今月のトピックス

 

 April ’01

4/22(日) 四日市交響楽団 第23回定期演奏会

 4/19、21のN響&ブロムシュテットの北欧プログラムを追いかけての小旅行(前後しますがこの項を書き上げた後、この項の下に展開予定)、その満足さで胸一杯のまま、大阪からの帰郷の途中、四日市に立ち寄って、これまた北欧プロ、それもオール・シベリウスを鑑賞。指揮者は、1995年の第1回シベリウス国際指揮者コンクール最高位に輝いた栗田博文氏。
 曲は、メイン、交響曲第2番。サブ、「カレリア」組曲までは普通のアマオケ、ありがちだが、なんとオープニングで「レンミンカイネンの帰郷」。やってくれます。これがなかったら寄らなかったとも思う。偶然招待状も入手でき、この意欲的なるプログラムに心ときめかせつつ、また、未知なるアマオケ故の不安も混ざりつつ、大阪なんば駅にて購入の最新の「ムーミンコミックス」を途中まで読みながら、近鉄特急を四日市駅にて下車。

 昼食は、リーズナブルなイタ飯系。これまた、シベリウスの2番が書かれたイタリアを意識しての選択、なわけないけど。いかにも駅前再開発的な斜陽と思われる有名デパートと広々とした空間を抜けて、会場へと向かう。

(1) 「レンミンカイネンの帰郷」

 とにかく、その速さに脱帽。よくやってくれました。妥協なき演奏が成功をもたらした。と感じた。
 中間部で出てくる低弦やファゴットの16分音符の連続のウネウネは正直明瞭に聞こえはしないのだが、それを一刀両断、とにかく速いアレグロで押し切って正解。16分音符が一つ一つ聞こえなくても、曲の醸し出す雰囲気は伝わる。そんな枝葉末節より音楽の持つ本質のような点を重視していたのは好感が持てる。
 とにかく、ヒーローもの的なノリだと思う。颯爽と駆け抜けるスピード感。大変快いものがあった。
 冒頭の語りだし、ファゴットの断片的なモチーフ、そしてクラのリズミカルな応答。かなりクリアーに届いてきた。ただ欲を言えば、高弦の和音ピチカートはもっと固くガツンといってほしかった、聞こえてはいましたが。また、金管も存在感あり、やるときにやってくれるといういいスタンスでの演奏参加で気持ちが良い。特に、シベリウス特有な、押し出すようなクレシェンド、うまく決まってました。打楽器もティンパニ始めいいバランスだ。特に大太鼓のトレモロの雰囲気はシベリウスに似合っている。ホールの特性か、座った位置のせいか、演奏のせいか、いろいろな楽器がブレンドされ過ぎず、解像度が高く聴き取れてオーケストレーションの変化を楽しむのには面白く聴ける。
 中間の16分音符の連続(練習番号7以降)の背後のミステリアスな和音、グロッケンの雰囲気が素晴らしく、16分音符が並んでいない!などという批評が意味のないものと感じられるほどに、この部分、総括的には音楽的なレベルの高いものとして耳に届いてきた。ただ、サスペンディット・シンバルはもう少し音量欲しかった、と言おうか、存在がわからなかった。ああいうバランスをとるのは難しいですね・・・。
 神秘的なムードが大太鼓のフォルテで破られた後、木管とホルンが息の長い旋律を吹奏、そこへ持ってゆくの持って行き方も自然で、どんどん興奮してくる。後打ちで、止まらないオケの流れにアクセントを付ける打楽器群、ここは個人的にはもっと聞きたい。ppではあるが特にティンパニはもっと焦燥感を煽るような役割が欲しい。指揮者に落とせと言われたかな?木管ホルンの旋律の隙間に、トランペット以下、ファンファーレ風でもあるカッコいいフレーズが出る。も少し歯切れのいい雰囲気の方が好きではあるが、音楽の流れの中ではいいインパクトを与えている。同時に鳴るトライアングルはもっとキラッと欲しかったかな。
 最後のラスト・スパートもよくやってくれました。金管群による前述の木管ホルンの主題の再現も軽々とスマートにやってのけて、一気にコーダを目指す。ストリンジェンド、そしてクワジ・プレスト、さらにプレスト。この辺りの音楽の作り方はうまい。一心不乱にみんな棒について行く姿、これがオケの醍醐味のひとつか。良い指揮者にも恵まれたと思われる、うらやましい。
 一気呵成に聴かせていただいた。オープニングとしても華やかで楽しめた。続きが楽しみ、と思わせたらオープニング大成功です。

 さて、曲について、ふと思う。これって「四つの伝説」の第4曲、フィナーレだが、どうも全曲聴きとおすと、その内容に堪えられそうにない軽めな終曲に思える。その辺り、弱点だと思うのだが、こうして単独曲として聴くのなら、そんな弱点は問題にならない。
 個人的には初期シベリウスのやや通俗的なメロディーもすぐ耳について離れないし、魅力を感じている曲だけに、もっと演奏されてしかるべし、と思っている。少なくとも東海地区においては先鞭をつけてくれたかな。今後、色々な団体が取り上げてほしいもの。

(2001.4.25 Ms)
補足。「レンミンカイネンの帰郷」と、声楽曲「レンミンカイネンの歌」との関係についての考察、シベリウス協会のレクチャーにて紹介(2001.4.30 Ms)

(2) 「カレリア」組曲

 さて感想を書こうと思いきや、我が家に「カレリア」組曲のスコアがないことに気がついた。そういえば、組曲全曲をプログラムとして取り上げたことがなかったなぁ。なぜかギタマンでやった記憶はあるのだが。ということで、スコア無しでは、多少いい加減なコメントも出てきてしまうかもしれませんが、ご容赦を。あまりに勘違いでしたら、メールをいただければ訂正いたします。
 第1曲「間奏曲」
 冒頭の弦のざわめき、自分の感覚だともっと静けさを感じさせてほしいような気がする。ただ、続くホルンのソロの難しさを思えば、ホルンを萎縮させず、伸びやかに鳴らすためにも、多少は背後の弦も鳴らしておいた方が奏者にとっては楽なのかもしれない。確かに、ここのホルン、アマオケ聴くたび、怖くて、こちらも身構えてしまうのだが、今回の演奏、随分余裕を感じました。ゲシュトップのエコーもバッチリじゃないですか。・・・コンサート全般を見てもホルンの安定さは特筆して良いと思われる。そういった配慮の上にホルンの成功があるならば、弦のざわめきも気にならないか。
 さて速度を上げてトランペットのテーマを導くのだが、この加速は、指揮者とオケに齟齬があったと思われる。弦の旋律的な刻みが崩壊、旋律線が聴き取れない。ここは非常に残念。個人的には指揮者の一人相撲?とさえ感じたりもし、ちょっと無理のあるテンポ設定かなぁ?と感じる。
 トランペットは好調。トロンボーンが旋律に加勢するあたりから結構感動してきた。トロンボーンもなかなかに、確実に存在をアピールしていてシベリウスのたくましいオーケストレーションを体感させてくれて良い。私的には、小学校の頃、NHK名曲アルバムで知って以来、とても好きな旋律でこの旋律が次第に増強され、クライマックスを築く過程がとても感動的なのだ。オケが一体となって一つの頂点を目指す、その様とあいまって自分のテンションが高まる。やはり、初期シベリウスのやや通俗的なる旋律の数々、私と相性がいいようだ。私にとってイトオシイ旋律を大事に演奏してくれてとてもありがたい。
 クライマックスの後のホルンの余韻もいい雰囲気。ティンパニのエコーも密やかながらもクリアーで良い。最後のEsのハイトーンも決まった。安心。
 第2曲「バラード」
 この曲は弦の奥深い響きがとても印象的。前半戦、チェロの内声の細やかな動きがやや崩れたのが残念ではあったが、全体的に良い雰囲気。特に、一度すべてが沈黙となった後の弦の懐の深い味わい深い箇所は、ホントに安らぎを感じた・・・ただ、その沈黙で、坊や(?)が、「オシマイ?」と何度か囁いたのが、あちゃーでしたが、なぜか腹は立たなかった。その坊やの囁きが途切れたところで始まる包容力を感じさせる弦の響きが、きっと傍らにいて抱き寄せたであろう母の存在を思わせたりして、何か微笑ましさと幸福さを感じたのだ。
 最後のコールアングレのソロも健闘。ひなびた感じがよく出てました。ミの音だけややぶっきらぼうなニュアンスだったようにも感じましたが、そんな些細なことでは演奏の感想、くつがえることもない。シベリウスの淋しさと暖かさ、両方ともにこの「バラード」から立ち昇ってきたのは確かですから。

(2001.4.26 Ms)

 第3曲「行進曲調に」
 一応、プログラム記載の表記に従い「調」と書いておきましたが、普通は「風」だと思っていました。「行進曲風に」。なんだか、「行進曲調」と言われると、よりがっちりした「行進曲」のスタイルを踏襲した雰囲気を感じさせるような気がします。これは日本語の語感の問題ですが。
 第一、初めてこの曲を聴いたときから、この第3曲が「行進曲」というのは違和感を感じ続けている所です。最初はてっきり第1曲が「行進曲」だと思ってしまいました。NHK名曲アルバムでは、この第3曲に、若い娘達の民族舞踊が映像として重ねられて、幼心に、その音楽と映像が切っても切り離せないものとなってしまったのも確かです。
 あえて考えるのなら、軍隊のような統制のとれた行進ではなく、普段着のままで列を成すわけでもなく、フリースタイルで勝手気ままにみんなが歩いている、ハイキングか遠足か、そんな雰囲気でしょうか。アスファルトや、石畳といった人工の都市空間、軍用道路を行進する(「ローマの松」っていうのも最後は行進だ)のとはかなりかけ離れた、森と湖の国ならではの、自然の中での各個人のそれぞれの行進、といったニュアンスなのでしょうか?統制、秩序、を前面に押し出さない、浮き足立ったウキウキした歩行、を「行進曲風に」という楽想標記に私は感じます。
 正直言って、個人的には、とても幸福にさせてくれる音楽。どんな演奏であれ、なにかしらウキウキしてしまいます。批評、感想の余地はないですね。聴かせていただければ充分。  

(3) 交響曲第2番

 「帰郷」のスピード感、カレリア第1曲におけるややオーバーなテンポ切り換え、など、この第2番の演奏を予感させるものは既に前半プロで提示されており、現に第2番を聴きつつ、「あぁ、やっぱり」と思わせ、面白く感じられた場面も多い。
 特に、第1、第2楽章のテンポの変動の激しさはオーバーではあろうが、納得させられるものもあり、また、緊張感、劇的な効果などもあって聴く側を飽きさせない。聴衆を嫌がおうでも巻き込むだけのエネルギーが演奏から感じられた。指揮者の棒の卓越さと、それに必死についてゆくオケの力量、底力の賜物であろう。とても良かったです。

 第1楽章は展開部の音楽の流れが素晴らしく表現されていた。田園的な雰囲気に満ちた主題提示に対し、中間の展開部では、主題提示では想像され得なかったほどのドラマが待ちうけているのだ。効果的な音量の増減も、速度の緩急も、最大限スコアが求めているものを具体化しようという意欲の基にシベリウスの重厚でスケールの大きな音楽を聴かせていた。最も感銘を受けたのは、練習番号H、トランクィロ。ティンパニのみが残り、Gisの音を叩く部分。テンポがグッと落ち、また今まで音楽の流れが立ち切れ、新たな不穏が増大する出発点となる部分。この効果は印象的だった。そこから緊張感を増し、ポコ・ラルガメンテの壮大なうねりへと流れ、金管ティンパニの圧倒的なクレシェンドの和音から光りが見え始め、弦の太い旋律線も健全さを帯びそして、駄目押しの金管のコラール・・・この展開部は圧巻でしたね。
 余談ながら、この練習番号Nの金管コラール、ベートーヴェンの第九のフィナーレの低弦のレシタティーヴォ、「おお、こんな調べではなく・・・」といかめしく語る部分と重なり合うのだが。確かに旋律線は最初は全く同じだ。この展開部の最後で、展開部の不安感を否定することで、自然と提示部の田園的世界が回帰する・・・、ここぞ感動的場面だと私は感じている。さらに、このシベリウスの再現部においては、提示部でそれぞれ単独に提示されていた素材の数々が、合体、同時進行的に再現されているあたり、これまた第九の、2つの主題の精巧な重なりあうさまも想起させたりして。シベリウスにおけるベートーヴェンの影、いろいろ曲解的に想像するのもまた楽し。

 第2楽章の速度設定、音量の落差については第1楽章以上のものがある。確かにスコアを見るだけでも異常だ。こんなに頻繁に音楽がうつろってゆく例はそうそうあるまい。その尋常ならざる世界をいかに指揮者、団員全てが共有でき、ひとつの表現として形作るかがとても大事だ。その点は見事、一体感をもった演奏で好感が持てる。弦の皆さんは特に大変だったでしょう。素晴らしかったですね。
 ティンパニの衝撃的かつ、重厚な出番の数々、きまっていました。私も担当したことがありますが、かなり大変なパートです。この楽章の雰囲気を作る最も重要な役割を果たしていたと感じます。また、金管群、特に、トロンボーン・チューバも威圧的に鳴らす場面など興奮させるもの高く、いい感じです。あと、テュッティにおける木管も、以外と解像度高く、その存在を聞き取ることも出来、面白い効果であった。特に、中間部最大のクライマックス、練習番号Kの手前の金管打の熱い感情のほとばしりの背後で硬く聞こえる木管の和音の存在などは感銘深かった。
 個人的なイメージとしては、イタリアにおける田園的、開放的、楽園的な表層的な明るさが第1楽章で提示されるも晴れたり曇ったりな状態で、第2楽章においては、シベリウスの極個人的な沈痛な世界へと沈んでゆくという感想を持っています。イタリアにおける、娘の死、そして父親としての重圧に耐えかねての、家族からの逃亡、など、この楽章の背後にあるものはとても深く、劇的かつまた人間味溢れるものだと思います。そんな生々しい感じを今回は精一杯の熱演で堪能させていただいたと感じます。このコンサート、この楽章の演奏が最も感銘を受けました。

 第3楽章は、「帰郷」と同じく思いきったテンポ感で詳細にこだわらず一気に突き進む。
 そして、感動的なる第4楽章へのブリッジ。ここで、残念、やはり指揮者とオケとの齟齬が生じてしまった。この重大な局面での不安定さは気になった。ラルガメンテ、そしてアラルガンド、ここはもう思いっきり減速、で意表を突かれたと思いきや、第4楽章の基本的テンポはやや速めにずんずん進んでゆく。ここは、アレグロ・モデラートの、モデラート感が欲しいところ・・・。ただ、第2主題や展開部は、そのモデラートを引きづると結構だれた演奏になりやすい。その辺のだれが回避されていたのは良かったのだが。
 一言付け加えるなら、フィナーレは、前半楽章ほどにテンポの変動を大袈裟にしない方がきっと聞きやすいのだろう、とは感じました。フィナーレには安定、を求めたくなってしまうのか・・・。この辺りは指揮者と私の感性の相違ということだろう。どちらが正しい、とかいう問題でもあるまい。趣味、か。
 再現部、トランペットかなりセーブしていたようです。それを思いっきりコーダに温存していたわけですね。
 コーダ、練習番号Sの、a tempoも、基本テンポに戻ってえらく速く感じられ、このまま一気に金管の旋律になだれ込むかと思えば、アラルガンドでたっぷり、ここの部分でオーボエ始め木管の和音のクレシェンドが異常に浮き上がったのには驚いた。・・・スコアには確かに書いてある・・・知らなかった・・・みんなこの部分の木管奏者、適当にサボッてやってたんだなぁ。ホルンの後打ちも(曲全般においても同様だが)しっかりと聞こえているのが良い。曲の推進エネルギーを注入するような役割だろう、これをただの伴奏だと思ってサボる例もプロアマ含め多々あり。いけませんな。そして駄目押し、モルト・アラルガンド。時が止まりそうなくらいの壮大さ。金管もよく計算されていた。がんばっていました。鑑賞後の満足感、解決感は凄く感じ取ることが出来ました。

(4) アンコール

 オール・シベリウスなコンサート、アンコールもやはり。ということで、「祝祭アンダンテ」。弦の神々しい和音、すがすがしくもあり良かったです。この小品に対しても指揮棒はさまざまなテンポ、音量への要求をしていて、その熱さは感じられる。サラリといくのも手だが、「祝祭」の表現に重きを置きたかったわけか?アンコールとしてもレベル高く、シベリウス・コンサートの幕引きとしても大変素晴らしかったです。

 きっと、団員の方でシベリウスのファンの方もいるのでしょうか?特に第2番など、曲をよく知らなければなかなかついて行けない楽想の展開があったりして、皆さんの練習の成果が見事に発揮されていたものと思います。また、機会あれば、意欲的なプログラム、どんどん組んでいただきたいものです。また、足を運びたくなる団体でした。

(2001.4.28 Ms)

4/19(木) NHK交響楽団 第1431回定期演奏会
4/21(土) 第43回大阪国際フェスティバル NHK交響楽団演奏会 

 ブロムシュテットのニールセン。是非聴きたくて、上京。N響定期、4/19。同じプロで大阪国際フェスティバル参加。4/21も行って来た。
 もう感激だ。彼の若々しく推進力溢れるタクトでのニールセンの5番。二度も生体験できて幸せ。ややN響が棒の要求するものに答えきれていないきらいは感じられたものの、概ね満足。特に3度目の公演にあたる大阪での演奏は、前日ベルリンで「アイーダ」公演中に他界したというドレスデンの後輩にもあたるシノーポリへの追悼演奏とのブロムシュテットのメッセージも会場にて紹介され、その名に相応しい感動的なものとなった。詳細はまた後ほど。
 なお、定演初日4/18の演奏をBSで聴かれた方も多かろうが、どうも最近出された新版の楽譜による演奏らしく、従来の演奏とはいろいろ違う点も気がつかれたことでしょう。特に、第2楽章第1部後半の弦の刻みに重なる爆発的な数度にわたるティンパニの3連符が欠落しています。てっきり私も、百瀬氏が落ちてしまったのか?と本番中おおいにとまどったのですが、新版による演奏CD(ボストック指揮)を確認したところティンパニなし。安堵しました。
 さらに、テツラフをソリストに迎えたシベリウスのバイオリン協奏曲も、豪快に野太く聴かせてくれて快演であった。アンコールのバルトークの無伴奏ソナタのフィナーレ(4/19)も素晴らしい。ちなみに大阪では、アンコール、バッハのパルティータでした。
 さらに、オープニングのゲーゼの「オシアンの余韻」なる秘曲も、メンデルスゾーン風な初期ロマン派の中に、グリーグがかすかに聞こえ、また、ティンパニが繊細に常に鳴り響くオーケストレーションがまた北欧的で、なかなかに興味深い。
 二度の生演奏、さらにBS、三度の演奏の聴き比べも楽しかった。それにしてもニールセン、ホント、人生の活力源です。
 このためにこの4月、ハードに働いてきたというもの。・・・その代わり、GWはイベントなしかなぁ。

(2001.4.22 Ms)
だぶん、より移動(2001.4.25 Ms)

<1>ゲーゼ 序曲「オシアンの余韻」

 この作曲家も、この作品もまず知らない方ばかりでしょう。ということで、N響定演プログラム解説よりまずは引用。

 ニルス・ゲーゼ(1817〜1890)は19世紀デンマークを代表する作曲家。(中略)作品番号1を冠された<オシアンの余韻>は、シュポアなどが審査員をつとめるコペンハーゲン音楽協会主催のコンクールで第1位を受賞し、彼の輝かしい出発点となった演奏会用序曲である。
 タイトルの「オシアン」は、3世紀に活躍したケルトの詩人。18世紀後半にマクファーソンの翻訳によって彼の叙事詩が紹介されると、ヨーロッパ各国のロマン派詩人たちに大きな影響を与えることとなった(中略)。ゲーゼの序曲はオシアンの特定の詩に拠るものではないようだが、いわば19世紀から遥かな古代を思う”距離感”が、楽曲全体に独特のロマンティックなふくらみを与えている。

 さらに、大阪でのフェスティバル用冊子から詳しいエピソードなど。

 楽器製造人の子供に生まれ、ほとんど独学で音楽を学んだ。血気盛んな青年であったらしく初期作品の序曲「ソクラテス」の初演に絶望して、総譜を焼き捨てたという。1840年に序曲「オシアンの余韻」をコペンハーゲン音楽協会主催のコンクールに応募して入賞し、楽団への道が開けた。作曲のかたわら後進の指導にも励んだ。コペンハーゲン音楽院でニールセンを教えたり、青年期のグリーグも彼の謦咳に接したりした。

 ソナタ形式による演奏会用序曲、詳細な物語をおっての作品ではないものの、標題音楽的なイメージの喚起という側面では、メンデルスゾーンとの関連が深いように思う(後にライプツィヒでメンデルスゾーンの次の地位となり、死後は後継者となる。)。しかし、それにしても、1840年の作品にしてはオーケストレーションが普通ではない。メンデルスゾーン、シューマンらがまだ、ベートーヴェンの延長にあるのに比べ、全く違うアイディアが詰まっていて興味深い。
 まずは、ハープの積極的な活用。そして、冒頭の教会旋法的な弦楽器の神秘的なコード。さらに、主題確保におけるトロンボーンを主体とする吹奏。最も印象的だったのは、強奏、弱奏問わず出番のあり続けるティンパニ。
 ハープの活用は、古代の詩人というイメージから派生しよう。そして、冒頭のビオラ以下の神秘的なコードは、ヴォーン・ウィリアムス辺りを想像させるが、古き時代への眼差し、そして追想というムードがある、と同時にサウンドとしては、グリーグ、そしてさらにはシベリウスなどの北欧弦楽作品を彷彿とさせる。また、当時としては珍しいほとんどトロンボーンだけの旋律吹奏がかなり重要な位置を占めているのも興味深いが、それ以上に、弱奏のロールでオケに陰影をつけるティンパニの役割が、やや楽想と不釣合いな感じもしながら(やはり初期ロマン派、メンデルスゾーン風な素直な旋律)シベリウスのオーケストレーションとの類似を思わせる。
 スウェーデンの同時代のベルワルドと並んで北欧らしい音楽のパイオニア、としてゲーゼがあるように感じられた。この作品1がどう展開していったのかはまだ私は未知の世界・・・ただ、ニールセンの師匠として、このゲーゼの世界が、やはりニールセンの作品1の小組曲くらいには流れ込んでいるのだろうか?とは想像できる。

 オーケストレーションが最も興味深い点。ただ、曲の構成などは、展開部がいまいち。同じことを繰り返しているだけで、曲が前へ進まないような感覚もあった。ま、若書きだし仕方ないか。旋律は単純なだけに覚えやすい。4/19にサントリーで聴き、翌日は4/18の演奏をBSで聴き、さらに、4/21も大阪で聴き、と短期集中で聞きまくったせいもあり、この秘曲が頭にこびりついたのも確か。また、ゲーゼの作品に接する機会があれば、いろいろな発見をさせてくれるのかもしれない。グリーグとニールセンに影響を与えた人物だし、いろいろ面白いかもしれない。

<2>シベリウス ヴァイオリン協奏曲

 独奏は、クリスティアン・テツラフ。1966年生まれ。若いです。
 とにかく、線が太く、ガツガツ、ワイルドに弾きまくったという感じ。2年前のラハティ、ヴァンスカの時のソロ、クーシストが線細く美しく弾いたのとは全く正反対。どちらかと言うなら、私はテツラフのアプローチの方がシベリウスに合っているのか、と感じたのだが。
 速度もかなり速めである。特にフィナーレはかなり苦しさもあったが、あの速さでよく弾ききったものだ。
 ブロムシュテットも、オケ部分のみのところなど、クライマックスへ向けてためて重くする、という発想とは逆に、どんどん煽って盛り上げたり、彼らしいスマートさも垣間見られて面白い。特に第1楽章のクライマックスを導く辺り、低弦の大地を揺るがすような響き、そして駄目押しの金管群、最後はトロンボーンの豪快な吹奏も、かなり強調させており、スマートさだけでなくスケールの大きさも心得たもので感動してしまう。
 彼のシベリウスも定評通り素晴らしいもの。ただし協奏曲はレコーディングしているのか?少なくとも今回の演奏会は、この作品のみは暗譜で無しにスコアを使用。あまりやり慣れてはいないのか?貴重な演奏なのかもしれない。

 ソリスト・アンコール。4/19は、バルトークの無伴奏ソナタのフィナーレ。「くまばちは飛ぶ」でも始まったのかと思うような、こまかな半音の動き。その無窮動的な動きからいかにもバルトークらしいメロディーが出てくる。スル・ポンティチェロや、ガツガツ言わせた重音など見せ所満載。意表も突かれてインパクトもある選曲だ。近々ソロ・コンサートをやるので、その宣伝を兼ねてのことか、チラシもあった。BSでの演奏では、同ソナタの第2楽章。フィナーレの方がアンコールとしてはいい感じだった。
 大阪では、客層を意識したか、バルトークではなく、オーソドックスにバッハ。それにしても、結構細かい動きの続く曲でこれも客が沸いていた。シベリウスは概して、東京、大阪ともに1番盛り上がっていたように思われる。

(2001.4.29 Ms)

<3>ニールセン 交響曲第5番

 まずは、この3/9に行われた新日フィルでの同曲の演奏の感想を読みなおしてみますか?こちら。

 曲の大雑把な流れは、上記の新日フィルでの記事を参照して頂いて、演奏の感想を主にいきましよう。
 正直なところ、初めて生で体験した新日フィルのインパクトが強烈、鮮烈すぎて、N響の演奏、いかにブロムシュテットの指揮であろうとも、見劣りがまず第1印象としてあったのは残念。指揮棒の情熱は伝わる。しかし、演奏がついていってないのではないか?オケ側の全般的に冷めた印象がどうも気になるところもあった。

 まず、第1の劇的な転換点である、第1楽章、第1部後半の行進の開始。BSではあまり映っていなかったが、ブロムシュテットの棒はかなり挑戦的。というより煽動的。バイオリンの半音の動きが不安定な行進の旋律に対して、壮絶な要求をしている。クレシェンド、アクセント、かなり強調させたかったようだ。それに答えられていないオケ。見ていて欲求不満がまずたまる。続くクラの狂気の部分は良い。特に、第1奏者のソロを導く第2奏者の気迫がいい。よっぽど、第1のパート、やりたいんだろう、と思わせる。きっとまたいつか出来ますよ。楽しみにしてます。
 打楽器群は手堅い。まずはトライアングルの健闘を称えよう。シンバルはやや固め、イメージと相違。ロールの荒さが気になる。小太鼓はまた後程。
 第2部への長いブリッジ、チェレスタの出番はここのレの音の同音連打のみでつまらないだろうが、今回は打楽器奏者ではなく鍵盤奏者専属。だけあって、かなり気合の入ったレの音だった。打楽器的ですらある攻めのチェレスタ。でもちょっとバイオリンとずれたか。
 第2部のビオラの旋律。広々として良い。テンポはブロムシュテット、ゆったりとしたところこそ、だれることなく進む。また、今回のビオラには注目。かなり燃えていたトップ。あまり見ない方だと思われるが・・・・シベリウスのコンチェルトのソロもたっぷりねっとりやってましたね。
 ビオラの旋律が広がりを見せ、そして高音域へとどんどん発展し、ホルンの上行音型が高らかに鳴る辺り、おおいに感動。その流れの途中で低弦が、不穏な下降する音型を繰り返す・・・・ここの指揮が、この不穏な動きを最大限引き出そうとする。そうか、ここで無条件な幸せがありえない、という壁にぶつかるのだ。この音型の反復の内に盛り上がりは潮を引き、密やかな、第2部冒頭主題の回帰となる。もう、広がりは見せる事無く、第1部での木管のシグナル音がたびたび鳴り渡り、不安な方向へと流れ始め、ティンパニの強烈なトレモロが始まる。このティンパニのインパクトは驚き。百瀬氏にしてはよくやってくれた。トロンボーン、チューバがに比べて、ティンパニの開始はff、それを強調しているわけか。それにしても、トロンボーンには気合、気迫が不足。ここが初めての出番じゃないの。そして、いままでの幸福な世界の雲行きを一気に変化させる場面なのに自覚が足りない人達。清潔感だけでオケはできないよ。がっかり。
 そして、注目の小太鼓ソロ。なかなか頑張ってる。アドリブ部分もいろいろなリズムを取り入れつつ変化に富んだもの。しかし、クライマックスへの持って行き方が、甘い。何かやりたりない内にとどめのト長調主和音の確立を迎えてしまった感じ。4/19の生で、そう感じたが、後で4/18の演奏をBSで確認したら、思いっきりやり損ねていたのでは?楽譜上では、ト長調主和音確立の1小節前でアドリブは終わって、ロールのクレシェンドをしなきゃいけないのに、まだアドリブやってるよ・・・・。初日は大失敗か?二日目は、そんなことはなかったが、やはりクライマックスへの持って行き方が計算ミス的。そして、3度目の正直、大阪公演では、見事、辻褄あわせてクライマックスへ飛び込めた。良かった良かった。小太鼓の進歩の過程が把握できたのは楽しい。やっぱり、納得いくアドリブにはなかなか出会えないということか?難しいだろうな。・・・その点、新日フィルは完璧だった・・・あぁいう演奏こそ、映像、そして録音で残したかったなァ。
 最後の、ショスタコ風、クラのモノローグもしびれました。ただ、舞台裏の小太鼓、サントリーホールでは大き過ぎ。聞こえ過ぎてちょっと邪魔だった。大阪は完璧。

 第2楽章第1部、ひるむことなく、このうねるような、拍子感の希薄なニールセン固有の競技的3拍子、強力な推進力をもって棒は進む。ややティンパニ百瀬氏に余裕なく、必死さが伝わる。ダダダン、というタイミング、完全にずれたところも4/19はあってハラハラ。その他パートは快調に飛ばしている。かなり混乱した複雑なオーケストレーションのなかで、新日フィルでは、チューバ、バス・トロンボーンが道しるべを示すかのように強力に冒頭主題の回帰を精力的にやっていたが、N響は、完全に、弦木管ホルンのなかにうずもれた。入りそびれたかのようにも聞こえた。少なくとも、バストロンボーンは何をやっているのか?何か吹いているのかすらわからない。それに動揺したか、チューバも出番の最中に譜面めくったりして、どこか探しているかのような素振りにも見えて困ったもの。そうこうしているうちに、問題のティンパニ落ち?の箇所。もう、大不機嫌になった私。・・・しかし、弦の刻みの旋律にかぶる形で低弦と入るべき箇所、全部落ちてる・・・・ひょっとしたら新版はこの箇所のティンパニなかったのか?とよぎりつつも、その手前のチューバ等の状況から、落ちたに違いない、と判断してしまった・・・・この時点で、4/19は鑑賞意欲がかなり減退した。
 しかし、翌日のBSで初日の演奏を確認すれば、ここでも落ちている・・・・ということは版の問題?我が家によって、最新のボストック指揮の新版CDで確認・・・やっぱりティンパニなし。私も新版、しっかり聴いていなかったのが悪かった。知ってれば、百瀬氏を恨まなかった・・・・でも4/19は、演奏中、恨んでいた・・・・スミマセンでした。私が勉強不足でした。大阪では、その点安心して聴けました。
 第2部のスケルツォ。これまた速い。ティンパニの強打も強烈!クラの叫びもはまってる。狂気が感じられる。
 第3部のアダージョも心穏やかにさせてくれる。心を揺さぶるいい場面だ。こういう弦の部分は、N響、安心して聴ける。
 第4部、第1部の回帰。後半の、金管のオクターブの上下運動、まるで推進力を生み出すポンプみたいな機械的音型、よく聞こえていて良い。それを引き継ぐティンパニの連打。やや不安定な感じもしたが、なんとか棒にしたがってオケをひっぱってゆく。やや危ない感じもしたがなんとか乗りきった。
 さてコーダは・・・やはり最初に聞いたのがN響、サロネン。かなり前からアラルガンドをやって、堂々たる終結にもってゆく演奏に慣れていて、ブロムシュテットの一気呵成に終結を目指す演奏には物足りなさを感じていた。故に、4/19は、ちょっと戸惑ってはしまう。わかってはいても、あぁ物足りん、という素直な感想。しかし、BSで確認、そして大阪公演、とだんだんこちらも慣れてきて、このブロムシュテットのスマートな終わり方も結構いけるじゃん、と感じるようになった。少なくとも大阪では、不満なく曲を鑑賞できることが出来た。さらに、今回の大阪旅行で、大阪駅近くのタワーレコードにて、ロジェベンのニールセン交響曲全集を購入、確認したところ、5番の最後、サロネン風に重い終結だったが、裏目に出て、金管がパワー持続できず逆に弱い演奏・・・。それを聞いて気がついた。最後までそのテンションを維持するには、不要なブレーキは踏まない方がいい、という考え、ブロムシュテットの手堅い演奏こそ最も合理的、かつリスクが少ない、ということか。
 
 やや、余談。BSでの曲の最後は映像的に良かった。最後ティンパニの連打のrit.がアップで映し出されるが、それを映し過ぎていたか、曲の最後にブロムシュテットのアップ映像が間に合わないような感じだった。まさか、サロネンの昔の演奏を前提にカメラ・ワークを想定していたら、予想外に早く曲が終わりそうでカメラマンがあせっていたのか?最後の音が途切れるまでに彼のアップをと思うあまり、壮絶なスピードでカメラは遠くから彼のアップへとズームイン。最後の音を大きくふりかぶって切るブロムシュテットが一時画面から消えるくらいにアップしすぎのまま曲が終わったのはスリリングな映像だった。画面に吸い込まれるような効果、ウワーッと思わせる音楽の推進力と映像のマッチングには参った。笑える。

 さて、東京ではサントリーホールの最も後ろの席でいまいち、オケも遠く、また、(不当にも)不満を感じてしまった演奏でもあり、ややテンションが低くなったのだが、大阪では、2階の前列、という好位置で、音もばっちり飛んできて、音楽に浸ることが出来て満足。・・・ただ、大阪での前半プロは、目の前の子供が演奏中しゃべりっぱなしで、ムカムカ。よほと゛注意しようと思いつつ、休憩後はいなくなっており、その安心感がまたニールセンへの集中を可能にし、良かった。休憩時は、帰り際に主催者に文句を言おうとすら考えていたが、ニールセンを聴き終えたら、そんな不快さはすっかり洗い流されていたから不思議。あの子供と家族さえいなければ、最高の演奏だったな大阪。最初に書いたとおり、期せずしてシノーポリへの追悼演奏でもあり、その名に恥じない素晴らしい演奏、同プロ三回目ということもあってやってくれた。

 今回、ニールセンの第一人者であるプロムシュテットが、東京大阪とレベル高い演奏を披露してくれて、NHKを通じて全国放送、これは、日本のニールセン受容の歴史においても一大トピックスとして、後世まで語り継がれるであろうコンサートとなるに違いない。そんな場に居合わすことが出来てとても幸せである。良かった。

(おまけ)

 4/19、サントリーホールでのコンサート終了後は、アークヒルズ内のフランス料理など。ホテルはすぐちかく。のんびりと演奏後の食事も楽しむ。翌4/20は、朝BSでコンサートのおさらい。のんびりチェック・アウトして、歩いて乃木坂まで。デンマーク料理の「カフェ・デイジー」にて、ランチ。デンマークのオープンサンド、量も多く魚介類も豊富で美味。デンマーク旅行を思い出すなァ。オススメの店、発見である。

 大阪では、やや散り際の造幣局の桜通りぬけ。大阪駅前では、楽譜、洋書のササヤ書店にて、ニールセンの5番スコアが2000円台という超特価。もちろん買いである。その他、CD購入の内容は、「だぶん」コーナーにあるように充実の極み。

 今、GWらしくないGW真っ只中、自宅でパソコンいじっているが、もう、既に1週間前に私のGWは終わってた、ということか。でも、ホントいい旅でした。

(2001.5.1 Ms)

 日本におけるニールセン受容の歴史の一大トピックスとなった、ブロムシュテット、N響の交響曲第5番の演奏そして、放送。そのインパクトこそが、このGW、私にとって永らくの懸案であった、こんなページを作らせる原動力となりました。

(2001.5.6 Ms)

4/15(日)NHK交響楽団 BS放送(第1430回定期演奏会)

 N響定期BSにて。録画してざっと聞き流す。プロムシュテットの指揮。ヤナーチェクの「永遠の福音」なる未知な作品とブルックナーのミサ曲第3番。正直、自分好みな選曲ではないが次の北欧プロの出来を想像するためにも様子を拝見。
 ヤナーチェクは、なかなか理解しづらい。代表作「シンフォニエッタ」に似た感じの部分もあるが聞き流した程度ではしっかりとした感想を持ち得ない。ユニークな作品ではあるが。
 ブルックナーは良かった。個人的にはブルックナーの交響曲はどうも馴染めないでいるのだが、ミサとしてキリスト教の典礼文とともにその音楽が存在するのなら、説得力がある。交響曲と似た雰囲気の場面は多々あるが、「クレド」におけるキリストの復活の場面とかはブルックナーの作風が充分生かされていると思う。音楽的にも、それぞれの章によって、また歌われる内容によって性格付けが明確で、バイオリン・ソロやビオラ・ソロ、さらにあまり交響曲では聴き取れないファゴットが木管アンサンブルの中から存在感を出している部分もあり、オーケストレーションも新鮮である。ティンパニも、ひたすらロールのつまらない出番ばかりでなくリズムを刻む部分も印象的に挿入されていて好感度アップ。特に、「クレド」の冒頭はいいです。やみつきになりそ。
 例によって主題の循環も曲の統一感を強めているが、交響曲におけるくどさはさほど感じられない。
 私見では、ブルックナー、交響曲の分野では、ベートーベンの第九を意識し過ぎて、どうもぎくしゃくしちゃってるように思うのだが。ソナタ形式という枠に押し込めることに無理があるような気もする。しかし、このミサは典礼文を元として、とても自然な流れを感じさせ、変化にも富み、彼の個性がいい形で表現されていると感じる。また、交響曲では聖と俗のゴッタ煮が気になるのだが(唐突な民俗的素材の投入)、ミサでは聖なる雰囲気を持続させているのも違和感のない流れで交響曲より良い。
 一度しっかり聴きこんでみてもよかろう。ブルックナーは宗教音楽に限るねェ、なんて僕の口からでるようになったらみんな驚くだろうけど。

 N響の演奏自体は、安定しており、ブロムシュテットとの相性の良さも感じる。次回北欧プロ楽しみです。

(2001.4.16 Ms)
だぶん、より移動(2001.4.29 Ms)


「今月のトピックス’01」へ戻る