旬のタコいかがですか? ’06 2月
(ショスタコBeachへようこそ!)
2006年 2月
当HP(交響曲第5番関連)が「レコード芸術」にて紹介
<2> ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」における「引用」私論2006
<2−3> ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番
ショスタコーヴィチとラフマニノフの関係というのは興味深いテーマだと思っている。
以前もこのHPで触れました(交響曲第14番 ブリテン ラフマニノフ ’99 10月 )が、ここでは、最も重要な接点、二人を強烈に結び付ける「怒りの日」というグレゴリオ聖歌からの引用、といった視点とは違った指摘をしたい。
第1楽章の構成についてである。
まず、ショスタコーヴィチの交響曲第5番から。
第1楽章は、Moderatoで始まり、楽章の中央に位置する展開部で加速し、再現部でその加速は止まって、最後はまた最初のModeratoのテンポに落ち付くのはご存知のとおり。
この、展開部そのものがアッチェレランド的な構成というのは、この作品の、かなり特徴的な性格とは言えないだろうか。
ただ、古今東西の作品で、当然、曲中に加速を伴うものは存在する。
ソナタ形式の第1楽章において、緩やかな序奏の後、加速してアレグロの主部に到達するもの(シューマンの交響曲で第3番以外は全てそうだ)。 また、アレグロの主部の後、コーダでさらに加速するもの(ベートーヴェンの交響曲第5番、ブラームスの交響曲第1番のフィナーレなど例は多そうだ)。
これらに比較して、展開部がほぼひたすら加速、というのはそんなに頻繁に見られないだろう。
ショスタコーヴィチの場合を詳細に見て行けば、106小節目から展開部が始まるものとして、まずテンポは、四分音符=「84」(提示部の第2主題と同じ)からスタートし、ピアノの低音が不気味に鳴り始める121小節目から、「92」。そして、「104」、「126」(Allegro non troppo)、「132」と進む。ただし、小太鼓のリズムに乗ってトランペットがフリギア旋法の主題を吹奏する188小節目で、Poco sostenuto、「126」とやや落ち着くものの、再度加速して、217小節目で、「138」と最高速に達する。その後、241小節目で、ritenuto。その2小節後に、Largamennte、「66」と主題の再現がクライマックスとなって圧倒的迫力でもって訴えかけられる。
さて、この構成は、果たしてショスタコーヴィチが最初に考案したものなのか、どうなのか・・・と思い巡らすと、どうも似た感じの作品がありませんか。
それこそが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章。
はて、こんなショスタコーヴィチのような加速があったかしら・・・とお思いの方も見られるでしょう。ラフマニノフの楽譜も詳細に見てみましょう。
(2006.3.28 Ms)
やはり、この作品も冒頭はModerato、二分音符=「66」。展開部が、練習番号7の後のMoto precedentoから始まるものとして考えれば、まず速度は「72」からスタート。練習番号8で、Piu vivo、「76」。その16小節後に、さらにPiu vivo、「80」。練習番号9から、poco a poco acceler.で、16小節後に、Allegro、「96」。その後、rit.及び、a tempo、さらにrit.となって、再現部は、Maestoso(Alla marcia)で、落ち付いたテンポでの冒頭主題の力強い回帰となる。
さて、この類似が、意識的なものか、無意識的なものか、私に判断する術はない。ソヴィエトから亡命していったラフマニノフの作品が、ショスタコーヴィチに影響を与えるような状況だったかもわからない。
ただ、およそ30数年前に作曲された自国を代表するピアノ協奏曲である。ショスタコーヴィチが知っていた上で、このアッチェレランドする展開部という構成を真似た、つまり、「借用」したという可能性は全くないとは言えないのではないか。とすると、どんな意味がそこに考えられるだろう。
もちろん、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は標題音楽ではない。何らかの言葉が掲げられた音楽ではない。しかし、彼の他の作品とは決定的に違う、重みを持った作品であることは確かであろう。
自身の最初の交響曲として、野心と自信をもって書き進められた交響曲第1番。この作品の初演の失敗が彼の精神をただならぬ状況に追い込み、作曲が不可能なまでの挫折、苦悩を味わった。そして、数年にわたる「自己暗示療法」により、「絶対に作曲する。傑作を書いてみせる。」という信念が、彼の代表作の誕生へと結実する。そんな、自伝的要素が少なからず付きまとう作品ではなかろうか。
そして、この史実は、その30数年後のショスタコーヴィチが知るところとなっているのなら、何らかの影響を与えなかったと言えるだろうか・・・ちなみに、ラフマニノフの交響曲第1番の失敗は、初演の指揮者グラズノフの無理解・無気力が原因の一つであり、そのグラズノフこそショスタコーヴィチの師であったという因縁めいたつながりもあったりする・・・。まあ、これは単なる余談であるが。
ここで、ショスタコーヴィチが交響曲第5番を書くまでの背景を思い起こせば、歌劇、バレエ音楽への国家権力からの批判、そして、「自分の創作活動の信条(クレド)」(前述の千葉潤氏著作、P189)として自負を持って書き進められた交響曲第4番の撤回、これらの挫折からの、作曲家としての復活を担った作品として、交響曲第5番は出現してくるのだ。
私の推理によれば、ピアノ協奏曲第2番の創作をもって、挫折から立ち直り、作曲家として見事復活を遂げた先輩ラフマニノフにあやかって、「絶対に作曲する。傑作を書いてみせる。」という信念のもと、ショスタコーヴィチは、交響曲第5番の冒頭楽章に、ラフマニノフの復活記念作品の第1楽章の展開部の構成を「借用」した、のではないか?というわけなのだが・・・さてどうだろう。
さらに、このラフマニノフからの、第1楽章における「借用」は、前述(<2−1>)のベートーヴェンの「運命」からの「借用」と併せて考えるのならどうだろう。
「運命」もまた、標題音楽ではないが、ベートーヴェンの自伝的要素を背負った作品として見られてはいないだろうか。作曲家としては絶望的な耳の病気、そして自殺を考え、しかし、思いとどまり・・・こういった作曲家の挫折と復活が、色濃く作品の構成に投影していると解釈され、また、そんな鑑賞が今や通常となっていると思われる。ショスタコーヴィチの時代のソヴィエトにおいて、「運命」が全く自伝的要素を排除して鑑賞されていたとするなら、この解釈は成立しないのだが・・・。
ベートーヴェンとラフマニノフの、挫折と復活を象徴する代表作かつ成功作の構成をまず下敷きにして、ショスタコーヴィチは、交響曲第5番のアウトラインを構想したのでは・・・というのが私の曲解であります。
ということで、この交響曲第5番の最も根底に位置する主題は、「復活」なのではなかろうか?と思うとき、まさに、その「復活」という言葉を伴ってこの作品の中に、「完全引用」、それも「修辞的引用」がなされているではありませんか!!!
ショスタコーヴィチの作品46。交響曲第5番の直前に位置する歌曲集「プーシキンの詩による4つのロマンス」について、次に触れましょう。
『余録』
ラフマニノフからの、構成の「借用」について書いたついでに、ひとつ指摘をしておこう。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第1楽章の第1主題のC-D-C-D-Cと揺れ動く主題は、そっくりな形で、ピアノ協奏曲第3番の第1楽章の冒頭、主題の出る前の前奏においても用いられており、ラフマニノフを特徴付ける旋律的発想の一つかと思うところだが、この動きが、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章においても見られる。
展開部の最後、ハープの登場のすぐ手前、231小節目からの低弦である。この部分自体は、提示部に現われた旋律を拡大したもので、もともとは、第4楽章16小節目の旋律線に由来するもの。このアレグロの速さでは、ラフマニノフとの関連はほぼ見落とされるが、展開部におけるゆったりとしたテンポの中では、おぼろげに、ラフマニノフの影が見えるようである・・・しかし、私自身、この部分を「引用」と言えるかどうか、迷いはある。リズムは完全に一致するものの、隣接する音を行き来するだけの5つの音をもって、「不完全引用」と見るか、「偶然の一致」と見るか?
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と背景を共有する作品たることを、第1楽章のみならず、ささやかに第4楽章にもしのび込ませたのか?
ラフマニノフへの意識が、交響曲第5番の作曲過程で少なからず影響を与え、無意識のうちに似た旋律を書いてしまったか?
それとも、全くの無関係。偶然の産物か?
これもまた、本人にしかわからない謎だろう・・・ここでは問題提起だけしておき、先に進もう。
(2006.3.30 Ms)
<2−4> 自作の歌曲「復活」(「プーシキンの詩による4つのロマンス」作品46より)
この歌曲「復活」については、今や、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を語る上で必ず付きまとう、触れずにはいられない重要な作品として既に認識されたもので、今さらここで、くどくど書き足すこともないだろう。例えば、今、手元にある、NHK交響楽団の定期演奏会パンフレット「フィルハーモニー」の2005年5月号における千葉潤氏の解説でも、この歌詞の全文を掲げて説明がなされている。前述の千葉潤氏著作、P80においても同様である。
以前の(5年前の)私の文章でも、歌詞の全文を紹介しています(こちら)が、ここでも念のため、掲げておきましょうか。
第1曲 復活 未開人の画家が うつろな筆さばきで 天才の絵を塗りつぶし だが 異質の塗料は年を経て 古いうろこのようにはがれ落ち かくて苦しみぬいた私の魂から かずかずの迷いが消えてゆき まさに、これがショスタコーヴィチの本音をうかがわせはしないだろうか。第4番の撤回と第5番の作曲との間に、敢えてこの詩を選び、歌曲集の冒頭に置いたのは、それなりの思い入れがあってのことだろう。 音楽的な観点からは、まず、歌い出しの音程が、A−D−E−F、と交響曲第5番第4楽章冒頭主題と同じであること、そして、上記の歌詞の第3節の伴奏型が、同じく第5番第4楽章の展開部の最後に現れるハープの旋律(239小節以降)と同一であること、が指摘できよう。 |
(2006.4.3 Ms)
<2−3>の最後において、私が、この交響曲第5番の最も根底に位置する主題は、「復活」なのではなかろうか?などと大書した時、権力者の批判によって作曲家生命の危機を迎えた彼が、交響曲第5番を引っさげて「復活」する、という文脈で語っている。未開人たるソヴィエト権力が、ショスタコーヴィチなる才能を塗りつぶそうとしながらも、その才能は時を経て復活する、というわけだが、ここで、以前、私が書いた「復活」の意味するところの数種類の例示を読み返すなかで、再度、気になってきている点が、「葬り去られた第4番の復活」という視点である。
この歌曲の第3節の伴奏型が、交響曲第5番第4楽章239小節以降のハープの音型として「完全引用」されていることにより、「修辞的引用」の引用元として、この歌詞は、交響曲第5番を理解する上でかなり重要な役割を持つので、充分な吟味が必要だろう。
また、第4楽章においては、ハープがこの部分にのみ使用されおり(他の楽章においては、もっと頻繁に使用されている)、奏者、指揮者、及びオーケストラ音楽の鑑賞に慣れた聴衆にとっては、このハープの存在は、かなり意識して聴かれるような配慮がされていると考える。ショスタコーヴィチが、この引用に気付いて欲しい、と言わんばかりに私には思える。
(ちなみに、もう一つの「引用」と思われる、歌曲の歌い出しと、交響曲第5番第4楽章の冒頭主題との類似は、リズムの異なっている4つの音の動きだけをもって「完全引用」と断言はできないものの、2作品の密接な関係を思う時、「偶然の一致」とも断言しかねるので「不完全引用」と私は位置付けているが、この点については異論もあるかもしれないだろう・・・。この「不完全引用」を「修辞的引用」として解釈するならば、交響曲第5番第4楽章の冒頭主題は、「未開人の画家」を象徴するものとなろう。)。
交響曲第5番の第4楽章の再現部、つまり、全曲の結論が近づく中で、ハープによって「かくて苦しみぬいた私の魂から かずかずの迷いが消えてゆき はじめの頃の清らかな日々の幻影が 心のうちに湧きあがる! 」という歌詞が暗示される。この幸福感を思わせる気分の前提として、「天才の創造物はわれわれの前に以前の美しさを取り戻す。」と歌われているのを見れば、「天才の創造物」が、当時のショスタコーヴィチにとって葬り去られた作品、という解釈が成り立つ余地はあろう。とすれば、撤回された交響曲第4番の「復活」を思い描きつつ、ショスタコーヴィチはこの引用を行ったのではなかろうか?と私は思うのである。
次に、ショスタコーヴィチの交響曲第4番と第5番の関係について見てゆきたい。将来における、交響曲第4番の復活を思い描きながらも、そもそも、交響曲第5番そのものの中に、交響曲第4番の復活が仕組まれてはいないだろうか・・・。
(2006.4.8 Ms)
続きはこちら(次回は、ショスタコーヴィチの交響曲第4番について)