水のイメージにしては、爽やかさよりは不気味さに勝るものであった。

 続く、シューマン交響曲第4番は圧巻である。若さと勢いが、シューマンの音楽に自然にフィットしている、躍動感あふれるもの。とにかく、青春!まっしぐら!!という感じ。速めのテンポ設定。前へ前へとひるむことなき推進力。思い入れも深いようで、完全に自分の音楽として自由自在にオケを操縦している。
 第1楽章、主部の焦燥感など、微妙なテンポの揺らしが絶妙だし、再現部の何度も出現する終止も息つかせぬタイミングで次々と音楽を紡ぎつづける。「歌って歌って、歌い死にそうだ・・・・」(クララへの手紙の一節でしたか)と絶叫するシューマンの霊感の波動。もう完全に、一つの世界を作りあげて、その中から聴衆を逃がさないだけの凄みが感じられた。常に(第2楽章を除き)前傾姿勢を強いる演奏の果てに来る、フィナーレの後半の段階的なアクセルのスリリングさは爽快ですらある。堰を切って、音楽が押し寄せ、終始、圧頭されっぱなしだ。他のオケでも、下野氏はシューマンをよく演奏しているようだが、21世紀初頭、日本でクラシック・ファンを自認する皆様、「下野のシューマン」聴いて損はなかろう。こんな演奏ばかりであれば、シューマンのオケ作品への批難の余地はなくなるだろうに。
 なお、第2楽章冒頭のソロ・チェロ&オーボエ、素晴らしい歌を聴かせてくれた。特にチェロ、首席は菊地知也氏。覚えておこう。
 
 後半は、ヒンデミット「ウェーバーの主題による交響的変容」
 その前に、ヒンデミット作品の第2曲の元になったウェーバーの作品、劇音楽「トゥーランドット」から中国風序曲と行進曲。とてもウェーバーとは思えぬ、珍品ぶり。何せ、フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーの「音楽辞典」に掲げられた、中国の旋律を主題とした作品。五音音階の旋律が、小太鼓のソロのリズムに乗って、ピッコロ・ソロでいきなり登場、変な雰囲気だ。それが、古典的な技法で、展開、短調ででたり、なんか調子はずれな一品。聴いていただくしかない、か。ウェーバーも、当時、中国の音楽なんか聴いたことないだろうから、いわゆるトルコ軍楽隊の打楽器をジャンジャカ鳴らしまくって、アジアの音楽なんだから、こんな感じだろう、って書いたんだな。詳細はこちらも。
 そして、ヒンデミット。派手にオケが鳴っていい感じ。でも、まあ、それだけ、って感じの作品か。演奏会の最後では、ちょっと軽いだろうか。音響的には鳴ってるのだが、3,4分の曲が4つ集まった組曲だし、前半と後半のプロをひっくり返した方が良かったのかも。シューマンのあの感激をもって、会場を後にしたほうが幸福感は確かに増したかな。

(2004.12.30 Ms)

10/16(日) 渡辺玲子 ヴァイオリン・リサイタル
          〜神戸学院大学 Green Festival〜

 ハガキを送ったら当選したので、普通列車の旅で兵庫県は明石まで往復の旅。この秋、名古屋で、渡辺氏は3回に分けて、ブラームスのソナタを中心に添えた演奏会を行うが、そのダイジェスト的な内容で、それが無料で鑑賞させていただけるのだ、お得きっぷでの旅なら、交通費≒チケット代ってところ。
 ピアノ伴奏、鷺宮美幸氏で、以上のプログラム。
 
 クララ・シューマン  3つのロマンス 作品22
 ブルーノ・ワルター  Vn.ソナタ イ長調
 
 バルトーク  ラプソディ第2番 Sz.89
 ブラームス  Vn.ソナタ第1番 「雨の歌」 作品78

 アンコールとして、タイスの瞑想曲

 そもそものことの発端は、先月聴いた、都響定演での、渡辺玲子氏の、ショスタコのVn協奏曲での名演。これに感化され、また以前から、毎年5月の大垣音楽祭での充実した演奏ぶりも目を見張るものあり、せっかく無料の演奏会があるのならと、出かけた次第。

 クララの作品は、昔、オーボエによるアレンジ版を聴いたっけ(シェレンベルガーのリサイタル)。当時の感想は記憶にない。ニールセンにひたすら感動してしまったか。
 今、聴いて、やはり、夫ロベルトの作風に近いし、また、意識し過ぎているようにも思った。和声の感覚はかなり似ているし、それよりも、旋律がロマンスを朗々と歌う、というより、かなり込み入った複雑さを感じさせ、それもシューマンの特徴を不器用に真似してしまった、という感覚を持った。3曲目は、かろうじて、「ロマンス」風な、歌心が素直に発揮されたものと思われたが、彼女の作曲家としての不幸(作曲家としての夫を持ってしまい、結果、ピアニスト専業になってしまった)を象徴するような作品、のように感じた。プログラムによれば34歳の作品だそうです。

 ワルターのソナタ。あの、大指揮者ワルター(1876−1962)である。1909年の初演。若きころの作品と言えるようだが、彼は9歳から作曲を始め、2曲の交響曲はじめ室内楽、歌曲なども少なからず残っているとのこと。本作も、一応、絶版ながら出版はされており、入手可能な状況にはあったため、今回が日本初演か否かは不明とのこと。主催者側は、「本邦初演」と銘打った演奏会にしたかったかもしれないが。
 作品の内容の詳細は、かなり忘れかけている。覚えていることは、まず、3楽章制。主調がイ長調ながら、フィナーレはイ短調。マーラーの元で指揮者として活躍していた彼とくれば、初演の時期から想像するに、マーラーの6番「悲劇的」の存在はふと感じる。
 パンフレット解説には、初耳の人がほとんどだろうということで、詳細は触れられていなかったものの、有名なモティーフが何回も登場すると紹介されていたが、それはベートーヴェンの「運命」動機であった。作風として、後期ロマン派に入ろうが、特別、難解な試みは感じられず、聞きやすいたぐいのもの。しかし、豪快なピアノの和音で始まることも象徴的だろうが、スケールの大きさ、私感としてはR.シュトラウスの交響詩みたいな雰囲気を感じた。Vn.ソナタの器を越えた楽想、と感じられた。
 実は、この企画においては、休憩の後、演奏者へのインタビューのコーナーがあり、聴衆が事前に質問事項があれば提出しておくことになっていたらしく、なかなか面白い企画であったが、そのインタビューの中で、この珍しいワルターのソナタについて渡辺氏が語ったところでは、・・・指揮者ワルターのイメージも手伝ってか、オーケストラの作品を弾いているような感じを持った、とのこと。ここは、ブラスが旋律を取ったな、ここでパーカッションが鳴るな・・・と。まさしく私の感想と同類な感想をお話され、嬉しく感じた。
 意欲的な選曲、ありがたく思います。有名作曲家に隣接する無名作品、いろいろな興味もそそられ、自分の今まで知り得た音楽史の空白を埋めるものでもあり、こういった出会いは楽しいもの。

 インタビュー・コーナーでの内容について。渡辺氏の本日の楽器、1700年製、ストラディバリウス「ドラゴネッティ」。高音の音の素晴らしさに定評あり、とのこと。でも、前の楽器が低音の鳴りが良いもので、ご自身も低音をたっぷり、という趣味のようで、「ドラゴネッティ」も、低音をしっかり鳴らせるように段々なってきた、ようです。確かに、本日の演奏でも、華麗、とにかく華のあるきらびやかな演奏を披露していただいていたが、前回のショスタコの協奏曲などでは、高音はもちろんだが、むしろ、凄みある低音の鳴りに感銘を受けたのだ。なるほど、そういう楽器なのね、と納得しきり。

 後半最初はバルトーク。ラプソディ第1番は、先月、東京でも鑑賞した(若手、佐々木絵理子さんの熱演で)が、今度は私も初体験となる2番。1番同様、ハンガリーくささ全開。民謡風、田舎の舞踊の伴奏Vn.的な雰囲満載で、技巧的にも、今回の演奏会で随一の高度さ。聴き、見るだけで興奮してくる。素晴らしい楽器ということもある。あっけに取られながらの鑑賞。
 といった点で、最後のブラームスは、作風として簡素なしみじみとしたもので、聴く側として、ややテンションが下がってしまった。もちろん、歌心あふれ優しく素晴らしい演奏には違いないが、心地よいもので、実は強行的な旅も手伝ってか、やや意識の遠のくこともしばしば・・・ああもったいない・・・。
 演奏前に、渡辺氏曰く、(インタビューの際、ワルターへの言及が多かったこともあってだろうが、)ワルターのソナタももちろん素晴らしいですが、やはり、ヴァイオリニストにとって、最も重要で、楽器の特性まで考えぬかれた名作がこのブラームスのソナタです・・・と、念押しで付け加えていた。確かにそれだけの価値ある作品だな。でも、私の耳だと、バルトークの絢爛豪華な技術オンパレードの後だと物足りなさも感じてしまったか・・・。

 今回の明石への日帰り旅行、新幹線を使わない旅行としては、限界だなあ。まして、明石駅からバスで結構混雑して時間もかかったし。でも、今後も興味ある演目さえあれば、是非とも駆けつけたい。抽選にもれなければ、ですが。一流の演奏が無料で聴かせてもらえる。まして、生の声、演奏家のホンネも聞けたりするわけで、関西の方々、恵まれていますねえ。うらやまし。

(2004.12.30 Ms)

10/6(水) 室内楽の夕べ
         〜ポーランド国立放送交響楽団コンサートマスター&首席チェロ奏者を迎えて〜

 どうだろう、小学生以来だろうか、豊橋市民文化会館のホールに入るのは・・・ピアノの発表会。そうだとすれば、もう4半世紀近く前なんだからヤになっちゃうな。久しぶりの近場でのコンサートである。私の住む街ではなかなかありえにくい、職場帰りの演奏会。
 ポーランドの弦奏者を迎えて、地元豊橋のピアニスト4人との共演、という趣向である。
 Vn.は、ヤヌシュ・スクラムリック氏(1945年生れ)、チェロは、ズジスワフ・ワピニスキ氏(1956年生れ)。
 曲目と、ピアニストは、
 メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲第2番 Op.66 小川真喜子さん。
 ショスタコーヴィチ ピアノ三重奏曲第2番 Op.67 杉浦道子さん。
 
 休憩後、チェロとピアノのデュオで、
 グラナドス アンダルーサ(12のスペイン舞曲より) 
         間奏曲(「ゴイエスカス」より)
 ファリャ スペイン民謡組曲  佐野裕美さん。

 アレンスキー ピアノ三重奏曲第1番 Op.32 小田真規子さん。

 メンデルスゾーン、アレンスキーは、初耳ながら、好印象をもたらす佳作である。またまた素晴らしい作品との出会いに祝福を。
 まず、メンデルスゾーン。晩年の作。ハ短調という調性に相応しい重厚な作品。メンデルスゾーンというと、前期「ロマン派」とは言え、もう少し古典的な雰囲気を想像していたが、なかなかに情熱的で、シューマンを思わせる暗い情熱を持つ。また、和声の趣味だろうか、後のブラームスを予告させる雰囲気も感じた。
 第1楽章から、ピアノの細やかな音符に彩られ、なだらかに旋律は歌い出されるが、「コリオラン」序曲風な、せせこましいフレーズが弦にも繰り返し出され、焦燥感は常に感じられる。なお、ピアノは全曲通じ、波打つような音符の群れがつきまとう。細かな音符に追われる事無くピアノが、その繊細な雰囲気を醸し出すさまはいい感じだ。ピアニストも安定している。
 長調に転じた穏やかな第2楽章に続いて、メンデルスゾーン生涯を通じて現れる、天使・妖精的な軽やかなスケルツォ。波打つ細やかな音符は弦にまで隅々埋め尽くされ、アンサンブルは難しそうだ。
 フィナーレは、緊張感みなぎる6/8拍子。これが、ブラームスの1番の交響曲風なムードを持つ(旋律の親近性は特に感じなかったが)。展開部あたりで、新たに、教会のコラールがピアノで導入され、それが展開の元にもなるが、それは、彼自身の交響曲第5番「宗教改革」を思わせるよりも、やはり、ブラームスの1番そのものに全く同じ趣向として取り入れられている。メンデルスゾーンの場合は、そのコラールが、コーダにおいて低音部のトレモロを伴ってピアノで、ハ長調で壮麗に回帰し、作品の神々しいまでの高次な解決として光り輝く存在感を示す・・・・・メンデルスゾーン晩年の偉大な成果だ、このトリオは。この作品は、ベートーヴェン亡き後のドイツ音楽の伝統をしっかりと受けとめ、また、将来へつないでゆく堂々たる存在と確信できる。この出会いに感謝しよう。
 なお、メンデルスゾーンのトリオといえば、今回の2番よりも1番のほうが有名だそうな。また聴く機会あれば是非とも。メンデルスゾーンの数々の室内楽、有名な弦楽八重奏曲を除いてなかなか知られていないようだが、発掘しがいもありそうだ。

 続く、ショスタコーヴィチ。かつて1度、生で聴いて、やはりCDの印象を遙かに上回る感動をもたらしてくれた。さくら弦楽四重奏団の演奏会。
 ただ、前回の演奏は、曲への感動はあったものの、ピアノへの不満がやや・・・。そして今回は、ピアノが弦2人以上の集中力と存在感をもって、曲全体を支配する勢い。特に後半の楽章における悲愴味、深刻さが、ピアノの壮絶な演奏に確実に刻印され、素晴らしかった。第3楽章の変奏曲主題の、重々しい和音の雰囲気は忘れ難い。第4楽章のクライマックスへ向かう5拍子の不安定感を増すオスティナートもまた、殺気だった雰囲気が私をその音楽とその音楽の背景へと没頭させてくれる。第二次大戦中の悲惨な現実がまざまざと投影した重い音楽にふさわしい、練りに練られた音楽を造型していた。
 正直なところ、弦の方が、その重さへの理解が不足しているんじゃないか、とすら感じて、実は今回、弦に不満を感じてしまう。ポーランド人奏者、ショスタコーヴィチに対する共感、なかなか難しいのか・・・・我々には分らない深い理由はあるのかもしれないものの、純粋に音楽が求めている技術には追い付いて演奏して欲しかった。ピアノが素晴らしかっただけに残念至極。第2楽章の弦の粘りのなさは、ちょっと犯罪的行為。スケルツォは、ショスタコの命じゃ。適当に演奏しないでくれぇ。
 ちなみに、ピアニストの杉浦さんは、ルツェルン音楽院卒業、現在は、ローザンヌ音楽院チェンバロ科在籍、とのこと。ピアノの是非是非今後も聴かせて頂きたい、と思わせる逸材と感じました。

(2004.10.12 Ms)

 後半、まずは、スペインものをチェロとピアノのデュオで。「アンダルーサ」は聴けばなるほど、と思う有名な作品でした。どの作品もスペイン情緒あふれる、親しみやすいものなかり。ピアノにギター風な同音連打的奏法がいろいろ見られて特徴的。

 最後に、アレンスキーこの夏、弦楽四重奏曲を聴いたばかり(8/13)、なかなかロシアの歌心に満ちた作品で悪くなく、さて今回はいかがであろう。
 これが、なかなかいい作品・・・・彼の代表作として位置つけられるレベルの作品なのだ。確かに訴えかけるもの大であった。
 冒頭からして、もう、映画音楽的な雰囲気もただよい、しっとり、寂しげに歌が始まる。ピアノは常に繊細な音符を綴ってうねりを持って・・・・待てよ、これは、ラフマニノフの協奏曲みたいじゃないか?そうです。ラフマニノフの先生なんですね。完全に、後年のラフマニノフの作風の一面(「激しさ」ではなく、より有名でお馴染みな「甘さ」という特徴のみだけれど)を垣間みせてくれた。細やかな伴奏の上に、弦が息の長い哀しげなメロディーを歌い込む。
 第1楽章が最も素晴らしい。第2楽章のスケルツォはやや月並みか。定型どおりのいかにもスケルツォ。第3楽章(エレジー・悲歌)は、また美しい歌を聴かせるものの、展開がいまいちで、異なる楽想を継ぎ合わせた感じ・・・・でも、綺麗な感覚に満ちた部分があって捨て難い魅力はある。フィナーレ。短調で情熱的に始まったは良かったが、これまた、異なる楽想のつぎはぎ的な構成は苦しい・・・第3楽章のエレジーの回想、さらに、第1楽章の主要主題も回帰。確かに、魅力的な楽想が戻って(まさに、もう一度聴きたかった旋律ばかりが帰ってきたのだ)その発想は納得ながら、その帰り方がもう一工夫ほしかったな・・・・さらに、第4楽章の主要主題があまり活躍しないまま、アレってな感じでいつの間にか終わってしまう・・・。返す返すもフィナーレは残念。構成の大事さ、痛感してしまう・・・。そういえば、弦楽四重奏もフィナーレが短くて、アンバランスでした。
 でも、これは、最初にこの作品を聞いての感想。慣れれば、段々に、構成以外にその音楽そのものの魅力も増してくるのかもしれない。
 演奏については、ピアニストとしては、本作品の方が最も室内楽の奏者として、アンサンブルをしていたと感じられる。視線を追っていれば、いかに一緒に音楽を作ろうとしているか分る。ピアノは、小田真規子さん。国立音大大学院を卒業、室内楽を徳永ニ男氏に師事とのこと。室内楽についてプロフィールに言及があったのは小田さんのみでした。曲に取り組む姿勢と言う点で好感大でした。もちろん、ラフマニノフを思わせるピアノの華麗なパッセージにも華があり、最も聴かせてくれるピアニストでした。

 さて、ここまで書きつつ、肝心な弦楽器奏者についてだが、どうも、いまいち調子が良くなかったのではないか。プロフィールとして申し分ないのだろうが、Vn.が終始弱く、バランスが悪い。チェロはピアノとの関係でも弱くは感じられず、ピアノもフタは開放しきらず控えめだったわけで、Vn.がどうも萎縮しているように感じた。ホールの関係、座席の位置、といった要因とは別のものとしか考えられないのだが。また、チェロは、A線のみが異様に鳴り、旋律を弾いていても、使用する弦によって音色が露骨に変化し、こんな演奏も始めてだ。
 せっかく、ピアノがいい感じで楽しめたのだが、他の要因がイマイチ釈然としないものを残したので、最後に付言しておいた。

(2004.10.20 Ms) 


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