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N響だわー <N響雑記帳>
2007年 |
N響アワー
1/7(日)放送
昨年12月定期から。指揮は、ローター・ツァグロゼク。オール・シューマン・プロ、オール・モーツァルト・プロという記念年最後にふさわしい選曲の2回及び、20世紀ものを揃えたものという対照的な3回の定演から1曲づつ計3曲をセレクト。
モーツァルトの歌劇「魔笛」序曲。第1585回定期(2006.12.13)。端正に作りあげた綺麗にまとまった演奏。N響らしさが伺える、弦の統率など。
シューマンの「序曲、スケルツォとフィナーレ」から第2、3楽章。第1583回定期(2006.12.2)。生で体感してきた演奏会。彼の交響曲と並んで親しまれるべき佳曲だ。放送でも触れていたが、ツァグロゼクの指揮は感情過多ではなく、緻密、冷静といった形容となろう。そういう指揮者がシューマンというのは物足りなく感じてしまう想像もあろうが、逆に、ロマン的ではなく古典的な捉え方が有効な気もした。ピアノ曲の自由奔放なイメージとは別に、古典への敬愛が感じられる絶対音楽志向の作品では、好んで使用されている対位法の構築、ソナタに基づく構成の的確な把握等に勝るアプローチが説得力を持ち得る。雰囲気を作るよりは、計算が必要か。指揮者の力量によって左右されやすいシューマン、今回かなりいい感じと思った次第。
マーラーの交響曲第10番第1楽章「アダージョ」。第1584回定期(2006.12.8)。細部まで行き届いた演奏。主要主題が出るたび、常に対旋律の存在が明瞭に主張されて、音楽に奥行きを感ずる(持続音の伴奏箇所も多いが、もたれない。間が持たないという現象はない。)。特に、2nd Vn.の比重の重さがそう思わせる。ゆったりと漂うように進行する中にも、例えば、内声部のグリッサンドなどもはっきりと聴き取れて面白い効果を醸し出す。冒頭の寡黙なヴィオラも含め、あらゆる場面で脱力感、無重力感が感じられ、独特な世界がこのアダージョにはある。アダージョで30分・・・しかし飽きさせない魅力がある。最後近くの強烈な不協和音の咆哮も、ヒステリックな叫び、よりは重厚な音のブロックといった趣で鳴らし方に工夫があったのでは。ドスの効いた凄みが良い。
今後とも、ツァグロゼクには注目してゆきたい。
1/14(日)放送
北欧音楽の魅力。グリーグ没後100年、シベリウス没後50年にちなんで。
シベリウスの交響詩「フィンランディア」。第1567回定期(2006.4.19)。デュトワ指揮。まずは、北欧音楽の代名詞としてのあつかいの超有名曲として。ただ、聞き慣れ親しみ過ぎて、なかなか感動しにくくなっている曲だ・・・あえて感想もなく・・・そう言えば、フルートのトップが高木綾子さんだった。
グリーグの「ペール・ギュント」第2組曲。第1319回定期(1997.4.5)。広上淳一指揮。魅力的な演奏じゃないか。北欧で研鑚をつんだ広上氏による北欧音楽という点でも興味深く聴いた。
第1曲「イングリッドの嘆き」からして、これぞ北欧という深く響く弦が心地よい。
第2曲「アラビアの踊り」は一転して軽快な楽想が楽しい。リズミカルな小気味良い3連符のリズムが、タンバリンだけでなく、飛び跳ねるような弦楽器にも明瞭に聞き取れる。そして、中間部の憂いを帯びた旋律のなまめかしさよ。ヴァイオリンとチェロの絡みあいも官能的、特にチェロの時折みせる激しさが面白い。中間部の挿入句の子供っぽい木管の一節も可愛らしく、この1曲の中に、劇の一場の多種な要素が見て取れる。
さらに第4曲「ソルヴェイグの歌」の美しさは絶品。寒々とした響きの中にも、暖かさそして優しさがある。音楽に深くのめり込ませるパワーがあった。第3曲の中途半端な迫力の難破の描写よりも、随分重い存在感を持った表現があり、作品全体を締める説得力に満ちた好演(この尻つぼみは巧く聞かせるのが難しいという印象があったのだが・・・アマチュアがやると、あまりに頼りなく、いたたまれない思いをした記憶の強烈さよ・・・)。聞き古された感のある名作ながら改めて作品の良さを提示してくれるこんな演奏との出会いは嬉しい。
続いて、合唱のさかんな北欧という話題にちなみ、有名なスウェーデン放送合唱団のN響定期の際の、合唱団だけ残ってのアンコールを紹介。(2001.12.5)、「輪になって歩く乙女たち」というスウェーデン民謡。
さらに、2大巨匠以外の作曲家たちも口頭で紹介あり、ニールセンもその名があったが作品は紹介されず・・・時代は現代へ。最近聞く機会も増えている、ラウタヴァーラ(1928生まれ)の「ブック・オブ・ビジョンズ」から第4曲「運命の物語」。第1550回定期(2005.9.24)。アシュケナージ指揮。不協和音の多用はあるが、歌に満ち、さらに、グリーグ・シベリウスに連なる弦の響きの美感も堪能できる、大変聴きやすいもの。映画音楽みたいな雰囲気もあるが・・・。
最後は、次々輩出される指揮者の紹介(サロネン、サラステ、ヴァンスカ、ミッコ・フランク・・・)に絡んで、サカリ・オラモの登場。(2000.7.28)。シベリウスのカレリア組曲から「行進曲風に」。冒頭から滑らかに滑り出す雰囲気が、何とも言えない安らぎを感じる。いつ聞いても幸福感を味わえる大切な曲。
1/21(日)放送
元国連大使、北岡伸一氏を迎えて。
いきなり国連の画像に「ラプソディー・イン・ブルー」が流れるのは「のだめ」効果だろうか?随分違和感ある取りあわせだとは思うが(ニューヨークつながりとは言え、問題山積の国際政治の舞台には不釣りあいか)。
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界」第2楽章。(2005.1.8)。アシュケナージ指揮。
モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」から「恋とはどんなものかしら」。第1582回定期(2006.11.18)。サンティ指揮。マルフィージ独唱。
R.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」(原典版)から。第1473回定期(2002.11.14)。サヴァリッシュ指揮。原典版は、確かコーダが相違しているはずだが、放送は「英雄の闘い」まで。もう少しカットの仕方は考えて欲しいもの。さておき、サヴァリッシュ翁の雄姿、感慨深く。ただ作品に対しては、毎度、冗長さを思う。愉快ならず。
(2007.1.29 Ms)
2/4(日)放送
1月定期から。デュトワによるオール・プロコフィエフ・プログラム。第1586回定期(2007.1.12)。
カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」全曲を紹介。余った時間は、ピアノ協奏曲第2番から第4楽章。ユジャ・ワンのソロ。さすが、デュトワのタクトによるプロコフィエフ。色彩感豊かで、絢爛豪華な音絵巻を見事表現。作品自体、映画音楽が元ということで情景描写も巧みで、全編おおいに楽しんだ。実は、実演を体感してきたので詳細はトピックスでの紹介としたい。
2/11(日)放送
「音楽のある絵 絵のある音楽」というテーマで。ゲストは大原美術館館長、高階秀爾氏。
まず取っ掛かりは、有名なクリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」を見つつ、そのテーマとなった「第九」のお話。
そして、パウル・クレーの「赤のフーガ」。クレーは音楽を題材とした絵を多く手がけた画家で、ヴァイオリン演奏での収入も得ていたとのこと。その関連で、まずは、バッハ(ストコフスキー編曲)、「トッカータとフーガ ニ短調」。第1377回定期(1999.4.8)。デュトワ指揮。演奏は、いただけない。以前もこれは聞いているが、大編成のオケが見事に統率を欠いたもの。即興性を感じさせる独奏作品を、テンポも自由に伸縮させて自在にオケをあやつりたかったところだが・・・。
続いて、このテーマとしてははずせない、ムソルグスキー(ラベル編曲)、「展覧会の絵」から。冒頭の「プロムナード」「バーバ・ヤガーの小屋」と「キエフの大きな門」。(2004.7.23)。指揮、マーク・ストリンガー。題材となった絵も紹介されていた。
これもまたはずせない。ドビュッシー「海」から「海の夜明けから真昼まで」。第1527回定期(2004.11.19)。指揮、ファビオ・ルイージ。印象主義、葛飾北斎もからめつつ。
最後にやや意外な選曲で、ファリャのバレエ組曲「三角帽子」から第2部。第1238回定期(1994.9.3)。指揮、ピンカス・スタインバーグ。舞台美術、衣装はピカソが担当。
2/18(日)放送
女優、栗原小巻氏を迎えて。
ラロのスペイン交響曲第2楽章。第1450回定期(2001.12.15)。レーピンのソロ。デュトワの指揮。栗原氏が贔屓にしているというレーピン。
シューベルトの交響曲第7番「未完成」第2楽章。第1568回定期(2006.4.29)。指揮、スクロヴァチェフスキ。栗原氏が学生時代演奏したという「未完成」。
と、ここまではいかにも、といった選曲で来ましたが・・・つづいては、何と、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」第2楽章。ゲルギエフ指揮。(2002.11.24)。「モスクワ 我が愛」等、栗原氏はソ連時代に映画撮影で訪れた縁もありということで。ただし、演奏は・・・壮絶にスロー・テンポで我慢できないほどの停滞感。
最後は、ロシア演劇でも活躍する栗原氏、演劇でも使用された、モーツァルトの交響曲第40番第1楽章を聞く。第1491回定期(2003.6.25)。マティアス・バーメルト指揮。
2/25(日)放送
N響団員を迎えての「もっと知りたい」。コントラバス奏者、吉田秀氏を迎えて。
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第4楽章。第1587回定期(2007.1.17)。デュトワの指揮。最新の演奏の紹介ということで、特にコーダにおける低弦の重く深い響きをじっくりと味わう。デュトワによる「悲愴」というのも最初イメージとして合致しなかったがかなりいい演奏ではないか。第2主題、ニ長調の主題など、緩やかに下行を描きながら盛りあがり、微妙なタメなども絶妙な息使いで、歌心にかなったもの。人生を穏やかな気持ちで回想してゆくような面持ちが、大きなスケール感を持って表現されており涙を誘うほど。
モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」から第4楽章。第1588回定期(2007.1.27)。これもデュトワ。颯爽と駆け抜ける爽快感。
ベートーヴェンの交響曲第9番第1楽章(2006.12.23)。指揮は、上岡敏之氏。
ストラヴィンスキーの組曲「プルチネルラ」から「ヴィーヴォ」「メヌエット」「フィナーレ」。第1440回定期(2001.9.14)。準・メルクルの指揮。コントラバスの独奏が楽しめる選曲というわけだ。ただしゲストの吉田氏のソロには非ず。フィナーレの最後のトランペットがいかにも綱渡りで後味の悪い感じなのが残念。
最後に、スタジオでの生演奏。指揮者でありバス奏者でもあった、クーセヴィツキーの「小さなワルツ」。
(2007.3.11 Ms)
3/4(日)放送
2月定期から、マーラーの交響曲第4番。指揮アシュケナージ。独唱クララ・エク。第1589回定期(2007.2.10)。
3/11(日)放送
「忘れられないタクト」と題して、N響オーボエ首席の茂木氏をゲストに、ゆかりの指揮者たちの姿を追ってゆく。
ブラームスの交響曲第4番第1楽章。指揮プレヴィン。第1271回定期(1995.10.14)。
ロッシーニの歌劇「絹のはしご」序曲。指揮サンティ。第1489回定期(2003.5.28)。
ベートーヴェンの交響曲第5番第1楽章。指揮スクロヴァチェフスキ。第1372回定期(1999.2.6)。
ベートーヴェンの交響曲第3番第1楽章。指揮ワルベルク。第1465回定期(2002.6.28)。
やはり最も印象深いのはスクロヴァ。とにかくいい。さらに重要なポイントを教示頂けたのも嬉しい。それは何か・・・、いわゆる、ジャジャジャ・ジャ−ンの「運命」動機が、コーダの最後、ホルンによって2倍に拡大されて響き渡るのに仰天した。冒頭の2回の運命動機が最後に再現される手前である。テュッティの中に、ホルンの音型がまさに、G−G−G−Esと4分音符で存在する。それが普段埋もれているところは、さすが作曲家でもあるスクロヴァ、見事にその重要なモティーフを白日の下にさらけだす。この視点、そして思いきった処理が凄く感動を呼んだ。このホルンを聞き取らねばならぬ、と認識を新たにさせていただいた。さすがである。
3/18(日)放送
昨年の演奏を振りかえる、「ベスト・ソリスト 2006」
3/25(日)放送
昨年の演奏を振りかえる、「ベスト・コンサート 2006」
詳細はおって(2007.4.15 Ms)
4/1(日)放送
(N響アワーの公式HPが出来、演奏曲目の詳しい演奏日時等も掲載されるようになったので、その辺はこの4月分から省略させていただきます。)
「オーケストラ入門」と題して、視聴者の質問にも答えつつの番組。オーケストラのステージマネージャの奮闘ぶりなども紹介。演奏曲は、ラベルの「ボレロ」(デュトワ指揮、1999年)、これぞオケ入門である。オケもノリノリ(特にヴィオラ・トップ)で楽しい。その他、ベートーヴェンの交響曲第3番第4楽章(アシュケナージ指揮、2006年)、ベルリオーズの幻想交響曲第2楽章(デュトワ指揮、2003年)。
4/8(日)放送
最近の演奏会から。2月定期から、チャイコフスキーの交響曲第5番(アシュケナージ指揮、2007年<1590回定期>)。そして余った時間で、珍しいアイスランドの作曲家シグルビェルンソンの「スマルトーナル」から第1、4曲(アシュケナージ指揮、2007年<1591回定期>)。アシュケナージがアイスランド国籍ということもあって、こういう選曲もあり。独立記念の意味あいもあって、第4曲は騒がしい雰囲気。風船をリズムにあわせて割る趣向も。全体的に調性濃厚で、わかりやすい。チャイコフスキーは、取りたててコメントなし。
4/15(日)放送
吹奏楽の特集。 スーザの行進曲「海を越えた握手」、リードの「アルメニアンダンス パート1」(山下一史指揮、2006年)をまず吹奏楽で。続いて、管楽器の紹介を兼ねて、ムソルグスキー(ラベル編)「展覧会の絵」から「古城」「ヴィドロ」(ストリンガー指揮、2004年)、サックス及びユーフォニウムの独奏。最後に、レスピーギの「ローマの松」(サンティ指揮、2004年)。
4/22(日)放送
さだまさしを迎えて。山本直純氏との出あいが、クラシック音楽との積極的なつながりとなったとのエピソードも紹介。クラシックの裾野を広げる役割を果たして欲しい、と。
まずは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲第1楽章(バーメルト指揮、ヴィヴィアン・ハーグナー独奏、2005年)。さだ氏と言えばヴァイオリンか。ハイフェッツのファン・・・というあたり年齢を感じさせたりもする。
ヨハン・シュトラウスのワルツ「ウィーンの森の物語」(ワルベルク指揮、2004年)。ワルツを聞いて怒り出す人はいない、と。
最後に、スメタナの「モルダウ」(サンティ指揮、2004年)。とある映画で、このモルダウの旋律に歌詞を付けて歌った、という話。ギターの伴奏で彼が歌えば、もう、れっきとしたフォークにしかきこえなくなってしまう。
4/29(日)放送
「もっと知りたい」トランペットの津堅氏を迎えて。
最近の演奏会(4月)から、ドヴォルザークの交響曲第8番第4楽章(バーメルト指揮、2007年<1592回定期>)。トランペットのファンファーレの印象よりは、弦楽器内声の頑張りが心を揺さぶる熱演だった。
その他は、もっぱら、けっこう過去の演奏を紹介し、かなり貴重な映像ばかり。
モーツァルトのセレナーデ第9番第2楽章から抜粋。ポストホルンを。(ギュンター・ヴァント指揮、1982年)。
ムソルグスキー(ラベル編)の「展覧会の絵」から「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ」(ゲルギエフ指揮、1996年)。これは、珍しい。ゲルギエフと個性豊かなアプローチは凄い。トランペットの高音のソロの速さ、そして、微妙な音量変化を巧みに使った描写的な効果。物乞い風なあわれみがかなり聞き取れる。津堅氏にとっても会心の演奏ということだろう。
ドビュッシーの「祭り」(ホルストシュタイン指揮、1985年)。マーラーの交響曲第3番第3楽章(ノイマン指揮、1984年)。どれも、歴史的遺産である。マーラーは、ポストホルンを舞台後方、合唱団の一番頂上で吹いていたのがユニークな発想だ。ちなみに、吹きにくいパッセージは、かならず200回練習で成功させる、といった努力の営みが紹介されていた。プロでも慢心はならぬ。律儀な真面目さをかいま見た。
(2007.5.14 Ms)
5/6(日)放送
最近の演奏会から。4月定期。先週も取りあげたバーメルト指揮の1592回定期。
プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番。シトコヴェツキの独奏。随分何度も聴く機会に恵まれている。好きな作品ではあるが逆に新鮮さを感じなくなりつつある。メンデルスゾーンやチャイコフスキー並の「あたりまえ」さ加減。演奏については可不可なく。
もう1曲、同定期から。ハイドンの交響曲第55番変ホ長調「校長先生」。第2楽章の厳格なリズム、おちついた雰囲気ゆえの命名らしいが、今となってはなんとも時代錯誤的か。校長、のイメージ、そんなものかしら。それはさておき。第3楽章トリオのチェロソロが印象的。
5/13(日)放送
母の日にちなみ、「大作曲家の母たち」、と題して。
ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」序曲(スクロヴァチェフスキ指揮、2004年)。母への思い、理想の夫婦像てな関わり。ベートーヴェンのボン時代の「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」の一節がフィデリオの最後にも出てくる、といった指摘は初耳。スクロヴァの才気煥発なる演奏が楽しい。彼のベートーヴェンは本当に生き生きしている。生命力の爆発である。
シューマンのピアノ協奏曲から第1楽章(ツァグロゼク指揮、オピッツ独奏、2006年)。法律の道を勧めた母への反抗から作曲家としてのシューマンは始まる。
ラベルのスペイン狂詩曲から「祭り」(デュトワ指揮、2006年)。スペイン生まれの母の影響が如実に現われた作品。色彩感豊かな、さすがデュトワといつもながら、うならせる演奏。
ブラームスのドイツレクイエムから第3、5曲(サヴァリッシュ指揮、1997年)。第3曲については随分と抑制された演奏だ。もっと壮大な大伽藍を思わせるイメージなのだが。
5/20(日)放送
「音楽と体の不思議な関係」斎藤孝氏を迎えて。「声に出して読みたい日本語」の著者。
ブラームスのハンガリー舞曲第4番(イヴァン・フィッシャー編曲・指揮、2000年)。普通聴かれるオケ編曲はかなり分厚いもので、お涙頂戴、といった大袈裟な泣き節が気に入ってはいるが、ブラームス的ではないということだろう・・・さっぱりとした爽やかささえ感じる。
ヴェルディの歌劇「オテロ」から「柳の歌」(キンボー・イシイ・エトウ指揮、シントウ独唱、2005年)。
ロッシーニの歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲(デュトワ指揮、1998年)。
モーツァルトの交響曲第25番第1楽章(アシュケナージ指揮、2007年)。
5/27(日)放送
「もっと知りたい」チェロ首席、藤森亮一氏を迎えて。
エルガーの変奏曲「なぞ」の第12変奏(アシュケナージ指揮、2007年)。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第2楽章(デュトワ指揮、2007年)。ショスタコーヴィチの交響曲第5番第3楽章(シュテファン・ザンデルリンク指揮、2003年)。スタジオでの収録は、フォーレの「蝶々」。シェーンベルク編曲によるブラームスのピアノ四重奏曲第1番第4楽章(バーメルト指揮、2007年)。
チェロの活躍する場面を最近の演奏を中心に抽出しているのだろうが、先月のような、過去の演奏に出あえなかったのは少々残念か。せっかく膨大な記録があるのだから、選りすぐってチェロの名曲を紹介してほしいもの。最後のブラームスなど、別段チェロの曲、という印象はない・・・ちょっと独奏が聴けた程度。「ウィリアム・テル」の冒頭とか、「海」とかの方が良かろうに・・・ただ、首席も2人みえるし、藤森氏の出番を考慮しての選曲と言う条件はあったか。
それは些細な話として・・・ショスタコーヴィチが、チェロにとっての弾きがいのあるもの、というコメントに納得。第3楽章クライマックスの慟哭は確かに。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を多く取りあげている彼だからこそのコメントであろうが随分心強くも思う。激しい心の叫び、チェロに相応しい。
また、師匠で、元N響首席でもある徳永氏との関係は面白い話だった。レッスン中の写真なども見ると随分恐そうな先生だが。
N響チェロ4人での「ラ・クァルティーナ」な活動も紹介されていた。岐阜県多治見での演奏。もっとこの辺は丁寧に説明紹介してくれてもよかろう。私も他の機会に聴いているが、バッハのシャコンヌなど良い編曲だと思うし聴き応え充分。
スタジオ収録も、随分難曲を持って来たなあ。細かな音符が連続するスピーディな作品だ。もっとおおらかに歌を歌わせる作品が多かろうが(「白鳥」「シチリアーナ」・・・)、あえて意表を突く、イメージを覆す線で来たか・・・こういう心意気は良い。
(2007.6.10 Ms)
N響 過去の演奏会から
NHK教育の地上デジタル裏番組。この5月から見られるようになったので、そちらも楽しみにしているところ。
2006年 |
N響アワー
1/8(日)放送
昨年12月の定演から。サンティ指揮による、チャイコフスキーの4番。及び、サンティの娘であるソプラノ歌手アドリアーナ・マルフィージで、プッチーニ「蝶々夫人」から「ある晴れた日に」。第1557回定期(2005.12.7)。チャイコの4番はイタリア滞在の所産ゆえに、イタリアをテーマとした定演であったわけだ。番組のタイトルも「チャイコフスキー、イタリアに首ったけ」
サンティのチャイコは、これまた独特な。今までも、「新世界」など有名曲も聴き慣れないアプローチで新鮮に聴かせてくれている(オペラ的な仰々しさが面白かったのだが)。今回も予想外のアプローチ、全体的に緩いテンポで、特に第1楽章は20分ほどかけて丁寧に、そしてまろやかに。ロシア的な凄まじさを強調せず、荒れ狂う強暴さよりは、しっとりとしたワルツをも思わせる洒脱な雰囲気すら感じた。ただ、第1楽章こそ新鮮な感覚なれど、楽章を追うにつれ、まあ普通の演奏か・・・などとも感じ、フィナーレも極端な熱狂は感じられず、個人的にはやはり聴き慣れたロシア的演奏が恋しく感じられた始末。私の既成概念を破壊するには至らず。残念。
1/15(日)放送
名演奏プレイバック。ゲルト・アルブレヒト指揮。最近は読響での指揮ぶりでお馴染みだが、4半世紀前、N響初登場の様子を。ただ、それ以降、N響への客演はなしとのこと。
まず、ベートーヴェンの7番。第862回定期(1982.2.5)。武骨で、やや荒さすら感じさせる、男っぽい演奏。弦も重厚。厚くもあり、また、熱さもたち込める。懐かしいN響の響き。指揮ぶりも敏捷で、ベートーヴェンらしい鋭さも良く感じられる。
続いて、シューマンの「マンフレッド」序曲。第863回定期(1982.2.12)。今年はシューマン没後150年をかなり重要視してゆきたいところ。幸先良く取りあげていただきました。男っぽさは、シューマンにおいても。また、弦の速いパッセージも、きっと、あいかわらずやりにくいものだろうが、ピシっと整然と決まるのがN響らしい。スキのなさが全般的に緊張を孕んで、いかにもシューマン的焦燥感が良い。また、序奏から速い主部への移行部分の指揮ぶりもスリリングに感じられた。いいもの見せてもらえた。・・・当時中学生の私はFMで聴いていただろうか?そんなことを思いながら懐かしさも感じつつ。
1/22(日)放送
音楽百科。「ムード作りは劇番におまかせ」。司会の池辺晋一郎のお得意分野だ。彼の担当したNHK大河ドラマ「独眼竜正宗」のテーマで颯爽と番組は始まる。途中、ある映像に池辺氏が即興で2種の音楽をピアノで付けてその印象を比較するなど面白い企画も。往年の映画の名監督たちとのエピソードなども交えつつ。
まずは、映画音楽から、これぞ、という作品。J.ウィリアムス「スターウォーズ」、指揮は、・・・懐かしいな、・・・山本直純。(1989.7.31)<定期公演ではなし>。演奏自体はやや重たいな。指揮はえらく明瞭なのに演奏がどうもシャープじゃない・・・最近のN響ならこういうポピュラーなものも生き生きやっているが、当時まだ今ほどではなく、不慣れだったかしら。
続いて、いわゆる古典的な劇音楽ということで、メンデルスゾーン「真夏の夜の夢」、指揮はデュトワ。第1327回定期(1997.6.18)江守徹の語りも入れての本格的な、今回の企画にうってつけなもの。演奏曲は「道化師の踊り」「結婚行進曲」「フィナーレ」。デュトワとのいい関係を思わせる、溌剌とした印象。
さらに劇音楽は続いて、同じ劇の同じ場面で、どう違う音楽が付いているか。という聴き比べ。これはかなり面白かった。
フォーレ「ペレアスとメリザンド」から「糸を紡ぐ女」、指揮はデュトワ。第1307回定期(1996.11.29)
シベリウス「ペレアスとメリザンド」から「糸を紡ぐメリザンド」、指揮は、・・・これまた懐かしくて感激、・・・ホルスト・シュタイン。第974回定期(1985.11.13)
どちらも悲劇のなかのワンシーンで、かならずしも明るくはないが、フォーレが基調は柔らかなほのぼのした感覚の中に、ちょっとしたアンニュイを混在させているのに比較し、シベリウスは、不気味なホルンのゲシュトップやティンパニのトレモロを動員しかなりおどろおどろしく仕上げた。ただ、両者ともに中弦で糸車の回る動きの描写は共通。もっと色々な事例を紹介してくれても良かった。
映画音楽からは、プロコフィエフ「キージェ中尉」。「キージェの結婚」「トロイカ」の2曲を、指揮、なんとキリル・コンドラシンで。もう伝説上の存在。日本の宝だなあ、こういう映像が残っているのは・・・ただ、数年前もこの演奏はN響アワーで放送されている・・・。どうせなら、同じ定期で演奏された、ショスタコのバレエ「ボルト」の組曲も違う機会で良いので聴かせてほしいもの。第800回定期(1980.1.25)
最後に、既存のクラシック音楽を活用した映画音楽の代表。バーバー「弦楽のためのアダージョ」。指揮は、尾高忠明。(1988.2.29)<定期公演ではなし>
今回は随分懐かしい映像オンパレード。楽しく鑑賞。企画力も良かった。充実のプログラムに感謝。
(2006.1.23 Ms)
1/29(日)放送
ムツゴロウこと畑正憲氏を迎えて。なんと意外なことに、社会主義リアリズム讃美である。まあ、あの世代はソビエトへの憧憬は普通のことであったろう。ロシア音楽をそれもロシアでの演奏、ということで、「展覧会の絵」(2003.4.23)。デュトワ指揮のサンクト・ペテルブルク公演。
さらにボロディンの「夜想曲」、弦楽オーケストラ編曲で。指揮マーク・ストリンガー(2004.7.23)。
2/5(日)放送
1月の定期から。ブロムシュテット指揮による、ブラームスの交響曲第1番。第1559回定期(2006.1.28)。
隅々まで手の行き届いた、円熟の演奏。勢いに任せ、などという乱暴さは皆無で、細かいニュアンス、細部までオケ全体を統制して、完璧なる演奏を目指す志の高いものと感じた(完璧な演奏などはないのだが、演奏者の意思の統一がかなり図られていたのではないか。その作業の細かな積み重ねは確かに演奏に明瞭にあらわれている)。
特に第2楽章の表現の豊かさ、その時々に応じて音楽の色が移ろいゆく繊細さ、ここまでに磨きぬかれた演奏は聴いたことがない。まるで、冒頭からゆっくり自問自答しながら、音楽が進むかのようでもあり、まるで、ブラームスが慎重に推敲を重ねつつ筆を進めていった様がそのまま音楽にも投影されているかのようだ。Vn.ソロの客演コンマスも普段のコンマスとは明らかに相違する麗しさ、を感じた。
全体に、金管打は抑制されたバランスながら、迫力不足ではない。騒々しさではない深みが堪能できる演奏。
ちなみに、第1楽章のリピートを律儀に行っているのは、何度聴いてもギョッとする効果を感ずる。あの、流れを絶ち切るような衝撃的な戻り方、これを体感させてくれるのが本当じゃあないか。CDで何度も曲を楽しめる時代ではなかった昔は、主題を覚えてもらうにもリピートが必要だった、今は不要、との意見もあるが、このリピートの衝撃が、2カッコは自然な音の流れとなって、ロ長調の響きを豊かに鳴らす、この安心感を増してくれる。この幸福感を味わうためのリピートの必然性におおいに納得させられた。
番組では、ブロムシュテットのインタビューも紹介されていた。曲の構成の把握はひととおり分るようになっても、曲の表現、叙情的な側面はいくらでもやり方があり、こういった面でもっともっと掘り下げていきたい、といった趣旨の発言をされていた。さらなる、円熟、磨きをかけて、我々に感動をもたらしていただきたい。感動の一夜でありました。
2/12(日)放送
名演奏プレイバック。ダヴィット・ゲリンガスのチェロ。
シューマンのチェロ協奏曲。第973回定期(1985.11.6)。なつかしのホルストシュタイン指揮。このところN響アワー初めシューマンを聴く機会多く楽しんでいる。
続いて、ヒンデミットのチェロ協奏曲。第1486回定期(2003.5.7)。ワシーリ・シナイスキーの指揮。
ゲリンガス氏の個性としては、ヒンデミットに相性があるようで。シューマンは、やや荒さも感じなかったではないが、ヒンデミットは(曲も未知、さらにシューマンのような繊細さとは異質であろう)ダイナミックにガンガン鳴らして、曲の面白さを十二分に引出していた。管楽器の混濁した音色がいかにもヒンデミットらしく、その現代的な響きとチェロの凛とした響きとの落差も聴いていて新鮮。同時期の「ウェーバーによる交響的変容」とのオケのあつかいの発想の類似なども興味深く、吹奏楽的なサウンドが前面に押し出されている。行進曲的楽想も似ている。また、チェレスタの効果的使用も耳を引き、意外に聴く側として飽きさせない。
最後に同定期のアンコールでの演奏、カザルスの愛奏曲「鳥の歌」をゲリンガス自身の編曲で。
2/19(日)放送
モーツァルト記念年ということで特集。全て、昨年9月のスタインバーグの指揮で。モーツァルトの三本柱ということで、歌劇・ピアノ協奏曲・交響曲を示し、それぞれの作品を。
「魔笛」序曲及び交響曲第41番「ジュピター」。第1547回定期(2005.8.31)。
ピアノ協奏曲第23番イ長調、第2、3楽章。第1548回定期(2005.9.10)。独奏はコルネリア・ヘルマン。短調のモーツァルトの魅力を堪能すべく選曲された第2楽章、バッハのシチリアーナ(有名なフルートソナタの)を思わせる旋律、切なさが印象的だ。
(2006.3.1 Ms)
2/26(日)放送
斎藤晴彦氏を迎えて。
彼といえば、クラシックを妙な歌詞をつけて歌うことで有名。私自身の思い出としても強烈な印象を残している。いきなりN響アワーからは脱線してしまうが・・・。
小学生の頃、「オーケストラがやってきた」というTV番組(山本直純氏による)にて、「歌っちゃえ運命」という企画で、ベートーヴェンの「運命」を全楽章、歌っていたのがとても印象的で記憶にも残っている。今でも、第2楽章の冒頭は「ハイリゲンシュタットは・・・」と歌い出す様が頭から離れない。自然に囲まれて自殺を思いとどまる物語が歌われていた。また、第4楽章の再現部が終わって、和音打撃が続き終わると見せかけ、まだ音楽が続いてゆくところなど、「まだ終わらないー」てな歌詞がこびり付いて、今なお、聴くたびにこの歌詞は私の頭を流れている。
また、土曜の夜11時の日本TV系、タモリの「今夜は最高」でも、時代劇をクラシック音楽に歌詞をつけたミュージカル仕立てにした企画などかなり印象的だった。確か、評価も高かったようで、放送関連の賞を受賞したような番組であったと記憶する。モーツァルトのトルコ行進曲を、特に中間部の嬰へ短調の16分音符の連続の箇所で、まるで早口言葉のように歌う様は抱腹絶倒だった。ただし、深夜番組っぽく、その部分の内容は、トルコ風呂だかソープランドだか、少年時代の私にとって刺激の強い歌詞であったけれど・・・。
余談が長くなってしまったが、今もなお、こういった活動は継続中らしく、シューベルトの「冬の旅」に原詩とは無関係な歌詞をつけて歌うコンサートを行っているとのこと。その関連でまずはシューベルトなどを聴く。また、前述の「オーケストラがやってきた」で、アンコールとして歌われたのが「フィガロの結婚」。「種まけば、芽が出る、葉が出る、花が咲く・・・」といった歌詞が冒頭から歌われるのはかすかに覚えていたが、その歌をまさかおよそ4半世紀ぶりにこの場で聞けるとは思わなかった。何だか懐かしくもあり、感激してしまったっけ。
我が、クラシック道をひた走る地ならしをしてくれた一人が斎藤氏であった。音楽によるパロディやシャレを楽しみ、クラシック音楽を高尚なものとは全く思わない少年として私を育てた様々な経験のなかに彼の存在があるわけだ。NHKの「ゆうがたクインテット」でもご活躍とのこと。今後もクラシック音楽を楽しませてほしいです。
本日放送された曲は以下のとおり。
シューベルトの交響曲第7番「未完成」第2楽章。(2002.7.26)。
ベートーヴェンの交響曲第8番第1楽章。(2003.2.25)。
モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲。第1555回定期(2005.11.23)。
メンデルスゾーンの序曲「真夏の夜の夢」。第1493回定期(2003.9.4)。
3/5(日)放送
2月の演奏会から。モーツァルトのミサ曲ハ短調。ブロムシュテット指揮、第1560回定期(2006.2.3)。トピックスにて取りあげています。
3/19(日)放送
名演奏プレイバック。ネビル・マリナー指揮。3曲とも、第781回定期(1979.5.25)。
ヴォーン・ウィリアムス「タリスの主題による幻想曲」。
ブリテン「青少年の管弦楽入門」。
ベートーヴェンの交響曲第8番より第2楽章以降。
「タリス」は2群の弦楽合奏による編成。教会旋法的な素朴な味わいをもった音楽が流麗にで心地よく。ただ、弦の響きがドイツものの如く、ゴツゴツしたもので曲想との乖離は感じられた。今ならもっと柔らかに出来るだろう。かつてのN響の強烈な個性がよく現われた演奏ではあった。
ブリテン、ああ懐かしいな。意外に最近、この「入門」聴く機会がないのではないか。私は子供の頃から大変好きで面白がって聴いていた。
3/26(日)放送
リクエスト特集。以下の曲目、全て抜粋で紹介。もう少したっぷり聞かせて欲しかった・・・。
まずは、曲目別で最もリクエストの多かったのが、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。第1楽章を、ジャニーヌ・ヤンセンのソロで。第1534回定期(2005.1.29)。
ドヴォルザークの「新世界」。第2楽章を、ノイマン指揮で。第1004回定期(1986.11.7)。
続いて、思い出の指揮者たちを特集。
クルト・ウェスの指揮。ブラ―ムスの交響曲第2番。昭和29年の演奏。映像もほとんど残っていないようで、音声のみの紹介。
ホルスト・シュタイン指揮。ワーグナーの「タンホイザー」序曲。第896回定期(1983.3.9)。
スウィトナー指揮。モーツァルトの交響曲第40番第3楽章。第919回定期(1984.1.11)。
マタチッチ指揮。ブラームスの交響曲第1番第4楽章。第927回定期(1984.3.23)。
山田一雄指揮。マーラーの交響曲第5番第4楽章。第953回定期(1985.2.13)。
阪神大震災特別演奏会より、モーツァルトの「アヴェ・ベルム・コルプス」。(2005.1.23)。アシュケナージの指揮。
最後にサヴァリッシュ。最も多くのリクエストが集まった指揮者。第1525回定期(2004.11.13)。ベートーヴェンの交響曲第7番第4楽章。これは、生で聴いたもの。N響が一丸となった密度の濃い、集中度の高い演奏で感激した記憶は今なお鮮明。
それにしても、今回紹介されたものが、ほとんどおよそ20年前の演奏ばかりだが、このあたりに、N響ファンの年齢層の高齢化は見て取れる・・・だろうか。確かに私なども、80年代中盤、中高生くらいで、懐かしさも感じるが、あの時のこの演奏、といった具体的な記憶はないものばかり。私が意識して聴いた、見たもので、と言えば、若き日のサロネンによる、ニールセンの5番を躊躇無くリクエストする。当時、ラジオでしかほとんど聴けなかった(N響アワーで見るしか手が無かった)こともあり、また、ヴィデオなども無かったし、映像で見たいという欲求、おおいにある。私の思い出を掘り起こすなら、90年代の演奏、もっと見たかった・・・。今思えば、スヴェトラーノフも、もっと見ておきたかったし・・・。このあたりが私と世代がずれてるんだろうなあ、と思うところ。
4/2(日)放送
2005年のベストコンサート。放映された曲目は以下のとおり。
第6位の、第1557回定期(2005.12.7)サンティ指揮。プッチーニの「マノン・レスコー」「ボエーム」から。
第5位の、第1543回定期(2005.6.11)パーヴォ・ヤルヴィ指揮。シューマンの交響曲第3番「ライン」第1楽章。
第4位の、第1541回定期(2005.5.25)パーヴォ・ヤルヴィ指揮。プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番第3楽章。ヒラリー・ハーンの独奏。彼女は、ベストソリスト第1位でもある。
ヤルヴィの指揮した3回の定期は全てベスト10入りしている。確かに質も満足度も高い演奏であった。印象深い。
第2位の、第1558回定期(2005.12.24)広上淳一指揮。ハイドンのオラトリオ「天地創造」第2部から。
第1位の、第1551回定期(2005.9.30)アシュケナージ指揮。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲第3楽章。レーピンの独奏。彼は、ベストソリスト第2位でもある。ただ、メインはショスタコーヴィチの8番。こちらを放送してくれても良かったのだが・・・。それはともかく、池辺氏いわく、ショスタコーヴィチの交響曲では地味な方だが、この演奏で好きになったという人も多い、とコメント。認識が高まったのは嬉しくもあるが、でもねえ、演奏のレベルはちょっとガッカリした記憶が残る。アシュケナージ、昔から、ショスタコーヴィチの作品をかなり重要視してCD録音も、小品も含めさかんにやっていただき、頼もしいながらも、実際、演奏自体は淡白で、なかなか馴染めなかった経緯もある。
なお、放送で演奏は紹介されていないが、第3位はメルクルによる、ベートーヴェンの荘厳ミサ、でした。
(2006.4.9 Ms)
4/9(日)放送
最近の演奏会から。アシュケナージ指揮。
スクリャービンの「プロメテウス」。第1562回定期(2006.2.25)。これは、N響創立80周年の記念コンサート。
色光ピアノの開発がクローズアップされていた。鍵盤楽器のように、鍵盤を叩くことで、音ではなく光、色が出てくるという、スクリャービン発案の機械を、独自に開発。それなりの意義はあったと言えよう・・・ただ、音楽的には、私個人には響かなかった・・・。神秘主義、というムードを感じることはできたが、それ以上に、音楽としてあまり楽しめなかったのが正直な感覚。
続いて、チャイコフスキー「悲愴」。第1563回定期(2006.3.3)。可も無く、不可も無く、といった感じか。アシュケナージの指揮、どうも、特徴を見出しにくい、といおうか、あまり、心に来ないような気がする。ついこの先週の番組の感想でもかいたとおり。
司会が代わったことも触れておこう。大河内奈々子さんは1年で降板。代わって、高橋美鈴アナ。さすがプロだけあって、よどみなく番組は進行する。前回までは、どうも危なっかしさもあったのは確かだが、クラシックに縁遠そうなタレントを据えるのは悪く無いとは思う。アナウンサーの起用が悪いとも思わないが、ちょっと面白みにかけるような気もした・・・。
4/16(日)放送
今回から「音楽百科」は、ネタが切れたのかどうかは知らないが、今年が記念年の、モーツァルトとショスタコーヴィチを特集するとのこと。
今回は初回ということで、2人にとって人生の転機を迎えた時期の作品を紹介。
まず、モーツァルトは「ハフナー」。第1531回定期(2004.12.18)。バルシャイ指揮。第1、2、4楽章。フリーの作曲家としてウィーンに出てきた頃の作品。続いて、ショスタコーヴィチは、5番。第1541回定期(2005.5.25)。パーヴォ・ヤルヴィ指揮。第1、4楽章。弱音の緊張感の研ぎ澄まされた感覚が良い。集中度高く、密度も濃い、いい演奏だった。何度聴いてもいいな。ただ、第3楽章も紹介して欲しかったのが正直なところ。
また、番組としても、ショスタコーヴィチが5番を書かざるを得なかった経緯などVTRにまとめて、質の高い番組として評価したい。交響曲第1番第1楽章、第4番第3楽章、「マクベス夫人」の間奏曲などもBGMとして的確に挿入されていたのが心憎い。
今後も、この企画は期待したい。しかし、こういう企画が地上波で定期的に見られるというのは、嬉しい。没後10年の頃、FMでやっていた特集を楽しみに聞いていた頃に比べ、随分、身近な存在となったショスタコーヴィチ。生誕100年、どしどしお祝いしてあげよう。NHKも、もっと頑張って欲しいです。演奏家諸氏にもお願いしたいところ。
(2006.4.18 Ms)
4/23(日)放送
ギタリスト、井上尭之氏を迎えて。名前は聞いたことがあったがどんな方かは知らなかった。スパイダースのギタリスト、というよりは、「太陽にほえろ」のあの有名なテーマをエレキで弾いているシーンを見て、懐かしさ、そして親しみを覚える。
放送された曲は、ベートーヴェンの「運命」第1楽章、アシュケナージ音楽監督就任演奏会(2004.10.9)。モーツァルトの「レクイエム」から「ラクリモーサ」、神戸公演・阪神淡路大震災10周年(2005.1.23)。こちらもアシュケナージ指揮。そして、マーラーの「巨人」第4楽章、第1531回定期(2002.10.10)。タルミ指揮。確か、スベトラーノフの死により指揮者が急遽変更になったのではなかったか。当時TVで聞いたか記憶は定かでなく、初めてこの演奏に接したと思うのだが、テンポも全体的に速く、勢いに勝り、作品の持つ若々しさがはちきれんばかりの演奏であった。印象に残る演奏と言えよう。
5/7(日)放送
最近の演奏会から。デュトワ指揮。ベルリオーズ「ファウストのごう罰」。第1565回定期(2006.4.8)。
N響アワーに先だって、演奏会全体をBSで聴いたが、何故だか(?)印象が良い。
実は、この大曲は何度もTVなりラジオで全曲鑑賞をトライしながら、どうも面白くなくギブアップばかりしていたのだが、今回は全曲、それなりに面白く聴けた。作品が完全に自分のものになっているデュトワゆえの余裕が質の高い演奏と感じられたこともあろう。また、よどみない音楽の流れ、メリハリある表現など、退屈させなかったのか?具体的理由はよくわからない。自分が声楽曲に慣れてきた、という面もあるかも。もう一度、理由は考えたいところ。
さて、今回の放送では、「N響アワー」ということで、オケのみの3曲は逃さず聴く事ができたが、抜粋内容を確認すれば・・・
「ハンガリー行進曲」。聴き慣れ過ぎた感もあるが、ただうるさいだけの行進曲でなしに、充分考え抜かれた構成を持つもの、と再認識させられた。手あかにまみれたイメージが払拭。格調高さすら感じる。駄演による誤解をといた名演と言える。
「のみの歌」。酒場での戯れ歌。ムソルグスキーの付曲が最も有名だろうが、ベルリオーズも男性合唱の掛け合いなども華々しく面白いもの。悪魔メフィストフェレス役のバリトン歌手も適役という感じで好感。
オケのみのナンバーが2曲続く。「妖精の踊り」。あまりに禁欲的な響き。眠りに誘う雰囲気は良く出ている。当時、オケからこれだけ繊細な響きを引き出せたのは彼くらいだろう。
「鬼火のメヌエット」。悪魔の子分たち。不思議さ奇妙さは常に漂う。2本のピッコロの響きが印象的。
「第13場」。ファウストとマルガリータのデュエット。まるでオペラのような、愛のニ重唱。ただ、ベルリオーズにはやや不向きな楽想だろうか。あまり甘すぎない。特記として、冒頭のオーボエが、まるで、バーンスタインの「ウェストサイド」の「マリア」の出だしそっくり。
「第14場」。二人の逢瀬は、メフィストによって中断される。伴奏の方も、おせっかいな、騒がしい、邪魔する雰囲気が出ている。三者三様な歌が交錯するのが面白い効果だ。そんな中、不気味なメフィストの「生け捕りにしてやる」という影のセリフがトロンボーンを伴った半音階で印象付けられるのは劇の中でも重要なポイントだろう。周囲の野次馬たちも加わっての騒然たる雰囲気に終止する手前、3連符のブレーキがかかるようなリズムも印象的。なかなか創意に富んだ部分だ。
「第15場 「ロマンス」燃える恋の思いに」。コーラングレの長いソロは心に染みる。マルガリータのソロと同等な位置を占めるほどの存在感だ。ファウストを思いこがれる様が歌いつがれる。
そこに遠くから軍隊の行進と歌。まるでマーラー的発想だ。4人のティンパニ奏者による遠くから聞こえるドラムの音の描写も渋い効果だ。小太鼓がステージにあるのに、あえて使わずに表現するのだが、それらしく聞こえる。
「第18場、地獄への騎行」。この部分がとても気に入った。死刑になるマルガリータを助けるべくメフィストに従って地獄へ。弦楽器による騎行のリズムにのって、何とも不安を誘うオーボエの旋律。情景と心理の描写力の冴えが光る部分だ。
「第19場、地獄の首都」。この作品の核心「ごう罰」である。地獄のえげつない歓喜のありさま。音楽的には魅力あるものとも思えないが、ベルリオーズのもっとも個性的な才能の開花ではある。しかし、このえげつなさがあってこそ次が引き立つ・・・
「第20場 天上」。女声合唱、児童合唱の清らかな響き。ヴァイオリンのソロ、ハープ、・・・救済に相応しい雰囲気だ。天上からのマルガリータを呼ぶ声も神々しい。
以上、今までになく、各曲ごとにも結構惹かれるものがあったし、BSでの全曲通しの鑑賞においても、全体の構成に説得力を感じた。
オペラとして舞台でセットするには破天荒な展開もあり実際、コンサート形式で行われることをベルリオーズも想定していただろうが(ちなみに、デュトワ氏のインタビューでも、オペラではないので演奏会形式での上演にこだわっているようであった。)、そんな物理的な理由でなしに、そもそも、音楽が全てを表現し尽くしている、つまり、視覚的効果に頼らず、大道具を必要としない、という自負あっての、この「劇的物語」なるジャンルであろう。その作曲家の自信が全編にみなぎるような演奏、というのが私にかなり響いた、とも思う。
(2006.5.13 Ms)
5/14(日)放送
音楽百科。「モーツァルトとショスタコーヴィチ」の特集。早熟の天才 初めての交響曲、と題して、二人の交響曲第1番を聴く。両方とも、サヴァリッシュの指揮で。モーツァルトはともかく、ショスタコーヴィチも取りあげているとは驚き。
まずはモーツァルトの交響曲第1番。全体的に、やはり子供の作といえる可愛らしさ、幼稚さは感じられるが、なかなかに構成的にもまとまってはいる。ただ、第2楽章だけは冗長な感じもする。池辺氏の解説によれば、この第2楽章に、最後の交響曲「ジュピター」のフィナーレの主題、ド―レ―ファ―ミが聞えて来るのが因縁めいている、と。サントリーでの演奏会(1990.5.7)。
続いて、ショスタコーヴィチの交響曲第1番。同じく、池辺氏の解説によれば、第1楽章の第2主題にあたる、ワルツ風の楽想に、彼の独創性の一端が見える、と。ワルツなのに、頭の拍に伴奏がない。なんとも不安定な感じ、と。ハーモニーも旋律も弾きにくい、とぼやきながらピアノをたどたどしく弾いていたのが面白い。確かに旋律一つ取っても、なんと、行き先の見えにくい不思議な動きだろう。改めて感じた。
さて、演奏自体は、サヴァリッシュということで、第3楽章の無限旋律風な箇所なども、後期ロマン派風な雰囲気が色濃く、官能的ですらある。N響との強固な信頼関係に裏打ちされた、円熟の演奏、ということか。これだけ充実した演奏を繰り広げていた時代、もっと、N響を知っておくべきだった・・・。と今さらながら思う。第1084回定期(1989.5.17)。
5/21(日)放送
作家、浅田次郎氏を迎えて。
メンデルスゾーン、交響曲第4番「イタリア」第4楽章。アラン・ギルバート指揮。第1552回定期(2005.11.2)。
ドヴォルザーク、交響曲第9番「新世界」第1楽章。ネルロ・サンティ指揮。第1520回定期(2004.9.18)。
リヒャルト・シュトラウス、組曲「町人貴族」より、「第1幕への序曲」「クラント」。デュトワ指揮。第1421回定期(2000.11.30)。
ストラヴィンスキー、組曲第2番より「ギャロップ」。インバル指揮。第1405回定期(2000.4.22)。
リムスキー・コルサコフ、「シェエラザード」から「カレンダー王子の物語」。デュトワ指揮。第1427回定期(2001.2.10)。
なかなかに充実した多彩な選曲。名指揮者たちの饗宴、ということで充分に楽しめた企画である。ただし、最近の演奏ばかりなので感想は、重複をさけるべくここでは割愛。
(2006.6.3 Ms)
6/4(日)放送
最近の演奏会から。5月定期は、老いてなお盛ん、スクロヴァチェフスキの指揮。ここ数年前(2004年か)のベートーヴェンの交響曲は、かなり攻撃的な演奏で、これぞベートーヴェン!と叫びたくなるような名演が記憶に新しい。
今回の放送では、シューベルトの「未完成」第1楽章とブルックナーの8番第1、4楽章を。前者は、第1568回定期(2006.4.29)。第1569回定期(2006.5.12)。
まず、シューベルトの、攻撃性?に驚いた。どうも、「未完成」という軟弱な響き・イメージ、映画の悲恋などもまとわりついて、凄く内向的な音楽、という感覚が個人的についてまわる作品なのだが、全くそういった、病的な雰囲気を感じさせない。全く、古典的な、ソナタ・アレグロである。普段なら低弦の序奏の後、何か不安をあおるような、弦の刻みがどこからともなく、囁くように始まる・・・はずが、スクロヴァの手にかかれば、そんな、根拠薄弱な安っぽい交響詩もどきの思わせぶりはなく、快活なテンポの、悲愴なアレグロ主題の提示、という絶対音楽としての、本来聞えて来るだろう、純粋な交響曲としての存在がクローズUpされる。これは良かった。ベートーヴェンを意識した大作交響曲の開始、として聞こえるようだ。まあ、だからといって、健康的に聞こえるわけはないけれど、不必要に不健康さをアピールすることもなかろう。この演奏だったら、永らく私はアンチ「未完成」を標榜せずにすんだのにねえ。推進力あふれる演奏は、かつてのベートーヴェン演奏にも通ずる。彼の指揮、もっと体感したい、と切に思うようになった。
続く、ブルックナーについては、どこがどうだ、という感想を持ち得なかった。聴き慣れていない、敬遠作品だし。ただ、何げに、随分聴きやすいブルックナー、オタク的に閉鎖的ではなく、開放された、伸びやかさ、のようなものを感じたのだが・・・。
一度、また、この定演全体を聴いてからでないと、ちょっとコメントしにくいような気もする。
ただ一点、第4楽章の冒頭の主題の、意表を突くブレスの感覚、これは斬新だ。演奏するほうは、どんどんリズミックに進んでゆく楽想故に、途中で息を継ぐのがあわせにくそうだと多分に感じさせていたけれど・・・面白い演出だった。
6/11(日)放送
音楽百科。今年は、モーツァルトとショスタコーヴィチの特集のはずが今回はお休み。昨年も紹介されているが「日本の響きを求めて」と題し、日本の音楽についての考察を。今年は、野外での公開録画・・・内容はかなりマニアックだ。
まず、「日本クラシックの先駆者」山田耕筰の交響詩「曼荼羅の華」(大正2)。(1988.10.1)外山雄三指揮。
「世界に日本を発信」伊福部昭の「交響譚詩」(昭和18)。第1譚詩のみ放映。第865回定期(1982.3.10)外山雄三指揮。今年死去の追悼を兼ねての選曲となった。
「黒澤明が最も信頼した」早坂文雄、これはN響の演奏ではなく、ピアノ独奏ライブで、「室内のためのピアノ曲集」から第3番(昭和16)。碇山典子氏の独奏で。
「戦後日本のエース」黛敏郎のバレエ音楽「BUGAKU」(昭和37)から第U部。(1989.8.30)岩城宏之指揮。
「没後30年追悼」矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」(昭和42)から第3楽章。第718回定期(1977.4.8)独奏は初演者、中村紘子氏。ミヒャエル・ギーレン指揮。
山田作品は、スクリャービン的な神秘主義への接近をも示す、当時の最新鋭の作風だ。それでいて、和風な面持ちもする。かなりの秀作ではないか。今までも何度か耳にする機会はあったが、今回はじめて引っ掛かる何かを感じた。彼が、この方向での深化を遂げていないのなら日本にとっては大いなる損失とも思える。
伊福部作品は、やはり、いつ聞いても、日本を思わせる。それでいて、健全なる精神性をも備え、それこそ、いい意味での「愛国心」の純粋な発露と思う。もっともっと耳にしていい。まして、教育基本法改正が話題の昨今、こういう音楽性を我々のものとして受容できる感覚は、いくらアメリカナイズされている現代とはいえ、死守したい。
そういう意味で、黛作品、もっと聴かれなければならぬ。生前は政治的発言が顰蹙気味でいまや忘却されかねない、でも大作曲家。奇しくも岩城氏の指揮での放送、彼もこの放送の後、世を去ったのが何とも因縁めいているが、彼の死後、黛作品、誰が自らの使命として演奏し続けてくれるのか。この「ブガク」も、あっけらかんとした、何ら晦渋のムードを示さない、おおらかな、ますらおぶりであることか。思いきり現代的でありつつも、それでいて、「和」を感じさせ、伊福部作品の純なる後継としての存在感を感じずにはいられない。
また、もはや、黛氏の生前の思想こそ、我が国の主張の中核にまで上ってきた。是非、ポストKを標榜するA倍氏など、黛作品のコンサートにでも行って、「感動した」などと叫んでもらいたいもの・・・やや調子づいてしまったか。ちなみに私は思想的には左右両方の統合、さらには資本主義とイスラム思想との協調を21世紀の思想的課題として認識しており、黛氏は、芥川也寸志氏と同等に重要な存在だ・・・ちょうど、この休日は、NHK大河ドラマ「忠臣蔵」のテーマの入ったレコードなど買って悦に入る・・・TV「たかじんの・・・委員会」でも芥川氏の「忠臣蔵」はBGMで聞えて来るし、今なおもっとも耳にする機会の多い芥川作品ではある。今回、彼の作品が放送されなかったのは残念無念。・・・閑話休題。
最後の矢代作品は、池辺氏の師匠ということでの選曲だろう。武満記念年に完全に押されてしまう中での主張、なのだろう。しかし、今回の番組の文脈の中では、あまり「和」を感じない、異質な作風と感じる。確か、交響曲や、まさにピアノ協奏曲でも中間楽章で、日本的なリズムの応用が示されたものもあっただろうに、そういうものこそふさわしかったのでは?とも思うところ。どうにもバリバリのゲンダイ音楽風で馴染みにくかった・・・ただ、中村氏のゲンダイ音楽ぶりもかなり今見ると意外な姿で、でもカッコイイじゃないか。ショパンばかりじゃなく、カレーのCMとかでも矢代作品やっても面白かったかも・・・。ヤシロアキオなる名もまた、インパクトあるわけで、個人的には、交響曲など、もっと日本人の宝として、ヤシロアキと並んで愛聴されてしかるべしとすら思う。・・・もちろん冗談めかしての話ではなく本気である。
しかし、それにしても今回の選曲、演奏されたのは70、80年代か。それ以降、こういったゲンダイ日本の古典はN響も敬遠気味か。もっと、普通に定期で1曲くらい混ぜてもらいたい。武満作品は結構やっているし、海外好演でも最近は多いようだ。もっと、「日本」に対する意識、もっていいはずだ。
(2006.6.27 Ms)
6/18(日)放送
女優の有馬稲子氏を迎えて。個人的にはあまり存じあげないが、宝塚出身の方らしい。57年のキャリアというから凄いもので。
オッフェンバックの「ホフマン物語」から「舟歌」。(1987.7.14)外山雄三指揮。なつかしのセミ・クラですな。オペラはともかくコンサートホールでは最近聞かれなくなりましたか・・・。
ビゼーの「カルメン」より前奏曲と3つの間奏曲。第1226回定期(1994.3.5)ワルベルク指揮。第1組曲の順番ではなく、歌劇のなかで演奏される順番に曲を配列。意外にこういう形での演奏はお目にかかれない。最後の間奏曲、アラゴネーズが静かに終ってしまうため演奏効果の点で敬遠されるのかもしれないが。なかなか良いと思ったのは、最初と最後に、いわゆるスペイン的情熱が前面に出、しかし前奏曲は明るい情熱、最後の間奏曲は、カルメンの運命を思わせる暗い情熱。それらに挟まれる形で、カルメンの死の象徴、ホセの竜騎兵のテーマ、ミカエラの純情を思わせるフルートなど各キャラが明確に提示され、交響詩的な趣が感じられたのには一興。確かに第1組曲のように、チャンチャカチャカチャカ・・・のあのテーマで騒々しく終わるのは、違和感を感じていたので(やはりオペラでの続きにあたる、カルメンの死のテーマ、前奏曲後半部はその後すぐ聴きたいのだ。)、このワルベルクの提案には諸手をあげて賛成、ということだ。ワルベルクの雄姿もまたなつかし。
ショパンのピアノ協奏曲第1番第3楽章。(1986.8.8)外山雄三指揮、ブーニンのソロ。若きブーニン、日本が彼に熱狂した時代も今は昔。
モーツァルトの交響曲第40番第1楽章。第1445回定期(2001.11.8)サンティ指揮。
チレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」から「私は神のいやしいしもべです」。第1557回定期(2005.12.7)。サンティ指揮。マルフィージの独唱。すっかり、サンティ氏もN響になくてはならない存在、という位置を占めてきたのを感じる。
今回は、ちょっと古めな演奏も多く交えて、面白く聞かせていただく。名曲コンサート的に親しみ深い選曲でもあろう。
6/25(日)放送
「もっと知りたい」と題して、N響団員を迎えて。その第1回は、打楽器奏者、植松透氏。華麗にタンバリンを片手に踊りながらの登場。打楽器奏者ってこういうノリ、という典型だ。まずは楽器紹介。ヴィブラスラップやら、フレクサトーン、トーキングドラムと、まずオケではお目にかかれない珍楽器もユニークに紹介していただく。
最近の演奏から、ティンパニの活躍するシベリウスの交響曲第1番より、第2楽章以外を。第1567回定期(2006.4.19)。デュトワ指揮。
続いて、武満徹「フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム」抜粋で。武満徹メモリアルデー・コンサート(2006.2.20)。アシュケナージ指揮。5人の打楽器奏者とオーケストラのための作品。会場から奏者が演奏しながら登場するという趣向。ただ、あまりに断片的にしか放映されず、作品の全体像はわからなかった。
これも最新の演奏から、ハチャトリヤンの「ガイーヌ」より「剣の舞」「レズギンカ」。第1571回定期(2006.6.3)。渡邊一正指揮。随分、白熱した演奏で楽しめた。また、1990年のホルストシュタイン指揮による同曲の植松氏の演奏の映像なども流れ、随分風貌が変化したことが明らかだ。それはともかく、まだ駆けだしの時代、小太鼓を担当し、一人で叩いてみろ、と練習でつかまり、もっとゆっくり、もっとゆっくり、と何度も言われ、何が悪いのかは明言せず、そのように家で練習して来なさい、とだけ言われたのがとても印象深い、と。結局何が悪いかはわからないものの、自分で考える大切さを教わった・・・とのエピソードは興味深かった。
(2006.7.17 Ms)
7/2(日)放送
岩城宏之追悼番組。
ゲストは同僚の指揮者、外山雄三氏。元N響ピアノ奏者、本荘玲子氏。やはり、芸術家、指揮者としては若い死であった・・・同じ時代を共にしてきた友人たちに見送られて、これだけその死を悼む親しい人々の、好意に充ちたコメントを聞くにつけ、まさに思うところ。例えば、比較するのが適当とは言えないだろうが、伊福部氏の死に際して、これだけざっくばらんな、追悼の番組はできなかったのではないか。
彼の指揮の軌跡をたどる、大変意義深い番組となった。まずは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」から「いけにえの踊り」。第830回定期(1981.1.21)。彼の代名詞的な作品でもある。演奏自体は今聞くと少々荒いか。リズムの感じがギクシャク聞こえる点も感じられる。今のオケの方が、その辺は巧くやれるかも。しかし、指揮者から伝わる気迫に応えようとする懸命さ、そして凄み、をオケから感じたのが今回の演奏。当時、まだまだ、やり慣れたとは言えない作品といえるだろう・・・その緊張感が逆に聴く側をほっておかない、という感もあり。外山氏も、時代の記録としてこの演奏を高く評価していた。
続いて、N響海外公演のために書かれた、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」(1960.11.10)。相当古い演奏で、白黒画像、しかし音声はキレイになっている。客席の様子が、着物姿の人がいたりして、時代、も感じる。ホルンの千葉氏の雄姿など、かなりいい感じだった。
武満徹の「テクスチュアズ」。第1016回定期(1987.3.6)。ピアノ独奏つき。本荘氏の演奏で。曲としては、なかなか難しい。
最後に、彼のN響デビュー曲で、奇しくもN響との最後の演奏となってしまった、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第4楽章。第1291回定期(1996.4.17)。自然な情感がたっぷり感じられる充実の演奏。全曲は、BSでも追悼番組として放送された。
なお、懐かしかったのは、N響アワーの司会ぶり。司会を務めたのが1992年4月からの1年。そのなかで8月29日の放送が少々紹介される。何度か見た記憶はあり、たった1年とは思ってなかった。
7/9(日)放送
音楽百科、モーツァルトとショスタコーヴィチの特集、今回はピアノ協奏曲。二人ともピアニストとしても優れていた、という観点で。
モーツァルトは、ピアノ協奏曲第20番第1楽章。ニ短調の有名なもの。デュトワ指揮、アンデルジェフスキのピアノ。第1566回定期(2006.4.14)。
ショスタコーヴィチの方は、ピアノ協奏曲第1番、こちらは全曲。サロネン指揮、トラーゼのピアノ。第1475回定期(2002.12.6)。2002年のベスト・コンサートでもあった。
その他、ショスタコのピアノ協奏曲に先だって、2004年のヨーロッパ公演のアンコールから、「黄金時代」のポルカを紹介。同時代のユーモラスな作品ということで、調性音楽を意識しつつも、調子ハズレな効果をふんだんに活用して、確かに同じ精神で書かれたものだろう。この聴き比べは興味深かった。モーツァルトよりも随分手あつく紹介していただきありがたいことで。
7/16(日)放送
評論家、立花隆氏を迎えて。池辺氏とも幼なじみ、とのこと。私としては、環境ホルモンとかの話題を取りあげていた姿に印象が残るが、活躍は多岐にわたり、ワインの製造から、自主レコードの製作、となかなかに幅広い。そのレコードは、打楽器奏者の吉原すみれ氏のものが紹介されていた。20世紀の現代音楽にも造詣深く、また、フーガに対する思い入れもあるようで、そういった凝った選曲となったのは興味深かった。また、池辺氏が音楽の道に進むにあたり、家族に対してプッシュしたのが立花氏であったという秘話やら、立花氏の詩に作曲したのが池辺氏にとって唯一の12音技法の作品、などというから、かなりの親密ぶりだ。
シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」より。第1416回定期(2000.10.25)。アシュケナージ指揮。全曲聴いてあまりピンとこなかった記憶があるが(アシュケナージが音楽監督になった頃、数度、この定期は再放送されているが)、最後の部分の抜粋を改めて聴いて、よどんだ和音・オーケストレーションが醸し出すの雰囲気といい、不安をあおり、耳にこびりつく何かがある。後期ロマン派の世界そのもので、聴きやすさも感じられるし、今回、あらためて注目した。
ストラヴィンスキーの「ペトルーシカ」(1911年版)から第4場。第1530回定期(2004.12.8)。デュトワ指揮。なかなか華麗で、生き生きしたいい演奏ではないか。当時聴いた時は、聴き慣れない原典版ということで、あまりいい印象を持っていなかったが、これも、あらためて気に入った。
最後に、バッハの「前奏曲とフーガ 変ホ長調」シェーンベルク編曲。(1988.3.10)。スウィトナー指揮。おお懐かしい。しかし、曲はちょっと長さを感じる。オーケストレーションも、さほど良いとは思えず。
(2006.7.30 Ms)
7/23(日)放送
先月から始まった「もっと知りたい」。オーボエの池田昭子さんを迎えて。
池田さんと言えば、N響という日本を代表するオケでありながら世間一般社会的にはやはり地味な存在のなかで、ある種、社会現象的な存在(?)などと私は考えている。いまやクラシック音楽の認知度をかなり上昇させていると思われる「のだめカンタービレ」の熱狂ファンでもあり、その「のだめ」コンサートなどにも出演され、その流れゆえか、やや古いけれど我が手元にある「週刊朝日05年11月18日号」にも、2ページの特集として「オーボエ奏者池田昭子さんの注目度」なんて記事もあったりする(余談ながら、当該雑誌の表紙に「ポスト小泉は竹中」などと大書されているのは今さらながら恥かしいものだ)。さて、その池田さんを迎えて番組、リード作りの職人芸なども紹介され大変興味深いものだった。放送された曲は以下のとおり。
バルトークの管弦楽のための協奏曲の第2楽章「対の遊び」。第1538回定期(2005.4.9)。メルクル指揮。
いきなり、キレイな女性奏者の紹介を兼ねた第1曲目が、こういう近代ものだったりするのが個人的には好感大ながら、一般的には、なんだこのヘンテコな音楽は?などと思われるかしら。確かに第2オーボエもUpで写ったりはするけれど。
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第2楽章。第1479回定期(2003.1.15)。イルジー・コウト指揮。
やっと安心、いわゆる名曲で、ああ、こういう役回りの人なんだ、とわかる選曲。確かに第2オーボエよりは、コールアングレ奏者としての方が活躍ぶりはよく分かると言うもの。オーボエとコーラングレの違いなどもスタジオで紹介していただく。5度低い、だけでなく音色の違いも際立っているのが明瞭。オーボエは息を直線的に吹き込み、コーラングレはもっと深く、楽器全体を鳴らすようなイメージ、といったコメントもなるほど、と思わせる。
フランクの交響曲の第2、3楽章。第1573回定期(2006.6.14)。メルクル指揮。
個人的には、「ローマの謝肉祭」、「ウィリアム・テル」序曲や、ラベルのピアノ協奏曲第2楽章などの雄姿をもう一度拝見したかったが、最近の演奏ということでフランクか・・・でも第3楽章はそんなに彼女の姿も見られず、番組としてはちょっと安直ではなかったか。第3楽章のかわりに、もっと、これがコーラングレだ、みたいな曲を聞きたかったなあ。
最後にスタジオでの生演奏。テレマンの12の幻想曲第2番からアダージョ。
8/6(日)放送
小豆島で名曲リゾート。
毎年恒例、夏は野外にて。今年は瀬戸内海から徳島へ。
モーツァルトの歌劇「イドメネオ」序曲、アリア「海の外なる胸の内の海は」。第1547回定期(2005.8.31)スタインバーグ指揮。
瀬戸内海を地中海に見立てての旅。ギリシャにまつわる作品にて開始・・・それならニールセンの「ヘリオス」を是非やっていただきたかった・・・。
エルガーの「愛のあいさつ」。長野県民文化会館(1997.10.5)ワルベルク指揮。
愛を語る観光スポットにて、やや安直なる選曲か。
R.シュトラウスの交響的幻想曲「イタリアから」第4楽章「ナポリの人の生活」。第1392回定期(1999.11.10)サヴァリッシュ指揮。
ロープウェイに乗って山頂へ。登山列車のキャンペーンソング「フニクリ・フニクラ」を主題とした作品を。サヴァリッシュの雄姿がなつかしい。曲はやっぱり、フニクラなわけで、シンフォニックで動機を展開している様子がかえって滑稽な感じ。
アイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」。(1996.8.1)ジェームズ・ジャッド指揮。
「二十四の瞳」の舞台となった教室の跡にて。廃校になった当時のまま教室が残されているのが印象的。懐かしい教室のオルガンで池辺氏がアイルランド民謡を奏でる。
ラベルの「ダフニスとクロエ」第2組曲「夜明け」「全員の踊り」。第1550回定期(2005.9.24)アシュケナージ指揮。
瀬戸内海の風景と、ラベルの華麗な音響がいまいちリンクしないような気もしたが・・・。
8/13(日)放送
「第9」日本初演の地をたずねて。徳島にて、今年封切られた映画「バルトの楽園」のロケ地や、ドイツ館といったスポットを巡る。
以下の放送される曲は、徳島の収容所でドイツ人たちが演奏したと伝えられるもの。
ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番から。(2004.10.9)アシュケナージ指揮。
監獄が舞台のオペラである、ドイツ人たちも感慨深く演奏したと伝えられる。
ハイドンの交響曲第94番「驚愕」から第2楽章。(1992.9.21)アサートン指揮。
ベートーヴェンの交響曲第9番から第4楽章。(2005.12.14)アシュケナージ指揮。
ベートーヴェンの交響曲第4番から第4楽章。第1512回定期(2004.4.15)スクロヴァチェフスキ指揮。
鳴門のうずしおを見ながらのベートーヴェン、それも4番、かなりマッチしているのが面白い。躍動的なスクロバ氏の演奏も快い。演奏もじっくり見たかったな。
8/20(日)放送
俳優・演出家、白井晃氏を迎えて。
三谷幸喜「オケピ」への出演、また、昨年初演されたオペラ「愛の白夜」の演出など紹介されていた。
ベルリオーズの「ハンガリー行進曲」。第1565回定期(2006.4.8)デュトワ指揮。
「ファウスト」の劇を演出した関係での選曲。
グリーグのピアノ協奏曲から第1楽章。東京文化会館(2000.7.28)サカリ・オラモ指揮。東誠三氏独奏。
バッハのブランデンブルク協奏曲第6番から第2、3楽章。第九演奏会(1984.12.22)ノイマン指揮。
音楽にも造詣深く、ピアノの演奏や、劇でのクラシック音楽の活用などの話からこれらの選曲。ノイマンの指揮は、今となっては貴重なものだ。弦楽オーケストラとしての演奏が、最近にない原典主義っぽくないアプローチで新鮮。しかし、あまりに地味な作品だ(ヴィオラ以下という編成。ヴァイオリンはなし。)。室内楽的な演奏でもけっこう、音色から来る印象で重く感じるが、編成が大きいとさらに鈍重な感じ。
最後に、ヴェルディの歌劇「椿姫」から「ああ、そはかの人か」「花から花へ」(2000.5.6)チョン・ミョンフン指揮。スミ・ジョー独唱。
(2006.9.2 Ms)
9/3(日)放送
最近の演奏会から。
札幌でのPMFへの参加。7/30のピクニック・コンサートでの模様が紹介された後、同様にウィンナ・ワルツ、ポルカの選曲による、「N響・夏」(2006.7.21)から、シュトラウス兄弟の「ピチカート・ポルカ」、ヨハンJr.の「雷鳴と電光」。クライツ・ベルク指揮。
そして、「ほっと・コンサート」から。今年は、前半、吹奏楽、続いて弦楽合奏、最後にフル・オケという編成で。その中から、吹奏楽作品では大曲で有名なアルフレッド・リードの「アルメニアン・ダンス パート1」。山下一史指揮。私も高校時代、リード氏の作品は多く演奏したが、この代表作は実際に演奏することはなく。でも聴く機会には恵まれていた。リード作品の中ではもっと現代的な感覚にあふれたものが好きで、この俗っぽい軽さはさほど心には留まらず。ただ、さすがオケ?と思ったのは、トランペット・トロンボーンがうるさ過ぎず、逆にホルンが壮麗に響き、新鮮な吹奏楽サウンドではあった。また、コーラングレやコントラバス・クラリネットなども用意された完全編成は珍しさもあって興味をひく。
最後に、尾高尚忠の交響曲第1番第2楽章の初演。第1574回定期(2006.9.2)。外山雄三指揮。最近見つかったらしい。ただ、最後の部分に欠落があり、その部分はご子息が補筆。綺麗な自筆譜であった。音楽自体は、ロマン派的気分濃厚なもの。
9/10(日)放送
音楽百科。モーツァルト&ショスタコーヴィチ企画は何処へ。シューマン没後150年企画。
第1524回定期(2006.6.9)から、準・メルクル指揮。クララ・シューマンのピアノ協奏曲から第1楽章。そして、ローベルトの交響曲第1番「春」。
クララの協奏曲は、第2楽章こそ白眉。第3楽章はややとりとめなくあまりいい感想はない。ただし、第2楽章は、ピアノ・ソロとチェロ・ソロの二重奏・・・N響アワーという趣旨からいうと取りあげにくいか。ピアノ独奏はシューマンのスペシャリスト伊藤恵。22年前のインタビューなど紹介されてほほえましい・・・クララのようになりたい、と。
この定期は実際に会場で聴いたので、トピックスにての記載とします。
9/17(日)放送
料理記者、岸朝子氏を迎えて。
ロッシーニ、歌劇「セミラーミデ」序曲。NHK音楽祭(2004.10.3)。サンティ指揮。料理を絡めて、美食家ロッシーニの作品から。
プッチーニ、歌劇「つばめ」から「ドレッタの夢」。第1557回定期(2005.12.7)。サンティ指揮。娘のマルフィージの独唱。オペラがお好きとのことで。また、クラシックとの出あいは、N響の前身、新響から、ということで、何とも貴重な、当時のローゼンシュトックの指揮姿(昭和26年)などもチラリと紹介された。やはりドイツものが当時としてもメインになるわけで・・・。
ベートーヴェン、交響曲第6番「田園」第2楽章。第1552回定期(2005.11.2)。アラン・ギルバート指揮。
ヨハン・シュトラウス、「ウィーンの森の物語」。第1509回定期(2004.2.19)。ワルベルク指揮。最後は、ウィーンのホイリゲ(ワインの居酒屋)の話題もでたところで、ワルベルクのウィンナワルツの夕べから。チターの替わりに弦楽のソロで最初と最後の一節が演奏されるがかなりいい雰囲気だ。ワルベルク、懐かしさもひとしお。
(2006.9.19 Ms)
10/1(日)放送
最近の演奏会から。9月定期はN響正指揮者による演奏。惜しくも岩城氏は亡くなられたので、外山氏、若杉氏の二人でそれぞれマーラーを振る。
まずは、交響曲第5番第1、5楽章。第1574回定期(2006.9.2)。外山雄三指揮。
続いて、交響曲第9番第4楽章。第1575回定期(2006.9.8)。若杉弘指揮。
正直なところ、あまり好感は持てず。5番はとにかく熱気がない。第1楽章の中間部にしろ煽動するパワーがない。淡々としている。外山的なのだろうが、なぜに彼がマーラーを振るかが不明。確かに番組内のインタビューで、かつてマーラーが一般的でなかった時代、N響を振る際、貸し譜の到着が遅れて演奏に支障があったので再チャレンジとのお話あり。極めて個人的理由か。選曲自体、彼の持ち味、せっかくの創立80年記念に活かされてなかったのではないか。
9番、曲自体の感銘の深さ、再認識。遥か彼方の過去なりを見つめるような感傷、切なさをもって。ただ、対抗配置ゆえか、弦のアンサンブルにほころびが見えすぎてややつらい。
10/8(日)放送
音楽百科。モーツァルトとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を聴く。
モーツァルトは第5番「トルコ風」、ショスタコーヴィチは第1番。それぞれ第1楽章を省略しての放映。その共通の切り口が、「異国情緒」、というのが興味深く、しかし、こじつけ気味か。
前者は、確かに古典派時代のトルコ趣味はまさに異国情緒。トルコ行進曲の作例もある。今回の協奏曲では第3楽章のメヌエットに突然挿入されるトルコ風楽想。当時としては荒っぽいリズムの強調。
後者における、ユダヤ。これは確かに言われていることだ。番組でも、ショスタコーヴィチのユダヤ作品一覧という表が出て、第2次大戦直後に集中している点を説明。大戦後のソ連のユダヤ政策、またイスラエル建国などとも結び付く、と。なかなか踏みこんだ解説だ。具体的にどこがユダヤか、という点では、第2楽章中間部の、ウンパッ・ウンパッ・・・という伴奏型を例示。ユダヤのフォークダンスとの関連を指摘。TVでここまでの詳細に触れて頂き感謝。面白く見させていただく。ただ、「異国情緒」、というのはややしっくりこない。「民俗音楽への接近」くらいの方がすんなり来る。ショスタコーヴィチにおける「異国情緒」と言うなら、「ロシア・キルギス序曲」とか、「日本の詩による歌曲」あたりだろうか。
さて、演奏は、前者が第1340回定期(1998.1.8)。藤川真弓のソロ、ハンス・ドレヴァンツの指揮。
後者は、第1577回定期(2006.9.22)。ボリス・ベルキンのソロ、アシュケナージの指揮。かなり精度を欠く一体感のない演奏と感じたのが残念。速い楽章はともかく、感動的な第3楽章パッサカリアにおいてさえ意志疎通が感じられない箇所が散見され聴く側の集中力が削がれた。
10/15(日)放送
ゲストの回。鬼才音楽家・菊地成孔(ナルヨシ)氏を迎えて。文筆家でもあり音楽家でもある。ジャズが専門のようで、サックスを演奏している映像やジャズ理論の教授など紹介されながらも、クラシックにも造詣深いとみえ、番組全体(選曲、コメントあわせ)なかなかに楽しめた。
武満徹の「ウィンター」。第623回定期(1974.2.13)。過去のN響映像データを全てチェックした上でのリクエスト。アーカイブの最も古い中から、武満・岩城関連ということもあっての選曲。札幌五輪記念演奏会のための作品と言うから随分時代の経過を感じる。まだ、70年台前半と言えば、前衛まっただなか、という池辺氏の指摘もあったが、確かに、後年の武満氏の柔らかさよりは、尖った印象あり。岩城氏の若かりし頃の映像、というのも感興をそそった。なお、奏者の顔があまり写らない(楽器のアップとか、遠景とか)のが、あまりに抽象的な作品とマッチしたようにも感じた。
演奏後の感想で、70年の大阪万博が契機となって、一般大衆に対しお茶の間にも現代音楽の響きが到達していった時期、というのが興味をもつ。
ベルリオーズの幻想交響曲第4楽章。ミヒャエル・ギーレン指揮。第720回定期(1977.4.22)。随分と遅い演奏だ。その分、おどろおどろしさが強調される。冒頭ティンパニの6連符も作曲家の指示通り、片手で叩けるようなテンポということでの説得力もあり。
続いて、ヴァレーズの「アンテグラル」。デーヴィッド・ロバートソン指揮。第1406回定期(2000.5.12)。モダンジャズの立役者、チャーリー・パーカーがヴァレーズの音楽に心酔していたというエピソードは面白かった。「あなたの召使になります。」という弟子入り嘆願の様子、そしてパーカーの夭折により弟子入り寸前で果たさなかった・・・という話は悲しくもあり。さて、作品自体は、ああ懐かしい・・・こういう音楽を探索しては聴いていた時代も私にあった。管楽器と膨大な打楽器群(ライオンズ・ロアや、木魚の音響の新奇性はいいな)のための作品。音響の祭典。こういった派手派手しい音塊に洗礼されるのもたまには悪くない。単純に、本能的に面白い、と感ずる。
最後に比較的聴きやすく、ラベルの「優雅で感傷的なワルツ」。デュトワ指揮。第1423回定期(2000.12.16)。美しく洒脱な演奏だ。デュトワとの蜜月を思い出させる。この時期、もっとN響を積極的に聴いていなかったのが悔やまれる・・・故スヴェトラーノフもしかり。
(2006.11.24 Ms)
10/22(日)放送
N響団員を迎えての「もっと知りたい」、ハーピストの早川りさこさん。
マスカーニ、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲。キンボウ・イシイ・エトウ指揮。(2005.7.22)。N響「夏」2005より。
ウェーベルン、「パッサカリア」。若杉弘指揮。第1575回定期(2006.9.8)。
レスピーギ、「ローマの松」から「ジャニコロの松」。山下一史(2006.8.6)。ほっとコンサートより。
マーラー、交響曲第5番第4楽章。外山雄三指揮。第1574回定期(2006.9.2)。
選曲が最近の演奏会に偏っていて、特にウェーベルンでオケにおけるハープの役割をわからせるのはやや難しい選曲ではあったと思うが、優雅な外見に比べて忙しい足のペダル操作にクローズ・アップさせていたのは面白い映像。そして、マーラーのアダージェットにおける、奏者の視線の動き(楽譜見て、指揮者見て、弦を見て)の様子も苦労を思わせていた。
最後にスタジオでのソロ演奏。ヒンデミットのハープ・ソナタ第3楽章。こんな作品もあるんだ・・・ヒンデミットにしてはあまり和音に暗さを感じさせない(ハープの音色に影響されてか)もの。個人的には、いかにもハープというおしゃれさを思わせるフランスものなど聴きたいとは思った(フォーレとか)が、知られざる作品をあえて持ってきた姿勢には好感。
11/5(日)放送
最近の演奏会から。アシュケナージの指揮による、アメリカ公演及び10月定期。
エルガーのエニグマ変奏曲から「ニムロッド」。ロサンゼルスのウォルト・ディズニー・ホールにて。(2006.10.14)。地元紙の論評としても、評価が高かった「ニムロッド」、しっとりとした名曲です。
エレーヌ・グリモーのソロで、バルトークのピアノ協奏曲第3番。第1579回定期(2006.10.6)。グリモー前回登場のシューマンは私にはしっくりこなかったのだが、バルトークは秀逸。メカニックさ、特に低音の轟音など迫力に満ち、作曲家が息絶える寸前の生き様、民俗音楽の力を信じての最後の創作の壮絶さを私は思った。
ラベルの「ダフニスとクロエ」第2組曲。第1579回定期(2006.10.6)。合唱付き。昨年の海外公演でもやっていたっけ。お得意レパートリーということだろう。でも、どうも同じ曲が最近よく取りあげられているように思う。もっといろいろあるのに。演奏自体何も不服などないのだが。
11/12(日)放送
音楽百科。モーツァルトとショスタコーヴィチの師について。
前者においては、父・レオポルド、そして、ヨハン・クリスティアン・バッハ(ロンドンにて、交響曲の作曲のきっかけとなる)、そしてハイドン等々。そのハイドンの影響で、交響曲のレベルが上昇、と。当時のハイドンの39番ト短調もチラリと流れていた。
後者においては、まずは、グラズノフ、そして、マーラーときて4番の紹介(マーラーの7番のスコアを研究しながら作曲とのコメントも)。最後は、ロシアの庶民を主役とした創作としてムソルグスキー、ときて本人も最もムソルグスキー的と称する11番。ただし、第3楽章とは地味だなあ・・・しかし、ヴィオラの旋律の美しさはさすが、である。
モーツァルトの交響曲第25番第1楽章。ジェイムズ・ジャッド指揮。第1535回定期(2005.2.12)
ショスタコーヴィチの交響曲第4番第3楽章。アシュケナージ指揮。第1564回定期(2006.3.8)
同じく交響曲第11番「1905年」から第3楽章。北原幸男指揮。第1168回定期(1992.3.25)
今回をもって、記念年特集は完・・・やはりN響自体、ショスタコーヴィチのアーカイヴに限りもあり、思ったほどに深まった感はなし。やや残念。
(2006.11.26 Ms)
11/19(日)放送
假屋崎省吾を迎えて。かなりクラシックの素養もあるようで。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番第1楽章。デュトワ指揮、ランラン独奏。第1463回定期(2002.6.13)。以前定演自体をTVで見ているが、怪演。難曲をやすやすと弾きこなす。それも、体全体、顔を含めて表情があふれでる。その視覚的な表現どおりに音が紡がれてゆく。そして何より壮絶な破壊力。クセはあるが魅力あふれる奏者であることを再認識。嫌悪の気持ちを持つ人も少なくないだろうが、体あたりの音楽に私は共感する。
うってかわって、ショパンのピアノ協奏曲第1番第2楽章。ローレンス・フォスター指揮、児玉桃独奏。(1997.8.19)。
シベリウスの交響曲第2番第4楽章。ブロムシュテット指揮。第1483回定期(2003.2.21)。生で聴いた演奏会、久しぶりに聴くが、色あせず感動を呼び起こす。来年の記念年はどんな出会いが待っているだろうか。
11/26(日)放送
N響ファゴット奏者、岡崎耕治氏を迎えて。
モーツァルトのファゴット協奏曲第1楽章。井上道義指揮。(1983.3.23)。全般的に軽快さが楽器の特性をよく表現できている楽曲。ああ、ニールセンにも予定どおり書いていただきたかったなあ。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」第1部。外山雄三指揮。第1576回定期(2006.9.13)。やはり凄みに欠ける演奏。理知的な、数学的な論理性が支配する作品とのアプローチならこういう線もあろうがそれでは面白くないのでは。野蛮主義らしさはもっと感じさせてほしい。ちなみに、ファゴットに難なないです。ただ、冒頭、苦しい音域であることを感じさせる工夫、といった観点のコメントは興味深い。今や、楽々吹ける音域だろうが、楽過ぎでは作曲者の意図とは違うわけだ。
ショスタコーヴィチの交響曲第10番第4楽章。アシュケナージ指揮。第1577回定期(2006.9.22)。ショスタコーヴィチ誕生日に近い時期の演奏でNHKのニュースでも取りあげられていました・・・全曲を今後聴いた後、感想は書きたい。
なお、スタジオでの演奏、まず最初に、シューマン「ミルテの花」から「君に捧ぐ」。番組最後に、ブラームス「歌曲集」作品105から「調べのように」。両方とも、奥様のピアノ伴奏で歌曲を持って来た。普段はコミカルな軽快なキャラがお馴染みだろうから、人間の声に近い、ということで歌を味わってもらう、との趣旨。個人的には、シューマンのいかにもロマン的な作風にはややファゴットに違和感を感じたが、ブラームスのような渋さ、落ち着いた雰囲気には違和感はなかった。ブラームスとファゴット、意外にマッチする取りあわせか。
(2006.12.4 Ms)
12/10(日)放送
最近の演奏会から。若手ヴァイオリニスト二人。
まずは、庄司紗矢香。第1581回定期(2006.11.10)。ノリントン指揮。古楽的アプローチ。ノン・ヴィブラートを基本とした弦のあつかいは、ソリストにも要求。さらに、カデンツァも奏者自作を勧めたとのこと。かなりユニークな演奏となった。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲より第1楽章。
なお、ノリントンとN響の共演は、今回のNHK音楽祭でも聴かれ、その時の模様は、練習風景を含め紹介されていた。とまどいつつも、指揮者の要求に答え、生き生きとした、そして今までのN響らしからぬ響きで統一されていた演奏が感銘的であった。モーツァルトの39番はかなりの名演だった。その時の驚きに比較して、今回はややインパクトに欠けたかもしれないが、それにしても立派なもの。東京交響楽団も、古楽的なものも取り入れつつあり、こういう演奏は若手指揮者にも広がりを見せており、今後のスタイルの一つとなってゆくのだろう。私は好意的に捉えている。
もう一人は、樫本大進。ベルクのヴァイオリン協奏曲。第1584回定期(2006.12.8)。指揮はツァグロゼク。12音技法ながら、聞くほどにロマン派的な面持ちは感じられてゆく・・・が、まだまだ苦手だ・・・演奏は巧いものだが。
06年の放送はこれで最後。NHK音楽祭の特番が年末に放映されたため。(2007.1.8 Ms)
N響 最近の演奏会から
1月の定期は、ブロムシュテットによる指揮で、ドイツ音楽の充実した演奏を。客演コンサート・マスターは、ペーター・ミリング。
第1559回定期(2006.1.28)。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲、独奏テツラフ。そして、交響曲第1番。後者は、N響アワーでも取りあげられたので、こちらでは割愛。.
Vn.協奏曲も、交響曲同様、隅々まで目の行き届いた、格調高い演奏だ。独奏のテツラフも、全く隙のない美感あふれる、かつ正確な演奏で、ブラームスの抒情と構築性を余すことなく表現。独奏、指揮ともに、過度のロマン性、大袈裟な表現はなく抑制されたなかにも、細かな配慮を伺わせる。ソリスト・アンコールは、バッハの無伴奏ソナタ第3番第3楽章。
第1560回定期(2006.2.3)。
モーツァルトの交響曲第34番ハ長調、そしてミサ曲ハ短調。これは、今回のブロムシュテット来日、1回は是非体感したいと演奏会場に赴いたので、トピックスにて取りあげましょう。ただ、特にミサ曲ですが、バロック的な格調高さ、対位法の巧みな展開、感銘深い作品を教えていただいたのに大変感謝です。未完成なれど、あのレクイエムに匹敵する、宗教的感興の深さ、この作品を知らぬ不明を恥じています。ソプラノ独唱の美しさも良かった。幸田浩子氏。
第1561回定期(2006.2.8)。
モーツァルトのピアノ協奏曲第23番、独奏ラルス・フォークト。そして、ブルックナーの交響曲第3番(第1稿)。
モーツァルトは、昨年9月の定期でも取りあげられたもの。丁度、N響アワーでは、昨年のヘルマンの独奏がオンエアされたので期せずして比較。フォークトの演奏はかなり寡黙なもの。限りなく抑制された表現が、いやおうなく緊張の度を高めていた。オケの編成も小さめに、室内楽的な雰囲気が濃厚である。
ブルックナーの3番第1稿。数年前の来日時にもN響で演奏しているほど、ブロムシュテットお得意のもののようだが、どうも最終稿に比べて支離滅裂な印象を持ってしまう。なかなかに親しめない・・・ただ、演奏としてはトロンボーンの充実した響きが良かった。
(2006.3.5 Ms)
武満徹メモリアルデー・コンサート(2006.2.20)。アシュケナージ指揮。
武満徹「リヴァラン」(アシュケナージのピアノ弾き振り)。ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」。ナッセン「ヴァイオリン協奏曲」(ジェームズ・エーネス独奏)。猿谷紀郎「Where is He? 夢 まじらひ」(委嘱初演)。武満徹「フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム」。
ドビュッシーに再認識。冒頭のフルートが、木製の柔らかな音色を響かせる。あいまいな和声のうつろいの美しさ。どうも、名のみ知られ、たるい・面白みに欠ける、との印象ばかり持っていたこの作品ながら、ここ数年のフォーレへの興味が土台になってか、自分にも共鳴する度あいが増幅されてきたように、久しぶりに聴いてみてそう思った。さらに、ドビュッシーのあいまいなこの感触は、特にタケミツ作品の「フロム・ミー・・・・」にもふとよぎるように感じた。「リヴァラン」はあまりそう思わせなったが・・・。
最後の曲は、5人の打楽器奏者のソロを擁し、冒頭、アンティーク・シンバル(まさに「牧神」で後半にかすかに響く調べ)を鳴らしながら、客席や舞台裏から各々登場する。そして、舞台の中央(通常の協奏曲のソロの位置)に、ヴィブラフォンやスティール・ドラム、左右に、各種の太鼓やら銅鑼の類、さらに舞台奥手の左右に、マリンバを中心とした奏者、計5名が配置。民俗音楽系の楽器も交えて、多分即興的な要素も交えて不可思議な雰囲気を醸し出す。旋律素材としても、幾分歌いやすいモチーフが設定されており、晩年近いタケミツ・ワールドなのかな、と私自身全く詳しくないものの、一定の聴きやすさはある。
(2006.12.14 Ms)
2月定期。アシュケナージによる指揮。N響創立80年記念公演の一環として、スクリャービンの「プロメテウス」の、色光ピアノを用いた演奏がトピックということか。ただ、随分とこの項の記載が遅れてしまったのは、1564回定期の放映が国会中継絡みで延期になってしまっていたことによるもの。晴れて、3回分見終わったので、もう、季節は冬から夏へ移行しようとしているが、思い出しつつ書きましょう。
第1562回定期(2006.2.25)。
スクリャービンの交響曲第1番及び、例の「プロメテウス」。後者はN響アワーでも取りあげられたので省略。
第1番については、最終楽章で、独唱・合唱が作曲者本人による詩を歌い、その内容は、「芸術讃歌」。ただ、若書きだなあ。その最終楽章の重要箇所と見なされるフーガ的な部分は、いかにも勉強したとおりフーガを書きました、という程度にしか聞こえず。
全体的には、アレグロ的な楽想の部分は、悲劇的な映画音楽風でもあり、通俗的な雰囲気も漂う。第2番の交響曲との親近性は感じる。一方で、ボロディン風な、ロシア・アジア的な一節なども聞かれる。
そのような親しみやすい楽想がある反面、構成的には、なんとも冗長な感じ。大曲ではあるが、聴後感としては、充実感を得にくいかな。ただ、第3楽章のスケルツォの鉄琴の使用は効果的だった。また、スヴェトラーノフのCDの演奏だと、楽譜にはないシンバルを要所に付加して、盛りあげを図っているが、それがおおいに賢明な選択であることは痛感した。スクリャービンの音楽には、もっと、金属的なきらびやかな音色の饗宴が相応しい、と思う(「法悦の詩」のイメージが大きいかも。)。その萌芽が一瞬にしか感じられないので、この楽譜どおりの演奏に物足りなさを感じてしまったか。これは随分、勝手な個人的な感想にすぐぎないけれど。
第1563回定期(2006.3.3)。
チャイコフスキーの1番、6番。6番は、N響アワーでも取りあげられたので省略(アワーでは確か第2楽章が割愛されていたように記憶するが、特にその部分で特記することもない)。
1番も、6番同様に、アシュケナージの指揮は、いまいち、チャイコフスキーの熱狂的なロシア的な血潮を感じさせない。淡々とした感覚が先に立つ。が、例外的に、フィナーレだけは、N響としても何かしら、浮かされたような激しさが感じられたのが嬉しい。特に第2主題の、いかにもロシア民謡ですと言わんばかりのテーマ。ピチカートの主題提示も、遠く、プロコフィエフの「キージェ中尉」の「トロイカ」のオーケストレーションの先祖的な感興を呼び起こし、伴奏の、「ンチャ・ンチャ」と続くコサックダンスみたいなノリも充分楽しい。くど過ぎるコーダも、加速につぐ加速がスリリング。この楽章あってこそ、この定演の印象づけが大きく変わったので特記したい。
第1564回定期(2006.3.8)。
当初は、ショスタコーヴィチの14番、というアナウンスがされており、おおいに注目していたが、結果、4番に差し替わっていた。その点がまずもって残念。
さて、プログラム前半は、ジャンワンをソリストに迎えての、エルガーのチェロ協奏曲。どうも、この作品には、デュプレの悲劇的人生がオーバーラップされて聞くクセがついているようで、ある種その雑念を取り除いてくれた演奏であった。
つまりは、個人的には、特にデュプレの映画のイメージ、まさに、映画で流れた第1楽章と、その映像のイメージが強烈で、大悲劇を想起する、のだが、今回の演奏は、もっと、古典的な、純音楽的な意識をさせてくれるもので、大悲劇のスケール感を排除し、不必要なまでのドラマ性を私から拭い去ってこの曲を聞かせてくれた、という感がある。丹精に、細やかな配慮をもって第1楽章を構築した、という感覚。大胆、熱狂、といった感覚とは違うもの。さらに、後続楽章が比較的、控えめな性格を持っている点に今回はじめて気付いた、という要因も大きいが。
ジャンワン自体、バッハの無伴奏全曲をBSで聴いた機会があったが、やはり、丹念に細やかな配慮の行き届いた演奏という記憶がある。曲によっては物足りなさを感じることもあるのかもしれないが、エルガーについて言えば、この方向での説得力はあったので違和感はなかった。
さて、ショスタコーヴィチの第4番。ちょうど、私事ながら、彼の5番の分析めいた文章を書き続けているところ(まさにこの演奏会のあった3月よりも前、2月からの連載だ)で、第4番についてもかなり詳細に触れざるを得なくなって、スコアや文献と格闘している最中に、放映とあいなったもの。自分のショスタコーヴィチへの共感がおおいに高まっていた時に、実際の音としてこの演奏を確認した時、さらなる感動があった。
2月定期の他2回は全般的にシラケ・ムードもないわけではなかったが、この4番には、N響の気迫、集中力が充溢して、画面からもそのライブ感がおおいに感じ取れた。第1楽章の展開部の驚異の弦楽による颯爽たるフーガ的展開のテンションも素晴らしく、その後のクライマックスも、やや危険な瞬間もありつつも(3拍子に移行する部分)、クライマックスのテンションのレベルを損なう事無く次の楽想へ移行して、徐々に弛緩してゆくあたり、絶妙な持って行き方だった(普通は、ここで流れが一瞬停滞しがちだが、やや強引に引っ張っていったのは正解だと思う)。その他、第3楽章のスケルツォ部分の精力的な運動性や、第3部のワルツ・ポルカの洒脱な雰囲気等々、聞き所満載で、おおいに聴く側も乗せられていた。この演奏なら、ライブで是非聴きたかった。この満足感をもって2月定期を総括した時、スクリャービンとチャイコフスキーの物足りなさは相殺されて、アシュケナージによるロシアものを含めて、今後への期待も随分と高まってしまう。
(2006.6.13 Ms)
4月定期。デュトワの指揮。
まず、第1565回定期(2006.4.8)。「ファウストのごう罰」全曲の感激については、N響アワーの項で紹介したとおり。
続く、第1566回定期(2006.4.14)。最初と最後にお得意のラベル、そして真ん中にピアノをソロとした作品2曲。
ラベルは、最初「スペイン狂詩曲」、最後「ラ・ヴァルス」。やはり安定した巧さを感じる。作品、演奏ともども。
他の選曲は、アンデルジェフスキをソリストに、ピアノ協奏曲第20番ニ短調と、シマノフスキの交響曲第4番(協奏交響曲)。残念ながら琴線に響かず。
第1567回定期(2006.4.19)。デュトワのシベリウス・プログラムとは珍しい。「フィンランディア」と交響曲第1番。ただし、真ん中には、ベートーヴェンのVn協奏曲。ソリストは、リサ・バティアシュビリ。それにしてもここ2,3年、ベートーヴェンのVn協奏曲、何度も聞いているような気がする・・・またか・・・という気もありつつ、何度も見るうち慣れてくるものだ。今回の演奏なども、端正に美しく凛々しいたたずまいはいい感じ。また、第3楽章のカデンツァの作りが、意外と、伝統的なあり方とは違う点を発見。
シベリウスは、あまりコメントすべく点もないか。ただ、第2楽章、ふと、木管の細かなトリルを伴う音型が、ストラヴィンスキーの「火の鳥」の一部に類似しているような気がした。そもそも、シベリウス初期の原始性、ストラヴィンスキーの初期に影響をしたかどうかは判らないが、随分と野蛮な表現も多いシベリウスの1番。ストラヴィンスキーのプロが奏でるシベリウスが、意識的か無意識的か、もしくは私の空耳かは知らぬが、20世紀の新しい音楽へと直接連なってゆくマイルストーンとして想起させるのは、興味深いことと感じた。
(2006.6.25 Ms)
5月定期。スクロヴァチェフスキの指揮。
第1568回定期(2006.4.29)。シューベルトの「未完成」、そしてモーツァルトの39、41番。
N響アワーの項でも触れた通り、攻撃的なソナタ・アレグロたるシューベルトの第1楽章は何度聴いても新鮮。変な感傷が付きまとう手あかまみれたる「未完成」に対して、ポスト・ベートーヴェンを狙うシューベルトという趣こそ前面に据えた、これぞ本物の演奏なのだと確信したくなる。偉大なる先輩指揮者たちを何となく真似しとけ、といった安易な姿勢とは全く異なるアプローチ、イギリスの俊英ハーディングなどもこういうスタンスなのだろうが、もっと、こういう演奏をこそ聴きたい。作品に新たな命を吹き込む名人だな、スクロバ翁。前回来日のベートーヴェンなども新鮮で感動のあらしだったな。
モーツァルトも、これまた先入観を打ち壊す仕掛けあり。
最も驚いたのは、楽譜に書かれた繰り返しをしっかりやっていた。特に両曲ともフィナーレが、前半後半ともにリピートするものだから、都合、演奏時間は倍になるわけだ。しかし、あきない。まだ聴きたい、という気持ちを起こさせるのだからよほどのもの。ようは、聴きなれたものと違うニュアンスがあったり、あれ、こんな風だっけ、と思わせたらしめたもの。もう一度、その仕掛けを確認させてくれるのだから嬉しい。サービス精神旺盛な演奏でもあるわけで。
とにかく楽曲全般に渡って隅々までよく統制がなされている。磨きがかけられている。全般的にピアノの語り口は有効に印象付けられている。
39番の両端楽章のアレグロも快活ななかに優しげな表情がポイントで効いていて、心地よい。第1楽章提示部の第1主題から第2主題へ移行する過程での音楽のほぐし具合といったら絶品だ。
フィナーレにもそういった同様の部分での柔らかな音色への変化がまぶしてあって、聴く者を飽かせることもない。また、展開部での、対位法的なからみが、金管やティンパニをかなり押さえたことで充分に浮き彫りにされていたのも面白い。音量の補強で使われる楽器が消しかねない楽曲細部のディテールを、見事に描けていた。みんなフォルテだ、勢いでワーっとやってしまえ、ではなく、あくまで展開の本質を見せてくれた演奏。
また、両曲とも特に第3楽章が速めのテンポで、典雅な宮廷のメヌエットから脱却しつつ、民衆の音楽への胎動を感じ取るのはどうだろう。お上品な貴族的、能面風ではない、愉快な愉悦あふるるダンス。モーツァルトにはやや意外なアプローチと思いつつも聴き進めば納得納得。
さらに、41番の圧巻はやはりフィナーレか。フーガ的展開。これも39番での指摘同様に、整然と各パートが対位法的な動きを聴かせ、奥行きある演奏。・・・そういえばつい先日教育TVで今年の「熱狂の日」、(モーツァルトの作品ばかり)を放映しており、やはり41番を聴いたがなんともガサツな印象が・・・。各パートが勝手に動いているようでギクシャクし有機的に聞こえない。チェロから独立してコントラバスまで独自の動きをしているくらいで曲を組みたてるのは難しいんだなあ、と思ったが、スクロバ翁にかかればそんな舞台裏は見えない。整然とした音楽がそこにある。もちろん、こういう作品をやらせればN響、さすが巧いもの、という側面もあろうが。スクロバ・N響のモーツァルト、記念年に相応しいハイレベルな楽興の時。うれしい限り。
第1569回定期(2006.5.12)。ブルックナーの8番。N響アワーで聴いた両端楽章の好印象、全編に渡っても確かに。特に、第3楽章の深さ、美しさ、この演奏で初めて私の心の近くにまでやって来たようだ。・・・ただ、やはり巨大さゆえに私の座右にはこの作品は、いやこの作曲家は鎮座することはなかろうが。でも、先天的な違和感から開放された、という意味で、有意義でありました。
おっと、でもここにはトリックがある。ようは、N響アワーで両端楽章、そして今回、2,3楽章を別々の日にに聴いた、ということで、長大な楽章による疲労感を軽減しての鑑賞、だった、ということが、ブル8高評価の最大の要因か。全曲とおしで鑑賞しての感想ならまた違ったか。
さらに追記事項。スダーン指揮、東京交響楽団による同曲の放送も見たばかり。その演奏との相対的な比較が感覚的にN響、スクロバ翁への好印象を誘ったか・・・。
第1570回定期(2006.5.17)。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。R.シュトラウスの「ツァラトゥストラ」。
特に「ツァラ」に感激した。個人的にも、ゲヴァントハウスの来日(ブロムシュテット指揮)でおおいに感銘を受けたが、色彩的なオケのあつかいは生でこそ最大限に感動を呼び起こすだろう。しかし、今回、TVとはいえ、オケも鳴りに鳴り、また、冒頭すぐ後の、室内楽的な、弦楽器の渋い響きの部分などもさすがに巧いものだし、さらにその後のハ短調の「歓喜と情熱」の部分の、様々な要素が絡みながらも情熱的な主題がうねるように奔流となって進む様など(それも、徐々にその感情の高まりは増してゆく・・・上手に計算された運び方だ)、もう次から次へと飽きさせない。後半の舞踊のクライマックスの激しさ、も素晴らしいものだった。
プロコフィエフも、ジョン・キムラ・パーカーの堂々たるソロは安定感あり(第1楽章の第2主題の和音打撃の連続の微妙な間合いなども面白かった)、オケも好サポート。ピッコロとピアノの高音域のどぎつい音響も耳に残る。プロコらしい響きだな。
それにしても、なんとパワフルな指揮ぶりであることか。複雑なスコアを読み解き、完全に構築、オケを統制、よどみない音楽の流れを、それも何とも活力あふれるものとして再現させている手腕は素晴らしい。オケものっているし集中度も高い。是非、生で体感したいものだ。
レベル高い5月定期。満足です。
(2006.7.25 Ms)
6月定期。
第1571回定期(2006.6.3)。渡邊一正指揮。
ハチャトゥリヤンの「ガイーヌ」から、「剣の舞」「ばらの少女たちの踊り」「こもり歌」「レスギンカ」。
いつ聞いても、曲自体おおいに楽しめる。N響アワーで、打楽器奏者、植松氏がゲストの時にも紹介されていたが、「レスギンカ」の太鼓も多少はアドリブ的要素も聞こえたりして好感。全般的に、燃焼度はさほど高くないが(スヴェトラーノフ指揮のロシア・プログラムの時の燃焼が忘れ得ぬ)、冷静すぎるわけでもなく、まずまず。この4曲のセレクトは、緩急つけバランスも取れ、いい感じ。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。ルノー・カプソン独奏。あまり心に届かなかった。アンコールはグルック(クライスラー編)の「メロディ」。通常「精霊の踊り」といわれているものか。
最後に、ラフマニノフの「交響的舞曲」。この2,3年前にも確かデュトワでやっている。そんなに聞く機会は多くない作品だが、好きな作品だけにありがたい。ただ、第1楽章はやや不満。アンサンブルの乱れや全体的な荒さが気になる。もっとも好きな部分だけに残念。最後の気休めのような第1交響曲を思わせる主題の部分、ピアノや鉄琴が清涼なイメージを醸し出す部分もぞんざいに流れてゆくのみ。もっと切々たる感情が欲しいなあ、この部分は。・・・ただ今回、比較的なじみの薄い第2楽章以降に好印象あり。
第2楽章はやや退屈でありきたりなワルツなのだが、チャイコフスキーをもっとねっとりさせたような弦の質感がどうも自分の感覚にすんなり合致したようで、意外にいい曲じゃないかと評価。冒頭の弱音器付き金管群と、続くフルートのパッセ―ジなど、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のような雰囲気もあったし、途中のVn.やヴィオラのソロはまさしく、マーラーの7番第3楽章と同じ動機で、音色もマーラーを彷彿とさせている。
交響曲第1番の失敗さえなければ、自分はストラヴィンスキーやマーラーを先駆ける存在になり得た、
とでも昔を懐かしんでいるラフマ翁の哀しい姿が目に浮かぶようで、切々たるノスタルジーあふれるワルツに感銘を受けた次第。
さらに第3楽章は、彼のトレードマーク「ディエス・イレエ」のテーマがまたか、という感じで強調されるものの、構成的には破綻しかけたものとも受けとってしまいがちだったが、今回は違った。大きな3部形式の枠の中で、まず中間部の緩やかな歌がしっかりと存在感を発揮して、曲の中核としての役割をもっていたようだ。特にその中間部が後ろ髪をひかれつつ減衰して行く過程で、Vn.の旋律に短調からの借用和音に呼応していやらしいポルタメントをかけている効果が、ググッと心に響く。そして、第3部の、終結に向けての求心力を持った曲の運びが今までになくスリリングなもの。低弦が機械的に固いリズムを響かせて行軍してゆくさまは、ラフマニノフの神髄ここにありと言わんばかりの、骨っぽい硬質な感覚が良い。ただただ、最後のドラの一発の処理だけはいただけなかった。中途半端。破壊的に鳴らしきるのか、逆に目立たせないのか、どっちなんだ?この処理さえ納得がいけてれば拍手大喝采だったのだが、最後がちょっと気持ちに隙間ができてやや白けた。ものの、全般的には、粗さもあるが好演として記憶に残るだろう。
第1572回定期(2006.6.9)。準・メルクル指揮。
シューマン夫妻プログラム。交響曲第4番初稿と、交響曲第1番「春」という、クララとの結婚後の「交響曲の年」の2作品に囲まれた形で、珍しいクララのピアノ協奏曲、専門家である伊藤恵の独奏。実は生で聞いているので、トピックスにて取りあげます。
第1573回定期(2006.6.14)。同じくメルクル氏で。
武満徹の「セレモニアル」。笙は宮田まゆみ氏。N響とは4度目の共演と。確かによく演奏されている。和を感じさせるデリケートな音楽。
モーツァルトのピアノ協奏曲第25番ハ長調。コワセヴィチのソロ。
そして、フランクの交響曲。どうも苦手な部類。循環形式とはいえ、ヴァイオリン・ソナタに比べてもあまりに露骨な主題回帰が取りとめのない印象あり。特に第3楽章後半で、第2楽章のテーマが大々的に再現されてからがよく意図がわからない。演奏としては、第1楽章でみせた弦楽器のトレモロの一生懸命さが好感(ヴィオラ勢の頑張りが良い)。
なお、この演奏会に先だって、正指揮者・岩城氏を追悼する、バッハのアリアの演奏があった。
(2006.9.14 Ms)
Music Tomorrow(2006.7.8)。
思うところ少なし。
ベネディクト・メーソン「ライトハウス・オブ・イングランド・アンド・ウェールズ」。ブリテン・コンクールでの入賞作、30歳を過ぎてから作曲を始めたという異色な経歴。灯台がテーマ、灯台の光が回転するような効果は感じられた。
猿谷紀郎「ここに慰めはない」(第54回尾高賞)。メゾ・ソプラノ独唱、小川明子。作曲家本人のインタビューも紹介されていたが、短二度をモチーフとした作品、確かに冒頭から短二度で作られている。歌曲でもあり、後期ロマン派の面持ちも多少は感じたが、持続はしない。
リゲティ「サンフランシスコ・ポリフォニー」。今年6月に亡くなったリゲティの追悼。指揮のジョナサン・ノットは、リゲティ管弦楽作品全集の録音もあるという。いわゆるトーンクラスターなのだろうけれど、残念ながら私には響くところはなかったか。
N響夏2006(2006.7.21)。指揮は、ヤコフ・クライツベルク。シュトラウスの作品集。ほぼヨハン2世の作品、一部ヨーゼフ含む。
ワルツ「北海の絵」、ポルカ「クラップフェンの森で」、ワルツ「南国のバラ」、ポルカ「大急ぎで」(ヨーゼフ)、ワルツ「美しく青きドナウ」「春の声」、ポルカ「憂いもなく」(ヨーゼフ)、ピチカート・ポルカ(共作)、ポルカ「騎手」(ヨーゼフ)「ハンガリー万歳」、皇帝円舞曲、ポルカ「雷鳴と電光」。
指揮者はレニングラード生まれで、現在ウィーン響の指揮者、ということでか、シュトラウスものでも、北国に関連するものを最初に配置したのは興味深い。冒頭から寒々した弦の刻みなどが、この手の演奏会にはない新鮮味を出してはいた・・・「北海の絵」は、北海の孤島での印象を描いたもので、メンデルスゾーンの「静かな海と楽しい航海」の構成をモデルにしているんだそうな。「クラップフェン」も元々はロシアで初演されたものを後に改題したもの。その他、ロシア絡みでは、「ピチカート」もロシアでの作品、「憂いもなく」も、ロシアで病気になったヨーゼフが吹っ切る為に書いたものという。
全体に色々な趣向も楽しく興味も持続した。「クラップフェン」の鳥のさえずり、「憂いもなく」の奏者の笑い声、「騎士」のムチ、「ハンガリー」のラコッツィ行進曲の引用、「皇帝」の高雅なチェロ・ソロ、「雷鳴」のシンバル・大太鼓の炸裂・・・。
アンコールは意表をついて、スメタナの「売られた花嫁」から道化師の踊り、そして、ヨハン1世、定番の「ラデツキー行進曲」、随分とゆったりしたテンポで堂々たる演奏。
N響ほっとコンサート。〜オーケストラからの贈り物〜(2006.8.6)。
第1部吹奏楽、第2部弦楽合奏、第3部オーケストラという構成。
第1部では、スーザの「海を越えた握手」、リードの「アルメニアン・ダンス パートT」。サックスの須川展也をソロに迎えての、ピアソラ「オブリビヨン」「リベルタンゴ」。最後は、ティケリの「アメリカン・エレジー」。アンコールとして、「星条旗よ永遠なれ」。
最初のスーザが、新鮮に響く。微妙なテンポの揺れもあって、機械的なマーチとは言い切れない趣があり、何より、品格を感じさせる管楽合奏、という印象。ブラスバンド、というイメージではない美しさを感じた。続くリードも、とにかく最後の部分が、応援団的な発散型演奏をよく聴く機会があったが、全般に落ち着いた雰囲気に勝り楽しめた。ホルンの存在が、吹奏楽とオケでは重要度がかなり違うと思うが、クラシカルな気高いホルンの響きを堪能させる演奏であったことは、プラスに働いただろう。
サックスとの競演は特にコメントはなし。ヨーヨーマによるチェロのイメージが強烈で、やはりそちらとの比較をしてしまう。
ティケリの作品は99年のアメリカでの銃乱射事件への追悼をこめたもの。指揮の山下一史氏自身、広島出身で母が被爆経験があるそうで、まさしくヒロシマの日、不合理な死への思いから、この作品を取りあげたかった、という。・・・最後は、アメリカ万歳・・・どうも、吹奏楽と言えば星条旗、なのだが、最近どうも手放しでアメリカ讃美などしにくい世の中、純粋に鑑賞しにくい作品とも言える。
第2部は、少々安直か、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、バーバーの「アダージョ」・・・第1部と言い、アメリカに対する死者への追悼メッセージがこのコンサートのテーマだったのか。イラクでの死亡者も増加の一途。そんな勘ぐりもしてしまう。
第3部は、レスピーギ「ローマの松」、ブラスの別働隊もあって格好の選曲。ただ、感じ入るものは少なかったか。
(2006.12.9 Ms)
9月定期。正指揮者3名による演奏会の予定が、岩城氏急逝により2名での分担となる。マーラーの5,9番はN響アワーでの放映でも確認したとおり、あまり冴えたものとは言えないか。若杉氏による9番は、ブーイングまで出た。実際にその場を見たのは(TVとは言え)、私は初めて。ただし、邦人作品の演奏という意味において、かなり意義のある演奏会であったことは認めよう。
第1574回定期(2006.9.2)。外山雄三指揮。尾高尚忠の交響曲第1番(新発見された第2楽章は世界初演)。第1楽章だけで20分、第2楽章を加え30分の大作。後期ロマン派の影響、さらに、和洋の融合が性格付けられる作品のようだ。事実、冒頭から日本的な半音上昇が低弦で提示されるのは和風である。しかし、全般に、R.シュトラウス的な豪華な響きは続く。金管をたっぷり塗りたくった様子は、フランクや初期スクリャービンを思う瞬間もあった。全楽章完成していたら、かなりな大曲となっただろうに。戦後すぐの日本において記念碑ともなりえただろう。諸井三郎氏と同様、今後の再評価が待たれるシンフォニストとして記憶しよう。
マーラーの5番については、特にコメントなし。
第1575回定期(2006.9.8)。若杉弘指揮。ウェーベルンのパッサカリア。マーラーの9番。
やはり、全体に、もつれ・ぬるさ、が感じられないわけでもないが、それにしても、ブーまで出るとは思わず。N響アワーで第4楽章だけ聴いた時は、辛いな、とは思ったが、全楽章を改めて聴き、ブーまで聞けば、善戦しているじゃないか、という気持ちにはさせられる。
第1576回定期(2006.9.13)。岩城氏が選曲したプログラム。前半は若杉弘指揮。
武満徹「弦楽のためのレクイエム」。あまり真剣に聴いたことも少ないのだが、改めて聴くと、わからないなりにも、厳しさ、を何よりも感じる。深い思索を感じさせている。名作とされている理由は少しばかりは掴めたかもしれない。同じく武満氏の「テクスチュアズ」、こちらは偶然性音楽も含んで、かなり楽しめない。難しい。
黛敏郎「曼荼羅交響曲」。ユーモアを感じる。仏教の思想が背景にあろうとも、音素材として、ティンパニのグリッサンドや小さな中国ドラのひょうきんさが私には耳につく。人懐っこい作品だと私は感じる。第2楽章の、堂々たる行進なども、武満氏の浮遊する、いわゆるゲンダイ音楽的時間の観念(リズム・拍子のあいまいさ)と比較しても、伊福部門下らしい、地に足ついたたくましさが好感できる。もっと演奏されてしかるべき・・・そういう意味で、岩城氏の功績は多大であったし、彼の意志を継ぐ指揮者を待望する。先日、丁度N響の12月定期に行き、9月定期のプログラムも購入したが、黛氏の再評価を望む論説におおいに共感した・・・右翼的言動でそっぽを向かれたとは言え、今の時代はもうそんなレッテルは無意味ではないか。今や、政治の世界では黛氏の言説は現実のものとなって日本を動かしつつあるのでは(私個人は、芥川也寸志氏的な立場に近いのだろうけれど)。彼の音楽のみを純粋に楽しめる時代を待ち望む。武満氏に比べれば、底のあさいゲンダイ音楽なのかもしれないが(単純に比較もできないが)、20世紀日本の音楽の入口に位置する作曲家(先駆者として、そして、21世紀の聴衆にとっては案内人として)として私は追ってゆきたい作曲家である。
後半は外山氏の指揮。ストラヴィンスキー「春の祭典」。どうも血の気の薄い演奏にはなってしまったが、そんな中でも、第2部後半「いけにえの讃美」に入った時の打撃の連打、そして、そのテンポ感の速さ、殺気だったムードには一瞬当方も興奮した。ただ、その興奮は最後までは持続せず、比較的計算ずくな冷たさを感じさせる演奏で終始した。物足りなさはあったが、あえて野蛮主義よりは、緻密なリズム、和声の実験作としての展覧会みたいな雰囲気としては、あながち悪いわけもあるまい。この3回の定演のうちでは最もいい感触の演奏会であった。
(2006.12.12 Ms)
10月定期。アシュケナージ指揮。印象に残るものは少なし。
第1577回定期(2006.9.22)。ショスタコーヴィチ・プログラム。
ボリス・ベルキンのソロによるヴァイオリン協奏曲第1番。オケとのチグハグ感が否めず。
交響曲第10番。いつ聞いても、勇気を奮い立たせる、自分にとっての名作であることに間違いはない。幾多の困難、それも自分の力をもってして何も動じない、巨大な権力を相手に、如何に自己実現を少しでも得るか・・・現代社会に生きる現代人に問いかけるものも切実かつ重大・・・ショスタコーヴィチ記念年のまさに、彼の誕生日近くに、代表作として、5番でなく、10番を世に問うた姿勢をまずは買いたい。この10番は、NHKのニュースでも、BSの「きょうの世界」でも取りあげられた。作品の真価を問うのに満足ゆくレベルの演奏であったことは評価。でも、まだまだぬるい、とは思う。第2楽章、スターリンの肖像などは、もっと凄みがあって良かろう。・・・ただ全体として不満は無い・・・まあ、ここのこれが良かった、という演奏面での指摘がないのは淋しいが・・・しかし、まだまだ珍品である当曲、作品に対する満足感を減ずる演奏でないというだけでも凄いことにはなるのだろうけど。
第1578回定期(2006.9.27)。ベートーヴェンの交響曲第2番及び第3番。どちらか言えば、2番の才気あふれる表現に共感は持つ。「エロイカ」は、ワルベルク、スクロヴァチェフスキとN響との、良い感触の演奏の記憶もあり、なかなか超えられない。ブロムシュテット指揮のゲヴァントハウスの演奏会生体験の記憶も、その要因の1つではある。何かしらの新たな発見など見つけさせてくれないと・・・。
第1579回定期(2006.10.6)。武満徹の「鳥は星型の庭に降りる」。バルトークのピアノ協奏曲第3番。グリモーの独奏。ラベルの「ダフニスとクロエ」第1、2組曲。海外公演へ持って行った選曲。申し分なく。ただ、感動を引き起こしてくれたか、と言えば物足りない面はあったか。珍しい、ダフクロ第1、が興味は惹いたが。第1組曲においては合唱が重要不可欠なわけで(特に第2曲)、第2組曲に比較し、なかなか聞ける機会も少なくその一点については感謝。第2組曲と共通するモチーフも聴き取れ、親しみにくくはない。第3曲の「戦いの踊り」は機械音型の連続で音楽的にはあまり面白くないのだろうが、爽快に爆裂的にオケを鳴らしきるのは快感・・・その暴力的な音塊が止んだ所から、第2組曲、「夜明け」が始まるのは感動的であった。第2組曲自体は昨年の海外公演でも(合唱無しで)取りあげられており、個人的にはそちらの方がテンションが高く面白く聴けたと記憶している。
(2007.2.4 Ms)
11月定期。前2ヶ月に比較し、充実である。何と言っても、古楽的アプローチ、ノリントン氏の指揮が秀逸。クセのある彼の指揮にN響が新機軸を打ち出す名演。モーツァルトの39番は、今年最高の名演と言いたくなるくらい。
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第1580回定期。そのモーツァルトが演奏された定期だが(2006.11.1)、ほぼ同内容のプログラムで、NHK音楽祭が行われ、定演そのものは放送されず。エルガーの「コケイン」序曲、チェロ協奏曲。ただし、「コケイン」は音楽祭では取りあげられず、聴く機会を得ず。こちらの定演も放送して欲しかったです。「コケイン」以外の内容は、続くNHK音楽祭の項で感想を。
第1581回定期。同じく、ノリントンの指揮。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ソロは、庄司紗矢香。そして、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番。モーツァルトの39番に比較すれば印象は薄い。ヴォーン・ウィリアムズの美しさには改めて感銘を受ける。シベリウスに献呈されたという事実がいかにも似つかわしい雰囲気が好ましい。協奏曲は、ソリスト自らが作ったカデンツァというのが興味深いが、何となく考え過ぎて、流れがぎこちないような感じも持った。即興という原点から思えば少々頭でっかちか?
第1582回定期。昨年に引き続き、父娘競演となる、サンティの指揮。メインのチャイコフスキーの交響曲第5番。前半は、モーツァルトのオペラから序曲とアリア。独唱はマルフィージ。「コシ・ファン・トゥッテ」から「序曲」「岩のように動かず」。「フィガロの結婚」から「序曲」「楽しい思い出はどこに」。「ドン・ジョヴァンニ」から「序曲」「あの恩知らずは約束を破って」。ソリスト・アンコールとして、「フィガロ」から「恋とはどんなものかしら」。
チャイコフスキーは、かなり良かった。意表を突く、ゆっくりとしたテンポ。ムラヴィンスキーのような、スピードで押しまくる演奏とは違い、重厚にエネルギーを充填させてゆく。特に、フィナーレの巨人の歩みのような雰囲気は一聴の価値あり、だ。この演奏に触れて思ったのが、「運命の主題」の5小節目以降の6度の順次下行、これが、ショスタコーヴィチの「レニングラード」第1楽章の有名な中間部、ボレロのエピソードに聞こえて来る。常々、「メリーウィドウ」との関連性を指摘する説に違和感を思う私にとって、この発見は、腑に落ちるものだった。「歓喜」と「運命」の交響曲を、20世紀のロシアで書くにあたって、チャイコフスキーは偉大な師であったろう。そう思ううちにさらに気付く、同じ「レニングラード」第1楽章の中間部は、チャイコフスキーの第4番のフィナーレ冒頭の主題も何度も闖入してくるではないか。これについては、また、腰を据えて書きたい。大いに示唆に富んだ、ユニークなサンティのチャイコフスキーに感謝だ。
(2007.3.23 Ms)
12月定期。ツァグロゼクの指揮。N響アワーの項、そして、トピックスでも既に書いてきたとおり、かなりレベルの高い・満足度充足の演奏会が続き素晴らしい。
第1583回定期(2006.12.2)。オール・シューマン。没後150年を閉じるに相応しいもの。「序曲、スケルツォとフィナーレ」、ピアノ協奏曲(オピッツ独奏)、交響曲第4番。実演体験感謝。
第1584回定期(2006.12.8)。20世紀音楽の祭典。マーラーの交響曲第10番アダージョ、ベルクのヴァイオリン協奏曲(樫本大進独奏)、バルトークの管弦楽のための協奏曲。特にバルトークが感銘深し。中でも第1、3楽章の悲劇性が胸に突き刺さる。バルトークを聴いて、感情、というものが前面に感じられたことに新鮮さを感じる。チャイコフスキーのような、作品に対する共感が今までになく強く心を打つ。
第1585回定期(2006.12.13)。オール・モーツァルト。「魔笛」序曲、クラリネット協奏曲(ザビーネ・マイア独奏)、ドイツ舞曲集、交響曲第41番「ジュピター」。ドイツ舞曲は、第3曲「そりすべり」でも有名。全3曲まとめて聴けたのは面白かった。音程のある鈴を和声の変化に応じて鳴らすのが新鮮な趣向だ。トランペット(ポストホルン)も単純な旋律線ながら、印象的な存在。他の曲も、ホルンが効果的に使用されている。
(2007.5.20 Ms)