諸井三郎

交響曲第3番
〜忘れちゃいけない、日本のブルックナー(?)の手になる「オルガン付き」の交響曲第3番〜

 「オルガン付き」の交響曲と言えば、当然サンサーンスさんの3番。しかし、以外にも我々の身近な存在で同じくオルガン付き交響曲を作曲した人がいる。諸井三郎の3番がそれである。サンサーンスさんの3番ほどに「さん」続きでもないが、日本の生んだ三郎さん(失礼!)の3楽章からなる3番も、結構「さん」続きではある。その点では、私の大好きなもう一つの「オルガン付き」、ハチャトリヤンの交響曲第3番より正統派かも知れない。というのは冗談ですが、今回紹介する当曲、これぞホントの「隠れ」名曲なのだ。何せ、レコーディングされたことがない。当然、CDも不存在。1944年の日本に生まれたこの作品は、今年2000年、1/29、やっと史上4番目の演奏機会に恵まれたばかり。コンサート会場に行った人しか聴いたことのない、今まで私が紹介してきた曲では最高な「隠れ」具合ではある。
 本稿では、その
1/29の新交響楽団さんのコンサートの感想を兼ねて、もう一生聴くことのないかも知れないこの作品を思い出しつつ、紹介させていただこう。

 さて、諸井三郎(1903〜1977)、と言ってもピンと来ない人が大半でしょう。しかし、案外、アマオケやってる私達には馴染みの方でもあったりするのだ。全音楽譜出版から出ているミニチュア・スコアのシリーズ。これのドイツ古典派を中心に詳しい楽曲分析を巻頭で書いている音楽学者、として私は最初に彼の名を見つけたのでした。中学生の頃でしたので、意識してその名を覚えていたわけはありませんが、それが彼という存在との最初の出会い。
 そして、彼の次男がやはり作曲家の諸井誠氏。やはり、中学の頃、NHKFMのクラシックアワーの金曜日のリクエストのパーソナリティとして彼に親しみ、FM雑誌の連載なども通じ、彼が音楽之友社から出している書籍も購入したりした。その後書きに、「私の父も作曲家で・・・」といった一節があったのも記憶にあり、存在を間接的に知った。
 さらに、私は大学のころ、詩人の中原中也に興味を持った事も有ったのだが、その関係を調べるうち、中也が、諸井三郎の結成した「スルヤ」という音楽団体とも親交があり、中也の詩に彼が作曲したことも知った。彼が作曲した事で、散逸した中也の詩が運良く後世に伝えられたとの例もあるらしい。

 以上が私のコンサート前の彼に関する情報であった。当の作品については、新交響楽団さんのHP(リンク一覧よりどうぞ)でも詳細な解説が読めるのでそちらも参照していただければと思う。そこでの基本情報を踏まえて、私の感想へと移ろう。

 29歳でドイツへ留学し、ドイツ的な堅固な構成感に基づく作曲技法をしっかり見につけた彼らしく、なかなかに分析しがいのある「こむずかしい」第1印象を与える曲ではある。私も1回聴いただけでは、そんな高度な作曲技法を見破る事はできなかった。なんでも、ソナタ形式を一応ふまえつつも、西洋的な複数の主題の対比に主眼をおかない、日本的な作曲方法を応用したらしい。しかし、伊福部昭のように旋律に民謡風のものを用いたり、といった日本的なアプローチは皆無だ。
 それでは、感覚的な印象を書き連ねてみよう。

 第1楽章。緩やかな序奏と早い主部。本人曰く「静かなる序曲」そして「精神の誕生とその発展」
 弦によるオスティナート音型の上にオーボエの曖昧模糊とした旋律がからむ。オスティナートに現れる半音の動きが雅楽的にも感じられたが、それは作曲者の意図ではないだろう。
 オーケストレーションは標準的な3管編成。第1楽章ではティンパニの他、大太鼓が加わっている。サウンドはドイツ後期ロマン派に近い。ただ、カラフルな華やかさを聴くことは少なく、全合奏にちかい強奏のユニゾンなどはブルックナーを思わせる。管の編成がデカイわりに地味な印象も強い。個人的には、後期ロマン派のもろ影響下にあるスクリャービンの第2番あたりも思い浮かんだ(が、冷静に考えればかなり違うような)。弦の分厚い響きが主体的であったようにも思ったためか、第二次大戦中の敗色濃い国における大作ということで、R.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」とともに後期ロマン派の最後の尻尾を、極東で飾った作品、との位置付けもできそうにも感じた。
 曲の途中、展開部の開始、弦のフーガを遮らせて連打するティンパニの音型が驚きを誘う。曲想は、ロマン派的感覚から言えば、いわゆる美しい部分は少ない。焦燥感に勝り、楽想の転換もふんだんにある。その形式感もブルックナー風に思われた。ただ、このたぐいの展開は私は大の苦手である。いまいち、曲の本質がよくわからないうちに唐突に(再現部があったのかどうかもわからぬままに)盛りあがって終わってしまった。ブルックナー・ファンなら理解可能なのかもしれないが、私にはちと難しい楽章であった。

 第2楽章「諧謔について」との本人の弁。2/4+1/8という組み合わせによる5/8拍子の文字通りのスケルツォ。8分音符の同音連打が続く主要テーマは、拍子は違うものの、テンポ感も含め、やはりブルックナー。それも交響曲第9番の第2楽章に酷似。いや、ブルックナーのそのスケルッツォの開始部分をそのまま拍子を変えただけの音楽と言いきれそうでもある。そのブルックナー的楽想が、似ても似つかぬショスタコーヴィチ風オーケストレーション、つまり小太鼓の大活躍によって、リズムの先導がなされる辺り、私には笑えた。
 ブルックナーとショスタコーヴィチが、第ニ次大戦中の日本で同居し得たと言うのは、なんと含蓄ある現象であろう。
 この楽章が始まった途端に私のこの作品に対する好奇心は膨れ上がった。
 ティンパニが休止し、小太鼓、大太鼓が戦争を象徴しつつ、不安な5拍子のリズムオスティナートを刻む中、ブルックナーの鈍重なスケルツォが展開されて行くのだが、形式感はブルックナーの絵に描いたようなABAという単純なものでなく、ひたすら劇的な変化のないまま、同じようなムードで前進するのみ。しかし、その前進が止まり音楽に変化が生じる。小太鼓のソロだ。しかしテンポは維持。そこへトランペットの分散和音的なファンファーレの常套句が乱入。小太鼓との対決。こりゃぁ、ますます面白くなった。新たな側面が切り開かれた!と思った瞬間、ラッパとタイコの掛け合いは唐突に途切れ、それがあっけない楽章終止である。途中で終わったような驚きを残して、続くアダージョ・フィナーレへ。

 第3楽章「死に対する諸観念」。ここへ来て、この作品の下敷きにブルックナーの第9番が存在する事が確定的となる。弦を中心としたよどんだ、しかし、調性感は幾分残った、ただし、和音連結が少々現代的なコラール風な音楽が開始される。その中に管楽器の和音も溶け込んでおり、重厚なコラールは延々と続く。そのコラールの中に耳をすませば、かすかにオルガンの響きが聴き取れる。何かの管楽器か?とも思わせる曖昧な登場である。CDではきっと分からないのかもしれない。実演で、オルガニストの腕の動きによりやっとその音をさがすきっかけを与えられる、といった程度にしか聞こえない。
 コラール風な部分の後は、旋律的なものも出てくるが、その辺りの印象は残ってない。オルガンもたまに高音域で、和音でなく旋律を歌う場面も聞こえてきた程度にしか記憶がない。
 その次のブロックで、長く引き伸ばされた長調の主和音の上にホルン等の金管楽器が堂々たる長調を確立する旋律を吹奏する。ここへ来て初めてこの交響曲は安らぎの時を迎える。まだ、その楽想が大々的に拡大されることはなくとも、曲の目指す方向はここで明らかに示されたかのような安定感がもたらされる。その部分での満たされた感じ、これってブルックナーのアダージョ楽章のクライマックスの世界と同質なものではなかろうか?心有るブルックナー・ファンの日本人ならこう叫ばざるを得ないのではないか?「我らのブルックナー、ここに有り。」(ホントかな?)
 世界でもトップレベルのブルックナー王国の日本(客観的な統計に基づくわけでもないが、そんな雰囲気はよく感じるので)。なぜ、日本において最もブルックナーに近づく事の出来た作品(少々、誇張。)が、演奏されずほとんど忘れられてしまっているのだろう。けっして模倣者には終わってないとも思うd。
 1944年に、一億玉砕を思った一作曲家がほとんど辞世の作として残したこの作品には、キリスト教的な宗教音楽と表面上は無関係でありながらも、それと根源的には同質な、敬虔な救済への祈りが表現され、当時の日本の置かれた状況を想像させ得る重要作だと私には思われた。一度、ブルックナー・ファンの方々には聴いていただき、それを確かめていただきたいのだが・・・・・。
 さて、再び曲の詳細についてだが、明るさを見出した後、再度、よどんだコラール始め不安な要素が現れるものの、それらは次第に払拭され、長調を確立する金管群のテーマが勢いを増し、それにオルガンも壮麗に加わって、先行する全ての暗さを掻き消すように大クライマックスへと導かれる。曲の趣はまさしくブルックナーであり、かつオルガンのバックアップもあっておおいに感動的だ。それまで比較的控えめに隠れていたオルガンも最後はソロこそ無いものの主導権をにぎって曲を結ぶ事となる。
 パンフレットに寄れば「最後の方に「お浄土」へ行ったようなハ長調があり、振り向くと音楽の大伽藍が建っている。」
 まさに、東京芸術劇場のオルガンは、天上の世界の如き位置にあり、ブルックナーにとっての「天国」ならぬ、我々日本人にとっての「極楽」を象徴する存在にも思えてきた。

 この作品は1944年に作曲されながら、初演は1950年。作曲者も、辞世であったこの作品の後、作曲活動は停滞、音楽学者として主に活躍したという。そして、我々アマオケの人間にとっては、全音スコアの楽曲分析と共に死後も影響を与えつづけているのだ。
 さてさて、興味持っていただけましたか?しかし、音源は存在しません。新交響楽団さんに問い合わせていただくか、オケやレコード会社に企画を出していただくか、などしていただき、日本のブルックナー(?)の「オルガン付き」是非、聴く機会を持っていただきたく思います。(ただ、私、ブルックナーのエキスパートではないので、ブルックナー感に錯誤がありましたらお詫びします。こんなのブルックナーじゃない!!と怒られるかもしれませんが、その際は、ご指摘頂ければ幸いです。)

 さて、新響さんの演奏は、ブルックナーを得意とする飯守泰次郎氏を指揮に迎え、後期ロマン派的なうねりは格別。オケも重厚な響きをさせ、宇宙的な巨大さを表現できていたと感じます。オルガンはもっと聞こえて欲しかったような気もしましたが、どうなのでしょう?やはり、サンサーンス、ハチャトリアンのようなまる裸のソロが無かったので、もっと見せ場が・・・と思ったのですが、この曲の場合は、抑制されたオルガンの使い方こそ正解なのかな?
 遅れましたが、新響の皆様、貴重な体験をありがとうございました。
 最後に独り言、東海地区での本作品の演奏は23世紀頃になりそうでしょうか?

(2000.2.5 Ms) 



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