今月のトピックス
July ’00
7/30(日) 名古屋シンフォニア管弦楽団 第37回定期演奏会
7/27(木) レイヴンス・ピアノ五重奏団 第1回演奏会
ショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲を聞くべく、平日でありながらも、名古屋は天白区、原の天白文化小劇場まで遠征。素晴らしかった!!
まったくもって、団体、メンバーのことが全くわからないままに行ったのだが、安心して鑑賞できるレベルにあった。県立芸大の卒業生で結成された団体で全員女性、小牧市交響楽団の団員を兼ねるメンバーも。当団についての詳細は知らないが、確か、プロオケとして最近できたのではなかったか?
全体的な印象としては、ピアノと第1バイオリンの華やかさが終始、音楽をひっぱっていっており、特にバイオリンの高い音に伸びがあるのが心に残った。その分、ガツガツとしたロシア風な荒さ、もしくは深さ、は物足りない感じもした。ビオラは若干音程に微妙なズレを感じるところがままあり、また、チェロは全体を支えるには線が細過ぎるようにも感じられた。
しかし、曲に即して言うなら、ショスタコーヴィチ作品については、第2、第4の緩徐楽章そしてフィナーレに女性らしい感性の細やかさが前面にだされた流麗な流れが感じられて、普段のショスタコらしからぬ(血や汗のない)、新古典的な味わいを十分堪能させてくれたのが嬉しかった。
ただスケルツォは、是非ともボロディンカルテットを目指して、もっとガツガツ、じゃかじゃかやってもらいたいのだが、これは今後に期待しよう。また蛇足ながら、最後にRIT.するのはあまり相応しくないような。一気呵成に行って欲しかった。ロマン派的な発想のようでタコらしからぬ。
実は、ショスタコーヴィチに先駆けて演奏されたのがフランクのピアノ五重奏。まったく未知の作品であったが、官能的な旋律あり、主題循環ありと晩年のフランクらしい(とは言え「交響曲」しか私は知らないのだが)ものであった。情熱、そして激しさにも満ちたものではあったが私の趣味とはあまり近くないのでコメントは差し控え。あまり印象に残っていないこともある。
ただ、事前にいろいろ情報は仕入れて行った。グラモフォンジャパンでも特集記事があったのだが、フランクの不倫相手への激情を音楽化したとかで、彼の音楽家仲間たちもこの作品には高い評価を与えていない。初演のピアノパートを担当し、曲を献呈されたサン・サーンスは「やたら難しい」とイヤイヤ初演を演奏し、フランクの献呈の書面も舞台に置いたままにしたとか。リストも「室内楽にこのような感情を持ちこむべきではない」と批判したとか(自分が書けなかった曲をよりによってフランクに書かれてしまったという口惜しさのような気もするのだが)。興味を持たれた方は一度聞いて損はないとは思います。
さて、彼女達のショスタコは2000年9月27日、名古屋市伏見の電気文化会館での、「第21回アルマ・21世紀へのコンサート」でも聴く事が出来るようです。今後も是非とも頑張っていただきたいです。
せっかくデビューにショスタコを選んでいただいたのですから、彼のその他の室内楽なども・・・・ソナタやトリオなど・・・・と思いましたが、演奏会の最後のご挨拶にて、今後も様々な五重奏を勉強して行きたいとのこと。ショスタコはこの1曲のみとなりそうです。ああ残念。
今回の演奏会にて、私もピアノ五重奏には興味を持ちました。ピアノは私にとって身近な楽器でもあり、また、弦楽四重奏もオケの基本形なわけですし、最小の編成によるオケ的なサウンド、と言えないこともないわけで、小人数ゆえのスリリングさ、もまた格別です。今後も興味を引く作品を手掛けていただき、また聞きに行きたいものだと感じました。
(2000.9.2Ms)
7/12(水) 読売新聞朝刊「利用された大作曲家 ショスタコービッチ」
読売新聞では昨年、「20世紀、どんな時代だったのか」という企画を連載し、その記事は本にもなり、ご存知の方も多かろう。企画自体は昨年末で終了したようだが、先日、見開き2面にわたって、世界のいくつかの都市からのレポートという形で、記事がいろいろ載っていた。
そのなかに、サンクトペテルブルクから、表記のような記事が・・・・。
ドイツに包囲されたレニングラード。1941年9月。灯火管制下の街で、一心不乱にピアノに向かい作曲する彼を追ったニュースフィルム・・・・これが実は、そっくりさん俳優によるものだという最新の説を紹介している。
当時の、親友の音楽学者グリークマンへあてた手紙にも、英雄的な口調はなく、淡々と身辺雑事を触れるのみ。
イリーナ夫人へのインタビューでも、「夫は、ひたすら自分の中にこもって作曲していた。人と音楽の話をするのが大嫌いで、私ともほとんどしたことがない。」
記事はこう続く。彼は「政治的な言動やヒロイズムとは無縁の音楽家で、幻の「ナチと戦う闘士」とは、対外宣伝用の虚像であったのか?」
こんな記事が音楽雑誌でなく、一般新聞に掲載されているのが嬉しかった。タコ没後25年は多いに盛り上がっている。そして、20世紀を振りかえった時に、ショスタコーヴィチがかなり重要な役回りで存在しているのが、認知されつつあるのもファンとしては心強い。我々の同時代の音楽として、さらに重要度とポピュラリティーが確立しつつある確かな手ごたえを感じる。10年以上前、彼の音楽に心酔し始めた時、「オレはアウトローな道を選んじまったなぁ」などとうすうす感じていたのだが、そんな自虐からも解放されるというわけか・・・。
最後に、2003年、サンクトペテルブルクは、都市建設300年を迎えると言う。この勢いで行けば、2003年は、日本各地でも、交響曲第7番「レニングラード」が演奏されるのではなかろうか?
そこで提案。2003年は、スターリングラード攻防戦との関連もある交響曲第8番の作曲初演から60年の記念年でもある。
思いきって、レニングラードとスターリングラードの両交響曲、一挙上演などというイベントが企画できないものか?
物凄く疲れるだろうけど。演奏者は当然の事、聴衆もだ。(休憩は30分くらいほしいな。。8番が先の方が演奏会は成功するか?)
だが、ブルックナーの7、8の連続演奏よりは断然楽しいと思いませんか?(比較する相手が・・・)
えぇと、マーラーの7,8連続演奏よりは低コストで可能。だが、これも疲れるなァ。
ベートーヴェンじゃあ、ありがちなプログラム。
ドボルザークの7,8なら明暗が対照的で面白そうだが、格調高くない。
シューベルトは混乱してるな。あの辺りのナンバー。下手すると「未完成」を2曲聞かされるかも?「グレート」2回聞くのは、さらに御免被る。
ヴォーン・ウィリアムズはいい感じ。私の持ってるCDのカップリングだ。案外良さそうだな・・・・。でも迫力ではタコの比ではない。
ということで、7、8プロはショスタコの独壇場ということで、切に、この企画を取り上げてくれるオケを募集します。なぁんて。
だぶんネタになってしまった!(2000.7.17 Ms)
7/9(日) NHK芸術劇場「館野泉トリオ」
7/7(金) 日本フィルハーモニー交響楽団第522回定期演奏会
またまたショスタコーヴィチのコンサート。新バビロンの感動、覚めやまぬまま、東京に一泊。広上淳一氏の指揮、ということもあり、また、プログラムが、バイオリン協奏曲第1番と交響曲第10番、という、タコファンにはたまらない、「レミドシ」プロということで、台風第3号が接近しつつある暴風雨の中、サントリーホールへ向かう。
# いうまでもなく、「れみどし」とは、ショスタコのイニシャル、D.Schを音名に置き換えた音列で、彼自身を象徴するかのようなテーマとも言えよう。以上蛇足。
まず、バイオリン協奏曲は、ソロがボリス・ベルキン。旧ソ連の出身とのことで期待も高まる。
感想としては、奇数楽章の緩徐的な部分にやや不満は感じたが、偶数楽章のスケルツォ的な楽想は十分楽しめた。それは、ソロもオケも同様。
まず、ソロとしては、ロシアの系譜に連なる、粘っこい、ショスタコに似合った雰囲気はとても良かったが、歌い方で気になった点がある。奇数楽章それぞれに、後半に緊張の頂点、クライマックスがあるが、その後、残されるソロのパッセージが、どうもふてぶてしく、力強く、違和感を感じる。もっと、弛緩しながら、弱々しくなってもらいたい、と感じた。ちょっと気になった。
伴奏側も、かなり控えめに過ぎたのでは?こじんまりとした印象。特に、第3楽章のパッサカリアは、伴奏が寡黙過ぎ、盛り上がりに欠け、ひたすらソリストのみが目立ちすぎて、テーマが繰り返されるごとに盛り上がる、という緊張感の高まりに欠けており、少々不満。ヴィルトゥオーゾ的なコンチェルトにはしない。オケも、もっと主張しなきゃぁ、といわけで片手落ちな感じ。
それに比べて、スケルツォ楽章は、ソロ、伴奏ともに乗り乗りで、スリリング。ぐいぐいひっぱられた。第2楽章のテンポ感は良い。管楽器の表情もグロテスクで、パンチの効いたアクセントも素晴らしい。トリオも幾分早めで、3/8から2/4に移る部分の強引さが私を燃えさせる。もっとやれ、もっとやれ、と煽るうちに、強烈なタンバリンの連打。音楽の流れがスムーズかつ的確。広上氏の棒の成せる技か。
第4楽章も、既存のCDで聞くテンポより早めで、オケの粗も大いに目立つが(フィナーレ冒頭のティンパニはアンサンブルの体を成してないぞ)、そんな使用末節を気にしないままに突き進むのも爽快。第2主題のシンコペーテッドな部分も前へ前へと進みつつも、たっぷり歌いこんだ感じで、ロシア的な恰幅の良さも堪能。後半の切迫感も素晴らしい。特にコーダのプレスト。これ以上まだ速くするか?と耳を疑った。速いながらもたっぷり弾きこんだ感のある、パッサカリア主題のパロディなど絶品。そして追いこむオケ。ティンパニも冒頭の汚点をカバーすべく、パワー炸裂で終結に追いこむ。速い楽章における、ソロとオケの一体感が何よりも良かった。それだけに、緩徐的な音楽の作り方が惜しく感じられた。
さて、続いてタコ10。バイオリン協奏曲でのアレグロにかなり気を良くして、多いに期待充分で望んだのだが、その個人的な期待が裏目に出た。意外と後半、第2楽章以降が物足りなく感じられた。その代わりに、第1楽章が、素晴らしい出来だ。
全体的には完成度の高い、説得力溢れるものであったが、何か物足りない。それは、きっとハメを外すような大胆な主張、なのだろう。音楽の均衡を破壊しかねないスリリングな感覚。それが私には物足りなく感じた。きっと、他の観客にはそれほど感じられなかったかもしれない。何せ、私のタコ10体験と言えば、ロジェベン、ソビエト文化省のライブ。もう、壮絶な暴力沙汰の如き演奏。さらに、ダスビダーニャのアンコールとしての第2楽章。これまた、壮絶な嵐であった。それらと比較するのでは可愛そうな気もする。しかし、私の体験がそんなのだから仕方ない。日フィルさんもブが悪いわな。
決して、迫力不足な訳は無い。しかし、特に第2楽章(第4楽章の展開部もしかり)、スターリンの肖像、といった凄み、を感じるよりも、とてもカッコイイ、精悍なイメージを持った。血みどろというよりは、筋肉質。ホルストの「惑星」のような、カッコイイで済まされてしまいそうなレベルの迫力。弦の厚み、木管のヒステリックな叫び、金管の咆哮、打楽器の爆発。申し分無いのだが・・・・実は私には無難な感じ・・・しかし、これも、タコファン故の妄想癖かなぁ。スターリンの非人道の音楽化にこだわり過ぎなのか?音楽的には、楽譜の解釈としてはこれで良いのではないか?逆に自分の鑑賞態度の偏向の問題か?
それて゛、第1楽章なのだが。楽譜にあるテンポの微妙な変化も的確に処理。そのテンポの変化が、全体に、緩徐な楽章が散漫にならぬよう引き締めていたのが良い。さらに全体の構成を見とおしたペース配分が安心できる(この辺りはソビエト文化省にはなし。)。クライマックスへの持って行き方が、ホントに苦しさを感じさせ、絶叫に至らざるを得ない、という感情の動きが素晴らしいほどに説得力を持っていた。
ショスタコが言った「人間の感情を描きたかった」というコメント。批判にあった彼が、どうとでも取れるファジイな発言をした。といった程度にしか私はこのコメントを読んでいないのだが、今回の第1楽章を聴くに至り、ショスタコの描きたかった「感情」といったものを真剣に考える必要がありそうだ、と感じた。広上氏と日フィルの安定した演奏は、タコの持つ音楽の訴えかけるものを純粋な形で、聴衆に提供する、といったスタンスのものではなかったか?必要以上な、過度な演出なしにその音楽を聴衆に評価させよう、という姿勢故に、特に、長大な第1楽章において、十二分に音楽自体の持つ力が私の耳に届いたという訳か?
スマートな第2楽章は快演。第3楽章は独特。アレグレット、というよりアレグロ的。とにかく速め。特にレミドシの提示部分は舞踏風。広上氏のステップもワルツ風だ。おどけを強烈に感じさせた作りだった。フィナーレも、あまり劇的な効果を狙わずに、とにかく素直に、ギャロップで駆け抜けたという印象。悪くは無いです。
オケの印象としては、木管のモノローグは相当いい感じ。第1楽章のクラ、そして低音の不気味なフルート。極めつけは、フィナーレの序奏の各木管ソロ。「嘆き」「ため息」がびんびん伝わる。人間の何らかの感情を呼び起こさずにはいられない演奏、によって、ショスタコーヴィチの音楽の人間味溢れる姿がクローズアップされていたのではないか?
どうも、彼の作品中で最も純音楽的な風貌な割りに、「レミドシ」という音素材や、「スターリンの肖像(証言より)」という言葉によって、標題音楽的な捉え方をしたくなるのだが、今回の演奏は、そんな具体性よりは、抽象性を意識させるものであった。しかし、抽象的でありながらも、冷たい単なる音の構造物ではなしに、様々な感情を喚起させる音楽・・・・唐突だが、ブラームスの音楽との親近性、といったものを想像してみたのだが。ドイツ人好みなんだろうか?カラヤン・ベルリンフィルが唯一、10番のみ録音、それも2回も・・・・という逸話も思い出す。
ちょっと話がそれてしまった。その他、低弦のまとまり、が気持ち良かった。この2曲とも、低弦は要所でモノを言うのだが、スケール感、といおうか抑圧的な存在感は足りなかったと思うが、とにかく一つの塊として、まるで一本の線のようにまとまっていたのが好感が持てた。低弦のみならずとも、オーケストラとしての一体感、は常に感じられる。いいオケだ。
最後に、銅鑼が素晴らしかった、と声を大にして言いたい。バイオリン協奏曲の第1楽章の絶妙なバランス、と弱音ながらも深い音、存在感。交響曲での強打もまた、うるさ過ぎず、でもしっかりと自分の主張は存分にしている。第3楽章は、小さ目の銅鑼を用意して特に後半の弱奏で使用。音の立ち上がりを早くしたいということか(2曲それぞれに銅鑼の弱奏のニュアンスは違うんだ!と発見。)。絶妙だ。てっきり、バイオリン協奏曲のアンコールでベルクのコンチェルトをやるんで、銅鑼が2台あるのかと・・・そんな訳ないでしょ!
充分満足のコンサート。ショスタコの生演は、ホントに楽しい。いろいろな発見もその都度あり、やっぱ、やめられまへんなぁ。関西、関東、行ける限り生タコを聞こう。
没後25年、いろんな場所でなんだか多いに盛り上がってるようで、嬉しいな。
帰路は大雨、暴風雨。夜行バスも無事、高速が走れるか不安。しかし、意外や翌日の午前5時の愛知県、風こそ強かったのに、雨の形跡もなし。その頃関東は台風直撃。スターリン独裁の嵐を潜り抜けた爽快感にも似た、安堵の気持ちの中、タコ10のフィナーレを気楽に心の中で口づさみつつ、夜行バスを降り自転車をこぐ私。
(2000.7.12 Ms)
7/6(木) 第16回<東京の夏>音楽祭2000 オープニング
ショスタコーヴィチの映画音楽第1作である「新バビロン」、この完全版スコアを映画とともに生演奏、それも日本初演である。当初、その企画は知りつつも、上京できないわなぁ、と悲観していたが、6/30の朝日新聞、天声人語の欄で紹介の記事を読むや、行きたくてしょうがなくなり、万難を排して上京。
ちなみに、今年の東京の夏音楽祭のテーマは、「映画と音楽−映画は音楽なしでは生きられなかった」であり、興味深い作品、目白押しだが、そのオープニングが記念すべきタコの日本初演が演目である。
さて、映画の大雑把なあらすじ。1870−71年の普仏戦争時のパリが舞台。プロイセンとの戦いに敗れたフランス。プロイセンに降伏したフランス政府軍にかわって、パリの労働者は蜂起し、パリ・コミューンという史上初の労働者による政府を樹立。しかし、フランス政府軍の攻撃にあい、「血の1週間」(1871.5.21−28)と呼ばれる市街戦の後、コミューンは崩壊。
主人公は、パリの大デパート、「新バビロン」に勤める売り子ルイーズ。パリ・コミューンに参加、恋人である兵士ジャンとは敵となる。ルイーズは最後まで勇敢に戦うが、捕虜となり死刑。革命、そして戦争、そんな時代のうねりの中で引き裂かれる男女。なかなかに感動的な映画であった。
映画の制作年は1928−29年。20代前半の新進気鋭の作曲家ショスタコーヴィチに映画音楽担当の白羽の矢が当たる。ロシア革命と同様に、資本家、ブルジョワの支配する政府を打倒して、労働者による政府を作った先人達の偉業を映画化した、という側面は持つが、単なる体制側(ソ連政府)のプロパガンダ映画とは言いきれない。当時まだ、スターリンの独裁は始まっておらず、ネップ(新経済政策)も順調で、革命がまだ民衆にとって理想を持って迎え入れられていた時代、自由な創作が可能であった時代、の作品である。
約90分の無声映画。当時は生のオーケストラが映画館で演奏。全てのシーンに音楽が流れ、それも休みなく連続して演奏されるのには驚いた。ショスタコの作品の中でも演奏時間だけみても、大作の部類に入るだろう。パンフレットに寄れば、「1929年2月1日までにスコアを完成させるという契約を結び、各場面の時間の割り振りを丹念に調べ、全てのシーンを2回見て、2週間でスコアを完成させた」とのこと。この交響的で、作曲技術的にも困難なスコアを2週間で仕上げたのだ。彼の天才ぶりが伺われる。彼の才能に改めて敬意を表した。
彼の初期の作品であり、作品18という番号は、作品11の弦楽八重奏曲から始まり、ピアノ・ソナタ、格言集、交響曲第2番、歌劇「鼻」などの、かなり聞きづらい諸作に続く番号だが、前衛的な書法はそれほど全面には現れず、作品20の交響曲第3番「メーデー」を準備するわかりやすい音楽と感じられる。
また、既存曲の引用の数々も、後の彼の作品を予見させるものだ。自作からは作品7のスケルツォ。オッフェンバックの「天国と地獄」のカンカン。フランス国歌。チャイコフスキーのピアノ曲もドラマティックな効果を持つ。そんな引用が親しみやすい音楽、という印象を持たせるものでもある。
私の感想。正直、感動した。映画自体は長過ぎ、とも感じたが、それ以上に映画としての質の高さ、そして、映像と音楽との関係の素晴らしさに感動。無声映画ということで、セリフは聞こえない。たまに、セリフの書かれた画面が挿入されるのみ。喋りのシーンがあっても、音楽だけが流れているということもある。見る側の想像力に任されている部分が多く、まるで小説の行間を読むような作業を延々するのだが、彼の音楽は、そんな想像力を駆り立てる、映像と見事に合体し、かつ、映像を補完する役割を見事に果たしているものであった。
音楽的には、彼の後の交響曲などを予見させる楽想に満ち、タコファンとしては感涙モノ。通俗的なマーチ、ワルツ、ギャロップ。重厚で悲愴なアダージョ。管楽器のモノローグ。打楽器の効果的な使用などなど。
この映画音楽については、ロジェストベンスキーが組曲を編集しており、私もシャンドスから出ているCD(ポリャンスキー指揮)を入手しているが、改めて聞くと、この組曲に入っていない音楽で、かなり興味深い場面がある。が、詳細は以下、シャンドスのCDを聞きつつ、どんな場面か思い出しつつ、組曲では削除された部分についても触れてゆこう。
(ただ、一番残念なのは、映画の後半の山場、市街戦の戦闘シーンがほとんど組曲にないこと。鬼気迫る戦争の音楽・・・・彼の得意とする性質の音楽。このシーンだけでも見る価値、聞く価値多いにあり。結構長い場面なのに、なぜ削除したのだろう?残念だ。
さらに、映画の最後の部分が削除されていること(映画の冒頭で「8巻より構成される」と字幕が出るが、その最終巻からの音楽が組曲にはないのだ。)。「裁判」と題された場面、コミューンの人々に死刑宣告がなされ、悲痛な音楽が続く。ルイーズは、「コミューンで乱痴気騒ぎをした」と言えば許してやる。と政府側の兵士に言われるが無言のまま、その兵士を殴る。その兵士は「死刑」と画面一杯に叫ぶ。それを見ていた恋人のジャンはどうすることも出来ない。上官に早く墓穴を掘れ、と命令されるだけ。スコップを持つジャンを見つけるや、彼に対しルイーズは大笑いをする。そして、「また、会いましょう」と声をかける。するとコミューンの人々は、「そうだ、また会える」「我々は戻ってくる」と口々に叫ぶ。音楽はにわかに英雄的な調子を帯び、悲惨な銃殺シーン、さらに、銃声に倒れながらも「コミューン万歳」と叫び続けるシーン。そして、「裁判」のシーンの冒頭に映し出された、「コミューン万歳」と街の片隅に刻まれた文字がアップになって映画は終わる。なんだか、この部分は、精神的には、彼の交響曲第5番のフィナーレのコーダへの道程を思わせるもので(音楽的に類似はしてなかったけれど)、その場面には涙しそうになった。ショスタコはそこで、終止感を持つ和音を使わず、5度の和音で音楽を終わらせているようだ。いわば、チャイコの5番のフィナーレのコーダの前で曲が終わる・・・ドラえもん音型の手前、最近、N響定演で拍手が鳴ったところ・・・かのようで、完結感はない。そのため、今回の日本初演でも、これで映画は終わりだろう、と思いつつもなかなか拍手が巻き起こらず、えっ、と思ったのだけど。ただ、コミューンの人々の銃殺で歴史は終わったのではない、彼らの続きを我々ソ連人が継承させて行くのだ、という気概が、解決されない最後の和音から感じられた。その音楽的な配慮にも感動した。)
組曲の詳細についてはすぐ掲載します。つづく(2000.7.8 Ms)
ロジェベン編集の組曲を聞きつつ、映画の場面を思い出してみよう。全て記憶にあるわけではないが、何とかがんばってみよう。時間は、シャンドスのポリャンスキーの演奏による。
オケピットの中も見られる位置であったので編成を確認。木管及びトロンボーンは一本づつ。ホルン、トランペットは各2本。打楽器は多数。ただし3、4人か。フレクサトーンもあり(その他、効果音として、金床やミシンの音とか。CDには無い。映像に合わせて、楽譜には無いのだろうが今回の上映では使用していた)。弦5部、さらに後半の山場で悲しく響くピアノ・ソロあり。
第1曲「戦争」
<0:00〜>衝撃的な冒頭に続き、楽観的なマーチ。
メインタイトル。出演者紹介。時代背景。など矢継ぎ早に字幕が出る。
そして、普仏戦争の戦場に赴く戦士たち。それを歓呼で送り出すパリ市民。「ベルリンを血の海に」という字幕が何度も。
<1:58〜>作品7のスケルツォの引用。ピアノ・ソロは木琴・ソロに置きかえられている。
デパート「新バビロン」店内の活気付いた華やかな雰囲気。アンブレラが多数くるくる回っている店内。着飾ったブルジョワ夫人達が商品を慌しく物色。主人公ルイーズも「安いよ」と連呼して服など売っている。
(映画では、作品7のトリオのファゴットのソロ以降の部分も演奏される。「新バビロン」の社長が、豪勢な食事をし、タバコを吹かす場面。)
<2:38〜>スケルツォの合間に、静かな悲しげな楽想。
記憶はあやふやだが、デパートの華やかな雰囲気と対比される、洗濯女のつかれきった表情。搾取される労働者。
<4:20〜>フレクサトーンの不気味な音。
これも記憶はあやふやだが、働くルイーズに社長からの手紙。「えっ!解雇?」と驚くが、中身は舞踏会への招待状。
<4:58〜>冒頭の回帰。
出征する兵士を歓呼で送り出す市民。
第2曲「パリ」
<0:00〜>華やかなワルツ。
「新バビロン」社長主催の華やかな舞踏会。ルイーズもそこにいる。破廉恥な格好の踊り子も。退廃的なムードがプンプン。資本主義の堕落。
<5:22〜>ギャロップ調の楽想に変化。
記憶はあやふやだが、社長夫人に忍び寄る怪しげな男。詰め寄る社長。しかし、その男の正体は国会議員。政府が「新バビロン」との契約を決めた。と告げる。舞踏会はさらに盛り上がる。
<7:30〜>オッフェンバック「天国と地獄」のカンカン踊りの引用。
歌い、踊り、飲み食い、舞踏会の喧騒はクライマックスへ。享楽的な画像が次々と、目まぐるしく場面を変えてゆく。
<8:03〜>突然、不穏な楽想に。
フランス敗北の知らせ。多数のドイツ騎兵が闇を駆け抜ける画像。舞踏会からみんな逃げ出す。
第3曲「パリ包囲」
<0:00〜>今までの雰囲気から一転、重苦しい楽想が延々と続く。
戦争下の窮乏生活。食べ物もない。労働者街の疲れ切ったムード。
戦争続行のため、募金を募る兵士に僅かなお金を渡す労働者。物乞いに来た兵士にパンを恵み、ボロボロの靴を直してあげる労働者。
<5:00〜>突然の小太鼓のロール、金管の叫び。
労働者がパリの危機に際して立ち上がろうと決意。物乞いの兵士にも決起を促すが、兵士は「もう戦争はこりごりだ。故郷へ帰りたい。」と主張する。この部分は、発想としては、交響曲第3番「メーデー」のクライマックスの演説の描写の先駆的なものと私は感じた。
(映画では、金管の叫びに続いて、弦5部の強烈なスルポンティチェロ奏法によるアクセントの付いた和音が続き、さらに労働者の訴え、心中が音楽によって増幅されており、劇的な効果を上げていた。)
第4曲「オペレッタ」
<0:00〜>とりとめもなく、かったるい楽想。ただし、なぜだかピアノの無味乾燥な練習曲「ハノン」第1番の引用が。ドミファソラソファミ・レファソラシラソファ・・・・と延々と同じ音型を繰り返す。
パリを逃れた「新バビロン」社長とブルジョワたち。戦争中にもかかわらずオペレッタの練習。しかし、にわか仕立てで練習もうまくいかない。ハノンの引用はつまらなさを音楽で演出しているかのよう。
(映画では、組曲以上に、ハノンが大活躍している。ちなみにピアノ協奏曲第2番のフィナーレでも引用されているハノンは、これとは違います。)
<1:40〜>ホルンの6/8拍子のマーチ風な健全そうな動機。ファンファーレ的でもある。
労働者たちの真剣さ、勇ましさ、英雄的な精神を象徴するテーマか?労働者の蜂起かと思われる。
<3:34〜>重々しく悲しげな楽想。
記憶はあやふやだが、この辺りでルイーズとジャンの別れのシーンがあったと思われる。コミューンは政府から独立する。政府軍はパリ郊外ベルサイユへ退却。2人は敵対する陣営へと引き裂かれる。
第5曲「(パリは新しい時代を迎える)」(映画でのこの部分のタイトルをふまえて意訳しました)
<0:00〜>静かな楽想。
パリの遠景。さわやかな新たなる朝、かな。音楽的には全く違うが、あえて言えば、交響曲第12番のフィナーレ「人類の夜明け」のアレグレット主題のような役割、といったところか。
<1:00〜>ギャロップ。
コミューンの指導のもと、忙しく、そして楽しく働く労働者たちの姿。
映画の冒頭で現れていた、デパートの華やかさと対比して辛い労働を強いられていた姿とは、全く違う表情で生き生きと仕事に励んでおり、正直、出来過ぎて笑える。
「夜は働かなくてよい。そう、コミューンが決めた」
「自分の為に働くんだ。そう、コミューンが決めた」
「我々は搾取されない。そう、コミューンが決めた」
といった字幕画面が次々と出ながら、労働にはげむ姿が続く。洗濯女、ミシンに向かう女工。ハンマーを叩く男。
<2:24〜>労働者英雄観に満ちた、例のホルン・ファンファーレが弦で登場。さらに、ホルン、トランペットでも演奏。
労働者の明るい姿。
<4:00〜>フランス国歌の引用。
(映画においては、労働者の勤勉さと対比するように、退廃したブルジョワが描かれ、ブルジョワがパリ奪還を目指すべく、「自由フランスの国歌をみんなで歌いましょう!」と歌い始める。最初は、厳かに、国歌の威厳をもって始まるが、そのうちに楽器数も少なくなり、管楽器によるスケルツァンドな表情が勝ってくる。この組曲においては、最初の厳かな部分は削除され、道化に満ちた部分から演奏されていると思われる。)
<5:15〜>フランス国歌とカンカン踊りの合体。
ここに至って、ブルジョワの退廃ぶりは音楽で強烈に印象付けられる。この発想こそ、ショスタコーヴィチの天才ぶりを発揮しているものだと思う。さらに、引用を効果的に使用し、音楽による揶揄を可能にしているという点で見逃せない。後年のショスタコーヴィチの純音楽における作曲にも十二分に生かされる方法論がここに確立した。
(なお、映画では、フランス国歌のパロディ、享楽的なブルジョワ側のシーンが続く中、突然、大太鼓の強打がそれを中断させ、大砲が丘の上にずらりと並ぶシーンが目に飛び込む。コミューンへの総攻撃の開始だ。
超個人的な感想として、ここで、ふと、私は「ウルトラセブン」の「ノンマルトの使者」を思い出す。正義だと信じていた存在が、実は悪なのかもしれない(ここではウルトラセブンの詳細については触れない。)。フランス国歌を歌いながら民主的なパリ・コミューンを壊滅させる・・・・というシーンが、ウルトラ警備隊による地球の先住民族の海底基地攻撃と見事にだぶってしまい、この部分、ショッキングな強烈な印象を私に与えた。映像と音楽の唐突な切り換えが物凄い効果を発揮していた。)
第6曲「ベルサイユ」
<0:00〜>シンバルのロールが不安感を煽る。
市街戦の予兆か?
(映像と音楽の素晴らしい結合である市街戦のシーンは欠落。小太鼓がリズムを刻みつつ、強弱をうねるようにつけて、銃撃戦の緊迫感を音楽が表現する。上映では、小太鼓のリムショットを要所で、銃撃のシーンに合わせて叩かせていた。)
<1:28〜>フランス国歌を戯画化したワルツ。
パリ郊外の丘の上で、まるでピクニック気分で市街戦を観戦するブルジョワ。かな。
<4:15〜>唯一のピアノの出番。ピアノソロの悲しげな旋律。パンフレットによれば、チャイコフスキーが「子供のアルバム」作品16の第16曲「古いフランスの歌」でも用いた旋律とのこと。チャイコフスキーの「舟歌」もしくは、バイオリン協奏曲の第2楽章を思わせる美しく、はかないメロディー。ひねくれた旋律線に満ちたこの映画音楽の中で、この素直なメロディーの出現は耳をはっとさせる効果がある。
戦闘シーンの只中で、一度、銃撃が全て止む。そして、労働者たちが、市街戦のために家々の机や椅子や馬車などで作ったバリケードのなかに、グランドピアノも置いてあり、コミューンの議長的な老人が、そのピアノを弾くシーンとなる。現実的には全くありえないのだが、とても心に染みるような素晴らしいシーンだ(この部分が、あえてチャイコフスキー、という辺り、若きショスタコも、自分を十分わきまえている、ということか。憎らしい演出だ。その演出に私の感情は、口惜しいが、多いに揺さぶられた。)。
(ピアノの旋律が高音のトリルで停滞したところへ、映画では、銃声が1発なり、ピアノを弾く老人に命中。鍵盤の上に倒れこみ、グシャーンというピアノの不協和音、そして市街戦の再開。ルイーズはデパートの商品の布切れなども持ってきて負傷者の傷口を巻いたりしていたが、次々と男は倒れ、ルイーズも銃を持って応戦。しかし、パリケードは燃え始め、コミューンは敗北。ルイーズも捕らわれの身に。
バリケードには、デパートの巨大なマネキン人形の着飾った姿もあり、映画冒頭の華やかなデパートのシーンでも目立った存在だったが、そのマネキンの炎上とルイーズの応戦ぶりが、映画冒頭のデパートの売り場のシーンとシンメトリーをなしているのが興味深い。)
<5:43〜>突然、大袈裟な大衆的なワルツが鳴り響く。
市街戦がコミューンの敗北となるや、突然ピクニック気分のブルジョワの拍手喝采のシーン。とてつもない違和感を感じる。ブルジョワの笑顔とワルツは対応関係にあろうが、燃え盛るパリの街とこのワルツは不釣合い。そんな私達観客と同じ立場にいたのが、兵士のジャンだろうか。ブルジョワの笑顔に続いて、炎上するバリケードを前に、振りかえるジャンの姿が。鳴り響くワルツ、そして、ブルジョワに向かって、何かを言いたげであった。
映画では、続いて「秩序を取り戻したパリ」が描かれる。
ブルジョワたちの享楽的な生活が再開。そして、コミューンの捕虜たちはほとんど袋叩きだ。「新バビロン」の社長もルイーズたちに怒りをあらわに。自分が何様のつもりだ。私が支配者だ!!とふんぞりかえって威張り散らす。
ジャンはルイーズを探す。捕虜達はどこにいるのか、とブルジョワ達に訪ね歩く。誰もとりあってくれない。飲んだくれた人々は、ジャンを見るや、フランス軍は無敵だ。かつて世界の半分を支配した。などと言うだけ。その内に、物乞いは出て行け、と追い出される。
そして最後のシーン「裁判」となる。(詳細は上記)
さて、組曲の最後の部分の説明がまだだが、イマイチ、不明な部分がある。
<6:56〜>フルートに始まるギャロップ。
市街戦の開始前、バリケードを労働者達が作り、マネキンを運んだり、例のピアノを運んだり、というシーンだったか?
<7:49〜>再び大袈裟なワルツ。
<8:14〜>カンカン踊りの引用。そして、そのカンカンは、映画の冒頭のマーチの主題と合体。
大袈裟なワルツが「秩序を取り戻したパリ」で再現されたかは記憶が定かではない。
カンカン踊りは、ブルジョワの退廃ぶりの象徴。さらに、冒頭のマーチと合体する場面では、ブルジョワによる政府軍の讃美が語られていたと記憶する。浮かれるブルジョワたちは、いつのまにか、コミューンとの戦いの勝利に酔い、「パリを血の海に」などと言っている(映画冒頭では「ベルリンを血の海に」だったのに)
ロジェストベンスキーとしては、映画音楽のスコアを長さを短縮しつつ、演奏効果の面から、冒頭のマーチが再現されるところで組曲を終了させた、というのが言い分だろう。
しかし、映画についてなにも知らなかった私は、組曲を聞く限り、享楽的なブルジョワ達の場面の音楽が妙に耳に残り(フランス国歌、カンカン踊りの引用が強烈だし)、また、最後が妙に明るいこともあって、てっきり娯楽映画、それも喜劇だとすら想像していた。それが、見事に裏切られ、重厚な歴史ドラマ、それも悲劇だったというわけだ。
ロジェストベンスキーの組曲は、あくまで埋もれていたスコアを復活させる、という歴史的な意義こそあったものの、映画そのものが復活した今となっては、誤解のもと、にもなりかねないかな、とも感じた。が、前衛路線から、庶民路線へ進路を切り替えつつあった当時のショスタコの作風を知る、という意義は失われない、とは思う。
ただ、正直なところ、組曲を聞いただけでは、(あくまで伴奏のための音楽ということもあってか)純音楽作品と同等の傑作、という評価は私は持ち得なかったのだが、今回、映像と一緒に鳴った途端、その音楽の魅力に気がついたという次第。映画音楽の作曲家としての腕前、第1作でありながら、もう完全に完成されている。映画館でのピアノ演奏というアルバイトが培った才能なのだろうが、今後、是非とも、その他の映画も見てみたい、と感じた。
映画音楽だけ聞いていても、我々は何か誤解をしているのかもしれない。映像と音楽を一緒にして、そしてその映画音楽について初めて語ることはできるだろう。今回は、とても貴重な体験ができ、とても嬉しかった。しかし、ショスタコーヴィチの才能には、ホントにまいってしまうよなぁ。
(2000.7.9 Ms)
7/1(土) パイヤール室内管弦楽団 演奏会(名古屋国際音楽祭)