石手寺山門前の茶店の人によれば「ここいらでは珍しい大雨」に、すっかり歩く気力を無くしてしまった。前回泊まった道後温泉のツカサビューホテルに電話する。「ただいま工事中で展望風呂と露天風呂へ入っていただけません。その変わり道後温泉本館の入浴券と送迎をさせていただきます」とのこと。料金も安くなっている。昼食と、前回立ち寄らなかった道後公園を見て2時前にチェックイン。10畳敷きの和室でくつろいでいます。もちろん、すぐ前にあるユースホステルのコインランドリーで洗濯をし、道後温泉本館のお湯にも入ってきました。あれだけ多くの人が入浴しているのにお湯が汚れていないのはさすがです。

今日の万歩計は 20,300歩 です。休足日になってしまいました。
 49番浄土寺に着いたのが9時10分過ぎ。やはり前回よりは近いと感じる。ここの仁王門の仁王様はお顔が崩れかけ、庫裏の土塀は朽ち、崩れかけている。何時の時代の物かは知らないが文化遺産に違いがないから残念な気がする。お参りの後、納経所で順番を待っていると携帯の呼び出しが・・・・・・・。松山在住のなえもんさんが会いに来てくれる日になっている。やがて、お嬢さんの運転する車でお母さんの家から繁多寺、石手寺と送っていただいた。
 お母さん手作りのお饅頭、子供の頃“ガンドチ”と呼んでいた丸い形の茨の葉っぱでくるんである。子供の頃お袋がよく作ってくれたのを思い出し、懐かしくいただいた。ありがとうございました。
 久しぶりの平地ウオーキング、思ったよりも歩が進む。ため池から田圃の中を通り、旧道を歩く。40分あまりで西林寺に着いた。雨足が強い境内ではお灯明台と線香立ての掃除をしている人がいる。ろうそくを立てる鋲にへばり付いている解けて固まった蝋をそぎ落とすのはなかなか根気のいる仕事だ。毎日掃除が行き届いているところはお参りをしても気持ちがいい。

 ここで、素足で白衣を着た女性が納経所を入っていった。「裸足で歩き遍路?」と一瞬たじろいだが、どうも様子が違う。リュックが無い、菅笠のうえにこうもり傘をさし、納経所の後で本堂へ向かっていった。何かの願掛けかも知れないが、私の目には“奇異”そのものにしか写らない。
 朝、起きたときは雨が降っていない。道後温泉は素通り、と大見得を切って出発、がすぐに雨が降ってきた。それも、並の降り方ではない。宿から1kmの八坂寺、山門をくぐったのが7時ちょうど。朝一に釣り鐘を突かせてもらう。納経の始まる時刻である。
 前回同様、お経の間は霊たちの賑やかな振る舞いが感じられる。縁起書によれば、戦にあい焼かれて今の場所に移築とある。お寺さんと一緒に足軽たちの霊魂も移ってきているようだ。
 このお寺は、どこかきれいな別天地と言った門構え、境内には閻魔様と地獄がある。
2004年6月26日 (29日目)
 さすが名だたる遍路宿である長珍屋、宿泊客が少ないとはいえ30人分ものお膳が用意してある大食堂、それでも1/4ほどである。床の間には常連客が置いていくという、大きな納経掛け軸や書画の数々。遍路宿でなかったら異常と思うほどである。今回は、どこかの工事に来ている人であろう8人ほどが連泊している様子、この町の宿はここだけのよう。
 三坂峠から、へんろ道を下りるにつれて暑くなってくる。気温で言えば2〜3度は高くなった感じがする。朝から食料を売る店も飲食店も無かった今日のコース、長珍屋へ後1km足らずのところに食堂らしき店があった。2時を廻っていたが聞くとうどんを作ってくれるという。食べている間に「洪水警報」が出た。そして空が一転くらくなり、雨粒が・・・・・
 3時ちょうどに浄瑠璃寺に到着、お参りの後、真向かいにある「長珍屋」に飛び込んだのが3時30分でした。そのころには道は川のように水が溢れていた。

 今日の万歩計は 34,800歩 でした。
 出かける頃には降っていなかった雨、10時過ぎから降り始めた。白衣で濡れて歩いてはいたが何となく寒くなってきた。国道33号線のレストパークで着替えのために休息。なんとここには「お遍路もどきホームレス」が居着いている。

 所々では開通する携帯電話、三坂峠の頂上までは“圏外”がつづく。ここに着いたのが12時30分、長珍屋へ電話。今夜寝る部屋をゲットする。
 今朝は、青森から来てレンタカーで廻っていると言う、女性二人組の車に、ずうずうしくも乗り込んで行った。「オリンピックの年には、逆に廻ると御利益が倍増する」とかいいながら43番大宝寺へ向かっていった。空海の時代や八十八カ所巡礼の様式が確立した頃にはオリンピックなんて無かったのにね。しかも暦も太陽暦ではないから4年に1日追加なんて認識も無かった。
 いろいろと理由付けして、目立とうとしているのかと考える。
 今日は46番・浄瑠璃寺に向けての歩きになる。千本峠と三坂峠越えである。厳しい登りもあるが、急な下りが印象に残っているへんろ道でもある。
 古岩屋荘では何組かの泊まり客があったが、ほとんどが自動車でのお参りの人たちのようだ。浜松からと言う夫婦連れのおじぃちゃん、やたらあっちこっちに話しかける。しかもプライベートに入り込もうとするからみんなから敬遠される。。それとは気が付かないで、おしゃべりに入り込む。脳卒中で倒れたが、回復、糖尿病もあるから車には乗れない。今回は6ヶ寺を目安に来たという。ビールを飲みたがるおじぃちゃんをサポートするおばぁちゃんが大変だ。
2004年6月25日 (28日目)
 古岩屋というのは水成岩が風雨の浸食で形作られた奇岩から成り立っている。岩本寺はお不動様をお祭りし、行場としたものであろうが、ここいら一帯はもっと厳しい地形のようだ。国民宿舎・古岩屋荘のロビー壁画は、モザイクタイルでそんな様子が描かれている。施設は古く、お湯も冷泉で取り立てた特徴もないがまろやかな肌合いは、悪くはない。1泊2食付きで料金は86,00円でした。
 白衣の男性が両手に20数冊の納経帳や掛け軸、白衣を抱えて上がってきた。黙々と、それらを差し出して御朱印をいただいている。当然のことながら、彼はお清めもお参りもしない。やがて、荷物をまとめて下りて行った。不思議なのは、その納経帳の数に見合う参拝者が上がってこないことである。大宝寺の張り紙の訴えていることが、現実に多発しているようだ。ツアー客はなが〜い岩屋寺の表参道を上がることなく下のバスで待機していることだろう。これが、現実なのか、と悲しくもなる。

 宿である、国民宿舎・古岩屋荘には1時50分に着いてしまった。チェックインは4時から、現実には3時半にならないと部屋には入れてくれない。そこで、まずはお風呂。そして、着ていたものすべてをランドリーに放り込んでおいてロビーでお昼寝としゃれ込んだ。

 今日の万歩計は 21,000歩 でした。それと、お四国を長い間一緒してくれた菅笠があちらこちらと分解の様相を呈してきたので、大宝寺参道の茶店で買い換えました。

 ここは、携帯電話が「圏外」です。このページは後日のアップとなりますので、ご了承ください。
 伽藍の配置は、山門をくぐるとまず大師堂、石段をおりて本堂、そしてまた石段をおりて庫裏や手水場となる。歩き遍路は裏門からのお参りになる。まずは手水場のある庫裏まで下りていくと、「こっちにもお不動様がありますよ」と参拝者から声がかかる。お参りをせずに下りていってしまうと見たのであろうか。

 納経所の前のベンチが雨が当たらないのでここで休憩をとらせてもらう。時間はちょうど12時。すると、お寺の奥様から、お饅頭が2個、お接待がある。ありがたくいただく。
 やがて尾根道に出てからも時々険しい登りがある。10時頃から降り始めた雨はだんだんと強くなってくる。何度かのアップダウンを繰り返して、道は急激に下がり始める。ガレバと石段、それに木の小枝と足下が良くない。滑らないように注意深く下りていくと、突然「お不動様」が現れる。初めは小さな石仏であり、その前には護符が置いてある。何度かつづら折りを下るとやがて赤いお不動様の大きな像が出てくる。この道の終点は、岩屋寺の山門である。
 しばらく県道を歩くと再びへんろ道が始まる。“八丁坂”と呼ばれる難所の一つでもある。確かに厳しい登りが続く。45番岩屋寺は険しい岩場を駆けめぐる行場であるから、そこへのへんろ道も険しいところを通してある、との説もあるほど。
 大宝寺の上から始まるへんろ道、昨日のダメージが残る足を叱咤激励しつつユックリと登る。台風のせいであろうか、杉や灌木の枝が千切れてへんろ道を飾る。水が流れているところもあって、歩きにくい。
 真言宗豊山派の大宝寺、宿坊でも頑固に精進料理にこだわっている厳格なお寺さんである。果たして、納経所の入り口に「納経はお参りの後」と張り紙がある。八十八カ所の札所で初めてみた張り紙、本来はこれであるのに呼びかけなくてはいけない今を不審に思う。
 ホテルを出発したのは7時40分であった。44番大宝寺と45番岩屋寺をお参りして古岩屋荘で泊まるつもりだから時間はあまる。でも、大宝寺からは携帯が圏外にになる。早いが電話でアポを取る。

 久万町の中心を流れる川にかかる橋にやってきた。ここを渡ると、大宝寺の寺域と言うことであろうか、総門が立つ。道路の両側にはまだ民家が並ぶ。ここから、大宝寺の仁王門まで1kmの登りが続く。
2004年6月24日 (27日目)
 このホテルはかなり年季の入ったシティーホテルのようだ。2食付き1泊で6300円は安い。ツインの部屋でベッドがひとつしかメイクしてない。“見てくれ”より実を尊ぶ、と言うことなのか。
 県道42号線にはいると道はますます険しくなる。最後のへんろ道に入ったのが3時45分、これなら何とか予想通りの6時までにはチェックインできそう。ところが、このへんろ道が並の険しさではない。しかも長い。1kmとあるが、もっとあるような気がした。足はもつれるし心臓は踊るし。ガイドの通り1時間で下りにかかる。下りは早い。結果、5時30分にホテルにチェックインできた。

 でも、今日は身体の限界を超えてしまったようだ。夕食は残すし、食事の後はなにもする気になれず1時間ほど寝入ってしまった。

 明日は、古岩屋荘で泊まりたい。温泉である。ここは、携帯がまるで役に立たない山奥。

 今日の万歩計は 52,800歩 でした。
 国道379号線に入ると、所々に集落が見える。数軒の場合から十数軒まで。川の廻りは平地が少なく、急斜面に石垣と柱を組み合わせた「天空」の家も多くなる。突然、80代くらいのおばぁちゃんが、両手を合わせて頭を下げている。いわゆる「合掌礼拝」である。対象は、私。私も立ち止まり、両手を合わせて頭をさげる。短い会話であったが、その表情には穏やかで暖かいものが見えた。
 この川は水量が多い。所々に淵があり渦を巻いているのが見える。トンネルを二つ抜けた頃から“筏”の文字が目につく。山仕事で生計を立て、木材の運び出しに筏を組んだのであろうと、思っていると観光筏のことのようだ。和歌山県での記憶はあるが愛媛県では知識が無い。

 突合に着いたのが11時15分であった。ガイドブックよりは早い。幸い、圏外だった携帯も通話ができる。久万町のホテルを予約してチャレンジする事にする。いつの間にか雨は上がっている。
 内子橋にかかる頃から細かな雨が落ち始める。時間は8時になっている。ここからの距離と時間がガイドブックにある。国道56号線から国道379号線に変わり、小田川に沿って登る。昨年、記憶にある今にも倒れそうな土蔵がそのままの姿で目に飛び込んできた。
 今日のコースは、ガイドによれば35.2km、所要時間11時間20分とある。しかも、コースの90%が登りで、へんろ道は険しい。途中で繋ぐか、一気に行くかは分岐点である突合(つきあわせ)というところでで判断することにする。

 何はともあれ、途中で気の利いた店はないから大回りをしてコンビニで弁当を調達。
2004年6月23日 (26日目)
 鰹のたたきと刺身などの和定食と朝食付きで、8,000円は普通。施設が新しいなど合格の宿と言える。6時30分からの朝食に、7時過ぎに出発する。公園の池には瘤白鳥のつがいと、黒鳥が仲良く泳いでいる。
 今日の宿は、公共の宿・ハイプラザウチコにする。内子の町を見下ろす運動公園近くの山の上に建つ。お風呂はトロン温泉とある。と言うことは、放射線を出す鉱石を通したお湯のわけ。なにせ、3時にチェックイン。洗濯機に着ていたものを放り込んで入浴を済ませた。

 今日の万歩計は 44,800歩 でした。
 大洲市内に入ったのが10時半過ぎ。おはなはん通りの道の駅で休憩をと立ち寄る。ところが、無料休憩のいすとテーブルが満員。バスが入っているのと、地元の清掃奉仕のおばぁちゃんたちが占領している。リュックを下ろすが座るところがない。あきらめて、今度は11時からランチタイム、日替わり定食とあるレストランに11時ちょうどに入る。ランチをオーダーするが、不愛想に「できません」って。「11時を過ぎてるよ」「お弁当を作っていたのでできません」という。昨日からどうも食事に苦労する。町を過ぎてからファミレスでやっとお昼にありつく。今日も、自転車の白衣を見たが、このあたりではお遍路のイメージが良くないかも知れない、なんて考えてしまった。
ースを接待してくれた軽トラックの人に、鳥坂峠の入り口でまた出会うう。今日は黒のワーゲンだ。また、自販機のジュースをと言うが、あいにく休憩直後であったため、丁重に辞退する。この鳥坂峠、中で勾配が変わっている。珍しい。
 宇和町から鳥坂峠のとりつきまで、緩やかな登りになる国道56号線、歩いていても登りと気が付かないで「体が重い」と感じてしまう。
 歩けば、昨年のことが蘇る。気が付けば同じところで休憩している。昨日、歯長峠を下りたところで自販機のジュ
 6時半と言う時間は、散歩に出ている人が限られる。やがて、車が増えてくると、自転車の中学生も多くなる。彼らは、自分から挨拶をしてくるものもいれば、こちらから声をかけないと挨拶をしない者、声をかけても無視をする者さまざまである。自分の中学生時代は恥ずかしい思いが先に立って挨拶ができなかったものだ。
2004年6月22日 (25日目)
 宇和町の宿松屋でお遍路の宿泊は私独りでした。6時半と言っていた朝食を5時50分に「用意ができました」と呼びに来た。漬け物が自慢のこの宿、本来は夕食も付けていたのが板前がいなくなってできなくなったとか。1泊1食のお値段が5,600円。早く出発できるのはありがたい。
 42番・仏木寺までは1時間、その道中とお参り、休憩の30分の間雨が降り続く。

 ここから43番明石寺まで、去年は4時間とある。同じようにへんろ道を上り、歯長トンネルを抜けて、今年は3時間で着いた。少しは、山歩きの力が付いているのであろうか。

 今日の宿は、明石寺近くの松屋旅館とする。夕飯は用意できないと言うので、外に出るが、町には飲食店がほとんどない。飲み屋だけであり、5時台ではやってない。のれんの掛かった寿司屋を見つけて飛び込むと、台風の影響でネタが無いという。出来合いでかまわないとすしを注文、900円のメニューが600円になった。でも、鯛とマグロと軍艦巻きが二つ。まぁ腹がふくれればいい。

 古い和室へ案内される。トイレが遠いが仕方がない。明日は、内子までいけたらと思う。

 今日の万歩計は 40,400歩 です。
 龍光寺の参道で白装束の一団、20数名とすれ違う。雨天対策で白衣を着ていないせいもあるのか、すれ違ってもこちらが挨拶をしないと、挨拶が無い。そして、本堂前でお灯明は1本も点いておらず、線香は1本も立っていない。あの集団、本当にお参りしたの?と考えていると、白衣も笠も、杖も持たない人が納経所へ飛び込んだ。もちろん、お参りなしで。
 30分以上かけてお参りと休憩をした後、納経所へ行くと、その人はまだ掛け軸を乾燥している。そして、お参りする事もなしに出ていってしまった。自分のためにお参りをし、その証として、納経帳に御朱印をいただく私としては不思議でたまらない行動パターンだ。
 今日の予定の41番・龍光寺のある三間町までは、2時間近くの登りが続く。ようやく、靴がなじんできたのか、今日は足が出るようになっている。県道57号線沿いに流れる川はやはり水量が多い。雨も激しく降ったことが分かる。2時間半後、龍光寺が見えた頃から細かな雨が落ちてきた。雨はもう降らないと、レインウエアーをしまったところだ。
 テレビの台風情報を見ながら出発の準備をする。8時になって風向きが変わった。これを見て出発をする。
2004年6月21日 (24日目)
 昨日の夕方からホテルの前、つまりJR宇和島駅の前にテレビクルーが機材を拡げていた。台風情報の際、中継をするためであろう。
 朝、様子を見に下りていくと、ホテルの前にはNHKと、改札口には民放のクルーがカメリハをしている。
 昨日はいい音を響かせていた風鈴の音が今朝は聞こえない。見ると、短冊がすべて千切れて無くなっている。やはりかなりの強い風が吹いたのであろう。
 バス停があるたびに、次に来るバスの時間を見る。このまま歩いても宇和島駅に着くのは夕方になるからだ。ちょうど津島町の浦知というバス停で後5分というタイミングを得た。時計は11時45分。ここで、バスによる“ワープ”です・・・・・・・・・・・

 宇和島駅前に着いたのが12時35分、ステーションホテル・クレメントウワジマで部屋をゲットする。もちろん、明日の朝の台風によってはもう1泊もOKとの約束をとって。これで、台風に対しては心配が無くなった。

 今日の万歩計は 28,500歩 です。台風のせいにして、楽をしてしまいました。
 進むにつれて雲が切れて青空が出てきた。でも思い出したように雨が降る。海岸では台風の余波なのか波が激しい。しぶきが国道までも飛んでくる。そしてザーッと言う音の後に“ガラガラ”と音がする。石が動いている音のようだ。
 今日のコースは山越えのへんろ道もあるが、あえてお天気を理由に国道を歩く。国道でも結構登りが急なところが多い。岬の山を越えると海岸や漁港に出て、また山を越える。
 内海町には、歩行者・自転車専用のトンネルがある。排気ガスがないせいなのかトンネルの内部がきれいだ。節電のためなのか照明がひとつ、あるいはふたつと消してある。そのせいで面白い光のワッパができている。
 台風6号が来るという。明日21日の朝、南予地方に上陸するかもしれないとも。雨は降ってはいないが黒い雲がすごい早さで動いていく。白衣と輪袈裟、Gパンをリュックに押し込め、合羽の上下と言う雨天完全装備で7時30分に出発。いくら通風性のある高級レインウエアーでも、汗は外に出さないらしい。腰から太股にかけて汗が流れていくのが分かる。
2004年6月20日 (23日目)
 前回泊まったときには、なぜか寝られなかったダブルベッド。今回は二つくっつけてある枕をずらし、ベッドの真ん中に来るようにしたら、グッスリと眠ることができた。
 土曜日の夜からなのに、宿泊客は3組7人。良く経営が成り立っていると、余分な気を遣ってしまった。
 時間があまってお寺さんで納経所の人たちと(今日は二人いた)話ができた。「今の団体さん、先達が3人もいてその内の一人は納経帳が真っ赤になっている大先達だけのことがあって、マナーが良い」とか、「お灯明の火を灯明台の他のローソクからもらう人が多すぎる」とか。弘法巡りを初めてしばらく経った頃、お灯明の火を他のローソクからもらうと、その火をつけた人の“業”を引き継いでしまう場合があるから良くないと、教えてもらった。
 でも、もっとすごい人を見てしまった。お灯明台の経ち消えたローソクを取り出し、まだ点いている火をもらって、あたかも自分のお灯明のように別のところにたててしまった。見てたのは、おいらだけではないのだぞ!

 3時を10分早く、部屋に入れてくれたホテル。大浴場がもう使えるとのこと。早速、一風呂浴びて濡れた白衣から下着までを洗濯機に放り込む。

 今日の万歩計は 40,500歩 でした。明日は、宇和島まで行きたい。雨が激しければバス移動も考えている。宇和島のホテルで台風をやり過ごしたい。
 時々雨が激しく降るようになっている。昨年も泊まった「ホテル・サンパール」へ電話を入れる。ダブルベッドで眠れなかった記憶だが、お天気のかげんで贅沢は言わないことにする。チェックインは3時からという。このまま行くと1時半には着いてしまう。
 何度も休憩を入れ、お寺さんに着いたのが1時30分。おりから合致合った団体さんをやり過ごし、2時30分にお寺を出る。すると、皮肉にも強い雨になってしまった。後1kmでホテル。面倒だから濡れて歩いた。
 今日は、へんろ道を避けて国道を歩く。マメや靴擦れの心配は無くなったが、まだ自分の足にはなっていない。脛の筋肉が突っ張ってきた。歩き始めて1時間ほどはペースダウンを余儀なくされる。宿毛市街地からしばらく急な登りが続くが、トンネルを抜けてからは下りになる。それに不十分なものではあるが歩道が付いているのも良い。
 松尾峠を越えた昨年、山越えに3時間かかったとある。山を越えた地点の国道に着いたのが3時間半経ってからだった。急な上り下りがあるへんろ道の方が距離的には短いということになる。へんろ道は、国道には合流せず県道、村道を通って御荘町に通じる。この道を通った昨年は40番・観自在寺に着いたのが4時になっていた。
 雲は切れ、青空がのぞく。地面が濡れているので雨があったことは想像できる。同じ宿毛市内でも中心部へは峠をひとつ越さなければならない。朝が早いせいもあって自動車も少ない。中心部までは昨年と同じ道を歩く。掛け替えの工事中だった宿毛大橋はきれいになっている。
2004年6月19日(22日目)
 夜早く寝るせいもあって朝は早い。4時には目が覚める。5時半くらいまではボーッとして過ごす。
 今朝は、5時15分に声がかかった。「朝食の支度ができました。」って。部屋の電気が点いていたので・・・ですって。雨が降り出さないうちに今日の宿に到着できるようにとも。
 本当にありがたい配慮です。おかげで5時45分に出発した。
 39番・延光寺は納経帳に“亀”のハンコを押してくれる。20番の鶴と合わせておめでたい。山門の軒飾りにボタンの花をくわえた唐獅子がいた。「唐獅子ボタン」は東映やくざ映画のヒット作品であったが、案外こんなところがヒントになっていたのかと、ほくそ笑む。

 今日の宿は門前の「嶋屋」にした。貸し切り状態です。この宿の前がお寺の大型車の駐車場になっている。1台のバスが入ってきた。16時55分のことである。止まるや否、添乗員とバスガイドが何個かの鞄と袋や包みを抱えてお寺に向けて走る。ゆっくり歩くと5分はかかる参道、17時前に納経所へ付かないと、予定が狂ってしまうからだ。20分後、無事に包みを抱えて戻ってきた添乗員、三々五々戻る白衣の乗客を待っている。ご苦労様。でも、これらの乗客一人一人に、お参りをした、お経をあげた、その証にありがたく納経帳に印を入れていただいた、という 感慨を味合わせてあげたいと思うのは余分なことかもしれない。

 明後日は台風の接近が予想される。ホテルにでも閉じこもる工夫がいるかもね。

 今日の万歩計は 46,800歩 です。
 三原村を越すと道路は下りになる。すると、雲が切れて青空が出てきた。蒸し暑い!道路は急な下りのつづら折りを繰り返し、ダムサイトからトンネルを二つ抜け、やっと町に出る。
 急な下り坂で、暑さから休憩をとっていると、軽ワゴン車が止まり、「お参りご苦労様です。後9km、がんばってください」と黒飴をくれた。久しぶりのお接待だった。ここ2日ほど、コインを拾って(1,5,10円)道路端のお地蔵さんのお賽銭にしているがこれも、誰かからのお接待なんだろう。
 天気予報は曇り、しかし細かな雨が降ったり止んだりしている。合計すれば降っている時間の方が圧倒的に多い。やはり南東斜面は雨が多いのか、と勝手なことを考える。

 三原村の中心部には5時間もかかった。休憩が多すぎたかも。ここには旅館・庄助という有名な遍路宿があったとか。その建物が“いきいき三原会”というNPOの管理となってお遍路休憩所になっている。電話をすれば、部屋を使うこともできるとか。お遍路も時代の流れで忙しくなったのか、三原村で1泊する人が少なくなったようで旅館の経営が成り立たなくなったのであろう。
 6時20分に宿を出発する。今日は三原村越えの山道です。初めはセンターラインと歩道の付いた県道もすぐに軽自動車でもすれ違いができない道幅になる。深い谷間を下ノ加江川に沿って上る県道は三原村まで登りが続く。ところによってはかなり険しい。今日は7台の車とすれ違い3台の車に追い越された。休憩をこまめに入れての4時間の間にである。アスファルト面に苔が生え緑色になっているから、通行量は知れている。黴でなにが書いてあるのか解らない標識もある。
2004年6月18日(21日目)
 この宿は、食堂を営んでおり食事はそこでとる。もちろん1泊2食の料金で契約している。顔は覚えてくれてはいなかったが、2度目ということでいろんな情報をくれた。今日の予定であるお寺門前で昨年泊まった「ひょうたん」は、おばぁちゃんが身体の具合を悪くしたのでやってない、とかお参りしている間に置き引きをする悪いやつが出没しているとか、などなど。
 昨日の話題で取り上げたお地蔵さん、今日は息子を亡くした母親の嘆きと、それを悲しむ息子の声が聞こえた。悲しい話・・・・・・。丹念にお経をあげてきた。

 今日の万歩計は 40,200歩 です。
 今日の宿は、昨年足摺岬への繋ぎで利用した民宿・安宿に決めた。トイレや浴衣が臭ったもう一つの宿には、足が遠のく。まだこちらの方がまし、一家の真心は伝わってくる。それと、明日の39番・延光寺への分岐にもっとも近いのも理由だ。ユックリと歩いてきたつもりだが、3時30分に着いてしまった。世話をしてくれるこの家の息子が待っている。お風呂の用意もできているとのこと。洗濯をしながら汗を流してノンビリとしている。
 午後からは昨日通った道を逆に戻る、いわゆる打戻りである。大岐海岸(おおき・かいがんと濁らないそうです)で、昨日は気がつかなかった2体のお地蔵さんを見つけた。4歳と8歳と刻まれている。海難事故での災難のようだ。“ママー、タスケテー”という声が聞こえて来た。ここいらは太平洋の荒波が洗う土佐湾でも白い砂浜が続く所、しかし波は荒くサーフィンに興ずる若者が多い。何とも痛ましい声を聞いてしまった・・・・・・・・。
 靴が違うと言うことは、足の筋肉に限らず、全身の筋肉の使い方に微妙な違いがあるようだ。足から腰、背中の凝り方が違う。
 実は、昨日ホテルで靴を脱いだとき左右両足の2ポイントずつ4カ所がズキンと痛む。マメか、と一瞬たじろいだが、1時間もしない内に治まった。どうやら、靴擦れやマメは大丈夫のようだ。後は慣れるだけ。
 海を隔てて土佐清水漁港が見えてきた。しかし、湾をぐるりとまわって道路が続く。実にまどろっこしい。

 再開遍路に向けて、靴を変えてきた。底の山が無くなってきて後1000km余の道のりに耐えそうも無かったからである。同じメーカーのものだが、アスファルト道路が多いことを考えてソールが一段柔らかいものにしてきた。12kmそこそこのならしで出てきたものだから、内心はヒヤヒヤしている。
 今回は足摺岬の西海岸を歩く。といっても海岸沿いに道があるわけではない。絶壁に近い山を切り開いているだけにアップダウンが激しい。しかも、曲がりくねっている。距離14.5kmとあるのに結局4時間もかかってしまった。まだ、スカイラインの方が早かったようだ。しかも、海が見えるのはほんのわずか。
2004年6月17日 (20日目)
 朝、一風呂浴びてから準備を済ます。やがて、布団を上げ朝食を拡げてくれたのが6時半のことでした。おかげで、7時にはチェックアウトして出発できた。料理や設備は国際ホテルよりワンランク落ちるが料金もその分安い。仲居さんの御愛想分だけ得したことになる。
 雨が降らないのはありがたい。が、暑い。暑いのには閉口する。足摺岬への道は、結構アップダウンが多い。岬が近づくにつれ、足が上がらなくなる。ちょっとした石ころでもつまずく。お四国の札所は17時までで納経所を締めてしまう。だから、金剛福寺には遅くても4時30分までには着きたい。でも、足が思うようには動いてくれないもどかしさが・・・・。

 結果、4時30分に到着。同時にバスが2台止まり添乗員が鞄をいくつも抱えて納経所へ走る。白衣の集団は・・・・・・・いっこうに姿が見えない。岬見物に行ったようだ。

 今日の宿、ミサキホテルは高台にある。そこへの道は、地獄そのもの。這うようにしてチェックインしたのが5時5分でした。ここは食事が部屋でとれる普通の温泉ホテル。温泉といっても放射能冷泉とある。
 なにはともあれ、ちょっぴり贅沢な気分です。明日の朝は6時に布団を片づけに来てくれ、6時半に朝食を運んでくれる。ここにもバスでの遍路軍団が一台入っている。なんか、どたばたとうるさい・・・・・・・・・・・。お風呂で会った限りはいい年のおじいちゃんおばぁちゃんたちなんだけどね。

 今日の万歩計は 58,200歩 です。46kmほど歩いたことになる。我ながら、スッゴイ! 
 昨年の遍路のときにすごい霊気(生き霊)を感じたお地蔵さん、今年はその霊気がずいぶん穏やかになっている。見ると、お地蔵さんの頭が白い。石に生える黴か苔のよう。去年には無かったものだ。不思議なものを感じる(左真ん中の写真)。

 久百々-足摺岬の間には砂浜を歩くへんろ道がある。その一つを歩いてみた200mほどではあるが写真中段右のようにすごいところを歩いて再び山に入る。今年は、案内が増え、しかも懇切丁寧だ。県道とへんろ道の距離と時間がかかれ、どちらを選ぶかお遍路に選択させるようになっている。短い所は0.6kmってのもある。

 普通車がすれ違いのできないような細い県道を歩くと窪津という漁村がある。そこのひとつの部落に遍路小屋がある。それが、ますます充実。洗濯機から毛布まで備えてあり宿泊所の看板までもがかかっている。しかも、きれいに掃除と管理が行き届いているのにも驚かされる。よほど、細やかな心遣いがされているものと見える。もちろん、個人の接待であるからなおのこと。多くのこういう施設は“遍路もどきホームレス”に占領されて、やがて閉鎖になっているからだ。
 昨年泊まった“安宿”の前を9時に通過、朝早く出たのと町はずれの宿のせい。白波の洗う久百々、大岐海岸を行く。12時に足摺岬のホテルを予約する。最近、足摺温泉郷も客足が落ち、つぶれる所も出ている様子。遍路とは言え、大事な客のはず、しかし最初のホテルは「今日は満員や!」と無造作に断られる。2件目に電話した「ミサキホテル」は、料金他を説明の上快く引き受けてくれた。
 四万十川縁まで、女将さんに見送られて6時15分に出発した再開初日、今日は43kmもの長丁場、中断したことで身体が元に戻っているからちょっと不安がよぎる。

 四万十川を離れると、「大文字山」が目に飛び込んでくる。説明によれば平安の昔、都の戦渦をを逃れて一条なにがしの公家が領地であった四国の中村郷に移り住んだ。都を忘れることができず、町は碁盤の目のように通りを通し、中心部に御所に見立てた自身の館、そしてこの大文字山まで造ってしまったとある。
2004年6月16日 (19日目・RV01日)
 通りから少し入った所にあり、看板も小さめ。おかげで昨日は通り過ぎてしまった。トイレと洗面所を改装しただけの民家、それもそんなに古くない家。アットホームな感じでもてなしてくれたいいお宿です。
2004年6月15日
 所用で打ち切ったお遍路を再開するべく、中村市へやってきました。名古屋6:40発新幹線のぞみに乗るべく5時に家を出て・・・・・・・・・・
 中村駅には13:38着。歩くのとは違う疲れがありますね。岡山から乗ってきた特急南風3号は“アンパンマン列車”だそうで車両の外だけではなく内部にもアンパンマンが巡らしてありました。
 今日は、四万十川べりの民宿で疲れを癒し、明日は足摺岬を目指して進みます。
どう    ぎょう    に      にん
お大師様の気を感じたくて再び巡るお四国の山や里
2004.5.22〜
“四国を歩いてみたい!”
  この願望がかなった昨年、時が経つにつれて持ちあがった“空虚感”
  これはいったいなんだろう?
   大きな写真にリンクアップしました。写真をクリックしてください(2004/7/16)。