今日の万歩計は59,000歩を指している。2日続けての40kmオーバーは堪える。最後の50分、足の三角筋が痛くなってきた。お風呂に入っても変わらないので水で冷やしてみたら気持ちいい。ちょっとやばい感じがする。筋肉の限界を超えてしまったかも・・・・・・。
 今日は室戸岬のホテル明星を宿とした。電話をかけると「ホテルあけのほしです」ときたから驚いた。ここで今回初めてかつおのたたきが夕食に出た。ニンニク、ネギ、ミョウガのトッピングでおいしくいただいた。お風呂は「海洋深層水」とある。なんだか潮の香りがするような気がした。

 明日は足の様子を見ながら、ノンビリするかもしれません。
 昨日のことである。へんろ小屋で休憩をしていると、「同行二人」と書いた菅傘をかむった70代と思われる男性が通り過ぎていった。お遍路用の傘には怨霊除けの梵字と、悟故十方空、本来無東西、同行二人、何処有南北、迷故三界城と上から見て右回りに書いてある。そして、梵字が正面に来るように被るのであるが、このおじちゃん「怨霊除け」ではなく怨霊寄せになってる。通常、買ったところで説明してくれるはず、と思いながら急いで追いかけて「今日はどちらまで?」お遍路のありきたりな問いかけです。「今日の予定は未定!」ときた。これでは取り入る隙もない。仕方がないので短刀直流に、自分の笠を指さしながら「被り方が、前後反対ですよ」といって追い抜いた・・・・・・。このおじちゃんが止まって笠を外したところを見定めて歩を進めた。
 あるトンネルを歩いていると、突然若い女性のイメージが浮かぶ。しかも声までもが・・・・。「私は悪いことをしたわけでもないのに、対向車が飛び込んできてここから出られなくなった。おうちに帰りたい」という。テレビの見過ぎかもしれないがこの経験もはじめて。私にはどうする術も持ち合わせていない。正直な所、トンネルが怖くなってきた・・・・。
 今日もただひたすらに歩くだけの日である。朝の虹はお天気が崩れる兆候、案の定出かける頃には雨が降ってきた。お日様が出たままで雨が降る「狐の嫁入り」である。雨具はリュックカバーだけで歩く。
 国道55号線を南下する。今日もいくつかのトンネルをくぐり。高知県に入ると道路脇にお地蔵さんが目立つようになる。私は、そのどれにも短いお経を捧げる。
2004年5月31日 (9日目)
 昨夜からの宿、国民宿舎みとこ荘は、うみがめ荘よりは新しいだけいい。ただ、まだ梅雨には入ったばかりというのに畳などが湿気ている。昨年泊まった時にはお湯が「赤い」とあるのに、昨日は透明なお湯。???アルカリ泉には違いなくお肌つるつるの美人の湯であることには間違いがない。
 ここは、水床湾(ミドコワン)に突き出した岬のてっぺんにある。入り組んだ湾内には奇岩や島が浮かぶ景勝地でもある。
 「お接待」をしてくださる人は、本当は自分で歩いてお参りしたいのだがいろんな理由で行かれない。だから、「私も一緒にお参りさせてください」といってるのだよ、と初日二日目、三日目と歩いた人たちに話をしたものです。

 去年、二日がかりで歩いた距離を一日で歩いてしまった。去年の8日目と9日目のコースである。万歩計は 56,000歩。地図上の距離も43kmとほぼ同じ計算になる。宿である国民宿舎みとこ荘へは、国道55号線を離れて急な坂道を歩くこと3km。洗濯とお風呂(アルカリ温泉で肌がつるつる)は時間に制限があるので先にすますが、ぐったりとしてしまった。小一時間、なにも手に着かず寝っ転がっていただけ・・・・。気を取り直して、これからアップします。
 徳島県南部の牟岐、海南、海部、宍喰の各自治体には八十八カ所の札所はない。しかし、お遍路への関心の高さか、町おこしなのか“へんろ小屋”がいくつも設けられている。「お遍路休憩所No.1、No2」といった具合。中には、草が生えてしまい近づけない所もあったが、大半はきれいに管理されている。中でも、気になったのが写真の小屋。立派な作りで、やむなく深夜になってしまったお遍路も一時夜露を凌げる作りとなっている。が、しかし使えるのは前1/5部分のみ。そして大きな「この小屋はお遍路さん専用です。なお、仮眠、宿泊は一切お断りします。  合掌」と張り紙がある。
 今日も、寝袋を担いで歩く若い衆を見た。困ったものだ。こうした施設を提供してくださるのも“お接待”ですよね。そういえば、歩き始めて初めて“お接待”というものを知った、と感慨ふがげに話してくれた同年代の人などは別として、お接待を考える必要があるように思われる。
 海岸沿いに室戸岬へと国道55号線をひたすら南下する。ここは黒潮が直接に海岸を洗う所、当然、岬を上下し、時にはトンネルを歩いて渡る。まだ完成間もない「日和佐トンネル」は、歩道を歩いていくと3個づつ天井の照明が点灯していく。おかげで、中央に行くほど暗くなる自動車用の照明に苦しむことはない。
 しかし、古いトンネルは照明もなくまた歩道もない。そんなトンネルのひとつを歩いていると、灰色の影が上から降りてきた。瞬間、寒気がすると同時に怖い感覚が背中を走る。逃げられない、そう観念した私はお経を挙げていた。出口が近づいて明るくなると、霊は離れていった。こんな体験は初めてである。やばい!
2004年5月30日 (8日目)
 徳島県最南端の霊場・薬王寺、大きなお寺さんでいつも賑わっている。昨日も、大量に納経帳や掛け軸を持ち込んでいる。どう考えても参拝している人より多い。中には5冊もの納経帳を抱えたおばちゃんもいる・・・・・・・。

 昨年は薬王寺の宿坊に泊めていただいた。携帯は普通に通話でき、アップもできたのに、海岸沿いのうみがめ荘はまるでダメ。パソコン抱えて、海岸に出るわけにもいかず、申し訳ないことになりました。

 7時に出発する。今日はただ歩くのみの日だ。“歩く”ことが精神修行になるという実感を持ち始める頃にもなる。
 アップダウンはあるものの国道をメインに歩いた今日、やっと気持ちよく歩くことができた。会社から40日の長期休暇を取って歩くためにやってきたという青年に出会った。夜9時近くまで歩く覚悟という。もちろんキャンプをしながらという。梅雨入りが発表されそうなお天気が気になるが、きっとやり遂げられるだろうと、励ましておいた。彼の澄んだ瞳に声援を送る。

 23番薬王寺は山門をくぐってから33段と42段の石段を登って本道と大師堂がある。女と男の厄年と同じ数の石段にはここもお賽銭がおいてある。前回あるお寺で見た光景を思い出す。それは、箒でもってコインを掃き下ろしている・・・・・・、前の平等寺での光景に感じた意味がお解りいただけると思う。荷物を山門脇の納経所に預けて参拝し宿は、日和佐の国民宿舎。施設が古い、露天風呂があるのに使っていないから痛んでいる、今時、コインランドリーがない、など“いまいち”の宿・・・・・。みなさんにはお勧めできそうもない。まだ、中部屋に一人の薬王寺宿坊の方が良かった・・・・・、と悔やむ。

 これで徳島県の札所は終わった。高知県の室戸岬へ向けての歩きが始まる。やはりお天気が気がかりです。
 今日の万歩計は 44,000歩でした。
 宿を出てからアップダウンを繰り返しながらの県道を歩く。今日は一カ所だけ、遍路古道がある。標高差100mほどではあるが一部はかなり険しい坂道、昨日の筋肉ダメージを引きずりながら何とか、越える。2時間で22番平等寺へ着く。私が山門をくぐると名古屋ナンバーの車が来た。一目さんに納経所へ走る。その後、お清めもせず、灯明線香もなし。
 同じ名古屋人として恥ずかしいこと恥ずかしいことったら、ありゃへんわなも。こんなんがおるから「3人に一人は名古屋人」というおへんろの評判も、とても良ぇもんではにゃぁような気がしてきた。“さんぴゃぁしゃ”の数が多けりゃええのんは、お寺さんだけやわなぁ・・・・・・・・。
 徳島県南部はお大師信仰の深いところ。遍路道は市道、県道、国道に公設or私設の遍路小屋が設置されている。
 当然、人家に近いところや、遠いところなどさまざまな環境である。最近、ここに居着いてしまう遍路が現れ問題になっているとか。定着はしないまでも寝袋1枚担いで八十八カ所を巡っている人も多い。今日もそんな一人と出会った。お大師信仰の趣は話をしていてもうかがいきれない。
 でも、彼はまだいい。何ヶ月に1度現れるだけだから。人里離れた遍路小屋などは生活臭を感じられる所さえある。こうなると、お遍路ではなく「ホームレス」なんだけど・・・・・。
2004年5月29日 (7日目)
 
二晩続きの携帯電話「圏外」の宿になりました。

 昨夜からの宿はおへんろ専用民宿(へんろ宿)で、歩きから自動車での参拝者が泊まる。当然、リピーターも多く独特の雰囲気がある。山間の一軒家にもかかわらず、水洗洋式トイレに改装もされ、料理もよくおすすめの宿のひとつと言っていい。でも、私の顔は覚えていてくれなかった・・・・・。
 この宿の亭主は部類の“園芸おたく”のようだ。庭先から裏山に至るまで植木が動物の形に切り込んである。左上の写真は玄関先の庭、鶴と亀、それに石は獅子に見える。園芸に関しては度素人の私ですが思いっきり“ヨイショ”しておきました。
 厄落としのために置かれた石段のお賽銭を1枚1枚手で集めている-22番平等寺-
 「苦労して登ってきたらロープウエーがあった、なんちゃって」呼吸が激しい私にそういってくれた人がいる。それぞれの信心とはいうものの、自分の価値判断でしか周りを見られないかわいそうな現代人を見てしまったようだ。

 ユックリズムが珍しい草花を見せてくれた。クサフジ、カラスビシャク、そしてギンリョウソウです。ギンリョウソウとは漢字で「銀龍草」と書く。葉緑素を持たない寄生植物が鎌首をもたげている姿は、神秘的でさえある。帰宅後に大きな写真へのリンクを張りますのでしばらく我慢してください。

 明日はお天気が崩れるとか、残る徳島県内の札所を二つお参りをして、国民宿舎うみがめ荘に泊まる予定です。うみがめが産卵に来るという日和佐海岸にあるらしいが最近は産卵のために上陸するうみがめがめっきり減っていて、今年はまだ1頭もいないそうです。たとえ、明日の夜来たとしても、フラッシュ禁止だそうですから・・・・・。

 今日の万歩計は20、400歩。ただし、行程の95%が激しい登りと下りであるため平地でのウオーキングの歩幅は当てはまりません。地図上の距離は14kmです。補足ですが、両山ともお寺に近づくにしたがって感じる霊気が強くなり心地よい緊張感を持つことができました。
 ここは、宿が1軒だけある山奥の谷間、携帯は「圏外」です。アップは29日の夜となりますのでご了承ください。
 21番太龍寺へは、急な遍路道を下り、再び厳しい遍路道を登る。宿を大龍寺のふもとにとっているため、ノンビリズムそのもの。途中の休憩所ではお弁当を食べ居眠りもしてしまった。
 ここ、太龍寺はふもとから(遍路道の登山口とは反対側)からロープウエーが人を運ぶ。そして、75段の階段を昇ればお参りができる。山門は、遍路道の方へ1kmほど斜度20度近い斜面を降りなければいけない。本来は参拝するだけでも体力が要求される修行寺であろう。
 20番鶴林寺は「お鶴」様がシンボル。山門にはふつう仁王様がにらみを利かせているのが普通だが、ここでは“お鶴”さまである。そして、あ形、ん形の2体であるから妙なもんでもある。雀よけなのか金網の中のお鶴さんは動物園の檻を連想させる。
2004年5月28日 -6日目-
 おかげさまで今日もいいお天気。ここの所の晴天に外にでている手首や顔が赤くなってきた。日焼けである。お遍路衣装である白衣は長袖を着ている、日焼け防止のために。

 “お鶴さん”と太龍寺には、がむしゃらに登った去年であるが、今年は“心臓がおどらない”ようにユックリズムで山登り。でも、きつい。
 信仰の里というわけでもないでしょうが、立江寺から山を越えた勝浦町沼江はなぜか強い霊気を感じる所です。去年も感じた霊気を今年も感じてしまった。ただ、今年はお接待がなかった代わりに接待所ができている。そして、すれ違う小学生すべてが頭を下げて挨拶をしていく。お遍路には無関心に見える徳島市街地から歩いていて、彼らの行動に一瞬とまどいを感じたものです。

 明日が、第2の難所である鶴林寺と大龍寺の山越えです。そして残る、2ヶ寺をお参りした後は室戸岬に向けての行軍になる。土曜日あたりからお天気が崩れそう。それが気がかりです。
                                             今日の万歩計-50,400歩-
2004年5月27日 -5日目-
 おかげさまで今日もいいお天気の模様。長期予報でねらっては来ているものの雨の心配なしで歩けるのはありがたい。でも宿では朝焼けが見られた。

 7時に出発、渋滞の始まった徳島市内をはじめは東にやがて南へと歩いて徳島駅前の繁華街を通る。小松島市に入る頃から風が強くなった。南からの風はまともに顔と体に吹き付ける。これがスピードだけではなくスタミナまでを消耗する。
 18番恩山寺から19番立江寺についた頃には限界に近づいていた。しかし、昨年泊まった立江寺は宿坊を一時休業しているとかのニュース(実はいま、泊まれることが納経所で聞いて分かった)から、13km先の民宿を予約してしまっている。仕方がないので歩くことになる。

 宿に17時についてみると、一昨日同宿の4人がすでに到着している。一人は昨日も同じ宿。3日も同じ宿で過ごせば、立ち入った話にもなる。「社長命令で、会社の費用で、“1週間で徳島県内の23ヶ寺”を回っている」と聞いてなお驚いた。私の持つ弘法巡りのイメージとは離れすぎているからだ。どんないきさつでもお参りしてくれればいいのかもしれないが、お遍路の質の低下が大声で叫ばれている今、考えさせられるのは私だけでしょうか。
 まもなく13番大日寺の陰が見えても良さそうな所に来て、さっきから後ろに着いてくる気配に気がついた。やがて、その気配は私の左肩に触れて追い越していった。姿は見えないものの、思わず立ち止まって手を合わせていた。ひょっとして“お大師様”では、と思ったとたんに身震いを感じて立ち止まっていたのだった。

 17番井戸寺には3時に着いた。去年より1時間早い。しかし、朝の上り下りが足と腰にじんわりとしたダメージを与えているのを感じる。おんやど「松本屋」の女将さん、1年前の私を覚えていてくれた。八十八カ所と高野山の朱印で埋まった納経帳を見せ、お礼を述べる。昨年6月のこと、女将さんの親切なお世話がなかったなら徳島駅から帰っていたことだろう。

 明日は、32km先の鶴林寺麓のお宿までの予定。昨日、今日のダメージが回復していてくれるのを期待する。今日の万歩計は 42,400歩を計測している。
2004年5月26日 -4日目- 
 昨夜は、旅館ふじいに泊まった人のうち7人が同宿、新規2人と合わせて9人。顔なじみがそろって旅館を出発する事になる(終着の井戸寺で7人がかおをそろえることとなったのも不思議なことです)。
 しばらくは急斜面を登ることとなるが、それ以降は急な下りが続く。時間にして90分はある。楽なはずの下り坂も限度を超えた急斜面は、かえって筋肉と関節を酷使することになる。

 県道にでてから、変化のない山間部の歩きが続く。宿を一緒にでた坂出市から来たというお嬢さんと、休憩所で出会いながらの歩をすすめる。
 入田という町で、田圃の中に石塔が建つ光景をみる。機械を入れるのにも不便なこの有様、なぜなのか気に掛かる。
案楽寺多宝塔
高野山・大門と仁王様
鍋岩でマイクロバスに乗り換え山上まで来たツアー参拝客
柳水庵への急傾斜
11番藤井寺山門
   大きな写真にリンクアップしました。写真をクリックしてください(2004/6/10)。
 かくいう私とて平気なわけではない。完全に膝が笑っている。正直、もう階段なんか一段でも登りたくない心境である。去年より1時間近く早く登れたということは、それなりに自信がつく。写真右下は、一本杉庵なるお山です。ここを下り、この山より高い山の頂上に登ると12番焼山寺ということ、足の筋肉が麻痺してからの30度近い傾斜は言葉では言い表せないほどの試練でもある。

 遍路道では野草が咲く。アマドコロ、オカタツナミソウ、マムシグサなど、後続の遍路さんに説明をしての前半の登りは楽しいものでした。

 今日の宿は焼山寺から4kmほど下った谷間にある「なべいわ荘」である。本日の万歩計は24,700歩でした。
 山に入るや否や携帯電話は「圏外」となる。いくら2度目といっても難所であることは間違いないから、今日はデジカメまで神経が回らない一日となる。去年は私がどん尻を勤めた次第だが、果たして今年は・・・・・・・・・
 なんと私の前に焼山寺に着いたのは福島から来たという50代の男性。登山を楽しんでいるというから歩きから違う。私の後、10〜120分で6人全員が走破、上がってきた。自分がそんなに早く登ってこれたのだから驚きである。
2004年5月25日 (3日目)
 昨夜の宿「ふじい」は12番焼山寺への山越え遍路道の入り口にある。よって、宿泊者はすべて山越えを目指す歩き遍路である。
 宿に着くと女将さんが申し訳なさそうに「相部屋で・・・・・・」という。他生の縁もなんとやら、同じ目的の遍路であるからかまわない。7部屋の所に8人の客、これもお大師様の思し召しなのであろう。
 10番から今日の宿がある藤井寺までは、およそ10km。暴れ川として有名な吉野川の沈下橋を渡ることになる。当然、車のすれ違いはできない。そこは慣れた地元のドライバー、対向車の陰をみると、渡りきるまで根気よく待っている。

 「旅館ふじい」に着いたのが14時30分。今年はなぜかウグイスの声が聞こえない。去年はうるさいほど響いていたのに。今日の万歩計は34,000歩を計測している。
 宿坊をでたのが7時。今日は明日の行程、遍路ころがしへのトレーニング区間である。8番熊谷寺や10番切幡寺の登りは、小手調べといったところか。
 通りかかった街角の小学校に、最近では見かけなくなった「二宮金次郎」像がある。「二宮金次郎というお人はなぁ」などと切り出すなら「欣ちゃん」なら知ってるけど・・・・と返ってくるご時世だ。併せて麦畑の案山子とくれば、50年も昔にタイムスリップしたような錯覚を覚える。
2004年5月24日(第2日)
 昨夜は疲れのせいもあって早々と床に着く。9時前であったと思う。ひとしきり睡魔におそわれて後、ふと目が覚めてしまう。時計をみると24日1時を過ぎている。なんとなく周囲が賑やかではないか。目を閉じて、気配を伺うと・・・・・・・・
 この安楽寺の周りを白衣の巡礼が通り過ぎている。老若男女さまざまで中には幼い子連れの女性もいるではないか。そんな気配にとうとう朝まで熟睡できずにいた。
 たどたどしくはあるけれど、じっくりとお経を上げている二人は、みていて気持ちがいい。今晩の宿は私と同じ6番安楽寺の宿坊という。

 遍路道というのは、つまり旧道を割り振る場合が多い。日曜日のせいなのか、町のお店はどれもシャッターが降り、シャッターのない店はカーテンがしてある。中には「売り物件」なる張り紙のある比較新しいビルもある。
 6番の宿坊、珍しく団体さんがいない。個人客が数名という寂しさである。楽しみにしていた温泉も中途半端・・・・・、加熱しているとのことであるから仕方がない。足慣らしの初日は、29,000歩歩いて3時に終わった。
2004年5月23日 (1日目)
 阿波の国でのお遍路が始まる。JR徳島駅前のモニュメントに送られて1番札所霊山寺に着いたのが9時少し前のことです。日曜日の朝というのになぜか静かな境内。外人さんのグループが“お遍路”についての説明を受けていた。最近は日本人より“禅と仏”の心に造詣が深いとも訊くと、妙な気持ちにさせられる。そのせいでもないだろうが境内の池には“仏”様とはおよそ縁が遠い感じのモニュメントが天を見つめていた。
 お参りを済ませて、いよいよお遍路のスタートである。何となく清々しい気分であるのは2度目のせいであろうか。2番、3番と進む。
 4番大日寺で、70代であろうか老夫婦がお弁当をひろげ始めた。どう見ても体力的には頑丈とは思えない二人、でも服装は車での巡礼では汚れないところに泥が付いている。「歩いてですか?」と訊くと、やはりそうである。
2004年5月22日
 5時に出かけるつもりが、なんだかんだで出発が6時になってしまった。まずは、名古屋から新幹線「こだま」で、新大阪へ。市営地下鉄へ乗るべく切符を買う。ん?待てよ、南海電鉄は「難波」だろ?梅田までの切符でどうすんだ。なんてチョンボは笑い話にして、一路ケーブルカー高野山駅まで。まるで、黒部のトロッコ列車のような曲がりくねった急勾配の線路を車輪をきしませながら、4両編成の“特急”が歩くほどの早さでよじ登る。すごいものだ。

 高野山駅から大門まで3kmとある。遠回りにはなるが歩くことにする。さすが、誰もついてこない。
やがて、参道から奥の院へ。昨秋来たときに感じたよりも強い霊気がある。墓地の中ではすざましい邪気が満ちる。違うのは、その時には感じなかった(余裕のなかった)霊気も強く感じる。
 彼岸の結界へと入って、昨秋は動けなくなってしまった。しかし今年は大丈夫である。頭を突き抜けるような霊気が満ちる。じっくりとお参りをすることができた。

 南海電鉄からJRへと乗り継いで和歌山へ。そしてフェリーで徳島に入ったのが19時。

 明日から、“お遍路-2”が始まる。どんな再発見があるか、楽しみである。
 巡礼は少なくても3度は行うもの、
   一度は父のため
      一度は母のため
        一度は自分のため

 なんとしてももう一度お遍路をしてみたくなった自分。

    今回は、高野山からです。
“四国を歩いてみたい!”
  この願望がかなった昨年、時が経つにつれて持ちあがった“空虚感”
  これはいったいなんだろう?
どう    ぎょう    に      にん
お大師様の気を感じたくて再び巡るお四国の山や里
2004.5.22〜