今月のトピックス
March ’01
3/20(火) スカル・サクラ マリンバコンサート(特別ゲスト 安倍圭子)
私の所属するオケの本拠、刈谷市のお隣の市、東海道五十三次の宿場でもあり、また、平安文学の傑作「伊勢物語」におけるクライマックス、「かきつばた」を折りこんだ名歌の舞台ともなった愛知県知立市(「ちりゅう」と読みます)、にて標記のコンサートあり突然行くこととなりました。地元のとある筋からチケットが入手できたので時間を作って電車に揺られて約30分、知立駅すぐそばのリリオ・ホール(定員300人弱の小さなホール)へ遠征。
スカル・サクラなる団体、名古屋音楽大学の打楽器専攻卒業生によって1980年に結成された打楽器アンサンブルのグループである。結成の直接のきっかけは、同大学にガムランの楽器が所蔵され、ガムラン演奏を行ったことらしい。私も以前、このグループのガムランを浜松で聞いたことがある。今回てっきりガムランも聞けるのか、と思っていたが残念ながら今回はマリンバを中心としたプログラムであった。
なお、このリリオ・ホール、小さいホールながら、マリンバ2台を常設しているということでも注目されている。
まずは、マリンバ・ソロで2曲。シフコビッチ作曲の「ウルティマトゥム」「イリヤーシュ」なる作品。プログラムには曲目のみ、どんな作曲家か、どんなタイトルの意味かもわからずに鑑賞。名前の感じからして東欧系か?綴りをみるとロシア人ではなさそうだ。などと想像していたが、2曲終わったところで、スカル・サクラの代表の方が説明をしてくれた。
ユーゴスラビア出身のマリンバ奏者、まだ若い人のようだ。安倍圭子さんにも師事し、特に作曲の能力を高く評価され楽譜の出版にも尽力してもらったとのことだ。前者の作品は「破壊」がテーマの激しいもの、後者はユーゴの民謡から主題を採った優しいムードのもの。対照的な2曲である。曲としては、比較的聞きやすい。もちろん現代的な響きはするし、訳わからないパッセージも多い。しかし、以外と左手の2本の撥は両極とも、オクターブや5度で音程をとることも多くて、調性感は随所に認められる。
スカル・サクラのメンバーで今年大学を卒業するという2人がそれぞれソロをとった。一人はイギリスへ留学するとか。名古屋から世界的なマリンバ奏者が誕生しますかどうか。昨年2月の安倍圭子さんの講演会で、日本がマリンバ音楽の発祥の地といってもよいほどの国だという認識を始めて持ったのだが、マリンバ音楽、もっともっと知られて良い。私もどっぷりつかっているわけではないけれど、同じ打楽器奏者の端くれとして応援したい。
続いて、聞きやすい曲を。ドビュッシーの「子供の領分」からの抜粋。なかなかピアノ曲をそのままマリンバに翻訳するのは困難なこと。ちょっと技術的にも苦しいとは思った。でも努力は買おう。
前半の最後は、吉岡孝悦の「スクエアダンス」。マリンバの四重奏。吉岡氏もまた安倍圭子さんの弟子。配置が変わっていて、4台のマリンバを正方形の型に置いて演奏。文字通り、スクエアなわけだ。とてもかっこいい音楽だ。生き生きとした打撃がマリンバらしい魅力を充分引き出している。さらに、そのスクエアの発想が結構面白い。奏者がそれぞれ隣のマリンバに移って演奏したり、2人で一つのマリンバを連弾したり、時には一つのマリンバを4人で演奏したり、1人対3人になったり、冒頭部分への回帰の前には、撥をみんなで叩きながらそれぞれの位置に戻って最初の一人1台の状態になったり、とまるでマーチングのドリルのように見た目にもとても面白い。これは必見ですぞ。
後半最初は、マリンバ二重奏で、スティーブ・ライヒの「ナゴヤ・マリンバ」。これは私もCDもってます。シャンドスから出たサフリ・デュオの演奏。なんでも、この「ナゴヤ」の名を冠するという珍しい作品、ナゴヤのしらかわホールのオープニングコンサートのための委嘱作で、スカル・サクラのために書かれたものという。当初はガムラン音楽の作曲を委嘱したのだが、ガムランの伝統を汚すことになる、とのことで引きうけてくれなかったが、それなら他の形態で是非お願いしたい、と言ったところ書かれたものがこれ。いかにもライヒらしいリピートだらけの曲だが、相当な難曲らしい。聞いたところそんな難しくない、わかりやすい、と思っていたのだが、見て驚いた。二人の奏者の腕の動きと聞こえてる音楽が全く違う。ガムランの発想が確かにこの作品にも見て取れる。2人のリズムが複雑に絡み合って、一つの音楽として聞かせるのが困難な構造となっている。お話の中でも、この曲は、スカル・サクラの持ち曲でありながら誰もやりたがらない。最初つまづけば、そのまま持ち直る事無く終わってしまう。世界で演奏されるレパートリーとなってはいるが、誰もが難曲と認めているらしい。今回は、そんなつまづきもなく堂々たる演奏を聞かせていただきました。
続いて、安倍圭子さんの登場。マリンバのみならず打楽器も多数加わってのファリャ「火祭りの踊り」。もう大迫力で押しつぶされた。安倍さんのカリスマティックなこと。今までのスカル・サクラさんも凄い演奏を聞かせてくれていたが、やはり漂うオーラが違う。冒頭からして、自家製だろう特大の玉をした撥でダイナミックに演奏。撥の逆さ側にはハードな玉をつけて、両側それぞれスピーディーに使い分けつつ華麗な技の数々。
1曲終わってトークの時間。とにかく、いろいろな人に聞いてもらいたい。聞いていただいたお客さんにマリンバの音楽を育ててもらいたい。というお話。ピアノやバイオリンといった歴史ある楽器はお客さんも耳が肥えている。「今日の演奏は技巧だけが勝って心が感じられない」とか、一般の人にも批評されていってこそ音楽は育つ。とにかく皆さんに育てていただきたい、と。
40年前、マリンバの演奏で食べて行こうとした時期、NHKでの録音の帰り(なんと「今日の料理」は安倍さんの演奏だって。)、NHKが手配したタクシーの中での会話、「お客さん、何してきたの」「録音です」「何の」「マリンバです。知ってますか」「あぁ、知ってるよ。シャカシャカやるやつね」・・・マラカスと彼は勘違い。最近でこそ、マリンバという楽器を知っている人は増えたが、マリンバのオリジナルな音楽を知る人はまだまだ少ない。安倍さんの精力的な演奏活動、創作活動は留まる事無く続く。
さて2曲目は安倍さんのソロで、「6本撥による五木の幻想」。6本撥も安倍さんの独壇場。小さい頃からの訓練の賜物という。スカル・サクラの代表の方も、安倍先生を追っかける世代ながら、先生の技術には到底追いつかない、と言ってみえたが、とにかく技巧の数々は前半のマリンバ・ソロの曲とはランクが違うように感じられた。
五木の子守唄、世界何処でもなんて美しい旋律だろう、と評価される。そこで、どんなことが歌われているの?と聞かれて答えるとみんな驚く。西洋の子守唄が、子供の将来に思いを馳せたり平安に満ちているのと対照的に、日本の子守唄は、悲しいもの、死が歌われるもの、等々。これは私も全く認識していなかった。歴史的な背景も含めて、この作品はインスピレーションを受けて書かれたものという。素直に旋律が全面に出てくることは少なく自由に扱われてはいるが、6本の撥から生まれる豊かな和音から旋律がおぼろげに浮かび立つ様は感動的ですらある。
さて、最後は、三木稔の「マリンバ・スピリチュアル」。安倍さんによる打楽器アンサンブルのための編曲版。
この作品誕生のエピソード。作曲委嘱のためのスポンサー探しに奔走するも誰も協力してくれない。そこで偶然またNHK。NHKのプロデューサーだかが困り果てた安倍さんを助けるべく番組を制作、そこからこの作品の委嘱が可能となったという。
演奏にまつわるエピソード。この作品、前半が飢餓に苦しむアフリカのためのレクイエム。後半が、秩父の祭囃子のリズムによる部分で、和太鼓が活躍。ある外国での公演にて、本番直前、控室の鍵が突如開かなくなって大パニック。とにかく外の人に知らせようとバタバタ壁やら叩くのだが気付かれない。そこで、すぐに演奏されるはずのこの曲の秩父囃子のリズムを叩きまくったところステージ上の奏者に気付いてもらえて錆付いていた鍵を開けてもらったという。
曲はとても印象的。祭り囃子が日本人の心をつかむのだろう。とにかくリズムの饗宴が心地よい。難しさはない。頭じゃなく体に直に来る。ただ、ソロ以外のマリンバパートはそれほど技巧的でもなく同じパターンの繰り返しが多くて、マリンバ奏者の書く音符とは違うとは思った。が、それは些細なことか。演奏会を締めるに相応しい曲である。
アンコールは、お馴染み「剣の舞い」。かなり自由なアレンジで凶暴性も高かった。迫力で押しまくり。ちょっと耳に負担がかかったけれど。
そして最後は、安倍さんのソロで、昨年も聴いた「ドナドナ」。反戦歌としての音楽を歌詞無しでも表情豊かな表現で感動的に演奏されていた。
大変充実したコンサートで満足。打楽器に関する認識、どんどん高まってもらいたいもの。
(2001.3.22 Ms)
3/17(土) 名古屋フィル 第268回定期演奏会「ジャパン紀行」
3/17、名古屋フィル定演。これは良かった。藤岡幸夫氏の若々しいタクトのもと、オール日本ものという素晴らしいプログラム。
外山雄三「ラプソディ」、伊福部昭「リトミカ・オスティナータ」、吉松隆「交響曲第1番」・・・吉松氏も来所、休憩中に藤岡氏とのトークもあって貴重な機会となった。
ラプソディ、数ヶ月前私も岐阜県交響楽団さんでのトラで演奏したこともあって、自分の担当した鈴、ボンゴもしっかりチェック、さすがプロはスマートに何気なくやっちゃうなぁ、結構難しいのだが、ま、当たり前だが。金管が頑張り過ぎで、弦がもっと聞こえてほしかったが、威勢良くコンサートが始まったことだし、問題なしか。
オスティナータ、これは、ピアノ独奏、これまたフレッシュな横山幸雄氏を迎えての若々しく刺激的な演奏であった。とにかく継続する機械的ですらあるリズムの執拗な反復。それも、5拍子、7拍子を核に4,6の変拍子が挟まって、とても複雑なリズム。日本的な音階、そして、雅楽を思わせるトーンクラスター的なやや心地よい不協和音に彩られ、日本の伝統は確かに踏まえているのだろうが、このリズムは、日本のものではなさそうだ。伊福部氏の育った北海道のアイヌにもここまでのリズム感があるのか?それとも、バルトーク、ストラビンスキーから受け継がれたものかはわからない。しかし、日本のリズム感はやっぱ、外山作品のようなわかりやすいノリが基本のような気はする。
それは、ともかく、独奏ピアノもひたすらリズム、歌わしてくれない。ティンパニや、トムトムとの絡みはとても面白い効果だ。私は目撃できなかったが、ティンバレス奏者は撥を折ってまでの快演、クライマックスでのリム・ショットの連続は凄かった。特に打楽器群は良かった。
曲としては、とにかく、落ちつかない。不規則なリズムが叩きこまれてスリリング、とにかく興奮の連続。麻薬のような音楽、感性が麻痺しそう。私的には一番好感が持てた曲であった。ちなみに、この曲、高校時代購入したLP、小山清茂の「木挽き歌」目当てだったが、この曲がカップリングでたまに聞いたりしていたので懐かしかった。雅楽的な和音は当時から心地良く感じていたはず。約15年、自分の感性の連続性を確認。
さて、吉松作品。実は、ざっとCDで聞き流したことはあるが、特に今回予習をした訳ではないので聴き通すのは正直辛いかな、と心配していたが心配ご無用。充分楽しませてもらった。本人曰く「やりたいことは全部やった」とのことだが、確かにそんな感じ。吉松ワールド集大成の感がある。弦の美しいハーモニー、そこへピアノが色を添える。かと思えば、ロックのような豪快なリズムの饗宴。シベリウスへの憧憬。などなど。・・・しかし、私はふと思う・・・彼の作品の全貌を知るわけではないけれど、少なくとも、交響曲については、この1番ですべてやり尽くしてないか、その後の作品は結局、この1番の世界から外へ出てないのでは・・・と心配もしたが、ブルックナーやマーラーもある意味、そうな訳だ。そんな心配、野暮な話か。
第1楽章、コントラパスの断続的な旋律によるオスティナートで不気味に開始、その主題が増殖していく過程はとても面白い。途中のシベリウスの「タピオラ」的なムードに思わずニヤリ。そこへ、同じくシベリウスの7番のようなトロンボーン・ソロの吹奏が聞こえて来る。うん、感動的じゃない。いいぞ。ただ、事前のトークにて、吉松氏があまり自作について詳細には語らないので、藤岡氏が代弁していろいろイメージを語ってくれたのだが、この「シベリウスへの憧憬」はいろいろな発想としてこの作品に見て取れるが、フィナーレでもやはりこのトロンボーン・ソロがあって、これが、この作品を書いて筆を折るつもりだった(ホントか?)吉松氏が最後に、シベリウスになりたかった、と言っているかのようだ、と解説していた。のだが、それを期待して聴いてしまった耳には、フィナーレのトロンボーン・ソロは全く存在感薄で聞き取りにくく、ちょっと肩透かし。第1楽章のソロのほうがはるかにシベリウス的と思わせる。・・・まぁ、死の直前の走馬灯というコンセプトから言えば、ホントの最後の場面にもやはり固定観念的にチラリとシベリウスが神として垣間見えるということかな。
第2楽章の弦楽合奏は心に染みる。バイオリン、チェロのソロがいい、と藤岡氏も言っていたが、演奏も良く、とても心地よい癒しを感じさせる。また、ティンパニの上に置かれた金属の小さな器のようなものをティンパニの柔らかな撥で叩き、ティンパニのペダルを上下させて、何とも言いがたい不思議なフワフワしたサウンドを聞かせていたが、その仕掛けが私の席からしっかり見えて面白かった。バイオリンの背後の席で打楽器の奮闘ぶりが間近に見えたのも楽しい。シベリウスといえば、前楽章もそうだったが、カムイチカプ(「神の鳥」という意味のアイヌ語)の名を冠した作品だけに、フルート、クラに鳥の声を思わせるパッセージがよく出るが、これも7番の反映か。
第3楽章はとにかく圧倒されまくり。巨大なガムラン風な調律されたドラ数個を乱打する場面は壮絶。オケが大音響で鳴ってても、このドラの旋律らしきものが耳に飛び込んでくる。楽章全体として現代音楽らしからぬノリだか、これが現代日本の音楽であることは間違いない。・・・ただ、個人的には伊福部作品の複雑な変拍子のノリの方が楽しく感じられた。・・・リズムの饗宴と言った時に私的には、ハードロック、プログレロックよりは、「春の祭典」に興奮するという脳になっちゃってるせいか。
第4楽章、再び弦の静謐なサウンドへ。しかし、第2楽章とは肌合いが違う。「死者を思う」という副題の一節のとおり、内向的な感じがした。木管の柔らかなハーモニーも交えて、第2楽章とは違うもう一つの別のキャラをもったアダージョ楽章として第3楽章の喧騒を洗い流す役割を充分果たす楽章だ。
アタッカで第5楽章へ。比較的断片的なパッセージの多かったピアノが主導的なオスティナートを形成し、内向きな第4楽章から自然に前へと進み出す。そこへヴィブラフォン、鉄琴、そしてアンティーク・シンバル、トライアングルなどが重なり、何とも言えぬ天上の音楽のようなサウンドが聞こえ始めた時、一段階上の癒しを感じた。この第4、第5楽章の連続性、といおうか、発展性、とても感動的に感じられた(ストラビンスキーの最後の大作、「レクイエム・カンティクルス」も声楽がレクイエムを歌い終った後の後奏曲が、これと同様な金属打楽器による音楽で、死を乗り越える、浄化のようなムードを感じ取ることが出来る)。アルト・フルートの一節もいい。そして、歌は全オケへ広がり(前述のトロンボーン・ソロもかすかに聞こえながらも金管の和音に消されてゆく)、大クライマックスへ。第1楽章のコントラバスのオスティナートがバイオリンに再現され、暖かな和音に支えられて発展とてゆく様は感動だ。あの不気味なるものが幸福なる存在へと変容している、とてもわかりやすい説得力ある交響曲全体の構成がこの再現によって確実なものとなっている。この、とてもわかりやすい主題の発展性は、音楽の性質は違うもののショスタコーヴィチによく見られる主題の展開と言えそうだ。無調的な主題が再現にあたって調性的かつ安らぎを持つ主題へと変容する・・・(交響曲第5番第1楽章第2主題を思い起こそう。より現代的な様相を呈するものとしては弦楽四重奏曲第12番第2楽章の巨大なスケルツォ・フィナーレも挙げておこう)・・・この部分の存在で、やや散漫になる恐れもある雑多な音楽要素の詰まったこの作品も統一の糸がピーンと張られて私的には大きな説得力を持って聞こえてきたわけだ。
吉松氏の交響曲第1番、後世に是非残したい作品だ。確かに20世紀末の日本に生まれるべくして生まれた音楽であることは間違いない。
幸多きコンサートで吉と出て満足でした。
なお、今回のパンフレットの表紙には名古屋市美術館所蔵の、芥川也寸志氏の妻の絵画が使用されていました。その辺の話も興味深く、また別項にて紹介させていただきたく思います。
さて、今回の名古屋行き、芸術文化センター、アートライブラリーにて、ショスタコの「ステパン・ラージンの処刑」のフル・スコアも閲覧、ダスビ体験記用のネタも収集。
(2001.3.18 Ms)
(2001.3.22 だぶん より移動)
3/9(金) 新日本フィル 第316回定期演奏会
コンサートに行って、こんな幸福感を味わったことがかつてあっただろうか?
素晴らしい演奏だった、という感想は確かに何度もある。しかし、素晴らしい演奏、といった側面を超えて、演奏された音楽自体が素晴らしい音楽作品だ、という認識に至ると共に、そんな理性的判断だけではない、幸福感がたしかにあった。
ショスタコ・ファンである私も、ショスタコの演奏会ではさまざまな感激を味わってきたのだが、どうも今回のような幸福感、というのはあまり感じたことがなかったように思う。
様々な困難、緊張感、ストレスに対して、それを乗り越え、解決した時の開放感、・・・一点の曇りもなく、皮肉も、ホンネと建前といった二面性もなく、とにかく困難に打ち勝つ勇気、精神力を素直に信じることの出きる健全な感覚・・・こんな気持ちにさせる音楽を生で目の当たりにした時、とにかくかつてないような幸福感を感じたのだ。
う〜ん、うまく表現できないな・・・とにかくコンサートから一夜明け、まだ気分が高揚している。
ニールセンの交響曲第5番。素直に人間って素晴らしいと思える。がんばって生きていこう。こんな力を持った感動的な音楽。出会えて良かった。大好きな作品ではあったが、生で聴いて、ますます好きになった。
具体的な感想。とにかく、まずは、キンポウ・イシイ=エトウ氏、若干33歳の台湾出身の若手指揮者、彼の指揮がこの感動の源泉となったのだろう。彼のたっての希望でのこの選曲。若々しく、臆する事無く、とにかくオケを鳴らしきった、という感じ。新日フィルの熱演も彼の指揮に十分応えるもの。
ニールセンのオーケストレーションも面白い。とにかく派手。さほど大きくない編成ながらも、金管打の扱いがうまく、効果的に大音響を巧みに作り出す。それも、思ったより随分節約してつかっており、ホルンこそいろいろな場面で活躍するものの、トランペット、トロンボーンなどは意外と出番が少なく、ここぞという時に大爆裂する仕掛けだ。
打楽器はもう言う事なし。これは皆さん聴かなきゃ損でしたよ。第1楽章で、アドリブでオケと全く違うテンポ感をもってソロをとにかく叩きまくる小太鼓、舞台上方、パイプオルガンの傍らに配置させ、目立つこと甚だしい。ティンパニも要所要所でオケを引き締める。吊シンバルの木撥でのロール奏法や、タンバリン親指ロールなどの効果もバッチリ。
木管では、クラリネットの狂乱的パッセージの数々そして、第1楽章最後の心染み入る独白など、協奏曲並の活躍、これも良かった。その他木管もソロ的部分多く、それらがそれぞれに生き生きと演奏、ノッていた。
弦も、金管打の迫力に負ける事無く、大合奏部分も堂々たるたっぷりとした響きを聴かせ、また、穏やかなアダージョ部分の歌も感動的。
とにかくどこをとっても文句なし。そんな各セクション、各パートが、様々な組み合わせで、様々な部分を構成し、とにかく音響的にも飽きさせない。次にどんなサウンドが待っているのか、それを追うだけでも随分楽しい。
そんな楽しさ以上に、音楽の流れがいい。平安、そして葛藤、そして解決、さらなる平安。とにかくもう、説得力ある音楽なのだ。変な楽章構成をとっているのだが、構成の異例さが、聴いていて全く違和感のないものだった。第1楽章は、速い第1部と、穏やかな第2部(第1部の素材の回帰も含む)からなる2部構成。第2楽章は、速い第1部、さらに速いスケルツォ的な第2部、穏やかな第3部(第1部の素材による)、そして第1部の回帰と終結部を持つ第4部からなる、これだけで一つの標準的な交響曲のスタイルを持った4部構成となっている。
曲を追って詳細な感想を続けましょう。
第1楽章。
第1部。ビオラの高音によって、そよそよとなびく風のような音形がひたすら続く(シベリウスのバイオリン協奏曲の開始とよく似ているが、ニールセンの方が硬い感じはする。)。その音形に乗って、ファゴット、ホルン、フルートなど、2本づつ組となって断片的な旋律を聴かせる。それぞれのソロが歌を感じさせる。特に最初のファゴットからして素朴な味わいがあり、前半プロにはない生き生きとした表現が印象的。
(ちなみに、前半は、ブルッフ晩年70歳ころの協奏的作品2曲。これはこれで美しかったのだが、サウンドも弦主体な水墨画みたいな淡白なもの。音楽自体も覇気の感じられにくい晩年ブラームスをもっと枯らしたような音楽が30分以上続き、その後で、このニールセンでのファゴットのデュエット、随分と生を感じさせた。前プロが晩年ブルッフの渋過ぎる世界だった事も、ニールセンが素晴らしく引き立った要因の一つに違いない。)
さて、ビオラの風の音形からひとつのモチーフが生み出され、音楽は田園的なのどかなものから徐々に緊張感を孕んだものへと移行する。吊シンバル木撥ロールがその雰囲気を小さいながらも醸し出す。そして、悪魔的な行進曲が始まる。小太鼓の行進のリズム、低弦とティンパニの短3度の足取り。クラやフルートの細かなパッセージも不安感を煽る。・・・この行進、いつも感じるのだが、死への行進といった趣として私は捉えてしまう。北米だったか、ネズミのような哺乳類で、ある時期、大量発生すると、自ら隊列を組んで川にぞくぞくと飛び込んで死んで行く、といった話。人間もそのうち、死への行進をするんだろうなぁ、と感じるだけでぞっとする。そんな不気味な行進の持つ緊張感の持続、かなりスリリングなものだ。行進のリズムが途絶えて、やはりクラリネットが、かなりカデンツァ的な自由なソロを吹くが、その部分の大袈裟な感じが今回良かった。その背後の低弦のうねうねした音形も面白い。そのうち、トライアングル奏者がチェレスタで、かすかに同音をゆっくり鳴らし始め、音楽は長い時間かけて沈静化、単調さを帯びる。しかし、タンバリンの神妙な短いロール、木管の断片的なつぶやき、など随分と緊張感だけはまだまだ続く。
そんな長く続いた緊張感を解きほぐす、オーボエの下降音形を合図に、ビオラがふくよかにアダージョの感動的な歌を始める。
第2部。ビオラから歌は始まり、中低音だけの伴奏が穏やかな雰囲気を醸し出し、第1部の緊張感をすっかりと洗い流す。旋律は次第に高音へも広がり、歌はさらに広々とした平原に充満させていくような雰囲気で発展する。ホルンの上行するモチーフが合図となって、歌は高音部で確信をもって高らかに鳴り響く。あぁ、なんて幸せな一時。もう、思い出しただけで泣けてくる。
そのクライマックスで、低弦にやや不安なパッセージが何度か繰り返され、再びビオラの歌が第2部冒頭に近い形で再現されて、落ちつきを取り戻す。しかし、再現に当たっては、第1部の風の音形から派生した木管のシグナルが何度か聞こえ、この幸せが束の間のものでしかないことを暗示する。その、木管の警告に気がつかないまま、音楽はまだアダージョの幸せな歌を続けるが、その歌が一呼吸おいたところで、ティンパニのロールが鳴るや、ずっと沈黙を続けてきたトロンボーンが、主題を短調で朗々と歌い出し、チューバ、そして、トランペットへと波及、木管のシグナルもピッコロを加えて、さらに鮮烈に警告を始める。この辺りの金管群の重厚さも良かった。いろいろCD聴いていると、結構このトロンボーンが情けなかったりする。ここで、第2部の幸せに一石投じる重大な役割を持っているのだから、ここは堂々と重々しくて大正解だろう。
アダージョの幸せな雰囲気は一変して緊張感を得て、不安を増大させる。そこへ、全く場違いな、小太鼓が、第1部の、死の行進のリズムを持ち込む。オケ全体は、アダージョのテンポで、歌の主題と、シグナルのモチーフを鋭く対立させつつ進行するのだが、今回オケから離れて配置された小太鼓だけが、行進曲のテンポで断片的に、気が変になったと思わせるようなパッセージを延々叩き続ける(確かに知らない人が聴いたら、小太鼓奏者乱心、ですわな。私の前方で、ホールの横側に陣取った聴衆は、身を乗り出して、小太鼓を見つめていたなァ。)。カデンツァと書かれた、この小太鼓のパッセージ、最初はニールセン自身が音符を書きこんでいるが、途中からアドリブ。何をやってもいいことになっている。そこで、私は、とにかくいろんなCDを買いあさって、そのアドリブの聴き比べをして楽しんでいるのだが、今回のアドリブが私の最も理想とするものだった。とても嬉しい。こんなアドリブにはそうそう出会えないのが事実。今回会場に足を運ばれた方は、とても運がいいですね。
そのアドリブ、とにかくバカすか叩きゃいいってもんではない。私の希望としては、与えられた役割として、行進部分の再現、をアダージョとシンクロさせるわけなので、死の行進のリズムは適宜折り込みつつ演奏して欲しい(トランペットもアダージョにテンポの中で、このリズムをずっと演奏してますし)。ひたすら、ダダダダダダタ・・・・と騒音を、と言おうか爆竹を鳴らしたようなアドリブを聞かせるCDもあるけれどこれじゃ能がなさ過ぎ。主題を設定してアドリブしましょう。ただ、ニールセンが書いた音符を繰り返すだけでも能がない。ニールセンが書かなかったリズムも当然いれなきゃいけません。なるべく、2/4系だけでなく、6/8系の行進曲的リズムを入れると変化も出てきます。そんな中にも、ただのロールのクレシェンドとか、聴衆を驚かす音響も交えていただくとよりベター。さらに、小太鼓奏者に与えられた時間は結構長いわけです。来るべきクライマックスに向けて、アドリブ自体も盛り上げていかねばなりません。最初の頃は、死の行進リズム始め、断片的なリズムを休みを交えつつ演奏していればいいのですが、盛り上げに向けて、その断片を連続させ、長いパッセージへと徐徐に発展させていくという計算がないと、聴いている方は退屈してしまいます。オケの側は、ほとんどこの部分はおんなじ事を繰り返し、緊張感は持続しつつも停滞した雰囲気のまま、大音響が続きます。小太鼓のアドリブのみの力によって、この停滞感を少しづつ打ち破り、クライマックスに向かって、さらにテンションを上げなきゃいけません。この小太鼓のアドリブが乱入した時が最も緊張感が高まっている、という演奏がどうも多いようです。つまりは、ここの小太鼓のアドリブ、ベートーベンやブラームスに倣って、一つの主題をどう構築してある長さをもった音楽という流れを作るか、といった作曲技法が問われる部分だと思います。
・・・・長々書きましたが、今回のアドリブ、その冷静な主題の発展がみられつつ、音響的にもインパクトをずっと与え続け、とても素晴らしい作曲がされていたのです。もう、ブラボー、ブラボー何度言っても言い足りない。こんなアドリブを聴きたかった!!
アドリブについてはいろいろ考えるところがあったのでちょっと興奮して書き過ぎました。
さて、大々的な葛藤の部分が過ぎ、ト長調の確立。歌の主題が堂々と全合奏で鳴り響く。この解決感の凄さ。もう、力がみなぎり、第1部後半の緊張感、そして、第2部中間の緊張感全てを超越するゆるぎない確信が音楽を貫き、感動の大爆発。生きててよかった・・・とホント思います。数々の試練を乗り越えてこそ幸せはある。この説得力、凄いです。
このクライマックスが、さぁーっと引いてゆくこの引き際もまたいい感じです。木管が残って、やや名残惜しげにシグナルを緩やかに演奏しながら、今度は舞台裏からかすかに、また小太鼓の行進のリズムが聞こえてきます(トライアングル・チェレスタ奏者が、小太鼓のアドリブ部分のどさくさにまぎれて舞台裏に去って行きました)。その上に、再び大活躍のクラが残ってしみじみと、この第1楽章のドラマを回想してこの激動の楽章を閉じます。あぁ、充実。
ちなみに、この最後の部分、弦が主和音のコードをずっと引き伸ばしている事、クライマックスの後、木管に長いモノローグを任せている事、「レニングラード交響曲」第1楽章の最後と同様、小太鼓の主導的なリズムモチーフがかすかに聞こえてくる事、の3点をもって、ショスタコの世界とかなり近い、ということを指摘できます。ショスタコの音楽との関連は、今回のパンフレットの曲目解説を担当した吉松隆氏もほのめかしていますが、実際のところ、ニールセンの音楽がショスタコに影響を与えたのか、興味あるところです。今のところ資料皆無ですが・・・。
第2楽章
随分書くのが疲れてきたので手短に。確かに、この作品の第1楽章のインパクトに比較して、第2楽章はやや印象に薄い面はあるかもしれない。大活躍の打楽器群もティンパニ残して舞台から消えてしまっていたし。
しかし、この印象薄な側面、私が打楽器奏者だからかなぁ。生で聴いてみると、意外といい。変な手法を用いずに正攻法でダイナミックな音楽を作り出している。手品師みたいなエンターテイメント性の高い第1楽章と比較しても、オケの鳴らしっぷりに関しては、第2楽章、ひけをとってないでしょう。
競技的3拍子なる、ニールセン特異の楽想で第1部は開始。トランペットとティンパニの合いの手もイレギュラーな入りで音楽に生気を与える。弦がとても鳴っている。ティンパニ、及びホルンを除く金管はさほど出番がないのだが、大河の流れの如く堂々と弦主体に、この大きな3拍子が、大きな音楽をつくっている。金管打に頼らずともたくましさに満ちたこの冒頭、随分魅力的だ。そんなたくましさのなかで、可憐に一輪花を咲かせたような、オーボエの一瞬の一節のメロディーの可愛らしい事。この旋律は、ある意味インパクトある提示の仕方であり、また、重要な主題としてその後展開されゆく。
この第1部の自信に満ちた音楽の流れも、弦の細かな動きの連続がでてくる辺りから長い時間かけて溶解してゆく。第1楽章の第1部から第2部へのブリッジも結構長いが、こちらもこのブリッジが長い。おなじような楽想が何度も繰り返し出てくるので演奏するほうは緊張感があるだろう。事故がおこりやすいのだろう必死にアンサンブルしている様子はうかがえた。事故はなくて良かった。ひょっとして前日事故でもあったかな?それとは、別に、作曲技法の観点しても、この2つのブリッジ部分、同音連打(第1楽章においてはチェレスタ、バイオリン。第2楽章においては金管、バイオリン)が目立っている。楽章間の統一感への配慮か?
第2部はプレストのスケルツォ。1st Vn.から順番にフーガ的な開始。これまた、狂乱的なパッセージが続く乱暴な楽想。そんななかでやっぱりクラリネットは、ほとんど気が違ったかのような物凄い早業のヒステリックな一節があって大活躍。この違和感、インパクト、第1楽章の小太鼓と対比できるかも。確かに、知らない人が始めて聴いたら、おい、大丈夫か?突然何かがのりうつったんじゃないか?と思わせるもの。さて、このクライマックスは、金管の咆哮で盛りあかるが、突然その流れは立ち切れて、低弦のロングトーンとその上にフルートの一人残された興奮状態だけが続き、お呼びでないかのごとく、自分でその興奮も沈静化させ、第3部のアンダンテへ移行。
第3部は、第1部の主題に基づくもので、これまた、第2部と同様、1st Vn.から順番にフーガ的に提示されてゆく。この部分は、グリーグ、シベリウスらの北欧的な弦楽合奏のムードが、癒しを感じさせる。第1楽章の第2部も心穏やかな一時を緊張感の後に味わわせてくれる。ここでも、スケルツォの大狂乱を受けて、一瞬心を和ませてくれるが、第1楽章とは違って、問題回避、逃げを感じさせないように思った。秘めた力強さ、秘めた意志の強さがないだろうか?第1楽章では、問題に対して逃げの姿勢だったからこそ、その問題が温存されて、大々的に暴力的に回帰して大変なことになってしまったのではないか?それはそれで、解決はしたのだが、その解決に対してエネルギーを使い果たし、脱力感あるコーダを迎える事になる。しかし、第2楽章では、問題に対する解決の意志が、この第3部に感じ取られるように思う。田園的アダージョというより、思索的、と言ったらよいのか?その問題解決の意志は、第1部の楽天的エネルギーを内在させている(主題が同じ)ことに暗示されていて、その楽天的エネルギーが次第に高まる事で、自然に第1部は回帰してくるのだ(今回の演奏も、この第3部の弦がたっぷりと鳴り響く事で、従来の私のイメージに比較して随分積極的な性格を感じ取る事となった)。第3部から第4部への移行は素晴らしく感動的だった。楽天的エネルギーの蓄積とその爆発の過程という意味では、ベートーベンの第5番の第3楽章から第4楽章へのブリッジが、とても単純な手法(リズムモチーフの増大)で行われてはいるが、このニールセンにおいては、もう少し複雑な形で、より感動的な表現を可能にしているように思う・・・ここからは自分勝手な感想だが、ベートーベンの「運命」は、もう幼稚な感じがする。単純明快過ぎ。言ってる事は感動的だが、手法がちゃちじゃなかろうか・・・おぉ恐れ多くも言い放ってしまった・・・20世紀の様々な音楽手法の開拓のなかでベートーベンじゃぁ、納得しかねる部分が多々ありはしないか?ベートーベンの精神を、20世紀的な、もっと複雑怪奇な形で新たに造型しなおしたのが、このニールセンの第5番ではなかろうか?とすら感じた次第。
さて、第4部。第1部を手短くぱっぱと再現していくスマートさ、ベートーベンの歓喜の再現がどうしようもなくクドイのに比べても格段の感動の差が私にはある(「運命」も「第九」も歓喜が腹一杯。)。主題の再現はさっさとすませて、第4部は、第1楽章第2部へのブリッジ、第2楽章第2部へのブリッジで多用した同音連打の展開が最後のコーダの推進力となって力強い終結部を作り出す。第1楽章での、問題からの逃避、第2楽章での、歓喜の溶解の過程で鳴っていた同音連打が、今回は、金管そしてティンパニに移行してさらなる高次な歓喜を支える存在としてたくましく鳴り響く。この第4部の鮮やかな構成、第1楽章と第2楽章を統合させる意味合いを持っていると今回始めて気がついた。・・・私自身、この5番、第1楽章と第2楽章がそれぞれ独立し過ぎた、独自なキャラクターを打ち出していて、どうも、統一体として認識できないでいた。しかし、今回の生演奏、じっくり聴かせていただいて、2つの楽章が切れないひとつの流れを作っていて、その解決が見事になされているのに気がつき、これもまた作品の説得力を強く感じたのだ。
最後のコーダ、これもいろいろテンポ設定がある。今回はサロネンに近い、堂々たる終止。私が始めてこの曲を聴いたのが、N響、サロネン。10年ほど前の定演をラジオで聴いた、ということもあって、アレグロでつっぱしる最後はどうも納得いかない。やっぱ、最後は朗々とやってほしい。その期待通りの終止で、さらに私の満足度も高まった。ティンパニの駄目押しの連打も決まりました。金管群のエネルギーもコーダで爆発できるよう周到に用意されていたようで両楽章すべての問題は解決、どんな試練も苦しみも、必ず乗り越える事が出来るんだ・・・そんな感動の大団円、とにかく、幸福感いっぱいで曲を聴き終える事になりました。
拍手はもちろん、クラリネットと小太鼓に大きくなされ、ブラボーの声も。指揮者のキンボー氏にも聴衆、そしてオケ団員からも盛大な拍手がよせられました。彼の指揮の手腕確かなものを感じました。今後の活躍、楽しみにしたいですね。また、新日フィルさんも、1月の、ショスタコ等の映画音楽コンサートに続き、大熱演。もう、大満足です。こんな素晴らしい体験、どうもありがとうございました。
来月のN響のニールセン5番も楽しみですね・・・ホールに行くことは????今後、これを機会に本作品が日本中で演奏されることを望みます。もっと明るい世の中になるような気がします。ニールセンの楽天エネルギー、もっともっと浴びたいなあ。
(2001.3.10 Ms)