今月のトピックス
November ’00
11/19(日) 岐阜県交響楽団 芥見地区わが町・わがふる里コンサート
初めて、わが盟友たる清流氏の所属する岐響のコンサートに合流した。(清流氏についてはリンク一覧より彼のHPに行けますので、未だご存知でなければ一度のぞいて見て下さい。)
先月の、小松一彦氏を迎えた定期演奏会、マーラーの第5番も大成功裡に終わったとのことだが、それから程なく、また今度は地域のための小さなコンサートの依頼があり、そのステージでのエキストラの話が清流氏より打診あり。練習は前日のみ、私の出番は、外山雄三の「ラプソディ」のボンゴ、鈴、拍子木、と「威風堂々第1番」の何か(担当は当日決定と)。1週間ほど前に話が舞い込み、土日とも用事なく快諾、五日ほど前に、「ラプソディ」のパート譜と演奏テープが送られて来た。
曲は当然知っていたのだが、楽譜を見るとなかなかに難しい。
冒頭の拍子木のソロ、難しくはないが、自分のソロで曲が、コンサートが始まると言うのは、それなりのプレッシャーでもある(ただし、私が最も緊張した、テレビ出演「直純サンタとクリスマス・ソングを歌おう」の番組開始の鐘のソロに比べれば随分楽なもんだ。)。
中間部の長ァいフルート・ソロの合いの手のようにはまる、しみじみとした鈴の音、これまた不規則なやらしい入りばかり。
最後の大狂乱、八木節のボンゴは、結構左右がややこしく変わって、腕がからまってしまいそうな部分もあり、短期間の練習で克服するのが大変そうに感じたのが第一印象ではあった。
とりあえず、近年になく、毎日のように同じ楽譜に向かって練習練習。とにかく八木節は叩きづめだし、腕の動きも体で覚えさせ、結局は暗譜で演奏できるようにはしておいた。何せ、合わせ練習は1回。初めての団体でのエキストラ出演である。ここのところトラの新規開拓なく、久々の新しい人達との出会いの場でもあるし、恥をかかないよう、信頼を失わないよう、短期間のうちに効率よく仕込んでおいたつもり。さて、その出来や如何に?
さて、コンサート前日、久しぶりに名古屋よりも北にお出かけである。高速も使っての100kmを超えるドライブだ。2時間ほど。
岐阜と言えば、名古屋に住んでいた結婚前には毎年、夏の花火大会に行ったものだ。
ちょうど、社会人1年目、同期同志で男女、カップルになろうという動きがあり、その男子が、必死にある女子に攻勢をかけるなか、まぁその応援みたいなもので、彼女の実家(各務原市・・「かがみがはらし」難読ですな)近くの岐阜の花火に男女数人で行く羽目になったものだったのだが、長良川河畔に陣取って、金華山を眺めつつ、贅沢なほどにドンドン上げる花火が結構気に入って、以来、毎年違うメンツにはなりつつも、私は年中行事の一つとして出かけることとなったのだ。結局は彼らは成就しなかったのだが、その女子が地元ということで、大混雑の岐阜市内まで車を乗り入れず、長良川交通公園跡地の駐車を勧め、また、名古屋への帰りもその女子を送りつつ、各務原経由で、やや大回りしつつ、愛岐大橋、江南、扶桑、大口経由で、小牧方面へ抜ける道を示唆された事により、これまた全く混雑しなかったもので帰り道の定番として私は妙にその道に詳しくなってしまったのだ(地元ネタで恐縮)。
また、当時は彼らのおつきあいも含め、岐阜県は高鷲村のスキー場へ行くこともしばしばで、その際もほとんど同じ道を使って名古屋から岐阜に入って行ったこともあり、とにかく勝手知ったる道ということで、今回目指す岐阜市街からやや離れた「芥見」地区が、その私の熟知した道程からさほど遠くないがゆえに、案外気楽に地図もろくに見る事無く、見知らぬ町への旅では無しに、過去の自分の思い出に浸りつつの余裕のドライブによって楽しく現地に向かう事が出来たのであった。
各務原より岐阜市内に入るや、「高橋尚子」が妙に目立つ。シドニー五輪でのマラソン金メダル。「あぁ確かこちらの出身だっけ?」
それにしたって、スーパーやらデパートやら、レストランやら、道中の様々なところに、「がんばれ高橋尚子」「おめでとうQちゃん」「尚ちゃん定食始めました」・・・こりゃ尋常じゃないなぁ・・・。
あとで聞けば、高橋選手の実家がこの「芥見」なんだとか。その芥見に岐響さんは練習場をかまえ、その練習場のすぐ近くが実家とか。
さらに、今回のコンサート会場、「岐阜市教育研究所」の体育館、ここにも「郷土の誇り、高橋尚子選手」やら「国民栄誉賞」とデカデカと書いてあり、よくよく聞けば何を隠そう、この体育館、高橋選手の母校である小学校の体育館だったのだそうな。山間(やまあい)にあるものの大きな住宅街、なのだが、少子化と過疎化なんだか、お年寄りの多い地区になってしまったのだろうか?小学校は廃校になったという。
高橋選手の母校で演奏した・・・ってぇのは自慢になるかしらん?
そんな、ただいま旬な土地(?)でのコンサート、さてさてどんな按配でしょう?
相変わらずの、序幕ばかりが長いパターンで恐縮です。次回はちゃんと音楽ネタになる予定?(2000.11.21 Ms)
まずは前日の練習風景。
地元の老人クラブと思われる団体との合唱の合わせ。2団体70人ほどなどと言っていたわりにその半分もいないくらいしか集まらない。1団体は旅行中だとかで、おいおい大丈夫かい。のんびりさに笑い。とりあえずは岐響理事長さんのアレンジの譜面によってオケと合わせ。
指揮者は岐響団員の方ではありますが、しっかり指揮の勉強もされているようで、慣れないおじいさんおばあさん相手にも丁寧に指導しつつ、オケの方も細かくてきぱきと曲を仕上げて行ったのが印象的。やはり、こういうアマチュア団体、指導者の資質如何、という面はある。その点、私の印象としては、とても恵まれているなぁ、うらやましい、と感じる。
当日のアンコールとして用意していたポルカ「雷鳴と電光」は初見なんだとかで、時間をとってしっかり練習されていたが、ちょっとスケジュール的にも慌しいように感じた。まぁ、私が今所属している団体が8ヶ月に1回しか演奏活動のない超スローペースな練習をしていることもあって、前日合わせだけで、舞台に乗せる事に対しては私自身の感覚とかけ離れてしまっているのだろうけれど。しかし、事前の個人練習はみなさんしっかりできているのだろう。ちゃんと形にはしている・・・当たり前の事か・・・しかし、そんな準備のみられにくい団体に私はいるもので・・・。やや詰めは甘いながらも短期間に曲をまとめてゆくのは、やはり岐響さんの普段の活発な活動ゆえの慣れでしょうか。
さて1時間半ほど練習の様子を見た上で、コンサートの曲順に合奏、で私も合流。
まずは「ラプソディ」。拍子木のソロ、拍子木は金管の人達も加わるのだが、オケの正反対の場所と合わせるのは至難の技だ。合ってないだろうと感じつつ曲は進む。中間部の鈴も一応は落ちずに(それが当たり前だが、ちょっと気を緩めるときっと落ちそうな音符ではある)セーフ。後半の八木節の打楽器アンサンブルもなんとかついていけた。ただ、いつもやっているメンバーと違うが故に、私の演奏にやりにくさを感じておられないだろうか?と疑問はわくのだけれど。
本当はじっくり時間をかけて練習していただきたかったのだが、団の方々は何度もやりなれた曲なのだろう、1回通しただけで次の曲へ・・・これで明日を迎えねばならない、トラゆえのスリリングさを結構感じざるを得ない状態。でも正直、これならやれる、とは確信できたけれど。(音符を並べるという意味程度ではありますが)
指揮者コーナー用のハンガリー舞曲第5番、さらに「もののけ姫」「川の流れのように」とお客さんを意識した選曲に続いて最後の「威風堂々」。急に、トライアングル、やれるところは鈴かタンバリン、合奏直前にグロッケンも追加、なんだいそりゃぁ急過ぎるわ、と思っている間に曲が始まった。でも、何度もやってる曲だし、それらのパートは始めてやるのだけれど充分楽しんでやれた。ビジュアル面の作戦もすぐ決定。自分の場所が1番客席よりでもあって、「ちょっと見せて演奏してやろう」。ただ、最後のグロッケンは失礼しました。勝手に楽譜通り、Piu mossoしてしまったら最後が合わなかったです・・・インテンポと思わずに一気に駆け抜けてしまいました・・・周りの様子は聞きながらやったつもりが・・・。最初の1回から指揮を見つつ鍵盤が叩けなきゃぁダメです。反省しております。
という具合で、あっというまに練習は終わり、軽く通した程度で明日を迎える・・・そんなことだろう、とは思っていたのでちゃんと演奏はビデオに収録。練習後は清流氏の自宅にお邪魔し、1泊ということになっていたので、その場でビデオを見てチェックすることとなる。
練習中、トラの紹介で、刈谷市民管弦楽団の・・・・と皆さんに紹介していただいたところ、将来、刈谷入団希望の方やら(今後とも是非よろしくお願いします)、刈谷の隣、安城から来ている団員の方やら(練習日の都合がつかない故の事だそうですが、刈谷もまた是非聴きに来てください)、数年前にトラで出た某大学オケのOGの方やら(「だったん人」の時はどうもお世話になりました・・・なんてちゃんと覚えていただいているのは嬉しい限りです。やはり打楽器トラ人生を歩む私、下手な事は何処へ行ってもできないということです。ご用心。)、100kmの道のりをやってきた私に対していろいろ声かけていただいた方々がみえたのは、やはり嬉しいですね。トラとの接し方、というのもある程度はトラを必要とせざるを得ないアマオケにとっては重要なことでしょう。こう声かけていただくと、こちらも改めて「よぉし、がんばるぞ」という気になるものです。
清流宅訪問。
実は始めてである。下宿時代は隋分お世話になりましたが。お互い名古屋を離れ、そうそう会う機会も少なくなり今回は岐響さんのトラを理由に始めての訪問と相成った。いつものパターンで、最近入手のCDを互いに出し合いつつ、近況報告など繰り広げる。
蛇足ながら、こちらの出し物の王手は「ロシアン・アダージョ」、フィンランド旅行にて入手。ショスタコを苦しめ続けたフレンニコフの作品が1曲入っている。1978年のバレエ音楽「Hussar Ballad」からのアダージョ、これが、ショスタコの作品にしょっちゅう出てくる、諸井誠氏曰く「ショスタコーヴィチのコールサイン」たるモチーフがひたすら出てくるキワモノ。これは大笑いである。以上蛇足。
一通り
CDを紹介しあった後、午前2時過ぎくらいに練習ビデオの確認。合ってない部分など確認・・・しかし本番前の練習もしっかりとはできないであろう。気合一発で勝負!!
午前4時頃就寝。午前9時過ぎ起床。学生時代的ノリで飲み、だべった。こんなノリが噂の「世紀末音楽れぽおと」の誕生の由来でもあるのだが・・・世紀末も残すところ僅か、まだお求めでなければ、是非ご一読のほど、こちらへ。
本番当日は昼集合。1時過ぎより約1時間のコンサート。
直前の練習はやはり、さらっと。演奏会場の体育館では午前中、地元自治会の創立20年記念式典、ということで練習不可。ほとんど曲を通す事無く、ポイントのみさらう。「ラプソディ」冒頭の打楽器合わせもイマイチか。私が基本のリズムを刻むのだがやや躊躇する面もあったか。練習後、他のパートの方からアドバイス、もっと金管楽器の拍子木奏者もひっぱるような存在感でやらなきゃぁ、と。本番は思いきって遠慮なくやらせていただいた。
本番の私の出来は、まずまずかな? ただ、「ラプソディ」最後で気が緩んだか・・・暗譜した成果を発揮、ノリを大事に困難箇所も余裕もって楽しんで演奏できたのだが、ボンゴの最後の2小節で、あっ、と思った途端、音符が若干変わってしまってアドリブが入ってしまいました・・・スミマセン。
さて、やはり、指揮者の体験コーナーは、いつでも受けるなぁ。私も大学時代の演奏旅行などで、指揮者コーナーを見てきているが、今回も楽しく見させていただいた。初体験ながら、なかなか本格派でうまく振れると自然にお客さんからも拍手。同じテンポでいくはずが、どんどん遅くなってしまうお年寄りの指揮ぶりなどなどには、自然に笑いも起こってくる。お客さん達の真剣なまなざしと、ほころんだ笑顔・・・こんな光景を見ると、こちらもすがすがしく快い気分になってくる。
久しぶりの、オケと聴衆との暖かな接点を感じる機会であったが、やはり、地域に根ざしたアマオケたるもの、こういった地道な活動は大切なことではなかろうか、と改めて痛感した。本来の活動たる定期演奏会がおろそかになる、という主張ももっともな面はあるのだけれど、短期間の練習で定演以外の本番を迎える、というのもオケの力をつけるいい契機にはならないだろうか? 現に岐響の皆さんは、そういう活動をされており、ちゃんとした演奏を前日のみの練習で、本番にのせているのだ。ようは、個々人の努力、やる気と、スマートかつ要領の良い組織的な運営、これらが担保されればこのような精力的な活動は可能であろう。・・あと、やはり指導者の資質か・・某国(いきなり「亡国」なんて変換されて苦笑)の首相のみならず・・。
そう言えば、体育館に座布団をいっぱい並べてのコンサートというのも、とてもくつろいだ雰囲気だった。老若男女つどって。指揮者コーナーも楽しく進み、オケと一緒にみなさん歌ったりと、退屈せずにオケを感じていただけたのではなかろうか?
プログラム最後の「威風堂々」は、今回のプログラムの中では、最も迫力満点に体育館に響き渡った事であろう。最後のフェルマータの音とともに割れんばかりの拍手が自然と沸き起こる・・・これはコンサート会場ではなかなかみられない光景だろう。形式ばらないお客さんの反応としてとても感激してしまう。最後のトリオで、私もテンション高く、高々と鈴を鳴らして興奮の度合いを高めたつもりだが、多少は私も岐響さんのお役に立てただろうか? お客さんの心に届くものはあっただろうか? 自分としては、短期間なりにベストは尽くせたとは思っているが。
あっという間の二日間ではありましたが、とても充実した時間を過ごせました。
たびたび足を運ぶ事は難しいとは思いますが、また、是非ともご一緒できる機会があれば100kmぶっとばして馳せ参じたい次第。
岐響の皆様へ。一月のファミリー・コンサートも期待しております。聞きに行きたいと思っております。
また、2000年、団イヤーに協賛しての、団伊玖磨作曲の「長良川」、滅多に聞けない作品でしょう、皆様、聞きに行く価値はあると思いますよ。岐響さんの充実した活動の一環、私からもオススメします。
実は、清流氏のHPでもこのネタ、一日早く公開されていましたね。お互い、10000Hit記念は岐響ネタでおんなじになってしまいました。読み比べもまた楽し、かな
(2000.11.24 Ms)
11/10(金) 東京フィルハーモニー管弦楽団 第421回定期演奏会
井上道義氏指揮、荒井英治氏のソロで、オール・ショスタコーヴィチ・プログラム。バイオリン協奏曲第2番と、交響曲第15番。オーチャード・ホールにて。
ショスタコーヴィチ最晩年の大曲。2曲ともに、諧謔と瞑想、という両極の差が余りにも激しい。井上氏の指揮は、そのあたりのツボをよく押さえたメリハリのあるもので好感度高し。荒井氏のソロも、オーケストラ・ダスビダーニャとの共演による経験も手伝ってか、かなりの難曲を余裕を持って演奏されていたと思われる。
ただし、壮絶なるハプニングに直撃。協奏曲の第1楽章、展開部に入り曲が高揚しかけた辺り、ソロも重音の強奏が続くのだが、突然、コーン、もしくは、プーンという異音とともに、ソロの最高音が消える?? とっさに「弦が切れた」と思った。 「ソロが弾きづめの場面だ、演奏が止まるのか?」と思った瞬間、荒井氏はコンサートマスターの楽器を奪う。迷いなくソロパートの音は瞬時に、的確に回復、本来の姿となった。その後、弦の切れた楽器は1stバイオリン・パートを順に後方へリレーし、最高列の奏者は舞台裏へ消えた。
その後も激しいパッセージは続き、また切れやしないかとドキドキ。なんとかクライマックスは過ぎ、カデンツァへ突入。やはり慣れない楽器というハンデはあったか、対位法的な歌う重音部分は、「弾き辛さ」が前面に出てしまった感があって惜しい。ハプニングさえなければベスト・コンディションで臨めたであろうに残念だ。
第2楽章以降も、こちらとしてはまだまだヒヤヒヤ感は残ったが、個人的には、逆に緊張感をもって鑑賞に臨み、いささか退屈な面もある作品ながらも(特に第2楽章。ショスタコ・アダージョとしてはニ流品に感じてしまうのだが、いかがであろうか?)、随分集中して聴く事となり、第2楽章も退屈だとは感じず、鑑賞に集中できた。第2楽章のカデンツァは、第1楽章と異なり、不協和音の重音も激しいのだが、果敢に演奏され、そのカデンツァの存在が私に大きく刻印されたようだ。少々、民俗音楽的な節回し、それが繰り返されて、こねくり回された反復がバルトークの「管弦楽のための協奏曲」第1楽章の主題を連想させたりして、自分なりの再発見ができたのは嬉しい。これもハプニングによる自分の鑑賞態度の変化によるものか?
第3楽章へのブリッジ、ソロとオケとの対話が、視覚的にも、ソロと指揮者のにらみ合い、対決風なもので面白い。第3楽章は、井上氏の指揮棒も「諧謔」を相当意識したと思われる。
私的には、このフィナーレを聴くたび、次のように感じる。
弦楽による伴奏にのって、ソロが主題を歌う部分は、新古典的な軽快なアレグロ・フィナーレのパロディに聞こえるのたが、それが長続きせず、木管が邪魔し、チャカし、さらに、ソロはそれを押しのけて主張し、また、邪魔が入って・・・・という繰り返しの中で、ついにティンパニや太鼓の暴力的なパッセージによって新古典的な進行が断念させられる。カデンツァの後、主題は再現されるが、コーダにおいては、木管・ホルンのソロを邪魔するパッセージが一時主役として表面に出てきてソロの面目丸つぶれ・・・そんな混乱の中で、ソロは弦楽オケと同化して存在が聞き取れなくなって曲は終わる。
というような聴き方をしてしまうのだが、井上氏の指揮棒の醸し出すところも、そんな私の感覚に近そうな雰囲気で嬉しかった。新古典的進行においては、腰も左右にふりつつ、軽快さを感じさせるも、邪魔なパッセージには大きな指示をその都度出し、木管、ホルン、太鼓へと大袈裟な表現で煽っている感じ。フィナーレは、ソロ対オケという曲の構成上の図式が明確に見えてきて、とても楽しいものであった。
また、ソリスト自身、オケのコンサート・マスターを務めている故だろう、オケとの息もぴったりで、かつ、オケが独裁的ソリストに追従するような演奏ともならず、逆に背を向け合うわけでは当然なく、同格に、助け合い、補い合いつつ一体となって曲が進んでいったように思われ、微笑ましくも感じた。
さて、15番であるが、これまた楽しい思いをさせていただけて嬉しい。しかし、ちょっと気になったのがアンサンブルの乱れ。それこそ、先ほどのバルトークじゃないけれど、「オーケストラのためのコンチェルト」でもあるこの作品、ソロや、小規模なアンサンブルをつないで綱渡りで曲を進行させている。テュッティも極力少なく設定され、その数少ないテュッティが絶大な力をもって私たちの心に訴えかけるモノを持っているのがこの曲の最大の特徴であるが、テュッティ以外の部分の音数の少なさによる緊張感が、アンサンブルのちょっとした乱れで台無しになるのはとても残念。
最も残念だったのは、第3楽章における打楽器によるリズムパターンが形になっていなかった事。フィナーレの最後は合格だった。第3楽章のほうがテンポが速かったかな。・・・奏者としての立場から舞台を見ると、もっとコンパクトにセッティングする必要があったように思われ、拡散したセッティングが、15番での乱れにつながったのではなかろうか?
縦に長くセッティングしていなかっただろうか?オケピット部分をステージ前に出して、弦楽器が全体的に縦に長く配置。特にコントラバスが演奏しにくくなかったか?そう言えば、協奏曲の冒頭にしても、なんだか低弦の中で時間差が感じられ、テンポが後ろに引っ張られ気味と感じた。また、15番の第1楽章の弦楽と大太鼓のスリリングな共演も、大太鼓のタイミングが後ろ向きで、やや苦しかったっけ。
さて、ひな壇は4列。前2段は通常の木管2段。そのそれぞれ下手にホルンが2本づつ。その後段に、下手より、木琴、鉄琴、トライアングル、タム、小太鼓、そして、トランペット2。最高列は、やはり下手より、シンバル、銅鑼、大太鼓(カスタネット、ウッドブロックの木製楽器含む)などで2人。そして中央にティンパニ。そして、トロンボーン・チューバ。
肝心な打楽器アンサンブルで、小太鼓と、木製楽器が離れ過ぎだ。特に打楽器パートは、なるべくコンパクトにアンサンブルしやすい配置を考えておく必要はありそうだ。
いきなり、否定的な感想からは入ってしまったが、トータルとしてはとても満足のゆく演奏であった。まず、テンポ設定が中庸をいくもので共感できた。第2、第4楽章クライマックスのテュッティ部分にはテンポが若干遅くたっぷりと時間が与えられて、その部分の存在感が強調されていたのも的確な判断とみた。
奏者各人のソロの出来は総じて素晴らしい。特に最初に立つことの出来た、チェロ、そして、コントラバスのソロは際立っていた。
さらに、第3楽章冒頭のクラリネットのニュアンスは、狂気をも感じさせる名演だ。合いの手の半音階のパッセージも、どのパートもクレシェンドで統一。快感だ。してやったり、といった感じ(この部分は木管のみならず弦もニュアンスが統一されていた)。グロテスクな形象が明確で良い。
第3楽章のみならず木管は全般的にいい感じ。
金管はトランペットが特に弱奏において少々苦しさを感じたが、トロンボーンは随所のソロを上手く乗りきってよかった。第1楽章再現部の早いソロも手堅く。第2楽章の葬送行進曲は、息の使い方がうまかったように感じた。息が途切れず歌われた部分が印象に残っている。
最も私が感銘を受けたのは、最後の和音処理。長い弦楽の持続する和音の中で打楽器アンサンブルが繰り広げられ、その最後にイ長調を確立させる、Cisの音が、チェレスタ、鉄琴で(トライアングルもあり)、金属系の音を響かせて曲を閉じるのだが、弦楽器にはモレンドの表示があり、最後の金属音とともに減衰する。金属音にモレンド表示はない。一発叩いてほっておけば減衰するのは当然なのだが、その両者の減衰の仕方が絶妙のバランスであったのだ。弦が先に減衰し、金属音が最後にちょっとだけ前面に浮き上がりつつ、やはり減衰。この感じが、弦楽の和音で曲が終わったのではなく、キラッという星のきらめき一筋で終わったかのような感覚を与え、また、指揮も最後の1音への愛着を感じさせて良かった。
最後の最後に、「何かが見えた!!」と気付いたのも束の間、その「何か」も何かよくわからないままに消えてしまっておしまい、てな感じ。指揮も、「何か」をつかもうとして、結局逃げられた、というジェスチャーにさえ見えた。最後の一発の処理で、「今日、聴きに来て良かった」と痛烈に感じた。美しかった。
ショスタコーヴィチの交響曲は、このきらめく音の自然な減衰とともに、空気に同化、その長く苦しい道程を終える事となったのだ。「むなしい」ような、「いさぎよい」ような、不可思議なエンディングに毎度のことながら心打たれる私である。打楽器を選んで良かった!!と感じる瞬間でもあるし。
やはり、ショスタコは、生で聴くに限りますわ。今年は没後25年の記念年。素晴らしい生演奏にいろいろ出会えて幸せであった。今年最後となるであろう、生タコもうまかった!!来年も多く経験できますように・・・・。
<おまけ>
今回の上京、収穫も多し。
まず、ショスタコのメーリング・リストで、渋谷のタワー・レコードでの、ショスタコーヴィチ特集の噂を聞き、初めて寄って見たら、なかなか充実した品揃えで、欲しいものも沢山。肝心の、ショスタコ特集は、10枚ほど視聴盤を聴けたのだが、だいだい入手済みのもの。最近でた、没後25周年記念の一連のCDのなかで、「若い女とならず者」的なタイトルの、アトヴミヤン編による作品も始めて聴いてみた。バレエ組曲の使いまわし的作品ではあるものの、アレンジも微妙に違って面白くは感じたものの、今回は見送り。
ずっと探していた、スベトラーノフの、ソ連時代のタコ演奏、5,7,9番の2枚組購入。特に9番はずっと高校時代、先輩から借りたこの演奏ばかり聴いていたので、このアレグレットらしからぬ、グイグイ推進力もって突撃するような第1楽章こそ、私に最もしっくり来るのだ。ただ、史上最速の「祝典序曲」はカップリングされていないのが悲しい・・・・もう入手不可なのか・・・・?
あとは北欧もの。シベリウスのバイオリン作品集。先月のシベリウス協会のコンサートでの作品との再会。作品2−2の原典版はやっぱり好きだわ。作品78−1もかっこいい。
ニールセンの新版楽譜による3番「広がり」、声楽パートをクラとトロンボーンで代用した演奏も併録されており、初めて聴く。やはり声楽の使用こそベストだが、器楽バージョンも悪くはない。また、出番少ない歌手のためか、歌曲も2曲収録、貴重だ。またまた、カップリングの「ヘリオス」はなかなか良い。さらに余白の管楽合奏の曲(FS63)、シャンドスから出ているロジェベンの管弦楽作品集にも収録されていたが、珍妙なその趣向(敬虔なる賛美歌が、途中で大爆発!!ドッカーン!!)の理由が解説に書かれており、なっとく。これオススメします。面白いですよ!!悲しくもあり・・・ですが。
あと、「ダスビ」人気の高い店とお見受けした。「主題と変奏」も「ステンカ・ラージンの処刑」も「ダスビが今度やる」というのが宣伝のネタになっているのだから・・・。そう言えば9月に出版された「処刑」の合唱スコアの最後の、バス歌手の岸本さんのコメントにも「ダスビ」が活字化されているし・・・ダスビの認知度、凄いですね。私も嬉しい。
さてさて、ひさぴさの神保町「新世界レコード」。メロディア盤が結構復活だ。ただし、グラズノフ管弦楽作品集が5,6種類なのだけれど。交響詩「ステンカ・ラージン」、フィンランド幻想曲は、愛知芸術文化センターにて視聴したことあり、なかなか良かった。古き良きソヴィエトの雄叫び。懐かしさもあったが、ちょっと躊躇。・・・ただ品揃えがますます減少気味なのは悲しいなぁ。
(2000.11.15 Ms)