第2回

早過ぎた野蛮主義者、ラフマニノフ

 

 時代遅れのロマン主義者、ラフマニノフ・・・・。彼に対するイメージは、かの名曲、ピアノ協奏曲第2番とダブっている。事実上、20世紀の作曲家でありながら、前世紀の音楽語法に固執しつづけ、映画音楽を思わせる大衆的な作風の、退嬰的な作曲家・・・・・。果たして、ピアノ協奏曲第2番の世界が、彼の全てなのだろうか?
 交響曲第1番との出会いによって、大いに変貌を遂げることとなった、私なりのラフマニノフ感を今、書いてみたい。

ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18 (1901)

 彼の代表作であり、最初の成功作といってよいだろう。交響曲第1番の大失敗後、ノイローゼになった彼が、見事復活を果たした記念作。
 何と言っても、メロディーの素晴らしさが特筆される。この作品の最大の特徴は、「歌心」にある。第1楽章冒頭の、息の長い弦楽器による第1主題からして「歌心」全開である。そして、その歌心を支える、構成的な配慮として、アレグロ楽章(両端楽章)における、緩徐楽章的部分の挿入が指摘できる。第1楽章はモデラートであり一般的な第1楽章より、遅目のテンポである。が、第2主題はさらに遅く、これまた息の長い旋律線を持った切ない歌である(余談ながら、第1楽章は展開部に突入し徐々に速度を上げ、興奮を高め、第1主題の全合奏による再現によってまた勢力が衰える。この形式感は、ショスタコーヴィチお得意の第1楽章のパターンだ。ショスタコの交響曲のルーツの一つとして、私はこの楽章を高く評価したい)。第3楽章も、第1主題こそアレグロだが、第2主題はまたまた、テンポを緩めた歌である。二つの要素は、交互に提示、再現されるが、最後に第2主題がマエストーソで全合奏によって駄目押しされることで、この作品の歌心に満ちた特徴が、一層印象付けられる。
 加えて、この協奏曲の歌いどころである、第1、3楽章の第2主題、そして第2楽章の第1主題は、テンポがゆっくりな上、長調でありながら短調からの借用和音を多く含む、言いようも無く、感動的な「泣かせる」旋律なのだ。聴衆の心に深くせまる、ツボを心得た作品と言えよう。

 ソナタ形式に基づく楽曲は、限られた素材をもとに有機的に構成されなければならないため、特にベートーヴェンに代表されるように、主題はコンパクトにまとまっているのが普通である。それを敢えて無視したラフマニノフは、主題に歌心を吹き込ませ、(ソナタ形式を必ずしも理解していない)一般大衆の感性に直接訴えかけるわかりやすさでもって、大衆の支持を集めることとなったのだ。これは、彼の意識的な作戦のような気がする。なぜなら、この作品の生まれる背景にあるのが、似ても似つかない失敗作、交響曲第1番だからである。

交響曲第1番 ニ短調 作品13 (1895)

 彼がこの作品を書いた19世紀末、一流作曲家の証は、何と言っても「交響曲の成功」であった。作曲家としての自立を夢見て、若い彼が、涌き出ずる才能にまかせて、全精力を注ぎ込んで完成させたこの野心作こそ、彼の本当に書きたかった、聴かせたかった音楽であっただろう。
 しかし、ピアノ協奏曲第2番のイメージを胸に期待して接すると、見事裏切られる。何と聴きづらい音楽であることか。懲りすぎた面もあってか、耳に馴染むメロディーも判別しにくく、全体によどんだ、不気味な暗さに満ちている。第2、3楽章こそ、明るい兆しが少々見えるものの、すべて不安によってかき消されてゆくため、聴くものを不安に落とし入れる(第1楽章の序奏から主部への移行に、マーラーの交響曲第6番の「悲劇の和音連結」と同様の発想が聴かれるのも興味深い)
 第1楽章の第1主題を始め、全曲通じて、グレゴリオ聖歌「怒りの日(ディエス・イレエ)」が登場するのも意味ありげだ。恩師チャイコフスキーが、交響曲第6番「悲愴」を残して死んだのを身近に見た彼にとって、もはや「交響曲」という分野は、ベートーヴェン的な楽天主義では片付けられない、と悟ったのだろうか?(ほとんど同時期に生まれたシベリウスの交響曲第1番も、「悲愴」の影響を全面的に受けた意味では、共通の土壌の上で誕生したと言えるのかもしれない)
 そして、この作品の最大の聴き所、第4楽章のうるさいこと。ここで彼が提示した世界は、ムソルグスキーあたりに起源を持ち、初期ストラヴィンスキー、プロコフィエフで確立される、ロシア固有の風土が生み出した、野蛮主義の流れの中にあるようだ(洗練されたオーケストレーションが趣味のグラズノフにこの初演を任せたのもまずかっただろう)。とにかく、第4楽章冒頭の金管と打楽器の破壊的な音の洪水は、当時としては理解の域を越えていたかもしれない。特に、打楽器陣営の充実ぶりが際立っている。伝統的な交響曲の分野に、これだけの打楽器を持ちこんだのは、ロシアでは彼が始めてではなかろうか(同時代では、マーラーぐらいしか対抗できる人はいない)。クライマックスの、ティンパニによる「ディエス・イレエ」の旋律の強打のソロ、そして駄目押しの銅鑼の一発ソロあたりは、後年のショスタコーヴィチの発想の先取りでもある。そして終わり方も、太鼓や銅鑼を重ねまくって、凄いのなんのって・・・(打楽器奏者の私としては嬉しい限りだが)。こういう音楽が生まれる可能性を孕んでいたからこそ、10数年後、ロシアから「春の祭典」「スキタイ組曲」が誕生したのだ、と妙に納得してしまった。

 結局、この作品は10年早く生まれたがための、失敗作だったのかもしれない。しかし、これが、作曲家人生を賭けた、交響曲第1番だったのが運のつき。ラフマニノフは、一気に自信喪失、ノイローゼ。
 この大失敗の、二の足を踏みたくないのは、当然のことだったろう。続くピアノ協奏曲第2番から、野蛮主義的なサウンドや、不気味な暗さ、旋律の不明瞭さは、跡形も無く消え去った。ここに、ラフマニノフのイメージは確立されてしまったのだ。

交響曲第2番 ホ短調 作品27 (1907)

 ピアノ協奏曲第2番の大成功によって、作曲家としての自信が回復した彼にとって、次の目標は、交響曲の分野での成功であっただろう。ここでも、やはり彼は、ピアノ協奏曲第2番と同じ作戦に出る。ゆったりとした歌心、である。特に第1楽章、第3楽章の美しさは、聴くものの耳をとらえて離さないことだろう。当然、速い第2、4楽章にも懲りずに、くどいくらいに甘い歌は登場する。
 しかし、彼は完全なマンネリに陥ったわけではない。ここで特筆すべきは第2楽章。ピアノ協奏曲第2番で鳴りを潜めていた、攻撃的リズムの連打。ただし、交響曲第1番のような無節操ながむしゃらさではなく、節度を持ったカッコ良さ。そう言えば、第1楽章も第4楽章も、ピアノ協奏曲第2番には見られない、テンションの高まりの持続がある。不安をかきたてる不気味なエピソードも顔を出す。少しづつ、彼も牙をむき出したようだ。激しいロシアの血と、甘い歌心との、バランスの良い結合・・・、彼の最も長大な器楽作品でもあるこの交響曲の成功によってこそ、ラフマニノフは交響曲第1番の悪夢から、完全に決別できたのではなかろうか?

 ここで、第2楽章について、もう1点付け加えておこう。冒頭のホルンによる颯爽たる主題、実は、交響曲第1番の統一主題でもあった、グレゴリア聖歌「怒りの日(ディエス・イレエ)」の引用ではないか。ベルリオーズの幻想交響曲第5楽章の地獄の場面、リストの「死の舞踏」、ショスタコーヴィチの交響曲第14番「死者の歌」などの例と同様、この引用には、明らかな「死」のイメージがつきまとう。なぜ、ここで「死」なのか?
 前半2楽章が短調、後半2楽章が長調と、明確にブロック化され得るこの作品、交響曲第1番によって死の宣告を受けた彼の復活を描いた、との解釈も成り立とう。また、前半と後半との曲想の明確な相違によって、マーラーの交響曲第5番の楽章推移との類似点も浮き上がる。つまり、ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章と、マーラーの交響曲第5番第4楽章「アダージェット」とがオーバーラップしてしまうのだ。それは、余談としても、「怒りの日」はその後の彼の主要作品に付きまとう、象徴的フレーズとなる重要なものだ。マーラーの葬送行進曲と同じく、ラフマニノフも「死」が創作の根源となっている一面もあるのかもしれない。ともあれ、交響曲第1番の主要主題を部分的に復活させつつ成功を収めた交響曲第2番の後、彼は再度、「ディエス・イレエ」を主要主題とする管弦楽曲に取り組むこととなる。それが、交響詩「死の島」である。

交響詩「死の島」 作品29 (1909)

 ここに、もはや、ピアノ協奏曲第2番の面影は無い。曲を知らない人が、これを一聴にしてラフマニノフの作品とは見破れないだろう。交響曲第1番で見せた、彼の不健康な、不気味なよどんだ雰囲気への愛好が前面に出たようだ。そして、交響曲第1、2番でも触れた怒りの日」が全面的に、よりはっきり聴かれるのだ。5/8拍子と言う不安定なリズムをティンパニが重々しく刻みながら、寄せては返す波のように、不明瞭な音の塊が漂っていると言った感じ。もうここに至って、誰が「時代遅れのロマン主義者」などと呼べよう。確かに、同時代の最先端の音楽に比べれば、まだしっかりとした調性感に支えられてはいるだろうが、とても大衆融合的な、「ゆったりとした歌心」で片付く作品ではない。ここに、交響曲第1番の屈辱は晴らされたのだ。

ピアノ協奏曲第3番ニ短調 作品30 (1909)

 名作を既に生み出した、ピアノ協奏曲の分野にラフマニノフが約10年ぶりに帰ってきた。我々は、この第3番を第2番の延長上に位置する、同傾向の作品としてとらえがちではなかろうか。私も昔はそうだった。伝統的な、急−緩−急の3楽章制。短調を主調とした、物悲しい曲。しかし、最後は全合奏によって、第3楽章の第2主題が堂々と歌われて、一件落着って感じ。ただ、第2番に比べると名旋律が無いのが、ちょっと物足りないかな、こんな印象であった。
 しかし、交響曲第1番との出会いによって、ラフマニノフの作品を全てピアノ協奏曲第2番との類似性でもって判断することに疑問を持った私は、第3番の持つ、第2番との相違点に注目すべきだ、と思い始めた。

 まず、第2番最大の特徴、「ゆったりとした歌心」。第3番では、それが完全に捨てられたわけではないが、敢えて避けているように思える。第1、3楽章ともに、第2番よりは速めのテンポを取り、第2主題が特にゆっくりだったり、歌謡的であったりという傾向は無い。逆にほとんどの主題が、コンパクトに提示され、その主題の展開によって曲が進行している。よって、歌謡性が減じられていることともなる。
 第2番では、曲全体の印象を決定付けるほどの影響力もあった第2楽章が、第3番では「間奏曲」に成り下がり、旋律としても調性が不安定で、聴衆の耳障りが良いとは言いにくい。逆に、交響曲と違って3楽章制を採る協奏曲では主役になりにくいスケルツォ的な楽想が、第2、3楽章ともに挿入され、特に第3楽章では、かなりの長さになっている。結果として、第3楽章の第2主題自体の存在感が薄められており、第2番の第3楽章との形式上の相違は際立っている。ただ、形式感の把握能力に劣る一般聴衆は、最後にゆっくり第2主題が全合奏で再現されるだけで、第2番と同じだ、と早合点してしまうという訳か。
 さらに、第2番ではほとんど存在しなかったカデンツが、第3番では大規模に置かれている点も注目したい。理由としては、第2番の作曲当時と比べ、ピアニストとしての活動が増加していたため、超絶技巧の誇示、がこの第3番の創作上の重要なテーマになったためと思われる。それに対応してか、第2番に比べ、プライドの高さを、私は第3番に感じてしまうのだ。作曲家としての成功を勝ち得た彼にとって今やもう、万人受け、を強烈に意識して作曲することは無かっただろう。それが、この作品の歌謡性の薄さ、技巧誇示の背後にあるのではなかろうか。私の感想としては、第2番に比べ、随分難解な作風と思えるのだが、結果としてあまりそう感じさせないところに、ラフマニノフの作曲家としてのしたたかさを感じる。 

ピアノ協奏曲第1番嬰へ短調 作品1 (1891/1917改訂)

 交響曲第1番よりも前の作品として、ロシア的野蛮主義の萌芽を感じさせる作風か、「ゆったりとした歌心」を堪能させる作風か、大いに興味があるのだが、まだ初版を聴く機会に恵まれず確かめようがありません。改訂版を聴く限り、一応両方が認められるようだ。そんなに強烈な暴力的オーケストレーションではないが、第3楽章の畳み掛けるようなリズム感が耳に残る。また、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲のリズムがそっくり現れるのも、リムスキー=コルサコフの「ロシアの謝肉祭」を想起させ、はっとさせられるとともに、ロシア的な土俗性を感じさせる。
 歌心としては、第1楽章第1主題、第3楽章の中間部が歌謡性に富む、魅力的なもの。しかし、肝心の第2楽章に、いわゆる「ラフマニノフ節」が聴かれないのが寂しい。やはり、ピアノ協奏曲第2番によって、初めて「ゆったりとした歌心」を全面に展開したと考えて良さそうではないか。
 第1番を聴くだけでは、第2番の特徴への進化の方向性は明らかではない、と思われる。やはり、第2番は孤立した作品といえるのではないか。

つづく

 亡命後の作品については、少々お待ち下さい。まだ、あまり聴きこんでないので・・・。

(1999.3.13 Ms)


クラシック音楽「曲解」シリーズへ戻る