旬のタコいかがですか? ’99 10月
(ショスタコBeachへようこそ!)
ほとんど、冗談で始めた、「ショスタコBeachへようこそ」ではありますが、今年後半の当ページのメインテーマが、ショスタコーヴィチということで、毎月、この項では、その月にちなんだショスタコ・ネタを紹介していこうと思います。
旬のタコ、いきのいいタコのネタを、どうぞ、ご賞味あれ!!!
と、景気よく始まったのはいいものの、予定通り記事が更新できません。一応の素案を持ってこの企画に望んだのですが、1ヶ月という期間で一つのテーマにつき一つのまとまった記事に仕上げるのは、なかなかに難しいものです。また、突発的にひらめくトピックス・ネタの方が好調のようです。どんどん時間だけは過ぎて行きます。容赦無く流れゆく時間との戦いなんだよなァ、人生とは・・・・・・・としみじみ考えつつも、さて言い訳はこれくらいにして、第3回のネタは・・・・・
1969.10.6
交響曲第14番「死者の歌」モスクワ初演
いきのいいタコ、どころか、またまた、死、である。時の流れには、人間逆らえないものです。
人生とは死への前奏曲である、とはよく言ったものだ。この夏の東欧旅行のビデオ編集しつつ、ハンガリーの歌劇場に鎮座する「リスト」の像に、最近CMで繰り返し流れた、交響詩「前奏曲」をBGMにひっつけたりもしながら、また、突然襲い来る天災(今回の豊橋の巨大竜巻、台湾の地震)、はたまた、複雑化した人間社会の暗部に潜む危険(無差別的な殺人事件、そして放射能事故・・・・完全な人災じゃないか、あんな状態で我々の生命は今後も保証され得るのか?)などなど、「死」は、私に、いや我々に、確実に1歩づつ近づいているように感じられる今日この頃・・・・。こんな時こそ、「死」について、皆さん、考えようじゃありませんか?
<1> 交響曲第14番 概説
今年は、交響曲第14番完成そして初演30周年、という記念Yearでもあります。
初演は、今回のこの企画の基礎データとしている「作曲家別、名曲解説、ライブラリー」(音楽の友社)によれば、10/6、モスクワで、バルシャイ指揮、モスクワ室内管弦楽団となっているが、一方、全音スコアの解説には、モスクワより一足早く、9/29、レニングラードとなっています。ここでは、一応10/6にモスクワ初演、という表記をしておきます。
完成は、3/2、ピアノ・スコアはそれに先立つ2/16完成。前年末に私は、この世に生をさずかっています。何も考えず、ひたすらギャーギャー泣いていた頃、タコはこの深刻な作品の完成を目指していたということです。私が、「誕生」というスタートラインにまさに立ったその瞬間に、我が尊敬するタコは、来る「死」、逃れられない「死」を懸命に考えていたのです。
私自身、私は、彼の交響曲第14番と共にこの世に誕生したのだ、と勝手に思っています。とても大事な作品だと思っています。彼がこの作品の最後、第11楽章で
「死は全能。歓喜の時にも、それは見まもっている。最高の人生の瞬間、私たちのなかにもだえ、私たちをまちこがれ、私たちの中で涙している。」
と歌う時、私は「生」に対する執着を壮絶に感じるのです。「死」はいつ私たちを捕らえていくか予想がつかないものです。だからこそ、毎日毎日、精一杯、真実なる喜びの発見を心の糧に、生き続けなければ・・・・と固く決意するのです。作品の最後の不協和音の連打こそ、人為的なる死への拒絶だと感じます。当然、自殺などもってのほかです。また、彼が言う「死刑執行人への抗議」は、他殺に対する彼の感情だと思います。つまりは、無実の罪で殺されていった(殺されてゆく)人々が想定されるのでしょう。自殺、他殺といった人為的な「死」への嫌悪が、人間を生へと導くのだと思います。実際、彼は、ひどい時代、ひどい国にあって、自殺、他殺の危機を何度か潜り抜け、この作品にたどり着いたわけです。タコのそんな、この作品に託した思いが、全く偶然ですが、私の名前(知っている人は納得してくれますよね。知らない人も、この文章の中に隠された私の名前を想像してみてもおもしろいかも知れません)にも反映しているとすら思っています。
さて、そんな私にとって最重要な音楽であるこの作品、実はまだ私が、5、9、10番くらいしかろくに知らなかった高校時代、FMで聞いた時は、全く理解不能の代物でした。19人の弦楽と二人の打楽器(それも全く派手さがない、カッコ良くない)、チェレスタ、そしてソプラノとバスの歌手という室内楽的編成、そして11の楽章が、複雑に結合、分離している、前例の無い全く見通しの悪い構成。とまどい以外の何物でもなかったのを覚えています。おまけに、12音技法的な不可解な旋律、気味の悪いクラスター的不協和音等々、5番の世界とは同一人物とは思えない変貌ぶりに驚きもしました。しかし、時は流れ、他の作品も聴き、そして彼の人生も知り、そしてその歌詞を熟読するうちに、私にとってかけがえのない作品という位置を占めるようになりました。
第2楽章のスリリングなスペイン舞曲。第5楽章のタムタム(ドラムセットの太鼓部分を想起)と木琴の、白々とした道化。といったスケルツォ的楽章の面白さは格別ですが、この作品の最大のクライマックスは、第8,9楽章でしょう。
第7楽章で、無実の罪により監獄に入れられた恐怖が淡々と歌われた後、突如として、第8楽章、怒りも露わな、権力者に対する暴言の数々、ここが気持ちのスカッとする箇所です。
「悪魔大王の隣に暮らして」、「腐った蟹」、「おふくろの腹くだしの時にお前は生まれた(クソまみれってことか)」、「お前は傷だらけ、かさだらけ、膿だらけ」、「馬の尻、ブタの汚い面」
よくもまぁ、こんな詩を見つけ出し、歌曲に仕立てたものです。弦楽器の荒々しいリズム、そして歌い終わった後の、10部に分かれるバイオリンの次々と半音をぶつけてゆく壮絶な不協和音の嵐。ここに、スターリン始めソビエトの国家権力に対する彼の憎しみが私には聞こえてくるのです。
高度ストレス社会である現代、是非とも、この曲のカラオケが欲しいなァ。19人の弦楽オケさえ有れば可能。誰か伴奏してくれないかな。職場の人間関係始め、いろいろ悩み多き方々にこの楽章は是非ともオススメです。日本語版で歌ったらけっこう受けるのでは、とも思います。
さて、そんな激しい音楽の後に、ビオラ以下の中低弦のみが伴奏する、渋くかつ美しい第9楽章。この楽章が唯一ロシアの詩人によるもので、19世紀前半、ナポレオン戦争に従軍したロシア人たちが、西洋世界の自由な社会を目の当たりにして、ロシア帝国の後進性を自覚するに及んで勃発した「デカブリストの乱」に連座し、シベリアに流された友人を思う詩です。
「おぉ、デルウィーク、迫害が何だ」、「気高い詩作こそ不朽の命を持つ」、「われらの同盟は不滅だ」、「詩神を愛するものの同盟は、喜びの時も、苦難の時も、揺らぎはしない」
・・・・・完全に、タコ自身の言葉に思えて来ます。数々の世俗的な迫害を受けながらも、芸術に身を捧げ、その芸術によって権力にさえも打ち勝つことができると信じたのでしょうか(確かに、ソビエトはロストロポービチ始め身を挺した芸術家たちとの戦いもあって崩壊したという側面もあろう。)。ここに私はベートーヴェンの「歓喜の歌」の20世紀的変容を聴きます。
「おぉ、友よ。こんな調べではなく、歓喜の歌を歌おう」と、全人類(皆兄弟・・・・あなたは信じられるか?)に訴えるような幸福な時代は当の昔に終わった。「この輪に加われない者はとっとと退散しろ」というような、ドッキリさせられるセリフすらある「第九」のこの「歓喜」の延長にヒトラーはいる。某宗教団体も。また、この世紀末、西洋の思考のみで全世界を拘束しよう、という流れに対する反発の声が大きくなっているのでは。
そして、今世紀始め、時代を先駆けるマーラーが「大地の歌」で、友を呼ぶ時、ただ酒をのんで、憂さをはらすだけだ。それはそれで楽しいが.
もう、我々は「歓喜」を他者に呼びかけることができなくなったのだろうか?
いや、違う。タコが、この俗悪なる社会において、友に呼びかけた時、全人類などという嘘八百な虚構は問題にせず、各個人にあてて、それぞれの歓喜を見つけるのだよ、と優しく語りかけてくれるのだ。他者から強制的に与えられて、それが「歓喜」か。個人個人が、真実なる喜びの発見を心の糧に生き続けることの大事さ、素晴らしさ・・・・・そんなことをこの音楽が私に考えさせるのだ。
どうせ死ぬときゃ死ぬんだから、「人為的な死」は徹底的に排除しましょうってことです。こんな交響曲こそ、現代社会への薬なのだと思います。しかし、全然おいしさは感じられず、苦い作品だろうな。「美しい死」を夢見て死に急ぐような、麻薬のような音楽(例えば、「私は復活するために死ぬ」、なんて言われると、子供に悪影響が及ぶんじゃないかと、ハラハラします。音楽は嫌いじゃないのですが、思想が・・・・)を大量に服用せずに、たまには、こんな薬もどうだろう。
おっと、当初は、概説は軽く流して、同時代のイギリスの作曲家ブリテンへの献呈、あと、ショスタコーヴィチのモットー(あるいは、コールサイン)の話を書こうと計画していたのだが、勝手に盛り上がって、一気に「歓喜」の話まで書いてしまった・・・・こんな具合だから、書きかけの原稿ばかり、このHP、抱えているんだよなァ。また、近日中に続きは・・・。
(1999.10.3 Ms)
<2> ブリテンとの交友
この交響曲第14番を語る上で避けられないのが、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913〜1976)への献呈である。
ブリテンとショスタコーヴィチは、1964年、ブリテンのモスクワ訪問時に初めて会い、1965年、1967年の正月にショスタコーヴィチはブリテンを別荘に招き、親密な交際が始まる。
年齢も近く(ショスタコが7年上)、今世紀にありながら、調性感に立脚した作品を作り続けたという作風の近さもあるだろうが、彼ら二人を結ぶ絆は、おそらく、声楽作品を得意とし、また権力、戦争への批判的な思いを共有していた、という点に尽きるのではなかろうか。
ショスタコーヴィチは、若い頃、オペラへの野心を燃やしつづけたが、プラウダ批判で挫折、しかし、その後も歌曲集を精力的に作曲している。そして、権力、戦争との関係はここで述べるまでも無いと思う。
一方ブリテンも、オペラを中心に数多くの声楽作品を残している。そして、彼の代表作「戦争レクイエム」は、露骨な反戦の意思を表明するものであり、また、日本の紀元2600年記念委嘱作、「鎮魂交響曲」は、軍国主義に突き進む日本への警鐘として作曲され、日本政府がその演奏を拒否するや、日本政府に強烈に抗議した問題作となった。ブリテンも、ショスタコーヴィチと同じく、権力や戦争との関わりを音楽にも反映させているのだ。
そんな二人の共通点を踏まえて、このブリテンへの献呈を考えるのなら、まさしく声楽曲で、言葉を伴いつつ、そこに反権力、反戦的なメッセージをも込めた交響曲第14番の性格が浮き彫りになろう。ショスタコーヴィチは、ブリテンを信頼し、同士だと認めたからこそ、この作品を彼に献呈したのではないか?
さらに、驚くべきことに、ブリテンは、1936年のプラウダ批判を知るや、ショスタコーヴィチに同情し、本人よりも早く、DSCHのイニシャル動機を自作に引用していたと言う。
ブリテンの作品30、1943年作曲の祝祭カンタータ「キリストによって喜べ」(Rejoice in the Lamb)がそれである。
混声合唱と4人の独唱、伴奏はパイプオルガンとティンパニ。明るい曲調が続く16分ほどの作品だが、曲も半ばを過ぎ、不穏な曲想へと移行、DSCHのテーマが(音高は違うが)ユニゾンで力強く歌われる。その歌詞は、
「Silly Fellow !」すなわち「バカヤロー」ということか?
実は、その深い意味、前後の文脈はまだ私も充分理解していない。しかし、ショスタコーヴィチのファンを自認する皆様、ブリテンが本人よりも先に使用したDSCHによる「バカヤロー」の叫びは是非知っておいてほしいですね。なお、この辺の詳細についてご存知の方は、是非ご教示下さいませんか?
この作品を知ってか、それとも偶然か、ブリテンの作品の5年後、ショスタコーヴィチはDSCHを(きっと)初めて取り上げ、バイオリン協奏曲第一番を書き上げるのだ。
ブリテンももっと聴きたいですね。ショスタコーヴィチとの交友関係を思わせる何かが、まだまだ作品に刻まれているのかもしれません。
余談ですが、同じくイギリスのヴォ―ン・ウィリアムスの「南極交響曲」(1953/1月初演)の第5楽章、南極探検において、アムンゼンに南極点到達を先んじられ、力なく撤退するスコットが、激しい自然の猛威の中、行く手を阻まれ、死に至る、その「死の行進」的な描写の部分で、ショスタコーヴィチの交響曲第10番(1953/12月初演)の第1楽章第2主題が、聞こえてくるのだが、全くの偶然か、それとも、ショスタコーヴィチとイギリス音楽の何か親近性を物語るのか・・・・・20世紀イギリス音楽もまた、ショスタコとの関連を思うなら、様々なミステリーの宝庫なのかもしれません。
これは、全くもって思いつき程度のことに過ぎません。ショスタコと20世紀イギリス音楽との関係については、今後もっともっと研究されることを望みます。
(1999.10.31 Ms)
<3> ショスタコーヴィチのモットー(コールサイン)
ショスタコーヴィチの作品を特徴付ける動機、と言えば、前項でも取り上げた「DSCH」、いわゆる「レミドシ」の旋律線が思い浮かぶだろう。しかし、もう一つ、忘れてならない旋律の動きがある。
諸井誠氏による解説で、よく取り上げられている言い回しに寄れば、「ショスタコーヴィチのモットー」とされる動機(もしくは、ショスタコーヴィチのコールサイン)、と呼ばれるものである。
この交響曲第14番においては、第1楽章冒頭に現れるバイオリンのテーマがそれに相当する。
B−ABG/B−ABG、という旋律の動き、これだけでは少々分かりにくいだろうか?
他の例として、交響曲第12番「1917年」第4楽章「人類の夜明け」の冒頭でホルンにより高らかに吹奏されるテーマ、
F−EFD/FCF−B/F・・・・・何となくお分かりでしょうか?
さらに、交響曲第8番第1楽章冒頭、低弦の威圧的なテーマ、
C−−BC−−/−AC・・・・
ちょっと動きは変わりますが、こんなのもあります。交響曲第7番「レニングラード」第4楽章冒頭、低弦による第1主題、
GAs−G/B−GEs−D/C・・・・うーん、撹乱されてしまったでしょうか?それでは、また基本に戻って、
交響曲第4番第1楽章、第3主題的な旋律、テュッティで3/8拍子(437小節目以降何度か繰り返されます)、
DCDHDA/G・・・・
とりあえず最後に最も純粋な形として、交響曲第2番のウルトラ対位法が済んだ後の、静かな場面(冒頭から約10分の辺り)のクラリネット・ソロ、
B−ABG/BFBEsBD/BCBBBA/BGBFBEs・・・・・・・
イメージがつかめましたでしょうか?
ある一つの特定の音を設定し(14番の例ならB、12番ならF、8番ならC、7番ならG・・・・)、次に隣接する違う音へ移動し、また、特定の音へ戻り、さらに次は、隣接しない音へ移動し、またまた特定の音へ戻る・・・・つまり、ジグザクな旋律線を描く、この動機が、ショスタコーヴィチの様々な作品に登場するのだ。
上記の例は、比較的分かりやすいものだと思うが、この旋律の作り方に準じたものとして、
交響曲第5番第1楽章、クライマックスの最後で銅鑼が一発鳴る、直前、
ABAC/A、という決めの動きは、主題提示部でも当然現れ、第1楽章コーダのピッコロ、バイオリン・ソロでも歌われる重要動機で、第4楽章の前半にも一瞬登場している。
交響曲第11番「1905年」第2楽章の後半、小太鼓の銃撃を思わせる三連符の次に出るフガートのテーマ(いわゆる虐殺シーン)、
AACA/AACADesA/CA も類似の傾向を持つ。
もっと広義に解釈すれば、交響曲以外でも、ピアノ協奏曲第2番の第3楽章の冒頭の主題、
C−ACD/C−GCE/C、なども、旋律の作り方としては同様なものと認識できよう(応用編みたいな感じだが)。
などなど、様々な作品に登場する、これらを、ショスタコーヴィチのモットー動機と呼んでいるのだ。そこで、そのモットー動機の純粋な基本形を考えるなら、交響曲第2番の例が、最初に考えられる。
そして、その延々と続く機械的な動きを短縮化し、旋律としても魅力ある形に仕上げたのが、例えば交響曲第12番の例、だろう。
さらに、その形を短くコンパクトにした時、交響曲第14番の例にまでたどり着く。
そして、そのBABG、という動きは、実は、グレゴリオ聖歌「怒りの日」の冒頭と全く同じ動きであることに気付くのだ。
(「怒りの日」は、西洋人にとって「死」を象徴する旋律として有名である。リスト、そしてサンサーンスの「死の舞踏」にも引用され、最も有名なのは、ベルリオーズの幻想交響曲第5楽章の鐘の響きに先導されるチューバの旋律<Es−D−Es−C>、だろう。)
つまり、偶然か意識的な産物かどうかは、定かでないにしろ、ショスタコーヴィチの作品の多くに共通する、ショスタコーヴィチのモットー動機が、「死」のイメージと隣り合わせ、であることが、この交響曲第14番「死者の歌」の冒頭に、最も単純化された形で掲げられることで匂ってくるように思うのだ。
<4> 「怒りの日」、そしてラフマニノフ?
「死」のイメージ、「怒りの日」・・・・・そこで、私が思い出すのが、ラフマニノフ、なのだ。
彼もまた、「怒りの日」を、初期の交響曲第1番で、第1楽章の第1主題に使用して以来、主要作ほとんどに引用している。くどいぐらいに(詳細は、当HP内の「曲解シリーズ第2回」を参照ください)。そんな、ラフマニノフの作品群も、ショスタコーヴィチに影響を与えたのだろうか?
ショスタコーヴィチとラフマニノフ・・・・・彼らの代表作「交響曲第5番」そして「ピアノ協奏曲第2番」を並べた時、全然作風の異なる二人に強い結びつきが有ったとは、なかなか想像できない。しかし、他の作品も全体的に見渡したうえで二人を並べるのなら、「怒りの日」に対する執着、という点においては、二人は固く結びつくのではなかろうか?
ショスタコーヴィチの最後の交響曲、15番のフィナーレでは、ラフマニノフの最後の作品「交響的舞曲」の第1楽章の和音連結が、露骨に引用される。ソビエトを嫌って亡命した先輩ロシア人作曲家が、ロシアを懐かしみつつ死の直前に書き上げた作品を、ソビエトに留まって数々の迫害に耐えたショスタコーヴィチがやはり死を意識しつつも書き上げたであろう交響曲第15番に引用した時、そこにどんな思いが込められていたのだろう?
そんな、二人の接点を邪推しつつ、彼らの「怒りの日」の引用作品を聞き比べるのも興味深いことと思う。「死」を創作の中心に据えた二人のロシア人作曲家、として彼らを捉えるのも、我が「曲解」の醍醐味というわけか。
最後に蛇足ながら、彼ら二人を結びつけるであろう作曲家として、グラズノフを挙げておく。
ラフマニノフの精神疾患の原因を作った張本人こそ、グラズノフであった。ラフマニノフの野心作、交響曲第1番の初演を失敗に導いた指揮者、である。彼へは屈折した思いを抱いた事だろう。ラフマニノフは、精神疾患で作曲が出来なかった空白の時期、同日に初演され成功を収めたグラズノフの交響曲第6番のピアノ編曲をしている。さて、どんな気持ちだったのだろう?
一方、ショスタコーヴィチも、グラズノフの弟子として、関係は深かった。しかし、後年、グラズノフの人格、性格などは認めつつも、作風については手厳しい評価を与えている。実際、若きショスタコーヴィチは、音楽院の卒業制作である交響曲第1番のグラズノフによる手直しを全く受けつけなかった。
両者ともに、ロシア作曲界の大御所的存在のグラズノフを、一方で尊敬しつつも、他方、腑に落ちない感情を抱いていたようにも推測されないだろうか。
グラズノフの、オーケストレーションは華麗だがある意味弱々しい、表面的な底の浅い音楽表現(何もそこまで批判するともないか。私はグラズノフも大好きです。)に対抗し、「洗練」されたものよりも、ロシアの伝統を受け継ぐ、強い表現(抽象的ですが、雰囲気だけは分かっていただけますか?)、を結果として目指した、と言えるのかもしれません。そして、そのグラズノフと対極をゆく方向性の象徴的存在として「怒りの日」は、二人に共通する音楽素材となったのかもしれません。(相変わらずの「曲解」ぶりだなぁ)
(1999.11.3 Ms)