(2004年6月15日)
長い間おつきあいをいただきありがとうございます。何時、つなぎを始めることができるかは分かりませんが、この中村市から再び歩き始めたいと思っています。その節は、またのおつきあいをお願いしつつ一旦このページを終了したいと思います。ありがとうございました。
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信じられないような話ですが・・・・・・・・・・・
昨日の焼坂トンネルでのこと、やっと見えてきた出口に、菅笠に墨染めの衣、そして手には錫杖を持ったお坊さんの姿が見えました。近づくにつれ見え隠れしていたその影は見えなくなってしまいました。お大師様の幻を見たような気がします。(焼坂トンネルは、排気ガスが充満しており中程で息苦しくなりました。ここは遍路道を歩かれる事をお勧めします。)
やがて、国道には「鯨とシメジの町土佐佐賀」の看板が目立ち始める。かつおと鯨なら分かるが、とトンネルを抜けると、見晴らしの良い海岸に出た。ここからは、中村市を目指す。
実は、6月13日と15日に避けられない用件があって、うち切る覚悟をしたからなんです。いったん、帰ってしまうとなかなか繋ぎに出てこられないかもしれませんが、お天気にも恵まれ、よくここまで歩を進めることができたと、お大師様や縁のあった皆さんに感謝しています。明日6月10日8時04分発特急南風の切符を購入して駅前のビジネスホテルに入ってます。
明日の夕方には家にたどり着けそうです。2〜3日かけて、写真に大きなサイズをリンクさせる作業を進めますのでもうしばらく我慢してください。
今日の万歩計 29,500歩 です。
休憩をとっていると、自転車に乗ったお遍路がやってきた。坊主頭であることから修行僧かもしれない。お地蔵さんの廻りの掃除をしてから、念入りにお経をあげ始めた。聞くわけでもないが、念じているのは早口の般若心経だけのよう。気味の悪い気には何の変化も現れない。
このせいではないでしょうが、ここの前後30分の行程で新しいお地蔵さんと花束を3カ所も見てしまった。幸いにも、霊魂は残されておらず、成仏されてるようで、ホッとする。
時には小さな峠を越すが基本的には下り、1時間ちょっとの道のりにお遍路有志の設置とある「身代わり地蔵」がまつられ、休憩所を伴っている所がある。今日は車寄せに鋼材を積んだ大型トラックが雨避けシートを畳むべく止まっている。
去年、完成間もない時期にはなにも感じる“気”が無く不審に思ったものだが、今日は“気味の悪い気”をたくさん感じてしまった。念入りにお経を奉じては見ましたが私にはそれ以上の力はない。この界隈の事故が多発していなければと気にかかる。
2004年6月9日 (18日目)
国道56号線沿いに建つ佐賀温泉、ドライブインといった趣。お風呂は内湯だけでそんなに広くはない。お湯はアルカリ泉でお肌ツルツルの美人湯、循環方式のようだ。いわゆる温泉宿と言う風情ではない。
須崎を発って約1時間、焼坂トンネルがある。長さ960mとあるからたっぷりと10分はかかる。そして全体がかなりの登り勾配だ。もちろん歩道はなく右側を壁にくっつくようにして歩く。照明は暗く、換気装置が無いせいもあって空気が悪い。中央部でちょっと息苦しくなってきた。不意に、すごい風圧を感じて身をすくめる。ダンプが袖をかすめるかのように走り去っていった。ヤバイ!
次の瞬間、左側に一緒に歩く気配を感じ、呼吸も楽になってきた。それ以降、対抗する大型車はどれも1m以上開けてすれ違っていく。南無大師返照金剛・・・・・・・・・・
本当に怖いのは霊ではなく、人間なのだって知らされました。
37番岩本寺の山門には珍しく金網がない。あうんの呼吸よろしく仁王様が威圧している。
ここから宿にした佐賀温泉までは10kmあまり。しかも峠をひとつ越えなければならない。歩いていては6時をまわりそう。お大師様には目をつむっていただいて、タクシーでワープした次第。ごめんなさい。
本日の万歩計 46,600歩 です。 宿とした佐賀温泉は、携帯電話が圏外となっていてアップできませんでした。6/9中村市駅前のビジネスホテルでアップします。
自動車道を歩いていて身を守ってくれるのは、歩道。しかし、歩道の無い国道も多い。しかし、それよりも困るのが、歩道が突然右側から左側へ、あるいはその逆につけ変わり、横断歩道すらない場合が多いことである。地域住民の生活環境によって必要なところから、と言うことであろうが、写真のように山へ入ってしまう歩道には声が出ない。こういうところを歩いていて、白衣の袖をかすめて通り過ぎていく大型ダンプの風圧に怯えるのは日に何度かある。これはお経で退散する悪霊より始末が悪い。
写真右上の異様なものを七子峠への登りで見かけた。ガードレールに立てかけられた卒塔婆と献花・・・・・・・・。残念ながら気は弱く、具体的なイメージを感じることができなかった。たぶん、ここでの霊は成仏したのだろうと安心した。
トンネルが多い日でもある。大小あわせて10本も通った。しかも坂が厳しい。焼坂峠と七子峠、特に七子峠は6kmにも及ぶ厳しい登りがトンネルを夾んで続く。もちろんトンネルの中も登り勾配である。この二つの峠ともへんろ道があり、特に七子峠は「そえみずのへんろ道」として有名であるが、今日は下のぬかるみを見越して国道を進んだ。
今日の予定は37番岩本寺までの30kmあまり。状況が許せばその先10kmにある佐賀温泉まで行きたい。
明け方まで激しく降っていた雨は、出発の7時には上がっている。国道56号線はまもなく急な登り坂となる。それと同時に、また雨が降ってきた。
2004年6月8日 (17日目)
須崎と言う町は港町である。が、海の近くまで山がせり出しているためそういう感覚は持てない。しかし、あまり高くない山間を雲が移動する様は内陸部ではお目にかかれないものだ。
須崎市を過ぎると23km先まで宿がない。午前中の蒸し風呂状態がスタミナを奪い去ってしまったのか、昼を過ぎると歩くのがいやになってきた。あわせて、須崎市内のビジネスホテルを宿とする事とした。前回お世話になったへんろ宿の近くですが、いらぬ神経を使いたくないというのが本音の宿泊。なんと2時にチェックインしたのである。
本日の万歩計は 36,700歩 です。
県道23号線に合流、鳥坂トンネルを抜ける。歩道のないトンネル、追い越していく大型自動車が怖い。旧道もあるが3倍強の道のり、雨では今回も断念する。
山を下り須崎市の集落が見えると、高知以来ほとんど見かけなかった「お遍路」標識が現れる。特に目についたのが写真。掲示板の中は須崎市のへんろ道と宿の一覧がイラストされて入っている、「自由にお持ちください」と。同じ敷地の中にあることからこの家のお大師様信仰の深さが偲ばれる。先ほどのおばぁちゃんといい、札所のない須崎市にこうしたお接待を心がけている方がいるとは驚きでもあり、感謝すべきことでもあります。
何処の自治体もゴミなどの不法投棄に悩んでいるようだ。スカイラインで見つけた高さ80cmほどの鳥居、張り紙を見てびっくり。「ゴミ避け祈願」と読める。効き目のほどはわからないがお大師様の国ならではと感心する。
実は、今日のコースで密かな楽しみがあって期待をしていたんです。それは前回、スカイラインを下りきった坂内地区で、家へ招き入れてくれたおばぁちゃんがいたからです。
期待そぐわず、通りかかると雨が降っているにも関わらず傘も差さずに庭へ出てきて、「お茶で休憩していきませんか」と呼びかけてくれた。今年も健在である。だが、ちょっと老けた感じ、聞くと昨年、脳梗塞で倒れたという。手当が早く、後遺症もないとは言われているが、「右手がしびれ、ろれつの廻りがちょっとおかしい。でも、日常生活では、不具合はない、これもお大師様のおかげです」と言われる。愛知県尾張旭の労災病院に婦長として15年間赴任していたという彼女、懐かしそうに話を聞いてくれた。
おばぁちゃん、いつまでも元気でいてね。また、来るからね、と30分後にお別れをする。
とにかく蒸し暑い。雨合羽を着込んだが、汗が中で溜まってチャパチャパ音がする。めがねは曇るはで、とにかく体力の消耗も激しい。しかもこの3時間の行程で休憩する施設はひとつもない。雨が降っていてはなおのこと腰を下ろすところも見つけられない。
2004年6月7日 (16日目)
明け方から降り始めた雨は断続的に降り続いている。そんな中を歩き始める。横波黒潮スカイラインという道路は、バブルよろしく日本中が沸き立っていた頃の遺跡。半島の尾根をアップダウンしながら続く。3時間の道中で出会った車は30台までもいかない。どっかの国の大臣が「車より熊の方が多く通る」と言った状況に近い。もっともここには熊はいない。「ふるさと創生事業」などと、時代物の看板や、荒れ放題の箱ものや別荘が散在する。
国民宿舎土佐は和室と、共同トイレ方式の一時代前の設備であるが、場所が良いせいか良く繁盛している。昨日だったら満室でお断りするところだった、とは支配人の言葉。部屋の窓と露天風呂からは太平洋と桂浜などの海岸がよく見える。お天気が良ければ室戸岬も見えるだろうが、そこまでの視界は無い。でも、前回のようなガスはないので絶景といって良い景色をたっぷり堪能している。
今日の万歩計は 28,600歩 休足日と言っていいのかな?
昨日出会った岡山からの人にも青龍寺の前で出会った。彼は、塚地峠を越えてきたという。今回はこれでうち切って帰宅するとか。「ご縁がございましたら、またお目にかかりましょう」と別れる。
歩いてまわるお遍路を見ていて、面白いことに気がついた。金剛杖の使い方だ。
小脇に抱えるようにして突かずに歩いているのはお遍路初心者である、ということだ。私も記憶があるが、初めのうちは突くタイミングがつかめない、リズムがあわない。手垢が着かず、先っぽもきれいな杖を見ると懐かしい。実はいろんな意味がある。行き倒れたときの墓標、などというのはお遍路が始まった時代の話し。本当は第三の足と言っていいほど助けになる。
実行している人はほとんど見かけないが、札所に着くとまず、杖の先をお清めする。お大師様のおみ足と考えるそうで、この濡れた杖の先をトントンと突いて歩く。すると、見る見る減っていく。16番で初めての人が使っている杖と比べてみたら、なんと10cmも短くなっている。
土佐市中心部から宇佐の港へ向かうのは県道39号線を
歩く。この県道には塚地トンネルがある。前回は激しい雨に
、このトンネルを抜けたが、ここにはほとんど手つかずのへ
んろ道が残っている。もちろん、保存協会による手入れは行
き届いているため歩きやすいが険しい。石畳も昔からの状況で残っているところもある(大半は石の浮き上がりを防止するためにコンクリートで補強してある)。この入り口にあるへんろ小屋で、室戸岬で出会った若者2人とシルバーに出会う。彼らは、トンネルを目指して行ってしまった。
青龍寺で再び出会って、このことを話すと「そんなところがあったんですか?」ときた。“君たち、何のためにあるいてんの?”と咽を出かかったのを必死で押さえた。
2004年6月6日 (15日目)
今日は朝から雨が降ったり止んだりのお天気、リュックをホテルに預けて、35番清瀧寺へお参りをする。ここまでは同じ道を帰ってくることになるからだ。快調のはずが、バランスがとりにくい。重いリュックを背負っての歩きに筋肉や関節が固定されてしまったのかもしれない。
今日は36番青龍寺の裏山の頂上にある国民宿舎に予約が入っている。順調にいけば、青龍寺にはお昼に着いてしまう。で、途中で喫茶店を見つけてコーヒータイム。お昼はレストランに入ってユックリととる。
他人と合わせて歩くことが得意ではない私、いつの間にか距離があいてしまう。32番の境内からは太平洋がよく見え、桂浜も見える。見ることや、自動車で通りすぎるにはきれいで便利な、巨大架け橋も、歩いて渡るのは楽ではない。この橋、こちらから渡るのに、急勾配が2/3続く。桂浜の方が山になっているせいだと思うが息が切れる。しかも歩道は狭く、曲がっている。大型バスが肩に触れんかと思うぐらいの距離で過ぎていく。
33番雪蹊寺までの案内も少ない。無いと言った方がましなくらい。このお寺の住職も話が好きで困る。うっかり乗るとなかなか放してくれない。境内で休んでいると、いきなり「納経所はどちらですか?」と聞かれる。車から降りてきたばかりの中年男性、お灯明、線香どころかお参りもせずに納経所へ駆け込みそのまま行ってしまった。
ユックリとお参りをして、納経所へ入ると、そこにはまた別の男性が数冊の納経帳、掛け軸、白衣を仕舞っているところ。あれっ、今、こんな団体はいないぞ・・・・・・・・。高野山の土産店などで売られている、御朱印でうまった掛け軸や納経帳はこうして作られているんだなって、今回も納得する次第。そもそも、納経帳や掛け軸はお大師様の徳を偲び八十八カ所をお参りしましたよ、という自分への証なのにね。形だけのもののどこがいいんだろうか・・・・・・。
34番へ向かう途中に出会った出来事が先の標識の件。34番種間寺では、ちょうど時間が良かったのか大型バスとマイクロバスが合わせて3台も入っている。そのうちの1グループは、お経をあげるのに散らばっているのでなく片側に整列している。団体でのお参りマナーとして霊場会が推奨している方式だ。たぶん、先達がしっかりしているからだろう。正直、お四国では初めてみる光景でした。
今日の宿は、土佐市のビジネスホテル・土佐です。慣れてくると、ビジネスホテルも良いですね。神経を使う必要がなくって。明日は、宿の関係で短い距離になるかもしれません。
今日の万歩計は 47,700歩 でした。
32番禅師峯寺は太平洋を見下ろす丘の上にある。昨日31番竹林寺はお参りしているので五台山を迂回する。竹林寺から下りてくるへんろ道との合流点で、岡山から来ているという同年代と思われるお遍路と一緒になる。都合のつくとき都合のいいようにお参りを続けて7年。後は太平洋側と愛媛県の西部が残るという。
ところで上の写真のような標識が出ている四つ辻に歩いて巡る、お遍路がやってきました。
あなたが、そのお遍路でしたら、どうしますか?
当然左折ですよね。私もそうして、30mほど進んだ所、田圃の中から「おーい、おーい」と呼ぶ声がするんです。100mほど離れたところで農作業をしている地元の人が「道が違うよ〜!」って、叫んでるんです。初回の時違う道を教えられ1時間余のロスをした経験がある私(高知県ではなかった)、素直には聞けない。「去年もこっちへ行ったよ」といっても、まだ叫んでる「道が違うよ〜。そっちは遠回りだぞ〜」って。
リュックを下ろして、地図を調べてみると地元の方が正解!へんろ道は直進だった。「ごめんなさい」と頭を下げて、従ったような次第です・・・・・・。いったい誰がわるい?橋本さん。
2004年6月5日 (14日目)
高知プリンスホテルの夕食は昨年に比べると、チョイ落ちって感じ・・・・。でも、かつおのたたきに刺身、天ぷら、などなど・・・・・・・。味は変わらない。泊まり客のほとんどがエレベーターを使うので目に付かない所になる階段の踊り場に、四国八十八カ所と銘打って展示がされている。主体は霊場のご本尊をイラストにした「おすがた」と、呼ぶものが八十八カ所順番に飾ってある。
竹林寺では幾つものツアーが合致合っていた・・・・・・・・・
もうネムノキに花がついていた
30番善楽寺が近くなってきたと思われる頃、またもや突然「へんろ道」の標識が。狭い階段を下り、小さな公園の脇を抜け、住宅のなかへ・・・・。やがて、元の国道に出たのだが、ここでも標識が見あたらない。実は、ここで迷ってしまった。
へんろ道保存協会の皆さんが、手弁当で頑張っておられることは良く分かりますが、無意味な、あるいは無理なへんろ道の設定は地元の人の反発を買いやすく、標識も捨てられたりすると言う。
国分寺では、横浜からという2巡目のお遍路さんに出会う。でも、なんだか歩きが変。聞けば、足にマメができてつぶれているという。靴を替えたせいという。靴擦れや、マメでは歩く目的がおぼつかなくなる。当然、一番に気をつけているべきことであろうに、と甘さを感じる。
高知での宿は前回と同じ「高知プリンスホテル」とする。ここは観光ホテル、現役時代本社出張の際よく利用した品川などにあるビジネスホテルとは違うようだ。1泊2食付きで7,350円で受けてくれた。感謝感謝である。時間が早すぎるので、31番竹林寺をお参りする。3〜4kmの大回りにはなるが是非泊まりたい宿のひとつでは避けて通ることはできない。高知市の西南にある五台山、その頂上にある竹林寺、3方向からのへんろ道がある。今回は東から登る。お墓を抜け、牧野富太郎植物園の中を通って植物園のゲートを経て竹林寺門前に出た。あれっ!植物園は有料だろう?このへんろ道からならただで入れるじゃん。
今日の万歩計は 36,800歩 でした。
昨年は標識を見誤ったために自動車でのお参りルートを通ってしまった29番から30番。今年は目を凝らして歩く。多くは田圃の中を貫く農道である。入り口には古いへんろ石があったものの、やがてバイパス道路や堤防の改修で、つながらなくなる。仕方がないので、道路地図と、ガイドを取り出して調べてみる。が、道路そのものが変わっているようでよく分からない。見当をつけて歩くと、再び見つけることができた「四国の道」標識、ほっとする瞬間。自動車での道路より近いし、山もひとつ少ない。しかも、へんろ小屋まで作られ、きれいに管理されていてうれしい。この地に工場をもつ会社のサービスのようだ。
国分寺という寺名は良くお目にかかる。どれも由緒あるお寺であろう。でも、今の景気の繁栄ぶりから見るとさまざまである。29番国分寺は境内も広く本堂、お大師堂など建物も庭もいい。
2004年6月4日 (13日目)
朝から雲一つない良いお天気である。今日のお参りの29番国分寺へは、前回とは宿が違うことから道も異なる。おりから小学生の登校時間と重なる。近所同士まとまって年長の子が率いているようだ。名古屋で見られる母親の安全当番もない。歩道も白線もない道路を通勤の車が勢いよく走り去る。突然、急ブレーキの音!一瞬ひやりとした光景があったが、幸いにも何事もなかったようだ。
1時間近く歩いたであろうか、突然「四国の道」なる標識が現れ、29番国分寺と矢印も。何のこともない、農道と農家の脇道を抜け、集落の竹藪を抜けると広域農道に出た。ここで、標識が見あたらない。昨年の記憶を呼び起こしたおかげで間違えはしなかったが、この道は分からない。何のために、農家の庭先を通らせるのか不思議にも思う。見知らぬ人たちが「チリン、チリン」と鈴を鳴らしながら、家をのぞき込むように通っていくのは住民にしては良い気がしないのではないだろうか。そのせいなのか、この路地以外の竹藪の小道はすべて柵でゲートが造られている。
野市町の北部、農業用水の堤防に植えられたあじさいが満開
28番大日寺のある野市町には12時に入る。コンビニでお弁当を買って、町入り口の丘の上にある神社の境内で食べる。ここからお寺さんまでほぼ45分でいける。ということで、大日寺のお参りの後ちょっと大回りにはなるが土佐山田駅前のビジネスホテルを予約する。27番から高知を夾んで31番までは意外と宿が無い。BHやシティーホテルを利用することになる。
明日は高知入り。 今日の万歩計は 43,500歩 でした。
海岸には護岸堤防、その内側に自転車専用道路が走る。お遍路も、車を避けてそこを歩く。学校へ向かう高校生であろうか、グループであったり、一人であったりと自転車をこいでいく。中には片手ハンドルに携帯メーリングなどとサーカス張りの子供もいる。
途中、どういう訳なのか今この自転車道路が護岸提の外側を走る。この部分は歩いていても気持ちがいい。後は松林と鉄道の高架というにたような風景が続く。
2004年6月3日 (12日目)
安芸市中心部の国道55号線沿いにあるビジネスホテル5階の国道側の部屋に泊まった。夜は通行量も少なくよく眠ることができた。
今朝は、旧道へ出て進む。阪神タイガースのキャンプ地でもあるこの安芸市、大阪に負けない熱烈なタイガースファンがいるという。そんな証が今年も健在だ。
7時30分を少し回っただけというのに、いくつかのお店は開けている。薬屋、酒屋、八百屋などなど。10時を過ぎないとシャッターが開かないどっかの田舎都市の朝とは大違い。しかも、和服に前掛けの丁稚が水を打ちに出てきそうな雰囲気の酒屋まである。
こんな市街地を抜けると、後は海岸沿いの道中になる。
<番外>
25番津照寺(しんしょうじ)でのことです。納経所で納経帳を差し出すと、ご住職がしげしげと眺め、一巡目の御朱印が押してある各ページを繰っておられる。やがて、「1番からスタートして、1番にお礼参りをされてますがこれは誰かの言いつけでそうされたのですか?」と問われた。曰く「お遍路はどこから始めても良く、お礼参りはその始めた所へするもの。1番からというのは霊山寺のお金儲けに他ならない」と。
この話、私の後の参拝者にもしていた。1回目の時に聞いたような記憶がよみがえる。お寺さん同士の派閥かなんか知らないですが、参拝者には関係のない話であり、四国在住の方ならいざ知らず、遠方から来る地理もなにも分からない参拝者には順番通りしか廻れないもの。後味の悪い思いが今もきえない。
私は、逆にお寺さんに問いたい。
参拝者は“お金のなる木”にしか見えないのですか?心から、お大師様の心に触れたいと願って、進まない足を叱咤激励しながら、歩いている者もいることを、なぜ見ようとしないのですか?「お参り、ありがとうございます」の合掌ひとつが、どれだけ励みになるのか、考えてみたことはございますでしょうか?ある宿坊でおせわになったとき「お大師様を慕うもの同士の縁を結ぶことができ、幸せです」とご挨拶をされた住職奥様の言葉を今も忘れることができません。
27番神峯寺の参道は4kmもある。そして参道口には鳥居もある。神峯寺と神峯神社と二つの標識が立つ。途中人家や田圃もあるが険しいコンクリートの舗装道路を登る。途中から、へんろ道がつづら折りの車道を突き抜けるようにある。本来の参道を縫う形で車道を造ったものであろう。へんろ道を使って1時間半かかる。車道を使った昨年は2時間とある。
へんろ道の入り口と出口には写真右下のような、奇妙な仏像(?)が立つ。これが「同行二人」をデザインしたオブジェであることが最後の場所で分かった。どっかの大学の偉い先生の作品とか。コンクリート製のように見える。
神峯寺の境内で、二十三士温泉で接待していただいたおにぎりを食べていると、参拝の老夫婦から、具体的な地名を入れた質問が来た。それが、困る。地名は分からずともお遍路できてしまうからだ。このご夫婦、車での参拝は何度もしているようだが、歩いたことはなさそう。話がかみ合うことはなかった。
昨年は安芸の旅館に泊まったが、今回はビジネスホテルとした。他の泊まり客への心配をしなくて済むからだ。ここには2時40分に着いてしまった。早すぎるかと思いながらも、フロントに行けば部屋に入れてくれた。昨年は安芸市には14日目に泊まっている。3日も早い。 今日の万歩計は 35,000歩です。
この土地で、話題になるのが黒潮鉄道の「ごめん、なはり線」ではないだろうか。地元の漫画家に依頼して決めたシンボルキャラがおもしろい。話題性は大きいがそれが旅客を集め経営がなりたっていくものなのか注目するところでもある。
2004年6月2日 (11日目)
幕末の土佐藩で、勤王・佐幕で揺れた藩政の犠牲となって奈半利川で処刑された二十三士にちなんで名付けされたとか、昨年より日帰り入浴客が減っているような感じですが、宿泊客はそこそこあるようです。
昨夜は19時には床に着き、何度かは目が覚めたものの4時まで寝ることができた。このところお昼寝ができないでいるから、疲れもピークのようだ。昨年、ここで2泊して休養したもう一つの理由が思い出される。併設のレストランで食事をすることになるが応対が一流ホテルには及ばない泥臭さがあるのを除けば良い宿のうち、と言っていいだろう。
札所のなかった二日間を取り戻すかのように、今日は3ヶ寺を巡る。25番津照寺ではやはり3日前に会った野宿組の遍路にも出会う。
26番金剛頂寺は、岬の中央を貫く山の上にある。ここを登る遍路道は結構きつい。ここから降りるコースは、ほとんどのガイドが登ってきた道を下ろしている。私のガイドには岬を過ぎた所に降り着く別の遍路道があるので探してみる。はじめに選んだ道は山の中で消えてしまった。2回目に選んだ道は農家の庭で消える。やっと、「へんろ道」の小さな標識を見つけて、下り始める。この道は、古くからのへんろ道のようで、私のガイドブックにある道とは違う。降り立った所は国道55号線道の駅であった。
今日の宿に決めた「二十三士温泉」は、ここからまだ21kmもある。歩いていけば18時を回りそう。疲れ切った筋肉をいたわるためにこの距離をバスで移動することにした。弘法様、ごめんなさい。アルカリ温泉で昨年は二晩も泊まってしまうほどのお気に入りである。3時にチェックイン、そのまま温泉へ直行。あっ、その前に洗濯だ・・・・・・・・
今日の万歩計は28,00歩です。
ガイドブックにも載っかってない遍路古道、石畳も残るがこんな供養塔も残っている。
25番津照寺の石段
男42段女33段ある
赤い建物は山門。
2004年6月1日 (10日目)
昨夜の宿は青年大師像の前。部屋は東向きなので朝日が見えるはず・・・・・。でもその時間は雨がふっていた。
7時半に出発する。弘法大師が青年期に修行をし、悟りを開いたと伝えられる洞窟にはもう先客がいた。3日前にへんろ宿で出会った人だ。この洞窟、二つあり、そのどちらも神がまつられ、神社となっている。「どっちの洞窟が悟りをえられたものでしょうか?」と、突然声が飛んできた。私にとってはどちらでも良い。
24番・最御崎寺への濡れた参道を息せき切って登る。所々石畳が残っており、終点は山門である。ここで、歩いて巡る若い女性と出会う。立派なカメラを首から提げている。登ってきたときは普通の姿だったがお参りのときになると、白衣になっている。今回は23番の後から繋いでいるとか。
下りは室戸スカイラインを歩く。急な斜面を降りてくると、土佐湾と室戸市街がよく見渡せる。
どう ぎょう に にん
お大師様の気を感じたくて再び巡るお四国の山や里
2004.5.22〜
“四国を歩いてみたい!”
この願望がかなった昨年、時が経つにつれて持ちあがった“空虚感”
これはいったいなんだろう?
大きな写真にリンクアップしました。写真をクリックしてください(2004/6/11)。
青龍寺の水行場