今月のトピックス

 

 January ’01

1/21(日) 2001岐響 New Yearファミリーコンサート

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1/12(金) 新日本フィル 巨匠の映画音楽 〜お宝フィルム ガラ・コンサート〜

 すみだトリフォニーにて、私も大変お世話になっている、竹本泰蔵氏の指揮で、ショスタコを中心に映画音楽を映像を見ながら聞ける好企画。新世紀最初のコンサート鑑賞は、東京でと相成った。

 舞台狭しと多数の打楽器含め、ハープ、チェレスタ、ピアノ、さらに混声合唱、そして、大型のスクリーン、こんな舞台設定を見るだけで興奮してくるほど。席は3階の後方でオケは遠く感じられたものの聴覚的にも、視覚的にも大して問題はなく鑑賞できた。
 スクリーンには、ほとんど曲に合わせて、その映画のある部分が映写されたのだが、今回の企画としては、映画音楽をコンサート用に編集した独立した楽曲を演奏しつつ、その映画音楽が使われたであろう場面を映写する、ということで、必ずしも、その映画の中で、正確にこのタイミングで音楽が流れたという訳ではない面においては、多少ちぐはぐに感じられないではなかったが、曲にあわせて、該当部分を切り取り、あるいは様々なシーンを切り貼りし、その音楽の演奏時間に合わせ、映像を今回のために作り上げるという根気の要る作業をした、新日フィルの姿勢には恐れ入る。それとまた、その映像に合わせて音楽の流れを作る指揮者も大変な苦労を伴ったことだろう。しかし、その苦労の甲斐あって、素晴らしいコンサートが出来上がったのだ。

<1> コルンゴルト 「海賊ブラッド」序曲 (1935)

 今回のコンサートのオープニングに相当する当曲。私は、コルンゴルト(1897〜1957)を意識して聴いたのは始めてだろう。ウィーンで神童として名を馳せた彼がハリウッドで映画音楽を書くはめになったのは20世紀の、戦争を含めた激動の歴史に翻弄されてのことだが、そんな彼だったからこそ、その後のアメリカの映画音楽の一つのスタイルを確立するほどの影響力を持ち得たのだろう。作風は、こてこての後期ロマン派、R.シュトラウスの交響詩を聴く様だ。このゴージャスさがアメリカ映画を彩る音楽の一原型であることは聴けばすぐに分かる。
 しかし、どんな曲だったか全く思い出せない。華美なだけで印象に残らない・・・。
 映像の方も、この序曲5分の中に、映画のおおまかなストーリーを詰めこんだという感じで、いわゆる映画の予告編を見るようであった。画面の映像、そして字幕、さらに私はオケの演奏ぶりも見たいしで、結局注意力が散漫、肝心の映画音楽まで意識が至らなかったようだ。とにかく感覚的に、忙しし過ぎて、この鑑賞形式に自分の体も慣れずに、あっというまに過ぎてしまった、という感じである。

<2>  コルンゴルト 「ロビンフッドの冒険」組曲より3章 (1938)

 次は、多少慣れてきた、という側面、さらに、対照的な3つのシーンに分かれて幾分、映画の内容を想像しつつ鑑賞できる状態にはなってきた。「ロビンフッドと陽気な仲間たち」「愛のシーン」「戦い、勝利、そして終曲」の3曲。前曲に比べて、後期ロマン派色から、いわゆるアメリカ映画的なサウンドの傾向がより濃くなったようだ。ジャズ的なニュアンスはないものの、サックス、ヴィブラフォンの使用などがそんな雰囲気を醸し出す要因となったのだろう。
 ただし、愛のシーンにおける、中低弦を分割した渋い響きはマーラーの作品の一部を彷彿させもし、興味深い。しかし、やはり、旋律線など、音楽自体を今となっては全く思い出せない・・・ある意味、成功しているのだろうけど・・・音楽ばかり気にさせては、映画としては不成功なのだろうし。やはり私の趣味と会わなかった側面もあったということか?・・・全く感想になっていない・・・次のショスタコ作品はちゃんとコメントします。

<3> ショスタコーヴィチ 「ミチューリン」組曲より5章 (1949)

 待ってましたのショスタコ作品。まずは、パンフレットの一柳富美子氏の解説から概要の引用を(以下、引用は斜体で表示)。

 原曲は1948年の作曲。その中からアトヴミャーン(1901〜1973)が7曲を選んで64年にコンサート用の組曲を作った。今日はそのうちの5曲に合唱を加えたものが演奏される。
 イワン・ミチューリン(1855〜1935)は植物育種家で、主にイチゴ系果実の分野で霜や旱魃に強い「ミチューリン種」と呼ばれる新種を数多く開発した。学歴こそないが長年の経験から次々と業績を挙げていくミチューリンが、やがてアカデミズムにも認められていく後半生を描いたこの映画は、49年のスターリン賞第2席を受賞した。

 それでは、各章ごとにコメントをしよう。合わせて、私の手元にある組曲のCDによる曲順も表示することとする(RCAから出ているSerebrier指揮、Belgian Radio Symphony Orchestra演奏のCDによる)。

(1)第1章「序曲」(組曲第1曲)

 やはり、絢爛豪華なハリウッドの冒険活劇の後では、映像、音楽ともに、第1印象として、大変貧しい印象を受けたのは否めない。まず、映像が、カラフルなカラー映像から、一瞬白黒かと思ってしまうような画質に落ちてしまったこと。さらに、若々しいロビンフッドとその仲間、美しいお姫様、といった世界から、ヒゲ面のお爺さん、彼はひたすら、花に受粉させ、書斎で思い悩み、また、少年たちとリンゴをかじって談笑する・・・この世界のギャップにとまどったのは確かだ。アメリカとソビエト、映画という娯楽のあり方も随分違うものだ、これが第1印象。
 音楽も、後期ロマン派的な、装飾的な音を沢山含んだゴージャスなものから、地味で、情報量も格段に少ないもので差は歴然としている・・・しかし、その単純な音楽が心に染みいってくるのだから不思議なものだ。華美さのかけらのないショスタコの音楽が胸を打つ。
 確かに、ミチューリンという何の飾り気もないほとんど農民のような主人公が出てくるのに、華麗な音は必要ない。そのミチューリンの住んでいる世界は何の飾り気もないのだ。この序曲では、ほとんど、自然の風景が映し出され続ける。広々としたロシアの平原。花咲き乱れる畑。葉を茂らせた木々、森。美しい川のせせらぎ・・・・そんな単純な、どこにでもありそうな、何の変哲もない風景。そして、そんな自然、素朴な人々に対するショスタコの優しい眼差しすら感じさせるのがこの序曲だ。
 正直なところ、随分前CDは購入したものの、(「ベルリン陥落」をメインとしたこのCD、ベルリンの壁崩壊の頃発売され購入したはず)「ミチューリン」には派手さもなく、ほとんど記憶にも残らなかった。しかし、今回、映像と共にこの音楽が存在した時、私に訴えかけるものは大であった。今回の演奏では合唱が加わっており、「夜鳴き鶯よ、元気を出して歌っておくれ」と歌う合唱の存在も、音楽をより深いものとしているようだ。
 (歌詞の内容の全容は、よくわからないが、「森の歌」第6曲をかすかに思い出させる)

(2)第2章「回想」(組曲第4曲)

 演奏に先立ち、真っ暗な画面に、ミチューリンの妻が病床に臥す、という字幕が出る。寒冷地に強い作物を作るため、実験を続けてきた夫妻ではあったが、妻がその過酷な仕事によってついに倒れるのである。その解説的な字幕の後、2人の会話が映画からそのまま映写、放送される。なお、この作品自体には全く字幕がついていない。2人の会話の内容はわからなかった。
 その映画のワン・シーンの後に演奏は始まる。「森の歌」第3曲のような雰囲気の陰気な開始、付点音符が重たく悲愴な序奏である。映像は、寒冷地での夫妻の労働である。その苦しみがクライマックスを迎え、ティンパニのロールだけが残り静かになると、クラリネット・ソロが「森の歌」第2曲女声合唱の主題とほとんど同じ旋律をややゆったりめに歌い出す。二人の若き頃の回想シーンだ。一生懸命農作業に精を出す二人。朗らかな笑顔。その三拍子の旋律が盛り上がりを見せ、その最高潮でティンパニの印象的な分散和音のソロを導くのも束の間、その流れは途切れて、ヴィオラ・ソロの比較的長いモノローグとなる。病床の妻をかかえる彼の姿。そして一人残される彼。
 続くコーダは、ショスタコによく見られる、高弦と木管による細かいパッセージ。突風に揺れる木々。葉を全て落としてしまう木々。この速いパッセージは、和音で動き、一瞬、ウィンドマシーンを使っているのかと錯覚するほどの描写性を持っていた。

(3)第3章「冬の庭」(組曲第2曲)

 冬の訪れ、そして妻の死。音楽は、重い足取りの行進曲風なもの。さらに、葬送のリズムを持った、打ちひしがれた彼を象徴するかのような沈痛なアダージョ。しかし、そのアダージョの流れは、次第に明るさを帯び始め、クライマックスを導く。左右に配置されたバンダ(トランペット、トロンボーン3本づつ?)が加わり、確信に満ちた音楽へ。大太鼓とティンパニの16分音符のソロがたくましく、オケの合いの手として加わり、その音楽の流れは一発のアクセントともに終わり、弦の刻みに移行(この部分、やはり「森の歌」第7曲で、フーガの流れがバンダの加入と共にクライマックスを迎え、一発のアクセントと共に、弦の刻み、そして第1曲の回帰へと移行する流れと類似している。)
 弦の刻みの上に、フルート、そして、クラリネットのモノローグが続き、そのクラリネットが新たな素朴な旋律を歌い出す。その旋律の中に、「森の歌」第5曲、及び「祝典序曲」のアレグロ主題に見られる、ソーラシ・ドーシラの繰り返しの動きが含まれている。モノローグは、川の氷が溶け始める映像、そしてクラの明るい旋律とともに、つぼみが花開く映像の連続となり、春の訪れを描く。次々と花は開き、一面花だらけな森にあって、ミチューリンも元気を取り戻す。説明的な字幕は曲の開始でこう予告していた。「自然の変わらぬ営み、厳しい冬から穏やかな春へ。彼は妻の死を乗り越えて、新たに研究に没頭する。」この部分の音楽の美しさも素晴らしい。グロッケンの効果的な使用が印象的だ。

 告白しよう。私は泣いた。涙は恥かしくてふかなかった。大粒の涙は溢れ、口に流れてゆく。大泣きだ。その映像も素朴ながらも訴えかける強さを持ち、音楽もまた然り。特に花開く映像の連続と、祝典序曲動機が私の中で一体化している。映画音楽作曲家としての彼の才能に見事にやられてしまった・・・・理性では無しに本能に直接来てしまってはどうしようもない。ショスタコに完全にやられてしまった。ハズカシながら。

(4)第4章「ミチューリンの独白」(組曲第6曲)

 研究が順調に進み、彼も研究所らしきものを持ち、次第に高名になる。「森の歌」第6曲風なハーモニー、雰囲気の穏やかな音楽。そして、続いて、みんなが仕事に専心し、またいろいろな人々から感謝を受けるミチューリン、といった映像と共に、音楽はテンポを上げつつ、お馴染みのあの旋律が・・・・そう「呼応計画の歌」。作品33。初期の映画音楽で、社会主義の未来の賛歌、といったものだろう(一昨年BSで放映されたショスタコの特番でも、その映画の映像と共に流れていました)。この辺りから、先ほどの私の涙は消え失せる・・・徐々に、純粋な一個人の伝記映画という側面を離れ、イデオロギー的な色彩が色濃く出始め・・・・さらに・・・・。

(5)第5章「終曲」(組曲第7曲)

 英雄ミチューリンを称えるパレード。「森の歌」第5曲の主題とほとんど同じハーモニー、合唱はひたすら母音唱。彼を称える祝祭的な音楽の中途でやはり、バンダが合流。最後は、ほとんど「森の歌」第5曲と同じ終結である。それにしても、赤旗持った集団に続いて、野菜や果物を持った若者達が行進する映像には唖然としつつ、やはり、1948年の映画、体制万歳、なのである。終わりさえ変えれば、結構いい映画だと思うのに、このイデオロギー故にもうきっとお目にかかれない映画とは言えよう。まさしく「お宝フィルム」ではある。

 聴き終えて、やはり気になるのは全編通じて現れる、「森の歌」と共通する、旋律素材、ハーモニーなど。
 なお、今回割愛された、組曲の第3曲「ワルツ」は、バレエ組曲へも転用されたものだが、もう一方の第5曲「Palace Place」に至っては、これまた、「森の歌」第5曲の旋律をそっくり使っているのだ。プログラム解説の一柳氏に寄れば、

 ショスタコーヴィチは55年のインタビューで「ミチューリン」の仕事が自分を「森の歌」に導いてくれたと述べているが、実際には「森の歌」の引用断片そのものが本編のあちこちに散りばめられ、これらの作曲は同時進行していたと思われる。 

 ショスタコにとっては、やっつけ仕事であったであろう、2つの作品「ミチューリン」作品78、そして「森の歌」作品81。自然と人間との健全で幸福な関係を描いた両作品は、描く内容の共通性もあって、これ幸いと、同じテーマをそれぞれに流用して作ったのに違いない。これらが作曲されたであろう1948年には、1月にジダーノフの演説があり、その批判に答える作品は当然作らざるを得なかったはずだ。その一方で、「バイオリン協奏曲第一番作品77」そして「ユダヤの民俗詩作品79」という、批判に応えられないであろう、自らの芸術家としての良心にしたがっての大曲も作曲していたのだ。これ幸いと、親しみやすい旋律を作っておいて2つの作品に使いまわし、その挙句に「ミチューリンが森の歌を導いた」と、もっともらしいことを言っているのがショスタコらしい。・・・・しかし、彼にとって屁でもないこれらの作品に大泣きしてしまう私、改めてショスタコの凄さを体感してしまった。

休憩をはさんで後半へ。注目の「ベルリン陥落」!!(2001.1.13 Ms)

<4> ウォルトン 「ヘンリー5世」組曲より3章 (1945)

 私の個人的な感想としては、音楽自体の持つ魅力という点で、今回の3人の作曲家で最も優れているように思う。特に、この作品の冒頭に当たる「<グローブ座開幕>序曲」の、バロック以前の音楽を模しつつも、現代的な感覚に溢れた音楽は、とても素晴らしい。
 ロンドンの全景から、グローブ座という劇場へのクローズアップ。その最中に、空から紙が舞い落ちる。その様子がフルートのソロで表され、その紙が画面一杯に表示されたところで、金管のファンファーレ。タイトルが全面に。さらに、グローブ座の中で、今まさに劇が始まる、といった雑踏の場面。そして、劇の伴奏をする楽隊がラッパを吹き鳴らすシーン・・・そこで音楽もトランペット・ソロ。そして劇の始まりとともに、古風な音楽が奏でられる。中太鼓の連続したリズムが古めかしさを演出する(そう言えば、私のオケでも、まさに竹本先生の指揮で、まさに、ウォルトンの戴冠式行進曲「王冠」を演奏し、まさに、中太鼓を演奏したっけ。中世の旋律によるトリオ主題の部分。)。
 映像と音楽がぴったりとリンクしているのも良い。ウォルトンの作曲技術も素晴らしければ、竹本先生の指揮技術も素晴らしい。
 続いて「別れの口づけ」、フランスとの戦いに赴く兵士と妻との別れの場面。弦だけの音楽。
 最後は、「アジンコート・ソング」。アジンコートの戦いの勝利。そして、ヘンリーがフランス王女と結ばれる、という結末。これまた華麗な音楽。しかし、コンサート前半のコルンゴルト風な、ドイツ後期ロマン派的ではなしに、いかにもウォルトンらしい、現代的な和声感覚に溢れた、カッコイイ音楽である。合唱も付加された、M.サージェントの編曲した版を使用。(ちなみに我が家にあるCDは、合唱無しの、Mathiesonによる版)合唱付きの方が断然いいな。
 ただし、難点をいえば、サージェントの編曲した組曲からの抜粋3曲のみでは、映画の全貌が全く不明である。その点は、ショスタコーヴィチ作品の方が、かなり詳細に映画の筋を追って、組曲化されており、聴きごたえ、見ごたえがあったとは思う。

<5> ショスタコーヴィチ 「ベルリン陥落」組曲より7章 (1950)

 さてお待ちかね。まずは、やはり一柳氏のパンレット解説からの引用から。

 「ベルリン陥落」は第二次世界大戦末期の独ソ戦をテーマとした作品で、スターリン個人崇拝の典型として有名である。そっくりさんの俳優陣も滑稽だが、ロシア語を喋るヒトラーや、どこまでも横暴で間抜けなドイツ軍、そして全てを完璧にこなす軍事的天才スターリンの描かれ方は、現代では直視に耐えない。特に、終幕でタラップから降り立ったスターリンを東欧各国の兵士たちが熱狂して迎える場面は、その後の世界史を知る我々には茶番である。しかし、スターリニズム真っ只中の当時は国内で絶賛され、音楽を担当したショスタコーヴィチも1948年に受けた当局からの批判をかわし、見事に名誉回復したのである。
 映画の本編は2部に分かれる大作で3時間を要する。49年、「森の歌」を書き上げたショスタコーヴィチは、続いてこの映画のために18曲を書き、52年には、前述のアトヴミャーンが合唱と管弦楽のための組曲を作った。したがって、「ミチューリン」と同様、「森の歌」と共通する楽想が全編に現れる。

 よくぞ、ここまで書いてくれました。といった感じです。滑稽、茶番、直視に耐えない・・・やはり、この映画は真に受けられちゃ困るような代物だ。時代遅れのソ連共産主義、スターリン独裁の賛同者の集いではないのだ。あくまで、作曲家ショスタコーヴィチの映画音楽作曲家としての知られざる一面を垣間見よう、という企画なのだし。ちなみに宣伝用ビラにも

 「第2次世界大戦におけるロシアのドイツに対する勝利が、スターリンの勇敢さ、大胆さ、天才的発想によってもたらされた、という考えを国民に広めようというねらいの個人崇拝的映画。ショスタコーヴィチの音楽は2人(サブストーリーとしての男女の恋愛が念頭にあると思われる。Ms注)とスターリンの出会いから、独露攻防戦、ヒトラーの死、ベルリン陥落まで全編に渡って使用されている。ただし、作曲家として楽しい仕事ではなかった。

 とあり、ショスタコが体制側にあった御用作曲家ではない、という確認は予めされていたようだ。

 それでは各章ごとにコメントを。進め方は、前述の「ミチューリン」と同様。

(1)第1章「前奏曲」(組曲第1曲)

 これは、帰宅後知ったのだけれど、この前奏曲は、映画の終幕の素材を基に組曲用に書かれたものらしい。つまり、この音楽は、映画においては導入部で使われた、というわけではないようだ。どおりで、映像と音楽がちぐはぐなはずだ。
 金管による単純な旋律によるファンファーレ、そして全合奏と合唱による壮大な歌。単純さゆえに、ぐっと心をつかむものではある。すぐ口づさめてしまう。結構、ヤミツキになってしまう。ただ、よくよく思い返してみると、この合唱部分も、「森の歌」第2曲の女声合唱主題を3拍子から4拍子に変えて多少手を加えただけのこと・・・これは帰宅後、CDを再度確認して気が付いた・・・この流用、ちょっとわかりづらいが、してやられた。また、ショスタコ、いきなりサボっている。同じ素材の横流し。
 映像は、戦争開始の頃の様子。今回は「ミチューリン」と違ってすべてセリフが字幕に出るので安心。ヒトラーが、部下達に向かって
 「私は100年、時計の針を進める。共産主義を世界から抹殺する」
などと言っている。幸せな、子供たちの遊ぶ農村に空爆、何の罪もないロシア人民に対して、ドイツ軍が非情にも戦争をしかける、という訳だ。モスクワ、赤の広場では、スターリンが、
 「苦難の中に革命記念日を迎えた」
云々と演説している。そういった、映画の序盤の映像がいろいろつなげられていたが、ちょっと、この「前奏曲」の音楽とは異質な感じもした。まぁ、仕方ないか。私の、本番で感じた、ちぐはぐ感、当たっていた事は、帰宅後、井上頼豊の「ショスタコーヴィッチ」という書物で確認した。

 ちなみに、1957年に書かれたこの著作、その時代背景もあって、「ベルリン陥落」の音楽に対して大層好意的に書かれており、4頁も割いている・・・・現代のショスタコ本では考えられない・・・それゆえ貴重な文献だ。このコンサートの感想の後、この著作を読んでのさらなる考察も続けたい、と考えている。

(2)第2章「川のほとり」(組曲第2曲)

 これは、スターリンとは無関係。ほっと安心する。サブ・ストーリーの主人公アリョーシャとナターシャの幸福な恋の情景を「森の歌」に酷似した主旋律が歌う。
 
旋律は「森の歌」の第1曲及び第6曲のニュアンスに近い雰囲気。しかし、弦の刻みの上に、ハープとチェレスタが音を一つづつ落としてゆく、大変印象的でかつ美しい音楽。ソラソミ・ソラソミ・・・と続くモチーフは、ショスタコの良く使う音の動き。ソミソラ・ソミソラと逆に並べれば、やはり「森の歌」第4曲の児童合唱を導くトランペットソロになる。
 川のほとりで一人たたずむ、アリョーシャ。恋に悩む姿。ナターシャとの出会い。プーシキンやマヤコフスキーの詩をそらんじ、作者を当てる遊び・・・いかにもロシア的な男女交際の在り方!!緊張してか、ナターシャの家の出口を間違えて進んでしまうアリョーシャが微笑ましい。

(3)第3章「攻撃」(組曲第3曲)

 一転して、戦争映画的なムードへ。戦車、戦闘機の隊列。勇敢なるロシア軍の進軍か。
 音楽は、焦燥感溢れる序奏から、爽快な金管の吹奏へ。この部分、オーケストレーションとしては、「スターウォーズ」のメインテーマの冒頭主題をふと思わせる。J.ウィリアムスが知ってたかどうかは知らないが。また、スキップリズムで3度上昇する旋律線は、「レーダース・マーチ」?
 最後は、ティンパニのドソドソという常套句。その上に乗っかる金管も、「森の歌」の最後を思わせる動き。

(4)第4章「ゼーロフ高地の嵐」(組曲第5曲)

 スペクタクルとしてとても面白い。この部分は戦争映画のドンパチがひたすら続く。ショスタコの音楽も、ひたすらうるさい。オーケストレーションは、何となく、後の11,12番の交響曲の騒々しい部分と似ていなくもない。しかし、ここでのショスタコの音楽は、どうしようもないほどに調性音楽的で、とてもわかりやすい。
 短調の前半は、重々しく、その主題の展開の後、ティンパニと小太鼓によるリズムに乗って、悲愴な行進曲が始まる。
 戦車の隊列、集中砲火。ほふく前進するロシア兵士達。「ゼーロフ高地に気をつけろ」と絶叫し倒れる、兵士。
 「もうこれ以上は進めないぞ」「いや、何としても超えてやる」といったやりとり。この中に、アリョーシャもいたのかな?手榴弾を投げて敵陣にダメージを与え、戦車の突入、戦車から飛び出たロシア兵士の勇敢な白兵戦、手に汗握る展開。
 音楽も、一瞬英雄的な色調を帯びつつも、一進一退、途中、木琴の早業的ソロが効果的だ。その混沌とした展開のクライマックスで突如、ティンパニの乱打、全合奏による和音打撃、打楽器群のショスタコ・リズム(タッタカタッタカ)が残り、金管低音域で明らかに長調である新旋律が登場。
 どうも、戦線膠着から、ロシア軍の優勢が見え始めたようだ。明るい兆しが聞こえ始めたところで、戦線の映像から、後方のロシア軍指揮官のシーンへ。
 「指揮官、情報があります。スターリンが戦線におみえになると」
 「それがどうした」(平然と双眼鏡をのぞきつつ、指揮官は続ける)「今まで、スターリンなしの戦いなどあったか?スターリンは常に私たちと共にある」・・・・・・・絶句。笑っちまった、本気で。
 優勢に転じたところで、音楽は、「前奏曲」で流れた、「森の歌」第2曲風な旋律の(「終曲」で延々繰り返されることとなる)歌の主題が華麗に鳴り響く・・・(映画ではここで始めてこのテーマが登場するはずだ。前掲の井上氏の著作による。しかし、幾分軽率な響きにも聞こえる・・・タンバリンのリズムが空々しく、彼の9番のフィナーレのクライマックスに似ていなくもない・・・このあたりに、ショスタコの、照れ、いや毒が隠れていそうでもある。)
 ゼーロフ高地での戦いは、ロシア軍の勝利となり、捕虜収容所の解放らしき映像も出てくる。しかし、アリョーシャらしき人物は不安そうだ・・・きっとナターシャが見つからないのだろう。
 音楽は、「前奏曲」の歌の主題が次第に壮大な金管群の凱歌として鳴り響くと、一気に「森の歌」終結の大団円そっくりな様相を呈し終わる。
 映像では、「白ロシアなんとか方面第何軍、ウクライナなんとか方面第何軍が合流、ここにベルリン包囲は完成した・・・」とかなんとかロシア語で出てきて幕。
 音楽的には、とても面白かった。これもCDだけでは面白さが感じ取れなかったのだが・・・どうも安っぽ過ぎて。しかし、いかにも、という戦争映画の映像と一緒に流れるとけっこう様になっていてカッコイイ。「スターリン無しの戦いなどあったか?」という名言と共に、私の中に強烈に焼き付けられてしまった。当分、頭の中をよぎりそうだ。

(5)第5章「庭にて」(組曲第4曲)

 映像なし。音楽のみお楽しみ下さい、と。音楽としては、合唱も入り、雰囲気、旋律、オーケストレーション、どれを取っても、「森の歌」第6曲の焼き直し。私が思うに、後半はほとんど金管が鳴りっぱなしなので、休憩の意味でこの静かな曲をこの部分で今回挿入したのでは?
 ちなみに、今回割愛された第6曲「破壊された部落で」も、比較的編成の大きな曲である事から、奏者、聴衆とも一息入れるための措置と感じた。

(6)第6章「地下室」(組曲第7曲)

 ベルリン包囲がなり、完全に追い詰められたヒトラー。焦燥感、そして疲労感が全面に押し出されている。防空壕でのシーンが演奏に先だって流れる。200m先の地下鉄にロシア軍が侵入してきた、との知らせを受けたヒトラー。「川の水を流して全て沈めてしまえ!」と。すると、傍らの愛人が絶叫する。「空爆から避難した市民がいます。負傷者、そして子供たち、私の親族も・・・」「市民の事など知った事か!川の水で全てを沈めろ!」泣き崩れる愛人。最後の場面に至っても、独裁者ヒトラーの残虐さは強調されている、という訳だ。このシーンは衝撃的だった。
 ヒトラーのセリフとともに、ショスタコの交響曲第5番フィナーレの開始と全く同じ、レの音のトリル音が聞こえ、タランテラ風な楽想で、焦燥感を煽る音楽が流れる。
 川の堰を開放するドイツ兵士。地下鉄駅構内に一気に水が流れこむ。逃げ惑う市民。自分は沈もうとも、子供だけを水面の上に掲げ続ける親。しかし、水の勢いは止まらず、すべての避難した市民が水の中に沈む。最後、手だけ残った映像、そして「呪われろヒトラー」とのセリフ。
 続いて、「国会議事堂で戦いが」という報告が防空壕にもたらされるがヒトラーはいない。側近が一言。「静かにしろ。総統は結婚式だ」。ヒトラーは愛人と結婚式を挙げている。
 ここで画像、音楽ともに終わるが、前述の井上氏の著作では、映画においては続いて、メンデルスゾーンの結婚行進曲が流れるらしい。

(7)第7章「終曲」(組曲第8曲)

 「前奏曲」そして「ゼーロフ高地の嵐」最後でも現れた、スターリン賛歌らしき歌が何度も繰り返される。そして、最後は、またもや、「森の歌」の終結そっくりである。今回は合唱も入るため、「ゼーロフ」の場面より、さらに「森の歌」と瓜2つに聞こえる。
 映像としては、国会議事堂に赤旗をはためかせ、ベルリン陥落をロシア兵士たちが喜ぶ。そして、飛行機に乗って、スターリンがベルリンに降り立つ。その群衆の中で、アリョーシャとナターシャが劇的な再会を果たす。そこからは、もう皆さん、ご存知でしょう。2人の再会を笑顔で見守るスターリン。そこへナターシャは歩み寄り強烈な一言、
 「キスさせてください」「私達のためにあなたがしてくれたことの感謝の気持ちを込めて」
 という世にも信じられないシーンと相成るのだ。続いて、スターリン万歳の連呼となる。しかし、その中のセリフに、
 「ギリシャの独立をありがとう」とか
 「チェコの救世主」
などというものがあってドキリとする。当事者は怒るだろう。
 そして、最後にスターリンの言葉、「輝かしい将来のために、平和を守りぬこう」、そしてスターリンのアップで幕。

 さすがに、聴衆もすぐに拍手できなかった・・・・。私も躊躇した。ショスタコの音楽だけに限って言えば、単純ながらも実に効果的、映画音楽としては素晴らしい出来だ、と感じた。というか、「森の歌」の流用が目立ち過ぎ、理性的にはこの音楽の弱点を論じる事は出来るのだろうが、いざ映像と共に聴いてみると、これがまた的確なのだ。肝心の映画本体が壮絶な内容ではあるけれど。あなどれない作品だとは思う。「ミチューリン」のような涙はないが、面白さ、画面に引き込ませる力、はあった作品だ・・・呆れて笑える、というのもエンターテーメントとして悪くはない。

 最後に、一柳さんの解説の締めの言葉を。

 この組曲を聴くだけでも、「ベルリン陥落」と「森の歌」の相関性は明白だ。しかし当時既に「反形式主義的ラヨーク」を書き始めて密かに体制風刺していたことを考えると、どちらの作品も単なるスターリン賛歌とは考え難い。また、所々で当時流行した軍歌やグリンカの「皇帝に捧げし命」の終幕合唱がBGMとして挿入されている点も興味深い。歴史映画としてはもはや資料的価値しか認められないが、音楽作品としてはまだ追求する余地がありそうである。

 是非とも、追求して欲しいですし、私も追及したい。そのためには何としても、映画全編を見たいものだ。
 しかし、これだけの体験をさせてくれた企画の方々には感謝。これだけの内容を、音として私に届けてくれた新日フィル、東京オラトリオ研究会、そして竹本氏に感謝である。

 帰宅後、参考文献など読みつつ、CDも再度聴きなおした上での私の感想も引き続き書いてみようと思います。

(2001.1.14 Ms)

 <5の補足> 「ベルリン陥落」におけるショスタコーヴィチの反抗 
        〜映画音楽に聞くスターリン個人崇拝の拒否〜

 1/12のコンサートですっかり、「ベルリン陥落」に心奪われてしまった私。帰宅後も何度かCDを聴き、また、前掲の井上著作「ショスタコーヴィッチ」の該当箇所を読みあさるうち、何となく見えてくるものがあった。それが標題の通り、この、どう見ても体制讃美の映画作品におけるショスタコーヴィチの音楽の中に、やはり素直には体制讃美に従っていないという作曲姿勢なるものがあるのかもしれない、という点である。
 以下の記述の信憑性はほとんどないだろうが、妙に盛り上がったままの私のこの気持ちをインターネット上に爆発させてみようと思ったのだ。
 くれぐれも鵜呑みにしないで下さい(誰も信じやしないって)。私の手元には、「ベルリン陥落」の組曲CD1枚。抜粋で2曲入っている別の演奏CD1枚。そして井上著作と数冊のショスタコ本しかない。映画全編も見ていない。スコアもない。そんな状態では、以下の記述は1回のみ生で見聞きした1/12の経験から沸き起こった、曲解ですらない妄想だろう。くれぐれもご用心。
 本来はしかるべき資料をもっと集めてから、とも思ったが、そんなこと言ったらいつになることやら。今、このホットな状態でとにかくがむしゃらに書かせていただく。
 なお、井上著作からの引用は、ここから斜体をもって表示する。

(1) 発展途上な「ベルリン陥落」の音楽?

 井上著作における「ベルリン陥落」の音楽に対する位置付けは、どうも現代のものとはかなり相違している。4ページあまりにわたっての記述の主な内容としては、「真実性に裏付けられた健康的な楽天主義」「ロシアの民俗的色彩」をこの音楽の性格として挙げており、1948年のジダーノフ批判後、「ミチューリン」でその批判を受け入れ彼の作風は変化し、続く「ベルリン陥落」そして「エルベの邂逅」と発展を続け、そして、その成果が大傑作「森の歌」として完成される、というものだ。

 この順番、過程が問題。前記の一柳氏の解説では、「森の歌」の後に「ベルリン陥落」が作曲されている、とある。現実に、今ふられている作品番号でいけば、「ミチューリン」作品78、「エルベの邂逅」作品80、「森の歌」作品81、「ベルリン陥落」作品82となる。これらは1948年の批判以降、続けて1949年までの間に順次完成されて行ったはずで、当然並行した期間もあったかもしれない。順番が作品番号通りとは必ずしも言えないのかもしれないが、井上著作については、その時代背景もあって、情報が充分でなかった、という欠点は他の部分でもあり、必ずしもその順番とは信じられないような気がする(具体的には、例えば、交響曲第10番の「血縁であり発展であるバイオリン協奏曲・・・といった記載がある。初演順に並べてしまっている。また、巻末の作品目録兼年表も、これら三つの映画音楽には作品番号が不明となっており、すべて1948年作となっている。)
 
 井上著作では、「森の歌」については1章を割き、とにかく誉めちぎっている。「森の歌」に先行すると言う三つの映画音楽の成果の上に「森の歌」はあり、特に素材の共有が目立つ「ベルリン陥落」との間の関係としては次のように語られている。

 「大切なのは「ベルリン陥落」のモティーフや楽句が「森の歌」ではその音楽的な完璧性においても、内的なエネルギーにおいても、はるかに高度な完成をみせていることである」
 
 それでは、現在のように、「森の歌」の次に「ベルリン陥落」が作曲されたとする順番をとるとどうなるのか? 井上著作の記述からすれば、「ベルリン陥落」は、完成された「森の歌」に比べれば、素材は共有しているものの劣った作品、という評価になってしまうではないか?
 そこで、井上著作で掲げている「ベルリン陥落」の発展途上な点、すなわち弱点は、ショスタコーヴィチの怠惰によるものと想像したらどうだろう。
 彼は、純粋な演奏会用作品としての「森の歌」はそれなりの精力を注いで曲を完成させたが、続く作品、それも映画音楽である「ベルリン陥落」では、「森の歌」ほどにはやる気を見せず、適当に作った、と考える事もできるのではないか?
 井上著作での「ベルリン陥落」の欠点としては、

 「終曲の大合唱も旋律的発展からみれば、むしろ未来の独創的な創造のための基礎と考えられる。観衆は終曲の直前に引用的に用いられたメンデルスゾーンの結婚行進曲の凄惨な効果や、雄大なロシア民謡の素晴らしさのほうに、時としてよりひかれるのである。全曲の中心となるべき歌曲が作られなかったのも明らかにプラスとは言えない。」

 ということであり、終曲の弱さ、という点では、交響曲第7番への批判を思い出させる。また、全曲の中心となる歌曲がない、という点では、「エルベの邂逅」では作られた主題歌を、「ベルリン陥落」では放棄した、という結論が浮かび上がる。また、主題歌ではないにせよ、「森の歌」では統一主題が設定されているが、「ベルリン陥落」では、統一主題がない、という指摘も出来る。
 この辺りの、弱点が、ショスタコにとっては確信犯であったような気がしてしまうのだ。

 以上、この2つの弱点、及び、「森の歌」との素材の共有、といった側面をさらに細かく追及してみたい。

(2) 自作からの流用、という問題

 「森の歌」と「ベルリン陥落」との素材の共有についてだが、詳細は、上記<5>のコンサートの記録のとおり、さまざまな場面で指摘できる。ショスタコの場合、自作からの引用、というテクニックがいろいろな作品で問題になっているが、この場合は、意味ある引用、としてとらえるべきか。それとも、ただの怠惰で使い回ししているだけなのか。確実な判断は、ショスタコ本人に聞かなきゃわからないところではあるが、今回の例は、他に同様な例がないほどに似すぎているように思えて仕方ない。
 それも、ほとんど同時期の作品で、両者ともに、体制讃美、もっと進んでスターリン個人崇拝、というテーマがもろである。一方は歌詞。他方は映像。今、我々が描くところのショスタコ像からすれば、こんな作品を続けざまに手掛ける事に辟易したに相違ない・・・と考えられる。ということで、音楽に詳しくない人々には手抜きがわからないような程度において(表面上はわかりやすい音楽が派手には鳴り響いている。)、彼は精一杯手を抜いて、素材を流用させて両者を作曲した、と想像できる。

 初期のバレエ、劇音楽等でも、自作からの流用はそこそこ見受けられるが、そんな作品とは状況が違う、国家事業、国威発揚の音楽でここまでやっているのだから、彼の反抗ぶりがなんとなく見えてくるような気がするのだ。
 彼もやる気にさえなれば、交響曲第11番とピアノ協奏曲第2番、さらに、弦楽四重奏曲第9、10番、といった大作を同時並行で仕上げてしまい、それらにおいてはこれほどに露骨な流用はしていない。逆に全く違う性格の作品として完成度の高いものを仕上げている。これらの例と比較すれば、彼のやる気のなさは格段に光って(?)いるように思われる。

 余談だが、「森の歌」冒頭の主題が、1951年の「24の前奏曲とフーガ」作品87のフーガ第1番として使われている例がある。これについては、流用ならぬ引用としてとらえられるような気がする。1948年から体制讃美的作品オンパレードの中で、その系列にない「ユダヤの民族詩」作品83、弦楽四重奏曲第4番作品87、そして作品番号無しの「ラヨーク」といった、体制讃美の色彩のない作品の初演を見送っている。そんな時期、バッハ没後200年に触発されての純粋器楽作品たる「前奏曲とフーガ」を是非世に問いたい、と思ったとき、体制側に受け入れられた成功作の主題を借りて、第1フーガに掲げる事で、この体制讃美の色彩のない作品も、発表を容易にしようとの魂胆での配慮、と考えられはしないか。
 ただ、同じテーマを使って、スターリンと対峙したときにそれは「森の歌」になり、バッハと対峙した時に「第1フーガ」となる、その違いがあまりにも際立ってはいないか? なお、「前奏曲とフーガ」は、その大作の後半、変ニ長調のフーガはほとんど無調だったりして当時の情勢としては結構危ない内容も含んでいたりするのだが、第1フーガが冒頭で優等生的作品「森の歌」をひっさげてくることで、作品の全体のイメージ形成のためのカモフラージュの役割を担っているようでもある。以上蛇足。

(2001.1.16 Ms)

(3) 「ボルガの舟曳歌」引用

 さて、多少脱線するのだが、素材の流用の他に、ショスタコが「ベルリン陥落」で、表面的には気付かれない罠をしかけているとするなら、「ボルガの船曳歌」の引用、という興味深い点も指摘せざるを得ない。
 これは、私も演奏会では気がつかず、帰宅後、井上著作を読み返して気がついた点であるが、まずはその部分を読んで見よう。

 映画第2部の音楽は、ロシア的な民族的要素が終始聞き取られる。ゼーロフ高地の戦闘の場面の音楽は、映画の中でも、後に述べる組曲の中でももっとも長い。最初の6小節は、第2部の音楽全体の性格を規定する民族的主題を含んでいる。この主題は「ヴォルガの船曳歌」のモティーフによる、英雄的性格のものであり、ベルリン攻撃戦のカットのあいだ大きくパラフレーズされて、勝利と平和を伝える長調の新しい旋律を導き出す。壮大なコーダでは、「呼応計画の歌」の一部も利用されて、本意ではない戦争を強制されたソヴェト兵士達が、世界の運命をかけた戦いにすすむ複雑な感情を表現するのに力をそえている。

 「ボルガの船曳歌」・・・エイコーラー、と歌い出すところしか私は知らないのだが、手元にある、グラズノフの交響詩「ステンカ・ラージン」の主題が、まさにこの民謡だとのこと。その旋律線を思い出せば、D−H−E−Hという冒頭主題が出てくるのだが、対する、ショスタコの「ゼーロフ高地」は、F−G−As−F−B−Fという音の動き。この6つの音の最後4つが、そっくりエイコーラー、DHEHと重なり合う。
 そこで、なぜ、この「船曳」なのだろう?井上著作では、「ロシアの民族的色彩」をこの作品の特徴として持ち上げているが、その「ロシア色」にわざわざ、強制労働を思わせる民謡を持って来たのはなぜだろう?
 グラズノフが、農奴の反乱の首謀者ステンカラージンを描くにあたって、この民謡を使ったのも、その、強制労働の象徴としの性格ゆえではなかろうか?とすれば、ゼーロフに赴いたこの英雄的な戦いの従事者たちも、過酷な労働に苦しめられている、という意味が浮かび上がらないだろうか?確かに、ファシズムとの正義をかけた戦いではありながらも、戦争は本意ではないという意味において強制労働に違いないのだが、こんな戦争を引き起こした当事者、ヒトラーのみならず、スターリンをも、強制労働に駆り立てる圧政者、独裁者、という意味合いが、この「船曳歌」に込められていると考えるのは、考え過ぎだろうか?

 なお、井上著作に寄れば、この「船曳歌」は、さらに、「森の歌」にも、発展した形で登場するようであり、第2楽章「祖国を緑化しよう」においては、

 最初の18小節にわたる弦の躍動的な舞曲の動きは、「ベルリン陥落」の「ヴォルガの船曳歌の主題」と関連している。

 とのことであり、これまた、「森の歌」に出てくる指導者の主導する国民的な緑化運動も、「強制労働」を匂わせるわけだ。ちなみに、この動きは、Fis−A−Gis−Fis−H−Fis、「ゼーロフ高地」冒頭の6音の動きを若干順番を変えただけである。そして、やはり、特徴的な4度の下降が最後の2音に現われるのは、これら3つの旋律すべてに特徴的である。確かにロシア風な旋律線ではあるが、その民謡の意味するところは、ロシアの伝統的音楽、という側面を超えて、ロシアの伝統的な政治形態、独裁者と労働者との対峙を思わせるのだ。

 余談ながら、このエイコーラーの旋律を多少、音程関係を崩したのが、C−A−Des−A、という音の動き、ショスタコの交響曲第11番「1905年」、特に第2楽章で大発展する虐殺シーンの主題、と関係付ける事は、果たして可能だろうか????グラズノフの「ステンカラージン」の冒頭でティンパニが、DHEH、と連打するたび、私は、「1905年」を思い出さずにはいられない。これまた蛇足。

 流用、引用の話の後、続いて、先にも触れた「ベルリン陥落」の弱点、主題歌、統一主題について考えてみよう。

(2001.1.18 Ms)

(4) 「スターリンを神格化する曲を私は書けなかった」

 ・・・と、「ショスタコーヴィチの証言」で、彼は、交響曲第9番を書く背景として語っていることになっている。そして、スターリン不在の、戦勝賛歌(?)たる第9が生まれる。その第9では、スターリン神格化は回避されたのだが、結局のところ、ジダーノフ批判を受け、その後に彼に負わされた仕事が、このスターリン個人崇拝映画の音楽の作曲であったのだ。とうとう彼も逃げられなくなった。現に映像では、英雄スターリンがソビエトの将来のために着々と仕事をこなし、ファシストを倒し人類の未来に希望をもたらす・・・・ショスタコはとうとうスターリン神格化の音楽を書かざるを得なくなってしまった。

 しかし、彼は精一杯、その仕事から逃げたのではないか?その逃げ方こそ、主題歌、統一主題の欠如、という音楽的な配慮ではなかろうか?
 映画「エルベの邂逅」(未聴ですが)、そしてオラトリオ「森の歌」。それぞれ主題歌、統一主題の存在が作品を大きく特徴づけ成功に導いているはずだ。彼は、あえて、その手法を「ベルリン陥落」には持ち込まなかったのではないか。
 この映画で、主題歌を作るのなら、当然、「スターリン万歳」と連呼するような歌にしかなりようがない。まさか、サブストーリーとなっている、アリョーシャとナターシャの愛の歌を主題歌にはできないだろう。映像に反して、音楽がそんな主張をしようものなら、「スターリンはひどく腹をたてた。(中略)自分に対するわずかばかりの言及さえなかった」(証言より)という、第9の二の舞になっただろう。
 また、統一主題を設定しようにも、当然それは「スターリンのテーマ」になるだろう。スターリンが登場するたび、英雄的な音楽が登場するわけだ。ワーグナーの楽劇のような手法。
 そのどちらも回避し、スターリン神格化のもろな表現に手を染めなかった、と言えるかもしれない。

 組曲を聴くと、いかにも第1曲「前奏曲」の主題が、第5曲「ゼーロフ高地の嵐」の後半で再現、さらに第8曲「終曲」でさらに発展する、という図式になるのだが、映画音楽においては、井上氏の判断によれば、そこまで明快な図式ではないと想像される(なにしろ映画そのモノを見ていないので断定はできませんが)。この組曲の措置が、編曲者であるアトブミャーン個人の判断か、それともショスタコの意向によるものかはわからない。しかし、映像を見ながらの映画音楽ではなく、コンサート用の組曲においては、一見、主題歌的、あるいは統一主題的な配慮がされているのも、スターリンへの気兼ねあってのことだろうか。しかし、ショスタコは、映画音楽の作曲、という場面においては、スターリン神格化に関して手を抜いていたと私は考えてしまうのだ。その気になれば、もっとやれたはずなのに、である。

 さて、あえて、この映画音楽の主題歌、統一主題的な存在を探すのなら、映画の最後で延々流れるはずの、組曲での終曲の大合唱、であろう。しかし、そのスターリン崇拝の最大のクライマックスで、井上氏が、効果的でない、と判断させているのはどんな理由があってのことだろう。
 私が思うに、この旋律がそっくり、同じような大編成のアレンジで、既にゼーロフ高地での勝利で聞かされているからではないかと感じる。手に汗握る興奮の戦闘シーン、組曲ではおよそ8分にわたる長めな音楽の結論として、あの賛歌が流れるのだ。戦闘シーンの勝利で壮大に鳴り響いた上で、また、同じ旋律が合唱付きとは言え同じように、再登場、さらに何回も繰り返されるのは、確かに効果が薄いかもしれない。戦闘シーンの勝利のさらに上をゆくハイテンションさがあまり感じられないのが、終曲の弱さ、と言えるだろう。よくよく聴き比べてみると、「ゼーロフ」の方が、曲の終結の仕方が複雑なオーケストレーションでもある。「終曲」は合唱が加わってはいるが、より簡単そうに聞こえてしまう。
 この終曲の弱さもまた、狙いどおり、なのだろうか?
 その点、「森の歌」では、同じ主題を使いつつ、第1曲とフィナーレ後半の勢い、複雑さの差は歴然である。

 また私が気になるのは、組曲の「ゼーロフ高地の嵐」では、戦況がソビエト優位に傾いて、なおも様々な主題が入り混じって展開するが、そのなかに、賛歌の断片もたびたび聞こえつつ、その混乱が上昇音階で遮られて、やっと賛歌の旋律の全貌が明らかになった時の最初の部分のオーケストレーションが、前にも述べたとおり、交響曲第9番フィナーレの第1主題再現に似て、タンバリン主導の軽いリズム伴奏に彩られている点である。
 映画全編において、この賛歌の主題がどのように扱われているかは未知だが、この曲を聴く限り、勝利を確信する重大な局面のわりには、この旋律が英雄的でなく道化的にすら聞こえてしまうのは私だろうか?この戦闘シーンの結論としてはやや、違和感を感じてしまう。しかし、その道化も次の瞬間には、堂々たる賛歌に様変わりしているのだが・・・・。この一瞬の第9との類似、に、ショスタコの、スターリン崇拝への拒否、といおうか、チャチャいれているユーモアさえ感じる私である。一度、よぉく耳をすませていただきたいところ。映画音楽が、映像と対立しているようにすら想像してしまうのですが、いかがなものでしょうか?

 
 ここで、おことわりです。手元にあるCDを聴き比べますと、Serebrier指揮、Belgian Radio Symphony Orchestraの演奏は、「ゼーロフ」が約5分。Jurowski指揮、Rundfunk−Sinfonie−Orchestra Berlinの演奏は、同じ部分が、約8分。前者はカットがあるようです。ちなみに、新日フィルの演奏は後者と同じ楽譜だったと思います。カットなし。
 それ以上の違いとして、例の、第9的なタンバリンが、なんと後者においてはトライアングルで演奏されています。前者、及び、新日フィルはタンバリン、きっとタンバリンが正しいと思うのですが・・・・(2対1という多数決、という薄弱な理由・・・・)。この後者のトライアングル版と聞き比べると、この部分のタンバリンによる道化振りは際だってきます。トライアングルだと、普通の勝利の音楽、タンバリンだと、道化な勝利の音楽・・・・ほんと、打楽器は面白いものです・・・我田引水。

 さらに、おことわり。このタンバリンかトライアングルか?という問題もそうですが、以上の私見は、アトブミャーン編による組曲を聴いての感想に過ぎません。アトブミャーンがショスタコの元の映画音楽スコアにかなり手を入れているのだとすれば、前提から崩れてしまいます。やはり、映画そのものを見、また、映画音楽と組曲と両方のスコアの比較検討が必要ですね・・・・。

 ちなみに、ソ連製ショスタコ全集第41,42巻を見て気づいた点ですが、「ゾーヤ」「馬あぶ」といった映画音楽はショスタコ自身のスコアがかなり載っていて、アトブミャーン編の組曲は、CDを聴いてみれば、単なる抜粋を超えて、オーケストレーションの改変、旋律の改変など、かなり自由に姿を変えている場面が多々ありました。一方、「ミチューリン」は、2曲のみスコアが載っていましたが、アトブミャーン編の組曲CDを聴くとほとんどそのままのようです。果たして、「ベルリン陥落」においてアトブミャーンがどれほどの手を加えているか、が大問題です。それを確かめなきゃ、やはり何も語れないよなァ・・・・。

 1/12の大興奮から、奮起して思い立って書き続けて来ましたが、なにしろ資料が不足。最後は竜頭蛇尾、に終わってしまったようです。私の力不足、ここまで読み進まれた方々、大変申し訳ありませんでした。
 しかし、今回のことで、ショスタコのさまざまな映画音楽のスコアに出会う事となりました。今後、これらの資料を元に、まだまだ数少ないCDを聴きつつ、思うところあれば、書き連ねていきたい、とは思っています。

次は、映画音楽「ハムレット」と弦楽四重奏曲第9番について書かなければ・・・久々にショスタコBeachに出かけましょうか(2001.1.24 Ms)

1/1(月)〜4(木) 新春クラシック番組福袋

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